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【芸能・社会】

坂上二郎さん死去 76歳脳梗塞で 欽ちゃん「一人で泣かせて」

2011年3月11日 紙面から

坂上二郎さんについて悲痛な表情で語る萩本欽一=東京・羽田空港で(戸田泰雅撮影)

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 萩本欽一とのコンビ「コント55号」で国民的な人気を集めたコメディアンで俳優の坂上二郎さんが10日午前9時40分、脳梗塞のため栃木県那須塩原市の病院で死去した。76歳だった。鹿児島市出身。通夜・告別式は行わず、近親者のみで家族葬を行う。2003年に脳梗塞を発症。リハビリを続けながら舞台などに一時復帰したが、昨年8月に自宅で倒れ、入院していた。

 「泣きたいけどテレビの前では泣きたくない。二郎さんは僕だけのもんだから。帰ってから一人で泣かせてもらいます」−。

 「コント55号」で坂上二郎さんと名コンビを組んだ萩本欽一が10日夜、ロケ先の富山から帰京し、羽田空港ロビーで報道陣の取材に応じた。坂上さんの思い出を語りながら、萩本は感極まった様子を見せたが、気丈にも涙は流さなかった。

 萩本によると、坂上さんの訃報に接したのは移動の車の中で。電話連絡はあったが、実際に受けた者が絶句している様子を見るうちに、続いてラジオニュースが流れたという。「ごめん、二郎さん、遠くにいて…」と思わず声が出たという。

 最後に坂上さんと会ったのは昨年12月。本来、今年1月に2人でやるはずだった明治座公演「いかん どっかん あっけらかん」を間近に控え、萩本は入院中の坂上さんを見舞った。そのときの様子をこう語った。

 「『(公演に)来るよな』と言ったら、二郎さんは『大丈夫よ』と答えた。『“飛びます、飛びます”できないだろう』と言うと、『飛びません』とギャグやってた。帰ろうとしたら、『欽ちゃん』と手を出してきた。ニコニコ笑ってた。僕は『泣けるからよせよ。ずいぶんあったけぇ手だなぁ』って。初めて二郎さんと握手した。それが最後になってしまった」

 また、萩本は「55号ってのは二郎さんが僕に声かけてできた。二郎さんが幕を開け、僕を置いて一人で幕閉めてっちゃった。55号は僕の心の中では不滅です」とも話した。

 コメディアンとしての坂上さんについては「とにかく汗びっしょりになってやる。あんな人見たことない。笑いを取ることに貪欲で諦めない人だった。スリルがあって血が燃える相棒だった。僕の恩人。僕のお笑い人生を作ってくれた人」と絶賛した。

 2人の掛け合いは全部ぶっつけ本番のアドリブ。打ち合わせをしなかったからこそ、一度もケンカをせずに過ごせた。

 2年前、2人で舞台を終え、観客からの拍手を聞きながら、坂上さんは「お客さん、ありがとう」と小さい声で言ったあと、さらに萩本だけに聞こえるように声を落とし「欽ちゃんも」と恥ずかしそうに言ったという。萩本は「あれには泣かされた」としみじみ。

 「最高のコメディアンがいなくなった。7つ年上なのに、同い年のようにつきあってくれた気のいいおじさんだった」としながら、「こんなに二郎さんのこと語ると、いなくなったことを感じて悲しくなる。今日はこれぐらいで勘弁して…」と肩を落とした。

 

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