[CML 008035] Re: 日の丸・君が代は国旗・国歌にふさわしいか
hagitani ryo
liangroo at yahoo.co.jp
2011年 3月 11日 (金) 07:13:29 JST
林田さん 萩谷です。
その辺の左翼の言いそうなことですね。こういうのを読んでうなずいてしまう
人が左翼に多いだろうと思うと、なんだか・・・以下、私の意見を述べ ま す。
1)日の丸はデザインとしてはきわめて優れている。国旗は国籍識別のために
あるので、単純で覚えやすいことは大きなメリット。 ミニマリスムのデザイン
であり、旗全体のなかで丸のしめる面積の比率なども 工夫を重ねている。バン
グラデシュのように、このデザインをまねる国もあるくらいである。
そもそも、国家は必然的に反民主的な面をもつ。よって、自国の旗が民主主義
の象徴だなどというのは、大国に虐げられている小国 のケースを除けば、ひど
い国家的自己満足の思い上がりである。三色旗や星条旗を民主主義の象徴だと思
い込むフランス人や米国人がばかばかしいのはそのため で、まともな知性 と教
養のあるフランス人や米国人はそんなことを聞いたら赤面する。
ドイツが島国だったら、今もハーケンクロイツの旗を残したまま自称民主国家
になっているかもしれない。
したがって、日本の旗が民主主義のスローガンなどにふさわしくないことを他
国と比べて恥じるべきではない。そういういじいじした心性こそニッポ ン的と
言うべきだろう。
オリンピックでは、旗を持たずに行進し、勝っても旗や歌を掲揚したり演奏し
たりしなければよい。できればそういう場合には、原爆のキノコ雲の デザイン
の旗と空襲のサイレンを使ったらいいと思うが、そんなことをする日本人が多数
を占めるとも思えない。
日本の新しい国旗デザインを決めましょう、などと言ったら、たぶん、延々た
る 甲論乙駁の末に日の丸になってしまうと思う。もう一度戦争をやって負ける
のでもないかぎり、新たにそんなものを制定する機運はない。戦争は環境 負荷
の観点から支持できないが、仮にもう一度戦争をして負ければ、こんどは近隣ア
ジア諸国の言うことを聞かざるを 得 なくなるから、少なくとも君が代はめでた
く消滅するかもしれないのだが、日の丸はなくならないだろう。理由は上述の通
りだが、さらに付け加えるなら、日本 が自らを日いずるところと称したのは古
代のことだが、できあいの雅楽の節にできあいの歌詞を載せて国歌を作ったのは
明治時代のことにすぎず、伝統 としての古さがちがう。また、君が代は歌詞が
天皇賛美だが、日の丸は、日本は中国より神聖なる太陽に近い国だという小国の
意地を張ったていどの意 味しかなく、それ自体が天皇に結びついていたわけで
はない。白い地に赤い丸を描いた図案のどこに天皇があるだろうか??
2)君が代は、もとの歌はああではなかった。
歌詞は和漢朗詠集から取ったとされるが、元の歌は「我が君は」で始まってい
たのに「君が代は」に変えたもの。これをもとに戻すか、あるいは新し い歌詞
をつけるとよい。「我が」という文言(個人が個人としての資格でものを言って
いる)を、明治の権力者が好まなかったのだと思われる。「我が 君」ならば、
天皇とは限らず、どこかの藩の大名でも、配偶者でも恋人でもいい。「君が代」
と言えば「君主の治世」ということで、天皇か将軍しかあ りえない。明治の為
政者が恋愛を認 めたはずもないから、君が代の君は「あなた」という意味です
などという文科省のごまかしは見え透いている。
あのメロディーはほんらいのんびりした雅楽の旋律であるが、明治時代に文部
省音楽係の西洋人が和声をつけたら抑圧的な重苦しいものになった。 なにか日
本の近代化を象徴するような経緯である。
和声抜き、またもっと別の、近代的あるいはエスニックな和声をつけたバー
ジョンを作るとよい。以前ある高校の先生が作った「君が代ジャズ」 もそのひ
とつ。
あのメロディーを、和声抜きで、民謡か演歌のような声で(それこそ日本的で
よろしい)、うんと小節をつけて歌ったら、とてもいいだろう。
左翼の作曲家たちが君が代を論じているのを読むと、はじめに君が代は悪とい
う結論があるから、それに至る推論はどうでもいいという安易な論じ方 しかし
てなくて、味気ないし、腹立たしい。あの歌を音楽として好むひともいる事実に
対してもっと謙虚になり、虚心にあの歌を音楽として味わってみ るべきではな
いのか。そこからし か、ほんとうに多くの人に耳を傾けてもらえる君が代否定
論は出てこない。
勇気を鼓吹するんだと言わんばかりの、あるいは権威主義的な重々しさをもつ
国歌が多いなかで、新バージョンの君が代は、せいぜいのんびり したムードを
醸し出すことが可能だろう。
国歌も国旗と同じで、再度の敗戦など、カタストロフィがない限り、変える機
運はないだろう。
だから、左翼の人たちがシンボルのことで争っているのを見るのは、すごくつ
まらない。どうしても子どもじみて見えるのである。しかも、その偏狭 さと堅
苦しさで、生徒に味気ない思いをさせる先生が多 いだろうとも思ってしまう。
茶髪はいけないなどというのも、シンボルにこだわる幼稚な感覚から来るものだ
ろう。先生は専制に通ず。左翼教師と国家はどれだ け隔たっているだろうか。
右翼街宣車が日教組撲滅と大書して町を走るのも、無理からぬ面があるだろう。
天皇制だけが悪いという考え方は滑稽である。どう見てもバチカンのほうが悪
質で、やったことも大規模なのに、ローマ 法王の権威は認められて、せいぜい
が一介のローカル君主である天皇が卑しめられるとしたら、それこそ差別的だろ
う。政府のやる戦争は正義だが、暴力団の抗 争はいけな いと言うようなもの。
じつは、暴力団の抗争の方が、堅気の人を巻き込まないかぎり、非戦闘員を殺戮
する近代戦争より数等ましなのである。
こういう権威主義がひそんでいるから、日本が過去を反省するのは自虐だなど
というレトリックが説得力をもつのだと思われる。南京で犯された姑娘 や 従軍
慰安婦にされた朝鮮人女性と、内地で夫や父親や男兄弟の仕打ちに耐える日本女
性は、国籍を超えたつながりを持っており、日本女性にとって日本 国家に自己
批判を行わせるのは他虐、日本国家を甘やかすのこそ自虐である。
日本はよくないというのは、対中国や対朝 鮮関係から導かれるより も、日本
での女性の地位や、徳川以来切腹や親子心中が行われてきたことなどから必然的
に出てくることだろう。第一の問題は日本人自身の人権なのだと思う。 個人、
少数者の権利を抑圧する土壌が 万葉集の真間の手児奈の昔からあるのである。
日本の伝統なるものを重んじるものは、武士の文化だけが日本の文化だと思い込
んでいるのだから、ポテンシャル には人殺しの一 味である。そんな者が懐かし
み、復活を図る日本とは、まさに弱者、個人抑圧の反人権的社会にほかならない。
左翼はいつも型にはめたみたいに、朝鮮人や中国人のことばかり言っている
が、そんなのはいわばネガティヴな「外圧」である。それ以前に日本人自 身が
徳川以来の「日本」の抑圧のもとに生きてき たことをちゃんと言うべきであ
る。そこには、左翼の通例である二つのメンタリティが透けて見えていると言っ
ていいかもしれない。ひとつは、自分た ちは普通のひとより物知りだという、
抜きがたく救いがたい自惚れである。それは潜在的コンプレックスの所産だと思
われる。第二は、日本人、つまり 自分のまわりの、よくそのへんにいそうな人
たちがいやだから、それに対して外国をふりかざそうとする外圧待望心理である。
なにも左翼ばかりが卑しいわけではないが、左翼のほうが、掲げる理想が進歩
的であるだけに、右翼より、そういう矛盾の影響は深刻ではないだろう か。
個人、少数者を尊重する立場からは、あらゆる国旗国歌はナンセンスであっ
て、日本以外のどこかの国が日本より評価に値するなどというのは、安っ ぽい
主張である。
私たちは左翼をもっと面白くしなければならない。左翼はセクシーであるべき
だろう。ゲバラを見よ。
(11/03/10 21:05), Hayariki wrote:
> 日の丸(日章旗)・君が代は日本国の国旗や国歌にふさわしくない。国旗や国歌は国家の象徴(シンボル)である。日本国のあり方を定めているものは日本国憲法である。日本国憲法の原理は基本的人権の尊重、主権在民、平和主義である。従って、日本国の国旗・国歌は、それらの原理を象徴するものでなければならない。
> アメリカ合衆国の国旗「星条旗」、国歌「星条旗」は必然的に独立戦争を連想させる。フランス共和国の国旗「トリコロール」、国歌「ラ・マルセイエーズ」はフランス革命を連想させる。そこから独立宣言や人権宣言につながる。アメリカ国民やフランス国民にとって国旗や国歌は自由や民主主義の象徴になっている。それ故に国旗や国歌の尊重が正当化される。
> これは他の国々でも同じである。多くの発展途上国において近代化の歴史は反植民地主義闘争で始まった。独立を求める闘いが自由や民主主義を求める闘いであった。独裁権力に対する反政府デモが国旗を振りかざしているシーンを目にする。彼らにとって国旗は国家権力の象徴ではなく、民族の独立や自由・民主主義の象徴だからである。
> ところが、日の丸や君が代は日本国憲法が否定した天皇専制政府の象徴であった。それを戦後も国旗や国歌としたために矛盾が生じる。日本で自由や民主主義を求めるデモが日の丸を振りかざすことは考えられない。日本国憲法の目指す日本国の象徴としてふさわしくないからである。
> 否定すべき体制のシンボルであっても、新しい意味を付与して再生させることもできる。トリコロールの白も元々はフランス王家を象徴していた。パリ市民と王家の和解を示すトリコロールは後のフランス革命の経過からすれば否定すべき中途半端さを有していたが、今では自由・平等・博愛のシンボルになっている。
> それ故に戦前の国旗・国歌というだけで否定すべきではないという見解にも三分程度の理はある。しかし、問題は日の丸や君が代を日本国憲法体制の象徴として再定義する努力がなされていないことである。
> 日の丸や君が代を国旗・国歌として推進する側の論拠は「伝統」であって、その「伝統」は日本国憲法が否定したものである。結局のところ、日の丸・君が代推進は戦前的価値観を復活させる反動的な運動になる。基本的人権の尊重や主権在民、平和主義を重視する市民は日の丸や君が代に否定的になることは当然である。
> しかし、日本国憲法も矛盾を抱えている。日本国憲法自身が天皇を日本国の象徴と定めている。日本国憲法が否定した天皇専制政府の元首を、そのまま象徴にしてしまった。世襲制の天皇の存在は日本国憲法の定める法の下の平等に反する上、歴史的に天皇が基本的人権の尊重や主権在民、平和主義の体現者として役割を果たした訳でもない。
> 日本国憲法は日本の歴史において画期的な存在であり、現代の日本人でも十分に消化できていないが、当然のことながら歴史的制約は免れない。日の丸・君が代に反対する側も護憲を旗印とするために天皇制の問題を深められていないという限界がある(林田力「中井洽の非礼発言と天皇制の対立軸化(下)」PJニュース2010年12月5日)。
> http://www.pjnews.net/news/794/20101202_5
> 日本国憲法自身が否定すべき前体制との連続性を完全に断ち切れていないならば、前体制のシンボルである日の丸・君が代を国旗・国歌としても不都合ではないとの論理も成り立ってしまう。結局のところ、日本国そのものが前体制を断罪できない中途半端さを抱えている。この現実を踏まえ、少なくとも日の丸・君が代を強制されない自由を諸外国以上に広範に認めることが必要である。
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