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さよなら二郎さん…天国へ飛びます、飛びます (2/2ページ)

2011.3.11 05:06
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さよなら二郎さん…天国へ飛びます、飛びます
「やっぱりコント55号」公演の会見で、「飛びます、飛びます」のギャグを披露する坂上二郎さん(左)。萩本欽一も、ファンも、復帰を願ったが、叶わなかった=1991年10月【フォト】

 おとぼけキャラと、憎めない笑顔で国民的人気を博した「二郎さん」が突然、天国へ旅立った。

 二郎さんは2003年9月に脳梗塞で倒れた後、06年から「きれいな空気が気に入った」と栃木県・那須塩原市内で療養生活を送っていた。

 関係者によると、10日朝は普段通りに起床したが、午前9時ごろに容体が急変。すぐに夫人の瑤子さん(75)が119番通報し、救急車で同市内の病院に搬送されたものの、40分後に死亡が確認された。瑤子さんと、二郎さんのマネジャーを務める長男、大樹さんら3人の子供が亡きがらと対面した。病院に駆けつけた関係者は、「顔は苦しんだ様子もなく、いい顔をしていました。突然のことで、奥様はぼう然としていました」と声を落とした。

 常にお茶の間に幸せと笑いを運んだ。コメディアンとして活動していた1966年、東京・浅草のストリップ劇場、「フランス座」での萩本欽一(69)との出会いが二郎さんの運命を変えた。当時のゴーゴーブームにあやかり「55号(ゴーゴーゴー」の名前を決め、漫才とは違うという意味を込めて「コント」を頭につけた。

 69年スタートの日本テレビ系「コント55号!裏番組をブッ飛ばせ!!」などで、従来のカメラの枠を無視し、縦横無尽に跳ね回る斬新なコントを繰り広げた。欽ちゃんの突っ込みに、二郎さんが思わず発したフレーズ「飛びます、飛びます」は流行語にもなった。野球拳など、当時「子供に見せられない」などとPTAなどから猛抗議を受けたが、お茶の間では常に高い支持を得ていた。

 二郎さんは70年代に入ってからは俳優や歌手としても活躍。ドラマ、舞台などで人情味あふれる演技を披露し、独特な存在感を発揮した。だが、03年にゴルフ場で脳梗塞の発作を起こした。「最悪の場合の覚悟をしてください」と家族に告げられるほどの重症だったが、復帰への思いでリハビリを重ね、2004年には欽ちゃんの明治座の舞台で復帰を果たすまでになった。

 だが、昨年8月13日に自宅で倒れ、再び入院。昨年12月に見舞った欽ちゃんによると、「もう、『飛びます、飛びます』ができないだろうって言ったら、起き上がって『飛べません、飛べません』って、まだギャグをやるの…」と振り返った。2月に療養先を訪れる予定だったが、都合がつかず実現しなかったという。欽ちゃんは「二郎さんはボクの宝。残念じゃ言葉が足りないし、悔しいじゃ言葉が足りない。ダメだよ、勝手にダメだよ」と声を詰まらせた。

 日本列島を笑いの渦に巻き込んだ「イーヒッヒッ…」という甲高い笑い声は、もう2度と聞けない。

■坂上二郎(さかがみ・じろう)

本名同じ。1934(昭和9)年4月16日、鹿児島市生まれ。次男だったため「二郎」と名付けられた。2歳のとき家族で満州国に渡り小学校1年生のとき鹿児島に戻った。中学卒業後の53年、「NHKのど自慢コンクール」の鹿児島県代表に選ばれ優勝したのを機に上京。付き人、司会者などをへてフランス座のコメディアンとなり萩本欽一と出会い66年、「コント55号」を結成。名前の由来は「ゴーゴー(55)のようにダイナミックに」。72年以降、ドラマ、映画、CMなど幅広く活躍。03年に脳梗塞で倒れたが、必死のリハビリで仕事復帰、舞台にも出演した。血液型AB。家族は、妻の瑤子(ようこ)さん、長男(現マネジャーの大樹さん)、長女、次女。



この記事のフォト

「やっぱりコント55号」公演の会見で、「飛びます、飛びます」のギャグを披露する坂上二郎さん(左)。萩本欽一も、ファンも、復帰を願ったが、叶わなかった=1991年10月

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