2010-09-23 21:09:13

第四夜 『第2章「迷惑ボラ武勇伝」~ボランティア団体の結成と、はじめてのボランティア活動~』

テーマ:迷惑ボラ武勇伝「オリジナルブレンド」

オリジナルブレンドも第2章へ突入。

迷惑ボランティアと言われながら、大事なものをみつけていくプロセスを描いた章です。第2章は8部構成、どうぞ秋の夜長にご堪能ください。

まずは今宵は第一夜!


~ボランティア団体の結成と、はじめてのボランティア活動~


現在は「Young Volunteer Network(YVN)」という名前に改称し活動を続けていますが、青少年のボランティア団体の結成も行ないました。

これは活動体験中のKさんの想いに応え、委員会顧問の先生の言葉を実現するために何が出来るか友人と話し合い、その後、夏・春と体験講座でお世話になった社協の職員を尋ね相談したところ、「上田悠生寮で活動できるようボランティア団体をつくればいい」と、アドバイスをもらい、「それはいいかもしれない」と、高校入学後、ヤングボランティアクラブ(YVC)という団体を立ち上げることにしたのです。


中学生の頃に福祉委員の一員として数回のボランティア講座に参加していたので、その講座での言葉にもあったボランティア活動では自発性が一番大事なんだと考えるようになり『自分たちの力で見つけ考え行動する 』という活動理念を掲げ、高校生だけでも出来ることをしようと友人や知人に呼びかけ活動を開始したのです。YVCは複数の高校へ通う高校生で構成され、顧問など大人の介在しない当時では珍しい団体でした。あえて顧問というのであれば、中学の委員会顧問と社協職員であったと思います。こと在るごとに相談しに行っていたのですから。

当初計画した主な活動内容は、毎週水曜日放課後に社協の会議室を借りて定例会議を行なうこと。毎年上田悠生寮での春休みと夏休みの長期休暇を利用した活動と、りんどう祭というお祭りに参加させてもらうこと。これは委員会顧問の先生が提案して即決。あとは私たちが相談した社協の職員に紹介を受けた、車椅子バスケットの補助などの活動を行うことを計画し活動を開始したのです。この車椅子バスケットの運営補助というのが、悠生寮以外で地域での初めての活動でありました。


この車椅子を利用される方たちのバスケット「ツインバスケット」の補助は毎週日曜日。当時、土曜日も授業であった為、唯一の休みが日曜日。その日曜日の午後、毎週練習があったため、私たちも運営補助のため毎週活動参加をするのです。週休1日だった高校当時に毎週という活動頻度のあり方は、高校生がボランティア活動を行なっていくうえで、「時間のゆとり」と「無理をしない」について考えさせてくれるきっかけとなりました。


バスケットボール自体は小学校の担任の影響もあり大好きでした。時には、練習相手に競技用の車椅子にも乗らせてもらい、競技も一緒に体験しました。ほかは、タイムを計ったり、モップ掃除をしたりそんな活動であったのです。


この車椅子バスケを通じて、学校や社協での障害者疑似体験で得た障害観が誤っていたことに気付きました。「障害者=車椅子=弱者」そんなイメージを抱いていた私にとっては大きなきっかけだったのです。なぜなら、彼らは障害者である前にアスリートであったからです。「~してあげる」という関係ではなく、競技を共に行なって行く対等な関係であり、それを通して得た感覚が、今日私が福祉教育でお話させていただく、障害者疑似体験の方法につながっているように思います。

高校1年生ではじめたこの活動は、結局一緒にはじめた友人達も、毎週の活動では自分の余暇がないと、ひとりふたりと減り、夏を迎える頃には私ひとりになってしまっていました。当の私も活動回数が毎週から2週に1度、ひと月に一度と頻度は減り、終いには続かなくなってしまいました。私が社協の職員を経由し「活動をやめたい」と伝えたあとの最後の活動日に、慰労会という名でカラオケボックスに連れて行ってくれたのです。その日はじめて車椅子の方が運転する車に乗せてもらいました。私はその車に興味津々。それも察知してか、その方は丁寧に障害者用の自動車について説明をしながら、会場となったカラオケボックスまで連れて行ってくれたのです。


慰労会とは名ばかりで、活動を中途半端に投げ出した私はその場で怒られるのであろう、と覚悟も決めていたのです。車椅子バスケットの選手達も運営に来ていたご家族の方たちも、私を責める事も無く「今までありがとう」と、仰ってくれたのです。そして、どうしたら活動が長続きするのか、という私の悩みに「自分(活動者)の余暇とボランティア活動の頻度など調整をしていくことが重要だよ」とアドバイスをもらいました。ここではじめて、ボランティア活動には勢いだけでなく、自分の生活も考えながら調整していく事が大事であることを学ぶことができたのです。

余談ですが、私が人生で始めてカラオケボックスに行ったのは、この車椅子の方とそのご家族たちと共にでした。そして、学校での授業などの合唱を除いて、人前で歌うという体験をはじめてこの慰労会でしたのです。人前で歌う爽快さを知り、このカラオケがこの後に続くイベントでのコンサートへと発展していくとは思いもせず。


Young Volunteer Network

そして彼らは私にボランティアだけでなく、これからの生き方を教えてくれました。

それは楽しむために努力は惜しまない」、「活動を継続させていくためには楽しみを忘れてはいけない」でした。



夏も過ぎ、無理なく出来る活動を探していた私たち。会員に負担をかけ過ぎない、ゆとりを持って行えて高校生だけでも出来る事。みんなで頭をひねりました。定例会議への参加者も減りはじめ活動も停滞し始めたころ、社協の職員から、市内で開かれる障害者施設と市民の交流イベントに実行委員として参加してみないか、と提案を受けたのです。

「企画をひとつ担当していいよ」と言われ、私たちはイベントの花といえば何かを話し合いました。

停滞していた毎週水曜日の会議も息を吹き返しました。実行委員としてひとつの企画の提案を行ったのです。会場に来場した人たちを迎え入れる玄関口への工夫。「夢の国(国内最大級のテーマパーク)のようにマスコットがいたらお客さんも喜ぶのじゃないか」、と提案したのです。

結成以来18年間続く、着ぐるみプロジェクト の誕生でした。


Young Volunteer Network


ただ、高校生だけでできないことがあったのです。

着ぐるみを1体借りるには17,000円のレンタル料がかかるということでした。私たちは、小遣いを出し合って必要な備品を購入して活動していました。バイトも校則で禁止の時代です。1日で7,000円は大きすぎる負担だったのです。

そこで実行委員会に参加させてもらい、実行委員を構成する大人たちに、着ぐるみがあったら会場がどんなに賑やかに楽しくなるかなどを、得意のおしゃべりでプレゼンを行いました。その甲斐あって、高校生であった最年少実行委員の思いを酌んでくれた実行委員の皆さんの好意で、イベントの運営費で着ぐるみのレンタル料を出してもらえる事になったのです。それも用意されたのは1体ではなく2体。企画が認められたうれしさは格別でした。実行委員の期待にこたえようと、私たちは思い切り張り切ったのです。


それから18年経った今も続いている活動です。

長野冬季五輪の時には、スノーレッツという五輪のマスコット4体を着て欲しい、と実行委員より言われるなど着ぐるみプロジェクトは息の長い、そして会員にとってはかけがえの無いイベントの花となりました。


Young Volunteer Network


現在会員は30歳を超える者も多くいます。

そのなかで、高校生だけでやろうとはじまったこのイベントに毎年休みを取り駆けつけるOBもいるぐらいなのです。このイベントでは毎年様々な事を行ってきました。お米が不足した年は、「タイ米の魅力を知ろう」と企画して、タイ米チャーハンの無料配布。そして、一見自己満足に終わりそうなイベントの運営ボランティアではあるのですが、ステージイベントでは、カラオケで人を前にして歌うことに味をしめた私が、高校生バンドを結成してライブを行うなど、その中で、来て頂いた人たちにいかに楽しんでもらうのか。相手の目線を考えていくことを培うのには、大変貴重な機会であったのです

相手の目線ということで、着ぐるみの話に戻ります。着ぐるみは試行錯誤で始めた活動です。会員の女の子の「夢の国ではこんな動きだったよ」という話だけをもとに始めたのです。

今日では、着ぐるみを着ているときのルールを私たちは決めています。

キャラクターなりきること。決して声は出さないこと。何よりも一番は相手の目線で活動を行うこと。会場の入口にただ立って手をふるだけじゃない。私たちのライバルは夢の国の愛おしい個性をもったキャラクターたち。彼らに負けないためには、私たちの動きや、車椅子の方、子供たちの目線で動く事などの工夫を、16年かけて話し合い練習し研究してきたのですから。

Young Volunteer Network



次回に続く









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