日本中がテスト病に罹っていると書いたばかりだが、早速ネット・カンニングが京都大学の入試で起った。母子家庭で経済的なことを考え国立大学に入学したかったのだと言う。親思いのいい子ではないか。ところが、やり口があまりに稚拙すぎた。京都大学は被害届けを提出しこの生徒をまるで犯罪者扱いである。

私の個人的な意見でしかないが、犯罪的なのは、大学入試そのものではないのか。もう、何十年も以前から大学入試の改善が求められているのに、一向に変わらないそのあり方ではないのか。だいたいネットで即答できるような問題がでるのだから、もちろん検索もできただろう。

かなり以前になるが多摩大学にクラークさんという英語のネイティブが学長になり、すぐに廃止したのがなんと大学入試科目としての英語であった。中学・高校と6年間も英語を勉強してきたのだから、ペーパーではなく、面接試験を一部、英語でするだけで、生徒の実力などすぐに分かるのではないだろうか。

京都大学に限らず、日本の大学は、どれだけ苦労したり、カンニングさえしたりして入学しても、就職すらおぼつかない時代になってしまっている。「大学って何」と問いただしたくなるのは私のみではあるまい。かつて、私も10年間くらい、いくつかの私立大学で講義した経験があるが、大半の大学は、大半の大学生にとって、ほとんど遊園地のようなものだと非常に虚しく感じた。むべなるかな。これでは社会にとっても企業にとっても全く益はない。

一年が365日ある中のたった1日〜2日の塾と記憶力だよりのテスト処理がどんなにうまくなっても、その人間がのこりの360日、他者や現実を相手にして生きていく力とは、まったく無関係である。テストの天才は、本物の天才ではないし、ましてや人が幸福に生きることとは、まるで無関係である。えてしてこれらは反比例の場合が多い。

学校の成績なんか普通でよいから、もっと堂々と、世界をよく読み・書きしつつ自分の頭で考え、そして他者と世界に対して誠実に生きることを教えよう。そして、教えたい。