column '95
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在日韓国人・朝鮮人をめぐる中村発言取り扱いの不可解総体としての朝鮮民族及び在日朝鮮・韓国人に対する偏見・差別意識の類は、僕の中に――あえて「皆無」とは言い切れないとしても――ごく少ないものと思っている。もちろん、過去から現在に至るまで、彼らを日本の国家・国民が様々な場面で虐げてきたことも認識している。その上でなお、今般の中村鋭一参院議員(平成会)の発言にまつわる「問題」は、僕にはどうにも不可解で仕方がない。複数の新聞記事を総合すると、中村議員は、阪神大震災を巡る八日の参院予算委員会集中審議において、在日韓国人・朝鮮人に対する差別のない救済策を求めて質問。その際、TBSテレビの『ニュース23』で見た神戸市長田区在住の在日韓国人の話を紹介した。それは、「長田区で火が出たのは、在日韓国人が火をつけたのではないか、という噂を聞き、その噂のために差別を受けはしないかと心配している」という趣旨のものだった。 これに対して、村山首相が「デマがいかにも飛んでいるような印象を与えるのは好ましくない」と不快感を示し、野中自治相に至っては「そういう噂があるように伝えるのは、委員として不見識」と発言取り消しを求めた。加えて、朝鮮総連が「暴言として、厳重に抗議する」と取り消しと謝罪を求め、韓国外務省は「極めて遺憾」と憂慮を表し、韓国民主党も謝罪と厳正な処置を求める声明を発表した。そして翌九日、中村発言は「不穏当な部分があった」として議事録から削除された。中村議員は同日、民団本部へ釈明に訪れ、朝鮮総連にも近く釈明を行なう予定らしい。 正確には、テレビでの話は、在日韓国人ではなく在日朝鮮人によるものだったようだが、とにかく、放火の噂の存在と差別的“流言”の恐怖が語られ、それを踏まえて番組は、関東大震災当時のような悪質なデマは今のところない、と報じたらしい。さてそこでだが、なぜ中村議員がそれを紹介してはいけないのか? 仮に同議員が噂に乗って、在日の人々を取り締まれとでも主張したのだったら大顰蹙を買って当然だが、そういう差別はよろしくないとの論旨が明らかならば、謝罪や取り消しを求めるのは筋違いではあるまいか? 噂が実在ならば、単に隠蔽するのではなく、そのデタラメさが徹底的に暴かれるべきだし、もし噂の存在自体がデマならば、非難されるべきは中村議員よりも、当の語り手本人や、それをそのまま放送したテレビ局のはずであろう。(1995.2) 羽生善治の七冠達成に声援を送る僕は、将棋が大好きで、ひとまずアマ二段ぐらいは指す。ただ、定跡集などを研究したことはあまりなく、以前、将棋センターへ通って実戦の中で昇級・昇段したものだから、序盤を巧みに指されると、いとも簡単に負けてしまったりする。堅実で守備的な相手と戦うのは嫌いで、活発に攻め合う将棋のほうが好きだ。駒の損得より勢いを重視して、一手勝ち・一手負けのスリルを楽しむ。さて、将棋六冠王の羽生善治名人・竜王・棋王・王位・王座・棋聖が、唯一残された主要タイトルの王将位を賭けて、谷川浩司王将に挑戦中である。羽生が第一、二局と連敗した時には、如何せん、七冠絶望かと思われたが、その後、第三、四局と逆に連勝。目下、対戦成績は二勝二敗のタイとなっている。 若い頃には天才棋士と謳われ、後に陽気なタレントとしても活躍した故・芹沢博文九段が、晩年、酒を飲みながら「もう俺は絶対に名人にはなれないんだなあ」と涙をこぼした、という話を読んだことがある。まさに一局一局が他者に頼る術とてない一対一の真剣勝負であり、優勝劣敗の大原則に貫かれた将棋の世界、タイトルをどれか一つ手にするだけでも至難の技。それを並行して七つも獲得しようと邁進する羽生の力量は、ほとんどそら恐ろしいほどである。しかも、単に七冠を奪取するに留まらず、それぞれに挑戦を斥けて、“維持”していなければならないのだ。 並外れた記録の達成は、当然、滅多にチャンスがない。以前、最盛期の北の湖が、初場所から五連覇を遂げて九州場所を迎えた年があった。それまでにも六場所連続優勝は大鵬が記録していたが、それは二年にまたがっており、純正の一年全場所優勝は前人未到だった。当時は、僕も北の湖の強さが憎たらしくて、そのつまずきに期待しながら九州場所を見守り、結局彼が優勝を逸したことを喜んだ。しかし、それから日が経つと、あれほどの千載一遇の機会は、角界にも二度と訪れることはないと思われはじめ、北の湖の挫折が返す返すも口惜しくなったものだ。 それと同じ意味で、今、僕は、羽生善治の偉業達成に密かに声援を送っているのである。(1995.2) 安田成美、朝の連続テレビ小説『春よ、来い』降板僕は、NHK朝の連続テレビ小説『春よ、来い』(脚本・橋田須賀子)を見たことは、ほとんど一度きりしかない。ある日の昼下がりにテレビを点けたら、たまたま『春よ、来い』の再放送が流れていたのである。細かい人間関係は全く判らなかったのだが、どうやら時代は戦争末期で、安田成美演ずるヒロインの春希は、親類か知人の家に下宿(疎開?)しているらしかった。さて、場面は夜中、家人の女性が二階へ昇って来て春希を起こすと、「さっき警報が鳴っていたけれど、向こうの空が綺麗」というような事を口にする。言われた春希が窓を開けると、遠くの夜空が空襲による火炎に映えている。すると春希は、ウットリとした顔で窓枠にもたれかかり、真っ赤な照り返しを眺める(もちろん彼女は、それが空襲の光景であることを認識している)。そして、奈良岡朋子のナレーションが「春希は、本当に美しいと思った」という具合にかぶり、なおも、「春希は、その炎の下に××(親類か知人?)が居るなどとは思いもしなかった」と続いたのである。 後に、このドラマは橋田の自伝的作品と知った。つまり、春希は作者自身であり、従って、「私はそうだったのだ」と言われれば仕方ないが、当時、空襲の炎の美しさに見とれて、知り合いの身の上に思いを馳せもしない人間など居たのであろうか? もちろん、人の極限の感情として空襲を(即ち戦争の一場面を)さえ美しいと感じることはあり得るだろう。しかし、春希に関する描写はひどく粗雑で、僕はたちまち嫌気がさしてしまった。 その安田成美が、突如、降板。理由として様々な見解が飛び交う中で、某評論家が、言わば安田のプライバシーを暴露する形で一説を唱え、それに某週刊誌なども飛び付き、品のない拡大再生産に励んでいる。いずれにせよ、橋田、安田、NHK三者の連携が下手だったことは間違いないが、とりわけ、橋田の高言ぶりには驚かされた。本人は「新聞は悪意に満ちています。新聞のあの書き方に、私は不信感さえ抱いています」とある週刊誌で語っているが、複数の報道によっても、「突然、かわいいと思っていた犬に噛まれた」という調子の発言は事実のようだ。空襲が綺麗に見える人ならば、女優が犬に見えるのもむべなるかな、であろうか。(1995.2) 表紙に戻る |