津波は日本人に対する天罰だ、と発言した石原慎太郎都知事。
4月10日投票の都知事選を意識したのか、発言を撤回した。
こういう機会にこのような発言を行うことの是非は置くとして、日本人の持つ「我欲を洗い流した」、という部分においては、あながち否定されるものではないだろう。
この未曾有の震災に見舞われ命を失った方々、その遺族や被災して多くの財産を失った方々においては、誠にお気の毒である。
同じ日本人として、たまたま東北地方の太平洋岸に居住していたことで、被害を受けた。
そして、私は東京都中野区という場所に居住していたので、今回は被災しなかった。
それだけの違いで、天国と地獄に分け隔てられた。
そういう意味で石原氏も私と同じ側にいたことになる。
その安全圏にいた人間が「天罰」と発言した事で物議を醸している。
私が考えるには、石原氏も被災者と同じ日本の一人としては、被災者の一部であるとの認識から発したものではないだろうか。
これは、現実的には肉体的にも物質的にも被害を被っていない立場においは、傲慢に思われるかもしれない。
被災地においては、順番を守って列に並び、少ない配給物資を分け合う日本人の持つ美徳が報道されているが、そんな事は当然である。
有史以来、延々と築かれてきた日本的システムにおいては、そういった道徳観が割り込みや略奪をできない社会を作り上げてきた。
そういった意味で日本と言う社会は世界的に見て特殊な国家であろう。
しかしながら近年、外国からの人や資本・文化、そして情報の流入によって日本社会は大きく変貌してきている。
今回は被災していない東京においてすら、我欲が剥き出しとなっている。
スーパーの店頭からはパンやオニギリ、カップ麺といった、食材が一斉に棚から消えていった。
被災すらしていないのに大量の食材を自宅に溜め込む様は、自宅の床下に掘った瓶に札束を詰め込む守銭奴を連想させる。
そして、ガソリンスタンドには車が行列を作り、幹線道路に渋滞を起こしている。
震災三日後の14日に、練馬区内片側一車線の道路を通行していると、一方向だけで延々と渋滞が起こっている。
スタンドでの給油待ちの車が数台、路上待機しているために、関係ない車がずら〜っと並んでいる。
反対車線の通行車両が途絶えた一瞬だけ通過できる状態。
給油するスタンドの店員を呼びつけて、「この渋滞をみてみろ」、と言ったが「もう少しでガソリンはなくなりますから」、と見当違いの事を言っている。
「そういう問題じゃないだろう。アンタが金儲けするために関係ない大勢が迷惑している」
「路上待機させるなら、片側交互通行の為に誘導員をだせ」、と極めて良識的な正論をぶつけたが、通じているのかどうか。
これら、全ては我欲なんですな。
「天罰」、という表現が妥当なのかどうかは分かりませんが、
阪神淡路大震災が起こったのは16年前の1月17日。
ロスアンゼルス大地震が起こったのは、17年前の1月17日でした。
更に、米ソ冷戦構造の溶解を経て、アメリカが自らの価値観を世界統一基準と位置づけた、ニューワールドオーダー(世界新秩序)の下で湾岸戦争というイラク国民大虐殺を開始したのが、20年前の同じく1月17日でした。
日本はその尻馬にのって、1300億ドルを払いイラク人殺戮を手助けしたのですから、
これが単なる偶然と言えるのでしょうか。
阪神淡路の直後に、イラクの友好連帯協会を通じて、イラク政府から日本に対する救難援助を申し出るファックスを受け取りましたが、
そこには勿論、天罰とか、湾岸戦争に関する記述は一言もありませんでした。
当時のイラクは日本を含む国連からの経済封鎖で飢餓発生寸前の状況にあったのです。
石原発言にあった「我欲」、というものについて冷静に考察してみる価値はありそうです。
↓石原発言の記者会見
石原知事、天罰発言撤回・謝罪「深く傷つけた」
東京都の石原慎太郎知事が、東日本巨大地震に関連し、「天罰」などと述べたことについて、石原知事は15日、「被災者、都民、国民の皆様を深く傷つけた」と謝罪し、発言を撤回した。石原知事は同日、地震対応に関する記者会見の冒頭で、「被災者の失意、無念は拝察するに余りある」「発言を撤回し、深くおわびします」とし、「首都の知事として、被災地のために全力を尽くすことを改めて約束したい」と述べた。 石原知事は14日、震災に対する日本国民の対応をどう見るかと報道陣に問われた際、「津波をうまく利用して『我欲』を洗い落とす必要がある」「これはやっぱり天罰」などと発言していた。都によると、この発言に対してメールや電話による意見や抗議が殺到していたという。
(2011年3月15日17時41分 読売新聞)