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[16365] 【妖々夢編 開始】黄昏境界線(東方Project二次創作 憑依物)
Name: 道化◆5a734804 ID:d4ec8ce0
Date: 2011/03/10 22:27
 死。それは生きとし生ける者達にとって逃れられない運命。
 必ず訪れ、終わりを告げるもの。死についてはいろいろな事が語られる。
 肉体は死しても魂は残る。その魂は幽霊となる。その魂は天国や地獄へ行き、輪廻を巡る。全知全能の神の下へと帰る。または何も残らず消滅する等々…。
 しかし、死の向こう側の世界など見える事は無い。それは生者にとっては永遠に関わり合いのなれない世界なのだから。
 伝えられない。伝わらない。ただあくまで想像の産物でしかない「死」の向こう側には何があるのか?
 さて、唐突だが、本当に唐突な事なのだが自分は死んだ。
 死。そう。死んだ。恐らく死んだ。多分死んだ。確定は出来ないけどそれは九分九厘確信しているようなもの。
 死んだ。そう。それだけの事。今、この思考している状態が俗に言われる魂の状態なのかはよくわからない。今の自分が幽霊だと呼ばれるものなのかもよくわからない。
 もしくは自分はまだ生きていて、これは夢のようなものなのかもしれない。それが最後の夢なのか、それともただ眠っているだけなのか。
 わからない。あぁ、わかる事など1つもない。言葉には出来ない。形には出来ないのだから。





 ――…にゃあ。





 話は変わるが、胡蝶の夢という話を知っているだろうか? ある詩人が夢を見ていた。だがふと詩人は自分が蝶になっていた夢を見ていたのか、それとも蝶が自分になった夢を見ているのかわからなくなってしまったという話だ。
 さて、先ほど自分は魂だけなのか、幽霊になったのか、と言ったとは思うがそれは今、否定されている。
 いつからそうだったのか。いや、最初からそうだったのか。
 私は猫になっていた。
 …いや、もしくは在るべき姿に戻った。よくはわからないが、今、猫という自分という存在を認識している私はここにいる。
 今、私が明確に事実として言えるのは、私が猫であるという事。そして私は「死んだ」という事。
 この死というのがよくわからない。今の私は生きているのだが、それでも強烈に「死」の記憶が残っているのだ。
 やはりよくわからない。私は死んで、魂だけになったものが猫になったのか。それとも猫であったものが人の夢を見て、その夢の終わりが死であったのか。
 どちらなのかわからない。だが、私にとっては夢であろうが現であろうが変わらないのだ。
 死は、恐ろしい。


「――…ッ…」


 吐く吐息が震える。死の恐怖に怯えるように身を震わせ、空を仰ぐ。
 身体が動く。人であった筈なのに猫の身体を容易に動かす事が出来るのはやはり私は猫だったのか。
 もう、いい加減に良いだろう。現実を否定するための黙考など益にはならない。
 私が猫であったのか、私が人であったのか、人が猫になったのか、猫が人になっていたのか、もうなんでも良い。
 ただ私は死ぬ訳にはいかない。もう二度と。死にたくはない。そう、生きるのだ。
 私は飼い猫という立場ではない。野に放たれた野良猫なのだ。誰も比護してくれない自然の中で生きていかなければならないのだ。
 曖昧に残る人としての記憶が不安を呼び起こす。強き者が生き残る弱肉強食の世界で私は生き残れるのか?
 恐怖。それは恐怖だ。死への恐怖と、生への恐怖。間を挟まれるようにして私は身を震わせる。
 視線を空へと移す。見上げた空は夕焼け。橙と紫、藍が複雑に入り乱れる空が視界へ映る。綺麗だな、と素直に思う。
 生きたい。死にたくない。恐怖は消えない。だけど幾つも理由を並べ立てて私は生きていこう。
 この綺麗な夕日を私はまだ見ていたい―――。





+ + + +





 そこは幻想郷。現世に忘れ去られし幻想達の楽園。
 妖怪達が闊歩し、幻想とされた光景が自然とそこに存在している世界。
 人は闇に怯え、闇に妖怪達は闊歩し、人の恐怖を煽る。
 だが、それでも人と友好的な妖怪が存在していない訳ではない。今から視点を当てる彼女もその1人である……。






「盗難被害、ですか?」
「そうなんですよ。魚がやられるそうで、タチの悪い化け猫でね」
「…化け猫、ですか。随分と豪胆と言うか、短慮というか…」


 はぁ、と溜息を吐いたのは1人の女性。彼女は夕食の食材を買う為に人里へと降りてきたのだが、そこで聞いた話に眉を顰めていた。
 美しい顔立ちの顔。だがその頭には普通の人には無い耳があった。それは狐のものだ。更に奇特なのは耳だけではなく、彼女の背の方に揺らめく九本の立派な狐尾。
 八雲 藍。それがこの女性の名だ。彼女はその外見からわかる通り、人間ではない。
 彼女は九尾の狐。化け狐はその尻尾の数で妖力を増すが、彼女のソレは並の妖怪など歯牙にかけぬ力を持っている証である。
 彼女はこの幻想郷の管理者である妖怪の賢者「八雲 紫」に使役される式であり、その行動も基本的に主に準ずるものである。
 ふむ、と彼女は小さく呟いて。


「人を襲うなどという兆候は見られないのか?」
「へぇ…軽い怪我ぐらいならしたんですが、傷付けよう、といった意志はねぇみたいですや」


 力の無い妖怪か、と藍は呟く。妖怪は人を喰らう種族だ。だが、幻想郷にある人里では人を襲う事を禁止している。
 それは幻想郷を維持する為に必要な処置である。現世は幻想を科学によって論理的に証明し、恐怖する事を忘れ、闇を人工の光によって奪っていった。
 そうしてから妖怪達の力は衰え、それを危惧した八雲 紫によって幻想郷は生まれ、今もこうして存在している。
 そのようなバランスを保っているこの世界で、人里を襲おうなどという妖怪はいない。そんな妖怪がいれば妖怪の賢者と謳われる八雲 紫は勿論、人を守護する為に存在する「博麗の巫女」を敵に回すからだ。
 そうなればこの幻想郷では生きてはいけなくなる。その理を理解出来ない低級の妖怪は人を襲うかもしれないが、この話の妖怪は少々特殊なようであった。
 少し気になる、と藍は思った。そう思い、買い物袋を下げて歩き出す。目的はよく被害に逢うという魚屋へと足を向けた。


 藍がちょうど魚屋に辿り着こうとしたその時だ。まるで示し合わせたかのように上がる悲鳴。
 藍の目の前。そこに一匹の猫がいる。二股の尻尾は警戒するように揺れ、口元に加えた魚をしっかりと噛み締める。
 藍は軽く威圧するように猫を睨み上げた。藍の睨みと共に妖気が溢れ出す。それだけでこの猫は理解するだろう。自分が何をしたのか、何を敵に回したのかを。


「―――ッ!!」


 猫は弾かれたように駆け出した。そのスピードは早く、軽い身のこなしで建物の上を駆け抜けていく。


「待てっ!!」


 藍は声を荒らげ、自らも地を蹴って宙へと浮かび、猫の姿を追う。
 猫は裏路地の方へと逃げていく。地に這うかのように軽やかに駆け抜け、藍を振り抜こうとする。
 が、藍もそこはただの妖怪ではない。猫を捕らえんべく飛翔の速度を上げ、猫へと追い付こうとする。
 藍は直ぐさま猫を捕らえる未来を半ば確信していた。藍の予想通り、あの化け猫は妖力もさほど高くも無い。飢えに飢え、こうして人里の魚を狙うしか無かったのであろう。
 そして、猫は藍の手に捕らえられた。隙間へと逃げ込もうとした猫の尻尾を藍は手を伸ばし捕まえ、宙づりにぶら下げる。


「ふーっ! ふーっ!」
「ほぅ…実力の差を理解しても抗おうとするか」


 藍は未だ妖気を放出している。それ故、この化け猫も理解していると思うのだが、それでも抗おうとするこの化け猫の姿勢に藍は思わず感嘆を覚える。
 が、それもすぐ一瞬の事。すぐさまその感嘆の感情を消し去り、冷徹な瞳で化け猫を睨み付ける。


「紫様の取り決めによって人里で騒ぎを起こす事は認められていない。それを理解していない訳ではなかろう?」
「…………知っている」


 呻くような声が漏れる。鈴のような凜とした声だ。


「そうか。ならば自分がどうなるか理解しているな?」
「……殺すのか?」
「そうだな。この幻想郷を維持する為に守らなければならない理がある。そしてお前はそれを犯した。ならば排除するだけだ」


 だが、と藍は一言呟いて。


「1つ聞いておこう。どうしてお前は人を襲わなかった?」
「……人?」
「惚けるな。わざわざ人里まで忍び込んで魚を盗んだのならば、人を喰らいたいという欲求があると考えた方が自然だ」
「…猫が食べるのは魚じゃないのか?」
「…ん?」


 何だ? と藍は猫との話を聞いて思う。何故だかは知らないがこの猫との挙動がどうも不自然に思える。
 何だか自らの常識と噛み合わないようなそんな感覚を受ける。思わず、ジィッ、と猫を見つめてしまう。


「お前は、自分を猫だと思っているな?」
「そうだろう」
「…化け猫、だというのは?」
「化け猫? …あぁ、確かに化け猫だろな。私は」
「…ならば人を食いたいとは?」
「猫は魚を食うものだろう? …いや、化け猫は人を食うのか。だが、私は猫だ。人は喰わない」


 キッパリと断言する目の前の猫に藍は思わず疑問を思わずにはいられない。この猫は自らの存在をただの猫という事は自覚している。
 だが、それでいて人を喰らう事はしない、と断言するこの猫は一体何なのだろうか? と藍は思考に沈む。どうも普通の妖怪とは異なった妖怪のようだが…。


「だが、それでも人里への被害が少なからず出ている」
「………」
「ならば、それを見逃してはおけない。何が火種になるかわからない」


 この幻想郷は酷く危ういバランスの上に成り立っている。だからこそ、少しの火種も見逃してはおけない。だからこそ、藍は排除する。


「…そう、か」


 だが、何故だろうか。


「…死ぬのか。私は」


 その声が言いようもなく心を震わせるのは? 藍は縫い止められるかのように静止した。





+ + + +





 ここが幻想郷だと知った。自分は人を喰らいたいという欲求は少なからず無かった訳ではない。だが、それに忌避感を覚えたのは「人間」としての意識が残っていたからだろう。
 だからこそわかっていた。自らの行いが罪である事を。だからやりたくは無い。
 それでもやっていたのは生きる為だ。生きる為に必要だった。だから魚を奪った。人を傷付けたときは罪悪感にも襲われたが、空腹感の前では罪悪感も消え去ってしまった。
 そして飢えが満たされれば、また自己嫌悪して、それでも次も止められない、と考える自分がいた。
 自分は弱い。この幻想郷は妖怪達が闊歩する世界。その世界で、ただの喋られる程度の猫など生き残るのは非常に厳しい。
 だからこそ、知識を生かした。「人」の知識を。そして「人」から奪い、生き延びてきた。
 人間じゃなくなってしまった、と思う事があったが、当然のように受け入れていて、自分はやっぱり人間じゃないんだな、と自覚して。
 …何のために、私は生きていたんだろう。
 ただ、死にたく無い。ただ、この恐怖から逃げ出したかった。
 死ねば終わるだろうか? それとも私はまだ夢を見るのだろうか? また死んだ記憶を抱えて、怯えながら生きていくのだろうか?


「…死にたくない…」


 嫌だ。


「死にたくない…」


 嫌…。


「死にたくないよぉ…」


 嫌。苦しいのは、もう嫌なのだ。






 ――…あら、随分と面白い存在がいたものね。






 そして、私は出会う。夕焼け。夜の近づき、藍に、紫に、橙が混じるその空の下で…。



[16365] 黄昏境界線 02
Name: 道化◆5a734804 ID:d4ec8ce0
Date: 2010/02/10 21:11
 八雲 紫。幻想郷の創設にも関わった「妖怪の賢者」と称される程の大妖怪である。
 隙間妖怪という一人一種の妖怪で、境界を操る能力を有する。その力は神にも匹敵する程とまで言われている。
 そんな低級の妖怪から見れば雲の上の存在とも言える紫。彼女は口元を扇子で隠しながら、自らの式が捕らえている猫を見つめる。
 境界を操る程度の能力を持ち、長い間生き続けてきた経験から彼女はその猫の異常性を確認したのだ。
 良い物を見つけたわね、と内心で紫は呟く。少し帰りの遅い藍の様子を覗き見し、彼女が捕らえた猫を見つける事が出来た。


「ゆ、紫様!?」


 突如現れた紫の存在に藍は驚いたように目を見開き、猫に到っては紫の存在を感じ取った為か、身を固くしている。
 あらあら、と紫は小さく呟きを入れながら自らの能力を用いて生みだした隙間からその身を乗り出し、藍の傍へと降り立つ。
 藍は紫の登場に未だに目を丸くしている。それを気にした様子も無く紫は猫の方へと顔を寄せ、猫の顔をのぞき込むように視線を向けた。
 猫の瞳と紫の瞳が見つけ合う。宙ぶらりんにされている猫の姿を暫し見つめていた紫であったが、何度かフムフム、と頷くと。


「うん…。本当に面白いわね。興味深いわ」
「あ、あの? 紫様?」
「藍、この子どうしたの? 貴方を怒らせるような事でもしたの? 例えば…そう、油揚げを取られたとか」
「私はそんな子供ではありません!! この猫は人里で悪さをしていたのですよ」
「悪さ? 人でも襲っていたの? …まぁ、この子はそんな事しないだろうけどねぇ?」


 ニヤリ、と言わんばかりに笑みを浮かべて紫は言う。それに驚いたのは藍だけではなく、猫もまたそのようであった。藍と猫は2人揃ってぽかん、と口を開けて紫を見ている。
 あら、息ぴったり、と紫が思うのと同時に藍が戸惑ったような表情のまま紫へと問いかける。


「ど、どうしてそう思うのですか?」
「ふふ。この子は面白い隙間を持っていてね。だからわかるのよ」
「隙間…?」


 藍は首を傾げる。確かに自らの主の能力が境界を操る程度の能力だと言う事は知ってはいるが、この猫が隙間を持っている、というのはどういう事なのか?
 藍の戸惑いの表情を見つめながら、ふふ、と紫は笑いを零して、藍の手に握られていた猫をそっと抱きかかえた。
 藍が、あ、と声を漏らすも、紫はそれを抑えるように視線を送った後、優しい手つきで猫の背を撫で始める。


「そう。貴方は人里に悪さはしない。だけどそれでは貴方は生きられない。それでも貴方は生きたいのならば…それは受け入れられるわ。ここは幻想郷、そこは全てを受け入れるわ。それはとても残酷な事…」


 その声はまるで労るかのようでいて、また、窘めるような声で。
 暫し紫は優しく、壊れ物を扱うかのように猫を撫でていた。最初は驚いて身を竦ませていた猫だが、次第に紫の手を受け入れて目を細め始める。
 優しく、労るように紫は優しく撫で続ける。猫はいつしかその瞳を閉ざし、静かに寝息を立てていた。
 藍は紫に制止させられるままに動きを止めていたが、怪訝そうな表情になるのは抑えられなかった。
 そんな藍の気配に気付いたのか、紫は猫を撫で続けながら藍の方へと視線を向けて。


「説明は帰ってから。今は、この子を休ませたいわ」
「……何故そこまで入れ込むのですか?」
「それも、帰ってからね?」


 クスクス、と紫は笑みを浮かべる。それはまるで拗ねている子供に対応する母のような態度だ。藍もそれに思い至ったのか、思いっきり苦虫を噛み潰したような表情となり、一気に不機嫌となる。


「あら? 嫉妬しちゃダメよ?」
「してませんっ」


 藍は紫の言葉に顔を真っ赤にして紫に抗議の声を挙げる。あらあら、とどこか巫山戯た様子で紫は笑いながら自宅へと繋がる隙間の道を開くのであった。





+ + + +





「――で?」
「もう、藍はせっかちさんね」


 藍は不機嫌そうに腕を組みながら紫へと問いかける。その様子に流石に呆れて来たのか紫は溜息混じりにその言葉を吐く。いや、あの胡散臭い紫の事だ、それもまた演技なのか。
 自分が良いように振り回されていると気付いた藍は段々と頭が痛くなってきたが、それでも自分たちが住まう屋敷に連れてこられた化け猫。
 今は泥のように眠っているが、正直、藍はあの猫の事を色々と良く思っていない。悪く思っているとも言えないが、何とも微妙な感情を向けてしまうのだ。これも紫にからかわれた所為なのか、と考え込みそうになるも、すぐに首を振って紫へと顔を向ける。
 紫は笑みを消し、扇子を取り出し口元を隠しながら藍へと向かい合う。


「あの化け猫…ただの妖怪じゃないわ」
「ただの妖怪じゃない? …しかし、妖力もさほど、控えめに言ってもかなり低級に思えますが?」


 控えめにいっても、恐らくあの猫は妖怪としては最低ランクでしかない。妖精と張り合っても勝てるかどうかは怪しい所だ。
 だからこそ紫の言う、ただの妖怪じゃない、という意味がいまいち掴めない。藍の戸惑う様子に紫は最もだと言わんばかりに頷く。


「そうね。あの子の妖怪としての実力は恐らく並以下じゃないかしらね」
「…あの、だとしたら何がただの妖怪じゃないんですか?」
「妖怪として不完全な妖怪、と言った所かしらね」
「不完全、ですか?」


 えぇ、と紫は頷く。


「あの子の魂には……人の魂が混じり込んでいたわ」
「…人の、ですか?」
「そう。つまりはあの子は純粋な妖怪じゃない。かといって半妖とも違うわ。あるべき形として収まらないのよ。だからこそあの子は不完全な妖怪」


 紫の説明を聞いて藍は思わず納得の表情を浮かべた。あの猫に対する違和感の正体は恐らくこれなのだろう。
 自らを猫だと称すも、だがそれでも人を食糧として見なさず、傷付ける事を嫌い、だがそれでも意志は明確に。
 この違和感はそう、あれはまるで人と話しているかのような錯覚を受けたのだ。今なら藍は納得する事が出来る。


「あの子は…妖怪としては生きにくく、かといって人としても生きる事が出来ない。そんな歪な存在よ」
「…紫様はあの化け猫をどうするつもりなのですか?」


 あの猫の存在がどのような存在なのかは、藍にも理解が出来た。
 だが、その先を紫はどうするのかその真意を問いたかった。あの猫をここに連れてきたのは恐らく何かの考えがあっての事なのだろうが、一体どうするつもりなのか、と。


「…藍、貴方、式打てるわよね?」
「打てますが……ちょ、ちょっと待ってください!? まさか、あの猫を私の式にしろだなんて言うつもりじゃ…!?」
「どうかしら? 決して悪い子ではないとは思うのだけど?」
「いや、…それは、そうですけど…」


 紫の言葉に藍は思わず言い淀む。式、というのは式神の事であり、自らが使役するものだ。
 その式神に取り憑かせる妖怪が必要となる訳なのだが、藍は式こそ打てるようにはなったものの、取り憑かせる妖怪が見つかってはいないのだ。
 別に藍も探すつもりは無かったし、長い時を生きるのであればいずれは機会はあるだろう程度にしか思っていなかった。


「貴方には色々と仕事して貰っているしね。そろそろ手も欲しい頃じゃない? ほら、猫の手でも、とか言うじゃない?」
「いや、ですが…」
「何? 嫌なの?」


 うっ、と藍は紫の追求に息を詰まらせた。別に嫌という訳、ではないと思うと藍は思っている。
 別にあの猫の妖怪としての質が悪いからという理由ではない。ただ何となく気に入らない、と言う感情が藍の中にあるのだ。
 それはある種、下の兄弟に親を取られたような感覚にも近いのだが、藍はその感情をあまり認めたくないものであったし、認めたくはない感情だったとしてもそれはやはり藍の感情であって納得がしにくいのだ。


「…私は藍がいるからこれ以上、式を持つ必要は無いわ」
「…紫様」
「私は藍がいてくれて助かってるわ。これは心の底から偽り無く言える事。その喜びを貴方に味わって貰いたいと思うのは傲慢かしら? それとも、私が信じられない?」


 扇子で口元を隠しながら紫は、ニヤリ、と笑みを浮かべた。藍はその表情に更に呻き声を上げ、暫く唸っていたがゆっくりと眉を寄せながら瞳を閉じ、重く溜息を吐き出して。


「…いきなりは決められません」
「えぇ。それで良いの。これはあくまで私の希望。それに貴方が応える必要は無いの。ただ貴方がどうしたいのか、それで決めて頂戴。あの子は適当な理由でもつけてこの家に住まわせなさい。そして、貴方が決めなさい」


 そう言って笑みを浮かべる紫。藍は紫の掌で弄ばれている自分のイメージが浮かび、思わず頭痛がしてきた。
 そんな時だ。紫がふと扇子を閉じて顔を上げたのは。


「? 紫様?」
「あの子が目を覚ましたわね。行くわよ、藍」





+ + + +





 目を開けば、そこは見たことのない天井だった。
 思わず、知らない天井だ、と呟きかけたがそれはあくまで心の内のみで飲み下す。
 何故ならば、自分をのぞき込むように見ている紫がいるからだ。思わず猫は上げかけた悲鳴を噛み殺し、毛を逆立てさせた。


「あら、おはよう」
「……」
「人語は理解出来るのでしょう? なら、挨拶は?」
「…おはようございます」
「良くできました」


 頭をそっと優しく撫でながら紫が言う。猫は少しくすぐったそうであったが、すぐに紫の手つきに慣れたのか瞳を閉じて受け入れる。
 紫はそのまま頭を撫でていた手をそっと顎の方へと向けて顎を転がすように触れる。思わずごろごろ、と猫は鳴いてしまい、それが更に紫の笑みを増長させる。


「ごほんっ!」


 そこに藍のわざとらしい咳払いが入る。あら、と紫は猫を撫でる手を止めてクスクスと笑いながらそっと藍の隣に立つ。
 自らの隣に立つ紫を半ば睨み付けるように見る藍ははぁ、と小さく溜息を吐いて。


「あー…その、何だ…。君のこれからの処遇の事についてだ。君は確かに人こそ襲ってはいないが、人里に迷惑をかけたのは事実だ」
「……」
「が、そこは紫様の温情で別にそこまで酷いものにする訳ではない。が、そのまま野に放置する訳もいかないので、しばらく君にはここに住んで貰う事になるが…構わないかな?」
「…はぁ」


 どう答えれば良いのかわからず、猫は曖昧な答えを返す。


「じゃ、そういう事でよろしくね?」
「あ、紫様! まだ返答は…」
「良いじゃない。もう半ば問答無用よ? なら貴方はウチの子ね。だったら名前をあげなきゃねぇ? 何か良い名前はないかしら? 藍」


 猫を抱きかかえて紫は藍に問いかける。その様子が楽しげで、まるで子供のように見えて藍は思わず溜息を吐き出す。
 しかし、と藍は紫と先ほど交わした会話を思い出し、ゆっくりとこめかみを揉みほぐしながら沸き立つような激情を堪える。


「名前。名前ですか…私はちょっと…」
「あら、そう? …んー。そうね。………橙、なんてどうかしら?」
「橙?」
「私は紫。そして貴方は藍。青に赤を混ぜれば紫でしょう? でもただ赤だったら捻りが無いから、橙色、つまりは橙、どう?」


 紫はまるで名案だ、と言わんばかりに抱きかかえた猫に問う。猫は暫し沈黙していたが、静かに、橙、と名前を呟く。
 橙、とは橙色の事。橙色と言われれば猫の脳裏に浮かぶのはあの、美しいと恋い焦がれた夕焼けの空が浮かぶ。


「…橙……橙色。夕焼けの色…。私は、その名前が好きだな」
「…そう。なら貴方の名前は橙で決まり。良い?」


 紫の問いかけに猫は、にゃあ、と一鳴き。それは肯定の返答。
 ここに名無しの迷い猫は隙間の下へと転がり込んだ。隙間に転がり込んだ猫は名前を頂いた。その名は、彼女が憧れた夕焼けの色…。


「これからしばらくよろしくね? 橙」
「にゃぁ…」







[16365] 黄昏境界線 03
Name: 道化◆5a734804 ID:d4ec8ce0
Date: 2010/02/10 21:13
 数奇なる運命を持ちし猫、妖怪の賢者と讃えられし八雲 紫に橙と名付けられたあの猫は…。


「…にゃぁ」


 寝ていた。それはもう気持ちよさそうに寝ていた。これでもかという程気持ちよさそうに寝ていた。
 その姿がどことなく我が主たる八雲 紫に似ている? と思った自分は変なのだろうか、と藍は頭を抱えていた。


「まったく…お前はいつも寝てばかりだな」


 橙が八雲邸にやってきてから数日。藍は最早見慣れたと言っても良い橙の寝姿を見つめる。
 八雲邸の橙の行動範囲は恐ろしく狭い。大抵は縁側の傍で丸くなっているのだ。居なくなったとしても大抵は紫の腕の中だ。
 動物としてそこまで行動範囲が狭くて良いものなのか、藍は疑問に思う所なのだが、この怠け猫は動く気配を見せない。
 今日もまた暖かい日差しを受けながらぬくぬくとしている。正直、少しイラッ、としてくる姿だ。


「…いかんいかん、紫様を起こしに行かねば…」


 軽く頭を振って邪な考えを押し流す。そして自分が起こすまで惰眠を貪っているのだろう紫の姿を思い出すと、怒りが二乗される。
 怠け者2人に、働き者が1人。これでは幾ら何でも割合が合わない。何が猫の手でも借りたいだ、逆に手間がかかるじゃないか、と藍は文句を心の中で呟きながら紫の下へと向かった。


「…にゃぁ」


 そして、そんな藍の背中を見送った橙は小さく鳴いた。





 + + + + +





 紫の自室の戸を二度ノックした後、彼女の名を呼ぶ藍。が、藍の予想通り紫からの返答は無い。暫く何度か藍は紫の名を呼ぶのだが返事が無い。
 はぁ、と重々しい溜息を吐き出して藍は「失礼します」と断りを入れてから戸をゆっくりと開いた。
 そこには藍の想像に違わない姿で眠りに付く紫の姿があった。規則正しい寝息を立てながら、それはもう、気持ちよさそうに寝ている。
 脳裏に浮かぶのは縁側に寝ころぶあの怠け猫。あぁ、やはり私は騙されたのだろうな、と藍は腹の底に怒りを蓄積させていく。


「紫様、紫様! 起きてください、紫様!」


 少し乱暴気味に紫の肩を掴んで起こしにかかる藍。暫く反応の無かった紫であったが、藍の揺さぶりに耐えかねたように渋々と目を開く。


「ふぁ…っ……あぁ…あふ…何よぉ…藍。せっかく気持ちよく寝てたのに…」


 目を擦りながら紫は不満そうに藍に告げる。藍のこめかみに太いこめかみが浮かんできているが、藍は気合いでそれを押さえ込む。


「紫様! シャンッとしてください! もう太陽は昇ってますよ!?」
「む~、藍、いつもより厳しいわねー。でも今日は私も徹底抗戦の構えを…」
「ゆ・か・り・さ・ま?」
「…はい、調子に乗ってすいませんでした」


 藍怖い、くすん、とか言ってる声なんて聞こえない。藍は段々と痛みが発生し始めたこめかみを押さえながら再び重々しく溜息を吐き出した。


「あら、そういえば橙は?」
「また縁側で寝ていますよ」
「また? そう…」


 紫はどうでも良さそうに呟く。藍はその紫の態度に溜めてきた不満が爆発しそうになる。
 藍は橙を式にする気は一切起きない。何もしない、ただ寝転がっているだけの猫に何が出来ようか、と思っている。
 最初の苦手意識に加え、普段の橙の態度からの不満が加わって、藍の橙に対する心象はあまりよろしくないものになっている。
 が、その不満を爆発させられないのは逆に紫が橙を好いているからだ。紫は何かと橙に構っては遊んでいる。だから藍は不用意に不満も言えないのだ。
 藍は紫の式となったその日から、紫の力になろうと志を掲げて努力してきたのだ。それも今は変わらない。その志に報いを求めている訳でもない。だが、それでも納得しきれない感情が橙への嫌悪へと変わっていく。
 だが言えないから、それは藍の腹の底でどんどんと溜まっていく。故に藍はストレスを溜めてこうも重苦しくならざるを得ない。


「とにかく、ご飯を食べましょうか」
「もう用意してありますから、早く来てくださいね」
「わかってるわよ」


 生返事を返す紫にあしらうかのように対応を済ませ、藍は重苦しい気分のまま居間へと戻っていった。
 そこには、未だ縁側で丸くなる橙の姿があった。藍の、最早何度目かわからない溜息の音が静かに消えていった。





 + + + + +





「今日はちょっと出かけてくるわ」
「何かご用でも?」
「ちょっと、ね」


 遅めの朝食を摂った紫はいつもの服を纏い、日傘を片手に藍にそう告げる。そのままスキマを開いて出て行こうとして、紫はふと足を止めて。


「藍、そういえば貴方、橙を貴方の式にするかどうか考えてくれたかしら?」
「……」
「…その顔だと、あまり好ましく無さそうね」
「…あれで是非、と言えますか?」


 藍の脳裏には怠けきった橙の姿が浮かぶ。式としてあの猫が役に立つのか? と考えて藍はそれを肯定する事は出来ない。
 が、そんな藍の返答に紫は呆れたように、はぁ、と溜息を吐いて。


「…まだまだねぇ、藍も」
「…何がですか?」
「上辺だけ見ては本質は掴めないものよ? 貴方、少し変ぐらいには思っているでしょう? あの子が滅多に動かない事を」
「…それは、まぁ」
「では、あの子は何故動かないのかしらね? ただの怠け者かしら? あの橙という化け猫は」


 紫は最後にそれだけ言い残すと、藍の返答も待たないままスキマの中へと消えていった。
 藍は思わず、あ、と声を漏らしてその姿を見送った。残された藍の脳裏には紫の言葉が浮かびは消え、浮かんでは消えを繰り返し始めていた。
 だから藍は考える。確かに、橙の行動範囲の狭さには疑問を覚えていた。だが、何故そこまで怠けているのか、その理由を深く考えた事はあっただろうか?
 無い。こう言っては何だが、藍は橙という存在が気に入らないのだ。だから橙の事などあまり考えないようにしていたとしてもあまりおかしくはないのだ。
 好意の反対は嫌悪ではない。好意の反対は無関心なのだ。だからこそ藍は橙に対して無関心であった。
 その理由も深くに考えずに、ただ橙の事を蔑ろにしていた。改めてそれに気付かされた藍は思わず眉を顰めて前髪をかき混ぜるように撫でた。


「…上辺だけでは掴めない、か」


 改めて藍は考える。どうして自分は橙の事がこんなにも気に入らないのだろうか? 物事には発端となるべき理由がある筈なのだ。ならば、自分はどうして橙の事を鬱陶しく思っているのか?
 藍は思考を続けたまま、ゆっくりと縁側の方へと歩を向けた。縁側には相変わらず橙がそこにいた。
 橙の視線は空へと向けられ、流れゆく雲を眺めているようでであった。やはり彼女はその周辺から動いてはいない。


「…何を見ているんだ?」


 問いかけは硬い声になった。橙は尻尾をビクッ、と震わせて空に向けていた視線を藍へと向けた。
 暫し、橙は藍を見つめていたが、その視線を再び空へと戻して。


「雲」
「…楽しいか?」
「…いや、あんまり」


 楽しくない、という橙はそれでも空を見上げ続ける。まるでそれしか知らないと言うかのように、ただ橙は空を見上げる。
 藍は引き寄せられるかのように橙の隣の方へと歩み寄っていく。足を下ろして縁側に座り、橙と同じように空を見上げた。


「……」
「……」


 互いに無言の時間が過ぎていく。空を流れていく雲を眺めるだけの時間。それは何にも益にならないであろう時間。


「…お前は、楽しいか?」


 ふと、藍が問いかけを零した。それは小さな声であったが、傍にいる橙には確かに届いたようで。


「…楽しまなきゃいけないのか?」


 だが藍はその切り返しに驚くしか無かった。思わず視線を空から橙へと移す。そこにはただ空を見上げている橙がいるだけである。


「……いけないのか、って…それで良いのか?」
「…わからない。だけど、少なくとも邪魔はしない」


 邪魔はしない。橙のその言葉に藍は思う。思わざるを得なかった。確かに橙は邪魔などしていない。藍の仕事を邪魔した訳ではない。
 だが、それだけだ。だからといって橙は何もしてないのだ。何かしてしまえば、それが邪魔になってしまうかもしれないと。
 実際、橙はわからなかったのだろう。何をしても良いのか、何をしてはいけないのか。
 生まれて、育って、自然と理解する自分自身の在り方。自己の確立。
 だが…橙にはその根元となるものが、基盤となるものが歪な形で形成されてしまったのだ。
 自分が人なのか、それとも猫なのか、その全ても曖昧な存在。それは完成されぬ存在。
 紫は言った。橙は完成されぬ妖怪だと。その通りなのだ。橙には判断となる基準すらも曖昧なのだから。
 ただ、生きる為に必死になってきた。それが悪行だとわかっていても死にたくは無かった。だが今は違う。紫がいて、そして、藍がいる。
 自分に何が出来るのかわからない。わからなくなってしまった。
 何もわからない、というのはある種、闇のようなものだ。闇の中、橙はどこへをも歩けないのだ。踏み出したその先に何があるのかわからないのだから。


「私は…2人に感謝してる。だから、2人の手間はかけたくないから」


 橙の言葉に、藍は…思わず愕然としていた。
 あぁ、と藍は心の中で呟く。顔を覆うように片手を添えて口の端を吊り上げる。


(…本当に紫様の言う通りだ。私は、何にもわかってはいなかった)


 わからない。わかる筈も無い。わかろうともしなかった。
 橙は考えていたのだろう。だけど、それは橙に導き出せる答えかと問われれば難しい。
 基盤となる判断基準を持たないこの猫が選び取れる選択肢は一体どれだけあった事だろうか?
 そして橙が選んだのは、邪魔をしない事。決して邪魔にはならないように変わらない日常を過ごせていけるように自分の存在を限りなく薄くした。


「…お前は、それで良いのか?」
「…良いも何も…私が生きているのは、2人のお陰だから」


 あぁ、そういえば、と橙は呟きを入れて。


「貴方にはお礼を言ってなかった。―――ありがとう、私を助けてくれて」



 ―――…あぁ。



「…橙」


 彼女の名を呼ぶ。夕焼けの、黄昏の色の名を持つ彼女の名を呼ぶ。
 彼女の瞳はこちらを見上げた。その瞳をまた、藍もまた見返す。見つめ合う2人。
 が、見つめ合う時間もまた一瞬。藍はそっと手を伸ばす。橙へと、その手を。


「おいで」
「……」


 橙は藍の言葉に一瞬戸惑うものの、ゆっくりと誘われるままに藍の手の方へと寄っていく。藍は寄ってきた橙を優しく抱き抱え、そっと自分の膝へと乗せた。
 優しく、まるで壊れ物を扱うかのように藍は橙を撫でていく。慈しむように、労るように。



 ―――…どうして気付いてやろうとしなかった。



「ありがとうな。橙。…ごめんな、橙」
「……え…?」
「私は、頭が固いからな。こうだ、と決めたらこうとしか出来ない。なかなか考えが変えられない頑固者だ。だからお前の事、ちゃんと見てやれなかった」


 橙の背を撫で続けながら藍は続けていく。橙はただ、驚いたように藍を見上げる。


「どれだけお前が不安で、どれだけお前が孤独を感じていたのか、私には想像も付かないよ。だけど…それだけ辛かったんじゃないか?」
「……わからない」
「…それは、きっと悲しい事だよ。橙。それは…悲しい」


 そう告げながら藍は橙を優しく抱き上げた。手の中に収まるぬくもりに藍は思いを巡らせる。


「それを悲しいと思えない事は、とても悲しい事だよ」
「……」
「そして、私も酷いな。お前をしっかりと見ようとしていればもっと早くに気付いてやれたのにな」


 ふと、藍の脳裏に先日の紫の言葉が蘇った。




『私は藍がいてくれて助かってるわ。これは心の底から偽り無く言える事。その喜びを貴方に味わって貰いたいと思うのは傲慢かしら? それとも、私が信じられない?』




 紫は…自分を式神としてくれた。その時、紫は一体どのような思いで自分を見ていたのだろうか? と藍は考える。
 紫は何を思って藍を式神としたのか。それは紫にしかわからないだろう。だが、今の藍に1つ、わかる事がある。
 それは…紫にとって自分という存在は幸いであったという事。
 傍にいて、助け合って生きて、幸福だと思えて、互いに今こうして傍にいる。
 紫は何を思って橙を引き取ったのだろうか? 何を思い、自らの式にするように促しているのだろうか?
 それは藍の考えを改めさせる為? 後の藍の手助けとして? 色々と想像は付くが、どれとも言えないし、どれも違うとも言えない。
 だが、それでも1つだけ言える事がある。それはきっと、紫は思っていたのだろう。藍にとって橙の存在は幸いであってくれるという事を。
 現に藍は橙によって気付けなかった事に気付く事が出来た。それを口にするは易し、しかしそれを理解するのにはなかなか困難なものだ。
 その言葉や、その行動の裏にどんな思いがあるのか、それを察してあげる事がとても大切な事だと藍は知った。それを教えてくれたのはこの橙だ。
 きっと彼女は自分に何かを教えてくれるのではないか、と藍は思う。


「式神、か…」


 そっと、腕に抱く橙へと視線を向ける。


「なぁ…橙? 良ければ、良ければの話なんだがな?」
「…何?」
「私の式神にならないか?」
「式神…?」
「私と同じだ。私は紫様の手助けをする為に紫様の式神としてここにいる」
「…私に…藍の手助け」


 藍の提案に橙が漏らした声は不安の声であった。藍の提案は橙にとって光明であった。
 だが、足が竦む。自分に出来るのであろうか、と自身への自信のなさが橙を竦ませる。


「わからない事があれば私が教えてやる。私もそうして今、ここにいる」
「……」
「紫様がな? 言っていたんだ。私に。藍がいてくれて助かってる、って。そして、私にも同じ喜びを感じて欲しい、と言っていたんだ。
 …橙、私はな、紫様の感じた喜びを感じてみたい。紫様が私をどのように思っているのか、今、少し知りたいと思ったんだ」


 それとな、と藍は呟き。


「お前にも、私の幸せを味わって欲しいと思ったんだ」
「…私に?」
「あぁ。…これは、同情なのかもしれない。橙が可哀想で見てられないんだ。橙は…嫌か?」


 藍は問いかける。橙は藍の腕の中に抱かれながらその身を震わせた。


「…嫌…じゃない」
「……」
「嫌じゃないよ…嬉しいよ。嬉しいよ…っ」


 生きたかった。ただ、死ぬのが怖くて、逃げるように、生きて、生き足掻いて。
 今、死の気配は薄くて、怯える必要も無くなって、ホッとして。
 それだけで十分だと思えた。ただ生きている、それを感じられるだけで十分だと思えた。
 だけど、なのに、こうして必要とされている。幸せになって良いと言ってくれた。
 幸せ。記憶を辿る。それは暖かくて、充実していて、楽しくて、そればかりではないけれど、それでも、楽しくて。
 生きようと必死になっていた時に思いだした事もあった。憧れた事もあった。それがまた、感じられるのなら。





「私、藍の式になりたい…」





 + + + +





「―――よし、これで良いわよ」


 紫が満足げに彼女の肩を叩いた。その紫の顔には満面の笑みが浮かんでいる。
 その紫の隣には藍が立っている。藍の顔にも微笑ましそうな笑みが浮かんでいる。
 更に、藍の隣には鏡がおいてあった。そこには彼女の肩に手をそっと添えている姿が映る。
 少女は鏡を見つめる。そこには「新しい自分」の姿が映っている。
 短く切りそろえた黒がかった茶髪。その髪の間から生える黒猫の耳。頭には緑色の帽子。
纏う服は赤色のワンピース。背に覗くのは二股の尻尾。


「ふふ、なかなか可愛いじゃない? ねぇ、橙」
「……これが…私…」


 そっと少女―橙―は鏡に手を伸ばした。伸ばされた手は鏡に触れ、鏡越しに自らと手を合わせる。
 それが自分の今の姿なのだと理解する。最初は呆然と、だが次第にゆっくりと噛み締めるように橙は笑みを浮かべた。


「ありがとう…じゃない、ありがとうございます、藍様、紫様」
「あら? 私は特に何もしてないわよ?」
「服を用意してあげたじゃないですか」
「それでもこの身体を用意して上げたのは藍よ?」


 互いに楽しそうに笑みを浮かべ合いながら藍と紫は言葉を交わす。その2人の様子に橙もまた、本当に嬉しそうな顔を浮かべて。


「どっちもどっち、ですよ。藍様、紫様!!」


 彼女は笑う。彼女達は笑う。空から降り注ぐ陽光の、暖かいその下で。
 風が踊る。踊る風は木々を、水面を揺らし奏で行く。
 まるでそれは、世界が祝うかのように。
 自らを生みだしてくれた存在の幸いを感じ取り、祝福を送るかのように…。







[16365] 黄昏境界線 04
Name: 道化◆5a734804 ID:d4ec8ce0
Date: 2010/02/10 21:13
 八雲邸は幻想郷の北端に位置している。この屋敷は幻想郷と現世とを隔てている結界の境目でもある。
 さて、そんな八雲邸の庭では橙と藍がいた。橙と藍は互いに向かい合うように睨み合っている。
 睨み合っている、と言っても藍は涼しい顔で、橙は逆にとても苦しげな表情を浮かべている。
 この空間には2人の妖気が放出されているのだ。それが押し比べをするかのようにぶつかり合っているのだが、圧倒的に橙の妖気が押され負けている。
 これは妖気の放出を行う事によって自分の力の限界点を知るのと同時に、その限界点の底上げを行うものなのだが、橙は藍相手では手加減された状態でも30秒も持たない。
 正直言えば、妖精よりはマシではあるが、それ以上には及ばないのが現時点での橙の実力だ。


「…よし、今日はここまで」
「…っ、はぁ…っ…は、ぁ…っ」


 藍が妖気の放出を止めるのと同時に、橙は腰を折り曲げ、膝に手をついて息を正そうとする。余程苦しいのか、その瞳はギュッ、と閉じられている。
 藍は橙が落ち着くまで暫く放置する。酷い時には手を貸すが、余程でない限りは手を出すべきではないとの藍の方針だ。
 橙が落ち着いてくれば、橙の修行は一度中断され、藍と橙は家事を行うのだ。


「それでは橙、頼むぞ」
「はい! 任せてください!」


 エプロンをつけた橙が元気よく手を挙げて、洗濯籠を持っている藍に告げる。藍はそれに笑みを浮かべて庭へと出て洗濯物を片付け始める。
 基本的に藍が洗濯物を片付けている最中に、橙が料理をしているのが現在の図だ。
 何故それぞれの担当がこうなったのか。橙は人であった記憶があり、存在も妖怪と半々な存在である。その為、橙は料理が出来たのだ。それ故、橙が好んで料理をする事が多くなったのだ。
 他の理由を上げるとすれば、それは橙の背の低さが関わっている。橙の背では洗濯物をかける竿に届かないという事も上げられるであろう。その事に対して橙が若干の不満を零したものの、橙の姿は橙の精神年齢に合わせられたものだと説明され、渋々と納得していた。


「~~♪」


 橙は手慣れた手つきで料理を作っている。藍は洗濯物を片付け、橙の手伝いに回る。
 メインは橙が、盛りつけなどは主に藍だ。橙の料理の腕前は別に一級品というわけではないが、それでも十分おいしいと言えるものだ。
 人であった頃、料理が趣味だったのではないか、と推測されるものの、橙の記憶は大分劣化を始めていて、主に覚えているのは強烈な印象のある記憶だけで、後は漠然的にしか覚えていない。
 都合良く知識だけが残っている事から、恐らく死のトラウマという強烈な印象が死に至るまでの過程、つまりは人としての一生を思い出させないようにしたのではないかと紫は推測している。
 故に知識はトラウマに触れない限り思い出せるのではないか、と紫は判断した。断言しないのは紫とて、始めて見る事例なのだ。推測こそ幾らでも沸くが、判断は付けにくい。
 半妖ではないが、妖怪の身体に人の魂と思われる痕跡が色濃く残る魂を持つ者。そんな歪な存在が橙だ。中と外がちぐはぐで出来ていると言っても良い。
 だが藍にとってそんな事は関係無かった。橙と過ごすようになってから時の流れも早く流れた。
 今では橙がいる日常に藍は馴れを感じつつあった。それを喜ばしく思っている。確かに紫の言うとおり、藍の仕事は橙が入ってくれた事によって楽になった。
 幻想郷を包む結界に関する仕事は流石に橙には関わらせる事は出来ないが、それでも紫の世話や家事などは橙に任せても問題無い程になってきた。
 その後、2人で食事を摂る。時には紫も入って3人で食事を摂る事が多いが、紫は大抵寝ているので藍と橙の2人で摂る事の方が多い。
 食事を取り終えれば藍は結界の巡回に出る。これがいつもの日課だ。


「藍様、はい、お弁当」
「ん? あぁ、いつもありがとう。橙」
「良いんですよ。私は藍様の式ですから」


 ニッコリと笑みを浮かべて藍に風呂敷を手渡す橙。そこには橙の作った弁当が入っている。結界の巡回の合間に橙の弁当を食べる。いつもは自分で作ったり人里で食べたりしていたのだが、こうして作って貰えるのは暖かみがある。
 思わず藍は橙の頭を撫でる。これは最早、癖のようになっている。橙は嫌がらないので藍は気が済むまで橙の頭を撫で回す。
 満足すれば藍は結界の巡回に出かけ、橙はそれを見送った後、家の掃除を行う。
 昼頃になる頃には家の掃除も大抵終わり、その時間頃には紫も起きてきて、橙にとっては早めの昼食、紫にとっては遅めの昼食となる。


「んー、橙の料理はおいしいわねぇ」
「そうですか? 私は藍様が作った方が好きですけど」
「藍もおいしいのだけどねぇ、でも橙のもおいしいのよ。甲乙付けがたいわ」


 穏やかな日差しが差し込む居間で摂る2人の食事。ふと、橙は空を見上げる。その胸には外へと出かけていった藍の事が過ぎる。
 橙はこの八雲邸に来てから外には出ていない。橙は妖怪として不完全で、その能力もかなり弱い。そのため、彼女は基本的に八雲邸から離れる事はない。
 だが、橙の胸には外に出たい、という思いがあった。その理由は―――。





 + + + + +





 幻想郷の上空を藍は飛ぶ。幻想郷の端から端を確かめるように巡回するのが藍の日課だ。
 綻びがあればそれを修復して、自分に手に負えないならば紫に頼んで処置をして貰う。
 幻想郷は広い。もうすぐ昼頃になる頃か、と思い、藍は適当な場所へと腰を下ろした。


「さて、食べるか」


 弁当箱に入れられているのは、朝食とほとんど同じものだが、冷めても美味しいように作られているのは流石か。
 これは遅くに起きてくる紫への配慮もあるのだが、人間としての橙は母親か何かしていたのだろうか、と思わず推測してしまう。
 結局答えの無い問題は弁当の味によって隅に追いやられる事となる。藍の九本の狐尾は上機嫌に揺れて。


「あら、藍じゃない」


 ぱく、と橙の作った弁当に舌鼓を打っていると上空から何者かの声が聞こえた。藍にとってはその声は聞き覚えのある者の声だった。
 背に広げた翼は漆黒。翼と同じ漆黒の髪に帽子、シャツにスカートに下駄とどこかちぐはぐな格好。


「む? 文か。……またたかりに来たのか?」
「毎回たかってるみたいな言い方しないでよ。…たかってるけど」
「帰れ駄鴉」
「ケチンボ狐」


 文、と呼ばれたこの者の正体は妖怪の山に住まう天狗の一人である。1000年前から存在していて、藍とは旧知のような間柄に当たる。
 その関係は腐れ縁、と言うべきか、天狗のトップである天魔と紫が交流があった事からこの2人は幼い時に出会い、今の関係を築いたのだ。
 文は藍の隣に降りてくると、明らかに物欲しそうな顔で藍の弁当を見ている。藍は明らかに鬱陶しそうな表情で文を睨み付けて。


「帰れと言っているだろう。聞こえなかったのか駄鴉」
「だが断らせて貰う。私もその弁当食べたいんだけど」
「帰れ、と言っているのが聞こえないのか。そうかそうか。遂にお前も年齢によるボケが来たか。嘆かわしい」
「貴方こそ、年齢を積み重ねてどんどん性悪になって来てるんじゃないの? おかずの1つや2つぐらい良いじゃない」
「やかましい。橙の弁当は私のものだ。全部私が食べる」


 ぱくぱくとさっさと食事を済ませてしまおうと藍は早口に橙から貰った弁当を食べてしまう。
 文からあーっ! と抗議の声が上がるも藍は無視。そのまま弁当を食べ終わり、蓋をして手早く包んでしまう。


「もうっ、何よ。おかずぐらい良いじゃない…」
「うるさい」
「まったく。貴方に式が出来たと聞いた時の表情を見て思ったけど、貴方のそれ、絶対親馬鹿のソレよね。予想通りというか何というか…」


 呆れたように藍の隣に腰を下ろし、空を見つめながら文は言う。それに鬱陶しそうな表情を浮かべる藍だが、特に拒む事は無い。


「親馬鹿、か。私もあそこまであの子が可愛く見えるとは思ってなかったよ。最初に出会った時はね」
「人里の魚ドロボウ、でしょう? よくやるわ。この時勢に、ね」


 文の呟きに藍もまた頷く。
 今、幻想郷はある問題を抱えている。それは幻想郷に住まう妖怪達の気力が段々と低下し始めているという事だ。
 それは元々、妖怪の楽園として生まれた幻想郷の本末転倒を示している。妖怪の力が弱体化が進めば、それはまた幻想郷も現世と同じ道を辿りかねない。
 故に、現在妖怪と人間の関係もまた微妙な緊張状態になっているとも言える。まだ大事にはなってはいないが、妖怪の弱体化は人里でも密かに噂となっているらしい。
 その中で橙が起こした騒ぎというのは色々と不味いものであった。妖怪の力が弱まったと噂が広がれば、人里で妖怪に対する何らかの動きが出てもおかしくはない。
 今はまだ妖怪の力も低下しているとはいえ、人でどうにか出来る程まで低下もしていない為、緊張が続いているが、それがいつ破れるのかわからない。


「…昔は良かったわ」
「…文」
「…まっ、そんな事言ってもどうしようも無いんだけど、ね」


 藍にそう告げると、文は行くわ、と一言だけ残して翼を広げて空に舞った。
 その背を見送りながら藍は思う。文は1000年もの間、この幻想郷で育ってきた。その幻想郷が変わりゆくその姿に彼女は何を見ているのだろうか、と。
 天狗は良く新聞を書いている。文もその一人だ。清く正しい、それが彼女の新聞の売り文句だ。
 清く正しく、それは今ある姿を残そうとする彼女なりの抵抗なのかもしれない、と藍は思って苦笑する。


「あの馬鹿がそんな事考えているものか」


 だが、そうなのかもしれない、と思ったのもまた自分だ。長い間付き合ってきた相手だ。そこいらの相手よりは彼女の事を知っているつもりだ。
 もしかしたらそうなのかもしれない。が、なんとなくそう考えているのだろうな、と相手を美化するのを藍は納得出来なかっただけだ。
 紫が見れば微笑ましそうに藍を見るだろうが、ここには誰もいない。


「…さて、そろそろ行くか」


 結界の巡回はまだ終わっていないのだから。
 ふと、藍は思う。先ほど、文の新聞が流れゆく歴史への抵抗だとするならば、私の巡回もまた抵抗なのだろうか、と。
 どうでも良いか、と藍はその思考を切って捨て、文が去っていた空とは別方向に空を舞った。





 + + + + +





「いつも贔屓して貰って悪いねぇ、藍さん」
「何、ただ単に魚が好きなだけさ」
「油揚げよりもかい?」
「からかわないでくれ」


 結界の巡回が終えた後、藍は魚屋へと寄っていた。その魚屋はもちろん橙が盗みを働いていたあの魚屋だ。
 橙は実際口にした事は無いが、あの魚屋に対して申し訳なさを感じているのか、良く魚を藍に買ってきてくるように頼んでいるのだ。
 橙の内心を察している藍も橙の心意気を組み、こうして結界の巡回が終わった後に魚屋に寄っている。


「売り上げはどうだ?」
「ぼちぼちですさ。まぁ…あの猫がいなくなってから被害にあった赤字の分も無くなりましたさ。本当、ありがとうござました」
「…いや、別に良いさ」


 藍は少し複雑な気分で魚屋の主人のお礼を受け取った。橙のやった事は確かに許される事ではないだろうが、それでも心境は複雑なものだ。
 そうして藍が複雑な心境のまま魚屋を後にして、溜息を吐き出す。橙は確かに悪い事をした。そしてそれを償う為、少しでも魚を買おうと藍に頼んでいる。
 だが本当に橙がしたいのはそんな間接的な謝罪の仕方ではなく、直接謝りに行きたいのだろう、と。だがそれは今のご時世、許されない事だ。


「…ままならないな」


 小さく藍は呟きながら自宅への道を急ぐ。
 段々と小さな光が目に入り、その光は大きくなっていく。それは自宅に灯る明かりだ。
 段々と見えてくる我が家。その入り口にはいつものように橙が藍の帰りを待っていた。


「お帰りなさい! 藍様!」
「あぁ、ただいま、橙。魚を買ってきたよ」
「はい。…いつもありがとうございます」
「良いさ。橙が食べたいならな」


 いつものように優しく橙の頭を撫でてやる。帽子を被っているので軽く叩くように撫で、藍は家の中へと向かう。
 橙も藍から受け取った魚を手に家の中へと入り、そのまま真っ直ぐキッチンへと向かっていく。
 その背を見送りながら藍は居間へと向かう。そこには紫がのんびりと寛いでいた。


「ただいま帰りました。紫様」
「お帰りなさい。藍」


 挨拶を済ませ、藍は紫と向かい合うように座る。


「結界の方は問題はありませんでした」
「そう。まぁ、そうそう揺らいで貰っても困るのだけどね。ご苦労様」
「いえ」
「…あぁそうそう。橙も大分飛行の方になれて来たみたいよ」
「そうなのですか?」
「えぇ」


 話は報告から、段々と藍が居なかった間の話へと変わっていく。その話をする時の2人の表情はとても穏やかなものだ。
 暫く取り留めのない話を続けていると、橙がお盆を抱えて居間へと入ってきた。そこには今日の夕食が乗せられていて。


「あぁ、橙。私も手伝おう」
「あ、すいません、藍様。私まだあるんで取ってきますね」


 そう言って藍に食事の乗せたお盆を預けてパタパタと奧の方へと駆けていく橙の姿を微笑ましそうに藍と紫は見守る。
 どちらかともなく、くすくすと笑い出して、優しい笑顔を浮かべる。


「本当、可愛らしい子だこと」
「そうですね」


 本当に、と藍は思いながらお盆を抱えて戻ってきた橙の顔を見て思う。
 どうか一生懸命頑張るこの子の未来が報われて欲しいと。


「…? 何か私の顔についてますか? 藍様?」
「…いや。別に何もついてないよ。橙」


 自然と手は橙の頭へと。頭を撫でるのが癖になっているな、と藍は苦笑を浮かべながら橙の頭を撫でるのであった。





[16365] 黄昏境界線 05
Name: 道化◆5a734804 ID:d4ec8ce0
Date: 2011/01/29 22:12
「橙、今日は出かけるわよ」


 紫が朝食を終えるのと同時に橙に告げたのはその一言であった。
 藍はいつものように結界の見回りに向かい、紫が昼頃になってきて遅めの朝食を終えた頃、紫は橙にそう声をかけた。
 食器を片付けようとしていた橙は目を軽く見開かせた後、何度か瞬きをして紫を見る。


「お出かけ、ですか?」
「えぇ。私の友人の所へね」
「私が付いて行って良いんですか?」
「貴方を連れて行くのが目的なのよ? 食器を片付けたら準備をして行くわよ」


 トントン拍子で話が進み、橙はやや困惑した様子を見せる。今まで八雲邸から出る事が無かったのだからそれは当然と言えよう。
 だが、だからこそ橙は困惑と同時に気分の高揚を感じていた。八雲邸に来てから、つまり式になってから初めての外出という事になる。


「紫様、どこに行くんですか?」


 楽しみで仕様がない、と言わんばかりの橙の様子に紫は楽しげに笑みを浮かべて。


「冥界よ」





 + + + + +






「…あー…橙。そんなにくっつかれると飛びにくいのだけど…」


 空を行く紫は苦笑を浮かべて自分の胸元にしがみついている橙に言う。だが、橙は紫の胸に顔を押しつけてガクガクと震えていた。
 少し悪戯が過ぎたか、と紫は苦笑を深める。冥界、という言葉から連想されるのは死後の世界だ。実際それは間違っていない。
 が、死に対してトラウマを持っている橙にとっては楽しみであった筈の外出が逃げ出したくなってしまうものに変わってしまうのは仕様がない。紫もわかっていた事だったが、ここまで酷いとは思わなかった。


「大丈夫よ。私の友人はおっかなくないから」
「…でも死んでるんですよね?」
「んー…生霊? 多分」
「でも幽霊だーっ!」


 ガクガクが、ガクガクブルブルに変わり、自分の胸を揺らすの止めて欲しいなぁ、と紫は少し顔を赤らめて思う。
 が、震える橙が可愛いのでこのまま放置しようか、と思う紫も外道である。実際、スキマで移動すれば橙も少しはマシになるとわかっていても飛行で移動しているのだから。
 そんな紫が橙の中で「虐めッ子」に紫が類義語に変換されつつあるのはある意味仕様がない。
 そんなやり取りを2、3繰り返す頃には紫と橙は目的地へとたどり着いていた。
 そこは長い、とてつもない階段の先にある屋敷であった。
 その屋敷の名は白玉楼。


「到着、と」
「……」
「…橙、そろそろ離れなさい?」
「……」


 地へと降り立つが、橙は紫に抱きついたまま離れようとしない。紫は苦笑したままもう一度橙に告げる。
 すると橙は渋々や、嫌々や、とにかく拒絶の雰囲気を醸し出しながら紫から離れ、二股の尻尾と耳をぴんと立てさせ、周囲を警戒し始める。
 そこまで怯える事は無いだろうに、と思う紫だが、まぁ仕様がない、と諦めて奧へと進もうとした時だ。


「あれ? 紫様ですか?」
「あら、妖夢じゃない」
「珍しいですね、スキマからじゃなくて正面からいらっしゃるのは」


 進もうとした紫の足を止めたのは一人の少女であった。
 銀髪の小柄な少女。妖夢、と呼ばれたこの少女はこの白玉楼にて庭師を務める魂魄 妖夢と言う少女で、紫とも以前から面識があった。
 慣れたように紫へと挨拶をする妖夢であったが、ふと、紫の隣にいた橙に視線を向けて。


「……」
「…あの、それでこの子は?」
「…お化けーっ!!」


 ニャーッ!! と悲鳴を上げて思いっきり後退り、全力で物陰に隠れる橙。彼女の視線には妖夢に連れ添うかのように浮かぶ魂魄が映っている。
 魂魄 妖夢は外見は普通の人間であるが、純粋な人間ではない。半人半霊という人間と幽霊のハーフと言うべき存在だ。
 そんな彼女は、自らの半身である魂魄に思いっきり怯えられて軽いショックを受けていた。ご愁傷様、と紫は思わず苦笑を浮かべて。


「ごめんなさいね、妖夢。あの子、臆病だから」
「はぁ……まさか、あの子が藍様の…?」
「そ。私から見れば式の式、と言った所ね」
「あの子が、ですか…」


 ちらり、と妖夢は再び橙の方へと視線を向ける。妖夢と視線が合った事によってまた身を隠す橙。
 だが、尻尾が隠れて居らず、ユラユラと揺れる尻尾はブルブルと震えていた。妖夢はそんな橙の姿に思わず表情を苦笑に変えて。


「……なんというか…その…藍様の式にしては…その」
「あら、可愛い子よ?」


 はぁ、と紫の言葉を受けて妖夢は曖昧な返答を返す。あれで良いのかなぁ、と思っているのが丸わかりだが、紫はさして気にしない。


「あの子は色々と面白いのよ。まだまだこれからよ」
「…そう、ですか。所で今日はどのようなご用件で?」
「幽々子に会いに来たわ。用件は…あの子の紹介と、この前の件、ね」


 最初は穏やかな空気を醸し出していた紫だったが、後半の件、という部分は目を細め、気を張り詰めさせて答えた。
 一瞬張り詰めた空気に妖夢は息を呑むが、すぐに平静を取り戻して紫を見つめる。が、汗が一筋零れているのは隠せない。


「…先に幽々子と面倒な話を片付けて来るわ。その間、あの子の事をお願いね。妖夢」
「…あの、凄い怯えられてるんですけど?」
「大丈夫よ。橙~? このお姉ちゃんは怖くないわよー?」


 紫の声に橙は再び半身になって妖夢をじーっ、と見つめる。その視線に妖夢は居心地悪そうに身を捩る。
 一歩、一歩と警戒するように紫の背に近づく橙。紫の背に辿り着けば、紫を盾にするように自分を隠し、再びじーっ、と妖夢を見つめる。
 妖夢の動揺が伝わったのか、半身である魂魄もオロオロとその場を困惑したように浮遊し始める。


「ほらね。何もしてこないのよ? だから怖くないでしょ?」


 紫はオロオロと飛び回る妖夢の魂魄を指さしながら言う。橙は上目遣いでうーっ、と唸りながら魂魄を睨み付ける。
 暫しそのまま膠着状態が続いていたが、橙がゆっくりと妖夢の下へと近づいていき、至近距離から妖夢の顔をのぞき込むように顔を近づける。
 あまりの近距離に妖夢は思わず後退り、じーっ、と橙の視線が妖夢の顔に向けられて。


「…怖くないです」
「そう。だったら少しこのお姉ちゃんと一緒にいてね? 私、少し大事な話をしてくるから」


 微笑まし気に橙の頭を撫でながら紫はそう言い残し、妖夢に軽く掌を振ってから屋敷の奧を目指し歩き始めた。
 橙はやや不安げに、妖夢はやや困惑気に奧へと消えていく紫の背を見送る。
 少しすれば紫の後ろ姿も見えなくなり、橙と妖夢は気まずそうに顔を見合わせた。


「…あー…その、まずは自己紹介から始めようか。私は妖夢。魂魄 妖夢。この白玉楼で庭師と剣術指南をさせて貰っている」
「あ、その、えと、私は橙です。八雲 藍様の式神です、その、よろしく、です」


 まるでどこぞのお見合いのような挨拶。これが妖夢と橙の最初の邂逅であった…。





 + + + + +





 白玉楼の中庭、そこは見事な枯山水がある。見慣れたその光景に横目をやりながら紫は縁側へと腰掛ける女性へと声をかけた。


「こんにちは。幽々子」
「こんにちは。紫」


 おっとり、とした空気を放つ女性だ。桃色がかった神に穏やかそうな顔つき。ほんわかした様子で紫に幽々子と呼ばれた女性は挨拶を返す。
 この女性が白玉楼の主にして、亡霊姫と呼ばれ、冥界の管理者をも務めている西行寺 幽々子である。
 紫とは生前からの付き合いで、2人は正に「親友」という関係がしっくり来る間柄である。
 紫はそのまま歩を進めて幽々子の隣に腰掛けるように座って。


「…早速だけど、どうだった?」
「例の件ね? 結果は…私にもわからなかったわ」


 ほんわかと穏やかな空気を醸し出していた幽々子だが、少し顔を引き締めて紫へと視線を送りながら答えた。
 紫はその返答に予め予想していたかのように頷いた。同意を求めるかのように幽々子の顔をのぞき込むように見て。


「じゃあ…」
「橙、だっけ? その子に色濃く残る魂の記憶、紫から聞いたその記憶から該当する幽霊は探したけど、まったく掠りもしなかったわ」
「…そう」
「色々と手は打ったんだけどね。まるで情報は無し」


 そう、ともう一言だけ紫は呟き、扇子で口元を隠しながらそっと溜息を吐いた。
 紫が幽々子に頼んでいたのは橙の魂の事に関してだ。橙の魂が死後、あの猫の身体に入ったのだとすると正規の手続きを踏んだ転生ではない可能性があったからだ。
 輪廻転生、生まれ、死に、そしてまた生まれ、死を繰り返す輪の中で外れた魂。紫は橙の魂の仮説の1つにそう考えていた。
 だが、橙の元となる魂の所在は幽々子ですら知る事が出来なかった。それが何を意味するのか。


「…あり得るのかしら。橙という存在は」
「前例はないもの、ね。本当に夢で、誤解しているだけなのだとすると、魂に人の気配があるのはおかしい…」
「世界は広い、か。私達でもまだ計り知れないものばかりね」


 幻想郷の管理者を務める紫。冥界の管理者を務める幽々子。だが、2人を以てしても橙の状態は理解が追い付かないのだ。


「…問題は、あの子の死後よね」
「…えぇ。今の所、その子はこの世界の輪廻から外れてるとしか思えないわ」


 輪廻から外れる。それが意味するのは、彼女の死後、この世界に彼女の居場所は無いかもしれないというものだ。
 もしも、借りにもしも、だ。橙が紫達が計り知れない何かによって生まれたのであれば、橙はその法則に囚われてもおかしくはない。
 もし、そうなのだとして、それが橙にどのような影響を与えるかなど想像も付かない。
 そして何も起きないのだとしても、果たしてこの世界は、この幻想郷は彼女を受け入れてくれるのだろうか?


「…全てを受け入れる。だけど…橙は受け入れて貰えるのかしらね」
「それは閻魔様次第じゃないかしら。少なくとも、私達がどうこう出来る問題では無いような気がするわ」


 この世の理の中においてなら、紫も幽々子も他から隔絶した力を持つ。
 だが、それが如何なる時にでも通用するか、と言われたらそうでもない。紫や幽々子が想像だにしない事態も想像出来る。
 それが橙によって改めて思い知らされた。例えどれだけの力を持とうとも、決して不可能という言葉からは逃れられないのだと。


「ねぇ、紫?」
「何?」
「時間はまだあるわ。これからもまだまだ。だから、そんなに思いこまなくても良いんじゃないかしら? 結局私達には計り知れない事。その時になって見なければ何もわからないのではないかしら?」


 くす、と穏やかな笑みを浮かべて幽々子は言う。紫は幽々子に視線を向け、小さく口元に笑みを浮かべた。


「お気遣い有り難く頂戴しておくわ」
「どういたしまして」


 クスクス、と互いに楽しそうに笑い合う2人。その光景は見ていて思わず微笑ましくなってしまいそうな光景だ。
 そう、と紫は心の中で呟く。まだ始まったばかりなのだ。橙との時間は。
 確かに不安はある。だが、その不安が訪れるのはどれだけ先の未来の事なのだろうか。
 ならば悩んでいても仕様がない。楽しまなければ、それこそ損だと。


「…さて、と。堅苦しい話はここまでにしましょう? 私は早く橙って子に会いたいのだけど?」


 いつものような穏やかな笑みを浮かべたまま幽々子が紫を誘う。紫もまた不敵に笑みを浮かべて。


「ふふ、思わず可愛くて惚れ込むわよ?」
「それは楽しみ―――」


 楽しみね、と続けようとした幽々子の口が止まる。穏やかな笑みを浮かべていた表情は一瞬にして引き締まり、それとほぼ同時に紫もまた表情を引き締めて振り返った。
 2人が振り返ったのは、気の衝突の気配を感じたからだ。その衝突した気はそれぞれがよく知る人物のもので。


「橙?」
「妖夢?」


 2人がそれぞれ良く知る気配の主の名を呼んだ。








[16365] 黄昏境界線 06
Name: 道化◆5a734804 ID:d4ec8ce0
Date: 2010/02/10 21:15
 紫と幽々子が橙と妖夢の気の衝突を感じるその少し前に時は遡る…。



 互いに緊張した様子で顔を見合わす橙と妖夢。が、緊張と言ってもそれぞれその緊張の意味合いは違う。
 妖夢は橙とどのように接して良いのかわからず軽い困惑に陥っている状態だが、橙の緊張は目の前に幽霊がいるという事に対しての怯えからだ。
 暫し互いに無言で見つめ合っていた2人だが、妖夢の挙動1つ1つに怯えを見せる橙に妖夢は軽いショックと、落胆を感じていた。


 妖夢にとって幽々子と並ぶ紫は尊ぶべき人だ。それと同時に、紫に仕えている式神の藍はある種、妖夢の理想と言っても良い存在となっている。
 妖夢は未だに未熟者である。それは自他共に認めている事であり、早く一人前になろうと努力を怠らない生真面目な部分がある。
 故に、尊敬しているという藍に式神が出来たと聞いた時、妖夢はその式神がどのような妖怪が式神になったのか気になったものだ。
 そして密かにその出会いを楽しみにしていたのだが、正直拍子抜けというのが彼女の感想だ。
 最初は戸惑っていた妖夢だが、段々とその橙の情けなさが目に付くようになってきた。それでも藍の式神なのか、と苛立ちが募ってきた。


「……はぁ」


 妖夢が息を吐き出すだけで橙はビクビクと身を震わせる。流石にこれは情けない。いや、情けなさ過ぎる、と妖夢は思った。


「…あのね? そんなにビクビクされると困るのだけど?」
「あぅ…そ、その、すいません」
「…謝らなくて良いわ。まったく…藍様の式だと言うのならばもっとしっかりとしたらどうなの?」


 情けない、と言わんばかりに妖夢は溜息を吐き出して橙に告げる。その言葉を聞けば橙も息を詰まらせるような声を漏らして、表情を暗くして俯いてしまった。
 その姿にわかってない、と妖夢は更に苛立ちを募らせる。本当に何故藍様は彼女のような妖怪を式としてしまったのか、と想像を巡らせる。


「何故藍様はこの子を式にしたのか…」


 思わず口に出してしまう程、妖夢は橙の存在を疑問視していた。
 ふと、妖夢はある言葉を思い出した。それは妖夢の師匠から言われた言葉…。


「真実は斬って知る…か」
「…え?」
「ふむ。…橙、私と手合わせをしてみようか」
「え、えぇえっ!?」


 唐突に妖夢からされた提案に橙は驚きの声を上げざるを得なかった。橙は自分の実力というものを痛い程に理解している。毎日藍につけて貰っている稽古からもそれはよくわかる。
 だからこそ手合わせ、などと言う言葉は橙にとって縁遠いものだった。更に言えば、妖夢の言動が怖かったというのもある。
 明らかな逃げ腰の態度に妖夢はまた苛立ちを募らせる。やはり、斬って確かめなければならない、と更に思考を強固にする。


「どうした? まさか手合わせ出来ないとでも?」
「…ぅ…」
「そんな様で藍様の式を名乗るのか?」
「…っ…わかり…ましたよっ…」


 流石に今のは橙も拒否出来なかった。内心は苦いもので一杯になっていたが、逃げる訳にはいかない。
 確かに今の自分は藍の式には相応しくは無いのかもしれない。だがそれでも精一杯にやってきた。それを認めろとは言わないが、否定はされたくはない。
 だからこそ抗う。抗ってみせる。この人に。今の自分を否定しようとしている人に。
 紫は藍に言った。藍が式にいてくれて助かる、と。それは幸福な事だ、と。
 ならば自分だって、自分がいて主の手助けになれて、それを幸福だと思っていて欲しいと、藍が望み、そして自分も望んだのだから。
 橙はゆっくりと妖気を放出し、戦意を露わにする。それに合わせるかのように妖夢もまた二刀の刀、楼観剣と白楼剣を鞘から抜き放つ。
 そして妖夢の気が膨れあがり、外へと放出される。それだけで橙の妖気はあっという間に押されてしまう。


(…無理だよ)


 思わず、橙は思った。あぁ、敵わない。馬鹿げてる。
 妖夢が爆ぜるように一歩を踏み出した。一瞬にして距離が詰まる。刃に反射した鈍い光が目に入る。
 斬られた。いや、そう錯覚しただけ。ただ妖夢の気が橙の精神を切り刻んだだけ。決して現実に斬られた訳ではない。
 だが橙は囚われる。あぁ、斬られたんだ。斬られるんだ。斬られて、死ぬんだ。





 ―――無理だ。死ぬんだ。





 妖夢が本当に自分を殺す気なのかどうかはわからない。だけど、きっと彼女は自分が嫌いで、だから斬ってしまうのかもしれない。そもそも冥界ではそういうルールがあったりして私がただそれだけを知らないだけで実は紫様も自分を試すためにこんな真似をして実は私はやっぱりいらなくなって―――





 ――意識が、混濁する。





 弾ける。弾けて、瞬いて、駆け巡って、ぐるり、ぐるり、ぐるり、ぐるぐる、ぐるぐると思考が巡って身体を犯して身を縛って心さえも砕け再生して集めて歪で私は壊れていて壊されるべきで私はここで死んで―――





 ――思考が、止まらない。





 不要。排除。死。不要、排除、死、不要排除死、消滅、消失、自我、意味無く、砕け、消え、死ぬ―――





 ――……脳裏に巡るは記憶。





 藍が笑っている。紫が笑っている。暖かい食卓に、微笑んで、褒めてくれて。
 それは、全て、全部、嘘? 演技? だとしたら何故?




 ――…違う。違う、違う違う違う違う違うっ!!





 血が、舞った。
 妖夢の振り抜いた楼観剣を橙は紙一重で避ける。薄く切られた皮、流れる鮮血。
 血。溢れる。流れすぎれば死んで、少しずつ、少しずつ、欠けていく。
 意識が、更に混濁し、グルグルと、混沌として、最早、何を考えているのかわからなくて…。




「―――――ッッッ!!!!!!」




 そして、橙は高らかに鳴いた。
 死。否定する。
 死は望まれた。否定する。
 妖夢が私を殺した。否定する。
 紫が殺そうとして仕組んだ。否定する。
 藍が私を捨てた。否定する。
 混沌とする思考、混濁する意識、ただ全てを否定した心を否定する。
 絶望。何故絶望するのか。嘘だと叫び、真実は、私の望んだ幸いだと叫ぶ。


 血が、止まらない。
 ひやり、と背筋が震える。腹の底から、身体の奥底から、震える、声が、もはやただの音としかならない声が。
 嘘だ。死んでない。生きてる。私はまだ生きてる。まだ望まれてる。


 ―藍様に会いたい。お弁当作ってあげなきゃ。

 ―紫様に会いたい。お寝坊さんだから起こさなきゃ。

 ―魚屋の主人に会いたい。ごめんなさいって言わなきゃ。




「―――ッッッッ!!!!」




 もう冷たいのは嫌だ。一人は嫌だ。暗いのは嫌だ。必要とされないのは嫌だ。必要とされているのに果てるのは嫌だ。





 死 に た く な い。






 + + + +





 妖夢が異変を感じたのは、彼女の刀が橙の薄皮一枚を切り裂いた瞬間だった。
 妖力もたいした事が無ければ、反応速度も妖怪として見れば並。正直言って落胆ものであった。
 が、血が舞い、橙がその血を茫然と目で追ったその瞬間。


「――――ッッッッ!!!!」
「っぅっ!?」


 それは耳を劈くような、悲鳴のような、泣き声のような叫び。どこからそんな声を出しているのかと問いたくなるぐらいにまで悲痛な叫び。
 そして妖夢の頬に何か熱い、だが一瞬にして冷えたものが当たった。何か、と思った瞬間に妖夢はそれに思い至る。
 橙の双対の瞳から溢れる大量の涙。血走った目から零れる涙。その表情は、まるで泣いているかのようで、されど、般若のような形相でいて。


(何!? 何なの、この子は!?)


 ゾッと妖夢の背筋に怖気が走る。それは得体の知れないものを見た際に感じる未知への恐怖。
 橙が喉が張り裂けるのではないか、と言わんばかりに声を張り上げながら手を振り上げた。
 妖夢は怖気に襲われながらも楼観剣と白楼剣を構え直し、橙へと向かい直り二刀を振るおうとした。





 そして、妖夢の手に収まっていた筈の二刀は宙へと舞っていた。





(え……?)


 妖夢が自問した。何故、私が握っていた筈の二刀は何故宙を舞っているのか。
 刀を握っていた筈の手は異様な痺れを帯びていて、やや震えていた。今の一瞬、一体何が起きたのか。
 その答えが出る間もなく、橙は妖夢に掌を翳す。ただ、翳しただけ。だが妖夢はそれに恐怖を感じずにはいられなかった。
 そして、妖夢の身体が刀と同じように宙を舞っていた。


(…訳が、わからない!? 一体、何がっ!?)


 宙で何とか態勢を立て直そうとする妖夢だが、思考は混乱を極めていて正常に働かない。
 刀。自分と同じ宙に舞っていた刀に手を伸ばそうと妖夢が手を伸ばそうとした時、まるで刀と妖夢の間に割り込むかのように橙が現れる。
 空を背負うかのように、泣き顔のような、それでいてどこか恐怖を感じる形相を浮かべたまま橙が振りかざした手を妖夢へと振り下ろそうとして―――。




「――そこまで」




 ぴしゃり、と橙の掌が扇子ではたかれいなされる。その瞬間、橙は突然現れた女性、紫に抱きしめられ動きを止めた。
 橙は最初は藻掻いていたが、自分を抱きしめている存在が紫だと気付いた瞬間に、ゆっくりとその動きを止めて。
 ふぅ、と紫が安堵したかのように溜息を吐き出して橙の身体を優しく包み込むように抱きしめる。


「大丈夫よ、橙…大丈夫。貴方は生きてる。死んでない」
「……ゆ…かり…さ…ま…?」
「落ち着いて…息をして、鼓動の音を聞いて…感じて。貴方はまだここにいる。生きてるわ。一人じゃない。だから…落ち着いて。橙…」


 段々と、橙の顔が奇妙な形相からただの泣き顔へと変わっていく。紫はただあやすかのように橙を抱きしめる。
 橙は身を固くして紫に縋り付くように抱きついた。しばらくそのまま身を震わせていた橙だが、力尽きたかのように紫に寄りかかって意識を失った。
 その光景を、やや紫と橙から離れた場所に浮きながら妖夢は見ていた。結局何が起きたのかわからないままでただ茫然と橙と紫を見続ける事しか出来なかった。


「…なるほどねぇ」
「…っ!? ゆ、幽々子様!?」
「妖夢、大丈夫?」
「あ、は、はい…」


 未だ思考がぼんやりしている為なのか、幽々子に対してボンヤリとした応答をする妖夢。
 その妖夢を眺めていた幽々子だが、小さく嘆息するように息を吐き出して。


「…とにかく、妖夢。あの子を休ませなきゃいけないから布団の準備をしておいて?」
「あ、は、はい! わ、わかりましたっ!!」


 幽々子の指示に妖夢はボンヤリとしていた意識をハッとさせ、すぐさま行動を開始した。
 だが、刀を放置したままだった事に気付いて直ぐさま戻ってきたが、その後またすぐに屋敷の中へと駆け込んでいった。
 その様子を見つめていた幽々子だが、すぐに紫の方へと視線を移して。


「……その子は大丈夫?」
「えぇ。恐らく「能力」の発現と暴走で消耗したのでしょうよ…。後は…妖夢の気にでも当てられたかしらね」
「…ごめんなさい、と言うべきかしらね」
「別に構わないわ。逆に、先に知っておいて良かった」


 紫は息を吐き出す。それはまるで疲れたような雰囲気を醸し出していた。
 紫に抱きかかえられた橙は、涙の残る顔にただ安堵したかのような表情を浮かべ、寝息を立てるのみであった。


「紫…。その子の能力、って何なの? 私には、ちょっといまいちわかりにくいのだけど?」
「…簡単な事よ。それは誰しもが持つ当たり前のもの。だけど、この子の能力はそれが異常が故に目覚めたもの…」


 橙は、死を嫌う。
 橙は、望まれない事を嫌う。
 橙は、全てを受け入れる。
 だけど…同時に彼女は全てを受け入れなかった。
 それは誰しもが当たり前の持つ心の変化。だが、彼女のそれは異常が故に発現した力。
 簡単が故に、納得がいかない。簡単が故に、その効力は絶対的…。


「…自らが望まない、あるいは否定したい事象に「反発」する。それがこの子の能力…言うならば…」









 ――あらゆるものに反発する程度の能力。





[16365] 黄昏境界線 07
Name: 道化◆5a734804 ID:d4ec8ce0
Date: 2010/02/10 21:17
「申し訳ありませんっ!!」


 妖夢の準備した布団に橙を寝かした後、居間に戻ってきた紫に対して床に頭を擦りつけんばかりに土下座をして謝罪の声を挙げる妖夢。
 いきなりの事で紫は軽く呆気取られたような表情をするも、すぐに扇子を取り出し、笑みを浮かべたその表情を隠して。


「いえ、妖夢。別に気にしてないわ。貴方の思いもわからない訳でもないから」
「…ですが」
「えぇ。そうね。確かに貴方は未熟者。それは自他共に認める事でしょう? 研鑽を積もうとする姿勢は認めるわ。だけど、少々視野が狭いのは今後の課題よねぇ?」
「…はい。橙の能力を見極めきれなかったのは私の未熟が原因で…」
「そうじゃないわ」


 紫はやんわりと窘めるように妖夢に告げる。妖夢は紫の言葉に呆気取られたような表情を浮かべて顔を上げた。


「私は橙の実力を見込んで藍の式に推した訳じゃないわ」
「…ならば…何故?」
「さぁ? それは何故かしらね。藍は察しているようだけど、妖夢にはそれがわかるかしらねぇ? …物に価値は1つではないのよ、妖夢」


 妖夢に諭すように紫は言う。それに意味を掴みかねているのか妖夢は悩むかのようにうなり声を上げている。
 紫はそんな妖夢から視線を橙へと移し、布団で横になっている橙の髪をそっと優しく撫でた。


「これじゃ、今日は幽々子と顔合わせは無理そうね」
「そうね。少し残念だけれど、仕様がないわ」


 少し、とは言っているが、とても残念そうに肩を竦めて言う幽々子に妖夢がビク、と肩を跳ねさせる。生真面目な彼女の事だ。このまま紫が帰れば幽々子に対して土下座の嵐だろう。
 まぁ、わかっていても紫は帰るつもりだが。内心、少し反省しなさい、と意趣返しを込めている部分があるのだろう。


「妖夢、ごめんなさいね。せっかく布団を用意して貰ったのに」
「い、いえ…」
「せっかくだから貴方が使いなさい」
「は?」


 紫の唐突な言葉に妖夢は思わず間抜けな顔を曝して口をぽかん、と開ける。紫の言葉の意味が掴み切れていないようだ。
 紫はふと、幽々子へと視線を向ける。紫の視線は何かを企むような瞳をしている。その瞳に幽々子は察したかのように優しく微笑んで。


「だって、この後貴方、寝込むでしょう? ねぇ、幽々子?」
「…そうねぇ」
「え? え?」
「それじゃ、死なないように気をつけなさい。死神はすぐそこで笑ってるわよ?」
「ちょっ!?」


 冗談ですよね? と妖夢が紫の言葉に幽々子の方へと視線を向ける。だが、幽々子はただニコニコ笑っているだけだ。その笑いが、冗談に笑っているのか、それともそれが怒りを秘めた笑みなのか妖夢には判断仕切れない。
 その妖夢の表情に紫はただ小さく笑いを零してそっと橙を抱き上げた。橙は紫の腕に収まりながらも未だに寝息を立てている。
 ふっ、と紫は微笑ましいものを見るかのように笑みを浮かべ、再度幽々子へと振り向いた。そこには未だに笑みのまま妖夢を見ている。妖夢はそれに慌てふためいている。


「それじゃ、幽々子。程々にね?」
「えぇ。それじゃあ、またね」


 最後に軽く挨拶を交わし、紫は橙を抱いたまま隙間を開き、その中に消えていくのであった。






 + + + + +





 その夜の事。結界の巡回を終えて帰ってきた藍に紫は白玉楼で起きた出来事を話していた。


「あらゆるものに反発する程度の能力、ですか。それはまた…橙にそんな能力が」


 藍はそれを驚きの感情を持って聞いていた。正直、妖怪として恐らく大成する事は出来ないだろうと予測していた橙がまさかの予想外の力を持っていた事にだ。
 あらゆるものに反発する。この能力がどれだけ有力なものなのかは妖夢との戦闘でも明らかになる。
 それはある意味、橙が全てを拒めば、絶対的な守護に近い。その拒絶の思いが強ければ強い程、その能力はその力を増していくだろう。


「えぇ。例えば幽々子との能力と相性が良いわね。あの子は極度に死を恐れる。死に誘う程度の能力を持つ幽々子の能力は橙に反発されるでしょうね。そして、私の隙間による干渉も橙が気付いてしまえばそれすらも拒絶してしまえるかもしれない」
「…境界を操る程度の能力にも、干渉が出来ると?」
「あらゆるものに反発する能力だもの。恐らく私の干渉すらも反発される可能性があるわ。つまり橙は認識さえして、それを否定さえしてしまえばその意志の度合いにはよるけれど全てをはね除ける事だって可能」


 はぁ、と感嘆の息を零す藍。そこまでの代物なのかと驚きに思考が追い付いてきていないような感覚を藍は感じていた。実際、橙にそのような才能があるなどと微塵も考えたことが無かったのだ。
 しかし、あらゆるものに反発する能力。それは藍にとっては嬉しい能力であった。それは攻める事には向いてはいないかもしれないが、橙の生存する為の力として大きく働いてくれるのではないか、と期待して。


「橙が能力を制御出来るようになれば、将来が楽しみですね」
「…そうね。制御は早めに覚えさせなきゃいけないわね。早急に」


 が、喜色を見せる藍に対して紫が見せたのは苦味のある表情であった。藍はその紫の表情に疑問を覚えた。
 橙の能力は素晴らしい。それがわかって喜ばしい事だと藍は思う。が、紫はまるで何か懸念があるかのように表情を歪めている。


「…制御が難しいのですか?」
「…そういう訳じゃないわ。反発というのは誰でも当たり前のようにする事が出来る事よ。橙はその当たり前が能力となる程に強力で、異能として覚醒しただけよ」
「……では、何か懸念事でも?」


 藍の問いかけに紫は一度口を閉ざした。暫し、紫は沈黙し、藍は紫の返答を待ち、ただ無為に時間だけが過ぎていく。
 どれだけ間を置いたのだろうか。ゆっくりと、紫が口を開く。


「藍。反発って、何だと思う?」
「…反発、とはですか? それは…何かに抗う、という事でしょうか」
「では何故抗うのかしら?」
「…納得がいかないから、ですか?」


 藍の返答に紫は小さく頷き。


「そう。反発とは、自身が納得出来ない事象があるが故に反発するのよ。…では、橙の反発は能力として覚醒するまでに強い」
「…はぁ…それが、何か?」
「…藍、貴方、自分自身に反発した事無い?」
「自分に、ですか?」
「そう。例えば自分の性格のこの部分は駄目だ、嫌いだ。そうやって自分を否定した事はないかしら?」
「そりゃ…無いとは言いませんが」
「じゃあ、橙がもしも、…自分自身に反発してしまったら?」


 藍は、息を呑む。
 橙がもしも自分自身に反発したら?
 そうなれば、橙はどうなってしまうのか。
 橙の反発の能力は橙の意志の強さの度合いによってその能力の強弱を決定する。
 もしも、橙が自分自身を心底憎み、自らを否定しまったら?


「…反発した先には、何があると思う? 潰すか、潰されるか、もしくは消え失せるかよ」
「……待ってください。紫様、そんなのって、あるんですか?」
「…貴方が何を想像したのか、手に取るようにわかるつもりよ。…橙は自身を壊してしまう可能性が高いわ。自らの能力を用いて、自分自身に反発してね」


 確かに反発の能力は強力だ。だが…それが故の代償がある。
 橙がもしも、自分を否定する程までに、自身に反発すれば、その先にあるのは橙という存在の崩壊だけだ。
 魂が壊れるのか、それとも肉体が壊れるのか、それとも精神だけが変わるのか。それすらも想像が出来ない。


「制御、って言っても橙に自分に自信を持たせて、なるべく精神的に落ち着かせるようにすれば良いのよ」
「…それまで、橙の能力が過剰に反応するような事態が起きなければ…」
「えぇ。だけど…橙の精神はとても不安定なものよ。それ故の能力なのかもしれないけれど、弊害が多すぎるわ」


 歪な子、と紫は呟いた。その声には力が無かった。瞳を伏せ、哀れむかのように瞳を閉じた。
 妖怪の身体に、人の痕跡を色濃く残す魂。歪な在り方。決して完全とは言えない存在。とても不安定で、それ故、歪。
 藍は思い出す。今思えば、と橙の能力の発現の危険性は今までにだって見られてきた。
 例えば、橙は生きたいと思うが故に魚を盗む。が、その盗むという行為に反発した良心をまた生きたいという反発で押さえ込んでいた。
 八雲邸に来たときも、本当ならばもっと身体を動かさなければ満足がいかなかっただろう筈なのに、紫と藍に迷惑をかけたくないが故にただ自分の存在を薄くし続けた。
 橙は寛容だ。その在り方故の寛容さなのか、それとも彼女元来の性格故に寛容なのかはわからないが、それでも橙は寛容的だ。
 どれだけ忌避するものであろうとも、受け入れ、飲み下そうとし、それを消化しようとして必死に耐えようとする。
 それは鎖で縛られてもなお、その鎖を更なる鎖で引き合うかのように。それは結局自身の行動を制限するものだとしても、彼女はその鎖の全てを許容しようとする。
 死に対して彼女は受け入れる。だが、それでも死にたく無いが故に抗う。
 死の恐怖を受け入れる代わりに、その死を、自身の反発を持ってして否定する。


「不器用な子よ。目を逸らしたければ逸らせば良い。なのに出来ないから、その全てに目を向け、その全てに向き合い、自ら縛り付けていく…。今日だってそう。闘いたくない、そう思っていたでしょう。あの子は弱いもの。だけども退けぬ何かがあったからこそ、あそこまで自分を追い詰めた。最後には、それがパンクして暴走という形で能力が顕現した」
「……紫様」


 いつの時か、藍は紫と橙が似ていると思った事がある。
 最初は表面的なものが似ているのだと思っていたが、今は違う感想を覚えていた。
 歪なのは、紫もまた同じなのではいか、と。
 幻想郷の管理者、八雲 紫。その在り方は、ある種、橙の在り方と良く似ている。
 幻想郷は全てを受け入れる。だが、その全てを受け入れるが故に幻想郷は残酷だ。寛容ではあるが、そこに慈愛は無い。
 その幻想郷を管理する紫は、幻想郷を管理する為にあらゆる事に苦心し、この幻想郷を愛すが故に時にはその心を押し殺して立ち向かわなければいけない事も多々ある。
 目を逸らす事だって出来た筈だ。だが、彼女にはそれは許されなかった。
 紫は「一人一種」の妖怪だ。紫を除いてこの幻想郷を維持する事は限りなく難しい。紫一人の力ではないとはいえ、現と幻の境界を別け隔てる結界を張る事が出来たのは紫の力が多きいからだ。
 それは、どことなく橙の在り方と良く似ている。全てを受け入れ、その全てと向き合い、どれだけ辛かろうが、苦しもうが、その全てを抱えて生きて行こうとする。
 紫はいつもの胡散臭さ故にその内心は察せられにくい。だが藍は知っている。紫がどれだけ苦心しながらこの幻想郷を守ろうとしているのかを。
 その在り方を橙に見た紫は橙と共感を覚えたのかも知れない。全てを受け入れる幻想郷と良く似た、その猫を。
 受け入れるが故に歪となり、歪が故に不器用で、それでも尚足掻き続ける。それが橙だ。
だからこそ、紫は橙を好んでいるのだ。
 藍に橙を預けようとしたのも、紫が幻想郷を愛しているというのを、実感を持って体験して欲しかったのかも知れない、と藍は考えるが、果たしてそこまで考えているかどうかは不明だ。
 だが、そうであろうが、そうでなかろうが藍には関係ない。藍のするべき事は決まっているのだから。


「…大丈夫です」
「…藍?」
「私が、橙を守ります。あの子は私の式ですから。立派に育て上げてみせますよ」


 そう、橙を守る事だ。
 最早、藍にとって橙は家族だ。その家族を守らない理由など無いのだ。
 だからこそ橙を守る。自分が、そして紫が愛する子供を守り抜く事。それが自分がやるべき事なのだと。


「…そう。藍がそう言うなら安心ね」
「えぇ、私は紫様の式ですから」
「……えぇ、そうね。私の式だものね。なら…安心だわ」


 紫が本当に嬉しそうに笑う。紫は橙に何を見たのだろうか? 同情? 共感? それとも…。
 それは紫にしかわからない。藍には想像する事しか出来ない。だがそれでも、それがとても紫にとって好ましい事だったというのは理解出来る。
 守りたいと藍は思う。紫の思いも、そして、橙自身も。この今ある日常を…。





 + + + + +





 橙はゆっくりと目を覚ます。開いた視界の先に移ったのは見慣れた自室の天井で。
 あれ? と橙は疑問を覚えた。自分はどうして自室で寝ているのかと。昨日の記憶がボヤけて良く思い出せない。
 思い出そうと暫く意識を集中していると、銀髪の少女が頭に浮かび、その次に浮かんだのは赤色の―――。


「―――っ…ぅっ…!?」


 思わず強烈な吐き気に襲われて橙は口元を押さえた。身体全体が寒く、凍えていく。指先が震え、身体全体がガタガタと震え出す。
 思い出した。思い出してしまった。昨日の恐怖を。鮮明に。それは橙のトラウマを刺激させ、橙に深い動揺を与える。
 死にたくない、という思いが暴走しかける。今、自分が生きている事を確かめたくて心臓を鷲掴むように胸を強く握った。


「はぁ…っ…は、ぁっ…」


 生きてる。鼓動の音がとくとくと鳴っているのが聞こえる。荒い呼吸が段々と鼓動の音に合わせるかのようにゆっくりと落ち着いていく。
 記憶を探る。鮮明な記憶の後に不鮮明な記憶が浮かぶ。それは何かに抱きしめられた暖かい感覚で、その感覚は鮮明に残る死の感覚とは対極の温もりで。


「おはよう、橙」


 ふわりと、優しく頭を撫でられた。橙はハッ、として顔を上げれば、そこには優しげな笑みを浮かべた藍がいた。
 藍の顔を見て、その笑顔を見て、橙は無性に泣きたくなった。何故だか悲しくて、嬉しくて、相反する感情なのに同時に存在し、橙の胸を震わせる。
 藍の手はただ優しく橙の頭を撫でる。まるで安心させるかのように。その手が藍の存在を強く感じさせてくれている。自覚させてくれる。藍はここにいるのだと橙は感じる。


「藍…様…」
「怖い思いをしたな。だけど、よく頑張ったな」


 わかっている、と言わんばかりに藍は告げて、優しく橙の頬を撫でた。


「お前は負けなかった。それを誇りなさい。それは胸を張るべき所なのだから」


 それは優しく包むように。藍は告げる。橙を認め、誇り、笑みを浮かべている。
 橙は、あの混濁した意識の中で自分が何を考えていたのか、もう今となってはよく思い出せない。
 ただそれはとても悲観的で、否定的で、きっと、この胸の苦しみは無意識がそれを覚えているのだろう。だからこそ、こんなにも苦しい。
 だけど、藍はそれをもわかっているかのように頭を撫でて、褒めてくれているようで。
 これは、錯覚なのだろうか、と橙は思う。ただ、救われたくて、ただ、甘えたくて。ただの自分の願望なんじゃないか、って。


「…藍様ぁ…」


 だけど、どうしてもその顔を見ていたら、その錯覚が本当なんだ、と思えてきてしまって。
 彼女の名を縋るように呼んだ。怖かったんです、と。負けたくなかったんです、と。だけど諦めてしまいたかったんです、と。それでも、それでも…嫌だったんです、と。認めて貰いたかったんです、と。
 あぁ、と藍は無言の橙の訴えに答えるように頷いた。頭を撫でていた手は頬に添えられ、優しく撫で、もう片方の手は橙の頭の後ろに添えられ、藍の胸に橙は抱きしめられた。
 藍は何も言わなかった。何も言わなくても通じてる、と言うかのように。優しく、ただ橙を抱きしめて。


「私は、お前を誇るよ。だからお前も誇りなさい」


 それは…ただひたすらに橙が欲しかった言葉だった。


「…ぅっ…ぅぁ…うぁぁああっっ!!」


 橙は藍の胸に顔を押しつけるように抱きつきながら泣いた。みっともなく涙で頬を濡らし、喚くように声を挙げて縋るように藍に抱きついて。
 怖かった。辛かった。苦しかった。だけど、それでも諦めたくないものがあった。ボロボロで、情けなくて、こんなにも無様な姿を曝したけど、それでも、譲れなくて。


「怖かったよぉっ、死にたくなかったっ、こわぐで、だから、あぎらめで、だけど、わたし…」
「あぁ、わかってる。わかってるから」


 涙声は掠れ、聞き難い程にまで歪んでいるのに、それでも届けたい思いをくみ取ってくれる。
 暖かくて、優しくて、こんなにも涙がこぼれていく。こんなにも声が震えて、叫ぶように泣き出したくなる。
 私は望まれている。ここにいて、藍様は笑っていてくれる。それが何よりも嬉しくて、何よりも暖かくて。
 橙はただ泣いた。その思いの全てを吐き出すかのように藍に縋り付きながら。
 藍はただ、優しく橙を抱きしめる。その震える身体を離さぬようにしっかりと支え、優しくその髪を撫でながら。








[16365] 黄昏境界線 08
Name: 道化◆5a734804 ID:d4ec8ce0
Date: 2010/02/10 21:18
 ――あらゆるものに反発する程度の能力。
 誰もが持ち得、そこに弱者も強者も無く、在るのはただ、自らの意志なり。
 抗う意志はここに。されば高みはそこに。彼の者はその先に何を見るや?









 空気が爆ぜる。勢いよく何かが地を滑っていく。
 地を滑る影は踏み堪えようと地を踏みしめようとするも、吹き飛ぶ衝撃が強すぎる為に衝撃を殺しきれず、地を削りながらそのまま吹き飛んでいく。
 が、ソレも限界が来て遂に影は宙へと舞う。そこに新たな影が現れ、地を滑る影に向けて踵落としを叩き込まんとする。
 地を滑る影は両手をクロスさせるように構え、踵落としを防ごうと構える。
 そして衝撃。
 踵落としを防いだ両手は痺れ、受け止めた影は唇を噛み締めその痛みを堪える。
 が、回復の時間も与えられず、更に宙より舞い降りた影は追撃をかける。


「おぉっ!!」
「っ!?」


 掌が眼前へと迫る。このまま行けば完全に意識を奪われる事は間違いない。
 が、その掌を受け止める術は両手の痺れた今となっては防ぐ事は叶わず、このまま敗北という事実を文字通り叩き付けられる事となるだろう。
 故に、抗う。
 掌が触れるその瞬間、その掌の勢いに反発するかのように影が舞う。更に影は地を蹴り、離脱を計っていく。
 ほぅ、と掌を叩き込んだ影、陽光を浴びて輝く金色の九本の尾を揺らした藍は感嘆の息を零した。


「なるほど。これが反発の能力か」


 藍は眼前に膝を突き、荒く息を吐いている影、橙へと視線を向け、楽しげに笑みを浮かべた。
 本日の稽古。実戦形式による模擬戦。藍は容赦なく橙を攻め立てた。橙は防戦一方であったがそれでもまだ立っていられる。
 本来の橙ならば最早最初の一撃で終わっていた筈であった。だが、橙は初撃も、その後も続いた攻撃に耐えきった。
 ソレは橙の目覚めた能力が恩恵。あらゆるものに反発する程度の能力。
 これほどか、と藍は笑みが押さえきれない。この能力は危険も孕ませているが、制御さえしてしまえば生き足掻く能力としては筆頭にあげても良い程だ。
 格上の藍の攻撃を防ぎ、なおかつ生き延びる事が出来るのだから。だからこそ、藍は嬉しい。
 橙がゆっくりと立ち上がる。痺れた腕は既に回復しているようだ。本来ならば折れてもおかしくは無い。それも能力の恩恵かと思えば益々笑みが止められない。


「ひぃっ!?」


 その藍の笑みを見た橙が怯えたように悲鳴を上げた。知っているだろうか、本来笑みというのは攻撃的な表情だと言うのだ。
 笑う、という行為は威嚇とも取れるのだ。故に橙は怯えた。本来が猫である彼女だからこそわかったのだろう。そして感じたのだろう。藍が怖い、と。
 …内心ショックだったが、そういう事情があるんだから仕様がない。これも橙の為。うん、仕様がない。藍は涙を呑んだ。





 + + + + +





「…死ぬ…殺される…藍様怖い…」


 ブツブツと呟きながら橙は縁側で横になっていた。その顔には死相が見られ、いつ死んでもおかしく無い程に疲れ果てていた。
 床にへばりつく形で寝転がる橙は、ふと先日に聞かされた己の能力の事について考えていた。
 自分が持つ能力、「あらゆるものに反発する程度の能力」。
 自分に降りかかるありとあらゆるものを否定し、拒絶し、反発する力。それが橙の秘めた力なのだと言う。
 その能力の応用性は幅広く、主に使えるのは藍との稽古にも現れているが、敵の攻撃を能力によって反発し、危機を回避するという事だ。
 橙は能力の発現となった切欠の記憶を思い出す。妖夢との戦いの際、死を覚悟して混乱して、恐怖して、絶望して、だけど、最後まで諦めきれず、信じたくて、信じられない自分が嫌で。
 それが、恐らくトリガーだったのだろう。強い意志による拒絶、抗いの意志。


「……うぅん、なんか実感湧かないな」


 藍が褒めてくれた能力。紫でさえ目を見張った能力だと橙は聞いた。だが、逆に橙は想像が付かないのだ。あの2人に褒められるような力がどうして自分にあるのか、と。
 自分は何なのだろうか、と橙は久しぶりに懐かしい思考を呼び起こしていた。まだ、自分が猫になってそう日が浅くない時に、何度も、何度も考えた。
 問いに答えてくれるものはいなかった。どれだけ自問しても意味など無かった。ただ無為に時間だけが過ぎていくだけだった。だから橙はその思考を忘れていた。
 だけど、余裕が考えを呼び起こす。考えるのだ。自分とは一体何なのか? 人の記憶を持ち、されど身体は妖怪。
 元々人であったのか。元々妖怪だったのか。人が妖怪に転生したのか。それとも妖怪が人になった夢を見ていたのか。はたまた、人が妖怪になる夢を見ているのか。
 答えは、やはり出ない。ごろり、ごろり、と橙は縁側を転がっていく。


「あらあら、珍しくゴロゴロしてるのね? 橙」
「あ、紫様」


 見下ろすように扇子で口元を隠した紫が笑うかのように声をかけてきた。橙は寝転がっていた身体をすぐに起こして、紫へと向き合う。
 紫は橙の隣に腰を下ろすように座り、ふと、遠くを眺めるように視線を向ける。


「うん、今日も穏やかな天気ね」
「そうですねー。洗濯物が良く乾きそうです」


 そんな何でもないような日常会話。橙も紫に習うようにぼんやりと遠くの空を見つめるように視線を向ける。
 暫く2人でぼんやりと遠くを眺めるように視線を向けていたが、ふと、紫が橙の名を呼んだ。
 はい、と橙は返事を返して紫と向き合う。紫は橙と向き合うように居住まいを正している。それを見て橙も居住まいを正し、紫と目を合わせる。


「今回の貴方の能力の発現、まずはおめでとう、と言うべきかしら」
「いえ…」
「ふふ、謙遜する事は無いわ。素直に喜びなさい」
「…はぁ…」


 橙は紫の言葉にどこか曖昧な返事を返す。未だに実感が湧かない橙にとって喜べ、と言われてもあまりパッ、としないのだ。
 そんな橙の様子に紫は楽しげに笑う。しかし、すぐにその表情は引き締まり、橙を真っ直ぐに見つめて。


「そろそろ、貴方にも社会勉強が必要ね」
「へ?」
「橙、この八雲邸から出る事を許すわ」


 唐突に紫から告げられた言葉に、橙は意味を飲み込めなかった。
 ここから出ても良い、という事は、どういう事なのかと必死に考えて。


「あの、紫様、それって…」
「文字通りの意味よ。この八雲邸から出て、お好きな場所に行き、好きなものを見て、感じて、そして自らの糧としなさい」


 つまり、それは橙に自由にしても良い、という意味だ。何処に行っても好きにして良い、と。
 ならば、橙の脳裏に浮かんだのは一人の男性の顔だった。期待に胸が躍った。同時に不安も沸き上がったが、もしかしたら。


「…あの、紫様」
「何かしら?」
「なら…人里にも行っても良いのですか?」
「…言うと思ってたわ」


 予測通り、と言わんばかりに紫は笑みを浮かべる。が、その表情はすぐに扇子で隠され、紫は表情を消す。
 駄目なのだろうか、と橙は一瞬諦めかける。妖怪と人の関係を橙は知らない訳じゃない。妖怪は人を襲い、人は故に妖怪を恐れる。
 妖怪が人里に入る、となれば色々と問題となるだろうか。藍は人里に出入りしているようだが、やはりそれはあくまで特別なのだろう、と。


「……あの、やっぱりいいで…」
「人里には、ワーハクタクの守護者がいるそうよ。…その人に話を通しなさいな」
「…え…?」
「確か…名前は、上白沢 慧音、だったかしらね」


 扇子で口元を隠したまま、紫は笑みを浮かべて橙に告げた。
 段々と紫の言葉の意味を飲み込んでいった橙は笑みを浮かべていく。
 そして勢いよく立ち上がると、居ても立ってもいられない、と言わんばかりの様子で紫に振り返って。


「紫様! でかけて来ます!」


 返事も待たずに橙は駆けだした。自らの意志で初めてくぐる門を抜け、森を掻き分け、木々を蹴り、先へ、先へと進んでいく。
 暫く夢中で、興奮のまま突き進んでいた橙だが、あっ、と道中、いきなり足を止め、今度は顔を真っ青にして。


「…上白沢さんって…どんな人なんだろ? いや、そもそもどう探せば良いか…」


 人に聞く? いや、無理だ。話しかける事が出来るとは思えない。一体どうすれば良いのだろうか、と橙が悩んでいると頭上から何かが落ちてきた。
 それはこつん、と小さな音を立てて橙の頭に落ち、橙は軽くビックリしながらその落ちてきたものを見た。
 それは「通行許可書 八雲 紫」と書かれた名刺のような紙であった。橙は思わず頭上を見上げるが、そこには何もない。
 だけどわかったのだ。本当に、迷惑ばっかかけてる。だけど、とても嬉しくて。


「ありがとうございますっ!! 紫様っ!!」


 大声で届けと言わんばかりにお礼を言って、橙は再び勢いよく駆けだした。
 その姿を隙間からのぞき見する影は小さく笑みを零すのであった。





 + + + + +





 上白沢 慧音。
 人里に住まう数少ない妖怪である。本来、人間を襲う立場にある彼女はその能力と人柄、経緯故に人里に住まう事が許されている。
 その立場から守護者という立場を自らに科し、普段は寺子屋で子供達に授業を教えている先生である。
 その為、里の者の多くからは「先生」という呼称で呼ばれる事が多い。多くの者が彼女の教えを受けてきたからである。
 さて、そんな彼女は今日も今日とて教師業に精を出していた。


「えー、では、次。教科書の…」


 教科書を片手に教室を見渡しながら子供達に指示を出す。真面目に授業に取り組む者もいれば、やる気無さげに筆を回している者、そして寝ている不届き者の姿が見える。
 一番最後の生徒には後で頭突き、と脳内にその顔と名前を覚えておき、授業を進めようとしたその時だった。
 こんこん、とノックの音が響き、教室のドアから一人の青年がやってきた。少し慌てた様子で彼は慧音を見て。


「慧音先生! ちょっとよろしいでしょうか!」 
「何かあったのか?」
「ちょっとここでは…。里の入り口に来て頂けますか?」
「わかった。よし、授業は自習とする。ちゃんと勉強しておけよ!」


 まず青年に返答を返した後、子供達に告げると、子供達に歓声が沸いた。普通に窮屈な授業が無くなった事を喜ぶ者が居れば、泣いて肩を抱き合って喜ぶ子供もいる。
 最後の子供達は後で色々とお話をしておく必要があるな、と思いながら慧音は教室を後にしていった。
 その後ろをすぐに慧音に報を知らせた青年が歩いてくる。慧音は振り向かずに青年へと問いかける。


「何があった?」
「はい。その実は、妖怪が…」
「攻めて来たのか!?」


 思わず振り返り、慧音は驚いたような表情を浮かべた。
 最近、幻想郷では妖怪の弱体化が進んでいる。それ故、妖怪達の無気力化にも繋がり、その影響が弱小妖怪達にも伝わり、色々と小競り合いのようなものが起きているのが現状だ。
 実際、この前も猫又の妖怪による魚屋の盗難被害があったという。実害はさして無かったが、それでも妖怪達の無気力化が悪い方向で人里に影響が出ているのは事実だ。
 そんな時に知らされた報。慧音がそう思うのもまた当然の事である。


「いえ、その…実はその妖怪は、八雲 紫の名と印が押してある通行許可証なるものを持っていまして…」
「…八雲 紫? 妖怪の賢者か。確か、その式の九尾は出入りしているのは知っていたが…その者は何者だ?」
「橙、と名乗っておりまして、どうやらその、藍さんの式らしいのですが…人里に入りたいので、その旨を先生に伝えておきたい、と」
「…敵対するような雰囲気では無いのだな」


 ほっ、と慧音は安堵の息を零した。思わず襲撃でもあったのかと思い、焦ったが、そんな事ならまだ問題無い。
 しかし、と慧音は思考する。八雲 紫の名は慧音も知らない訳じゃない。むしろ人里で有名な妖怪の一人であろう。何せ、彼女もまた人に対してかなり友好的な妖怪なのだから。
 慧音とは方法・立場こそ異なれど、人を守るという事に貢献しているのが紫だ。慧音が人間を守る側にいるならば、八雲 紫は妖怪側に立ち、妖怪達を調停している者だ。
 実際、人里は八雲 紫が定めた法によって妖怪が襲えないようになっている。襲えば管理者である八雲 紫、またはその式の藍によって滅せられるであろう。
 その八雲の紹介を受けて人里へとやってきた、その「橙」という妖怪は一体何者なのだろうか、と慧音は想像を巡らせながら人里の入り口を目指した。
 入り口には人垣が出来ていた。恐らく野次馬根性で出てきた者達であろう。まったく、と慧音は溜息を吐く。これでもしも危険な妖怪だったりしたらどうするのか、と。


「あ、先生。こんにちわ」
「こんにちわ。まったく…お前達は。危ないから近づくなよ?」
「…あれが危険ですか?」
「は?」


 人垣を築いていた一人が慧音に気づき、慧音に挨拶をする。慧音は挨拶をしながら呆れたように告げると、青年が苦笑を浮かべて言う。
 どういう意味だ? と問おうとした慧音の耳に届いたのは子供達のはしゃぐような声だ。
 まだ寺子屋に通える程の年齢じゃない子供達が何か楽しそうに歓声を上げているのだ。一体何か、と思い、空を見ればそこには一人の少女が子供を抱きかかえて空に浮かんでいるのだ。
 子供は空から見つめる景色に感嘆の声を挙げている。それを見て下にいる子供達もせがむように声を挙げている。
 ゆっくりと幼子を抱きかかえて空に上がっていた少女は地面に降り立ち、優しく幼子を地面へと下ろした。
 すると今度は自分だ、と我先に少女に群がる幼子達。少女から焦ったような声が聞こえるが、少女はすぐに子供達に押しつぶされてもみくちゃにされている。


「…ね?」
「……あぁ、確かにな」


 これは、危険だとは思えないな、と慧音は特徴的な帽子を被り直すように手を伸ばし、苦笑を浮かべるのであった。


「しかし、何でこんな事に?」
「いや、最初は本当に野次馬だったんですよ。そしたらやたらと弱気というか、オドオドした妖怪でしてね。それで怖いなんて思えなかったのか、子供の一人が興味を持って近づいて行きましてね。そしたらあの妖怪がその子供と遊び出したのが切欠ですね」


青年の説明に、なるほど、と慧音は頷く。ふと視線を向ければ、ようやく子供達の拘束を逃れたのか、別の子供を抱えて空へと昇っていく少女の姿が見える。
 これが、慧音と橙の邂逅の瞬間であった。






 + + + + +






 さて、その後も子供達にもみくちゃにされていた橙だが、慧音と話せるようになったのはそれからまた時間を置いた後だった。
 子供達は橙に空に連れて行って欲しいとせがみ、慧音にはまだ授業があった。ならばまた後で、という流れになり一度慧音は寺子屋に戻ったのだ。
 その後、先に子供達の遊び相手が終わったのか、橙は寺子屋を訪れ、慧音が授業を終えるまで待っていた。
 そしてようやく慧音の授業が終わり、子供達が帰っていくのを見送って、橙と慧音は寺子屋の教室で向き合う。


「改めて、上白沢 慧音だ」
「は、はい。私は橙です。八雲 紫様の紹介で来ました」


 そう言って、八雲 紫の名と印が押されている通行許可証を見せる橙。それを慧音は確認する。
 確認、といっても形式的なものだ。まさか八雲 紫の名を騙る妖怪がいるとは思えないし、この人の良さそうな妖怪が腹の底が黒いとも思えない。


「確かに。確認したよ」
「あ、はい。ありがとうございます、上白沢さん」
「…慧音で構わないよ。名字で呼ばれるのは慣れていない」
「わ、わかりました。慧音さん」
「ん。…さて、君は八雲 紫と縁者なのかな?」
「はい。私は八雲 藍様の式です」


 なるほど、と慧音は頷いた。式が式を持つというのは不思議な気もするが、あの妖怪の賢者と言われる程の八雲 紫の式である八雲 藍だ。本人は九尾でもあるのだから確かに式を持つだけの実力はあるのだろう。


「では、君はどうして人里に来たのかな?」
「はい。紫様に社会勉強をしてこい、と言われましたので、まずは人里に、と思いまして」
「…何故、人里に?」


 慧音は疑問覚え、眉を寄せる。妖怪ならば、妖怪の山や魔法の森などに行った方が社会勉強にはなる、と思うのだ。
 しかしそれでもこの橙という猫はこの人里に来る事を選んだ。その意図は一体何なのか、と。
 慧音の問いに橙は言い淀むように口を閉ざす。しかし、少し間をおいた後、息を整えてから慧音を真っ直ぐに見て。


「…謝罪しに、来ました」
「謝罪?」
「少し前に、魚屋で魚の盗難が起きてましたよね? …その、犯人です」
「……君が?」


 慧音の目が自然と細くなっていく。少し前に人里を騒がせた魚屋の盗難事件。その犯人が自分なのだと橙は告げる。
 盗難の犯人は八雲 藍によって始末されたと聞いていたが、どうやらこうして生きて藍の式としているらしい。その経緯は察する事は出来ないが、恐らく何かがあったのはわかる。


「…あの時は、生きる事に精一杯で、誰かの迷惑になるとわかってても、私は止める事が出来なかった。でも、売り物を台無しにしてしまう事は悪い事です。ですから…その謝罪に…」
「……謝罪、ね」


 慧音はふむ、と呟いてから顎に手をかける。暫し、慧音は沈黙していたが橙へと視線を向け直して。


「…何故、謝罪したいと思う? 妖怪にとって人間など取るに足らないものだろう?」
「…人間だって妖怪だって生きてます。私は生きる為に魚を盗みました。だけど、魚屋さんは生きる為に魚を売りますよね? やっぱり、それを邪魔する事はいけない事だと思う、から…」
「……」


 不思議な妖怪だ。慧音はそう思った。見た目も相まって、慧音はこの子が寺子屋の子供達と同じように見えてきた。
 悪い事をしたと思ったら謝ろうとする。普通の妖怪ならば「食って何が悪い」と言うだろう。人間と妖怪の力関係はそういうものだろう。
 だからこそ、この少女がとても奇異な存在に見える。本心から謝りたいと思っているのだろう。迷惑をかけたという魚屋に対して。


「…そうか」
「……」
「問題さえ起こさなければ、君はここで好きにすると良い」
「…ありがとうございます」


 橙は慧音に深々と頭を下げ、お礼の言葉を告げるのであった。
 あぁ、やはり不思議な妖怪だ、と慧音は小さく笑みを浮かべるのであった。





 + + + + +





 慧音と話しているウチに空の色も大分朱色に染まってきた。
 橙は緊張しながら魚屋への道を辿っていた。道中、奇異の視線に曝されるが、道中で子供達が無邪気に「ねこのねーちゃん」と寄ってくるのに緊張が解される。
 そんな光景が続くウチに、人々の猜疑の視線も和らぎ、暖かな視線へと変わって行っているのだが、橙はそれに気付かない。
 一歩、歩む度に緊張感が増していく。喉が渇いていき、歩が緩やかになりそうになる。
 だが、それでも橙は前に進む。ゆっくり、ゆっくりと…。
 そして、辿り着いた。かつて自らが何度も魚を盗んでいた、その魚屋を。
 その魚屋の前には、見覚えのある店主の顔があった。あ、と橙は思わず声を漏らした。
 …後は、声をかけて、謝るだけ。
 それだけなのに、橙は怖かった。何故怖いのか。それは、自分のした事を指摘され、断罪されるのが怖いからだ。
 わかっている。自分はいけない事をしたのだと。しなければならなかったとはいえ、それは相手の都合を考えない愚かな行為。
 だから謝らなければならない。償わなければならない。ゆっくりと、橙は息を吸い、一歩踏み出そうとして。


「あ、ねこのおねーちゃんだぁーっ!!」
「はぐぅっ!?」


 腹部に衝撃。
 飛びつくように向かってきたのは先ほど、橙が遊んでいた子供の一人だ。
 きゃっきゃと楽しげに橙に抱きつく子供に橙は思わず腹部の痛みを忘れかける。


「こら、尚人! 何してる!?」
「わっ! とーちゃん! みて、このひと、ねこのおねーちゃん!!」


 その抱きついた子供に怒鳴るように声を挙げながら向かってきたのは、なんと魚屋の店主だった。
 子供はニコニコと笑いながら橙を指さして言う。それに魚屋の店主は橙へと視線を向けて、人の良い笑みを浮かべた。


「お前さんか、変わり者の妖怪、ってのは」
「え、あ、はい…多分その変わり者の妖怪です」
「そうかそうか! ありがとよ、倅と遊んでくれてよ!!」


 恐らく息子なのだろう、橙に抱きついた子供の頭を撫でながら豪快に魚屋の主人は笑う。
 その笑みに橙は、申し訳なさが加速していく。あぁ、この人は知らないからお礼が言えるんだと。
 礼を言われる立場じゃない。本来だったら怒鳴られても仕方ない立場なのに。


「あ、あのっ!」
「ん?」
「あの、その…魚盗んで、ごめんなさいっ!!」


 だから叫ぶように橙は謝罪した。深々と、地に頭を擦りつけんばかりまでに頭を下げて。
 それに呆気取られたように橙を見ていた主人だったが、段々とその表情を引き締めて。


「…お前さん、あの時の猫か」
「…本当に…すいませんでした」
「……」


 主人の気配が変わったことに、橙は必死に耐えていた。正直、この場から逃げ出してしまいたい。罵られるのが怖かった。責め立てられる事が怖かった。
 だけど、この人はどんな気持ちで盗まれた魚の事を考えていたのだろうか、と思うと申し訳ない、という思いが勝る。謝らなければならないと思う。
 生きていく為に必要な事。それはお互いにそうで、自分は相手からそれを奪って生き延びたのだ。だからこそ、謝らなければならない。
 暫し、主人は沈黙していた。橙も頭を下げたまま動かない。ただ、子供だけが橙と親の顔を交互に見つめている。


「……そっか。お前さんだったのか」
「……」
「…お前さんだろ? 藍さんに魚、買ってくるように頼んだの」
「…本当に、ごめんなさい。そんな事で償えると思ってる訳じゃないし、こうやって謝った所で許されない事だってわかってるけど…」
「…あー…その、何だ。もう良いぞ、頭上げな、嬢ちゃん」


 え、と橙は声を出して顔を上げた。そこには困ったような顔をした主人がいて。
 主人は後ろ頭を掻いて、しばらくあー、だの、うー、だの呻き声を上げていたが、橙に視線を合わすように膝を曲げ、真っ直ぐに橙を見つめて。


「…なんつーか、そっちにも事情があったんだろ? 今の妖怪は色々と人里でも噂になってるからな」
「……は、はい」
「…だけど、お前さんは盗んだの悪く思って、ウチを贔屓してくれたし、こうして謝りに来てくれた。それで良いさ。それに倅とも遊んでくれたみたいだしな」


 よっ、と声を出して店主は立ち上がり、膝についた土を払ったあと、服で手を拭い橙に手を差し出した。
 暫し茫然と橙は主人の顔を見ていたが、主人が焦れったそうに橙の手を掴んで立ち上がらせて。


「握手!」
「あ、は、はい!」
「…こちとら、妖怪を先生に持ってるんだ。妖怪だって生きてるってのはわかるんだ。だから、お前さんが謝ってくれた。それで良いだろ。これでちゃらだ」
「……あ、…あの…でも」
「どうしても、って言うなら、藍さんに頼むんじゃなくて、自分で買いに来いよ。ちゃんと金持ってな」


 ニッ、と店主は人の良い、豪快な笑みを浮かべた。それから橙の頭を軽く叩くように撫で、息子の手を引いて店へと戻っていく。
 その道中、子供が振り返る。ニッコリと笑みを浮かべて手を振ってから、父親の後を追っていく。
 暫し、橙はその後ろ姿を茫然と見送っていたが、ゆっくりと、ゆっくりとその表情を笑みに変えて、ゆっくりと手を挙げて。


「はいっ! 買いに、買いに来ます! 今度はちゃんとお金を持って!!」


 元気よく、空高くまで届かんばかりに橙は声を挙げた。手を大きく振り、嬉しさを隠しきれない様子で橙は駆けだした。
 笑みが零れる。涙が出そうなぐらいに嬉しかった。叫び出しそうになる気持ちを走る事に変えて。
 トンッ、と反発の能力も交えて橙は空へと高く飛んだ。帽子を押さえながら見つめる夕焼けはそれは、とてもとても綺麗であった。



[16365] 黄昏境界線 09
Name: 道化◆5a734804 ID:d4ec8ce0
Date: 2010/02/10 21:18
 人里に行き、魚屋の店主に謝罪してから数日が経った後のこと。魚屋の主人に謝罪してから橙はよく人里に顔を出すようになっていた。
 その度に子供達に群がられ、周囲に微笑ましい視線を送られ、慧音には苦笑を浮かべられている。少し怒りたくもあるが、橙はそんな人里の空気を良く思っていた。





 さて、そのように懸念事が無くなり、紫に言われた通り社会勉強を続ける橙は…。


「いやー、前々から貴方には取材をしたいと思っていましてね」
「…はぁ」


 天狗に誘拐されていた。
 青い空を見上げ、自分を脇に抱えるようにして上機嫌に言う天狗、正確には鴉天狗に対して曖昧な返事を返す橙。
 一体どうしてこうなった? と、橙は自問自答する。
 全ての事の始まりは、人里に行って憂いをなくしたためか、更なる探究心、そして社会勉強のためにと橙は一路、妖怪の山と呼ばれる妖怪達が人間とはまた違った社会を形成する山へと向かうことにしたのだ。
 その道中に、急に宙より飛来してきたこの鴉天狗に捕獲された、というところなのだが。


「…あの? 取材って何ですか?」
「あやや。これは失礼致しました。私は射命丸 文。私は「文々。新聞」という新聞を発行しておりまして、その記事の取材をしたかったんですよ」
「取材?」


 射命丸と名乗った鴉天狗の言葉に橙は首をかしげる。取材という言葉の意味は橙の断片的に残っている記憶からどのようなものかは察することが出来る。
 要は自分のことを記事にしたい、という事なのだろうが、何故自分のことなど記事にするのかが橙にはいまいち理解が出来ない。


「はい。藍の式、だって聞いたときから機会は狙ってたんですけどね」
「藍様の知り合いですか?」
「腐れ縁ですよ」


 清々しい顔で言う文に橙はなるほど、と納得の表情を浮かべる。簡単に言えば幼馴染みなのだろう。恐らく憎まれ口をたたき合うようなそんな関係。
 多分そうなのだろうなぁ、と思いながら橙は空を見上げたまま思う。自分は一体どこへ向かうのだろうか? と。
 その橙の疑問に気付いたのか、文は笑みを浮かべて。


「あぁ、これから向かうのは私の家ですよ。そこで取材させてもらいますし、良ければ妖怪の山を案内いたしましょうか?」
「え? 良いんですか!?」
「勿論ですよ。…まぁ、妖怪の山というのは排他的なものでして。いくら紫様の通行証があると言っても懸念は無いわけではないし、あの親馬鹿狐が騒ぎ出したらそれこそ面倒だし…」


 最初は普通に、しかし段々と文の声は小さくなっていき、傍にいる橙でもその声が聞こえなくなってしまった程だ。
 きつね、と聞こえたような気がしたが気のせいだっただろうか。橙が疑問に首を傾げていると、文が少し慌てたように先ほどと同じ声量で。


「と、とにかく、私がいれば色んな所行けますしね。だから交換条件、って事でどうですかね?」
「はい、ありがとうございます。射命丸さん」
「いえいえ」


 こうして、橙は文に抱かれたまま妖怪の山へと向かうのであった。






 + + + + +






 射命丸 文は1000年程生きた鴉天狗だ。社会を形成し、その頂点に位置する天狗という種族である彼女は非常に社交的である。
 天狗という種族そのものの特徴であるのと同時に、文は新聞の記事の為の取材をする為、多くの妖怪や人と関わってきた。
 そのため、人を見る目というのは自分の中でも肥えていると思っている。
 そんな射命丸 文から見た、橙という妖怪は一体どのような妖怪なのか?


 正直に言えば、変な妖怪。それが射命丸 文の第一印象であった。


 取材が始まってからの応答。どういった経緯で藍の式となったのか、という経緯については文も多少の事は知っていたとはいえ、改めて感じるのは我の強い妖怪だと思った。
 しかし我の強い妖怪だと思った割には怯え腰というか、やや一歩退いた感のある印象を受ける。
 例えば八雲 紫の話をしている時だ。彼女が家でグーダラしている、というのは大分知れ渡っている情報である。藍と親しい文も何度か藍の愚痴を聞いた事があるのでそれを知っている。記事にさえした事もある。
 あの藍でさえ紫には不満を漏らすのに、この橙というのは決して紫を貶す事はない。かといって何も思っていない訳ではなく、時折返答に詰まる事もある。
 が、それでも彼女はあまり他人の事を悪く言わない。全ては自分に責任があるのだとする。かといって相手の責を追求しない訳ではないが、かといって無闇やたらと責め立てている訳でもない。
 仕様がない、と割りきっているか、もしくは疑問を覚えているかそのどちらだ。多少の負の感情は見え隠れしているのはわかるが、それでも薄いものだ。


 我が強い妖怪ならば、自分の力を多少は誇示したいと思う気持ちがあっても良いものなのだが、この橙はそれが一切無いというべきか、無欲に近い。
 彼女の態度は相手を立て、かつ、自分を下げるというタイプの人間だ。変な深みにはまってしまえば空回りをし続けるタイプであろう。そしてそれが人に迷惑になった時、それを一生悔やむ程までに落ち込む事もある。
 こんな人間は確かにいる。しかし、妖怪でこんな妖怪がいるか、と問われれば少々首を傾げてしまう。


 妖怪というのは基本的に自分本位の者が多い。実際、人間という存在を狩る側という点では自らの力を誇って辺り前なのだ。
 例外というのはいるが、ここまで他人本位で動く妖怪というのは珍しいのだ。
 それは確かに珍しい事だ。思わずふと目を向けてしまいたくなるような雰囲気を彼女は持っている。


 妖怪らしくない。それが橙に対する評価として文の中で固まる。


「えー、それじゃ橙さんの身の回りの事も聞きましたし、じゃあ、何か能力とか持ってますか?」
「能力、ですか?」
「はい。私の場合だったら例えば、風を操る程度の能力、なんですけどね。紫様だったら境界を操る程度の能力、とかね」
「あぁ、なるほど。私の能力は、あらゆるものに反発する程度の能力です」
「…あらゆるものに?」


 ほぅ、と文の目に光が宿る。これはスクープの匂いがすると文の勘が囁いたのだ。その為、文の視線が獲物を狙うような鋭いものに変わって橙がやや怯え気味になったのは仕様がない事だ。
 コホン、と文は一度咳払いをし、気を落ち着かせてから一言、橙に謝った後に取材を続行した。


「例えば、どのような活用方法などが?」
「地面についている事に反発して跳躍力を上げたり、相手に触れさせないように反発して防御するとか、そんな感じの使い方してますね」


 なるほど、と文はメモを取りながら橙の能力の考察を進めていく。
 あらゆるものに反発する程度の能力。これは見方によっては恐ろしく遣りがたい相手となる可能性がある。防ぐ、という事に関して言うならば将来の成長を見込んでも幻想郷の1、2を争ってもおかしくない。
 妖力があればあるほど、どんな攻撃でも見切ってしまえばその反動に反発し、その衝撃をゼロに出来れば、地面に反発する事によって逃げ出す事も可能だ。
 生存する為に、という意味においてはこれ以上と言う以外に無い程、適した能力だ。なるほど、橙に目覚めてもおかしくない能力だ、と文は魚屋の話を思い出して頷く。


「なるほどなるほど。貴方の事は大分わかりましたよ。後は、今後の目標などとか―――」


 文の取材はまだまだ終わる気配を見せる事は無かった…。





 + + + + +





「いやぁ、すっかり遅くなってしまって案内とか出来なくなってしまって申し訳ないです」
「いえ、私も藍様の話を聞けて楽しかったですから。今日はありがとうございました、射命丸さん」


 もう日は暮れ始めている。その日の光を浴びながら文は申し訳なさそうに後ろ頭を掻きながら橙に謝っていた。
 橙は文の謝罪に対して特に気にした様子もなく、逆に笑みを浮かべてお礼を言い返していた。
 あの後、取材も長引き、その間に藍との昔話なども入れてしまった為に妖怪の山を案内するという約束を破ってしまった事に文は申し訳なさを感じている、という訳だ。
 本当に人の良い妖怪だ、と文は苦笑する。騙そうと思えば簡単にコロッ、と騙されてしまいそうな、そんな危うい子だ。


「…これは、目を離したくなくなるわね」
「? 何か言いました?」
「いや、なんでもないですよ。それより、またいつか来てくださいね。その時はゆっくりと案内して差し上げますから」
「はい! また来ますから、その時はよろしくお願いしますね!」


 ふわり、と宙に浮きながら橙が飛んでいく。彼女が飛んでいく方向は人里の方向だ。本当に変わった妖怪だと文は思う。
 さて、と文は呟きを1つ入れた後、家に戻って橙の事を記事にしようかな、と考えた時だった。
 文は背後に感じた気配に一瞬身を固くした。が、その気配が感じた事のあるものだったので、落ち着いて文は振り返って。


「…何かあったの? 椛」


 問う文の視線には、一人の少女が映っていた。白銀の髪に、山伏の格好をした少女だった。だが普通の少女と違うのは、その耳が狼の耳である事と、狼の尻尾がある事だ。
 彼女は白狼天狗と呼ばれる者達だ。天狗の者達の中でも下っ端で主に雑用や哨戒などの任務に当たっている事が多い。
 その中の一人、椛と呼ばれたこの少女の名は犬走 椛。文に気に入られ、間柄は友人のようなものだ。元々は文が上司で、椛が部下、という形であったのだが。
 今でもそれは代わりは無いが、基本的に文は椛とフランクに接している。だがしかし、今の文の気配は「上司」としてものだ。椛の纏う雰囲気が自然と文に緊張感を抱かせる。


「はい。天魔様が召集をかけられております。至急、天魔様の下に集まるように、と」
「…召集、ですって? 珍しいわね。何かが起きたというの?」
「…近頃、妖怪の山に属さぬ妖怪、または妖怪の山の下級妖怪達が何者かによって集められ、統率され始めているとの噂が流れておりまして…」
「…本当なの? しかし、今の幻想郷にそんな真似をする奴なんて」


 文は疑問を隠しきれずに呟きを零す。弱体化傾向にある妖怪達は無気力になりつつあるという傾向がある。
 そんな中、妖怪達が統率の動きを見せる。それは「今から何か起こします」と宣言しているようなものだ。
 そもそもの妖怪達の弱体化の原因は、人を襲えなくなってしまい、食糧係から食事が提供されるという妖怪の在り方に反する事となってしまったからである。
 それに不満を持つ者は少なかろう。事実、文は人を食いたいとは思わないが、現状には不満を抱いているのだが。だが、そのジレンマがわかる故に何も言えないだけだ。
 だからこそ、この状況で妖怪達を統率するというのは何かも前触れと文は確定した。しかし、その首謀者とも言える者の候補が挙がってこない。


「…調べてみる必要がある、か」


 誰に言う訳でもなく、文は小さく呟くのであった…。





 + + + + +





 ソレは赤。
 ソレは朱。
 ソレは紅。
 不気味なまでに紅に染め上げられた館がある。その館の中、幾人の者達が手を取り合い、音楽に合わせて踊り合う。
 よく見れば、それは妖怪達だ。彼等は飲み、食い、歌い、騒ぎ、誰もが興奮しているのがわかった。
 それもそうだろう。何故ならば長年溜めていた不満を吐き出す時が来たのだから。
 妖怪としての本分を果たす事が出来ずに生きてきた。だが、それも終わりだとすればこれは飲まずにはいられない。
 だから誰もが浮かれたように騒ぐ。その狂乱の宴を見つめるものが一人。
 年にしておよそ14、15辺りの少女だろうか。長く伸びた髪はやや銀色がかった薄蒼。瞳は髪の色に相反するかのように真紅に染め上げられている。
 纏うドレスは黒のドレス。一見喪服にも見えるが、やや混ぜられた暗い紅によって不気味さが醸し出されている。
 一見幼い容姿と相まって、それは少女にとても蠱惑的だ。少女はまるで血のように紅いワインを揺らし、それを優雅な動作で口に運んだ。


「楽しんでいるかね?」


 その少女に歩み寄ってきたのは老紳士と言うべい出で立ちの老人であった。だが、老人というには生気に溢れ、目は異様にギラついている。
 一見、紳士的な振る舞いもその瞳によって全てが胡散臭く見えてしまう。溢れる野心がその身から溢れているように見え、少女は小さく笑みを浮かべた。


「少しは隠したらどうだね。宴は楽しむべきものだ。しかし、御老体が子供のようにはしゃぐのは見ていては思わず目を覆いたくなるよ」
「そうかね。楽しい、そうさ楽しいのだよ。そして楽しみなのだよ。この地を統べるという妖怪というのがどれだけの強さなのか。私は私の高みを見切っていない。今度こそ見極められるか、楽しみで仕方がない」
「自殺志願かね。やれやれ、とんでもない者達に騙されたものだ。彼等も哀れだろうな」


 ククッ、と少女は歪んだ笑みを浮かべて会場で湧く者達を見つめる。そこには憐憫の感情が込められている。それを見た老紳士も喉を鳴らして。


「君も人の事を言えないのではないかねぇ? 見極めは君もまた同じだろう?」
「さてね?」
「狂っているという点では私も同じだろう? 同族すらも生贄に願いを果たさんという意味ではね? ただ私は死に向かい、君は生へと向かうだけだ」
「やれやれ。饒舌なのはこの宴の気分に飲まれた為かい? ならば迷惑この上なし、精々あちらで死ぬまで踊り狂ってろ」
「機嫌を損ねないでくれ、レディ」


 悪戯をするような表情で老人が笑う。それに少女は少し眉を寄せて。


「ミスタ。あまり私の事情に入れば幾ら貴方と言えど始末せざるを得ない」
「くくっ、それは失礼。紅の名は君には少々苦痛かね?」
「―――ミスタ?」
「おやおや。これはこれは。失礼、失礼したよ。だがまだまだ、まだまだだよ。君はまだ若いね。感情を露わにするのはみっともないのだろう?」
「私はまだ若いのでね。癇癪で玩具を壊してもまだお叱り程度で許して貰えるさ―――死ぬかね? ミスタ」
「魅力的なお誘いだ。だが、私のダンスパートナーはまだ見ぬ賢者殿なのでね。それはまたの機会にしよう」


 では、と老紳士は軽く頭を下げて宴の中へと紛れていく。その姿を見送った後、少女はチッ、と苛立ち気に舌打ちをした。
 だが、ゆっくりとその苛立ちの表情を消していき、残っていたワインを一気に飲み干す。僅かに零れたワインがゆっくりと口の端を伝っていく。それをゆっくりと手の甲で拭う。

「…そうさね。私は狂ってる」


 見上げる月は青白い光りを放っている。あぁ、月は紅に輝いた方が好きだな、と思いながら少女は月を見上げた。


「…狂ってやるさ。あの戒めを解き放てるならば」


 だから、ここに来た。見極めに来た。
 あの子の涙と、あの子の戒めを解き放てるならば私は幾らでも狂おう。
 私には出来なかった。だからこそ、私という存在を代価にしてでもその鍵は手に入れて見せる。


「…東の地の果てにありし楽園、か」


 私の望む鍵は、この楽園にあるのだろうか?
 少女は問う。月は答えを返さない。返す者はまだいない。少女の前に立つ者は、まだ、誰も…。









[16365] 黄昏境界線 10
Name: 道化◆5a734804 ID:d4ec8ce0
Date: 2010/02/10 21:20
 夜が、来る。
 幾ばくかの夜が過ぎた。歌い、騒ぎ、待ちわびた。
 この日の為の宴。どれだけ踊ったか。どれだけ期待に胸を躍らせたか。
 今は今まで以上に鼓動の音を鳴らし、期待に息を呑み、心を躍らせる。


「――時は満ちた」


 澄み渡った声が響く。それは紅黒の衣を纏う少女の姿。その背にはコウモリにも似た翼が大きく広げられている。
 月をバックにするかのように浮かぶ少女の姿を誰もが見つめた。彼女と共に旅してきた者達が、彼女等の誘いを受けた妖怪達が、そして先日の老紳士が。
 それぞれが、それぞれの思惑を胸に、それぞれの意志を持ってして、今ここに集った。


「諸君、ここに集ったのはある種、必然であろう」


 何故ならば私達は妖怪だ。人を襲い、喰らい、人に恐怖を与え、恐れられるべき者達なのだから。
 与えられた餌では満足は出来ない。何故ならば我等は生まれしその時より狩人なのだから。
 我等は獣ではない。与えられた檻で、与えられた餌では満足が出来ない。闘争を、血を、心と身が沸き立つような宴を。


「さぁ、諸君。始めよう。我等が我等であるが為に。己が望みが為に喰らい尽くせ。恐れるな、恐れさせろ、理は我等にあり。恐れられよ! それこそ我等、妖怪の本分だっ!! 今宵、狩りの時間ぞっ!! 今までの鬱憤を解き放て!! 喰らえ、心ゆくまで!!」


 少女が口元に笑みを浮かべ、片手を振って告げた。声が上がる。狂気にも浮かされた声だ。それは正に歓声。
 少女は嗤う。老紳士は嗤う。踊れ、踊り狂い、そして望むが物を得る為に。
 さあ、宴を始めよう。我等が我等である為の、その宴を…。





 + + + + +





「あいたた…すいません、慧音さん…」
「いや、良いさ。それよりも…これは痛いだろ? まったく、あの子達は…」


 ここは人里にある慧音の家。そこには家主の慧音と橙がいた。慧音は救急箱の中に塗り薬を片付けながらあぐらをかいて座っている橙は頭に手を伸ばして苦笑を浮かべている。
 既に時刻は夜だ。何故橙が八雲邸に帰らずこうして慧音の家にいるか、と言うと理由がある。
 今日も今日とて子供達の悪戯に引っ掛かった橙。流石に今日はとっちめてやろう、と意気込んだ橙なのだが、子供達が仕掛けた罠が予想以上の効果を発揮し、橙の頭部に強い衝撃を与えてしまったのだ。
 罠の内容は、簡単に言えば上部に設置されていたバケツがひっくり返り、橙を水浸しにする罠だった訳なのだが、水が大敵な橙は慌ててこれを回避し、壁に衝突。更にはその衝撃で不幸な事に物が降り注ぎ気絶してしまったという訳である。
 妖怪で無ければ死んでいた可能性もある、と言われ、子供達も慧音と親から多大な説教を受け、流石に凹んだ顔をしていた。
 橙は気絶していた為にその顔は知らないが、これで懲りてくれれば良いなぁ、と密かに思っていた。


「いた…やっぱり、こぶになってるかなぁ?」
「あぁ、完璧にな」


 こぶになっていると思われる部分に触れて軽く涙目になる橙。それに苦笑を浮かべる慧音。


「…藍様も、紫様も心配してるだろうなぁ」


 橙は八雲邸から離れる事が多くなり、時には家に帰らない事もある。その時は藍に少し過剰とも思われる心配をされるのだが、それは橙にとってはむず痒くもあるが嬉しいものだ。
 紫も言葉にはしないが、橙の事を思ってくれている事は橙にもわかっている。故にこうして帰れなくなってしまった時はつい思ってしまうのだ。


「慧音さん、ありがとうございました」
「何。構わないさ」


 橙はあぐらを解いて、手をついて軽い動作で立ち上がる。


「もう帰るのか?」
「心配かけちゃってますから」
「もう少しゆっくりしていっても良いんだぞ?」
「ははは、気持ちはありがたいですけど、大丈夫ですよ」


 橙の身体を心配している慧音はもう少しゆっくりしていっても良いと思うのだが、橙は苦笑を浮かべて首を横に振った。
 慧音の申し出は正直に言えば有り難いが、特に身体に問題が無ければ早く2人の下へと帰ってやりたい、と橙は思う。
 そして、橙がそのまま玄関へと手を伸ばし、外へと出ようとしたその時だった。
 橙が扉を開くよりも早く、外から何者かによって扉が勢いよく開かれる。開かれたその扉の先には焦燥しきった顔で息を荒くしている青年の姿。


「た、大変です! 先生! よ、妖怪達が押し寄せて来ました!!」


 一瞬、橙はこの青年が何を言ったのか理解が出来なかった。しかし、慧音が驚いた顔を見せ、すぐに慌てた様子で青年に事情を問うている。焦っている為か、その声は怒声のようにも聞こえる。
 その声すらも耳に入らない。ただ橙は今聞いたばかりの情報を飲み込もうと必死に脳を働かせていた。


「――――ッ!!」
「橙ッ!? まて、橙!?」


 ドンッ、と勢いよく大地を蹴り橙は跳んだ。飛行の術を会得している橙だが反発の能力を用いる方が駆け抜けるのは速い。
 ドンッ、と反発の能力を使い駆け抜けていく。ただ闇雲に走っていたが、橙はすぐさま人里へと向かってくる妖力を感じ、そちらに進路を変更する。


「待てっ! 橙!! 待てと言っているだろうがっ!! あぁもうっ!!」


 その後ろを慧音が空を駆け追うが、橙の移動速度は速い。その速度は地を駆けるならば天狗よりも早いのではないか、と思う程だ。
 橙はまだ年若く、妖力もまだ大した事の無い妖怪。それが慧音の橙に対する評価だ。ならば橙がこのまま向かっても返り討ちにされる可能性が高い。 
 一匹や二匹のレベルではない。正に集団規模なのだ。慧音は思わず絶望的な状況に歯を噛む。
 しかし妙だ、と慧音は思う。最近、力を落としつつあると噂されていた妖怪達がこうして人里を襲うというのはとても奇妙な事態である。
 人里など襲ってしまえば、妖怪の賢者が直々に鎮圧の為に動く可能性もある。そうなれば並の妖怪などひとたまりも無い筈だ。
 そこまで妖怪達は追い詰められていたのだろうか。だが、今回の件はそれだけではないような気がする、と慧音は感じていた。
 いくら追い詰められていたといっても、食糧は定期的に妖怪の賢者が提供していたという話しだ。力は落ちるかもしれないが、それでも生き延びる事は出来る。
 その不満が爆発するには、あまりにも不自然すぎる。あぁ、確かに納得のいかぬ事であろう。だが、妖怪の賢者を敵に回す事と天秤にかけるには余りにも軽すぎる。
 一体何故? 思考は巡る。だが、考えてばかりもいられないと慧音は先を急いだ。
 慧音の視線の先、先行する橙のその先に妖怪が現れた。その種類は多数。低級妖怪の軍勢である。


「止まれッ!! 人里には襲ってはいけないと協定があるのを忘れた訳じゃないだろう!?」


 先行していた橙が足を止め、妖怪達へと声を張り上げる。
 その橙の声は響くようにして妖怪達へと届いた。妖怪達は橙へと視線を向け、足を止めていたが、すぐに声を挙げた。


「知るものか!」
「妖怪が人を襲わないでどうするんだ!」
「協定だぁ? 知った事かよ!!」
「こっちは妖怪の賢者に負けねぇ程の強い味方がいるんだよ!! どっちを取るかなんてわかりきった事だろうが!!」


 次々と妖怪達は声を挙げていく。その心は皆1つ。妖怪の本分を果たすという事に集約されている。
 わからないでもない。妖怪は人を襲い、喰らう。それが妖怪達の大きな存在意義の1つだ。人に害なす存在、それが妖怪なのだから。
 そして人間はその妖怪を退治する。それが昔に存在した人間と妖怪の関係の在り方であった。
 しかし、今は妖怪の存在すらも危ぶまれ、人は大きくその文明を発達させていった。故に生まれた幻想郷。幻想の最後の楽園。
 だからこそ皆従ってきた。そうしなければいけなかった。生きてはいけなかった。
 だが、それはどういう意味を孕むのか。制限がされるという事は、皆全てに行き渡る訳ではない。行き渡ったとしてもそれは微々たるもの。
 故に奪い合いが生じ、力の弱い者は淘汰されてゆく。橙にはその妖怪達の気持ちが居たい程にわかった。わかってしまったのだ。
 何故ならば、過去の自分がそうだから。人里の魚屋から魚を盗まなければ生きてはいけなかった。禁忌だとわかっていても犯すしか無かった。
 そうしなければ生きていけなかったから。


「巫山戯るな!! 人里が滅べばこの幻想郷のバランスが崩れるぞ!! そうなれば待つのは滅びだっ!! 何を血迷っているか!! 即刻去れ!!」


 橙の横に並び立った慧音が声を大きく張り上げて告げる。その慧音の力強い言葉に橙は一瞬、彼等に同調しかけた意識をハッとさせる。
 そう。妖怪は人無くしては生きてはいけない。故に人という存在が必要だった。だからこそ人里を襲撃してはならないという協定が生まれた。
 全ては守る為に。そう、幻想郷を守るために。そして幻想郷を守るという事は妖怪を守るという事。
 ここ以外に、一体どれだけ妖怪が生きていける世界があるのだろうか。いや、恐らく無いであろう。あったとしても、一体どこにあるのかさえわからない。


「血迷うのは貴様等だ。何故、妖怪の身でありながらそこに立つ?」


 不意に、その声は響いた。慧音と橙はすぐさま、視線を声の方向、空へと向けた。
 ふわり、と夜の空より舞い降りるように紅黒の衣を纏う少女が降り立つ。銀色がかった薄蒼の髪を揺らし、真紅の瞳を冷ややかに橙と慧音に向ける。
 その背に広がるのは蝙蝠の翼。その姿に、橙は脳裏から浮かび上がってきた言葉を呟いた。


「…吸血鬼…?」


 そう、覚えている。人であった魂が囁いてくる。それはその魂に刻みつけられた記憶。
 その知識は色々な妖怪の名を記憶している。だがしかし、その中で印象深いものの1つにこの吸血鬼が上げられる。
 ほぅ、と目の前に降り立った少女は橙に興味深げに視線を送る。慧音は橙の言葉に目の前に立つ者が何なのか理解する。


「…貴様、幻想郷に来てから日が浅いな? 吸血鬼が来たという歴史は幻想郷には存在しない」
「確かに。私達がここに辿り着いたのは確かに近日の事だ」
「ならば教えてやろう。このような馬鹿な真似は己が首を絞めるだけだぞ? 直ぐさま退け。さもなくば…」
「妖怪の賢者が現れる、か? ふ、望む所、と言わせて貰おうか。その妖怪の賢者を打ち倒し、この幻想郷を手中に収める。それが我等の目的だ。その為には力がいる。力を得るためには何が居る? 糧がいる。糧とは何か? 人だ。ならば人を喰らわなければならない。故に襲う。故に、都合が良い」
「貴様…本気かっ!?」
「本気でなければこのような真似はしない。―――無駄な時間を浪費するつもりは無い。さぁ、好きなだけ喰らえ。私が許そう」


 少女の宣言に、妖怪達がいきり立ち、人里へと強行しようとする。
 押し寄せる大群。それは1つの固まりとなりて人里へと押し寄せんと向かってくる。


「くっ! いかんっ!!」


 慧音が咄嗟に妖力を弾丸へと変えた弾を放ちながら牽制し、妖怪達を食い止めようとするもそれは焼け石に水の如く、意味を成さない。
 慧音は確かに強い。そこいらの妖怪などには簡単には負けない。だがそれでも今の状況、慧音では手が足りなすぎる。理解はしている。だがそれでも慧音は立ち向かう事を選択する。
 慧音は動いた。だが橙は動けない。橙の脳裏には絶望的な光景が広がる。人が、知り合った人が、魚屋の主人が、主人の少年が、皆、食われ、引き裂かれ、血の海に沈むその光景を。
 吐き気が橙を襲う。グルグルとかき回すかのような不快感。その胸に種火が灯るように1つの感情が襲う。
 慣れてきた感覚。されど気を抜けば飲まれてしまいそうな感覚。身体が震えた。
 高鳴る鼓動。高く、強く、熱く、それは橙の身体に満ちていく。
 慧音が咆哮を上げ、侵入を拒もうとしているが叶わない。このままでは想像が現実となる。
 死ぬ。死んでしまう。悲鳴を上げ、恐怖に怯え、絶望に苛まれていってしまう。知り合った人達が、皆、全て―――。


「させるもんかぁぁぁああああああっっ!!!!」


 震えを振り払うように橙は声を高らかに挙げた。
 橙は駆ける。誰よりも早く、何よりも早く、誰の目にも止まらぬ早さで、誰にも目にも止まらぬ早さで。
 人里の入り口、そこに地に片手と両足を擦りつけながら橙は阻むように構える。
 巫山戯るな。
 鼓動が高く跳ねる。熱く跳ねる。強く跳ねる。全身から汲み上げるかのように橙の妖力が集束していく。
 やらせはしない。
 慧音が驚いた声で自分の名を呼んだのが聞こえた。だが、意識は向かってくる妖怪達に集中している。
 ここから一歩も。


「通すものかぁぁあっっ!!」


 妖怪が一歩、更に踏み出した。橙の脳裏に何かの歯車が噛み合うように思考が爆発した。
 ここから通るな。踏みいるな。去れ、と。
 それは反発。望まぬ未来を呼び起こす者達を、その存在を、その進撃を、許すわけにはいかない。
 更に妖怪達が迫る。橙は想像する。自分の妖力ではこの妖怪達の全てを相手に出来る訳が無い。
 だが、やらなければならない。出来ない事だ。だからやらないのか。違う。ならばやれる為の手段を持ってくる。
 反発の能力が作用し始める。到らぬ自分を、足りない自分を、叶わぬ自分を。


「ぎっ…!?」


 身体が引きちぎられるような激痛が走った。反発の能力が自身を反発し始めた。
 脳裏にヴィジョンが映る。そこにいたのは、紛れもない自分で。
 あぁ、橙。お前は弱い。お前は情けない。お前は護れない。お前は防げない。何一つとして得る事など出来ない。ただ生き足掻く事しか出来ない。
 だが、だけど、しかし、されど、それでも――――。


「橙!! 退けぇっ!!」


 慧音もあぁ言っている。さぁ、逃げろ。お前がすべき事は行き足掻く事だ。
 禁忌だとわかっていても盗みを働き、生き足掻いた姿こそお前の姿だ。何を捨てでも、何を利用してでも生き残れ。
 そう、生き残れ。それがお前の望みだ。それしか望めない。だから望め。
 だが、だけど、しかし、されど、それでも、そう、それでも――――!!


『ただいま、橙』


 声が。


『おはよう、橙』


 聞こえる。


『おぅ、橙ちゃん! 魚買ってくか?』


 大事な、人たちの声が。
 藍様が、紫様が守りたい世界。幻想郷。
 そこにいる人々。そこに生きる生命。魚屋や、人里の人達の姿が。
 守らなきゃ。そう、守らなきゃいけない。
 だけど、お前に何が出来る。
 何も出来ない。
 じゃあ諦めろ。
 嫌だ。
 なら――――。





 + + + + +




「――――ッ!?」


 結界の見回りに出ていた藍は勢いよく振り返った。そこに何か居る訳ではない。
 だが、感じたのだ。それを。それが彼女との繋がりだから。


「橙…?」
「藍ッ!!」


 確かめるように藍は小さく呟く。そこに唐突に思わぬ声が聞こえた。
 振り向けばそこには漆黒の羽を羽ばたかせ、急速な勢いで迫ってくる射命丸 文の姿があって。
 珍しく焦燥に駆られた文は息を荒くしながら、藍に向けて叫ぶように告げる。


「大変よっ! 人里に向けて妖怪達の集団がっ!!」


 ――――橙ッ!!




 + + + + +





 現状に不満がある時、人はその時どうするであろうか。
 まずは、諦めてしまう者がいるだろう。
 次に、何とかしようと努力する者がいるだろう。
 明らかに彼女は後者の人間だ。それがその能力を体得した根源でもあるのだから。
 そう。彼女は抗う。抗い続ける。そこに望むがある限り。
 そこに山があったとしても、そこに大河があったとしても、そこに死神が笑っていたとしても、あらゆるもの全てが彼女を否定したとしても。
 生き物とは、進化する。生き延びる為、生き抗う為、環境に適応し、その姿を変え、その能力を特化させてきた。
 得るために。越える為に。





 ―――無数に居た妖怪達がたった一撃で吹き飛んだ。





 慧音は目を見開いた。思わずその足を止める程であった。
 揺らめくように莫大な量の妖気が橙の周りを取り巻いている。先ほどまでは感じられなかった橙の妖力だ。
 馬鹿な、と慧音は思考する。橙の妖力は日々感じていたが、あそこまで大きくは無かった。
 今まで何らかの手段でその妖力を封じていたのか? いや、そんな気配は無かった。
 そう、まるでいきなり容量が増えたように橙の妖力は急速に増したのだ。
 そして、その妖力を込めた薙ぎ払い。それが妖怪達を薙ぎ払っていったのだ。
 慧音の眼前には静かに佇む橙がいる。その瞳は何を移しているのかわからない程に虚ろ。
 ふと、橙の身体が一瞬揺らめいたかと思った、その瞬間。




 ――…ご…ふ…っ…。




 橙の口元から血が大量に吐き出された。橙は何度か蹈鞴を踏むようにふらつき、片膝を付いて更に血を吐き出す。
 茫然としていた慧音であったが、すぐに橙の傍に駆け寄って行った。


「橙ッ!? どうしたっ!?」
「…け…いね…さ……。だい…じょう…ぶ…反動が…強かった、だけ、ごほっ…」
「お、おいっ!?」


 何が起きているのか理解が出来ない慧音はただ困惑するしか無い。


「…興味深いな」


 それは吸血鬼の少女の声。その視線は一点に橙へと向けられている。慧音は橙を庇うかのように立ち、吸血鬼の少女を睨み付ける。
 だが、その慧音にはまるで興味がない、と言わんばかりに少女の瞳は橙を捉えている。


「明らかにそこまで強力な妖怪では無かった筈だ。だが、いきなり妖力が跳ね上がったな? …そしてその代償としてダメージを受けた、と言った所か? しかし、どのような能力を用いた?」


 一歩、また一歩と吸血鬼の少女が橙と慧音へと近づいていく。慧音が耐えきれず、光弾を解き放とうとしたその時であった。
 橙と慧音、少女の間に何かが飛来し、大地を踏み砕きながら立ちはだかった。
 それは黄金に輝く九本の尾、凜とした瞳が敵意を露わにし吸血鬼の少女へと向けられる。


「…それ以上、橙に近づくな」


 断固たる意志を以てして、藍は吸血鬼の前に立ち塞がるのだった。




[16365] 黄昏境界線 11
Name: 道化◆5a734804 ID:d4ec8ce0
Date: 2010/02/10 21:22
「…ら…ん…さま…?」


 途切れ途切れになりながらも自らの主の名を呼ぼうとする橙に藍は振り向かない。ただ彼女と守るかのように立ちはだかる。その瞳には隠しきれぬ敵意と怒りが込められていて。
 その藍の視線を真っ向から受けるのは吸血鬼の少女だ。藍を興味深げに観察し、何度か頷いて。


「ほぅ、これはこれは…。かの有名な九尾の狐。管理者の式に九尾の狐がいると耳に挟んでいたが…貴君で間違いないかな?」
「…知っているならば話は早い。幻想郷の協定を破ったのだ。それ相応の覚悟は持っているのだろうな?」


 藍の妖力が揺らめくように放出される。橙の一撃によって吹き飛んでいた妖怪達の中には恐れを為すように悲鳴を上げる者も現れる。
 九尾の狐。それは妖獣の中では最高峰とされる種族。最強の名を欲しいままにした国すら滅ぼす妖獣、それが九尾の狐だ。
 その九尾の狐と対峙する吸血鬼の少女はニヤリ、と笑みを浮かべて。


「無論だとも」
「…そうか。ならば、貴様を排除する」
「排除される訳にはいかないな。そこの妖獣に興味があるのでね。納得がいくまで調べてみたいのだよ」
「ならば、尚更だな。貴様はここで殺す」


 藍が足に力を込め、勢いよく大地を蹴り跳んだ。向かうは吸血鬼の少女へと一直線に。
 向かってくる藍に対し、吸血鬼の少女も真っ向から藍を受け止める。藍の繰り出した蹴りを両腕で受け止めながら少女は笑みを深めて。


「私の名はラクチェ・スカーレットだ。覚えておけ、九尾の狐」


 ラクチェと名乗った吸血鬼の少女は妖力を解放する。藍はその妖力に押し返されるように後方へと飛ばされるが、すぐさま大地を踏みしめ直し跳躍。それに合わせてラクチェも爪を構えて藍へと飛びかかった。
 ラクチェが上段から藍を引き裂かんと振り下ろした爪を藍は拳で手首を受け止め、逆の拳をラクチェの腹に叩き込もうとするも、ラクチェの逆の手が藍の手を受け止める。
 互いに両の手を解き放ったのは同時、一歩距離を置き、再び互いに距離をつめ、今度は手と手が組み合い、力比べへと移行する。


「おぉぉおおおおっっ!!」
「あぁぁああああっっ!!」


 互いの妖力がぶつかり合い渦が出来る。妖力の渦は風を巻き起こし、大地を抉り、その周囲の地形を変形させていく。
 その妖力のぶつかり合いに、先ほど橙に吹き飛ばされた者達の中の一部が恐れを成したように逃げていく。
 だが、その戦闘を好機と見た者がいたのか一部が藍とラクチェの戦闘を避けるようにして人里へと進行しようとする。


「っ!? しまった!?」


 慧音はそれに気付き、舌打ちをする。すぐにでも彼等を阻みに行きたいが、明らかに重傷の橙を放って止めに行くのは憚られる。だが、それでも放っておけない。思わずどちらを取るべきか、と慧音は思考する。
 だが、慧音の迷いは降り注ぐものによって払われる事となる。頭上より降り注ぐのは大量の札だ。しかもただの札ではない。それは妖怪達の身体を焼き、貫き、妖怪達の進行を阻む。
 慧音はハッ、として空を見上げた。そこには一人の老女が浮かんでいた。白と赤の巫女服を身に纏い、色の抜けた白髪を後ろで尻尾のように結んでいる。明らかに気怠げな雰囲気を纏った老女はあからさまに溜息を吐き出して。


「やれやれ、老体を働かせるもんじゃないよ。妖怪共」
「! 博麗の巫女!」


 助かった、と言わんばかりに慧音は声を挙げた。博麗の巫女。それはこの幻想郷の維持に深く関わる博麗神社に仕える巫女である。
 代々受け継がれながら存続してきた博麗の巫女の使命はこの幻想郷を揺るがすような異変が起きた際にはその妖怪を退治する役目を持っている。
 こうして異変の匂いをかぎつけてやって来たのだろう。ゆっくりとした速度で地上に降りて手慣れたように結界を展開する。
 その結界は妖怪達の侵入を容易としない。誰もが博麗の巫女の登場に戸惑いを覚えているようだ。
 そう、何故ならば博麗の巫女は既にかなりの高齢と達していると聞いていたからだ。そしてその情報は違わず巫女は老いている。しかしその身に纏う空気は本当に老体のものなのか、と妖怪達は困惑する。


「……慧音、随分な状況じゃないか。どうなってるんだい?」
「…今、八雲 藍が首謀者と思わしき妖怪と闘ってる」
「見たことのない妖怪さね。新しい妖怪? 随分と舐めた真似してくれたじゃないかい。ま、藍が働いてるって言うなら、私の仕事は雑魚の掃除かね」


 ふぃー、とわざとらしく肩を回すようにしながら博麗の巫女は息を吐き出す。ふと、博麗の巫女は慧音に守られるようにして蹲る橙へと視線を向けて。


「…何だい。変わり者の妖怪が増えたのかい?」
「…八雲 藍の式だそうだ」
「ほぉ! そうなのかい。なら、ご苦労だったね。後は…」


 新たな札を構え、お祓い棒を片手に博麗の巫女は獰猛に笑う。御老体が浮かべる表情とは思えぬ程活気に満ちた顔のまま。


「私の役目さね」


 妖怪達に向け、博麗の巫女が投げた破魔札が勢いよく飛翔した。
 飛び交う破魔札に逃げ惑う妖怪達。次第に戦意を失っていき、人里から離れていく。
 空気が爆ぜるような衝突音と共に地を削りながら藍とラクチェが距離を取り合う。


「良いのか? 仲間が逃げていくぞ?」
「仲間? 体の良い駒だよ。少なくとも無駄じゃなかった。私の目的が叶えられそうだ」
「…目的? 貴様の目的は何だ?」
「答える必要があるか? 割らせたければあの子を差し出すか、私を地に着けてみろ。九尾の狐」
「ならば、沈めッ!!」


 藍が勢いよく駆け出し、上段から踵落としをラクチェへと仕掛ける。ラクチェは後ろにバックステップを踏み、バク転で回避。藍の踵が地面を踏み砕き、更に藍が地面を蹴り、ラクチェへと迫る。
 そして再び戦況は藍とラクチェの爪と拳の応酬へと変わる。慧音はその戦いに息を呑んでいた。目にも止まらぬその応酬に割ってはいる余地など存在しない。互いがぶつかり合うだけで妖力が周囲を震わせる。正直、馬鹿げているとさえ慧音は思った。
 その光景を逃げ惑う妖怪達に破魔札を投げつけていた博麗の巫女も視線を向ける。口の端を吊り上げ、おもしろいものを見るような視線で2人の戦いを見据えて。


「さすがは九尾の狐。それに食らい付いてくる新顔もやるねぇ。私もあと30も若ければやれない事は無いかね」


 正気か、と思わず問いたくなる慧音であったが、博麗の巫女というのは妖怪退治を生業として今まで継承されて来た者だ。もしかしたら全盛期の彼女ならば本当に良い勝負をしたのかもしれない。
 老いたとはいえ、その絶対的にも近い存在が傍に居る事に慧音は安堵を覚える。今は当面の危機は去ったと見ても良いだろう。
 ならば後はあの首謀者を捕らえれば全て終わる筈だ、と慧音は思っていた。
 が、ふと。その妖力はいきなり漂ってきた。それは今、眼前でぶつかり合っている藍やラクチェと互角、いや、ヘタすればそれ以上の力を持つ気配。


「随分と楽しんでいるね。羨ましい限りだよ」


 藍とラクチェの妖力が互いをはじき飛ばし、ラクチェは唐突に現れた気配、そこに立つ老人の下まで下がっていく。


「遅いぞ」
「なぁに。余興は楽しむものさ」


 互いに笑みを浮かべあい、言葉を交わす2人に藍は一歩足を引かせ、構えを取る。警戒するように2人を見据えるが、その額には汗が滴り落ちる。
 その妖力。ラクチェの妖力を明らかに越えている。おい、と慧音は震えた声で呟きを漏らし、博麗の巫女もまた目を細めた。
 老人の背には見事なまでの蝙蝠の翼がその存在を主張しており、それが彼の種族を嫌にも理解させる。そしてラクチェと親しげに話す様子からもそれは推測できる。
 こいつもまた、吸血鬼だ、と。


「…初めまして、と言うべきかね? 九尾の狐殿」
「…お前は」
「お初目かかる。私はラバル。まぁ、見てのところ吸血鬼と言ったところでね」


 ニィッ、と口元を吊り上げてなのる老年の男性に藍は背筋を震わせた。勝てない、と本能的に力の差を理解する。このような恐怖にも似た感情を覚えたのはいつ以来の事か。
 数少ない経験の記憶が藍の危機感を強めていく。まずい、と。このままでは人里へと襲撃は避けられそうに無い。さらに、今は橙を狙われているこの状況。
 だが、そんな焦燥に駆られていた藍も希望を見出した。背後から感じられた妖気。それはよく知った自らの主の気配。


「本日は、本当に礼儀を弁えない客人が多いこと」


 ゆっくりと空間に生み出したスキマから体を優雅にこの大地に下ろし、その口元を扇子で隠しながら現れたのは、この幻想郷の管理者にして守護者、八雲 紫その人。
 彼女はいつものようにどこか胡散臭げな雰囲気を醸し出しながらも、その視線はただ眼前の吸血鬼へと向けられていて。その瞳には鋭さが宿り、強く彼らを睨み付ける。


「おぉ、これはこれは、お会いしたかったよ、幻想郷の管理者、八雲 紫殿!!」


 その紫の姿を見たラバルと名乗った老人はやや興奮したようなオーバーなリアクションで彼女の登場に喜悦の色を見せる。だが、その喜悦の色はどこか歪みを帯びていて、狂喜とも取れた。
 その様子に藍は眉を顰めたが、紫はどこ吹く風と言わんばかりに流す。ふぅ、と小さく息を吐き出し、ふと、視線を後方へと移す。そこには慧音に守られるようにして蹲る橙の姿がある。その姿を納めた後、紫は視線を吸血鬼二人へと戻し。


「あなた方は、少々悪戯が過ぎましたね。あなた達がどのような思惑でこのような事を成したかは知る必要も無ければ、興味もございませんわ」


 ただ、と紫は小さく呟き。


「私の大事な物に手を出した覚悟は、おありで? ならば、告げましょう。幻想郷の管理者にして守護者である八雲 紫の名において……あなた方を滅しましょう!!」


 紫の妖気が放出され、大気を震わせる。それは先ほど、ラバルが放出した妖気にも引けをとらないほどの強力なもの。それは彼女の怒りの印。
 大事な世界を、そして、大事な子を傷つけられた。そして傷つけた相手を笑って許せるほど紫は慈悲深くも寛大でもない。明確な殺意を持って紫は構える。
 それにラバルは愉快そうに笑いながら、ラクチェはただ、まっすぐ前を見据えながら。
 そして、四つの妖気が衝突し、周囲に衝撃波を撒き散らした。





 + + + + + +





 遠い、遠い地にて。
 暗い、暗い部屋。日の光も差し込まぬ闇の部屋の中。ただその闇の中に住まう者にとって闇とはまったく見えない世界ではない。
 かといって光の下にいるよりは見にくいのだが。その闇の中でただ蹲る影は瞳を伏せて、何も見ず、何も聞かず、ただ、ぼんやりと時間だけが流れていく。
 そこは、云わば牢獄。この闇の中に潜む者を閉じ込めておくための、そして同時に、守るための…。


「…あーぁ…」


 ふと、闇の中に声が生まれた。声からして、闇の中に住まう者は少女なのだろう。
 少女は、まるで後悔するかのように。だが、それでいてどこか安堵するように声を漏らす。


「…今、何してるかなぁ…」


 もう、ここには居ない温もりを。
 もう、傍に居てくれない温もりを。
 探るように、求めるように、手を伸ばそうとして、その手を自らの体を抱えるように抱きしめて。


「…もう、真っ赤にならなくて、すむんだ」


 ただ、真っ赤になるのが苦しくて。
 なのに、それでも笑ってくれる彼女が怖くて。嬉しくて。悲しくて…。
 だから、求めてはいけない。だから、忘れてしまおう。
 歌を歌おう。よく、あの優しい人が歌ってくれたあの歌を。
 闇の中、静かに歌声が響き始める。





 + + + + + +





 幻想郷を揺るがす大妖怪達の戦いは、紫とラバル、藍とラクチェという二つに分けられた。
 協力しあうのではなく、互いに互いの敵を押しつぶす。ただそれだけのために。
 紫とラバルは激しい空中戦を繰り広げる。紫が解き放った妖力の弾丸をラバルはその身で受け止め、進撃してくる。
 時にはその身が千切れ、ひしゃげ、骨も折れ、流血もしているのにも関わらず彼は突き進む。それだけの傷をものともしないのか? 否、それは違う。
 紫がどれだけ攻撃を重ねようとも、ラバルの体は瞬時に回復してしまうのだ。紫は何度目かわからない弾丸を解き放ち、小さく舌打ちを零した。


「ふはははははっ!! 楽しい、楽しいなぁっ!! 近づけん!! だが、死なぬ、死ねぬ!! もっとだ、もっとだ!! どちらかが生き、死するか、それまで終わらん、終われんなぁ!!」


 吸血鬼にも様々な吸血鬼がいる。その中でラバルという吸血鬼は、ひどく力押しの吸血鬼だ。しかし、力押しだけならば幻想郷には鬼という種族もおり、純粋な力では彼は敵わないだろう。
 しかし、彼の厄介なところは、その吸血鬼の特徴である不死性、つまりは再生能力にある。どのような傷も瞬時に再生してしまう化け物じみた回復力。
 いつからその身がこうだったのか、ラバルは覚えていない。もはやどれだけの時を歩んできたかはわからない。だからこそ、この一瞬を、この心躍る生死のやり取りを、痛みを、彼は心底楽しんでいる。
 まるで子供のように、無邪気に、ただ、そこに快楽を求めて彼は進撃する。ただ戦うためだけに、輝くその一瞬のためだけに。
 そのため、紫はラバルに動きを拘束されたも同然だ。撃っても撃っても倒れない敵。どうすれば倒せるのか? 紫はその方法を思案していく。
 一方、地上では藍とラクチェが激しい攻防を繰り返していた。爪を振るい、拳を叩きつけ、蹴りを打ち込み、互いの妖力をぶつけ合い。


「ぐぁっ!?」
「くっ!?」


 両者の力量はほぼ互角。互いに押し、引き合い、ぶつかり合う。ただ、その胸に折れぬ信念を胸に。ただ相手を打ち倒し、勝利を得、自らの願いを叶えるために。
 一度、二人は距離を取り合った。互いに荒い息を吐き出し、眼光だけはただ鋭く相手を見据えている。


「…強い、な、九尾…本当に、厄介な…」
「…お前が、何を…望んでいるかは…興味が無い…だが、私は橙のためにも、紫様のためにもここで倒れるわけにはいかないっ!!」
「…そう、だな。確かに、そうだ。守るべきものがあれば、倒れるわけにはいかないよなぁ…九尾、いや、八雲 藍!!」


 ラクチェの体から妖気が噴出する。そこには先ほどと変わらぬ気迫が満ちていて、ただ、ラクチェは藍を見据える。


「私は、泥でも、血でも、罪でも、何でも被ろう。それでも、守りたい方が、解放してあげたい方が、その涙を止めたい方がいる…」
「……」
「…その為に、そこを、退いてもらう。八雲 藍…!! あの方々の為に、この身、朽ち果てようとも!!」


 ラクチェが翼を羽ばたかせ、再び藍へと肉薄する。藍もまた、迎撃の為に拳を構え、ラクチェへと放つ。ラクチェはそれを掌で受け止め、藍は足を繰り出し、ラクチェの腹へと叩き込む。
 ラクチェがその一撃に血を吐き出すものの、藍の体をつかみ、密着するように離れない。藍が何かに気づき、身を引こうとしたが、ラクチェが離さない。


「私の能力は…封を施す程度の能力…」
「な、にっ…!?」
「貴様の意識を、封じさせてもらうっ!!」


 これが、ラクチェの狙い。
 確実に藍を捕らえ、確実に藍を封じるために。確実に、削り、目的を果たすために。
 それはただ一重に目標への執念。ラクチェの能力が発動し、藍の意識を閉ざそうと圧力をかけ始める。
 藍もそれに反発するように妖力を全開にする。二人の妖気がぶつかり合い、互いに押し合いを続ける。


「あ、ぁぁああああっっ!!」
「お、おぉぉおおおっっ!!」


 互いに咆哮を上げながら、藍とラクチェは妖力を反発させあう。
 徐々に、徐々にラクチェの力が弱まりを見せた。藍がそれを好機と見てラクチェを押さえ込もうと力を込めていく。
 が、ラクチェの目は死してはいない。その瞳に力強く光を秘め、ただ、藍を睨み返し。


「私、は…」


 ただ、朦朧とした意識が過去の記憶を呼び覚ます。倒れる、敗北する、その気持ちが少しでも顔を出すと、それは引き摺り出されるかのように脳裏に思い浮かべさせられる。





 ――変なやつ、壊されに来たの?


 ――そういうのが迷惑だっていうんだよっ!!


――もう、放っておいてよ!!


 ――…今まで、ありがと。





 閉ざされた扉。傷ついた体と心はただむなしく扉を叩くことしか出来ず、ただ、無力に嘆き、喚くことしか出来なかった。
 そっと支えてくれた手も、頭を撫でてくれる手も、優しく慰めてくれる言葉もただ責め苦のように思えた。ただ、辛かった。ただ、悔しかった。
 また、終わる。また、私は叶えられない。また、私はここで…。
 藍の圧力が増してくる。少しでも気を抜けばすぐにでも崩れ落ちてしまいそうだ。だが、それでも崩れ落ちない、崩れ落ちるわけにはいかない。
 真紅の瞳を更に紅の色へと染め上げ、ラクチェは目を見開き藍を押し返しはじめる。


「例え死しても、譲れないんだぁあああああ――――――――ッッ!!!!」
「なっ…!?」


 その叫びは、ラクチェの心そのものの叫びであったと言ってもよい。一転して形成が逆転し、狼狽する藍。
 互いの妖力が再び拮抗しあい、そして、周囲に光が満ち溢れた―――。






[16365] 黄昏境界線 12
Name: 道化◆5a734804 ID:d4ec8ce0
Date: 2010/02/10 21:24
 ――ぶつり、と。何かが切れるような音がした。





「――藍!?」


 紫は思わず自らの式の名を呼んだ。彼女との繋がりが薄く、いや、感じられなくなった。確かにその繋がりは存在しているはずなのに、肝心の彼女の意識というべきものが薄い。
 視線を移せばゆっくりと力を失い崩れ落ちていく藍の姿が紫の瞳に移る。焦りが紫の中に生まれはじめる。藍が敗れた。死したわけではないが、それでもこれ以上の戦闘はなんらかの方法によって封じられた。


「余所見をしている暇など無いぞっ!!」
「――ちぃっ!!」


 すぐさま耳に届いた声に紫は舌打ちし、自らの妖力をこめた弾丸を幾重にも放ち、弾幕を作り上げる。が、それを苦にした様子もなくラバルが紫へと突撃していく。
 紫はそれを軽い身のこなしでよけ、再び弾丸を放つもラバルにはたいした効果は見込めない。藍の安否が紫に苛立ちと焦りの色を更に濃くさせていく。


「あなたに、構っている暇などっ!!」
「それは困るなっ!! この愉快な一時、終わらせるわけには行かぬ!! そしてっ!!」


 ラバルが拳を握り、紫へと振りかぶる。避けられない、と判断した紫がそれを受け止める体勢を取り、受け止めたラバルの拳の衝撃に吹き飛ばされる。


「約束があるのでなっ!! あの子の望み、その邪魔はさせんよ!!」


 ラバルは紫を更に追い立てるため、翼を広げて接近する。それに紫が弾幕を放ち牽制する。
 2人が衝突しあう空の下、崩れ落ちた藍を荒い息を吐き出しながら見つめていたラクチェはゆっくりと息を整えて。


「…こればかりは、譲るわけにはいかないのでな」


 藍にそれだけ告げ、ラクチェは視線を橙へと向けた。そのそばにいた慧音と博麗の巫女は警戒するようにラクチェへと強い視線を向けてきて。
 先ほどの藍ほどの脅威はない。だが、それでも骨が折れるな、とラクチェは息をゆっくりと吐き出す。だが、それでも進まなければならない。立ち止まるわけにはいかない。あの方の為に、と脳裏に愛おしいあの姿を思い浮かべ。
 そして一歩、踏み出そうとした時だ。ラクチェの足を掴む者がいた。目を開けるのも億劫なのだろう、薄く開かれた瞳、だが、それでもラクチェをしっかりと見上げ、苦しげに息を吐きながらも抵抗する藍。


「…行かせ、は…しな…い…」


 ――見事。
 ラクチェは素直に、藍のその姿に敬意を思った。封印は為された。藍は今、意識を保っている事すらも危うい筈だ。
 自分の能力は万能ではない。いずれはこの封印は破られる。だがそれでも、少し長く藍を封じる為に念入りに封印を行った筈だ。
 だが、それでも未だに意識を保っている彼女の妖力、精神力にラクチェは感嘆せざるを得ない。そして同時に、その気持ちもよくわかる。
 僅かに胸が痛む。だが、それも一瞬の事。真っ赤な光景。血に染まった手、その手を固く握りしめ、情けなくも涙を流しながら誓ったものがある。


「すまない、とは言わない。ただ…私は私の為に動く」


 その手を振り払う。それが藍の最後の抵抗だった。手から力が抜け、藍の手が地に落ちる。これで…邪魔をするものはあと2人。


「――――何を、した」


 その声に、ラクチェは足を止めた。
 いつの間にか、彼女は立っていた。顔を俯かせ、立っている事すらも困難な筈の身体で、それでも大地にしっかりと足を降ろして立っている。
 傍にいた慧音が驚いた顔をして、彼女を見ていた。博麗の巫女もまた、驚きを隠せない。だが、慧音と博麗の巫女の驚きは同じではない。
 そして、博麗の巫女が感じた驚きはラクチェもまた感じていた。思わず足を止めてしまうその異様な、そう異様としか称する事しか出来ない感覚。


「藍様に…」


 一歩、彼女が踏み出した。ゆらりと、彼女の尻尾が揺らめき出す。二本の尻尾は行く先を求めるかのように揺らめき、その毛を逆立てさせていく。ぴんっ、と両耳が張り、次第にゆっくりと歩む力は力強く。
 一歩、歩む度に気配は濃厚になっていく。何だ、これは。何なのだ、これは、とラクチェは困惑を隠せない。そう、困惑。彼女は困惑していたのだ。


「お前は…」


 尻尾が、まるで弾けるかのように、別たれた。二本は四本となり、四本の尻尾が揺らめく。
 馬鹿な。ラクチェの思考がその一言に染め上げられた。妖獣、特に尻尾を持つ種族は尻尾の数でその強さが表されるという。九尾がその代表例に上げられるであろう。
 そう。つまり尻尾の数は強さの象徴。だが、それがこの僅かな時間で数を増す事があるのか? 元から封印されていたのならば、それは納得するだろう。
 だが、違う。彼女は二股の尻尾であった。そう。彼女はたかが二股の尻尾を持つ妖猫でしか無かった筈。なのに、何故。
 妖力が、増す。尻尾の数に比例して妖力は、そう、先ほどの橙の二倍。
 何が。ラクチェはただ思考する。先ほどと同じ、いやそれ以上の何かが起きている。だが、それは一体―――。


「何をしたぁぁあああっっ!!!!」


 ぎょろり、と見開かれた猫の瞳が、敵意を以てラクチェを睨み付け。
 気付いたその瞬間、ラクチェの頬に橙の拳が叩き付けられていた。





 + + + + +





 何かが切れた感覚がした。それは今まで繋がっていたものが途切れてしまうかのように。
 そう。実際には切れてしまったのだろう。彼女との繋がりが、慕っていたあの人との繋がりが、優しく頭を撫でて、褒めて、讃えてくれるあの人の存在が。
 完全に切れてしまった訳ではない。曖昧なもので、感覚的なものだが理解はしていた。
 だが、それでも。何かが起きて、彼女との繋がりがこうも薄くなってしまう事態が起きてしまっている。
 何故? どうして? わからない。だから、顔を上げて、耳を澄まして、感じて、何が起きたのか把握して。
 倒れている藍様がいる。それを為したと思わしき者がいる。そもそも、だ。それは藍様の、紫様の大事な物を踏みにじろうとした者で。
 何でだ? 何でこうなった? どうしてこうなってしまう。笑う人たちが恐怖に怯えたのも、紫様があんなに怒っているのも、藍様が倒れているのも、全部、どうして。


 あるからだ。原因が。いるからだ。アイツが。


 四肢に力を込める。その度に全身が軋むような痛みを帯びて意識が朦朧とする。だが、それでも呑みきれない、噛み砕けない、御しきれぬ感情が暴れ出す。
 巫山戯るな。
 あの人達がどんな思いでこの世界を見て、この世界を大事にして、愛しているのかお前は知っているのか。
 巫山戯るな。
 どうして傷付かなきゃいけない。どうしてこんな思いを抱かなければならない。どうして、どうしてなんだ。
 ふざけるな。そう、ふざけるな。
 何か願うのは、きっと誰もが同じなんだろう。目の前の相手にもそれがあるのかもしれない。――――だがそれがどうした。
 知らないし、知る気もない。踏みにじろうとした彼女が何を思おうが、何を願うが、知るか。知ったものか。


「――――何を、した」


 自分でも驚くような冷淡な声が漏れた。慧音が息を呑む音や、知らない紅白の衣装の老婆の人の驚くような気配が感じれたが、全ては些末事。
 ただ、力を込める。軋む身体に、御しきれぬ身体を疎ましく思う。ならば、変えてしまえ。痛みも、何もかも、そっくり変えてしまえば良い。
 反発し、作り替えて、ゆっくりと感情を、膨れあがる力を制御していく。脳内がまるで弾けるようにスパークして、一瞬意識が白と黒に点滅するかのように揺らぐ。


「藍様に…」


 理解する。私の力が、私を作り替えていく。いや、必要な分だけ、必要なものを得させようとさせる。
 前へ進むために。そこにある障害を全て蹴散らす為に。ただ、前へ一歩踏み出す力を。
 その度に力が満ち、理解していく。私という存在が為せる事を。そして為さなければならない事を。


「お前は…」


 膨れあがる力が私の身を相応しいものへと変えてゆく。震え出すような、暴れ出すような衝動が身を包んでいく。
 ただ、目に映るのは眼前にいる吸血鬼。私の大事な人たちの大事なものを踏みにじり、そして、藍様の意識を奪った。
 ――許せる? 否。断じて、否だ。
 認めてなるものか。そこにいる事を。乱したその罪を。藍様と紫様を傷付けたその罪を。


「何をしたぁぁあああっっ!!!!」


 気付いた時には、私の拳はラクチェを捕らえていた。





 + + + + +





 慈悲など無い。正にその光景はその一言に尽きる。
 慧音は恐怖した。恐怖し、身体を震わせた。眼前の光景にただ、怯えを隠せなかった。
 殴り、蹴り、引き裂き、吹き飛ばし、蹴り上げ、踏みつけ、踏みつぶし、再び殴りつける。
 だが、狂ったかのように暴れるその姿は、普段見ていた彼女の姿と大きく異なり、その違和感が慧音の恐怖を加速させる。


「橙…」


 茫然と、彼女の名を紡ぐ。ラクチェと相対する橙の戦いは、もはや一方的であった。
 ラクチェは橙にその攻撃も、防御も、その全てが橙の狂気的な攻撃の前に意味をなさない。
 ただ橙は無慈悲に、ラクチェを痛めつける。ただ感情にまかせて暴れるだけの獣が一匹、そこに居た。それは橙の本能の為せる技なのか、それとも、何か別の要因があるのか?
 だが、どのような理由があるにせよ、恐ろしい。普段の橙を知るが故に、慧音はその光景が耐えきれなかった。


「アァァァアッッ!!」
「がはっ!?」


 地をしっかりと踏みしめて、弧を描くような軌道で橙はラクチェの腹へと拳を叩き付ける。先ほどの藍との戦いで消耗していたとしても、あまりにもラクチェが一方的に嬲られるその光景は異様だ。
 橙は妖怪としての能力はさほど強くなかった。慧音はそう思っていた。だが、今のあの姿は一体何だと言うのか?


「…慧音。あの猫は何かの能力持ちかい?」
「…え? …あ、あぁ。橙、か? 確か「ありとあらゆるものに反発する程度」の能力を持っていると聞いたことが…」
「…そう、かい」


 博麗の巫女は慧音から返された返答を聞き、何かを考え込むように目を細めて、橙を見据えて。


「…あの妖怪、殺されるね」


 小さく、博麗の巫女は呟いた。
 その言葉に裏付けるかのように、橙の猛攻は激しくなっていく。地に倒れ付したラクチェの腹に跨り、容赦無用にラクチェを痛めつけていく。ラクチェも防御を為そうとしているが、まったく意味が無い。
 そして何より、彼女は動揺していた。何もラクチェはただ嬲られていた訳ではない。先ほどから彼女は橙に対し「封」を施そうとしていたのだが―――。


「うがぁぁああっっ!!」


 弾かれる。封が為せない。右頬を殴られた。次に左頬、また、右頬、左、右、左、右と狂ったかのように浴びせられる殴打。
 意識が朦朧としていく。薄れ行く意識の中、ラクチェはただ自分の認識が間違っていなかった事を確認する。
 ラクチェの能力は、「あの方」とは方向性こそ違うものの、その方法は良く似ている。対象を認識し、それに能力を施すだけ。力や意志、その全てには何かしら「起点」が存在し、そこを「封じて」しまえば封印する事が出来る。
 だが、防げない。起点は見つける事が出来る。だが、封を施そうとしても防げないのだ。ただ、何度も、何度も弾かれ、一方的に嬲られるだけ。
 何も為せない。何もなす事が出来ない。だが、ラクチェの心には悔しさは無い。ただ、納得と、そして期待が胸にあった。


(…この子なら…あるいは………様…を……)


 朦朧とした意識は思考を停止させ、霞ませてゆく。希望はあったんだと、ここまで気丈にラクチェの意識を保っていた何かが満たされ、折れてしまった。
 力が抜ける。あぁ、このまま楽になっても良いとラクチェは思い、瞳を閉じ、意識を彼方へと投げ捨てた。ラクチェの身体から力が抜けた事を感じたのか、橙の狙いは無防備となったラクチェの首―――。


「止めなさいっ、橙っ!!」


 だが、その橙の一撃は紫が割り込み、2人の間を隔てさせる事によって防ぐ。紫が橙をラクチェから引き剥がし、紫が橙の身体を押し倒し、無理矢理に押さえつける。
 が、橙は最早ラクチェしか目に入らないのか、咆哮を上げながらその拘束を振り解こうと暴れ出す。拘束している相手が紫だという事にすら気付いていない様子で。
 その間に紫と争っていたラバルはラクチェの傍へと膝を突き、ラクチェの安否を確かめていた。
 まだラクチェの息がある事を確認し、小さくラバルは息を吐き出して。


「…ラクチェ。約束だから、な。お前は生きろよ。何、希望はあったのだ。ならば、後は繋いでくれる者がいてくれる。運命の操り手が、その運命をきっと導いてくれる。見つけたのはたとえ糸のように細い希望だったとしても、必ず未来へと編んでくれるさ」


 そっと、ボロボロになってしまったラクチェの頬をラバルは撫で、笑みを浮かべる。
 ふぅ、と小さく溜息を吐き出す。それと同時にラクチェの身体を中心に展開する魔法陣がラバルによって刻まれていく。


「無駄では無かった。お前の苦労も、血も、涙も、思いも、何もかも。だから、もう休め。お前の罪も、何もかも私が抱えてゆこう。…目が覚めれば、全てが終わっている。そして後は彼女に任せれば良い。なぁに、あの坊やの娘なのだ。例えまだまだ子供でも、やってくれるさ」


 だから、とラバルは呟き。


「さらばだ。我が友の血族よ。私はここに闘争と約束の下に果てよう。私の望みと、お前の望みと、彼等の望み。あぁ、大任だ。このような出来損ないには勿体ないほどに、な」


 そして、魔法陣がその効力を発揮し始め、ラクチェの身体を魔法陣の中に沈ませてゆく。これは「ある魔女」がラバルに授けた魔法。こちらの魔法陣が「入り口」となり、もう一方の魔法陣が「出口」となり、彼女を送り届けるだろう。


 意識の無い彼女が、どうか幸いである事を願い、ラバルはゆっくりと身体を起こした。
 ラバルが身体を起こすのと同時に、紫が吹き飛ばされ、ゆっくりと橙が立ち上がった。殺気と敵意を帯びた瞳が周囲を探るように見据え、その瞳がラバルに固定される。
 ラバルはニヤリ、と口の端を吊り上げるかのように笑みを浮かべて。


「さて、君の殺したかった相手は、私が彼方へと送ってしまったな。これでは手が出せないな」
「……」
「悔しいか? 憎いか? よろしい。ならば付き合おうじゃないか。殺す訳にも、死んで貰う訳にもいかない。さて、果てを、私に果てを見せてくれうかね?」


 返答は、拳であった。
 橙がラバルの懐へと入り込み、その拳を振るう。ラバルはそれを受け止め、逆の手で橙を殴りつける。橙はそれを反発の能力で反発し、拳の軌道を逸らす。
 捕まれていた拳もまた反発の能力で弾き、高速のラッシュをラバルへと叩き込む。肋骨が折られ、内臓が潰される痛みが一瞬ラバルの意識を飛ばす。


「は、はは、ははは―――ッッ!!」


 だが、その痛みは瞬時に消え去る。ラバルの身体の再生が始まり、既にその傷も消えようとしている。ラバルの膝蹴りが橙の腹へと決まり、逆に橙が血を吐き出しながら吹き飛ぶ。
 宙を舞った橙が一回転と共に体勢を立て直し、地に爪を立て、すぐにラバルへと向かっていく。


「くはっ、くはははっ!! まるでバーサーカーだねっ!! 痛みが無い訳じゃないだろう!? それともその痛みにすらも「反発」するのかね!?」


 楽しい。あぁ、楽しいと愉悦に浸り、ラバルは叫びと共に再び橙と相対する。拳が来れば受け止め、蹴りが来れば蹴り返す。妖力で形成された光弾を打ち合い、2人はぶつかり合う。
 その様は正に狂気の域。方や、ただ獣の如く相手を仕留めようとする橙と、その獣じみ殺気と敵意に笑みを浮かべて嬉々とした表情で向かうラバル。


「ぬがぁぁっ!!」


 ラバルの向けた拳。それが地を抉り、小さなクレーターを作る。橙を狙った筈の拳だった。だが、橙はそこにはいない。
 どこに、とラバルが周囲に意識を向けた瞬間、腹部に鋭い痛みが走った。橙の爪がラバルの腹へと突き刺さっていた。


「ごぁあっ!?」


 橙はその手を捻り、深くラバルの腹へと爪を突き刺していく。既に指もラバルの肉へと埋まっていき、橙が細い瞳孔の瞳でラバルを睨み付ける。
 そこでラバルは気付く。再生が始まらない、と。いつもならば再生が始まる筈がまったくその兆候を見せない。


「くは…ははっ、私の再生に…反発、するかねっ!?」


 橙の手を掴み、抜き取ろうとするもラバルの肉に深く食い込んだ爪は抜けはしない。ならば、とラバルは自らの肉をえぐり取りながら橙の爪を引き剥がす。
 鮮血が舞い、橙の顔を血で濡らす。だが、橙はただラバルを睨み付け、ラバルの心臓を目掛けて逆の爪を突き刺そうとする。
 が、ラバルが手に爪を突き刺し、それを押さえ込む。両手を防がれた形となる橙。そこにラバルは橙の両手をしっかりと握り、橙の腹部目掛けて蹴りを放つ。
 が、橙に触れた瞬間、その蹴りすらも反発される。ラバルは橙の腹に足を置いた体勢で固まり、橙がラバルを押し倒すように足に力を込めた。
 だがそれよりも先にラバルは橙の腹に置いていた足に力を込め、橙との距離を取る。翼を羽ばたかせ、橙と距離を取り、ラバルは妖気を放出させていく。


「橙ッ!! 止めなさいッ!!」


 紫が橙へと呼びかける。ヘタに近づけば橙に反発され、近づく事すらも許されない。境界を弄ろうにも、今の橙は自らの異変に過敏になっている伏がある。故に紫でさえ干渉が出来ない。
 故にどれだけ歯痒くても、今、紫は呼びかける事しか出来ない。止めなければならない、そうは思っていても、その手段は何がある? 橙の狙いはラクチェ。そして今はラクチェを逃がしたラバル。ならば、ラバルを殺せば良い。
 だが、あの男は再生する。どのような傷を与えても再生する。故に紫でさえ手を焼くというのに、今、この状況で橙を巻き込まず、ラバルだけを仕留めるというのは難しい。
 その紫の思いと裏腹に事態は進んでいく。ラバルが集めた妖気が1つの形を作っていく。それはまるで巨大な槌のようで。


「『トールハンマー』ッ!!」


 それは橙へと振り下ろされた。橙の身体など一撃で潰せてしまえる程の妖力と巨大さを誇る槌が橙へと迫る。
 それに対して橙は、四肢に力を込め、自らの妖力を凝縮させていく。そして跳ぶ。槌へと向かって橙は一直線に飛び、凝縮させた妖力を自らの足へと込め。
 全力で槌を蹴り飛ばした。ミシッ、と鈍い音が橙の足から鳴り、橙がはじき飛ばされる。だが、その槌は軌道を逸らして大地を叩き付け、小さな地震を発生させる。
 はじき飛ばされた橙は空中で弾かれたようにラバルへと軌道を変えた。一直線に、それはまるで弾丸で。


「―――見事ッ!!」


 橙の拳が、ラバルの顔面へと叩き込まれた。
 勢いよくラバルが大地を滑りながら倒れ伏、そこに橙は追い打ちをかけようと迫ろうとし―――その身体が何かに抱きしめられ、その動きが止まる。





「――もう、良い」


 届いた声は、懇願するような苦しい声で。橙の身体を抱きしめ、軽く寄りかからなければ体勢が保てないのか、やや橙にもたれ掛かるように立つのは…藍。
 橙の瞳にゆっくりと力が抜けていき、背から抱きしめ、橙の肩口に顎を乗せている藍へと橙は視線を向けて。


「…ら…ん…さま…?」
「私は…無事だから…だから…もう、もう止めてくれ…」


 そっと、藍の伸びた手が橙の拳へと伸びる。血濡れた拳。それはラバルの血だけではなく、橙の拳から流れていた為に染まったもので。
 その拳を藍は痛ましげに見つめる。ラクチェによってかけられた封によってぼやけた夢心地の意識の中、ただ、それを見つめる事しか出来なかった。
 だからもう良いと、もう止めてくれと藍は願う。その瞳から涙がこぼれ落ち、橙の頬を濡らして。


「……らん…さ…ま」


 その涙に、半ば茫然とした橙が小さく呟きを零し、その身体の力を抜いた。瞳は閉ざされ、藍は橙を抱えたまま、その場に崩れ落ちる。
 藍はただ、橙を抱きしめる。込み上げてくる思いに身を震わせながら、ただ、たた橙を包むように抱きしめる。
 その光景を見つめていた紫は、ふぅ、と憂鬱げな溜息を吐き出した。ちらり、と視線をラバルへと向ければ、彼はただ、空を見上げていた。
 紫が一歩、また一歩と彼に向けて歩を進めても、彼は動く気配は無い。紫は見下ろすようにラバルへと視線を向けて。


「…まだ、やるかしら?」
「……ふむ、彼女にどうやら「存在」を反発されたようでね、どうにも、再生が起きないようだ。余程嫌われたかね…」
「……そう」
「……随分と手を焼く飼い猫をお飼いになっているな、管理者殿」


 口元に淡い笑みを浮かべながらラバルは紫へと告げる。それに紫は静かに瞳を閉じ、小さく域を吐いて。


「余計なお世話ですわ」
「そうかね。それは、確かにそうだね」


 ククッ、とラバルは喉を鳴らすかのように笑い、ゆっくりと身体を起こす。橙に入れられた一撃は確かに彼を蝕んでいるようだ。
 反発。それは一種の拒絶とも取れる。受け入れられないが故に反発し、認めず、潰し、潰され、削られて。
 橙に存在を否定された者はどうなる? 橙が否定し続ける限り、彼等は橙を打ち倒すまで橙に呪われ続ける。そう、それは一種の呪いなのだ。
 末恐ろしい。紫でさえ、橙にその存在を反発されればただではすまない。そして性質が悪いのは、それが咄嗟の感情的なものであっても蝕むものなのだ。
 だからこそ、橙は壊れやすい。その能力が故に暴走しやすく、そしてその果てに待つのは自分か、他者かの崩壊。


「…歪な子」


 望めば、それだけ多くの者を捨て、壊さなければ得られない悲しい子。
 それは誰とて同じ。だがそれが目に見えてわかってしまう。明確に、橙にその事実は突きつけられる。それが橙の人格への信頼でもあり、橙の身体自身の事でもある。
 あぁ、そんな歪な子だけれども、あんなに綺麗に、優しく笑うのだ。なのに、それが崩れるのもまた容易いなど、残酷なのではないだろうか。


「…せめて、その時までは」


 いつか、彼女が自分を見失う時が来たら――――八雲 紫は決断するだろう。
 だが、それまでは――――。


「あの子は、傷付けさせない」


 最初は興味。純粋に摩訶不思議な存在がいると。そして一目でその在り方が気に入った。知り行く程に愛おしくなる子。我が子とも言える式もまた愛した一匹の猫。
 今はお眠りなさい、と。貴方の力はまだ必要とされていないのだから。いつか貴方の力が必要になる時が必ずどこかで来る。その時までは私が守る。
 いつか、貴方がその足で立つ日を願う。無論、橙だけではない。藍も含め、この幻想郷に住まう者達の為に。


「だから、この楽園を乱す者は、美しく残酷にこの大地より去ねっ!!」





 + + + + +




 ぼんやりと、まるで夢をみていたような感覚があった。だがその夢の内容は一切思い出せない。それにもどかしさにも似た感情を覚える。
 光。重たくてゆっくりと開いた瞳に差し込む光に目を細め、瞬きを何度かした後、光に目を慣れさせる。目の前に広がったのは、見慣れた天井。


「……あれ?」


 ゆっくりと身体を起こせば、そこは自分の私室。どこかぼやけた頭が状況を把握させない。 思わず揺れたのは二本の黒い尻尾。黒い耳をぴんと伸ばしながらぼんやりと佇むのは橙だ。


「…あれ…? 私…」
「起きたかしら? 橙」
「紫、様? あの、私、何で寝て…?」 


 何が起きたのか把握しようと努めていた橙であったが、隙間から姿を現した紫に思わず問いかけて。
 その橙の問いかけに対し、紫は優しい笑みを浮かべ、橙の頭を優しく撫でて。


「人里に襲撃してきた吸血鬼は覚えてるわね?」
「…吸血鬼…? あ、あぁっ!! そ、そうだっ!! 紫様! 慧音さんは、人里は無事、無事ですよねっ!?」
「落ち着いて、橙。えぇ、私と藍が守ったわ。だから安心しなさいな」
「そ、そうですか…良かった…」


 ホッ、と紫から返ってきた返答に橙は安堵の息を零す。その橙の様子を紫は優しげに、だが、どこか憂いを帯びた表情で見つめる。
 幸いなのか、橙はその紫の表情に気付かず、ただ無事であった事が喜ばしかった。そんな橙に対し、紫は表情を真面目なものに変えて。


「橙。もうあんな無茶な真似はよしなさい」
「…あんな…真似?」
「反発による自身の変化。それはかける時間を凝縮させて結果を為してるようなもの。その負担は限りなくかかるわ。ヘタすれば、死ぬわよ?」
「…はい…」
「藍も心配したわ。勿論私も。…だから、約束して頂戴。もう二度と、あんな真似はしないと」


 紫は真っ直ぐに橙を見たまま告げる。その表情に橙は自分のしでかした事の危険性。そしてそれによって2人にかけてしまった心労を思い、悔いる思いが滲み出る。


「…ごめん、なさい」
「約束、してくれるわね?」
「はい。約束します。絶対にもうしません」
「…そう。なら、もう少しお休みなさい。疲れているでしょう? だから、今はゆっくりとね?」
「…はい」


 もう大丈夫、と言いかけたが、今は紫へとかけた心労を思えば休んでいるのが良いか、と橙は思い、再び布団に横になった。それを見届ければ紫は再び隙間へと消えていき、橙はただ天井を見上げて。


「……心配、かけちゃったな」


 悔いるような声で小さく呟く。瞳は閉じられ、橙は身体を休ませる。いつしか、2人に申し訳ないと思いながら、彼女の意識は再び闇の中へと沈んでいった。


 一方、隙間から紫は再び姿を現す。そこは居間。藍がそこでテーブルに手を置くようにして座っていて、その視線を紫へと移す。


「…橙は?」
「大丈夫よ。ちゃんと「忘れて」るわ。力も封じたし、しばらくは大丈夫でしょう」
「…そう、ですか」
「だけど、これは時間稼ぎ。いつしか橙は気付いてしまうかもしれない。自らの記憶にかけられた封印に。その時、橙は思い出すでしょう。自分のあの狂ったかのように暴れる光景を。それが橙にどんな影響を及ぼすのか、とても未知数。上白沢に頼んで「歴史」を隠して貰ったけれども、それでも橙が気付けばそれもまた無駄…」


 ふぅ、と憂鬱な溜息を吐き出して紫は藍と同じように座る。テーブルに置いた手を組み、膝をついて組んだ両手の上に額を置く。
 明らかに気怠げで疲れている様子が見えている。その姿を藍は痛ましそうに見た。今度の異変で紫もかなり力を振るい、精神的にも疲労したのだろう。その心中は察して余る。
 そして、未来への懸念。藍はテーブルに置いた手を強く握りしめ、脳裏に浮かんだ自らの式の未来を案じるのであった。





 吸血鬼異変。
 幻想郷の歴史を見ても、幻想郷に来訪した種族の中でも最も強大な力を持った吸血鬼が来訪し、幻想郷を支配しようとした際に起きたこの異変を総称してこの名がつけられている。
 解決者は八雲 紫及びその式神、八雲 藍、博麗の巫女。弱体化の傾向のあった妖怪達も巻き込んだ異変の首謀者は、片方は逃亡し、片方は紫の手によって打ち倒された。
 だが、この異変によってつけられた傷は深い。どれだけ覆い隠そうとも、それは消えない傷跡…。
 歯車が狂い出す。静かに、ゆっくりと、その運命を狂わせていく…。






[16365] 黄昏境界線 13
Name: 道化◆5a734804 ID:d4ec8ce0
Date: 2010/02/10 21:25
 吸血鬼異変。そう称された吸血鬼による異変が終結を迎え、時が流れてゆく。
 ここは妖怪の山。妖怪達が人間達とは違う、独自の社会を形成している妖怪達の住処である。その妖怪の山の一角、流れ落ちる滝の傍に1つの影がある。
 それは人のようにも見えるも、人とは決定的に違う部位を有した者。頭部の横には猫の耳、背には黒の二股の尻尾が揺れている。
 纏う服は赤色のワンピース。頭に緑色のナイトキャップのような帽子を被っている。その少女の名は、橙。
 彼女は立っている。立っていると言ってもそれを見た者は一瞬我が目を疑うだろう。何故ならば橙は水面の上に立っているのだから。
 橙の足先は水の上についている。だが、水に沈み行く事無く、橙の足がついた先から小さな波紋を広げているだけで橙は水に落ちる事は無い。
 不思議な光景だろう。橙はその体勢のまま、ただ静かに瞳を閉じて立っているだけだ。
 だが、ふとその光景は変化を迎えた。橙の足先の波紋が大きく震えたかと思えば、橙の足が足首まで水の中へと沈んでいったのだ。


「―――ッ!!」


 舌打ちと共に橙が逆の足で水を叩いた。その瞬間に水面へと橙は反発し、宙高くへと舞い上がる。そのまま空中で体勢を立て直し、陸地へと降り立ち、その膝を崩した。
 両手両足を大地につかせながら、橙は荒い息を吐き出して呼吸を整える。額には大粒の汗が浮かんでいて、見るからに苦しそうで。


「はぁ…はぁ…はぁ…っ…」


 手の甲で汗を拭いながら、橙はそのまま仰向けに倒れ込む。見上げた空は青く、鳥が自由に空を飛んでいく光景が見える。疲れによって荒くなっていた呼吸も次第に収まり、力を込め、熱を持っていた身体も空気に曝されて冷えていく。
 暫し橙はそのままの体勢で居たが、ふぅ、と大きく吐き出していた息を止め、小さく最後に深く吐き出し、瞳を閉じた。


「…駄目、だなぁ…」


 くしゃり、と前髪を掴んで橙は込み上げてきた悔しさを噛み締める。これは橙の「あらゆるものに反発する程度」の能力を制御する為の訓練なのだ。
 水面に最低限の反発で、水面の上に立ち続ける。能力の継続使用と制御による能力の制御訓練。だが橙が水面に立っていられるのは精々5分かそこらである。どうにも力むのか制御が甘くなり、どうしても立っていられなくなるのだ。
 制御が可能ならばずっと立ち続けている事も可能なのだ。なのに橙はどうにもそれが出来ない。はぁ、と大きく息を吐き出すのであった。


「やってるね。橙」
「あれ? 椛?」


 寝転がっていた橙に対して声をかけてきたのは一人の少女だ。白髪の髪に山伏の衣装を纏い、背には白色の尻尾が揺れている。
 妖怪の山に住まう天狗。天狗と言えば鴉のような翼を持つ鴉天狗を想像する者も多いが、この椛と呼ばれた少女のような白狼天狗と呼ばれる者達もいるのだ。
 天狗の中では使いっ走りで、よく山の警戒などを担当している種族だ。橙は修行の為によく妖怪の山に入り浸るようになり、その際に仲良くなったのだ。
 他にも椛が、あの射命丸 文の部下であるというのも関わっているが。


「…お仕事終わったの?」
「仕事と言ってもねぇ、妖怪の山に侵入しようとする人は少ないしね」


 よっと、と声を出して椛は橙の隣へと腰を下ろす。互いに精神年齢が近いのか、話が合い、こうして友達のような関係を築いている。それに加えて互いの上司、というより目上の2人が知り合いだと言うのも大きい。


「修行、上手く行ってないの?」
「…まぁ、ね」


 橙の修行は藍に命じられたものだ。橙も吸血鬼異変の後、自らの能力の危険性を改めて理解し、修行に励む気持ちが出てきたものの成果は未だ、現れて来ない。
 故に椛は橙の事を心配していた。彼女はどうも無茶・無理をし過ぎる傾向にある気がする。彼女の正確もあるのだろうけど、どうにもいつかそれが祟って倒れてしまう可能性がある。故に椛は彼女の事を気に懸けるのだが、彼女が聞き入れる事はないだろうという事も知っている。


「…橙がこの修行を始めるようになってどれだけ経つ?」
「…もう2、3年ぐらい? 2、3年ぐらいで5分しか持たないなんて…本当、駄目だなぁ」


 はぁ、と橙は溜息を吐き出して告げる。それだけの月日を重ねて水面の上に反発の能力を制御して立つ事が出来るのは、果たして凄い事なのか、たいした事も無いのか椛にはわからない。
 これは橙にしか解決出来ない事なのだろう。椛には橙のような反発する能力は無い。だからこそ椛には何も言えない。言える事は無い。だから心配するだけしか出来ず、歯痒い思いが込み上げてくる。


「橙は、凄いよね」
「え?」


 椛の呟きに橙が椛へと視線を向けた。椛の言葉に橙は意外な事を言われたかのように呆けた顔をして。


「だって、橙は妖怪としての格はあまり高く無いよね。失礼だけど」
「…うん。そうだと、思うけど」
「なのに、それであの八雲 紫様と戦った相手と戦えたんでしょう?」
「それは、そうだけど。あれは…」
「うん。制御出来なかった、って言うんでしょう? でも、さ、橙にはそれだけ可能性があるって事でしょ?」


 椛は橙から視線を外し、空を見上げるように視線を上に上げた。橙は空を見上げる椛の横顔を見る事しか出来ず、半ば茫然としていて。


「凄いよ。橙は、凄いよ」





 + + + + +





 とん、と軽く地面を跳ねるかのように橙は駆け抜けていく。反発の能力の制御は完全とは言えないが、少なくとも吸血鬼異変の頃よりも制御が可能となっている。
 最低限の力で、最大の効果を。状況に応じて必要な分だけの力を。橙の反発の能力は橙の感情と直結した能力だ。つまり、この能力の制御は感情の制御と言っても良い。
 本来ならば、それは時間をかけて成長していくものだろう。精神的な成長というのはそれだけ難しい。肉体的ならばただその分だけ鍛えれば良い。肉体を鍛えればその効果は段々と見えてくる。
 だが精神的な成長というのは、いまいち実感が湧かない。更に橙の性格上、橙がそれを実感しにくい。なまじ藍や紫という精神的にも強かな者がいる事を知っているから。
 だが、今日は椛に凄いと褒められ、橙はわからなくなってくる。目標は勿論、紫や藍。その2人には遠く及ばないと思う。思うのだが、それでも椛は自分が凄いと言う。
 今度は枝を蹴る。枝が軋む音がし、橙が再び空を駆けていく。その橙の表情はどこかぼんやりとした表情で。


「…凄い、か」


 確かに凄いのかもしれない。自分の能力は紫や藍などが認めてくれる程の能力なのだ。
 だが、その能力に橙は追い付いていない、と思っている。分相応だとも思う。なのに褒められてしまう。認められてしまう。それが橙にはどうも受け入れがたい。
 自分がよく分からない。最初はただ生き足掻いていた猫だった。それが藍の式となり、自らの能力を自覚するようになって、変わりつつある。
 藍の式神になったのは、自分を助けて、希望を見いだしてくれた藍や紫への恩返しをしようと思い、式神になった。2人の力になりたいと、そしてこの幻想郷を見て、知って、この世界が好きになり、守りたいと思うようになった。
 守る為の力。橙の力は上手く使えば、きっと自分の願いを叶える為に使える筈だ。だが、未だに制御仕切れないという現実が橙を苛立たせる。
 この能力はヘタをすればすぐに暴走してしまう。制御出来なければすぐに自分の身を破滅させてしまいかねない。それは、藍も紫も悲しんでしまうし、自分の望みも叶えられない。


「…はぁ…」


 気が滅入る。既に空は夕焼けに染まりつつある。早く帰らなければ夕食の支度に遅れてしまう。
 橙は勢いよく大地を蹴った。反発の力が強すぎたのか、振動が強く返ってきた。増していくスピード。流れてゆく光景が目まぐるしく変わる中、橙は再び溜息を吐きだした。





 + + + + +





「橙。最近、人里に顔出してないそうだな?」
「え?」


 八雲家の夕食時、藍はふと、思い出したように橙に声をかけた。その藍の言葉に橙はどこかへと飛びかけていた意識を呼び戻して、藍へと顔を向けた。
 橙はよく人里へと遊びに行っていた。だが、吸血鬼異変の後からその回数は少なくなっていき、ここ暫く橙は人里には顔を出していなかった。修行に熱を入れていたからだ。


「子供達が寂しがってたぞ?」
「…ぁ…で、でも、修行がありますし」
「…上手く行ってないのか?」
「……」


 はい、とは言えなかった。だが、いいえ、とも言えず橙は黙り込んでしまう。自分の不甲斐なさを素直に認めたくなかったし、かといって強がれる程、橙は自らの修行に成果を上げていない。
 その沈黙に察したのか、藍もまた口を閉ざし、橙の様子を伺うように視線を向ける。だが藍はそれは仕方ない事だと思っている。なぜなら、橙の能力は橙の精神に直結している。橙の精神的成長が無ければその効果は現れない。
 だが、精神的成長は長い時間をかけていくしかない。だが、成果が現れないというのは時に焦りを思わせ、時に失敗を起こさせてしまう。更に橙はそれを抱え込む方だ。
 しかし、焦るなよ、と言うのは簡単だ。だがその簡単な言葉で橙が成長する為の布石になるかと言われても、恐らくはならないだろう。焦るな、と言われて焦らないというのはなかなかに難しい事なのだから。
 何かアドバイスが出来れば良いが、生憎藍には思い浮かばない。藍の能力は打てば鍛えられる力であった。力はただ力。だが橙の力は、心の成長が無ければ育つ事は無い。自らとは状況が違う。
 さて、どうしたものか、と藍が思案をしていると、隣に座っていた紫が橙へと視線を向けて。


「橙」
「…はい」
「貴方、少し能力に振り回されてないかしら?」


 紫の問いかけに、橙は俯かせていた顔を上げて紫へと視線を向けた。藍もまた、紫へと視線を向ける。紫はいつものように飄々とした様子で食事を摂っている。


「少し、わかるわ。その気持ち」
「え?」
「能力に振り回されて、時に自分が見えなくなる。わからなくなる。それは不安な事。自分が立っている場所が見えなくなってくる」


 一端、紫は箸を置いて橙へと真っ直ぐに視線を合わせた。その紫の視線に橙もまた真っ直ぐに視線を向けて応える。
 くす、と紫はその橙の様子に微笑ましそうに笑った後、そのままゆっくりと言葉を紡いでいく。


「そういう時のアドバイス。一度原点に立ち戻ってみなさい。何事も初心を忘れるべからず」
「…私の、原点」
「橙が何を原点、とするのかは私にはわからない。でも何事にも始まりというものがある。その始まりはとても大切なもの。見つめ直すのには良い機会ではなくて?」


 紫の言葉に、橙は暫し何かを考え込むように眉を寄せていたが、小さく「考えてみます」と呟き、食事を終えて居間を後にしていった。
 橙の足音が遠ざかっていくのを確認し、藍は紫へと視線を向けた。紫は一度置いた箸を再び手に取り、静かに夕食を進めていく。


「あぁいう時はね、別の事に興味を向けさせるのよ。息抜き程度にね」
「…さすがは紫様ですね」
「…まぁ、経験が無い訳じゃないから」


 そう告げる紫の表情はどこか過去を懐かしむような視線だ。その姿を見て、藍は紫にも能力に振り回されている時期があったのだろうか、と考える。
 当たり前のように能力を使えていた、という印象もあるが、実は紫も最初は「境界を操る程度の能力」を持て余していたのだろうか?
 紫の昔、幼少時代というのを想像すると、どうにもイメージが沸かない。紫ならば何でもこなしてしまいそうな印象がある所為だろうか、と藍は考えて。
 思わず聞いてみたいと藍は思った。しかし、どうにも藍にはその問いは言い出せなかった。
 何故ならば、その紫の表情が懐かしむようで、それと同時に、少し寂しさを帯びているようで。
 紫の過去。藍が出会う前。彼女は一体どのような人生を歩んできたのだろうか、と藍は思う。だが、あくまでそれは思うだけ。問いたくても、こんな顔をされては聞けない。


「ごめんなさいね。過去を思い出すと、どうにも感傷に浸るわ」
「いえ…それは、紫様にとって大事な事なのでしょう?」
「…えぇ、とても。とても、ね」


 どこか懐かしむように、どこか寂しそうに、だが…それでも、誇らしげに紫は笑みを浮かべて藍に答えを返すのであった。





 + + + + +





 橙はその日、久しぶりに人里へと遊びに行く事にした。朝食を作り終え、藍を見送り、紫の食事を用意した後、人里へと足を向けた。
 久しぶりに足を踏み入れる人里。懐かしげに橙が人里の街並みを眺めながら歩いていると、ふと、橙の背後から元気な声が聞こえてきた。


「あ! 猫のお姉ちゃん!!」
「あーっ! 本当だっ!!」


 それは子供達。時間的に恐らく寺子屋へと通う時間なのだろう。見慣れた顔の子供達は…少し、背が伸び、大きくなっていた。それに橙は少し驚いた。あぁ、人って成長が早いっけ、と思い出して少し苦笑。
 修行にしか目が行っていなかったのだろう、と橙は改めて思う。吸血鬼異変の後、あの時、無茶をした為に紫や藍に心配をかけさせてしまった後悔から熱を入れていたが、それに囚われていたんだなぁ、と橙は改めて思って。
 それと同時に、妖怪と人間の時の流れもまた実感してしまう。自分はまだそう変わらないのに、子供達は背も伸び、このまま伸びていけば自分の背などあっという間に抜かれてしまいそうにも覚える。
 さて、背が伸びた、というのは成長した証。無論、背だけが成長する訳でもなく、体重や力もまた強くなるだろう。子供達にとって橙というのは親しめるお姉さん的な存在だ。しかもしばらく会っていなかった。また会えた事によって無論子供達は嬉しい。
 つまり、何が言いたいのかと言うと、だ。


「捕まえろーっ!!」
「おぉーーーっ!!」
「えぇええっ!? ちょっ、まっ、わ、わぁああっ!?」


 橙は襲いかかってきた子供達の波に呑まれて埋もれていってしまった訳である。





+ + + + +





「うぅー…酷い目に遭った…」
「ははは、暫く顔を出さなかったお前が悪いさ」


 子供達の襲撃に遭い、半ばボロボロにされた橙は寺子屋の一室で慧音に治療されていた。何故寺子屋に橙がいるのかというと、寺子屋になかなか生徒達が来ないと心配した慧音が様子を見に来て事態に気付き、運ばれて来たのである。
 無論、子供達は軽い説教の後、現在は自習にさせている。その間に橙の治療、まぁ、治療といっても切り傷や擦り傷ぐらいなもので特に大きな処置をした訳ではない。


「ほら、終わったぞ」
「いたっ! もうちょっと優しくしてくださいよ、慧音さん」
「はは、悪いな。といっても、お前がなかなか来ない所為で私まで責められたんだ。これぐらい甘んじて受け入れろ」
「…え?」


 慧音の言葉に橙は疑問符を浮かべる。何故自分が来なかった所為で慧音まで責められなければならないのか、まったくわからなかったからだ。


「お前はそれだけ好かれてる、って事さ。子供達は私が妖怪だというのは理解している。それが同じ妖怪のお姉ちゃんが来なければ、私が何か知っていると思うだろう。だが実際私はお前が何をしているのか知らないしな。それで使えないだの、役立たずだの、きもけーねだの……」


 段々と声の調子が下がっていき、視線も俯きドス黒く、暗いオーラを纏っていく慧音。思わず引く橙。
 暫し慧音のオーラは止まる事は無かったが、ふと、唐突に我を取り戻したようにオーラを消して橙に振り返る慧音。その顔には橙を心配するかのような顔色があって。


「…あれから何かあったか?」
「? あれから、と言いますと?」
「…いや、特に何かあった訳じゃないなら良いんだ」
「? そう、ですか」
「あぁ、気にしないでくれ」


 慧音はもう一度、気にするな、と呟いて橙から視線を逸らした。橙はその慧音の仕草を怪しげに見ていたが、気にするな、とも言われたので特に何かを問う事はしなかった。
 暫し、2人の間に気まずい沈黙が流れる。何とかこの空気を変えたいのは2人も同じだが、どちらも話題を出せず、ただ時間だけが過ぎてゆく…。


「…そうだ。橙。お前、暫く顔を出していなかったな」
「え? あ、はい。そう、ですけど」
「…なら、知らないか?」
「何をですか?」





「魚屋の主人が倒れたそうだ」









[16365] 黄昏境界線 14
Name: 道化◆5a734804 ID:d4ec8ce0
Date: 2010/02/11 21:37
 ただ、走った。息が乱れるのも構わずにただ走った。人里の光景が目まぐるしく変わっていく。
 走るスピードはただ早い。ヘタに人にぶつかれば困ると屋根を必死に走っていく。ただ、ただ急かされるように走り、ただいつもの場所へと向かっていた。


『おう! らっしゃい、橙の嬢ちゃん!!』


 倒れただなんて、信じられない。だってまだそんな年じゃないし、いつだって元気にしていたじゃないか。あんな元気な声で魚を売っていたじゃないか。
 なのにどうして。嘘だ。信じない。きっと慧音が自分がなかなか人里に来なくて子供達に責められたからってそんな冗談を言ったに決まってる。
 そうだ、だってそうじゃないと。そうじゃない、と…。あの魚屋の主人は、本当に、倒れて。
 嘘だ。嫌だ。信じない。絶対に信じない。この目で確かめるまで認めない。絶対に。
 ただ、走る。だから走る。行くなと脳裏に囁きかける声があるけれども、それでも、嫌だ。確かめないと、でも、確かめたくない。怖い。
 あぁ、うるさい。ごちゃごちゃする。だから、ただ走る。そうだ、行けばわかるんだ。そうすればこのごちゃごちゃも何もかも無くなる。


『この魚旨いよ、買っていきな!』


 だって、だって、そんなの嫌だ。あの人がそんな、倒れただなんて。嘘だ。あの魚を売る声が聞こえなくなるのは嫌だ。
 倒れただけで、たいした事は無い。あり得そう。そうだったら思いっきり笑い飛ばしてやろう。そうだ、そうしてやろう。
 きっと、そうなる。いや、そうなって。なって、なってくれないと。


「はぁ…はぁ…はぁ…っ」


 魚屋の前に橙は降り立った。店は…閉められている。橙はすぐに店の玄関ではなく、店の裏側へと繋がる扉を叩いた。
 そこには魚屋の店主が住んでいる場所がある。息を荒くしたまま、ただ、橙は扉が開かれるのを待つ。
 どれだけ待ったか。時間にしてみれば大した事もないだろう時間。だが、その時間は今の橙にとってはとても長すぎる時間で。
 ゆっくりと、扉が開いた。顔を出したのは魚屋の店主の女房であった。彼女は橙の顔を見ると、驚いたような顔をして。


「ち、橙ちゃん? 橙ちゃんなの?」
「はぁ…はぁ…っ、お、おばさんっ! おじさん、おじさんはっ!? 無事? 元気なの!? 倒れたって聞いたけど、大した事ないよねっ!?」


 息も整わぬ内に橙は叫ぶように魚屋の妻に問いかけた。最初は驚いた顔のままだった魚屋の妻の顔は、段々とその表情を暗くさせていく。橙への問いかけに、彼女は何も帰さなくて。
 え? 何で、どうして、答えてくれないの。まるで、それじゃ、本当に。本当、に…。
 橙はただ信じたくない、という表情で首を振る。嘘だよね、と希望を込めて魚屋の妻を見つめる。だが、それでも返答は返ってこない。


「…橙ちゃん。上がって。あの人も貴方に喜ぶだろうし」


 返答の代わりに返ってきたのは、家へと招き入れる事だった。橙はどこか夢見心地にも似たぼんやりとした感覚のまま頷いた。
 靴を脱ぎ、家の中へと上げられる。初めて入る訳じゃない。魚屋の息子の尚人にせがまれて家の中に上がった事だってある。
 昔は明るい空気があった。ここに居て心地よい、と思うような暖かみがあった。…だが、今はその空気はどこかへと姿を隠してしまったかのように、暗く、重い空気が漂っていて。
 橙がそのまま案内されたのは、魚屋の店主の寝室であった。魚屋の妻は軽くノックした後、入りますよ、と声をかけてから襖を開いた。
 そして、橙の目に飛び込んできたのは―――――布団の上に横たわる魚屋の店主の姿。
 以前に見た快活な様子は無く、頬はやせこけ、まるで生気が感じられない。まさに風前の灯火と言うべき命の息吹。
 あ、と声が漏れた。身体が震えて、立っていられなくなる。そのまま襖に手をついて、ずるずると落ちていき、床に力無く座ってしまった。嘘だ、と何度思って瞬きをしても光景は変わる事無く、うるさく鳴り響く鼓動の音がこれが現実なのだと告げていて。


「…おぅ…? 橙の…嬢ちゃんかい…?」
「……おじ…さん…」
「…おぉ、来てくれたのか。…もうちっと、こっち来い。声小さくて、聞き取りにくいだろ?」


 ボソボソと喋る声は確かに聞き難い。橙は足を引きずるようにして、魚屋の店主の傍までやってきて、彼の顔を改めてのぞき込むように見据える。
 やはり顔色は悪く、肌も青白い。息はか細く、瞳には力が無い。頬はやせこけ、生気の影など見る影もない。あぁ、まるで別人のようだ、とさえ思ってしまう。だけど、声が、気配が、あの人なんだな、と橙に認識させる。
 ぱたん、と襖が閉じられる音がした。魚屋の妻が襖を閉めたようだ。恐らく、気を使ったのだろう。そして残されるのは橙と魚屋の店主の2人。


「…久しぶり、だな。元気にしてたか?」
「……いつから」
「…あん?」
「…いつから、こんな…どうして…」


 虚ろな目で魚屋の店主を見つめながら橙は震える声で問う。その橙の問いに魚屋の店主は瞳を閉じ、胸元で手を組むように置いて、ゆっくりと息を吸う。


「…性質の悪い、病さ。半年ぐらい前から、血、吐いて倒れてな。その時点でもう末期だそうで、もって、半年、だとさ」
「…嘘」
「嘘じゃねぇさ…ほれ、見てみろ、頬は痩せこけりゃ、腕も細くなった。力は入らんし、声も出ねぇ」


 まいったな、とどこか他人事のように軽く言い放つ魚屋の店主に橙はまるで現実感が伴わない。自分こそ性質の悪い夢を見ているのじゃないか、と思い、何度か今ある現実を否定しようとした。
 だけど、それには何の意味もなく、結局現実を認識させる諦めだけが出てくる。そう、認めなければならない。魚屋の店主は…死にかけている、と。


「……どうして…?」
「…ん…?」
「尚人君、まだ小さいし、おじさんだってまだそんな死ぬような年じゃないし、どうして…? どうしてっ!?」


 震えた声が荒らげたような声へと代わり、橙は問うた。強く噛んだ歯が唇を噛んだのか、橙の口内に血の味が広がる。鈍い痛みと広がる鉄の味は更に橙の思考を加熱させていく。
 どうして、どうしてなんだ、と。どうしておじさんが死ななきゃいけないのだろうか、と。本当に死にそうなの? どうして死ななければならない。早い、早すぎる。だってまだ尚人君は小さいし、まだ奥さんだって生きている筈なのに。


「どう、してっ!?」
「…宿命、って奴かね」
「巫山戯ないでよっ!!」


 だんっ、と強く畳みを叩いて橙は叫んだ。どうして、と問いかける声は止まる事を知らない。どうして、こんな、平然としていられるのか。どうして平気で、自分が死ぬ事を宿命だなんて受け入れているのか。
 どうして、どうして、と橙はただ問うた。だが言葉にならない言葉は、涙と嗚咽に変わり、涙は畳みに一滴、二滴と降り注いでいって。
 しばらくその様子を見ていた魚屋の店主だったが、細くなったその腕を伸ばし、橙の頭を撫でて。


「巫山戯てなんか、ねぇさ」
「だったら! 宿命だとか言わないでよっ!! どうして、どうして…諦めちゃったのっ!!」


 橙には魚屋の店主がどうにも諦めているようにしか見えない。だからこそ、橙には納得がいかない。生き足掻こうといた事そのものが事の原点である橙にとっては、死を受け入れてもなお、突き進む、いや、真っ向から向かってくるという生き方をしてきた。
 だからこそ、その店主の姿は橙にはとても受け入れがたいものだ。だからこそ橙は叫ぶ。その橙の叫びを聞いていた魚屋の店主はそっと瞳を閉じ、ふぅ、と息を吐き出した後。


「…なぁ、橙の嬢ちゃん。嬢ちゃんは、薬の値段、幾らか知ってるか?」
「…え?」
「魚屋の売り上げじゃ、しょうしょうきついんだよな。しかも、薬買ったって半年以上はどう足掻いたって保たねぇ。結局、金かかるだけさ」
「…そんな」
「そうしたら、死んだ後どうなる? 女房は? 尚人は? 店はどうなる? どうにもならん。俺がいなくなっても、尚人がでかくなれば魚屋は継げば生活出来ない事はないし、元から尚人に継がせるつもりだったからな。それが、早くなっただけだ」


 橙はその店主の言葉に、思わず、唇を噛んだ。もう先が無いとわかっても、その少しの時間を生き残らせる為にお金を使うのと、例えその時間が短くなろうとも、まだこれから長いだろう者達の為にお金を残すのと、どちらが正しいか、と言えば、後者なのかもしれない。
 だけども、じゃあ、だから死んで良いって訳じゃない、と橙は言いたい。だけど…。


「…どうして、諦められるんですか?」
「…どうして、か。…終わり時、って言うのかな。俺は、もう十分生きたな、って思ったからだよ」


 …あぁ、やっぱり、理解出来ない。出来ないよ、と橙は涙を零した。どうしてその終わりを受け入れられるようになるんだろう。自分はそれが怖くて、恐ろしくて、逃げて、生き延びようと足掻いて今に至る。
 だからこそ、理解が出来ない。あの恐怖を受け入れられるのはどうしてなんだろう、と。


「…死ぬのは、怖く無いんですか?」
「馬鹿野郎」
「…え?」
「…怖いに決まってるだろ。…俺がいなくなった後、女房は無事やってけんのか、とか、尚人は幸せになれるのか、とか、死んだらどうなるのか、なんて、もう、嫌になる程考えたさ。怖いもんは怖いままさ」


 店主の言葉に、橙は更に困惑を加速させる。怖いならどうして、怖いなら尚更生きたいと思うんじゃないだろうか、と。


「…生きてぇな。もっと長生きしてぇな。そうは思うさ。だけどよ、どうしようもねぇ。…俺には時間があった。死ぬってわかって時間があった。だから、受け入れられたんだ。これが明日死ぬ、って言ったら生き延びよう、ってやる気になったかもしれねぇ。だけどよ、半年は、長ぇよ。…長ぇよ」


 死ぬと宣告されて半年。生きて、死ぬ覚悟をしなければならなかった。苦悩して、苦しんで、そして、ようやく得た答えがあると。


「…橙の嬢ちゃん」
「……」
「…俺は、残して逝ける。俺が親父から受け継いだ魚屋を、尚人に継がせてやれる。俺が稼いだ金を家族に残せてやれる。他にも、何か俺は残して逝ける。残して逝けるんだ」
「…おじ、さん…」
「それって、よ。とても、幸運だ、って思えるぜ。少なくともいきなりポックリ死んで、生きてたんだなぁ、って実感する前に死ぬよりは、よっぽど、よっぽど幸せだ」


 …幸せ、なの? 橙は問う。自らにそれは幸福な事なのだろうか、と問う。
 …きっと幸福なのかもしれない。わからないけれど、だって、そう語る店主の顔は晴々としていたからだ。


「…わからないよ」
「…そうか」
「私には、わからない…」
「…いつか、わかるかもな」
「…いつか、わかるかな」


 ぐすっ、と鼻を鳴らした。涙が滲んで前が見えなくなってくる。あぁ、死ぬんだ。この人はもう、死んでしまうんだ、と。わかってしまった。
 もう、覚悟も、後悔も、死ぬ為に必要な全てをこの人は、長い時間をかけて納得していったんだろう。つまり、そういう事なんだろう、と。
 生きて、生きて、生き抜いて、生き足掻いて、そしてその先に絶対に待つ死。それを受け入れる時間がこの人にはあったんだ、と。だから、こんなにも死を受け入れていける。


「…悲しい、ですか?」
「…特に」
「…後悔、ありますか?」
「…もうちっと健康に気使ってりゃ良かったなぁ」
「…生きたいですか?」
「…十分、生きたさ」
「…それでも、全部、ここで、終わらせて、逝っちゃうんですか?」
「…時間には限りがあるんだよ。きっと、俺の時間はもう終わりなんだろうなぁ」


 …出来ない。まだ、自分にはそんな風には思えない。今、死ぬとなったら悲しいし、後悔も残る。生きたい。まだ、まだ生きていたい。まだ何もかも終わらせたくない。


「…それで、良い」
「…え?」
「生きたいんだろ? だったら、精一杯、胸張って生きろよ。…お前は、まだ死なないんだろ? 妖怪なんだ。人よりも長く生きるだろ。そしたら…いつか、お前も俺みたいにこんな気持ちになるのかもな…」
「…おじ、さん」
「…生きろよ。その時間、大切にしてよ…」


 こほ、と店主が小さく咳き込んだ。橙が慌てたように店主へと寄り添い、心配げに体調を伺う。何度か咳き込んだ店主であったが、すぐに息を戻し、小さく息を吐き出して。


「…俺は生きて、死ぬ。…なぁ、橙の嬢ちゃん」
「…何、ですか…?」
「俺、無意味に生きて、死ぬ訳じゃねぇって、そう思えたのが、幸せだと思うぜ…」


 それだけ告げると、再び店主は咳き込んだ。橙は店主の手を握って必死に店主を呼びかける。


「…げほっ……まだ、まだ大丈夫だ。まだ、な」
「…おじ、さん」
「…橙の嬢ちゃん。良けりゃ、でかくなった尚人が継いだ後でも、贔屓してやってくれや」
「…うん」
「…そんでもって、精一杯に生きてくれや」


 もはや、返答を返す事は出来なかった。ただ、頷いて意志を示す事しか、橙に出来る事は無かった。
 ただ、店主の咳き込む音が聞こえていた。橙はただその姿を見つめる事しか出来なかった。





 その数日後、橙の耳に、魚屋の店主が逝った報せが届く事となる。
 その時、橙は涙を流す事は出来なかった。あぁ、来てしまったんだと。泣いて、泣いて、最後までやっぱり認めたくて、でも、来てしまう時に涙を流して、枯れ果ててしまったから。
 橙は葬儀に誘われた。だが、橙は断った。それは逃げだったのかもしれない。いや、実際きっと逃げただろう。それを受け止めてしまったら……自分の中で何かが、大きく変わってしまうような気がしたから。





 + + + + +





 彼女は歪な存在だ。妖怪の身体に、人の魂。何らかの要因で生まれてしまった生まれる訳がない、だが、生まれてしまった存在。
 それ故なのか、彼女は「ありとあらゆるものに反発する程度」の能力を得てしまった。誰よりも強力な形で、誰よりも強固な形で、誰よりも特異な形で。
 それは、果たして幸福か、それとも不幸か。その答えは誰にも出せない。ただ一人、彼女自身のみを除いて。


 生きるって、何だろう。

 死ぬって、何だろう。


 巡り。巡る。始まり、終わり。繰り返し、繰り返される。それは営み。それは輪廻。
 グルグル回る。グルグル廻る。グルグル、グルグル、グルグルと…。
 ただ、彼女は廻る。答えを求めて、辿り着く場所を求めて。グルグル、グルグルと。
 歯車は廻る。廻れば動き出す。グルグル、あぁ、グルグル、グルグルと…。


 生きて、何があるんだろう。

 死んで、何があるんだろう。


 私という存在に、何があるんだろう。何が出来るんだろう。
 私という存在は、何を求めて、何を欲しているのだろうか。
 私は……一体、どこへ辿り着けば、この苦しみから解放されるのだろうか。
 繰り返される。夢とも、現ともわからぬこの過去の一生。そして、今、歩んでいる一生と…。



 私は……いつまで、「終わり」に怯え続ければ良いのだろう。



 ただ、惑う。惑わされ、クルリ、クルクル、グルグル、未だ、歯車は行く先を決めず、フラフラと回り続ける…。




[16365] 黄昏境界線 15
Name: 道化◆5a734804 ID:d4ec8ce0
Date: 2010/02/12 20:54
 死。それは生きとし生ける者達が待つ終着点。必ず訪れる約束された終焉。
 生まれ、生き、そして死んでいく。それが定め。ごく一部を除いて、いや、それでもいつかは訪れるのだろう、死。
 肉体的な死にせよ、精神的な死にせよ、また、擬似的な死にせよ、死は足を止めさせてしまう。それ以上の進歩も、後退も、思い出も、何もかもがそこで停滞してしまう。
 停まって、滞って。そしてそれは抱えなければならない。忘れない限り、抱える事しか出来ない。
 命はいつか消える。どれだけ長い時を得ていようとも、それでもいつかは終わりが来てしまう。


 わかっている。わかってはいる。
 いつか、終わりが来るんだって。変わらないまま時が過ぎてゆく事はあり得ない事だって。
 藍様がいて、紫様がいて、魚屋の店主がいて、その他にも知り合った人たちと一生そのままで過ごしていける訳がないなんて、そんなの、わかってた。
 …いや、本当はわかってないのかもしれない。だけども、それでも何も知らない訳じゃない。
 だけど、欠けてしまった。あまりにも早く、あまりにも呆気なく、あまりにも突然に。
 いや、知ろうとしなかった自分が悪い。そう、あの日、吸血鬼異変の後日から続けてきた修行。それがまともに出来なかった自分。その所為で人里に足を向けなかった。
 もしも、もっと早く自分が人里に行っていて、そして主人の病気をもっと早くに知っていればどうにか出来たかも知れない。
 …違う。そんな事考えたって、もうどうにもならないんだ。もう、店主はいなくて、それは、きっとどうしようもない。
 回避出来ても、いつかは同じ問題にぶつかる。だから、目を向けなきゃいけない。逸らしてばかりはいられない。自分を責めても何も変わりやしない。
 精一杯、生きる為に。そのために、どうしても、どうしても乗り越えなきゃならないものが、今、目の前にある。





 ――私は、死と向き合わなければならない。





 今の今まで、ずっと避けて、考えず、逃げていた。
 私という存在の意味も考えず、ただ、逃げて、望んで、生き足掻いてきた。
 もう、頃合いなのだろう。始まりがあれば、終わりが来る。そう、それはとても当たり前な事なのだから―――。






 ―――夢。
 そこは灰色の背の高い建物が並び立つ世界だった。人は溢れ出るかのようにその世界を闊歩していく。
 その中で、また私も闊歩していた。少なくとも私という意識が確立してからは見たことも無い場所であった。なのに、それは当たり前のように私は知っている。
 私は歩いていく。人の波を縫うように。ただ目的も無く、フラフラとその世界を巡り続ける。
 次第に光景は変わっていく。いつの間にか私の目の前には丁度、十字を描くように道と道が重なった中心点に立っていた。
 流れていた景色が、いつの間にか停まっていた。人も、鉄の箱も、三色に光る鉄の棒も。
 世界の色は灰色。だが、その景色の中に鮮明な色が見えた。何か、とゆっくりと歩を進めようとして。
 足が、動かない。竦んだかのように、先へと進む事を拒むかのように足は止まり続ける。
 止まる訳にはいかない。だから、動かないと。だから、行かせて。行かせてよ。
 ブリキの人形のように、ぎしぎしと、身体は動き出す。ぎしぎし、ぎしぎしと。
 あぁ、それは、身体の音だったのだろうか。それとも…それは、この世界が奏でた音なのだろうか。
 ぎしぎしと、ぎしぎしと、ゆっくりと、鮮明な色の方へと向かっていく。そしていつしか、その色を把握出来るようになってきた。
 それは、赤い。紅い。朱い。赤くて、紅くて、朱くて。染まる、灰色の、世界、染め上げる、その、色は―――。





「――橙ッ!!」





 誰かが、私の名を呼んだ。がしゃん、と何かが崩れ落ちる音が聞こえ、そこで私の意識は途切れていった。





 + + + + +





「――また、ですか?」
「…えぇ」


 問いかけの声には重く、固い響きが篭もっていた。それに応える声も、また重く、固く。
 会話を交わすのは八雲 藍、八雲 紫の両名。時刻は朝。既に本来ならば朝食が始まっていてもおかしくないそんな時間。
 だが、そこに最後の一人は加わらない。そこに一人、いつもニコニコと笑っていた筈の少女が欠けていた。


「…また、魘されてたんですか?」
「…えぇ」


 橙が、いない。
 彼女は今、まだ眠りの中。普段から彼女が作っていた朝食も作らず、ただ彼女は眠りの淵へと沈むだけ。


「…前世の記憶、ですか」


 それが彼女の眠りの原因。毎夜魘され、突如悲鳴を上げて飛び起きる。その後、錯乱し、突然糸の切れた人形のように眠る。
 意識がある時でも、どこかへと意識を飛ばしているのか常にぼんやりとし、寝る時間、いや、あれは気絶というべきか。その時間が長引いている為に食事も禄に摂らない。
 そのため、最近の橙はやつれ気味だ。常にボンヤリとしているため、本当に生きているのか問いたくなる。まるで橙が別世界に行ってしまったような錯覚が藍の胸を痛める。


「…いつも、同じ場面よ。橙が明確に意識するようになって、私も見えるようになってきたわ」
「…橙が、いえ、橙になる前の「橙」の、死に際ですか?」
「…えぇ」


 紫は境界を操り、橙の夢を見た。流石に魘される橙に対して指を咥えているわけにはいかない。
 そして紫が知ったのは、橙の前世の最後の記憶。それはあまりにも突然で、あんまりとしか言いようの無い最期。


「…何故、何故今になって? 橙はそれを思い出せなかった筈です」
「えぇ。橙にとってそれはトラウマだもの。思い出すだけであぁなる程、強烈なもの。藍、貴方、自分の死に際を明確に覚えていられる?」
「…想像出来ません」
「そう。わかる? それだけあり得ない事なの。想像も出来ない、する事すらも許されない苦痛。それが橙が今、受けている苦痛」


 想像も出来ないだろう。自分が死ぬその瞬間を明確に覚えているなど。身体が冷たくなっていく感触を、暗闇の中に意識が引きずり込まれていくような感覚を。
 想像出来たとしても、そんな記憶を、感覚を覚えているなど身に怖気が走る。藍は想像し、首を横に振った。想像するだけで心臓が鷲掴みにされたような錯覚を得る。


「……私に出来るのは、強制的に夢を終わらせる事ぐらい。意識と無意識の境界を操り、意識を覚醒させる事しか出来ない。それは、橙は拒まないから」
「…なら、記憶の改竄は」
「…不可能だったわ。何度やっても橙に弾かれる。あの子は自分の意志で、記憶を開こうとしている」
「…どうして…」


 辛いなら忘れてしまえば良い。藍はそう思わざるを得なかった。その所為で橙が日に日にやつれていく。その姿を見る事など、藍には耐えられない。
 どこか虚ろに空を見上げ、声をかければ空返事だけ。意識をようやくこちらに向ければ、青白い顔で心配させないようにと無理して笑う橙。それに、藍はどれだけ心を痛めつけられたか。
 だからこそ、どうにかしたい。どうにかしてあげたい。だけど、橙が自ら苦痛を望んでいるのだとしたら、それはどうしてのなのかと。


「…切欠は、恐らく魚屋の店主が亡くなったのが原因でしょうね」
「…橙は、懐いていましたからね」
「死。橙にとって恐れるべき、忌避され、忘却されたもの。再び思い出して、何か心境の変化があったのかもしれない。目を背けるのではなく…そう、答えを探しているのでしょう」
「…答え?」
「…受け入れる覚悟を得る為の答えを、橙は欲しているのでしょう」


 だからこそ、前世の記憶を掘り起こし、死を見つめている。そして発狂してもおかしくないその世界で橙は抗いながらも藻掻いている。
 反発の能力。それが、今の橙を生かしている。無意識に自分が壊れる事に反発し、そして狂気の世界でただ、見つめている。受け入れる為の答えを探す為に。


「…反発の能力って、何なんですか?」
「…どうしたのよ。急に」
「どうして、そんな能力が発現したんでしょうか?」
「…推測なら立てられるわよ。魂、つまり潜在的な霊的な力と、妖怪の肉体に宿る妖力、それの反発によって発生したエネルギーの余波。それが反発の能力の切欠」


 本来混じり合わない、噛み合わない物が同一に存在し、1つの存在として纏め上げられている矛盾。自己に適合しない肉体に魂は拒絶反応を起こし、妖怪に肉体もまたそれに対し拒絶反応を起こす。
 互いに互いを押しつぶし合おうとして、互いに拮抗しあった状態で現状を維持しあっている。反発の能力はその副産物。


「…あり得るんですか? 互いに拒絶しあっているんでしょう?」
「だから釣り合ってるのよ。力の方向性は反対であっても、向かう先は同じなのだから。…そう、ただ生きたい、その願いがね。だからこそ循環のサイクルが出来てるのよ。橙が普段、大した事のない妖怪に思えるのはそれが原因。中身を開ければとてつもないエネルギーが消費されてる筈よ。常に消滅と発生を続けているから正確な値は私でも測れないけれど。片方の力に偏れば、それを押し返すように片方の力がその力を上昇させる。橙が自分の意志で自らの肉体を作り替える事が出来る仕組みはこれよ。主導権は魂にあるものね」


 何か1つかければ存在する事が出来ない「生命」。
 魂と肉体。切っても切り離せない2つの要素。それが歪な形に、しかしピースが嵌るかのようにぴったりと嵌り生まれた命。それが橙。
 死。本来ならば行き着く筈の流れに対して抗った2つの要素が混じり合い、象った歪な生命。


「…橙にとって「死」とは毒よ。容易に身体のバランスを崩してしまう程の、精神的な、いえ、橙という存在そのものの毒。致命的なね。…それを受け入れようとしている。それは、果てしなく辛い道よ。…辛いだなんて言葉でも言い表せない。だってそれは本来、橙が排除したものなのだから。それを受け入れるとなると、橙はまたその存在を大きく変えなきゃいけなくなる。その矛盾を解決する為にね」
「…生きる為に存在している橙が、死を受け入れる事によってどのように変わるか、紫様は想像出来ますか?」
「…私が想像出来るのなんて…2つ」





 ――あるべき姿に戻るか、それとも、想像もつかない「ナニカ」になるかどちらかね。





 + + + + + 





 橙はその日、珍しくまともに起きていた。勿論、理由がある。橙は現在、紫に連れられてある場所へと向かっていたのだから。
 紫の直々のお誘いとあれば断る訳にはいかない、と橙は倒れてしまってもおかしくない身体を反発を用いて誤魔化し、紫の後を追っていた。
 紫の作った隙間を越えて向かったのは、橙が一度見たことのある建物であった。


「…白玉楼…?」
「そう。前に会わせたい人がいる、と言って会わせてなかった人がいたでしょ? その人に会わせようと思ってね」


 付いてらっしゃい、と先を行く行く紫の後を追いながら橙は白玉楼を見渡した。ここは冥界。死者が行き着く地。そう思えば嫌でも脳裏に過ぎるのは、魚屋の店主の顔。そして、次に浮かぶのは灰色の世界の中で、鮮明に映えるアカイロの―――。


「橙。こっちよ」


 ふと、現実から逸れた意識が紫の声によって戻される。少し距離が開いていた事に気付いて橙は慌てて紫の後を追う。
 紫は追ってきた橙に背を向けて歩き出す。袖に隠されたその両手は拳をつくり、固く、固く握りしめられていた。
 少し歩き、紫と橙が辿り着いたのは見事な枯山水の庭。その縁側に見たことのある銀髪の少女と、その少女を控えさせた一人の女性――。
 その女性と目が逢う。藍色の装束を身に纏い、桃色の髪を揺らせ、ふわりとした笑顔で微笑む女性。
 ――肌が、粟立った。一瞬にして嫌悪感で一杯になる。コイツは見ちゃいけない、触れちゃいけない、関わってはいけない。


「あら、会いたかったわ」


 微笑む。それは柔和な微笑みな筈なのに、橙には禍々しいものにしか見えない。


「死を拒む猫がいる、って、紫から聞いて、試して見たかったのよ」


 ゆっくりと、優雅な動作で女性が一歩、また一歩と橙に歩み寄ってくる。それに橙は一歩下がり、どんどんと女性と距離を取ろうと下がっていく。
 だが、背には壁。気付いた時には目の前に女性がいて、柔和な微笑みのまま橙に顔を近づけ、そっと橙の頬に手を伸ばして。


「いっぺん死んでみる?」





 + + + + +





 それは一瞬の事。魂魄 妖夢はその一瞬の間に起きた光景に目を奪われた。
 幽々子の霊力と橙の妖力がぶつかり合い、周囲に余波を残しながら2人は空へと舞い上がっていた。
 余波によって縁側は多少ボロボロとなり、空中では今でも轟音のような衝突音が鳴り響いている。


「ゆ、幽々子様っ!?」


 何がどうなっているのか。妖夢には理解が出来ない。今日は久しぶりに橙がやってくると聞き、以前の非礼を詫びようと思っていた彼女なのだが、今度は主人と橙が争っている状況。
 だが困惑は一瞬。妖夢は自らの愛刀に手を伸ばし、それを抜き放とうとする。だがその刀はそっと手を添えた紫によって抜く事は叶わず。


「ゆ、紫様!?」
「お願い妖夢。何も言わず、今は、好きにやらせて」
「し、しかしっ!」
「幽々子にも同意して貰ってるわ」
「で、でも橙の能力は!」


 死を否定する橙にとって、幽々子とは天敵である。それと同時に、幽々子にとっても橙という存在は天敵である。
 死を否定する橙。つまり死に類ずるもの、幽霊や亡霊に対し、反発の能力の出力を上昇させやすい。橙にとっての天敵とはつまり、最も橙が力を出しやすい敵とも言えるのだ。
 それは最悪、幽々子の消滅も考えられる。死という概念を否定し続ける橙にとって幽々子はあまりにも、橙の相手をするのは危険で。
 妖夢は吸血鬼異変の顛末を知っている。そしてその際に橙が為した事も紫から幽々子に伝わり、妖夢の耳にも届いている。


「今の橙には、必要なのよ」


 だが、それでも紫は取り合わない。ただ、争い続ける2人へと視線を向けて。
 紫は橙の能力が判明した後、白玉楼に橙を連れてこなかった。その理由は先ほどあげたように橙の能力が幽々子の存在を脅かす可能性があるから。
 そして、もう1つ。紫は目を細め、空に浮かぶ親友へと目を向けて。


「…どうか、願えるならば…」


 そっと、紫は瞳を閉じて願う。どうか自分が願う最良の形で終わる事を。
 最悪、この戦い。…どちらが消えてもおかしくは無いのだから。





 + + + + +





 幽々子は自らの霊力を凝縮して蝶の形をした弾幕を解き放つ。橙へと向かっていく弾幕は、橙が握りしめた拳に1つ残らず叩き落とされる。
 込められた霊力の量は決して少ない訳ではない。低級妖怪ならばそれだけで気絶してもおかしくはない程の威力は秘めていた。それが、1つ残らず殴り飛ばされ、掻き消えていく。


「ふふっ」


 小さく幽々子は笑みを浮かべたまま吐息を吐き出す。そう、それはまるで楽しむかのように。
 橙が迫る。幽々子は弾幕を放つも、橙はやはり殴り飛ばし、消し去っていく。


「ふふっ、ふふふっ」


 それを幽々子はやはり、笑みをうかべたまま見据える。橙が更に距離を詰めていく。その瞳はギラギラとした殺気と焦燥に満ちていて、幽々子にありったけの敵意を向けている。


「あぁ、ぁぁあああああっっ!!」


 遂に、橙が弾幕を突破し、幽々子へと肉薄する。それでも幽々子は笑みを浮かべたまま。
 その幽々子の頬に、橙の拳が突き刺さった。幽々子は空中で回転し、そのまま落下していく。
 だが、すぐさま蝶の弾幕を解き放ち橙を狙う。橙はその場を勢いよく離れ、蝶がその後を追う。橙がそれを殴り、蹴り、掻き消していく。


「ふふっ、ふふふっ、ふっ、あはははははははっ!!」


 突然、幽々子が笑い出した。高らかに、これが楽しくて仕様がないと言わんばかりに、柔和な笑みは消え、そこには獰猛な笑みが浮かぶ。


「あぁ、良かった。紫の言ってたとおりの子ね。えぇ…えぇ…」


 殴られた頬をそっと押さえて、宙に浮かぶ橙を見据えて。


「私、貴方の事、嫌いになれそうだわ」


 そして幽々子の背後に、先ほど橙に向けて解き放った蝶の弾幕が展開される。だがその数は先ほど、橙が掻き消した弾幕の二倍ほどもある。
 その全ての蝶に対し、幽々子は号令を下す。下す命令はただ1つ。


「本気で死なせてあげるわ」


 まだ、激闘は幕を開けたばかり。 



[16365] 黄昏境界線 16
Name: 道化◆5a734804 ID:d4ec8ce0
Date: 2010/02/13 14:54
 気付いたら亡霊になっていた。
 幽々子の意識はそこから始まっている。ただわかったのは、自分が亡霊であるという事だけ。
 名前はあった。だが、忘れてしまった。記憶はあった筈。だが、それはどこかへと置いてきてしまったように忘れていた。
 わからない。自分がわからない。だから…。
 どうして、自分がニコニコと笑っていられるのかわからなかった。


「死に、なさいっ!!」


 幽々子の宣言と共に死蝶が舞う。霊力によって象られた幻想の蝶は一直線に橙へと向かい、殺到する。
 だが、橙はそれを拳を振るい、全てを叩き落とす。反発の能力。幽々子の能力とは致命的に相性の悪い最悪な能力だ。
 幽々子の能力は死を操る程度の能力。文字通り、生きている者を死に誘う事で殺す事も出来れば、幽霊を使役する力である。
 それ故、彼女は白玉楼の主として冥界の管理を任されている。亡霊の姫君。それは確かに彼女を表す表現としては間違ってはいない。
 だが、知らない。それは八雲 紫と、数えられる程しか知らない。そう、既に西行寺 幽々子を過去より知る者は限りなく少ない。だからこそ、幽々子を知らない。
 彼女はあくまで亡霊だ。死者が成仏出来ずに現世に留まった魂、それが亡霊だ。彼女は別に人に怨みがある訳ではない。誰かを呪い殺す為に存在している訳じゃない。
 ただ、そうでなければいけなかった。よくわからないが、そうだと自分でも思えるし、そうだとも誰かに言われた記憶がある。西行寺 幽々子は亡霊でなければならなかった。


「アァァアアアッッ!!」


 声にならぬ声を張り上げ、橙は死蝶を叩き落としていく。その様は光に吊られてやってきた蝶を焼く灯火にも見える。少なくとも幽々子はその様をそう称した。
 あまりにも眩しく、あまりにも苛烈に、あまりにも必死に、彼女は生き足掻く。それは橙にとって最早、反射とも言うべき行動。死にたくない、歪な魂と肉体が同一な願いを持ち、抗う為にその力を増させていく。


 ――気に入らない。


 断ずる。それは、その姿は、その在り方は…。


「見てて、怖気が走るわね。そんなに死が怖いかしら? そんなに死は恐れるべきものかしら? そこまでして、恐れなければならないのかしら!?」


 問うてる声にやや混じるのは、怒りの色。蝶の数は増してゆく。それが橙を取り囲むように飛翔し、幽々子の号令の下に全方位から橙へと襲いかかる。
 その死蝶に対し、橙は身を縮こまらせ、力を蓄えるかのように構え、咆哮。橙の反発の能力が全方位へと放たれ、死蝶の動きを食い止め、逆に食らい付くそうと蝶の身を削る。
 だが、幽々子はさせまいと霊力を込め続ける。真っ直ぐに橙を見据え、いや、睨み付けて。


「あぁ、腹が立つ。腹が立つわ。気に入らない。本当に、気に入らない―――ッ!!」


 紫でさえ、見たことが無いかもしれない。いや、もしかしたら紫が知る生前の自分はこんな声を上げて、こんな顔をしながら叫んでいたのかもしれない。
 記憶を無くして、与えられた役目をこなしてきた。能力があれば仕事は楽に進み、何ら不自由の無い生活を送ってきた。そう、特に努力する事もなく、苦しむ事もなく、ただ与えられたもの、生まれ持ったもので全てが済んできた。
 幽々子はどうして自分が亡霊になったのか知らない。覚えていない。だが、紫から聞いた事がある。自分は生前、この能力を疎んでいたという話を。
 死に怯えるのは生者の特権。死んでしまえば別にどうと言う事もない。それは幸せだったのだろう。人が持つにはこの能力は異質すぎるだろうから。


「死に対して、何も考えず、ただ思考だけ止めて、拒絶している貴方にはわからないかもしれない。受け入れようと心では思っても身体が受け付けない苦痛を受けていようとも貴方は生きている以上知らなければならない。いいこと? 死はね、必要だから、そこにあるのよ。認めなさいな、生き足掻く猫よ。そして知り、認めなさい」


 息を吸い込み、幽々子は告げた。


「過ぎた生命はいずれ、死を撒き散らすという事を。そう、貴方は既に死を撒き散らしかけた。その能力故に、その生き足掻く意志故に貴方は殺すでしょう。いつか殺すでしょう。生き足掻くその姿は見ていて醜い。見ていて哀れ。見ていて愚かだわ。だが、それすらも貴方は反発するのかしら? 永遠なんてものは無い。いつかは貴方は理解するでしょう。でもそのいつかはいつ? そしてそれまでに、貴方はどれだけ殺す? 一体何体、何十体、何百体の屍を積み上げる? 断言するわ。会って確信した。その姿を見て確信したわ」


 ありったけの敵意を、ありったけの嫌悪を込めて幽々子は更に告げる。


「貴方、いつか紫を殺すわ。そして、いつか幻想郷を破壊するでしょうね」





 + + + + +





 その言葉は、私に大きな衝撃を与えた。
 殺す? 誰を? 私が? 紫様を? 破壊する? 幻想郷を? 私が?
 加熱する思考。ただ身体だけが動く。死に抗う為に。生き足掻く為に。
 だけど、思考だけがグルグルと回っていた。聞こえる声。その意味する所を考えて。
 私は、確かに逃げてるのかもしれない。口だけで何も変えられていないのかもしれない。
 だけど、だけど私はそんな事しない。してたまるか。してやらない。紫様を殺すだなんて、幻想郷を破壊するなんて事は―――。


「本当に?」


 それは、まるで私の心を読んだかのように告げる声で。


「なら、貴方は…やはり殺すわ。だって――」





「貴方を殺して良い、って言ったの、紫だもの」





 がしゃん、とナニカがひび割れた音が聞こえた気がした。嘘だ、と叫びたかった。そんなの信じないと。
 それは、いつかの光景を繰り返すかのようで、橙の背筋に怖気が走る。だが、それでも、彼女は告げた。


「このまま生き、苦しむならば。せめて安らかに。生き続ける事が苦痛ならば、その眠りはせめて安らかに。ねぇ?」


 その声は、問いかける。聞きたくないと望んでも、それでも耳に届く。





「貴方、幸せなの?」


 その問いかけに、私は…泣いていたのかもしれない。
 ただ、自分を飲み込むような光に包まれて、衝撃が走る。そして、私の意識は闇の中へと呑まれていった。





 + + + + +





『本当に良いの?』


 問いかけの声が、聞こえる。


『もしも、それで救えなくても、私は知らないわよ』


 わかってる、と頷く。


『そう。なら、会ってみるわ。だけど、期待しない方が良いわよ? 私としては、そんな奴死んでしまった方が救われると思うわ。無駄に生にしがみついて、命を貪るようになる前にね。感情と理性はまた別だもの。そっちの方が地獄でしょう? その子にとっても、貴方にとってもね。その子が優しければ優しい程、辛いわよ?』


 そうね、と苦笑しか零れなかった。
 過去からの声が途切れる。紫の胸には今、橙が抱かれている。その瞳は閉ざされ、目尻には涙が溜まっている。
 例え境界を操れようとも、この子の涙を止める術が無い自分にどうしようも無い驕りを感じる。手を差し伸べたいのに、その手は差し伸べられない。
 紫は白玉楼を後にし、ゆったりと空を飛んでいた。隙間から帰る事も可能だったが、何となく空を飛んでみたい気分になった。
 冥界を遮る結界を越え、幻想郷へと舞い戻る。雄々しく広がる世界。命に満ちあふれた楽園。忘れ去られた幻想達の最期の行き着く場所。
 紫はこの世界を愛している。だからこそ、その世界に住む者達もまた愛している。幻想郷を害す者達には鉄槌を下す。そうして生きてきて、今後もそれが変わる事はないだろう。
 幻想郷の為に尽くし、その最期の時まで自分は幻想郷の為に尽くすのだろう、と思う。
 だからこそ、決断しなければならなかった。答えを出さなければならなかったのは、また紫も同じで。
 藍とも話し合った。そして、悩んで、それしかないと決めた。決めるしか無かった。
 もしも、橙がこのまま自らの能力、在り方に囚われるなら、その能力が暴走するその前に…この子を、眠らせよう、と。
 この子の在り方は歪すぎる。その歪さは、いずれ生き足掻く為に全てを犠牲にしてしまいかねない程、強く。自己矛盾が彼女を壊せば、また能力が暴走する可能性もあり、放っておく訳にはいかなかった。


「…貴方は、私を憎むかしら」


 恐らく、憎むだろう。何故ならばこの子にとって八雲 紫とは、本当の意味での敵、裏切り者となってしまったのだから。
 あぁ、暖かい。抱いている手から伝わる温もりが彼女が生きている事を伝えてくれる。されど、その温もりは手放さなければならない。
 そうしたのは私だ。そう仕組ませたのは私だ。だから、甘んじて受け入れよう。その為の覚悟は出来ている。
 だけど、どうか。どうか願えるならば……この子が、生きていて欲しい、と。





 + + + + +





 ふぅ、と疲れたような溜息が零れた。ここは橙と紫が去った後の白玉楼。そこでは幽々子がどこかぼんやりとしたまま空を見上げていた。
 その姿を、横に控えていた妖夢が心配そうに見守る。橙を沈めた後、幽々子はどこか気が抜けたようにこうして空を見上げたままなのだから。


「…あの、幽々子様?」


 意を決して妖夢は幽々子に声をかけた。その声に幽々子は緩慢な動作で妖夢へと視線を向けた。そこにはいつものようなふわふわとした笑顔を浮かべている幽々子がいて。


「どうかしたかしら? 妖夢」
「…あ、いや、…その」
「心配してくれた? それとも、意外だった? 私があんな事言うの」
「…はぁ、意外と言えば、意外、でしたけど」
「そう、ね。少なくとも、私のキャラじゃなかったわよねぇ」


 クスクス、と口元を隠して幽々子は笑う。その仕草に妖夢は本気で幽々子がそう思っているのか、それとも役を演じているのかわからなくなる。いつものようにつかみ所の無さにホッとしている面もあれば、不気味さを感じる所もあり…。
 妖夢が悩んでいると、そっと幽々子は妖夢の頭を優しく撫でた。突然頭を撫でられた事によって妖夢は驚いたような顔をして。


「あの子が気に入らないのは私の本心よ。だって、あのままだったらあの子はいつか狂うわ。そして、紫を殺す。絶対にね」
「…どうして、ですか?」
「生きるって事はね、妖夢。誰かを、何かを殺す事でもあるのよ。例えば人は食事を摂る。食事の材料はなに? これもまた命よ。人は常に生と死のバランスを崩さないように生きている。あの子がそれに気付いたら、開き直って暴走するか、もしくは自己否定して死ぬかどちらかでしょうね」
「…でも、食べなければ人は生きてはいけない」
「だから死ぬか、開き直るか…もしくは、紫が願うかのように答えを見つけるかでしょうね。でもあの調子じゃ無理でしょ。あの子は死という概念に盲目なのよ。恐怖、憎悪、嫌悪、忌避…そんな眼では、見れるもまた見えないでしょうね」


 可哀想な子。幽々子の呟きがどこか乾いたものに聞こえて妖夢には恐ろしかった。その声は哀れみによるものではない。可哀想、と良いながらもそれは、まるで感情を込めていない言葉。


「嫌いよ。あんな子。本当に腹立たしい。あぁ、でもあんな能力さえなかったら好きになれたかもしれないわね」
「…反発の能力ですか?」
「そう。妖夢、私はね。いつか来る時にはその形に収まるものだと思うの。あの子の収まるべき形が、暴走した姿なのかもしれないけれど、それなら尚更嫌い。生き足掻く? 結構。だけど、いつか来る死からは逃れられない。なら仕方ないと割りきる事も、受け入れる事も良い。だけど、それで無駄に誰かを殺すなら私は許せないわね。特に、あの子が真っ先に殺すとしたら親しい人でしょうしね」
「何故ですか?」


 そこがわからない、と妖夢は幽々子に問う。何故、橙が親しき者達を殺すと理解しているのだろうか、と。


「ねぇ、妖夢。もうこの人は絶対に生きられない。生きていても苦しむだけ。苦しんで死ぬぐらいなら、楽にしてあげたい。そう思う事はないかしら?」
「……難しいですね。そういう状況にあったことはありませんから」
「そう…。まぁ、私も無いけれどね。でもね、きっと、紫はそうする」
「紫様が?」
「えぇ。紫は優しいもの。救おうとして、自分に出来る事がそれしかなかったら紫は殺すでしょうね。でもね。そうすれば、紫は橙と殺し合わなければならない。それこそ、互いに死力を尽くしてね。でも、あの子はそうそう死なないわ。まったく、だから厄介なのよ。どっちが生き残っても…面倒な事にしかならないんだから」


 はぁ、と幽々子は溜息を吐き出す。その溜息には憂鬱な気が込められていて、重苦しい。
 妖夢も最早何も言えず、幽々子に合わせるかのように空を見上げた。ただ何となく、今の彼女にはそうする事しか出来なかった。





 + + + + +





 ふわり、と浮かぶように意識が浮上してくる。
 ゆっくりと身体を起こせば、節々が痛い。だけど、それすらも気にならない。
 辺りを見渡せば、そこは見慣れていた部屋であった。それをぼんやりと見つめる。
 どれだけ、時間を置いただろうか。もう、時間感覚が曖昧で、よくわからない。
 だが、それでも、身体は動く。ゆっくりと手をついて、身体を起こして歩き出す。
 足下は覚束無い。それでも、導かれるかのようにフラフラと歩き出す。既に時刻は夜のようだ。だが、星は見えない。雲でもかかっているのだろうか。
 それも、どうでも良い。ただ、フラフラと、歩んでいく。廊下を抜け、外へと向かう。妨害は無い。気付いているのかもわからない。だけれども、有り難かった。
 ゆっくりと進む。歩を進めて。枯れ葉を踏む音に気付く。あぁ…もう、秋になっていたのか、と。
 一瞬、足を止めて振り返る。そこには見慣れた八雲邸がある。


「……」


 ゆっくりと、八雲邸に身体を正面に向けるように立つ。胸にじんわりとした何かが迫り上がってきて、脳裏に数々の記憶が浮かんでくる。


「…あぁ」


 声が漏れる。その声は震えていた。気付いたら、ぽろぽろと涙が零れていて。
 楽しかったな。幸せだった。本当に、心の底からそう思う。生きて、生きて、生き足掻いて。生きる意味を見つけられて。
 だけど――――ここにはもう居られないから。
 私は、ここに居ちゃいけない。ここに居るだけで悲しませる人がいる。ここにいるだけで苦しい思いをする人がいる。だから、ここを去らなきゃいけない。
 こんな歪な私を。どうしようも無い私でも、愛してくれた人たちに、もう、苦しい思いはさせたくないから。
 そして…憎みたくないから。殺したくないから。だから…終わらせよう。
 怖いけど、苦しいけど、それでも、それでも、誰かを苦しめて生きるぐらいなら。そんな資格、私には、無いから。
 本当は死んでいて、生きている筈の無い命が、こうして生きている。それが、誰かの命を奪う位なら……消えて、無くなろう。
 だから――――。





「―――サヨナラ」






 + + + + +





 しとしとと、雨が降り始めた。冷たい、冷たい雨だ。
 まるで泣いているかのように、雨は降り続ける。しとしとと、しとしとと…。
 猫の鳴き声は、もう聞こえない。



[16365] 黄昏境界線 17
Name: 道化◆5a734804 ID:d4ec8ce0
Date: 2010/02/15 13:15
 途切れた。その感覚に一瞬、目を見開いた。そして、ゆっくりと手を握り締め、拳の形を作る。固く結んだ唇。噛み締めた歯が奥歯を噛み砕かんほどの力が込められて。
 ぎりっ、と決して快くない音が零れ出た。あぁ、あぁ。ついに、行ってしまった。行ってしまったのだと理解してしまった。握られた拳が震えて、目の奥に篭った熱が押し上げるように涙を零す。
 苦しませるぐらいならば、と。苦しむぐらいならば、と。ただ見ることを選んだ。憎まれてもよいとさえ思った。その覚悟だった。だから、覚悟は出来ていた。その筈だ。その筈なのに。
 許しておくれ。許しておくれ、と心の中で何度も頭を下げる。何度も彼女の表情を思い浮かべては繰り返す。私は何もしてやれなかった、と。不甲斐ない。あぁ、不甲斐ない。私はあの子に何もしてあげられなかった。


「橙…」


 だんっ、と強く叩きつけた畳。何度も、何度も強く拳を叩きつける。胸が締め付けられるかのように痛み、零れ出る涙は止められず。


「橙…っ…橙っ…橙っ!!」


 もう届かないと知りながらも、何度も、何度も彼女の名を繰り返す。声が震えて、体が震えて、自分で抱きしめていなければ暴れだしてしまいそうなほど、震えて、感情が震える。
 悔しくて、悲しくて、申し訳なくて、どうにも出来ない感情が暴れだして、身を削り、燃やし、抉り、痛みを与える。どうして、どうしてと何度も繰り返して、どうしようもないということだというのに、何かしたくて。してあげたくて。


「…藍…」
「…紫…様…」


 声が聞こえて、顔をあげれば、どうしようもないほどまでに悲しみに歪んだ主の顔があって。あぁ、駄目だ。声が震えて、どうしようも出来ない。
 そっと頬が温かい両手に包まれる。やめて、やめてください、と言いたかった。優しくされたくなかった。今、優しくされると、もう駄目だ。我慢が出来ない。


「紫、様っ…橙が、橙がっ…」
「…藍」
「約束、したのにっ、私が立派な式にしてやるって、約束したのにっ…!! 私は、あの子に、何も…何もっ…!!」


 あぁ、私はもっと何か出来たんじゃないだろうか。あの子に。大事なあの子に。
 あぁ、最初は本当に駄目な奴だと思っていた。だけど本当のお前はすごい奴だったんだな、と本当にそう思った。すごく優しくて、頑張り屋で、頼りになる子だった。
 将来が楽しみだった。きっと楽しくなるだろうな、と思っていた。これからの生活がずっと、ずっとそういう風に続いていって。
 でも、でもこんな、こんな事になるとは、想像もしてなかったんだよ。なぁ、橙。橙よ。お前はどんな気持ちだったんだ? どんな気持ちでお前は、お前は…。
 もう、猫の鳴き声は聞こえない。私の名を親しげに呼んでくれるその声はもう届かない。あの子に贈った式の感覚。私と、あの子をつないでいた絆は…脆く、呆気無く崩れていった。
 声がする。悲しい泣き声だ。それは一匹の狐の鳴き声。遠吠えにも似たその声はただ悲しく、ただしばらく響いていった。





 + + + + +





 いつか、終わるって知ってる。一度体験しているから知っている。終わらなきゃいけないことがある。どうしても、そのままでいられないものがある。
 生き物はいつか死ぬ。動物も、植物も、人間も、そして、妖怪も。永遠に生き続けることなんて出来ない。どれだけ永遠を信じられている存在だって、疎まれれば排され、隠され、忘れられて、いつかは記憶に残らなくなる。
 いつか絶対どこかで来る終わり。永遠なんてない。一瞬をまた次の一瞬に繋げて、その一瞬一瞬を大事に生きていく。精一杯、力の限り、全力で。
 だから私も終わらなきゃいけない。本当はとっくの昔に終わっていけなかった命なのにまだ生きている。生きたいと願って、生き足掻こうとして。
 でも、それは間違いだったのか。私は、生きてはいけなかったのだろうか。もう本当は終わっているはずの存在なのに、まだ生きているというこの矛盾は解消しなければならないものなのか。
 あぁ、愚問だ。まさにその通りだろう。終わらなければいけないと定められなら終わらなければならない。それが皆に平等に訪れる「死」ならば尚の事だろう。だから私は死ななければならない。死んで、消えて、無くならなければならない。
 だけど、脳裏によぎる記憶が、感覚が、その全てが怖い。気持ち悪い。寒い。恐ろしい。あぁ、駄目だ。一瞬考えただけで気が狂いそうになる。死ななければならないなんて考えたくない。生きたい。生きたい。生きたいっ!
 死にたくないよ。生きたいよ。怖いよ。怖いよ…。寒い…。寒いよ…。どうして、どうして死ななきゃいけないの? どうして生きてるの? どうして…どうして…。
 苦しいよ。苦しいよ…。辛いよ…。死ななきゃいけないのに、辛いよ。苦しいよ。怖いよ。寒いよ…。どうしてこんな目に遭わなきゃいけないの? 私が何をしたの? 「私」が何をしたの? そんなに、そんなに、私が生きていることは罪なの?
 もう、いやだ。ぐるぐる、グルグル、思考が巡る。ずっと終わりのない答えを探し続けてる。きっと誰もが「仕様がない」と済ませる、解答が出ない答えを探し続けてる。ずっと、ずっと…。
 だったら、もう、終わらせよう。どんなに苦しくても、一瞬で終わるから。だから、だから…。
 私が私で居られるうちに、誰も壊さないうちに、誰も死なないうちに、誰かを傷つけるその前に、もう遅いかもしれないけど、死のう。死ななきゃ。死んで、楽になろう。


「それが、きっと、正しいんだよね?」


 誰かに問うた訳でもないのに、でも、問うかのように声が出た。ぽろり、ぽろりと零れていく涙が止まらない。胸がずきずきと苦しくて、腹がきりきりとして痛くて、背筋が気持ち悪い何かをいれられているかのような感触が気持ち悪くて、足ががくがくと震えて、歯はかちかちと音を鳴らしている。
 怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。ただ、怖い。死にたくない。苦しい。辛い。助けて欲しい。誰か。手を伸ばしたくて。伸ばせなくて。ゆっくり、ゆっくりと迫っていく。
 さぁ、これで楽になろう。楽になって、終わって、眠って、何も考えずに済むその場所へ行こう。
 行き先もわからぬまま、ただ、ふらふらと。ふらふらと彷徨う。震える体を引きずって、しとしとと降りしきる雨の中をただ歩いていく。
 体が冷えていき、体が小刻みに震え、指先の感覚が消えていく。唇が小刻みに震え、歯がかちかちと鳴る。だがそれでも進む。進む。どこに行くわけでもなく、ただ、ただ何かしていなければ落ち着かない。だから、ふらふらと、どこまでも。
 歩いて。歩いて。歩き続けた。服が雨に濡れ、ひどく冷たい。体はもはや氷のように冷たく、目の前がぐらぐらと揺れて。
 そして、倒れた。ぱしゃん、と水溜りの中に倒れこむ。あたりには枯れ葉が積み重なり、層を作っていた。あぁ、私もこの中に埋もれてしまえば良いのに、と思えて。
 しとしと、しとしと、雨はやまない。その冷たさは体の感覚を奪っていく。体は動け、動けと足掻こうとしているようだけれども、動くことはない。反発の力がひどく弱い。
 あぁ、死ぬんだ。ほっ、と安堵の息が零れた。これで、ようやく、ようやく死ねる。
 瞼が重くなる。開けているのも億劫だ。ひどく眠くもなってきた。あぁ、寝てしまおう。そすれば、きっと楽になれるだろうから。瞳を閉じれば、思考は停止し、ただ意識は闇に沈んでいく。
 沈む…。
 沈んで………。
 更に、沈む…。
 …。
 ……。
 ………。
 …暗い。…怖い。…寒い。
 どこまで行っても暗くて。
 どこまで行っても怖くて。
 どこまで行っても寒くて。
 誰かを探しているのだろう。だけど誰もそこにはいなくて。
 どこかへと行きたいのだろう。だけどもただここは暗くて。
 何かを探しているのだろう。だけどそれは見つからないままで。
 楽になりたかった。ここにはあるはずだったのに。ここにくれば全てが楽になれたはずなのに。
 でも、楽になんかなれない。どこまで行っても暗くて、どこまで行っても怖くて、どこまでいっても寒くて。


 ――出して!! ここから出してっ!! ここはいやだっ、ここは暗い、ここは怖い、ここは寒い!! 何でもするからここから出して!! もう辛いのはいや!! 助けてよっ!! 誰か助けてよっ!!


 叫んでも、叫んでも、声は誰にも届かない。どこにも届かない。暗く、遠く、響いて、消えて。
 一人。ずっと一人。ずっと、ずっと一人。誰も助けてくれなくて、誰もいてくれなくて、私は、ここで、ずっと苦しいままで。辛いままで。
 終わらせて欲しい。こんな辛いことは終わらせて欲しい。何でもする。嘘じゃない。何だってするから終わらせてよ。ここは嫌だ。ここは寒い。ここは苦しい。ここは暗い。ここは怖い。どれだけ言葉にすれば伝わるの。誰か見てるの。見てないの。ねぇ、ねぇ…。


 ――誰か。誰でも良いから……。



 ――助けて…。


 ――死にたく、ないよ。


 ………。
 ……どうして。
 そうだ…。どうして、どうしてこんなに死にたくないんだろう。
 もう、死ぬんだ。だったら、別に思い出しても大丈夫だよね。
 そして気づいたら、そこは灰色の世界。背の高い建物。くすんだ空。行き交う人々。時が止まったかのように動かない世界に歩を進めていく。
 十字に交差する道。そこで灰色とは違う鮮明な、アカイロ。赤。朱。紅。アカ。そう、アカに染まった光景。
 車輪のついた鉄の箱に潰されて真っ赤に染まる誰か。真っ赤で、どんな顔なのか、どんな格好なのか、どれぐらいの年齢なのかわからない。
 …おかしいな。「私」の記憶のはずなのに。どうして思い出せないんだろう。どうして、思い出せないんだろう。
 思い出せるはずなのに。これは「私」だから。私の記憶。だから、思い出せるはず。まだ死が怖いのかな? だから見えないのかな。



 ――……。


 ふと、音が生まれた。
 遠く、掠れた、弱弱しい声。なんだろ、と耳を澄ましてみると、それはだんだんと聞こえてきた。


 ――しに、たくない。


 声は、アカ。アカの方から聞こえてくる。これは「私」の声なのだろうか?
 男とも、女ともわからぬノイズがかかったような声。だけど、はっきりと聞こえる不気味な声。


 ――しに、たくない。しにたくない。しにたくない。


 何度も呟く。壊れたラジオのように何度も、何度も繰り返す。それは不気味なのだけれども、不思議と聞き入っていた自分がいる。


 ――かぁ、さん。


 母さん…?


 ――とぉ、さん。


 父さん…?
 あぁ、次々と、次々と浮かぶ名。本名であったり、愛称であったり、それは様々。それは、そう、それは…。
 未練。
 死にたくない。そう思う根拠。あぁ、「私」は多くの者を残して死んでしまったのだろう――。


 残して、死ぬ。


 残して、死ぬ――?





『――橙』





 + + + + + +





「――が、ぁ」


 にぶく、いきをはきだした。ちからを、こめて。つめたい、みずたまりのじめんにてをついた。


「あ、は、ぁ、あぁっ」


 いきがくるしくて、なみだがぼろぼろとこぼれて。ぬれたふくが、ただおもい。
 ちからがうまく、はいらなくて、なんどか、みずたまりにかおをしずめて。
 それでも、それでも――。


「だめ、…だ…」


 そう。だめだ。


「おいて、きちゃ、だめ、なんだっ…」


 だめだ。そう、だめなんだ。私には、置いてきちゃいけないものがある。
 藍様、紫様。私を愛してくれたあの二人。あの人たちの為に死ぬべきだと思ってた。これ以上、迷惑をかけないように。壊れている、狂った、歪な私がそばにいちゃ駄目だと思って。
 だけど、そう、なのか? 本当にそうなのか? そうすることが本当に正しいのか?
 あの時、あの亡霊は、告げたはずだ。私を殺してもよいと言ったのは紫様だと。


『このまま生き、苦しむならば。せめて安らかに。生き続ける事が苦痛ならば、その眠りはせめて安らかに』


 あぁ、なんて、なんて優しい言葉だろう。私も、そうすれば楽になれると、本気でそう思った。
 だけれど――。


「…らん…さまぁ」


 呼んで。


「ゆかり、さまぁ…」


 呼んで。その声で、私の名を呼んで欲しかった。
 橙、って。橙、と。私の名前を。私を。


「――あぁ、そっ、か」


 違うんだ。私は「私」じゃないんだ。
 私の名前は、橙。あの人達から貰った名前。人の魂に、妖怪の体を持つ歪な存在。
 決して「私」じゃない。あの「私」はあくまで、そう、あくまで「私」だっただけ。
 だから見えないし、わからない。感覚はあっても、最後まで、結局、見えることはなかった。
 私が私であることをやめたから。死のうとしたからようやく見えた。「私」の思いが、「私」の願いが。
 あぁ、「私」が私になったんじゃない。「私」の思いが、私を生んでくれたんだ。何かのきっかけで、その後悔が私を生んだ。
 私は生きてきた。橙として。そして、その思いは、その記憶は、その心は「私」と同じじゃない。
 「私」は、私であったけど、私じゃない。そうだ。そうなんだ。
 だったら。
 そう、だったら。
 だったらまだ。まだ、私は死ねない――っ!!
 「私」に託された思いは、記憶は、私が同じ道を辿るために、「私」の為にあるわけじゃない!
 私が、「私」から生まれた私が繰り返さないために! ずっと、ずっとそこにあり続けてくれたんだ! 死なないために! 生きて! その後悔を繰り返さないように!
 わかる。あぁ、わかるよ。死にたくなかったよね。置いていくものがいるのは嫌だ。何も返せぬまま死ぬのは、絶対に嫌だ。
 ようやく、わかった。こんな、簡単なことなのに。今まで、ずっと、気づけなかった。
 死ぬことが怖いんじゃない。死んで、何も出来ず無意味になることが怖い。今はじめて、今、やっと、ようやく、私は理解できた。
 私は橙。私は藍様の式。私は紫様の式の式。その式は外れてしまって、もはや無いけれど、だけれども、それでも、私は、私は――。


「ま、だ…まに、あう、かな」


 わからない。


「まだ…おそ、く…ない…か、な」


 生きたい。
 生きたい。二人と共に。
 私を育ててくれた二人と共に。
 ご飯を作って、洗濯をして、起こして、弁当を作って、今日の天気はよいね、明日の天気はどうだろうか、今日はこんなことがありましたよ。
 そんな、そんな些細なことで良い。「私」が取り戻してくて、私が愛したその日常を。


「生き、たい。生、きたい。生きたい。生きたいっ…生きたいっ!!」


 終われない。まだ、終われない。終われなかった。終われるはずがないだろう。
 あぁ、この馬鹿野郎。本当に私は馬鹿野郎だ。だけれども、今ようやく理解した。
 もう遅いか。もう間に合わないか。もう手遅れか。それでも、そうだとしても――。


「生きたい、藍様に、紫様に、私は、まだ、まだ何も返してないっ!!」


 笑って欲しい人がいる。死んで楽になれるというなら死ねると思う。
 今なら、わかるから。死ぬのが怖いんじゃなくて、死んで無意味になることが嫌だって事が。
 だから、今は無意味だ。この死には何も意味が無い。せめて、もう一度、藍様と紫様と話して、その望みを聞きたい。そして叶えたい。二人に笑っていて欲しいから。


「あぁっ!! 馬鹿が、この馬鹿がぁっ!!」


 吼えた。冷たさに凍えた身体に喝を入れて軋む身体を歯を食いしばって起き上がらせる。
 自分のことしか考えられない自分が本当に許せない。だから起き上がれ、起き上がって、まだ歯を食いしばれ。歯を食いしばって、まだ生きろ。生きる意味が、まだ終わってない。このままじゃ犬死だ。
 がさり、と層を作っていた落ち葉を握り締める。すでに命を失い、枯れ果てた葉。
 見上げれば、いまだ木の枝にしがみついている紅葉が目に入った。いつしか空は晴れ、青空が広がり、光が差し込む。


「――ぁ」


 あぁ。
 目の前に広がった光景は、赤く、黄色く、鮮やかに彩る紅葉の山々。山の間にかかるは虹の橋。雨が降ったことによって澄んだ空気がその彩りを更に鮮やかにさせていく。
 死ぬ間際だろう。それは、そう、まるで最後に燃えゆくかのように、儚く、だがそれでも力強く。
 虹とて、またすぐに消えてしまうというのに。いまも薄く、消えてしまいそうでも、その橋を繋いでいて。


「…あぁ」


 視界が曇る。儚い。死に逝く葉が最後を彩る紅葉。儚くも美しく架かる虹の橋。澄んだ青空を背に、それは、ただ、ただ美しくて。
 思わず何もかも忘れた。ただ圧倒されて、ただ見惚れて、感動して。そして不意に、この光景をあの二人に伝えたいと思った。
 あぁ、伝えるなら、まだ死ねない。生きる理由がひとつ、見つかった。
 あの紅葉のように、最後の時は心を打つ散り様でありたい。また、ひとつ。
 あの虹の橋のように、誰かの希望をつなげる橋になりたい。また、ひとつ。
 簡単なことだ。だけど、十分だ。そうしたいと思った。そうしない内に死ぬのは嫌だ。だから、生きられる。
 不意に、声が零れた。にゃぁ、と、小さく、猫が鳴いた――。




 + + + + +





 朝日が差し込む八雲邸。藍はぼんやりと庭を眺めていた。そこは橙と修行していた庭であった。だが、そこにもう猫はいない。
 ふらり、と藍は足を動かし、移動する。居間、廊下、自室、橙の部屋、台所、八雲邸の隅々から隅々に足を運んで、ただ、そこをぼんやりと見て。
 最後に、門を出る。空を見上げれば陽光を注ぐ太陽が浮かんでいる。もう、この時間には橙が起きていて、朝食を作ってくれていたな、と。
 どこにいない。改めて確認して、藍の胸に残るのは虚無感。ぽっかりと胸に穴が開いてしまったかのように心がここにあらず。


「…藍」
「…紫様」


 藍に並ぶように、紫が立つ。そっと藍の肩に手を置いて小さく首を振る。
 …駄目だな。こんなことでは、と藍はゆっくりと息を吸い、吐き出す。そうすればいつもの八雲 藍がいる。


「…大丈夫、です」
「……」
「戻るだけです。私と、紫様の二人に。それでも回ってきました。だったら、大丈夫です」


 大丈夫です、と二回呟く。それはまるで自分に言い聞かせるかのようにも聞こえて。
 そう、と紫が呟く。それはまるで悼むかのような声であったが、紫もまたひとつ、呼吸を吐き出して。


「…食事にしましょうか、藍」
「…はい」


 そっと、二人は肩を並べて居間へと戻るために歩を返した。門へと背を向け、入り口へと向かう。
 藍はただ歩く。今日の献立は何にしようか、と橙が来る前にそうしていたように思考を動かそうとし、ただ、歩いていく。
 紫も同じように歩いていた。だが、ふと。そう、それは何気なしに紫は足を止めた。


「? 紫様?」


 ふと、藍はうつむき加減だった視線を紫へと向ける。紫はただ、前を向いている。
 そう、前を向いている。彼女には珍しく、口をぽかん、と開け、目を見開かせ、愕然とした様子で。
 何が、と思う前に、藍もまた視線を紫と同じく前に向けた。





 ――にゃあ。





 いつからそこに居た。
 いつの間にそこに居た。
 気配など感じなかった。いつの間にか、そこに。あたかも当然のように、そこに。
 声に、ならなかった。
 こみ上げてくる涙が止まらない。
 式の反応が途切れたとき、死んだと、思った。
 だけれど、彼女はそこに居る。今、ここに居る。


「ちぇ――!」
「もう」


 名前を呼んで、駆け寄ろうとしたとき、それを制するかのように紫が手を藍の前に出し、彼女へとまっすぐに視線を向けて、静かに問うた。


「怖くないの?」
「………ねぇ、紫様。藍様」
「…何?」
「ここに居て、二人が笑ってる顔が見たいんです。その顔が好きだから、だから、見てて良いですか? 私に守らせてくれますか? ここにいて、傍にいて」
「…そうね」


 静かに、紫は瞳を伏せる。その伏せている間、どれだけの時間が流れたのだろうか。
 一秒か、一分か、それとも、もっと長かったか。わからない。けれど確実な間を空けて紫は告げた。


「――生きる覚悟があるなら、守らせてあげないこともないわよ? 貴方ごときがこの私を、そしてその私の式を守ろうというのだから。1年や2年じゃ足りない。10年や100年でも足りない。貴方の命尽き果てるその時まで、添い遂げると誓えるのならば」


 ――共に、生きましょう?
 紫の言葉に、彼女は唇を震わせ、何度も、何度も強く頷いて。


「何百年でも、何千年でも、何万年でも、生きて、生き足掻いて、生き抜いて、ずっと傍に居ますよ。絶対に、それだけは覆さない誓いにします。傍に居たいから。笑っていて欲しいから。そのために…」





「もう一度、式にしてもらえますか?」





 ――返答は、力強い抱擁でしか返せなかった。






[16365] 黄昏境界線 18
Name: 道化◆5a734804 ID:d4ec8ce0
Date: 2010/02/17 16:23
 幻想郷。そこは妖怪達の楽園。人間達に恐れられながらも、他ならぬ人間達によって虐げられ、幻想とされ忘れ去れてしまった妖怪達の最後の行き場所。
 何故、人よりも強靭な力を持ちながらも妖怪達はその住処を追われ、存在を幻想とされてしまったのか。口が悪い妖怪から言わせれば「人間は賢しい」と言うのだろう。
 人間には知恵があった。妖怪に知恵がなかったとは言わない。だが、彼等は常に弱者であった。弱者であるが故に自らに出来る事を常に発展させ、いつしか妖怪達の対応をも越えるだけの力を有してしまった。
 それが技術。今となっては科学と呼ばれる力だろうか。確かに文明の利器の力は素晴らしい。人間には起こせ得ぬ妖怪の力、それをある程度とはいえ再現する事が出来る。武器、外の世界で最高位とも言える兵器は低級の妖怪ならば容易に葬る事とて可能だろう。
 人間は弱かった。だが、人間は弱いからこそ慢心せず、自らの上位存在とも言える者達と戦い、そして勝利してきた。
 それがそもそもの幻想郷の成り立ち。
 妖怪達はその人間のある種、臆病なまでの傲慢さによって滅ぼされていった。今もなお、どこかでは妖怪達がひっそりと息を潜めているかもしれないが、それも数少ないだろう…。
 人間は弱い。弱い存在だからだ。だがその身に秘める力は妖怪の存在を脅かすまでに強大な力だ。
 妖怪とて弱い訳ではない。少なくとも人間には持ち得ぬ肉体や能力を有している。
 確認するようだが、これはこの世の理。二種の種族を比較すればこのような見解が多勢を占めるであろう。
 さて、ではその2つの力を同時に有する事が出来る存在がいれば、それは―――。





 + + + + +





「おぉおおおっ!!」


 咆哮が響く。声を挙げるのは金毛の九本の尾を揺らせた八雲 藍。咆哮を上げながら放たれた拳。それは眼前へと立つ相手へと向け、放たれた。
 抉る。藍の拳が抉ったのは地面だ。藍の眼前に立っていた相手は藍の横へと移動しており、藍は地を抉った拳を開き、それを地に着き身体を回転させ、蹴りを叩き込もうとする。
 だが、これも当たらない。まるで風を相手にしているかのようにひらり、ひらりと自らの攻撃はかわされる。藍の心の中に苦い、心底苦い思いが沸き上がる。
 藍が蹴りをかわされた勢いを利用し、すぐさま起き上がる。そして再度、相手に突撃しようとして、相手が両手を前につきだして。


「ここまで、で大丈夫です。藍様。ありがとうございました」
「…いや、待て。もう1回。もう1回だ。橙。次は当てる」
「いや、待ってください。藍様。そもそも私の能力の検証というか、そのためにやっている訳ででしてね? ほら、止めましょう? さすがに私も怖くてそう何回も出来る訳じゃ…」
「これも修行だ。さぁ、行くぞっ!!」
「そんな理不尽なぁぁぁっ!!」


 藍の相手をしている相手、藍の式の猫、橙は悲鳴を上げた。何を悲鳴を上げているか、と藍は次々と攻撃を繰り出していく。だが、その全てが回避されてしまう。
 橙は自然体に立っている。防ぐ構えも、何も取っていない。しかし、藍の攻撃は当たらないのだ。何故、何故当たらないのか。藍は苛立ちながらも、思考する。
 わかっている。これもまた橙の能力の応用。
 藍の蹴りが橙の頭部へと迫る。だが、藍の蹴りの風圧に「押される」ようにして橙の身体が傾き、藍の蹴りを回避する。
 あらゆるものに反発する程度の能力。それが橙の能力であった。物理的、精神的、何でも構わない。橙が望まぬものに反発する。
 しかし、魚屋の死を切欠に、幽々子に精神を折られ、一度は式を外し姿を消した橙が帰ってきたとき、その能力は更に変異を遂げていた。
 身体を動かせば、空気が動く。つまり風の流れが出来る訳だが、当然、殴る、蹴るなどといった動作もまた風を生む。つまり風が起きるということは流れが発生するという事である。
 そこで橙は何をしたか。橙は、その流れへの反発を「ゼロ」にしたのだ。つまり、橙は今、反発をゼロとする事によってその存在とほぼ等しい、つまり「流れ」と同化している。
 殴れば、その殴る際によって発生した「流れ」に乗って自らも流れていく。蹴れば、その蹴る際によって発生した「流れ」に乗って自らの流れていく。
 つまり、当たらない。何度やっても攻撃が当たらない。正直に言おう。むかつく。


「ふんっ!!」
「わ、わわっ、わわわっ!?」


 これの対応は1つ。乱気流を作る。つまり、単発の攻撃をするからかわされる。ならばと地面を蹴り砕き、土礫を橙へと向けて蹴り放つ。
 当然、橙は唐突に発生した「多くの流れ」に対応する事が出来ず、それを本来の「反発」で防ぐ。藍はその機会を逃さず、橙へと迫り、手加減無用、全力全開の拳を叩き込んだ―――。





 + + + + +





「――で? 橙に負けたの?」
「………」
「……式に負けるご主人様ってどうなの?」
「がはっ!?」


 バタンッ、と吐血するかのように息を吐き出し、藍はその場に崩れ落ちた。ぷるぷると生まれたての子鹿のように震え、立ち上がる事が出来なさそうだ。
 先ほどの模擬戦。橙の頼みによって検証した橙の能力の変異。だが、その能力に藍は橙に敗北したのだ。
 最後の瞬間、藍が叩き込んだ拳は橙に確かに「反発」して受け止められた。だが、受け止めている間に「無反発」に切り替えられ、藍の拳がそのまま引き寄せられ、橙に地に倒されてしまったのだ。
 互いに拮抗していた力がふと消えたとき、残された力は前へと進むしかない。しかし止まっていたものが急に動けば身体は一瞬とはいえ、動きが止まる。
 その一瞬を橙に捕らえられ、藍は初めて橙に一本を取られてしまったのだ。それを紫に話した所、この反応である。


「ら、藍様! し、しっかりっ!!」
「橙、勝者が敗者にかける慰みほど、敗者にとって屈辱なものは無いわよ?」
「あ、あぅぅう」


 九尾の狐。妖獣としては最高峰だと言うのに、負けた。紫様の式なのに、負けた。自分の式に負けた。
 ブツブツ、とただひたすら暗いオーラを纏って藍は部屋の隅に体育座りをし、何事か呟いている。
 そんな藍に橙は申し訳なさそうにするのだが、それこそ藍にとって何とも言えないような気持ちにさせるだろう。つまり、気まずい訳で。


「まぁ、仕様がないんじゃないかしら? 橙は文字通り死に物狂いで修行してきたようなものなんだから」
「修行というには生ぬるいような気もしますけどね」


 紫の言葉に橙は苦笑を浮かべて呟く。自分が経験してきた事を思い返すと、自分はかなり無茶をやってきたんだなぁ、と口元が引き攣る。同じ事をやれ、と言われてももうきっと出来ないだろうな、と思う。
 今はあそこまで「死」が怖い訳じゃないし、死の淵を見てきた所為か精神にも割と余裕がある。
 「無反発」の防御が出来るようになったのもその精神的な余裕のおかげだ。心を無にし、自然と同化させる事が出来れば可能となる技だが、少しでも心が乱れれば無反発の効力は大きく下がってしまう。
 難しいが有効。だが使い所が限りなく限定されてしまいそうだし、先ほど藍にやられた攻撃方法では回避しきれない為、欠点もまた多い。
 だが「反発」と「無反発」の切り替えを操れれば、格上の相手を手玉に取る事も可能である。橙自身の能力も強化されているが、あのまま反発による防御を続けていてもいつかは藍に破られていただろう。


「まぁ、ここは橙の成長を喜びましょうか。能力の制御も可能になったのでしょう? ならもう暴走するなんて事はないでしょうし」
「あぁ、もう「吸血鬼異変」の時みたいに暴れ回りませんから安心してくださいね。紫様」


 橙の言葉に、びしっ、と紫が笑顔のまま固まる。ぎしぎしと音を鳴らすかのようにゆっくりと顔を橙の方へと向ければ、橙はにっこりと笑う。
 その背に揺れていた二本の尻尾がばらり、と別れて四本の尻尾となる。その光景に紫は笑顔を凍り付かせた。


「い、いつの間に封印を…」
「嫌ですね。自分の身体の事ぐらいわかりますよ。今までご心配をおかけしました。でももう大丈夫ですから外させてもらいますよ?」


 じゃ、ご飯作りますんで、と四本になった尻尾を二本の尻尾へと戻してから一礼をし、姿を消していく。その姿を見送っていた紫だが、ふと、はぁ、と溜息を零して。


「…末恐ろしい子。もう私でも手に負えないんじゃないかしら」





 + + + + +





 朝食を済ませた橙は結界の見回りに出て行った藍を見送った後、そっと八雲邸を後にした。
 とん、と地面を蹴り、反発の能力を応用して勢いよく跳んでいく。向かう先は既に決まっている。橙はただ真っ直ぐにその足を人里へと向けた。
 人里に入れば、何やら人が慌ただしく準備をしていた。あぁ、そういえば秋の収穫祭がもう少しだったか、と思い出して。
 それを目に留め、じゃれついてくる子供達の相手をそれなりに。橙が向かったのは…。


「お久しぶりです、おばさん」
「橙、ちゃん? …え、えぇ、久しぶりね」


 魚屋であった。魚屋で品物を整理していた魚屋の奥さんは少し驚いた後、橙へと挨拶を交わして。


「…葬儀に誘ってくださってありがとうございました。そして、ごめんなさい、結局、参加しなくて」
「…いえ、良いのよ。貴方も、色々とあったのでしょう? それだけ夫の事を思ってくれたのは嬉しいし、あの人もそんな些細な事を気にするような人でも無いでしょうし」
「…ありがとうございます。…おじさんがいなくなっても贔屓させてもらいますね。おばさん」
「えぇ。そうしてくれると嬉しいわ。今日は何か買っていくのかしら?」
「寄る所があるので、まだ良いです。ところでおばさん」
「何かしら?」
「お墓の場所、教えてもらって良いですか?」
「…えぇ。わかったわ」


 魚屋の奥さんは優しく微笑んで橙に魚屋の主人の墓の位置を教えてくれた。仕事が無ければ案内したい、と言っていたが、橙はやんわりとそれを断った。
 そして案内された通りの場所へと橙は向かう。道中、色々な事を考えていた。生きるという事。死ぬという事。これからの事。色々と考えていて、少しぼんやりとしていた。
 そのままゆったりとした歩みで橙は墓地へと入っていった。そして聞いたとおりの墓を探して、ようやくその墓を見つけ出した。
 その前に橙はそっと膝を突いた。お供え物、持ってくれば良かったかな、と思い、気が利かない自分に溜息を吐く。


「…ん。おじさん。ここには居ないと思うけど、まぁ、なんかこうしたいから、言っておくよ」


 それは、最後の整理。今の橙の切欠となり、死んでいった橙にとって特別なその人に。


「…生きるよ。藍様や、紫様と、知り合った人たちと、これから知り合うだろう人たちと一緒に。これからもずっと、胸を張って、精一杯、一生懸命。この命が終わるその時まで、終わる時に、あぁ、良かったな、なんて思えて死ねるように。これが、私の誓いだから。おじさんに誓う訳じゃないんだ。聞こえてもないだろうし。…だけど、さ。やっぱり、どんな形でも良いからおじさんに言いたかったから、ここで言うよ。…そして」


 すぅ、と小さく息を吸う。瞳を閉じて耳を澄ませれば、今での脳裏の声は鮮明に聞こえてくるようで。
 その顔を、声を、思い出を引き出しから丁重に取り出すように思い出す。大事な記憶。忘れる事の無いだろう大事な記憶。
 これは、思い出。もう、ここに魚屋の店主はいない。だから。


「さよなら。おじさんとの思い出、ずっと大切にしていくよ」


 最後のお別れを。
 橙は瞳を閉じる。涙は出てこない。悲しみとは違う、だが、少し寂しさに似た感情の余韻に橙は浸る。
 暫し、膝を突いたままで橙は瞳を閉じていた。暫く時間を置いて、橙は胸をよぎる余韻が収まるのを待つ。
 落ち着いた頃にゆっくりと瞳を開いて、腰を上げた。悲しさじゃない。寂しさに似ているけれど、ちょっと違う。前を向こう、と思うようなそんな気持ち。
 小さく息を吐き出す。もう一度だけ、魚屋の店主の墓を見つめた後、橙は背を向けて歩き出した。
 墓地を抜け、再び人里の中を橙は歩く。「私」の記憶にある人の街とは違う、暖かく、温もりがある感じがする光景に見とれる。
 寺子屋に通える年齢でない幼子達が駆け回り、遊んでいる姿が見える。忙しそうに働く人たちの姿が見える。仕事の休憩の合間なのか、談笑する人たちが見える。
 あぁ、暖かいな。何気なしに橙はそう思う。活気があるこの光景を見ていると自分もまた元気になっていけそうな気がすると。


「あーっ! ねこのおねーちゃんだーっ!!」
「みんなつまかえろー!!」
『おーっ!!』
「うわっ、来た! 逃げろー!」


 自分を見つけた幼子達が声を揃えて追いかけてくる。その姿に微笑ましそうに口元を緩めたのも一瞬、わざとらしく慌てたような声を出して、子供達を振り切らない程度の速度で逃げ出す。
 わーっ、と子供達が楽しそうな声を挙げて追いかけてくる。その光景を見ていた大人達は何事か、と顔を上げてみれば逃げていく橙の姿が見えて、その表情が穏やかな笑みへと変わって。


「ほらほら! 猫のおねーちゃんはあっちに逃げていったぞ! 捕まえろ捕まえろ!」
「橙ちゃーん。怪我させないように遊んであげてねー」
「ほらほら、しっかり逃げないと捕まるぞー?」


 野次を飛ばしてくる大人達に橙は軽く手を振って逃げていく。少し逃げ回っていた橙だったが、ゆっくりと速度を落としていって子供達にわざと捕まって。


「つかまえたーっ!」
「おねーちゃん、おねーちゃん! かたぐるましてー!」
「おんぶーっ!」
「だっこーっ!」
「ちょっ、まって、潰れるってばっ!? こらこら、順番決めて、ってうわーっ!?」


 一人、また一人と子供達がよじ登ってきて、流石に振り落とす訳にもいかず押しつぶされる橙。いつものように、橙は子供達に押しつぶされ、もみくちゃにされていく。
 はははっ、とふと笑い声が零れた。あぁ、何て穏やかな日なんだろうか。ただ笑いが込み上げてきそうで困る。髪や尻尾、耳を引っ張られるのは子供達の力でも痛いが、それも余り気にならない。
 度が過ぎれば怒るが、この程度、と許してしまいそうになる。今は秋。収穫が終われば冬が来るな、と橙は思う。
 そうなれば皆で雪合戦かな。かまくらを作るのも悪くない。あぁ、雪だるまでも良いかもしれないな、と未来へと思いを馳せながら橙は子供達とじゃれあうのであった。





 + + + + +





 遠い、遠い地。
 幻想郷より、海を越え、大陸へと渡り、更に西へと突き進む…。
 そこもまた、行き場を無くした幻想達が身を寄せ合う世界。その世界の中に一際目立つ、紅き館がある。
 不気味、と称すれば良いのだろうか。紅に染められた館は勿論、その館の纏う雰囲気もまたどこか不気味なもので。
 空には月が浮かぶ。朱い月だ。まるで血に染め上げられたような朱き月だ。
 その月を見上げていた影がある。小柄な影だ。館の天辺に立ち、空を見上げながらそっと、月を掴むような動作で手を伸ばす。
 勿論、月に手は届く事はない。それでもその影は月をその手の中に収めるように握って。


「……あぁ」


 声が漏れる。小柄な影が月明かりに曝されてその姿を現す。
 その姿は人間で言うならばまだ10歳にも満たないだろう小柄な少女。だが身に纏う空気は高貴と威厳に溢れ、彼女がただの幼子ではなく、「主」の器である事を示している。
 背には雄々しい翼。コウモリの翼と良く似たその翼が示すのは、彼女が何者であるかという証明。つまり吸血鬼。


「良い月だわ」


 ふわり、と館の天辺から彼女は地上へと落ちていく。その途中で翼を大きく広げ、一回転、宙を舞う。
 そのままふわり、と翼をはためかせ、速度を緩める。音もなく地面へと降り立ち、彼女は両手を広げて振り返った。
 そこには3つの人影がある。一人はナイトキャップのような帽子を被り、寝間着にも良く似た服を身に纏い、傍らに本を抱えている少女。眠そうな瞳が揺れ、紫色の長い髪もそれに合わせて揺れる。
 その少女に寄り添うよう一人の少女。黒いワンピースを纏い、朱い髪を揺らす。その背と人間の耳にあたる部分には悪魔を象徴する翼が自己主張をしている
 最後の一人は大陸洋式の服を身に纏う女。服と同色の帽子を被り直すかのように位置を直しながら、紅い髪を揺らせて、舞い降りてきた吸血鬼の少女へと柔らかい表情を向けて。


「旅立つ日にはとても、とても良い月。あぁ、あちらではどのように月が見えるのかしら。楽しみで仕様がないわ。心が躍るわ。そこで全てが始まる。新しく始められる」


 歓喜。まるで酔っているかのように少女は朗々と告げる。そうでしょう? と同意を促すかのように3人の人物へと視線を向けて。


「――行きましょうか。全てを始める為に」


 紅き月の瞳が細められ、口元が釣り上がり、笑みの形を作り上げた。


「幻想郷へ」





 + + + + +





「良かったのか、共に行かなくて」
「…無駄な波風は立てとうございません」


 今まさに旅立とうとしている者達を見つめながら立つ一人の少女がいた。メイド服を身に纏うその少女は、旅立つ者達を眩しそうに見つめる。
 その傍らに立つ男も同じように彼女達を見つめている。心配だろう、不安だろう。だがそれでも、いつかそれは来るべき事だったのだろう。2人の関係を考えれば。


「私達に気を使わなくても良かったのよ?」


 そっと、男の反対側、つまり少女のもう片方の隣に女性が立つ。美しい女性だ。金色の髪を揺らし、朱き瞳に優しげな光を宿し、メイドの少女を見つめる。
 メイドの少女は静かに首を振る。その顔に自嘲するかのような笑みを浮かべ、そっと瞳を閉じて。


「…お嬢様ならば、きっと必ず、為してくれると信じております故。私が出る幕ではないでしょう」
「…そうか」


 ぽん、とメイドの少女の頭を男はそっと撫でた。女はメイドの少女の手をそっとやさしく握る。
 目の前で光が溢れていく。目の前には紅き館。それを包み込むかのように陣が刻まれる。 ゆっくりと、紅の館の姿が消えていく。まるで霞となるように。それを三人は見つめる。魔力によって刻まれた陣が効力を発揮し始め、その余波で風が吹き荒れた。
 その風に反応して、三人の背にあった「翼」がぴくり、と動きを見せたが、すぐに動きは止められた。
 ただ、三人の視線は館へと向けられている。今にも消えそうなその館を見つめながら、少女が小さく呟いた。


「……Good luck」





 朱き月が、昇り行く。



[16365] 黄昏境界線 19
Name: 道化◆5a734804 ID:d4ec8ce0
Date: 2010/02/16 16:00
 橙はよく人里にいる。たくさんの子供達を相手に遊ぶ事もあれば、誰かに捕まる事もある。橙は人里の子供達にとっては独り占めしたい対象でもある。
 つまり、橙が現在、ある一人の少女に捕まっているのもまた仕様がない事なのだろう、と彼女を知る彼は小さく笑みを浮かべた。


「何笑ってるのさ、霖之助」
「ん? いや。仲良さそうだね、って」
「ちぇんおねーちゃんとわたしはなかよしさんだもんね!」
「はいはい、そうだね、魔理沙。だから尻尾を結ぶのは止めて」
「やっ!」
「嫌? そう……」


 はぁ、とがっくりと項垂れながら結ばれた尻尾を解こうとしている橙と、その作業を邪魔して楽しそうにケタケタと笑う幼い少女、魔理沙とのやり取りを見て霖之助は和む。
 森近 霖之助と橙の出会いは、霖之助が働いている大手道具屋「霧雨店」の息女である魔理沙が橙を家に引き摺ってきた時が初見であった。霖之助は子供にいいようにされている妖獣に驚いたし、橙も霖之助の正体を知って驚いたし、とりあえず互いに驚きの出会いだったのを覚えている。
 あれから時も大分流れた。あの頃よりも魔理沙は大きくなったが、霖之助と橙は変わらない。橙は妖獣だからそれも当たり前。そして霖之助。彼は人間と妖怪のハーフ、つまり半妖である。
 半妖という存在は非常に珍しい。近しいと言えば半人半霊の魂魄 妖夢だが、やはりその絶対数は少ない。それはやはり互いに反目し合う種族の子供だからだろう。
 だがそれでも霖之助は半妖で、その事実は変わりはしない。
 ともかく、種族が何であれあまり気にしない霖之助と橙の気が合ったのはさほど不思議な事ではない。橙は中身が人であるし、霖之助も半分人間の為、人間への理解はある。
 更に、霖之助の趣味についても橙はとても深く関わっている為、その関係でも非常にこの2人が仲が良い。そしてそこに魔理沙が加われば、魔理沙が自然と橙に懐いたのもまた自然の流れである。


「そうだ橙。これを見てくれ」
「ん? …ウォークマンかな? 壊れては、なさそうだけど…」
「僕の能力では「音楽を聴く道具」だと言うのはわかるんだが、毎度の事、どうやって使うかさっぱりでね」
「相変わらずこういうの探してくるの好きだね…。これは……カセットテープと、あと電池が無いと動かないよ?」
「電池はわかるが、カセットテープ? どんなものだ?」
「これにぴったりと嵌るような…こう、2つ穴があって、前に霖之助が拾ってきたビデオテープの小さい版、みたいな?」
「ほほぅ、なるほど」


 霖之助の趣味。それは「外の世界」から流れ着いた道具を収集する事だ。彼の能力は「道具の名前と用途が判る程度の能力」であり、このように幻想郷の者達にとっては摩訶不思議で価値のないものでも、彼がその手に取れば名前と用途が判る。
 それは良い。判るのは良い。だが判るだけで彼はそれをどうやって扱うのかは理解出来ていないのだ。そこで悩んでいた所に橙が現れたのだ。
 橙は中身はそれこそ元々人、更に言えば「外来人」なのだ。その知識も残っている為、外来から流れ着いたもの、総称して幻想入りしたものを知っていたのだ。
 これ幸い、と霖之助は橙に自分のコレクションを見せ、橙にどん引きされたりもしながら道具の用途を正しい形で教えて貰う事が出来たのだ。
 ちなみにその際に霖之助が外来の道具の名前と用途からどのように扱うのかを想像したものを橙に語ると橙が爆笑し、冗談抜きに橙が笑い死にしそうになった事件もあったが今では懐かしい思い出だ。
 今では霖之助はわからないものがあれば橙に聞く、という流れだ。勿論自分の推測は語らない。自分の推測が間違っていた時のあのショック、橙の大爆笑は半ば霖之助のトラウマである。
 そんな事もあって橙と霖之助の仲はとても良い。互いに呼び捨てするぐらいには。
 だが、そんな親しげに話す2人を許さない人もまたいる訳である。


「むーっ! こーりんばっかりずるいっ!!」
「あいたっ! 魔理沙、耳、耳引っ張らないのっ!?」
「あそべあそべーっ!! わたしとあそべーっ!!」
「あいたたたっ!? ちょ、り、霖之助、助けてっ!!」


 そこに嫉妬する魔理沙が顔を膨らませて橙に悪戯するのもいつもの事。一時期は橙が顔を出さない時期もあった為か、このようにいつもの光景があるとホッとする。
 やれやれ、と霖之助は口元に穏やかな笑みを浮かべながら魔理沙をあやすために腰を上げるのであった。





 + + + + +





「あいたたた……酷い目にあった」


 耳をさすりながら橙は人里の中を歩いていた。先ほどまで拗ねた魔理沙のご機嫌取りに肉体的疲労と軽度の怪我を負わされたが、まぁこれはいつもの事だ。
 霖之助と話すのは橙としても嫌いではない。橙は外来人といっても、どうも時期がずれているのかよくわからないが、霖之助の拾ってくるのは「昔」の物珍しいものなのだ。
 一時期はそれで悩んだこともあるが、幻想入りしてくるものは過去に人が忘れ去られたものが流れ着くという話を聞いて納得している。
 ふと、最初に霖之助に外来のものを見せて貰ったときの記憶が蘇る。知らないのでは無理はないが、それはないだろ、とツッコミを入れざるを得ない推測ばかりで本気で死にかけた記憶がある。それを思い出して笑いそうになるが、必死に堪える。


「…何変な顔してんだい? 八雲の猫」
「うわぁっ!? …えっと…確か、は、博麗さん?」


 笑いを堪えている橙に気まずそうに声をかけてきたのは一人の老婆。紅白の巫女服を纏い、怪訝そうな顔を浮かべて橙を見つめている。
 彼女は当代の博麗の巫女。以前、橙も「吸血鬼異変」の際に顔を見た程度だが、博麗の巫女の重要性は橙とて知っている。故にすぐに彼女が誰なのかはわかったが、彼女の呼び方にはどうも自信が無さそうで。
 くくっ、と博麗の巫女は小さく笑った。その笑い方では巫女というより魔女なのでは、と橙は一瞬そう思う。


「博麗 千代」
「え?」
「名前だよ、私のね。博麗でも千代でも巫女でも好きに呼びな」
「あ、はい。じゃあ、千代さんで良いですか?」
「…ふぅん。珍しい奴だね」
「へ?」
「いんや、何でも」


 博麗の巫女、千代はそう言って小さく笑った。橙はいまいち千代が笑っているのが理解できず、首を傾げる。その橙の仕草にも再び千代は小さく笑う。
 何が何だか、と眉を寄せながら橙が思っていると、ふと、橙の目に一人の少女が飛び込んできた。千代と手を繋ぎ、千代と同じ紅白の巫女服を纏った小さな少女。
 黒い髪にあまり日焼けしていないだろう肌、そして人形のように無表情に眠たげな顔。
 子供と触れ合う機会が多い橙でも見たことのない感じの子供だった。思わず橙が興味を引かれて少女を見ていると、少女もまた視線を橙に合わせてきた。


「……」
「……」


 互いに、無言。少女は眠たげな瞳のまま橙をじっと見つめ、橙は気まずさに声が出ない。
 何とも言えない緊張感が2人の間に漂うが、その雰囲気を断ち切ったのは千代だった。千代は少女と繋いでいた手でそっと少女の手を引き、少女を自分の前に出させて。


「ほれ、霊夢。挨拶しな。八雲の所の猫だ。何か困った事があったら相談すると良い」


 千代の言葉に、少女は一瞬千代へと視線を向けたが、すぐに橙へと向き直って。


「……博麗 霊夢」


 簡潔にそれだけ告げた。はぁ、と思わず気の抜けた返答を返す橙。どうもやりにくいなぁ、と思いながら橙は膝をついて、霊夢と視線を合わせるように高さを合わせて手を差し出す。


「私は橙。よろしくね、霊夢」
「……」
「……」
「………」
「………」
「……よろしく」
「…う、うん、よろしく」


 気まずい。どうも起伏が薄いというか、橙がいつも遊んでいる子供達とは正反対な性質でとてもやりにくい。
 そんな考えが顔に出ていたのか、ははは、と千代は楽しげに笑って橙を見て。


「すまないね。どうも博麗の巫女にはまともな奴はいないようでね」
「は、はぁ」
「まぁ、どうだい? そろそろ昼食時だ。一食ぐらい奢ってやるよ」
「え? でも…」
「何。積もる話もある、って訳さ。それに…老い先短い婆のお節介だよ」


 ふっ、と息を漏らすかのように千代は笑みを浮かべる。その笑みに橙は見覚えがあった。
 脳裏に過ぎる快活な声。今の自分の切欠ともなったあの人の声が脳裏に響いた。自然と橙の顔は引き締められ、視線を真っ直ぐに千代へと向けて。


「…良い眼さ」
「……」
「んじゃ、付いてきな。行くよ、霊夢」
「……ん」


 橙に声をかけた後、霊夢の手を引いて千代は歩いていく。その姿を見つめていた橙だったが、すぐに2人の後を追うように自らも歩き出した。





 + + + + +





千代に案内されて橙が入ったのは橙も良く食事を摂る食事処だ。それぞれ品物を注文した後、橙は千代へと視線を向ける。
 ちなみに席は4人座れるテーブルに三人。千代の隣に霊夢、千代の目の前に橙が座る形となっている。


「…千代さん」
「ん…。何。博麗の巫女なんてこんな感じだよ。代替わりの時はね。私の時もそうみたいだったしね」


 それからぽつりぽつりと千代は語り出した。千代が霊夢と出会ったのは1年程前らしい。ふと気付けば霊夢は神社の鳥居の下で膝を抱えていたらしい。
 人里で問い合わせてもそんな子供が居たという話もなく、紫に聞いても紫の仕業ではないらしい。ふと突然、霊夢は博麗神社に現れたのだ。


「私の時は両親が死んじまった時に先代、もう先々代になるのか。まぁ、拾われた訳だ」
「…皆、そうなんですか? 血縁とかで継承するんじゃ」
「あったかもね。でも無いこともある。博麗の巫女を受け継ぐのに必要なのは血じゃない。力があるか無いかさ。んでもって、直感、っていうのかね。霊夢と出会った時、わかったんだよ。あぁ、この子が次の博麗だ、ってね」


 不思議なもんさ、と千代は呟く。橙はよくわからないが、そういうものなのだろう。博麗の巫女は幻想郷を維持するのに必要な存在だ。もしかしたら独自のシステムが幻想郷でも出来ているのかもしれない。
 紫に聞いてみようか、と頭の中に留めつつ、橙は千代へと視線を向ける。良く見れば本当にどこにでもいそうな老婆でしかない。だが、その瞳はただの老婆とは思えない力強い瞳がある。気配も段違いだ。
 老いても彼女は博麗の巫女なのだ、と何となしに思う。だが、それももうすぐ代替わり。


「…持って、あと半年ぐらいかね」
「…千代さん」
「いや、もしかしたら明日死ぬかもしれない。もしかしたら半年以上生きるやもしれん。…ま、でもいつ死んでもいいのさ。霊夢に教える事は教えた。才能はある。何でもやればこなす。ホント、可愛げの無い子だよ」


 ぽふぽふ、と優しい手つきで霊夢の頭を軽く叩きながら千代は告げる。霊夢はそれになんら反応を見せない。何を見ているのか、ただぼーっ、としている。


「気になるかい?」
「…え?」
「霊夢の事だよ。どうなんだい?」
「……変な子だな、とは思いますけど」
「それが博麗の巫女さ。博麗の巫女は中立。どんな時でも、どんな相手でも、ね。公平に幻想郷を守護しなきゃならない。だから、こうなる事が多いんだとさ」
「…そう、なんですか?」


 あぁ、と千代は頷く。それは、と橙は考えようとして首を振った。
 振った後、橙が顔を上げると何か面白そうな顔を浮かべている千代がいて、思わず眉を寄せる。


「お前さん、今何考えた?」
「何、って」
「素直に言ってくれりゃ良いさ」
「…可哀想、かな、って」


 ほぅ、と千代は橙の言葉に更に笑みを深めて呟く。


「どうしてさね?」
「…子供が子供らしい時間を生きられないのは、ちょっと」
「だけど、言わなかったね」
「その子は博麗の巫女でしょう? 重要性ぐらい私だって知ってます。だから、仕様がないけど、そういう事なのかな、と」
「…くくっ、やっぱりあんたは最高さね。いいんじゃないかい。猫のねーちゃん」


 橙の返答に楽しそうに肩を震わせながら笑う千代に橙は戸惑いの表情を浮かべる。暫し、千代は笑い続け、霊夢は我関せず、橙が怪訝そうな顔をするという奇妙な構図となる。
 あー、と笑いを堪えるように息を吐き出して、千代は橙へと真っ直ぐに視線を向けた。


「…というわけでさ。橙」
「はい?」
「午後、夕暮れまでで良い。霊夢を預かってくれないかい?」
「え?」
「私にはちょいと用事があってね。悪いけど、頼めないかね?」
「…どういう訳かは知りませんけど…まぁ、別に良いですよ?」
「そうかい。まぁ、こんな無表情な奴でも子供だ。同年代の子供と接触してりゃ、何か1つぐらいはまともに表情に出してくれれば良いんだけどね」


 やれやれ、と言いたげに千代は溜息を吐き出した。それに橙は霊夢へと視線を向けた。霊夢は相変わらず何を見ているのか、何を思っているのかもわからずぼんやりとしている。
 博麗の巫女。それはこの幻想郷において必要な存在。だからそれ故に、その責務への責任がある。それを受け入れていく為には、確かにこのようにした方が良いのかもしれない。
 始めから受け入れられる器。時間も、迷いもいらない。…そこに、人間性は必要あるのだろうか。
 だけど、人間だ。どんな役割があろうと、彼女は人間だ。それだけに縛られる必要はないだろうと橙は思う。やる事をきちんと出来ればそれで良い、と。
 しかし、と悩む自分がいる事に橙は気付く。人は機械ではない。だが、中立でいる為には出来るだけ感情を押し殺し、公平にあらなければならない。そこに本当に「人らしさ」はいるのだろうか?
 自分ならそれでも人らしさを求める。自分らしさを。でなければ生きていくのは辛い。何のために生きているかわからない。自分はパーツなんかじゃない、と。


「…霊夢?」
「……」


 この子は、どうなんだろうか。わからない。無表情の顔からは、眠たげなその瞳からは何も伝わっては来ない。
 そうして見つめ合っているウチに橙達の下に注文された食事が届く。霊夢はそそくさと用意を始め、小さく「いただきます」と呟き食事を始めた。
 それに合わせて千代も食べ始める。橙もぼぅっ、としている訳にはいかないと食事を勧め始める。
 疑問は渦巻くまま。博麗 霊夢。博麗の巫女。自由。義務。責任。様々な事がグルグルと巡り、自分がどうすれば良いのかわからなくなってくる。


(…ままならないな)


 全てに反発して生きられるならばそれで良い。だけれどその生き方ではいつか破綻してしまうから。
 どうしたものかな、と橙は小さく溜息を吐き出すのであった。頭の中ではグルグルと答えの出ない問答がただ繰り返されるだけ…。



 



[16365] 黄昏境界線 20
Name: 道化◆5a734804 ID:d4ec8ce0
Date: 2010/02/18 22:22
 博麗の巫女。それは幻想郷の平定に深く関わる幻想郷の巫女。異変の際には自らの役目を果たす為に果敢に妖怪達へと立ち向かっていく。
 故に巫女に求められるのは力。誰にも引けを取らぬ程の力。故に博麗の巫女はある種、人々にとっては絶対の象徴でもある。


「…あー…えと」
「………」
「その、なんだ。…霊夢、あのね」
「………」
「…もうちょっと手加減とか、そういうのをね?」


 橙の目の前には、泣いている子供が一人。その横に転がるのはボール。
 橙は幻想郷で言う外来人、つまり現代人である。そんな現代人の遊びと言えばまず上げられるのはゲームだ。
 しかして、幻想郷にゲームというものは存在しない。ならば、と橙は前世の幼少時代を思い出し、1つの遊びを子供達に提案した。
 その名も、ドッチボール。
 ボールは当たってもいたくない柔らかいボールを採用。子供の頃は誰でも一度は遊んだ事があるだろう遊び。
 だが、博麗の巫女の力をもってすれば、そんな和気藹々とした遊びも独壇場となってしまう。
 巫女として教育され、その身体能力も同年代に比べれば高いだろう霊夢。そんな霊夢が投げたボールは、正直、柔らかいボールだったとしても痛い。
 そしてドッチボールというのは運動の出来ない子供が固まる傾向がある。動ける子は咄嗟に反応して霊夢のボールを回避したのだが、それが運悪く、後ろにいた子供の顔面に直撃。
 あれ、私でも厳しいぞ、というボールを投げる霊夢にどう対応すれば良いのか、橙は溜息を吐いた。
 そもそもの事の発端は、千代から霊夢を預かった後、とりあえず交流させてみよう、とい事で霊夢と人里の子供達を交えて遊ぶ事にしたのだ。
 そしてその結果がこれである。子供達のリーダー格である魔理沙などが泣いている子供を慰めている姿が目に入り、橙は失敗したかなぁ、と自分の選択を後悔した。





 + + + + +





「よし、だるまさんがころんだ、で遊ぼう!」


 橙は声高らかに宣言した。そもそも身体能力の差がモロに出る遊びでやるから駄目なのだ、と橙は奮起する。
 これならば特に身体能力の差も現れないだろう。まぁ、足の速さや反応の速度なども関わってくるが、さしては大きく無い筈だ。
 という訳で、霊夢にルールを説明。聞いているかどうかもわからないが、とりあえず説明を終えて、橙が鬼役を務める事にした。


「だーるまさんがころんだ…ぁぁああんっ!?」


 振り向いて橙は思いっきり変な声を挙げた。別に艶やかしい訳じゃない。むしろ驚愕の声だ。
 皆がぴたり、と動きを止めている中、てくてくと唯我独尊、ここにあり、と言わんばかりに歩いてくる霊夢がいる。


「ちょ、霊夢、止まれ。ちょっ、霊夢っ!! 聞いて、いや、むしろ聞きなさい霊夢っ!!」
「………たっち」
「聞けっ!? 動くなって言ったでしょっ!? 良い!? だるまさんがころんだ! って振り向いたら動いちゃいけないのっ!? ほら、皆止まってるでしょ?」
「……うごいてるよ」
「霊夢が動いてるからだよっ!! もう一回、やり直し! 動いてるの見つけたら失格だからね!」


 荒く息を吐きながら、橙は霊夢の背中を押してスタート地点まで戻していく。
 そしてもう一度良く言い聞かせた後、小さく溜息を吐き出して橙は再び最初の地点まで戻っていく。


「よーし、じゃあ始めるよー。だーるまさんがーころんだっ!!」


 橙が勢いよく振り返るのと同時に、そこには動きを止めた子供達が……いなかった。
 あれ? と思い、橙は子供達を見た。子供達は皆呆気取られたように空を見上げている。
 空に何かあるのか? と思い、橙が顔を上げようとした瞬間、とん、と背中に触れる手の感触。
 同時に、すたっ、と綺麗に音を立てて地面に降り立つ霊夢。相も変わらず無表情のままで、彼女は告げた。


「……たっち」
「飛ぶなぁぁあああああっっ!!!!」





 + + + + +





「…鬼ごっこは駄目だろうしなぁ…。この調子だと、うぅん、うぅん…」


 霊夢を交えて遊べる遊び、と橙は頭を捻っていた。このままでは何か気まずいままだ。霊夢は相変わらず無表情だし、子供達も少しつまらなさそうだ。
 何か無いか、何か無いか、と橙が唸っているとだ。ふと、霊夢に向けて声をかけた少女がいた。


「おいっ」
「……」
「おまえ、ちゃんとルールまもれよっ! ちぇんおねーちゃんがこまってるだろ!?」


 霊夢にくってかかったのは…霧雨 魔理沙だった。彼女は優しいし元気もある。その為子供達の中心的な存在になる事が多かった。そして橙の影響も受けていて、ルールを守らない人間などにはこうして注意が出来る子供であった。
 だからこそ、魔理沙は霊夢にくってかかった。しかし、相手はあの霊夢だ。当然、魔理沙に視線を向けただけで何も言わない。だが、魔理沙はそれが気に入らなかったのか、眉を顰めて。


「なんとかいえ!」
「……」
「…~っ! なんとかいえって!」
「…なんとか」
「…ッ! オマエェ!!」


 明らかに舐めきった態度を取る霊夢に魔理沙がついに怒った。顔を真っ赤にして彼女は霊夢に向けてとびかかった。
 が、霊夢はそれを避け、そのまま魔理沙の足をひっかけ、地へと転ばせた。勢いよく魔理沙が倒れ込み、そのまま蹲る。あの転び方では明らかにあちこち擦り剥いているだろう。


「っ、魔理沙っ!?」


 ようやくそこで橙は動く事が出来た。すぐに魔理沙を起こして、魔理沙の顔を見た。
 泥がついた顔。その顔を痛みに歪めて、必死に泣かないように堪えてる魔理沙がいた。瞳には大粒の涙が溜まり、今にも泣きそうな顔。だが、それでも彼女は霊夢をきっ、と睨み付けて。


「…まもれよ」
「……」
「ルール、まもれよぉ」
「……」
「ちぇんおねーちゃんが、こまってるだろ」
「……」
「あやまれ、ひっく…、あやま、れよぉ…」


 霊夢を睨み付けながら、魔理沙がそれだけ告げ、声を押し殺して泣き始めた。
 痛いだろう。すぐに泣き出してしまってもおかしくなかった。それでも、魔理沙は霊夢に対して謝れ、と告げた。
 何とも言えないような感情が橙の身を震わせた。そして、ゆっくりと伸ばした手で魔理沙の顔についた泥を拭い、そっと抱きしめて頭を撫でてやる。
 魔理沙は少し身を震わせたかと思うと、橙の胸に顔を埋めてくもぐくった声で泣き声を貰した。そんな魔理沙を橙は優しく抱きしめ、背中をぽんぽんと叩いて慰める。
 その光景を、霊夢はただ、無表情で見ているだけだった。





 + + + + +





 次の日、朝、八雲邸で橙は溜息を吐いていた。
 既に朝食の準備は終わっており、後は藍を待つだけなのだが、その待ち時間、橙は悩み事があるかのように溜息を吐いている。
 思い出すのは昨日の事。あの後、結局あの場は気まずいまま皆、解散していってしまった。霊夢は千代に連れられて帰っていったし、魔理沙も友達と帰ってしまった。
 送ろうか、と問うても、魔理沙はいい、と言うだけで首を縦に振らず、橙の同行を頑なに拒んだ。
 どうしてあぁなってしまったのか、もっと何か良い方法は無かったのだろうか、と橙は思い悩み、こうして溜息を吐く結果となっている訳である。


「…はぁ~…」
「あら、珍しい。どうしたのかしら? 橙」
「…紫様こそ、最近早いですね」
「暖かい橙のご飯が食べたいのよ」
「私の時はそんな事を一言も言ってくださらなかったのに…」
「藍は強制的に叩き起こしてたでしょうが」


 そんなやり取りをかわしながらも、紫と藍が席に着く。そうすれば橙も姿勢を正して手を合わせ、いただきます、と一礼。
 食事が始まり、橙は箸ではさんだごはんを噛みながらぼんやりとし、はぁ、と溜息を吐き出す。


「で? どうしたの?」
「もぐ…何がですか?」
「何か悩み事か?」


 紫と藍の2人に問いかけられ、橙は一瞬声に詰まる。どうしようか、と悩んだのも一瞬。紫にも聞きたい事があったし、とそのついでに橙は昨日の事を2人に話した。
 霊夢の事、霊夢がルールを護らなかった事、それで魔理沙と喧嘩になった事。それを聞いていた紫はふぅん、と小さく零し、藍も何か思案するように顎に手を当てていた。


「まぁ、私も千代から報告があった時には見に行ったけどね」
「…まぁ、遊ぶような雰囲気じゃないな、あのままでは」
「……あの、紫様。藍様。聞きたい事があるんですけど」
「何かしら?」
「…博麗の巫女は中立の存在です。幻想郷の平定に大きく関わっている。それはわかっています。だけど、だからといって、その、何と言いますか、子供らしい感情などとかは必要無い、んですか?」


 橙の問いかけに、紫と藍はまず口を閉ざした。食事の手も止まり、時計の針が時を刻む音が嫌に響く。
 その気まずい時間が流れ、暫し間を置いて口を開いたのは紫だった。


「…ないわね」
「……え」
「…情は時に判断を鈍らせる。惑わせる。過たせる。故に、博麗の巫女にその感情は不要。博麗の巫女は公平に、正しく等しく裁かなければならない」
「…で、でもっ! 霊夢は子供なんですよ!? 人里の子供とそう変わらない、まだ…」
「それでも、彼女は博麗の巫女だ。橙」


 紫の言葉に続いて告げたのは藍だった。納得がいかない、という目で橙は藍へと視線を移せば、そこには眉を顰めた藍がいた。


「橙の言う事はわかる。…普通なら、な。だけどな、橙。あの子は博麗の巫女なんだ」
「……博麗の巫女、だから」
「そうだ。だから自己が確立してない子供の内は、ただ博麗の巫女としての役割に徹させるべきだと私は思う。分別がついて、使命と自分がしっかりと自分で分けられるまでは…」
「…っ…それ、は」
「当代の博麗の巫女は、もう長くない。その内、霊夢がその任を継ぐだろう。だからな、橙。お前の気持ちはわかるが、それでも、あの子は博麗の巫女なんだ」


 言い聞かせるように藍は橙に言う。だが、橙は納得しきれない。腹の底では、どうして、という思いが燻っている。
 まるで人形。そう、あれは人形だ。役割の為だけに存在している人。だがそれは、本当に人だと言えるのか?
 笑いもしない、怒りもしない、ただ冷静に、公平に、正しく、等しく判断を下す、そんな存在が人だと言えるのか? それでは本当に人形じゃないか、と。


「橙。苦しむのは貴方じゃない。霊夢自身よ」
「…っ!?」
「…貴方は正しい。正しいわ。だけどね、その正しさは、博麗の巫女には必要ないわ。友を持つな、とは言わない。親しい人を作ってはいけない、とは言わない。だけれど…その人に向ける感情を利用される可能性もある。そうした時、博麗の巫女という肩書きは彼女を苦しめるわ。せめて、あの子が分別が付くようになったら、その時は最大限、彼女を助けてあげれば良い。どんなに捻くれてても付き合ってあげる。少なくとも、私はそうしてきた」


 親しい人がいて、その人が妖怪に目をつけられ、利用され、博麗の巫女としての責務を果たせなかった時、待つのは何だ?
 博麗の巫女という、絶対の平定者の崩壊。それは混乱を呼ぶだろう。そして行き着く感情は、批判。人とは時に傲慢なまでに勝手になる。掌を返す事など、心が不安定になれば容易く返されるだろう。
 その責め苦を受けるのは、霊夢だ。橙じゃない。橙の考えは正しいのかもしれない。だけれど、それは普通の子供に対してだ。博麗の巫女には…相応しくは無い。


「…貴方が間違ってるとは言わない。私は、貴方を止めない。貴方ならきっと正しい答えを自分で見いだせるでしょう? 橙」
「……は、い」


 紫の優しい声に、橙は強く歯を噛み締めた。箸をそのまま握っていれば叩き折ってしまいそうで、橙は箸を置いた。
 食事も喉に通らなさそうだ。そのまま橙は席を立つ。今、この気分で紫や藍と顔を合わせていたくない、と歩き出す。


「橙」


 その背に、紫は声をかける。


「私は絶対じゃない。人の、妖怪の数だけ答えがある。だけど、答えを翻す時には、新たな答えと結果が必要なのよ。それを覚えておきなさい」


 紫の言葉に、橙は小さく頷き、そっと居間を後にした。





 + + + + +





 ぼんやりと、橙は人里の一角に座っていた。頭の中ではただ、グルグルと霊夢について考えていた。
 紫の言う事は最もで、きっと、それしか無いんだと思う。博麗の巫女は妖怪には出来ない。博麗の巫女は人であり、そして調停者でなければならない。
 紫も調停者、という意味では同じだ。だが、人ではない。だからこそ人は恐れる。妖怪では人の心を本当に護りきるのは、長い信頼が必要だ。
 だが、紫にとってもそれは禁忌だ。紫と親しき人がいて、その人が妖怪に目をつけられればそれこそ、今度はそちらでも幻想郷が揺るぎかねない結果となる。
 難しい問題だ。だからこそ、答えは限られてくる。役目を真っ当出来るように。出来るようになるその日まで。使命とプライベートに分別が出来るようになるまで待つしかない。


「……くそ」


 ままならない、と橙は苛立ちを込めて呟く。仕様がないとわかっている。わかっていても、納得は出来ない。
 でもそれ以外に答えなんか出せない。少なくとも、橙には。橙には紫が正しいと思うし、理解も出来る。だが、そこに感情が付いてこない。
 あぁ、ままならない、今度は口にして呟いて前髪を乱雑に掻き上げた。


「…ちぇんおねーちゃん?」
「っ、っと、まり、さ?」


 ふと自分の名を呼ばれ、橙がそちらに視線を向けるとそこには魔理沙がいた。
 魔理沙は驚いたように橙へと視線を向けている。それから、ふにゃり、と泣きそうに顔を歪めて橙に飛びついた。
 いきなりの魔理沙の行動に橙は驚きながらも抱き留める。一体何があったのか、戸惑いながらも魔理沙の頭を撫でて。


「どうしたの? 魔理沙」
「…おとーさんにおこられた」
「へ? お父さんに?」
「…アイツとけんかしたから」


 ぐすっ、と鼻を啜りながら魔理沙は呟くように言った。恐らく、子供が親に告げて、それが更に親同士で回ったのだろう。そして、それを聞いた霧雨のおじさんが魔理沙を怒ったのだろう。
 博麗の巫女は人里の守護者。何かあれば自分たち護ってくれる絶対の平定者。次期とはいえ、博麗の巫女である霊夢に食ってかかった魔理沙はだからこそ怒られたのだろう。
 もしも、それが原因で自分達だけ見捨てられたら。わからなくはない。自分だってきっと霧雨のおじさんの立場だったらそう思うだろう。そしてあの人はきっと、魔理沙を心配して怒ったのだろう。
 半妖である霖之助を受け入れる程、豪胆な人だ。自分だって良くして貰っている。それに子は親に似る。魔理沙の親だ。魔理沙の身を守るために、そして魔理沙に人を傷付けるような真似はして欲しくないから怒ったのだろう。
 魔理沙を叱る霧雨のおじさんと、アタフタとしている霖之助と、その霖之助を落ち着かせている魔理沙の母親が頭に浮かんで、多分こんな感じだったんだろうなぁ、と思う。


「アイツがわるいのに…なんでわたしおこられなきゃいけないんだ。あいつがちぇんおねーちゃんをこまらせるからわるいのに」
「…魔理沙」


 酷く、納得がいかないだろう。魔理沙にそんな事情を察しろというのが無理がある。魔理沙の中では霊夢が悪いのだろう。事実、霊夢はあれは悪い。だが、霊夢の立場がそれを悪だと認識させられなかった。
 特別とは、そういうものだ。必要以上に怨まれれば、必要以上に庇護されたりもする。今回の霊夢と魔理沙の諍いは、霊夢の特別、という立場が悪い方向で顔を出してしまった。
 だがそんなの、幼い魔理沙には関係がないだろう。魔理沙は、自分の為に怒ってくれた。それは正しい事をした。その筈なのに、怒られなきゃいけなかった。


「…魔理沙が心配だったんだよ。霧雨のおじさんは」
「…しんぱいなんかしてないよっ! おとーさんはわたしよりみこのほうがだいじなんだっ!」
「魔理沙…、違うよ。魔理沙。昨日は私の為に怒ってくれてありがとね」


 そっと、橙は魔理沙を抱きしめながら優しく頭を撫でる。落ち着かせるように、言い聞かせるように。


「だけどね。だからって、暴力で訴えちゃ駄目なんだよ。いくら相手が話を聞いてくれなくても、ちゃんと言葉にして、何度も言わないと」
「だってアイツはきかないだもん…」
「それでも、わかってもらう事が必要なんだ。魔理沙。どんな状況になっても、自分から手をあげちゃ魔理沙の負けだよ。痛いのは嫌だよね? 自分が嫌な事は相手にしちゃいけないんだよ?」
「…~っ、でもっ!」
「霊夢はね。魔理沙、わからないんだよ。友達の作り方も、遊び方も、何もかも」


 そう。それは、博麗の巫女には、今の霊夢には必要のないものだから。


「霊夢はね、皆を護る為にお仕事しなきゃいけない。だから、お仕事しなきゃいけないから、友達も作れないし、遊び方も知らないんだ」
「…そうなのか?」
「うん。霊夢は、特別だから。博麗の巫女だから。……だから、仕様がないんだ」


 仕様がない。自分で言ってて胸が苦しくなる。そうして、理論を盾にして、正論を盾にして、納得させて生きていく。苦しくても、崩しちゃいけないものがある。
 だからこそ耐えなきゃならない。そして、いつかその分だけ、霊夢が大きくなったとき、彼女の事を慈しもう。どれだけ彼女が拒んでも、どれだけ疎んでも、彼女に強いた責任と奪った時間の分だけ尽くそう。
 それが、きっと正しいんだ。そう思え、と橙は胸の奧へ、奧へと仕舞い込んでいく。そうしなければ、耐えられないから。


「…ちぇんおねーちゃん、ないてるの?」
「…ないて、ないよ。だけど、悲しいよ」
「…どうして?」
「霊夢と遊びたいから。霊夢に笑って欲しいから。だけど…私には無理なんだ」


 はは、と困ったようにしか笑えなかった。本当に魔理沙相手に自分は何を言っているのか、と。こんな事を言われても魔理沙にわかる筈がない、と。
 魔理沙はいつの間にか顔を上げて、ジッ、と橙の顔を見上げていた。そして、何かを思ったかのように勢いよく涙に濡れていた瞳を拭って。


「…ちぇんおねーちゃん、ちょっときて!」
「え? な、なに? 魔理沙?」
「いいからっ!!」


 ふと泣き止んだかと思えば、今度はいきなり橙を引っ張り出した魔理沙に橙は驚いたような顔を浮かべる。だが、魔理沙は止まる事無く橙を引っ張っている。
 何が何だか、と思っていると、魔理沙が向かったのは自宅である道具屋「霧雨店」だった。だが、彼女は家には入らず、まるで見つからないかどうか確認しているかのように辺りを見渡してから家の入り口の傍にあった竹箒を引っ掴んできた。


「ちぇんおねーちゃん、こっち!」
「え、えっ、ちょっ、魔理沙? ま、待ってよ」


 竹箒を抱えたまま、魔理沙は人里を駆け抜けていく。その背を橙は慌てた様子で追う。一体魔理沙が何をしたいのか、橙にはさっぱりで、ただ付いていくしかない。
 暫く走って、息を荒くしたまま魔理沙が辿り着いたのは人気の無い人里の裏路地の方であった。
 こんな処で何をするのか、と橙が怪しんでいると、魔理沙はおもむろに箒を両手で掴んだまま、箒を跨ぎ、棒の上に座るような体勢を取った。


「みてて!」


 そして、橙は感じた。魔理沙の身から感じたその力を。その力は、霊力ではない。ましてや妖力ではない。その力は――――魔力。


(魔力!?)


 何故、魔理沙が魔力を持っているのか、いや、発しているのか、と疑問に思ったのも一瞬。
 ふわり、と魔理沙の身体が浮かぶ。いや、浮かんでいるのは竹箒か。魔理沙を乗せて竹箒がふわり、と宙へと浮く。
 唖然、と橙は魔理沙に驚愕の視線を向ける。魔理沙はしてやったり、と言う顔を浮かべた後、すとん、と地面に落ちて。


「……まさか…魔法?」
「へへんっ」
「ど、どうやって!? どうしてっ!?」
「むかしからあこがれてたんだ。ちぇんおねーちゃんがそらをとぶのに」
「…空を?」
「だから、わたしもとびたかった。それで、みつけたのがまほうだったんだ!! こーりんにおねがいしてもらったんだ!! ぐ、ぐり、えっと…ぐりもわーるっ!」


 霖之助ぇっ…! と橙は思わず歯噛みした。あの収集家は確かに何冊か、グリモワールを所持していたのを橙は覚えている。あの収集家の趣味には収集の他にも読書があるからだ。
 恐らく、霖之助も知らないのだろう。魔理沙が魔法を使えるなどと。魔理沙だってわからなかった筈だ。だけど、試してみたら出来てしまった、と言った所だろう。


「わたし、すごいまほーつかいになる! そしたらアイツにまけないぐらいつよくなって、わたしもひとざとまもる! そうすれば、アイツのしごともへって、ちぇんおねーちゃんとアイツと、れいむとあそべるよな!」


 その言葉に、橙は呆気取られる。呆気取られて、呆れたように、だけど、微笑ましい、けど苦々しいと忙しく表情を変えていく。
 やはり、魔理沙は良い子だ。…そして、良い子な分だけ、橙は魔理沙に力を持って欲しくなかったと思った。
 博麗の巫女は、ただ空に浮けるだけの魔法使いとは違う。覚悟が、生い立ちが違うのだ。あまりにも、違いすぎる。
 そんなものを追いかけるよりは、魔理沙にはもっと子供らしく生きて欲しい。出来る事ならば、今すぐ魔法は止めなさい、と言ってしまいたい。
 だけど、言えない。言える訳がない。絶対傷付ける。傷付けて、魔理沙の心を歪ませてしまう。
 どうしよう、と橙は考える。考えて、悩んで、橙は思う。


「…そっか。なら、私は人里と一緒に魔理沙も護っちゃうからね?」
「むーっ、まもるのはわたしだよっ!」
「ふふふ、だから、私も魔理沙を護るよ。約束しよう。魔理沙」


 護ろう。この子を。この子の心を。この子の夢を。それはこの子の幸せには繋がらないかもしれない。魔法使いを目指すならば、きっとその時、魔理沙の両親は魔理沙を許さないだろう。
 魔理沙は一人娘だ。きっと魔理沙の両親は家を継いで欲しいと思うだろう。しかし、魔理沙は、きっと魔法使いになってしまう。私が止めても、誰が止めても。
 決めたら真っ直ぐだ。頑固で、優しくて、本当に良い子だ。だから、きっと誰が止めても自分の信じた道を走っていってしまうのだろう。
 ならせめて、一人ぐらいでも彼女の道を応援しよう。いつかきっと来るだろう諍いに、この子の心が荒まないように約束しよう。


「…やくそく、やくそくだよ、ちぇんおねーちゃん!」
「うん…約束だ」


 いつか、いつか遊ぼう。その時は今とは違うけれど、約束しよう。私は魔理沙を護る。魔理沙の夢を応援する。魔理沙の味方でいる。
 だからいつか、魔理沙が立派な魔法使いになった時は…大きくなっているだろう霊夢と、魔理沙と私の三人で遊ぼう。
 ままならない。ままならないけれど、ままならないなりに、私なりに、その中で最善を選び取っていこう。
 どうか、願わくばこの子の笑顔が護れますように。
 どうか、願わくばあの子の笑顔が見られますように。
 どうか、どうかと。橙は祈る。そして…改めて決意を固め直した。


「約束、だ」





 
 ――ゆびきりげんまん

 ――うそついたら

 ――はりせんぼんのーます!

 ――ゆびきった!!



[16365] 黄昏境界線 21
Name: 道化◆5a734804 ID:d4ec8ce0
Date: 2010/02/18 22:00
 いつか終わる。何事も。始まりがあれば終わりが来る。どんな物にだって、どんな事にだって。


「橙」


 その日、いつも通りに橙は夕食の準備を始めようとした時だった。


「千代が、倒れたわ」


 その衝撃を受けたのは、まさに、そんな時間の頃だった。
 それは1つの終わりを告げる言葉。それは同時に、始まりをもたらす言葉。


「倒れた…って」
「……」
「…もう、何ですか?」
「…えぇ」


 紫の返答に橙は唇を軽く噛んだ。大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出していく。
 ようやく、橙が呟き出せた言葉は、そうですか、と乾いたものであった。
 半年ぐらい、と言っていた。だが、余りにもその半年よりも早く、時が来てしまった。


「…行く?」


 紫の誘いは、つまり、そういう事なのだろう。これがきっと最後になるのだから。
 紫の問いかけに橙は小さく頷いた。瞳を閉じ、痛みに耐えるかのような顔をして、しかし、それでも確かに頷きを返す。
 所詮、運命。いつしか来るもの。ならば受け止めなければならない物なのだろう、と。例えどれだけ納得がいかなくても、噛み締めなくてはならないものなのだから。





 + + + + +





 博麗神社。橙は初めてこの場所を訪れた。訪れる最初が、まさか当代の巫女を「看取る」為だとは想像もしていなかったが。
 橙の前を行くのは紫と藍。隙間より移動し、神社の鳥居の場所へと姿を現した。橙は博麗神社を一目、目に収めると、すぐに興味を無くしたかのように紫と藍の背を追う。
 互いに言葉は無い。ただ、静かだ。既に時刻は夜。梟の声なのだろうか。遠くで何かの鳴き声が聞こえている。
 そっと外履きを脱ぎ、三人は博麗神社の中へと入っていく。勝手知ったる他人の家、と言った所だろうか。紫も藍もその歩みに淀みは無い。
 暫し歩み、三人が辿り着いたのは千代の寝室。そこには当然、霊夢もいた。いつものように人形のような無表情を浮かべて千代を見つめていた。
 千代は布団の上で横たわり、どこか生気の無い顔色でぼんやりと天井を見上げていた。ふと、その視線が紫と藍へと移され、その表情が笑みへと変わる。


「…はは、看取りに来てくれたのかい?」
「…えぇ」
「…そうかい。そりゃ、嬉しいね」


 はは、と漏らす笑い声もどこか弱々しい声だ。あぁ、本当にこの人は死んでしまうのだな、と橙はもう亡き魚屋の主人の事を思い出す。良く似ている、と。彼と最後に話したあの光景と今の光景は良く似ている。
 紫が腰を下ろし、それに続くように藍も腰を下ろす。橙も一瞬遅れて座り、千代の顔を見つめる。


「…千代さん」
「…おぉ、橙か。…何だい、そんな泣きそうな顔して…」
「…半年、持たなかったですね」
「…あぁ。そんな事かい。…いいんさ。どうせ、いつ死んでも良いし、おかしくなかった。いやはや、私の勘も当たらなくなったもんだ」


 ちゃかすように自分の死を語る。その千代の姿に、やはり橙は堪えきれないように唇を噛み締めた。いつか来る終わりだと知っても、嫌なものは嫌だ。
 目の前で誰かがいなくなってしまう。それがどうしようも切なくて、悲しくて、橙はそっと胸を押さえた。瞳を閉じて、痛みに震えるように身体を揺らして。
 その姿を見ていた千代は、一度、瞳を閉じて再び天井を見上げて。


「…まぁ、きっと、あれさね。余計なもん、残そうとしちまったからな。罰でも当たったかね…」
「…余計なもの?」
「…お前さんに私の未練、残そうとしちまったからね。そう、余計なものさ。それは博麗の巫女には、霊夢にはまだ必要のないもの…そして私の未練」


 千代は天井を見上げていた視線を、紫へと移した。紫はただ、寂しげな、だが、それでも気丈に千代へと真っ直ぐと視線を向けて。


「…紫」
「…長い間、お務めご苦労様でございました」
「…はは、似合わないもんさね。…先代が逝った時にも同じ事言ったね。その時から、本当にそう思ってたよ」
「…誠意のつもり、なのだけどね。私は貴方たちから幼少期という時間を奪っているのだから」
「おいおい…寂しい事言うんじゃないよ、紫。あんたは同情で私に付き合ってくれてたのかい?」
「そんな訳ないわ。貴方は私の大事な友人。私の大事な幻想郷の調停者。私が敬愛する可愛い巫女よ」


 まるでいつものように交わされる言葉。何気ない、明日の天気は何だろうかと問うているかのようなそんな空気が2人の間にはあった。
 だが、それでも紫の声が僅かに震えている事に橙は気付いた。紫の両の手は固く握られ、正座した膝の上に乗せられていた。


「…それでも、申し訳ないという思いは、変わらない」
「………そう、さね」
「……千代」
「そこの処は、本当、私も、どう思ってるか整理できんさ。この年になっても思う事はあるさ。…わかってても、納得できない。どれだけ月日を重ねても、ね」


 嫌なもんさ、と千代は呟き、布団からそっと手を出して顔を上に乗せた。


「…でも、それは残しちゃいけないもんさ。もしもなんて、博麗の巫女になった私にはないし、無くて良い。そう思わなきゃいけない筈が、本当、まぁ、厄介なものだよ」
「…千代」
「藍…アンタにも色々と世話になったね。思えば、若い頃はアンタがいつも私と紫を取りなしてくれたっけ?」
「…紫様が悲しむからな。それに、私もお前に思う処があったしな」
「…そうかい」


 千代の名を呼んだ藍に、千代は懐かしむように声をかけた。それに応える藍も小さく笑みを浮かべて告げる。それに千代がほっ、と安堵したように息を吐いて。


「…橙」
「…千代さん」
「…それだ」
「…え?」
「…初対面で私を、千代、だなんて呼んだ奴は、お前ぐらいだよ。紫と藍は別としても、さ。私を名前で呼ぶ奴なんて、それこそ少なかった」


 博麗 千代である前に、自分は博麗の巫女であったから。博麗の巫女として生きてきたから。あくまで千代という人格は半ばオマケにしか過ぎなかった。
 博麗の巫女。その役割は人々から尊敬の眼差しを集めた。暮らしに困る事はなかった。悪い人生じゃなかったと思える。妖怪退治だって苦じゃなかった。
 だがそれでも、それでも、と千代には思う事があった。


「…幾つの頃だったか。もしも、なんて考えるようになったのは。もう、覚えてない。だけど、人里で遊ぶ子供を見て、懐かしむ事が出来なかった。物珍しそうに見ている自分がいた。…私は普通と違うんだな、と思い知らされる」
「…それは」
「腰痛が酷くなって、薬を貰いにいけば「博麗の巫女でも腰痛なんかあるんですね」なんて言われたよ。冗談だとしても、何だい。私は化け物かってんだい」


 ははっ、と笑い飛ばすその声は、明るい筈なのに何故か重たい。紫はただ沈黙し、拳を握りしめているし、藍もまた、紫の傍で静かに瞳を閉じているだけだ。


「…今だから割り切れる。だけど、さ。私だって人さ。人なんさ…。人を好きになりゃ、嫌いにだってなる。好みだってあれば、嫌いなもんだってある。…私は人形じゃない、そんな風に思った事もあるさ。今でも、そう思う」


 それは橙もまた思った事だ。思うのは橙だけではなく、本人もまた感じていた事なのだろう、と。


「…悪くない人生だった。だけど、最良じゃない。…1つ望めば、それが欲しくて堪らなくなる。私には、それを得る事は出来なかったさ」


 博麗の巫女だからね、と笑って言う。だが、その度に紫の拳を作る力が強くなっていっているように橙は見えた。
橙は伺うように紫の顔色を見た。その視線に気付いたのか、紫は橙に向けて優しく微笑みかけた。


「…未練だ。これが、私の。博麗の巫女以外の、千代としての価値が、どれだけあったんだろうか、って悩んでしまうんだ。死ぬんだな、って思う度にそう思う。…それを、霊夢に押しつけようとしちまった」
「…千代さん、それは…」
「…わかってたんだけどね。それが、いけないって、さ。…なのに、さ。見てるとどうしても、思い出しちまってさ…。悪いね。橙。アンタにも悩ませちまっただろ?」
「……」
「…霊夢が大きくなったらさ。ちゃんと博麗の巫女と、自分と分別が出来るようになったらさ…その時は、酒でも汲み湧かしてやってくれ…」
「…えぇ、勿論よ。千代」
「その時は私も一緒させてもらうさ、な、橙」
「…はい」


 千代の言葉に紫、藍、橙の三人は頷く。
 その頷きを確認した千代は淡く微笑んだ。その微笑みのまま、千代は霊夢へと視線を向けていた。
 そこには無表情の霊夢がいる。ただ、真っ直ぐに千代へと視線を向けている。そんな霊夢に千代はそっと手を伸ばした。


「……本当に、優秀な巫女だよ。可愛げの無いぐらいに…天才だって言えるぐらいにね。最低限の事はもうこなしていける…。だから…アンタはきっと、私よりももっと…得られるものがある筈だ。巫女としての時が短ければ短くなるほど…アンタが、霊夢として生きていける時間が…」


 こほっ、と千代が咳き込んだ。霊夢の頬に伸ばされた手が、地へと落ちていこうとして。
 その手を、霊夢が握った。だが、その手を握ったのはどうやら彼女の意志ではなく、彼女自身もどこか茫然としていた。
 その感情の揺らぎに橙は驚く。あの霊夢が、無表情と違う表情を浮かべている。


「…大丈夫。教えられた事をこなしていけば良い」
「……」
「…だけど、それだけじゃ駄目だ。自分で知って、考えて、そして生きていかなきゃいけない。知らないなら、知る生き方だけで良い。だけど、知ることを、止めるんじゃ…ないよ…?」


 笑みを深めて千代は告げた。霊夢はただ、それを聞き入っている。
 それに千代は頷く。それで良い、と言うように。それで安心だ、と言うように。


「……悪くなかったよ。本当に……」





 そして、霊夢の手より千代の手が離れていった。


「…ぁ…」


 その声は誰の呟きだったのだろうか。だが、誰かが零した呟きが、彼女の終わりを表していた。


「…ぁ…ぅ…」


 霊夢の声が、震えた声が響いた。目はただ、千代へと向けられている。
 訳が分からない、そんな表情を浮かべて霊夢はただ、前を見ている。それはまるで予想外の事が起きたかのように、ただ、ただ千代を見ている。
 その瞳に涙が溜まり始める。だが、それすらも訳が分からないと、霊夢は茫然とした表情のまま、その涙を拭う。
 何度拭っても、何度拭っても涙は止まらない。次第にその手は乱暴になっていき、目を擦っていく。
 その手を握った者がいた。霊夢の手を握り、その顔を自分の胸に押しつけるようにして抱きしめる。


「…駄目、だよ。そんな目を擦っちゃ…」
「……ぁ…ぁっ…」
「……泣いて、良いんだよ」


 霊夢を抱きしめたのは橙だった。橙にはまるで、霊夢の様子が泣き方を知らない子供のように見えて仕方がなかった。
 だから、自分の胸に顔を押しつけさせていた霊夢の顔を上げさせ、自分と真っ直ぐに視線を合わせる。
 橙の瞳から幾つもの雫が流れ落ちていく。霊夢の涙に潤んだ瞳と真っ直ぐに視線を合わせて。


「涙を零して、声をあげて、それが枯れるまで、泣いて良いんだ。悲しい思いは吐き出しちゃって良いんだ」
「ぅぁ…うぁぁ…」
「一緒に泣くから。怖くない。怖くないよ…。それは、とても、大事な事だから」
「うぁぁっ…うぁぁああっ…」
「それは、知って行かなきゃいけない事だから…っ」
「うぁぁああああああああああああああっっっ!!!!」


 まるで栓を抜いたかのように霊夢の声があがった。悲しくて、辛くて、苦しい泣き声。それは大きな声で響き続ける。何度も息を乱して、咳き込みながらも霊夢は声を挙げ続けた。
 知らなければ知っていけば良い。知らない事は、怖い事だから。だから教えていこう。必要とされた時、全力で応えよう、と。
 だから橙も泣いた。一緒に泣いた。泣き方を教えるように。その悲しみが少しでも分け合えるようにと。
 そっと、2人の肩に置かれた手がある。手を置いたのは紫だ。紫はそんな2人をそっと包み込むように抱いた。
 紫も泣いていた。藍も泣いていた。誰もが一人の巫女の死に泣いていた。ただ一人の為に、声を挙げなければいけない程の大きな感情を震わせて。唇を噛み締めながらでなければ堪えられない程の大きな感情を震わせて。





 ――本当、悪くないさね――





 ただ、泣き声は止むことは無い…。
 1つの魂が流れゆく。在るべき場所へ。在るべき流れへ。在るべきその形へ…。
 それでも、世界は動き行く…。





 + + + + +





 さっ、さっ、と箒を掃く音が響く。神社の境内を掃除する小さな影がある。
 ただ無表情に境内を掃除していくその影は、新しい巫女、博麗 霊夢。彼女は教えられた通り、いつものように掃除を続けていく。
 一通りの掃除を終え、霊夢は箒を置いて神社の中へと入っていく。そして縁側に腰をかけ、ふぅ、と小さく息を吐いた。
 お茶でも飲もうか、と彼女は思い立ち、棚から緑茶を取り出す。そのまま霊夢は準備を始める。
 お湯を沸かし、茶葉を用意し、確か、と記憶を思い返しながらお茶を準備していく。
 そしてようやく湧いたお茶を湯飲みに注ぎ、それを一口、口に含んだ。


「…うげ」


 しかし、それは不味い。
 先代が用意したお茶に比べれば、まさに月とすっぽん。不味いとしか言いようの無いこのお茶を霊夢はジッ、と睨み付けた。


「やぁ」


 そこに声が響いた。霊夢はふと、顔をあげる。
 いつものような無表情を浮かべたまま、その来客を見つめた。


「お茶、上手くいれられなかったの?」


 こくり、と霊夢は頷いた。その来客はその口元に柔らかい笑みを浮かべて。


「私が教えてあげようか?」


 その問いかけに霊夢は小さく頷くのであった。



[16365] 黄昏境界線 22
Name: 道化◆5a734804 ID:d4ec8ce0
Date: 2010/02/21 09:57
 ひとつのおはなしをしましょう。
 それは、あるしまいのおはなし。
 そのしまいはしあわせでした。そのしまいはとてもなかのよいしまいでした。
 だからしあわせでした。
 だけどいつしかしあわせじゃなくなってしまったからです。
 いもうとはのろいにかけられていました。
 あねはそれをしりました。どうにかしようとかのじょはがんばりました。
 だけど、いもうとののろいはとけることはなく、いもうとはちかにとじこもってしまいました。
 あねはがんばりました。それでも、あねではどうしようもできませんでした。
 それでもがんばって、つかれても、まだがんばりました。
 それでも、みつからなくて、なんどもなきました。なんども、なんども。
 あぁ、どうか。どうかとあねはいのりました。
 どうか、いもうとをすくってください、と…。


 おはなしは、ここまで。このおはなしのつづきは……。





 + + + + +





「妖精達の様子がおかしい?」
「あぁ」


 ここは人里の道具屋「霧雨店」。そこで店番をしていた霖之助から耳を挟んだ話に橙は眉を寄せていた。


「どういう風におかしいの?」
「噂が立っているみたいなんだ。どうも、妖精を集めて何かをしようとしている者がいるらしいんだ」
「…妖精を集めて?」


 妖精というのは幻想郷では珍しく無い種族だ。橙だって妖精は知っている。何人か顔を合わせたこともある妖精だっている。
 妖精とは自然現象の具現だ。つまり自然そのものであるとも言える。それ故、どこにでも存在する。その在り方は人間の子供と対した変わらない。
 だが、自然が故に「死」という概念が無く、たとえ滅ぼされたとしても彼らの感覚では「1回休み」の感覚なのだ。
 それ故、怖い者知らずで、人間に対してよく悪戯などを仕掛けている。
 そんな妖精は先ほども言ったとおり、子供とそう変わりが無いのでさして力があるわけではない。頭だって知能は子供ぐらいしかない。
 集めてその力を束ねることが出来れば楽だが、所詮は子供。飽きればすぐに散っていってしまう。逆に妖精を束ねることが出来れば恐ろしいのだが、それが出来れば皆そうしているだろう。


「…何か起きる前触れ、かな?」
「わからない。…そうだとしたら、君も動くんだろう?」
「まだ博麗の巫女は代替わりしたばかりだからね」


 霊夢は確かに才能もあるし、巫女としての任は果たすことは出来るだけの能力は備わってきている。だが、それでも不安が残るのが橙の本音だ。
 それがただのお節介なのかもしれなくても、橙は動かずじっとしているのは無理だな、と自分の気質を考えて判断する。
 反発の能力。それを扱う橙の気質もまた基本的に我慢が出来ない性質だ。我慢の方向に反発の能力を使えば抑えられるかもしれないが、それは明らかなストレスになるだろう。


「…ま、仕様がないよね」
「…何がだい?」
「こっちの話だよ。それじゃ、私もちょっと調べてみるよ」
「あぁ、気をつけなよ」
「うん。ありがと」


 ひらひら、と手を振って橙は足早に店を後にした。異変の前触れであるならば出来れば霊夢が動く前に事前に情報だけでも掴んでおきたい、と。
 妖精ならばどこにでも顔を出すだろうが、ふと脳裏に「彼女達」の顔が浮かび、橙は地を強く蹴った。向かう先は、妖怪の山、その麓。





 + + + + +





 妖怪の山の麓。ここには霧の湖と呼ばれる湖がある。橙は湖の側にまで来るとあたりを伺うように視線を向けた。
 「彼女」はいつもこの辺りに居るはず、と辺りを見渡して視線を向けているとふと、肌を刺すような冷気を感じた。


「あーっ! 橙じゃないっ!」
「やぁ、チルノ」


 冷気を感じたかと思えば、すぐに橙に向かってきた影があった。それは子供ぐらいの大きさの影、だが子供と異なるのはその背に氷で出来た羽がある事だろうか。
 彼女もまた妖精である。名はチルノ。妖精として言うならば、彼女の口癖である「最強」というのもあながち間違ってはいない。
 それでも妖精は妖精。妖精として大きな力でも妖怪から比べればまだまだ下の方である。それでも常に「最強」と口にする彼女は橙から見れば微笑ましい存在だ。


「っと、チルノ。丁度良かった。大ちゃんがどこにいるかわかる?」
「アタイと隠れんぼしてるよ!」


 隠れんぼならそんな大きな声を出したら見つかるんじゃ、と橙が思った時、森の方からまた子供ぐらいの大きさの影が飛び出した。
 背に生える翼は昆虫の羽のように透き通り、髪をサイドポニーにした少女だ。彼女こそ、橙が探していた妖精。彼女はチルノを見つけて、彼女に指を指して。


「チルノちゃんみ~っけ!」
「わっ!? だ、大ちゃん!? もうっ!! 橙の所為で見つかったじゃないっ!!」
「私の所為にしないでよ…」
「橙がそこにいたから駄目なんだよっ! 本当空気読めないわねっ!!」
「は、ははは…」


 相変わらずだなぁ、と橙は苦笑を浮かべる。この2人は数多くいる妖精の中でも特に仲の良い妖精達だ。出会いはまだ吸血鬼異変が起こる前だった筈、と思い出して、その日からあまり変わらないチルノに微笑ましさと苦笑が沸き上がってくる。


「あ、あれ? 橙。久しぶりだね。どうしたの?」
「やぁ、大ちゃん。久しぶり。ちょっとね。妖精達の様子がおかしい、って話を聞いてさ。2人が心配になってね」
「あぁ…」


 チルノは何かよくわかっていない様子で首を傾げていたが、大妖精は何か察したように呟きを零した。
 大妖精もまた妖精としては上位に入る存在だ。チルノにはその力こそ劣るものの、知性は普通の妖精に比べれば高い。故に橙も色々と世間話をしていたりもしている。


「最近、妖精達を誘っている妖怪がいるのは確かですね」
「どんな妖怪なの?」
「…えと…」


 橙の問いかけに大妖精は少し戸惑ったように口を閉ざす。その様子に不思議に思った橙が首を傾げるが、おずおずと大妖精が口を開いた。


「吸血鬼、なんですけど」





 + + + + +





 大妖精とチルノと別れ、橙は霧の湖の水面を飛んでゆく。ただ視線は真っ直ぐに向けれ、その瞳には険しい色がある。
 段々と霧を越えて見えてくるのは、一見、悪趣味と思えるような紅に染め上げられた館だ。それを目にし、橙は気を更に尖らせた。
 吸血鬼。それは橙には忘れられない種族。嫌でも記憶が引きずり出される。かつて、自分の能力が暴走する切欠となった異変の首謀者。
 妖精達を集めているという不穏の動きと、そして記憶に新しい異変の首謀者と同種族。これは放っておくわけにはいかない、と。


「…あれが、紅魔館…」


 紅魔館。それがあの館の名らしい。その名の通りだ、と橙は気を昂ぶらせる。
 そのまま真っ直ぐ橙は紅魔館へと向かっていく。その門の手前で地へと足を降ろし、改めてその門を睨み付ける。
 さて、どうするか、と橙は考える。いくら記憶に新しい異変の首謀者と同種族とはいえ、以前のような異変を起こすとは限らない。しかし不穏な動きがある以上、放っておけない。
 思い悩む橙だったが、ふと、彼女は驚く事となる。橙は何もしていない。だがその橙の目の前でゆっくりと門が開いていく。
 橙は唖然とした表情を浮かべていたが、すぐに表情を引き締め、警戒の姿勢を取る。ここまで来れば確かに気付かれるか、と内心苦笑しながら。
 ゆっくりと門が開かれ、その門の先に一人の女性が居た。メイド服を纏った紅の髪を持つ女性。長い紅の髪を揺らしながらメイドは橙へと歩み寄ってきて。


「どちら様でしょうか? ここはレミリア・スカーレット様の居城、紅魔館。何用でここに?」


 ズクン、と心臓が跳ねた。嫌な跳ね方だ、暴れ回るような心臓の鼓動の音が橙を苛立たせる。
 スカーレット。それは、あの、女と、同姓の、姓。


「…何が目的で幻想郷に再び現れた…?」
「…失礼ですが、貴方は?」
「…幻想郷の管理者、八雲 紫の式が式、橙」


 橙の名乗りにメイドはやや驚いたような顔を浮かべ、すぐにその表情を穏和なものへと変える。


「貴方が、橙」
「……私を知っているのか」
「えぇ。貴方の事は聞いております。お待ちしておりました」
「…? 待って、いた?」


 警戒するようにメイドを睨んでいた橙だが、メイドの反応に怪訝そうな顔を浮かべる。
 その橙の疑問に応えるよう、メイドは静かに頭を下げ、一礼。


「私の名は紅 美鈴。この紅魔館でメイド長を勤めさせております。…我が主、レミリア・スカーレット様は貴方との邂逅を望んでおります」





 + + + + +





 紅魔館。それがレミリア・スカーレットの居城だ。その一室で、その主たる少女、レミリアは静かに紅茶を口に含んでいた。
 その口元にやや笑みが浮かぶ。それは楽しみを待ちきれない子供のような笑みだ。その気持ちを静めるかのようにもう一度、彼女はそっと口に紅茶を含んだ。
 そこに、控えめなノックの音が響いた。レミリアは紅茶を口から離し、そっとティーカップを置いて。


「入れ」
「失礼します」


 レミリアはそれだけ告げると、扉の向こうから聞こえてきたのはこの館のメイド長、美鈴の声だ。挨拶から1つ、間を置いてから扉が開かれ美鈴が姿を現す。
 その美鈴が更に扉を大きく開き、その後ろに居た誰かをそっと通した。
 その誰かとは、橙だ。能面のような無表情を浮かべてレミリアへと視線を向け、一瞬顔を歪めたが、すぐにその表情は無表情へと戻る。


「お前が、橙か?」
「…知ってるんだろ?」


 橙は無表情のままレミリアに告げる。その態度にレミリアは笑みを深めて、橙に座るように促した。
 橙は一度レミリアの対面の席に視線を向けた後、ゆっくりとその席に腰を下ろした。
 その間に美鈴が紅茶を用意してくる、とレミリアに告げ、部屋を後にする。部屋に残されるのはレミリアと橙の2人。


「ラクチェ・スカーレット」
「……っ……」


 ふとレミリアが呟いた名に橙はあからさまな反応を見せる。レミリアを睨む視線が更に強くなる。が、それもレミリアは流してみせる。


「その反応は、忘れてはいなかったようだな」
「……」
「私の従姉妹が迷惑をかけたな」
「…従姉妹…? いや、それは良い。…迷惑?」


 レミリアを射抜くかのような視線で睨み付けながら、橙は呟くように問う。


「なに。少々アレはやり過ぎた。…すまなかったと思っている」
「…信じられるか」
「そうだな。それはそうだ。だが、私はこの幻想郷を乱す気はない。ただ、目的があってここに来ただけだ。争いをしに来た訳じゃない。そこは信じてもらおう。何なら八雲 紫に直接頭を下げても良い」


 淡々とそう告げるレミリアに橙は探るような視線を向けるも、レミリアはまるで柳のように橙の視線を受け流して。


「良ければ、これから末永くお付き合い願いたいものだな。橙」
「…気が向けば、ね」


 橙は不機嫌さを隠そうともせずに告げる。それと同時に扉が再びノックされる。美鈴の声が聞こえる。どうやら紅茶を持ってきたようだ。


「美鈴の煎れる紅茶はうまいぞ。是非堪能していってくれ」
「あいにく、吸血鬼の口にするものとは口が合うかどうかわからないけどね」
「そうか」


 橙のとげとげしい言葉にレミリアはただそれだけ返し、くすくすと小さく笑った。
 その態度に橙は苛立ちを隠そうともせず、ただ、小さく重苦しいため息を吐き出すのであった。







[16365] 黄昏境界線 23
Name: 道化◆5a734804 ID:d4ec8ce0
Date: 2010/02/23 14:05
「…へぇ? で、お前は一人で乗り込んで、帰ってきたと?」
「……は、はい」
「…へぇ?」


 ニコニコ。そうとしか言いようの無い笑顔が目の前にある。もう、本当にニコニコ以外にどう称すれば良いのかわからない程の笑顔が目の前にある。
 笑っているのは、藍だ。ニコニコと、そう、ただひたすらニコニコと笑っている。その対面に座るのは、藍とは対照的に引き攣った笑みを浮かべている橙がいる。
 互いに正座で座っている訳なのだが、橙がやけに小刻みに震えている。視線もやや藍から逸れ、在らぬ方向を見ている。
 ニコニコ。ニコニコ。藍は、ただ笑っている。その表情のまま、ゆっくりと息を大きく吸って。


「この大馬鹿者がぁぁああああっっっ!!!!」
「ひぃいいいっっ!?」
「一人で乗り込んだ? 馬鹿か? お前は馬鹿なのか? 橙。それとも私に模擬戦で勝てたから調子に乗っていたのか? 乗っていたんだな。よしわかった。それは私の教育不足だったな。これから再教育だ橙。お前にはこれからとびっきり厳しい躾だ。よし来い」
「あぁぁああっ!? す、すいません藍様っ!! ちょ、ちょっと頭に血が昇ってたんですっ!! その、吸血鬼って聞くと自制が出来なくて…!!」
「ほほぅ、それは良いことを聞いた。つまり橙にはまだまだ教える事があると!! このような失態を二度と犯さないように尚更厳しく躾けなければなっ!!」
「ゆ、ゆか、紫様、助けてっ!!」


 いきなりニコニコと菩薩のような表情から般若のような表情に変わり、橙を叱りつける藍に橙は完全に竦み上がってしまった。
 そのまま藍は橙の首根っこを掴んでどこかへと引き摺っていこうとするも、橙は反発の能力で藍を弾こうとする。が、藍の力が余りにも強く引きはがせない。更にその為、自分の反発も怯えている為か上手く働かない。
 ずるずると引き摺られながら橙は何とか抵抗を試みるも、床を傷付けるだけに終わる。最後の希望と言わんばかりに橙は紫へと視線を向ける。
 紫はふぅ、と小さく溜息を吐いた。そっと湯飲みを机の上に置き直し、境界を操作する。
 橙の爪立てていた手がいきなり開いた隙間によって沈み、抵抗を失った橙は藍に俵を担ぐように肩に担がれる。


「紫様ぁぁあああっっ!?」
「藍。――死なない程度によろしく」
「御意」
「うにゃぁぁああっ!?」


 菩薩のような笑みで橙に微笑みかけた後、藍に宣告し再びお茶を手に取る紫。
 それに藍は恭しく頷き、そのまま橙を担いで外へと歩いていく。橙はジタバタと暴れるも、藍の万力如き力に反発も意味も成さない。
 そのまま橙の悲鳴が暫く、途切れる事無く響き続けたという。その橙の悲鳴を耳にしながら紫はそっとこめかみを揉みほぐした。そこにはしっかりと青筋が立っていたのを知るものは本人しかいない…。





 + + + + +





 レミリア・スカーレットとの邂逅の後、橙は一言、二言交わした後、紅魔館を後にした。
 終始、レミリア・スカーレットは自分を興味深げに見ていたのが嫌に記憶に残っている。更にはお土産としてワインの一本も貰ってきた。逆に怪しく思えてしまうばかりだ。
 更に、丁度良い、という事でレミリアに紫との会合も望み、橙にその旨を伝えるように頼んで来た。
 そこで橙ははた、と気付いたのだ。自分のしでかした事に。それに気付いた橙は滝のように汗を流したが、ただそれをニヤニヤと見つめているレミリアに苛立ったのを覚えている。
 無かったことにしよう、とワインを返そうとしてもニヤニヤと笑うレミリアに「一度渡した物は受け取るわけにはいかない」と半ば強制的に紅魔館から追い出された。
 そのままワインを隠そうかとも思ったが、それが結構な年代物で、それこそバレたら紫や藍に何て言われるかわからない、と思った。
 恐らく、紫とレミリアはいつか顔を合わせるだろう、という予測は橙に出来たからだ。そして、その時にレミリアにその事を言われたら…?
 想像にするだけ恐ろしい。ここは開き直って、ワインを貢ぎ物として少しでも機嫌を取ろう。…そんな風に考えていた橙だったが、目論見が甘すぎたと言うべきだろう。
 橙は今、ボロボロとなって八雲邸の居間に転がされている。死なない程度に痛めつけられ、最悪トラウマが再発してしまいそうになった。感情に左右されやすい反発の能力はすっかりと藍に怯えきってしまっていた為に効力を為さなかった。
 勿論、橙に負い目があったことも原因だろう。結果、藍にこれでもか、と言わんばかりにボロボロにされ、現在、こうしてぐったりと生きた屍と化している。


「…まぁ、お仕置きも済んだ事だし、橙?」
「…はぃ…」
「近々、そちらに顔を出すとレミリア・スカーレットに告げておいてくれるかしら? 日にちはそうね…。なるべく早い方が良いでしょう。あちらに確認を取って来なさい。貴方なら安心してレミリア・スカーレットに取り次げるでしょうしね?」


 藍に肉体的に痛めつけられたかと思えば、今度は精神的に紫の皮肉がざくざくと橙の精神を痛めつけていく。
 軽挙な行動だというのは認める。後悔だってしてる。反省だってしてる。そろそろ許して欲しい所だが、下手をすれば決裂なんて事になり、再び抗争が起きたとなれば目も当てられない。
 だからこそ、橙は甘んじて紫と藍の責め苦を受けなければならないと思っている。だが、そろそろ流石に限界だなぁ、と橙は思った。


「橙」
「うっ…は、はい」
「…気をつけなさい。貴方は貴方が思っている程、軽い存在ではないのだから」
「…え? 紫、様?」
「今日は休みなさい。今日の事を胸に刻み、二度とこのような真似はしない事よ? 破るようだったら、そうね…どうしてやろうかしら?」
「も、ももも、もう二度としません!! 本当に申し訳ありませんでしたっ!!」


 紫が扇子で口元を隠しながら告げた言葉に、橙は申し訳なさと恐怖からか見事な土下座をする。
 少し顔を上げれば、少し呆れたような顔で溜息を吐いている藍と、よろしい、と言うかのような態度で瞳を閉じ、口元を扇子で隠している紫がいる。
 もう行きなさい、と今度は藍に告げられ、橙はボロボロの身体を引き摺りながらそっと居間を後にしていった。
 橙が居間から出て行き、その足音が聞こえなくなった後、紫と藍は同時に溜息を吐き出した。


「…まったく。困ったものね。あのヤンチャ振りには」
「…そう、ですね。なまじ実力も付いてきてますし…」
「今が危ない時期、かしらね」


 橙の能力は強力で、橙自身も大きく成長している。謙虚な姿勢だから、少しは安心かと思えば、あのように愚直とまで言うべき真っ直ぐさは少々珠に傷だ。
 猫は気まぐれ。いつ何をしでかすかわかったものではない、と。普段は大人しい癖に、いざ何かしでかすと手がつけられない。
 困ったものだ、と紫と藍は心底疲れたように溜息を吐き出した。しかも、今回喧嘩を売った相手も相手だった。


「…吸血鬼、ね」
「…しかも、以前、橙に興味を示していた者と血族ですか」
「…何を目的に橙に興味を抱いているかはわからないけれど…警戒はしておくべきね」


 紫の言葉に藍は力強く頷いた。脳裏にあの日の後悔を呼び起こし、固く拳を握りしめながら。





 + + + + +





 月光が照らす下、レミリアは空を見上げていた。紅魔館のテラスで月を見つめながら何かを憂うような表情でいる。
 レミリアはただ月を見上げ続ける。ただ、それだけ。何をするわけでもない。ただ、そこに月があるから見ている。


「レミィ」
「…パチェ?」


 ふと呼ばれた愛称にレミリアは振り返る事無く、自らの愛称で名を呼んだ者の名を呼ぶ。
 テラスの入り口には紫色の長髪の少女が立っていた。パチェ、と呼ばれた少女はレミリアと共にこの幻想郷に渡ってきた者の一人。
 その名を、パチュリー・ノーリッジと言う。パチュリーはそっと憂うように月を見上げていたレミリアの隣に立ち、同じように空を見上げた。


「…図書館の主が外に出るとは珍しいじゃないか」
「別に。たまにはそういう気分にもなるわよ」


 慣れ親しんだ距離感。レミリアは空から視線をパチュリーに移して問う。それにパチュリーが返す答えは淡々としている。レミリアは気にした様子もなく、そうか、と呟いて。


「…巡り会ったよ」
「…聞いてるわ」
「ようやくだ。ようやく、ラクチェが命を賭けてでも手に入れた手がかりにたどり着けた。後は時間をかけてでも良い。あの橙、だったか。あの猫と仲良くやっていけば…」


 そうすれば、きっと。
 レミリアの口にしないその思いにどれだけの思いが込められているのか、パチュリーは知っている。
 だが、それでもパチュリーはあえてそれを口に出してやる事はない。ただ、黙って彼女の傍に控えている。


「…上手くいくわよ。いかせましょう。レミィ。貴方の願いを叶える為に」
「…あぁ。絶対、手にしてみせるさ。私の能力を使ってでも引き寄せて見せる」


 再び空を見上げるレミリアの瞳には力強い色が秘められていた。真紅の月の瞳は空に浮かぶ月を見上げる。ただ、ただ思い馳せるかのように。


「…夜風は身体に触るぞ?」
「…もう少し。たまには、ね」
「…そうか」


 パチュリーの身体を気遣い、レミリアが声をかけるがパチュリーはただ空を見上げ続けている。
 それにレミリアも静かに返答を返し、自らも空を見上げ続けていた。幻想郷の星空は雲1つ無く、ただ星が瞬き、月が煌めいていた。





 + + + + +





 時は流れる…。
 妖怪の山に住まう天狗、彼等が出す新聞によって広まった「吸血鬼移住」の報。
 それは人里にも届けられ、多くの人、妖怪の目を通す機会を与えた。そこには吸血鬼であるレミリア・スカーレットと、八雲 紫と交わしたと思わしき条約の事などが記されている。
 天狗が配っている新聞、名は「文々。新聞」。博麗神社に住まう巫女、霊夢はその新聞に書かれた吸血鬼の新聞欄に目を通しながら、自分の隣に座っている妖怪に目を向けた。


「…本当なの? これ」
「…まぁね」


 霊夢の隣に座るのは橙だ。橙は苦々しい表情で新聞を見ながら溜息を吐いた。レミリアとの初の邂逅の後、紫とレミリアの会合はあっさりと日付が決まり、そしてあっさりと条約が締結されてしまった。
 互いに何か探り合うような黒い話に橙は流石についていけず、話の内容はよくわからないが、紫とレミリアの間で協定が結ばれたのは確かだ。
 そしてレミリアを含めた紅魔館の面々を幻想郷は受け入れた。だが、過去の遺恨は燻ったままだ。これから面倒な事にならなければ良い、と橙は思って。


「…ふうん」


 橙の返答に特に霊夢は気にした様子もなく新聞を畳み、放り捨ててしまった。射命丸が見れば怒るだろうなぁ、なんて思いながら橙は苦笑する。相変わらずな態度になんだかなぁ、と橙は思う。
 霊夢は変わらない。少しは変わったが、それでもやはり淡泊な性格は変わらない。それでもこうして自分に話しかけてくるようになったのはまぁ、進歩か、と橙は思って。


「っと。そろそろお暇しようかな」
「…そう」
「ん。じゃあね、霊夢」


 ん、と小さく返答を返して霊夢も居間へと戻っていく。それに橙は霊夢に背を向けて博麗神社を後にしていく。
 次に橙が向かったのは人里だ。人里の門番に軽く挨拶をした後、橙は何気なしに人里の中を歩いていく。
 どこに行こうか、と彷徨いていると何か大きな声が聞こえた。何だろう、と顔を上げればそこは霧雨店がある。


「こーりんのバカァっ!!」
「ぐはぁっ!?」


 霧雨店のドアが半開きになったかと思えば、いきなり霖之助が転がってきた。何だ? と橙が目を丸くしていると、魔理沙が顔を真っ赤にして霖之助をぽかぽかと叩いている。
 霖之助は何とか魔理沙を宥めようとしているが、魔理沙はぽかぽかと霖之助を叩いて耳を貸すつもりはないようだ。


「こらこら、魔理沙? どうしたの?」
「うわっ!? ち、ちぇんおねーちゃん…うぅーっ! こーりんがいえでするって!!」
「い、家出じゃない…いや、家出だけど」
「…どういう事さ?」


 いまいち状況が掴めない橙は魔理沙を抱き上げて頭を撫でながら霖之助の話を聞く。
 霖之助の話だと、霖之助は自分の能力を最大限生かすには霧雨店では駄目で、自分の店を持とう、と考えたのだ。そして霧雨の親父さんに許可を取り、魔理沙にもそれを説明したのだが、魔理沙にわかるのは霖之助がいなくなる、という事だけだ。
 霖之助は魔理沙が幼い頃から共に居た、言うならば兄のような存在だ。それがいなくなる、と言われれば嫌だったのだろう。


「…んー…魔理沙。駄目だよ。我が儘言って霖之助を困らせちゃ」
「だってっ!」
「霖之助はね? 自分の夢を追いかけたいんだって。それを邪魔されるのは嫌だよね? 魔理沙」
「…ぅ…」


 その橙の説き伏せるような言葉に魔理沙は言葉を詰まらせた。魔法使いになる、という夢を持っている魔理沙だ。それを邪魔されたら魔理沙は嫌だ。
 だから霖之助も嫌だ。それがわかれば魔理沙は泣きそうな顔で沈黙してしまった。それに霖之助は気まずそうな顔を浮かべる。


「…魔理沙、僕は…」
「…こーりん、いえでするのはゆめをおいかけるから?」
「…うん。そうだね」
「……だったら…がまんする。だけど! …たまには、かえってきてね?」
「…うん」


 魔理沙の言葉に、霖之助は苦い笑みを浮かべて頷く。魔理沙は霖之助の返答を聞けば、橙の腕から逃れて霧雨店の中へと戻っていってしまった。
 橙が思わず追いかけた方が良いか、と考えるが、恐らく泣いているのだろう。今はそっとしておくのが良いかもしれない、と橙は思う。
 ふぅ、と小さく息を吐いて橙は未だ地に腰を下ろしていた霖之助に手を差し伸べる。霖之助は、すまない、と小さく呟いて橙の手を借りて立ち上がった。


「…大丈夫?」
「痛くは、ないさ」
「…理由」
「…」
「あれだけじゃないんでしょ?」


 夢を追いかける。その理由も確かに霖之助の願いなのだろう。それはきっと本心だ。
 だが、橙はそれだけじゃないだろう、と睨んでいた。霖之助が自分の店を建てると決意した経緯は。


「…そう、だね」
「…そっか」
「…橙」
「…何?」
「…君は、怖くないのか?」
「…何がさ」
「魔理沙は人間だ。霧雨の親父さんだって人間だ。…すぐに老いる」


 霖之助の言葉には苦渋があった。その苦渋は、橙にも理解が出来た。霖之助が言っているのは、人間と妖怪の時の流れの差異だ。
 人間の寿命は妖怪の寿命と比べれば余りにも早く流れていってしまう。それは橙もよくわかっている。人は明らかに自分たちよりも先に死んでしまう。


「…僕は、駄目だ。耐えられない」


 霖之助は半妖だ。妖怪でもなく、人間でもない。それ故、霖之助は親しき者が少ない。橙とて霖之助が過去にどのような生活をしていたのかなど、知る事はない。
 だが、きっと楽な生き方ではなかったのだと橙は思う。だがそれが変わったのは、霧雨の親父さんが霖之助を受け入れてくれたその時からだろう。
 霖之助は生き生きしていた。自分の趣味に走って、修行して、魔理沙や霧雨の親父さんやその奥さんと暮らし、家族意識が芽生えていたのかも知れない。
 だからこそ…耐えられなくなった。老いる人。老いない半妖。いつか見送ると改めて認識させられた。改めて、時の流れの残酷さを霖之助は思い知らされる事になったのだろう。
 だからこそ、出て行くのだろう。だが…それは目を背ける事でしかない。


「…いつか誰だって死ぬよ」
「…あぁ」
「でも、今すぐじゃない。…それで良いんじゃないかな? 今すぐ出せっていう答えじゃないし、霖之助も一人で考えれば別の考えも出来るかもでしょ?」
「……君はどうなんだい?」
「…私は、もう折り合いつけたよ」


 魚屋の主人の死。千代の死。それらを通して、橙はもう死に対して折り合いをつけた。
 いつか来る事だ。仕様がない事だ。なら、それを受け止められるように、どうか、死に逝く人たちはせめて安らかでいて欲しい。それだけが橙の願いだ。


「不変も永遠も無いよ。いつか、何かが変わるんだ」


 絶対に、と付け加えるように橙は呟くのであった。



[16365] 黄昏境界線 24
Name: 道化◆5a734804 ID:d4ec8ce0
Date: 2010/02/25 09:35
「あら、橙さん。こんにちわ」


 人里の団子屋で一服していた橙だが、ふとそこに声をかけてきた者に橙は眉を寄せた。
 そこに立っていたのは人里では珍しいメイド服を纏った女性、紅 美鈴であった。
 紅魔館、その主であるレミリア・スカーレットが幻想郷に住み始めてから時が流れた。
 橙はそれからというもの、こうして紅 美鈴と顔を合わせる機会が多くなっていた。美鈴はよく人里に買い出しに来るからだ。
 美鈴は妖怪とは思えぬ程、人間味に溢れていて人里でも特に問題を起こす事無く、逆に橙と同様、好意的に見られているようだ。
 別にそれが気に入らない訳じゃないし、別に文句がある訳じゃない。だが、やはりまだ吸血鬼の配下という事で美鈴を橙は苦手としていた。


「…どうも」
「相変わらず素っ気ないですね。あぁ、隣良いですか?」
「別に良いけど…」
「じゃあ、失礼しますね」


 橙の許可を取って美鈴は橙の隣へと腰を下ろし、自分にも団子とお茶を注文している。
 それに橙は小さく溜息を吐き出しながら美鈴を見つめる。口元に浮かべた微笑は彼女の気質を表しているようだ。対して自分は今、どんな顔をしているのだろうか、と考えて気が滅入ってくる。
 わかっている。美鈴が人の良い性格だと言うことは決して悪人じゃないということは。それでも脳裏にちらつく吸血鬼という種族の名が嫌でも橙の眉を顰めさせる。


「そんなに嫌わなくたって良いじゃないですか」
「……はぁ」


 微笑を浮かべながら告げてくる美鈴に橙は大きく溜息を吐き出した。お前が言うな、と正直に思う。まったくもってこの女性は苦手だ。悪人でないくせに、吸血鬼の配下だ。


「…わからない」
「何がですか?」
「紅 美鈴。どうしてお前はレミリア・スカーレットに仕えているんだ?」
「どうして、ですか」


 ふむ、と美鈴は小さく呟いてから悩むように口元に指を当てて眉を寄せている。橙はただ黙って答えを待つ。
 その間に美鈴が注文した団子とお茶が届き、美鈴が一度悩む姿勢を止め、店員に頭を下げる。
 ごゆっくり、と店員が下がっていき、美鈴は団子を一本手に取って、それを橙へと差し出して。


「食べます?」
「いらない」
「そうですか…」


 団子の1つを口に含み、咀嚼し出す美鈴。橙はそれでも美鈴が答えるのを待つ。美鈴がそばに置いてあったお茶を手に取り、喉に通す。
 ほっ、と一息を吐いた後、美鈴はどこか遠くを見つめるような表情になる。団子が美鈴の指によってくるり、と回って。


「簡単に言えば気に入ったからです」
「気に入った?」
「えぇ。レミリア・スカーレットという、その存在が。だから私はレミリアお嬢様に仕えているんですよ」
「……どこが気に入ったんだ?」
「橙さんにはまだわかりませんよ。…わかって欲しいとも言いませんし、ね」


 もう1つ、団子を口の中に含みながら美鈴は橙に告げる。橙は美鈴の言葉を受けて考える。確かに自分は吸血鬼という先入観を持ってレミリアを見ている。
 そこには確かにマイナス要素も入るし、フィルターもかかる。そうすれば見れるものもまた見えなくなってくる。それは橙にとてわかっている。


「…ラクチェ・スカーレットは…何が目的だったんだ?」
「…ラクチェ、ですか」


 ずずっ、と橙の問いかけに美鈴は、その問いの内容である少女の名を呟いた。レミリアの従姉妹にして、スカーレットの眷属。かつて幻想郷に攻め入り、「吸血鬼異変」の発端となった首謀者が一人。
 彼女が何を思い、何を願って幻想郷に攻め入ったのか。そして、何故自分が彼女の目に留まる事となったのか。橙はそれが知りたいと思った。そもそもの確執はそこにあるのだから。
 美鈴は橙の問いかけにしばらく沈黙していた。静かにお茶を飲む音だけが2人の間に響き、静かな時間が流れていく。


「…話して良い事じゃありません。話してあげたいですけど」
「…? どういう意味?」
「お嬢様は多分、貴方に知って欲しい。そして選んで欲しいと思っている。きっとラクチェもそう。…だけれど、私は、貴方を見ててこう思う」


 お茶と団子を一度置いて、美鈴は橙に真っ直ぐと瞳を向ける。美鈴と真っ向から視線を交わし合う事となった橙は美鈴の空気に思わず呑み込まれる。


「中途半端に選んで欲しくない」
「…どういう、意味?」
「貴方は強いし、優しいし、それでいて真っ直ぐ。それこそ人里でも多くの人に好かれるぐらいに。私も好ましく思うわ。だけどね、だからこそ、貴方には中途半端に接して欲しくない。確かに貴方なら可能性はある。だけれど、貴方が中途半端だったらそれは何の意味も為さない」


 はっきりとした口調で美鈴は橙に告げた。橙には、その美鈴の言葉の意味を理解する事は出来ない。だが、彼女が何を求めているのかは朧気ながら理解出来た気がする。


「…貴方が私達を疎ましく思うならそれで良い。私はそれで良いと思う。お嬢様やパチュリー様はどうかはわかりませんけど、それでも私は今のままなら知って欲しくもないし、知って中途半端に掻き乱されたくも無いです」


 だから、と美鈴は口元に微笑を浮かべた。優しい微笑だ。


「もっとお嬢様とお話してください。そして、貴方が何か見えて、そしてお嬢様に対する感情が変わってくれたらな、って、私はそう願うだけですから」





 + + + + +





「――で、ここに来たと?」
「…そうだけど」
「…何というか、本当に真っ直ぐだな。お前は」


 くくっ、と喉を鳴らして笑うのはレミリアだ。ここは紅魔館。レミリアの対面に座るのは橙だ。
 美鈴の言葉を受けて、悩んでいた橙だったが美鈴に誘われ、「話せばわかるかもしれない」と言われれば気にならない訳がない。
 結局、悩んだ末、橙はこうしてレミリアの下へと遊びに来ている。最初はそんな橙にレミリアも呆気取られていた事が、今ではこうして笑っている。


「なるほど、八雲 紫や八雲 藍が神経質になる訳だ」
「…? 紫様と藍様がどうしたって?」
「何でもない。……しかし、お前の性根が真っ直ぐにしても解せないな。どういう風の吹き回しだ?」
「…ずっと気になってたんだ。ラクチェ・スカーレットが何に執着して、私に何を見いだしたのか。それがずっと気になってた。ラクチェ・スカーレットが何かを求めていたのは確かで、アイツは私に興味を示していた。…それが気になってたんだ」


 橙は思う。自分に関わる事だ。何も知らないままでは奇妙だし、不思議で、不気味だ。しかもレミリア・スカーレットという彼女の血族で、同じく橙に興味を抱いている彼女が現れたこそ、尚更に。
 話せばわかるかもしれない。嫌いだと、苦手だと、会いたくないと避けていたが、別に敵対している訳でもないし、あちら側も紫と交わした協定を破るつもりは無いだろう、と思っていた。
 破るつもりならとっくに破っているだろうし、初見で橙とレミリアは殺し合っていたかもしれない。だが、こうして橙はレミリアと対話出来る関係にある。2人の互いの仲はともかく、だ。


「…そう、か」


 橙の言葉に、レミリアは思い馳せるかのように目を細めて、何かを見つめるようにした後、瞳を閉じた。
 橙は黙ってその様子を見ていた。2人の間に沈黙が満ちる。橙は気まずさを回避するかのように美鈴が用意していった紅茶を口に含んで。


「…私とラクチェの願いが同じだとしたら、お前はどうする?」
「どうする、って言われても目的事態知らないし、内容次第。それで決める」
「ははっ、それもそうだな。…それも、そうだな」


 最初は笑い飛ばしていたレミリアだったが、すぐにその勢いは衰え、今にも溜息を吐き出してしまいそうな程、レミリアが顔を俯かせた。


「…ラクチェは」
「……」
「…ずっと悔いてたんだ。自分に何も出来ない。何もしてやれない。無力のまま引き下がる事しか出来ず、それでも引き下がれなくて、命を投げ出して良いとまで、あんな事までして、ボロボロになって帰ってきた」
「……」
「…きっとな。私も、そうすると思う。それが必要なら。そうする事で、望むものが全てこの手に掴めるなら…」
「…例え、幻想郷を乱しても?」
「必要があるならする。だが、もう必要無い」
「……私の何が必要なの?」


 手に持っていた紅茶を机に戻しながら、橙は真っ直ぐにレミリアへと視線を向けた。ここまで来れば、理解が出来なくても察する事は出来る。レミリアやラクチェは何かが目的があった。そして、その目的の達成の為に必要なのは自分なのだと。
 レミリアは視線を橙へと向ける。2人の視線が絡み合い、互いを見据え合う。何かを見定めるように。見極めるかのように。


「…その真っ直ぐさだよ。お前の、な」


 羨望するかのような視線で、レミリアは橙を見て、皮肉めいた笑みを浮かべた。





 + + + + +





 レミリアとの対話を終え、橙は紅魔館の廊下を歩いていた。美鈴から言われた事、レミリアから言われた事、2人から得られた言動を纏めて自分に何が望まれているのかを推測する。
 美鈴は言った。可能性がある。だが、中途半端では意味がないと。
 レミリアは言った。何を犠牲にしてでも得なければならない。必要なのはその真っ直ぐさ。
 やはりよくわからない。だが、それはレミリアにとっては何を引き替えにしてでも得たいものであり、ソレを得られる可能性を持っているのは橙。しかし、そこに橙の迷いがあっては意味が無いという。
 わからない。橙は溜息を吐き出して憂鬱げに廊下を歩いていく。するとふと、橙の目の前に一人の少女が映った。
 壁に背を預け、手を組んで立っているパチュリーであった。橙は彼女の姿こそ見たことあるが、話した事は無い。見かける事も少ない。だからこそ、少し驚いたように彼女を見つめてしまった。


「…貴方は」


 パチュリーはジッ、と橙を見ている。橙を視界に収めながら、何かを見定めるような視線だ。それは先ほどレミリアが橙に向けた視線と同種のものだ。
 そしてパチュリーは何かを口にしかけて、そして結局言い淀む。何が言いたいのかわからない。紅魔館の面々は皆そうだ。
 一体何なのか、と聞こうとしたその時だ。
 紅魔館を揺るがすような轟音が聞こえた。それに橙は耳を押さえて鼓膜を震わせるその音に耐える。
 暫く橙は警戒するように周囲を見渡していたが、轟音が聞こえた以外は何も起きない。今の音は一体何なのか、とパチュリーに視線を向けて。


「…知りたい?」


 橙を見つめるその瞳は、熱が篭もっていないかのようにただ冷ややかなものだ。


「覚悟はあるの? 下手したら…死ぬわよ」
「……どういう意味?」
「中途半端では、何も得られないし、結局同じ事の繰り返し。貴方は、また繰り返しかしら? それとも…今度こそ…」


 段々と小さくなっていくパチュリーの声。そして彼女は最後まで橙に何も聞かせる事無く、その背を向けて歩き出し、行ってしまう。
 その背中を見送りながら、橙はゆっくりと拳を握りしめ額に当てる。わからない。彼女達が何を自分に望んでいるかわからない。
 ただ、橙にわかるのは…――――その顔が、酷く悲しそうに見える事だけだ。





 + + + + +





 橙にとって、レミリアとは命を賭けて良い存在ではない。パチュリーの言葉が本当だとするならば、レミリアの望みは最悪自分を殺す。
 ならば、関わるべきではない、と橙は判断する。レミリアに命をかける理由は無い。命を賭けるとするならば紫や藍の為と決めている。それ以外の為にその命を散らすつもりは無い。
 だから、忘れるべきだ。美鈴も言った。中途半端では意味が無いと。こんな様では関わるべきではない。だから忘れろ、忘れてしまえば良い…。


「…橙?」
「…藍様」
「何か悩み事か?」


 八雲邸の縁側、そこに座って橙は考え込んでいた。そこに藍が歩み寄ってきて、橙の隣に腰を下ろした。
 橙は藍へと視線を向けていたが、ふと、その視線を逸らして視線を地面へと向ける。別に何かを見ている訳ではないが、顔が下がった為に地面を見ている。
 少し背を曲げ、手を握り合わせて自分の口元に持っていく。肘が足の膝の上にのるような体勢となる。
 藍は手を支えに少し後ろに体重を乗せて空を見上げている。2人はそのまま、何か話す訳でもなく各々に見ているものを見る。


「…藍様」
「何だ?」
「……すいません。…どう、言えば良いかわからないんです。悩んでるのは確かなんですけど、だけど、相談する事じゃないっていうか、何を相談すれば良いのかわからなくて…」


 組んでいた手を解いて、思わず首の裏を掻きながら橙は言う。自分でもよくわからない。どうすれば答えは出るのだろうか? 自分はどうし、どうすべきで、どうしたいのか。
 何を相談すれば、答えが貰えるのだろうか。何をどうすれば、この悩みに終わりを見いだせるのだろうか?
 グルグル廻って、グルグル悩んで、それでも見つけられなかった。今も見つからない。
 橙の言葉を聞いていた藍は、ただ沈黙する。橙も別に藍からの返答を期待している訳じゃない。自分でも問題に出来ない事に答えを貰う事など出来ないのだから。


「…お前は、さ」
「…はい?」
「…馬鹿だな」
「…え?」
「相談出来ないんじゃなくて、もう答えはある。だけれどそれを選んで良いのかどうか迷ってるんじゃないか?」
「え?」


 藍の言葉に、まるで意外な事を言われたように橙は呆気取られたような顔をして藍を見る。藍は空を見上げたままで、橙に視線を向けない。


「悩みは、レミリア・スカーレットの事か?」
「……はい」
「…だと思った。アイツ等は何かをお前に期待しているようだな。だから、お前に何かと接触しようとしていたのは知っている。…知っているさ」
「…藍様」
「…何故だ? 橙。どうして、お前は…アイツ等の事を快く思っていなかっただろう? なのに、何でなんだ? どうしてお前は疎ましく思う奴でも、苦しんでいたり、何かを求められたら応えてあげるべきかどうか悩めるんだ?」


 藍はそこでようやく、橙へと顔を向けた。その顔は、切なそうに、苦しげに歪められていて。


「…藍様、私は…」
「…思ってないとか、そんな嘘は私には通用しないぞ。そうとわかってなくても、お前はそうやって考えてる。いつもそうだ。子供達と遊ぶ時だってそうだろう。魚屋の主人の時だってそうだろう。どれだけお前を困らせても、どれだけお前を怖がらせても、お前はいつだって真っ直ぐに、正面から付き合おうとする」


 藍の言葉に橙は否定出来なかった。いつだって橙は真正面だ。真っ直ぐに、子供達が喜びそうな事を考えて遊んであげて、困らせてきても、それでも真っ直ぐに怒る。
 魚屋の時も、どれだけ怖がっても、真っ直ぐに真正面から謝りに行った。常に真正面で真っ直ぐだというのは自分でも否定出来ない。


「…なぁ、橙。…私は時々怖くなるよ。お前はいつかそのまま手の届かない場所まで行ってしまいそうで」
「…藍様」
「どうしてなんだ? 橙。お前はどうして…そんなに優しいんだ? どうしてそんなに悩めるんだ? どうしてそこまで真っ直ぐでいられるんだ?」


 わからない。理解出来ない、と藍は首を振って橙に問いかける。どうしてそんなにも真っ直ぐでいられるのか、どうしてそんなにも優しく居られるのか。藍には理解が出来ない。
 だからこそ怖い。その優しさがいつか橙をどこかへと連れて行ってしまうんじゃないかと。いつかの時のように、またこの繋がりが途切れてしまうのではないか、と考えるだけで恐ろしい。
 藍の言葉に橙は、何と言えば良いのかわからなかった。自分はそこまで優しいのだろうか。私は…。私は、と橙は考えて、ゆっくりと自分の考えを纏めていく。


「…一度、死んだつもりでした」
「……」
「「私」が死んで、今の私になって…それで全部無くして、一人になって、その中で足掻かなきゃいけなかった。…それが、酷く辛かった。怖かった。いつだって死に怯えて、必死で生に食らい付いていました」
「…あぁ」
「もう失うのが嫌で、藍様と紫様に拾われて、2人と家族になって、それが幸せ過ぎて、だからもう何もかも取りこぼすのが嫌で必死でした。それでも、結局魚屋のおじさんは死んでしまって、千代さんが死んで、思ったんです。仕方ない事はどうしようもないんだ、って。いつか終わりが来るから。人も、妖怪も、いつか死んでしまう」
「…そうだな」
「前は、そうならなきゃいけなかった。そうしなければ恐ろしくて、怖くて、どうしようもなかった。だけど今は…後悔したくないから、向かい合うんです。私が全力で向かい合える事と。もう二度と、後悔は残さないと。それでもきっとたくさん後悔は残してしまうと思います。私の手は余りにも短くて、狭い」


 橙は自らの掌を見る。世界に比べれば、この掌の大きさなどどれほどの大きさなのだろうか。そう考えながら、そっと橙は手を握りしめて。


「…だから、いつだって最後まで全力でやって、それで、後悔しても、全力でやったんだって。そう思えなきゃ…もう、駄目みたいです。じゃないと、もう私じゃないみたいです。失い過ぎて、もう、そうしなきゃ駄目なんですよ」


 絶対後悔は抱える。どれだけ幸福な事があっても、絶対100%満足する事なんて出来ない。そんなのわかってる。
 だけれど、100%満足出来なくても、1%でも良い。少しでも満足出来るように。少しでも後悔が少ないように。
 あぁ。そっか。私は、後悔したくないんだ。


「レミリアは、私に何か願ってる。何もかも壊しても良いぐらいに思う程、大事なものの為に。私はそれが凄いと思うし、出来れば報われて欲しい。他人の後悔でも、私はそれでも減らしたい」
「……」
「泣いてる顔は、嫌いなんですよ。全ての悲しみは癒せないけれど、私の目の前で見える泣き顔が1つでも減って欲しい。そう、心の底から思うんですよ」


 万感の思いを込めて、橙は告げる。そう、これこそが自分の行動原理だと。全ての柵を振り解けばこれが橙に残るただ1つの信念。
 後悔しない。ただそれだけの為に。楽な道じゃない。自分に甘えない。妥協しない。いや、橙の場合はそれが出来ない。知るが故に。それを恐れるが故に。


「…あぁ…」
「……」
「だから、馬鹿だと言うんだ…」


 藍は顔を俯かせ、その両手で顔を包むかのように隠して呟いた。その肩が小さく震えた。
 馬鹿だ。あぁ、この馬鹿猫が、と。何度も、何度も馬鹿だと繰り返す。後悔しない生き方なんて絶対に出来やしない。そんなの叶わない理想だ。
 それでも、その理想を追う事しか出来ない橙は、あまりにも馬鹿だ。そんなの叶う訳が無いと知っているのにそれでも追っていこうとする。その存在が歪が故に。死の理を得ても尚、生き続けるが故に。
 余りにも…そう、余りにも、生きる事に価値を見いだしすぎている。それは幸せだ。そして、それは不幸だ。何故ならば幸福と不幸は表裏一体なのだから。


「…馬鹿が…」


 声が震える。自分がどれだけ心配したって、それでもこの子は飛び出していくんだろう。…最悪、いつかそのまま消え入ってしまう。あの日のように。
 わかっているから歯痒い。わかっているからどうしようも無く辛い。だけど、それは今が幸せだから、こんなにも辛い。


「…藍様」


 そっと、橙は戸惑ったように藍に近づき、自らの肩を藍へと預けた。瞳を閉じて、藍の存在をもっと感じようとするかのように。


「…大丈夫です。私は…藍様と紫様にする後悔だけは、絶対に残さないから」
「……橙」
「他のことも、後悔するのは嫌だけど…藍様と紫様は、私の特別だから」


 だから。


「心配かけるけど、この誓いだけは、何があろうとも果たしてみせます」


 笑みを浮かべる。満面の笑顔だ。その誓いだけは絶対に裏切らないと藍に、そして紫に橙は誓う。
 藍はまた、肩を震わせる。手は下げられたものの、肩を預けた橙に自分も体重をかけて互いに支え合うように肩を預け合う。
 藍の顔が橙の肩に乗り、橙の耳元まで口を持っていき、藍は呟くように告げた。


「……約束だぞ」
「……はい」
「……なら、待っていられるから」
「……はい」


 それ以上の言葉は無く、ただ暫くの間、藍と橙はそのまま互いに肩を預け合う。言葉は無く、互いに互いの存在を感じ合うように。





 + + + + +





 いつも通りの朝が来る。橙が朝食を作り、それを藍と紫の三人で食べて、藍が結界の巡回に出かけていく。
 藍を見送った橙も、自らも出立の準備を始める。今日の目的地はもう決めている。身だしなみを整えよう、としたその時だった。


「橙」


 自らの名を呼ぶのは、紫だった。彼女はいつになく真剣な顔で橙を呼んでいた。
 何だろうか、と橙が紫の下へと来ると、紫は橙に服を差し出した。それは一着の服だ。いきなり差し出されたそれに橙は戸惑いながらも紫へと顔を向けて。


「…あの? 紫様、これは?」
「着てみなさい」
「…え? あ、はい…」


 橙はいきなり紫が差し出してきた服に少々戸惑いながらも着替える。
 その服のデザインはどことなく藍と似た服で、色は朱色。腰には帯を巻いて絞める。服の裾は前が開き、左右と後ろに軽く広がっている。前の裾の長さはふとももほどまでで、左右と後ろの裾の長さはおよそ膝ぐらいまで。
 全体的に洋風と中華風を混ぜ込んだようなデザインになっている。肩口から袖がなく、腕が剥き出しになっている。
 下は膝ぐらいまでのハーフパンツで、藍の服を動きやすくデザインし直したもののように橙は感じた。
 最後にいつも帽子を被り、着心地を確かめた後、橙は紫に着替えた事を伝え、その姿を紫に見せる。


「あの、着替えましたけど」
「うん。似合うわね」


 紫は橙の格好に満足げに頷いたあと、再び表情を真剣なものへと変え、橙、と名を呼ぶ。
 はい、と橙も居住まいを正して紫を真っ直ぐに見据えて応える。しばらく紫は橙の見つめ、沈黙していたが、そっと息を吐き出して。


「貴方に、八雲の姓を名乗る事を許します」
「…え?」
「その意味を良く考え、今後、八雲の姓に恥じぬよう己の行動を顧み、そして…貴方の思うように生きなさい。八雲 橙」


 真剣な表情を少し崩し、淡い笑みを浮かべて紫はそっと橙の肩を優しく叩いて、その額に触れるだけのキスをする。
 その触れ合いは一瞬の事、やや茫然としていた橙に紫は、今度は満面の笑みを浮かべ。


「行ってらっしゃい」


 たった一言、それだけ橙へと告げた。
 橙はようやく悟る。この服は証。姓を受け取ったその証、その転機としての贈り物。
 かつて、自分が橙と名を頂いた時のように。今度は、その姓を頂く。橙が、今度は「八雲 橙」へとなるその祝いに。
 そして、その一言に紫がどのような意味を込めたのかも、身に染みるようにわかった。行ってらっしゃい。それに返す言葉は1つしかない。


「行ってきます」


 そして、この後、必ず告げなければいけない言葉もわかっている。
 ただいま、と。この家に帰る為に。この家族の下へと帰る為に。家族の印に。認めてくれたその証に。
 今、私は八雲 橙となる。その意味を改めて、噛み締めて。此処こそが、私の帰る場所なのだと改めて刻みつけた。



[16365] 黄昏境界線 25
Name: 道化◆5a734804 ID:d4ec8ce0
Date: 2010/02/24 13:18
 ゆっくりと門が開く。その門が開く様を橙はジッ、と見つめていた。門が開いていけば、そこに見えるのは紅に染められた館、紅魔館がある。
 その紅魔館の入り口には一人の女性が立っていた。美鈴だ。彼女は門が開いたのを確認すれば、入り口から門へと歩を進め、橙の前へとやってくる。


「…橙さん」
「…覚悟、決めてきたよ」


 静かに橙を見つめる美鈴。その美鈴に対して橙は笑みを浮かべて答えた。それに暫し、美鈴は橙の顔を見つめていたが、ふと、その表情を和らげて一礼した。


「お待ちしていました。お嬢様がお待ちです」


 うん、と美鈴の言葉に橙は応えるように頷く。一度瞳を閉じ、そして紅魔館を見つめ直した。彼女が待っている。レミリアが。
 何かを強く切望して、自分を待ち望んでいた彼女が。橙はレミリアをよく知らない。だからこそ、それがどれだけ強い思いなのかは例えで計ることしか出来ない。
 だけれど、その思いの強さは少なくとも理解出来ると思っている。あぁ、だからこそ、と橙は呟きを心の中で零して。


「行くよ」





 + + + + +





 紅魔館の廊下を美鈴の後ろを付いて歩いていく。一度見た風景だ。別に特に気に留めること無く橙は美鈴の背を追って歩いていく。
 ふと、美鈴が足を止めた。それに橙が美鈴の背にぶつかり、わぷ、と間抜けな声が漏れた。ちょっとした痛みが鼻に来て、橙は鼻を押さえながら美鈴を見た。


「ど、どうしたの? 急に止まって」
「…いえ。お嬢様のところに行く前にちょっと言っておきたいことがありましたので」
「…何?」
「本当に、ありがとうございます」


 美鈴は橙に腰を曲げて頭を下げ、礼を告げてきた。そのいきなりの美鈴の礼に橙は目を丸くし、思わず戸惑う。
 何故なら橙には美鈴に頭を下げられる理由が思い当たらないからだ。だから戸惑って美鈴を見ていると、美鈴は顔を上げる。
 そこにはどうしようもなく、申し訳なさそうな顔をした美鈴がいた。その表情に橙は眉を寄せる。どうも美鈴が何を考えているのか読めない、と。


「…美鈴?」
「…ごめんなさい。私は…不器用ですから」
「…? うん…。よく、わからないけど」
「…お嬢様を、よろしくお願いします。だけど、橙さんの自由にしてくださって結構ですから。きっと、それが正しいと思いますから。貴方ならきっとそれを選べると思います。…本当、すいません」
「…さっきから、よくわからないけど…」
「良いんです。きっと、すぐにわかりますよ」


 先ほどまでの申し訳なさは消えて、美鈴は前を向いて再び歩き出す。橙は美鈴の態度と言葉に疑問を思いながらもその背をついて行く。
 不器用だと自分を称した彼女。とてもそうには見えないが、一体何が彼女は自分が不器用だと思わせているのだろうか? それに言葉の意味もよくわからない。すぐにわかる、と言われているから黙っていられるが、正直問いただしたい。
 有耶無耶にされるのは気分が良いものじゃない。だが、何となくわかるものがある。それは…美鈴も何かと葛藤しているのだと。それだけは、なんとなくわかる。


(…っていうか、紅魔館の皆はそうだよね)


 妖精達は別とするが、レミリア、美鈴、パチュリー。彼女たちはそれぞれ何か抱え込んで、それと葛藤しているような印象があると橙は思う。
 口にしたいけれど、それが出来ない。もしくは形に出来ない。言葉にすることが出来ない。そんな印象を受けた。それが自分が原因なのか、それとも本人の中のものなのかは橙は知らないが。
 だが、それもきっともうすぐわかるのだろう。それを問うために自分はここに来たのだから。
 そして、美鈴がレミリアの私室のドアをノックした。レミリアの声が聞こえ、美鈴がドアを開けた。どうぞ、と先に橙をレミリアの部屋へと通し、自らの部屋へと入り扉を閉めた。
 レミリアの部屋にはレミリアだけではなく、パチュリー、そして橙は見たことが無い赤い髪の少女が居た。蝙蝠のような翼を持っていることからか、吸血鬼かとも思ったが、耳にも翼が付いていてどことなく印象が違うような気がした。
 それが気になりつつも橙はレミリアへと視線を向ける。レミリアは対面の席に座るように橙に促す。橙はそれに習い、レミリアの前に座って。


「…さて、さっそくだけど、話を聞かせて貰うよ」
「いきなりだな。…何が聞きたいんだ?」
「ラクチェ・スカーレットの目的。レミリア達の目的。私に何を望むのか、その全てを」


 橙はまっすぐにレミリアを見据えながら問いかける。その視線にまた、レミリアも真っ向から視線を受け止め、暫し見つめ合う。
 どれだけの間を置き、ようやく動きを見せたのはレミリアだった。まるで肩の力を抜くように息を吐き出し、机の上に肘をつけ、顔の前で手を組み、額に押し当てる。瞳を閉じてもう一度ゆっくりと息を吐き出して。


「…お前には、会って欲しい者がいる」
「…誰?」
「私の妹だ」
「妹?」


 妹が居たのか、と純粋な驚きもあったが、橙は怪訝そうな表情を浮かべてレミリアを見つめた。レミリアの真意を計ろうと橙はレミリアをまっすぐに見つめていたが、レミリアはふと、顔を上げる。
 そこにはいつもよりも険しい顔つきのレミリアがいた。橙は少し眉を寄せながらレミリアを見つめて。


「…その妹って、どこに居るの?」
「地下室だ」
「…地下? 何でまた」
「あの子は外に出せないんだ。…理由があってな」
「…理由?」
「あの子の異能、お前の「反発」のようにあの子も異能を持っている。その異能があの子自身を傷つけるからだ」


 レミリアの言葉に、橙はようやくばらばらになっていたパズルが組み合わさるかのように情報が整理出来るようになってきた。
 レミリアやラクチェの目的。それはレミリアの妹が関わっているのだろう。そしてそのレミリアの妹は何かしらの異能を持っている。だが、その異能故に彼女は外に出ることが出来ない。
 それをおそらくラクチェが「封を施す程度の能力」で押さえつけていたのだろう。しかし、ラクチェではその力が足りなかった。つまり、現状が打破出来なかったのだ。


「…どんな能力なの?」
「……「ありとあらゆるものを破壊する程度の能力」だ」
「…それは、ずいぶんとまた」


 なるほど。それじゃ確かにラクチェ・スカーレットの能力では駄目だ。一度見たことがあるし、経験した橙だからこそわかる。ラクチェ・スカーレットの能力は確かに異能持ちには効力を発揮する。
 だが、異能を自らの異能で食い破る相手とは逆に相性が悪い。力関係で言えばラクチェは確かに妖怪としての強者の部類に入るが、橙には関係ないし、おそらくはレミリアの妹の方がラクチェよりも格が高いのだろう。
 それではラクチェ・スカーレットの能力ではイタチごっこにしかならない。だからこそレミリアの妹は外には出られないのだろう。ありとあらゆるものを破壊するその能力を抑えられる存在が居ないから。
 ありとあらゆるものを破壊する程度の能力を持つ存在がそこら辺をうろついているとわかればそれこそ恐怖だろう。正直、ゾッとするし、心臓にも良くない。


「妹さんは能力を自分でコントロール出来ないの?」
「…出来ているならこんなに悩まない」
「私は妹さんの能力がコントロール出来るように付き添って欲しい、って言ったところ?」
「…そういえば、そうなのかもな」


 橙から視線を反らし、レミリアは苦い声で呟いた。その態度に橙はふぅ、とため息を吐いた。これは確かに自分じゃないと出来ないだろうな、と思う。
 普通ならばここで冗談じゃない、と席を立つだろう。破壊の能力を持つ存在と誰が好んで顔を合わせたがるか。以前の自分なら冗談じゃないと言葉を叩き付けて紅魔館を後にしただろう。
 だが、異能故に苦しんだのは自分も同じだ。その苦しみを知っているからこそ、レミリアの判断もわからない訳じゃない。…事実、一度自分は紫に殺されても良いと、死んでも良いと言われたことがある。だがそれは自分を思ってくれての言葉だ。レミリアもまた同じなのだろう。


「で? その妹がいる地下ってどこさ?」
「…良いのか?」
「帰って欲しいの?」
「いや…それは…」
「だったらさっさと案内する」
「あ…あぁ…パチェ。頼む」
「…わかったわ」


 わかる。だからこそ放っておけない。泣き顔を見るのは嫌だから。そして望まれたから。
 何か出来るなら何かしよう。自分に出来る事をしよう。それで良いんだ。橙は瞳を閉じ、軽く息を吸ってから自らも席を立ち、パチュリーの後に続いてレミリアの私室を後にした。
 橙とパチュリーが出て行ったレミリアの私室に残されたのは3人。レミリア、美鈴、そしてパチュリーの使い魔の小悪魔だ。


「…なんか、あっさりと協力して貰えましたね」


 自らの主人が案内していった橙の事を思いながら、小悪魔は小さく呟いた。
 あぁ、とその声にレミリアはどこか気が抜けたように呟きを返す。どこかぼんやりとした様子のレミリアに美鈴は視線を向けて。


「…どうしました?」
「…別に」
「別に、なんて言える顔じゃありませんよ。気になりますか?」
「ならない訳がないだろう……」


 椅子が軋む音を立てさせながらレミリアは背もたれによりかかって体勢を崩す。そこには疲れ切ったレミリアがいた。レミリアは自らの両手で顔を覆うかのように隠し、瞳を閉じる。


「…上手く、いくかな」
「…さぁ。まだわかりませんよ。ただ上手く行って欲しいとは思いますけどね」
「……そうか」
「大丈夫ですよ。少なくとも私はラクチェの時のようにはならないとは思いますから」
「…あぁ」


 そうだな、とレミリアは小さな声で呟きを返す。そのレミリアの様子に美鈴はそっと嘆息し、目を細めた。
 確かに、と美鈴は心の中で呟く。ラクチェの時のようにはならない。それだけは絶対に言える。きっと上手くやるだろうという未来も想像出来る。


「…それが、最良の未来だとは限りませんけどね」


 誰にも聞こえない声量で美鈴は呟いた。ここから先がどうなるかなど、もうわからない。レミリアにとって、パチュリーにとって、自分にとって。そして…「あの子」にとってどんな未来が来るのか。
 既に賽は投げられてしまったのだ。どうなるのかなど自分にはわからないと。だが、きっと悪くない未来にはなる。だが、良い未来が来るとは言い切れない。
 だがそれでも、美鈴の答えは1つだ。それを思い、美鈴はそっと瞳を伏せるのであった。





 + + + + +





 かつん、かつん、と音が響く。地下へと続く道。廊下は薄暗く、蝋燭の明かりだけが頼りだ。
 先を行くパチュリーの背を追う橙。パチュリーは何も言わず、ただ前へと進んでいる。その沈黙が橙には少々堪えがたかった。


「…パチュリー・ノーレッジ」
「パチュリーで良いわ」
「…なら、パチュリー。レミリアの妹ってどんな子なんだ?」
「……子供よ。簡単に言えばね」
「…子供、ね」


 何気なくかけた話題も繋がらない。何を話してもパチュリーは鬱陶しげに返答を返すような気がして話題を振る気にもならない。
 そのまま、ただ地下の道を行く沈黙の時間が流れる。だが、その沈黙は意外な事にパチュリーによって破られる事となる。


「…私は」
「…ん?」
「…レミィが笑っているならそれで良いわ。レミィには恩があるし、これでもあの子の親友だと自負してるし。だから」


 パチュリーは一度足を止めて、橙へと振り返る。その表情はいつものような眠たげな無表情だ。
 だが、その表情が少し崩れる。眉を寄せ、何をどう言えば良いのかわからない、と言った表情で。


「……お願いするわ」


 その一言だけ告げた。
 告げ終わればパチュリーは橙に背を向けてしまった。その仕草に橙は溜息を吐き出す。


「…皆、不器用だね」
「…うるさいわね」
「美鈴も、レミリアも、パチュリーも、皆不器用だ。最初からそう言えば、最初から私だって悩まなかったんだ」


 無駄に回りくどくするから、こっちだって警戒するし、疑問に思うし、怪しんだりする。だけど蓋を開いてみればなんて事無い。
 かつてを思い出す。自分が魚泥棒をしていた時の記憶が蘇ってきた。あの時、事情を説明して魚屋に魚を請えば自分は盗みをする事などなく、魚を得る事が出来ただろうか、と。
 でも結局自分は盗みを働いて、様々な経緯を経て、八雲 橙へと到っている。それに不満もないし、不幸だとも思わない。
 だがその時と同じなのだと思う。もっと良い方法があるのにそれを選ばなかったのは、知らなかったのか、それとも諦めていたからなのか。それとも別の理由か。
 だが橙にとっては、そんな事はどうでも良い。見返りはいらない。そもそも求めてなどいない。今生きている。それだけで満足しているのだ。後は、その命を最後の時まで後悔無く突き進ませるだけだ。


「任せなよ。出来る限りの事はやってみせるからさ」


 それが私の生きる意味だから。内心でそう呟き、橙はパチュリーの肩を優しく叩いた。





 + + + + +





 暗い、暗い部屋。日の光も差し込まぬ闇の部屋の中。ただその闇の中に住まう者にとって闇とはまったく見えない世界ではない。
 かといって光の下にいるよりは見にくいのだが。その闇の中でただ蹲る影は瞳を伏せて、何も見ず、何も聞かず、ただ、ぼんやりと時間だけが流れていく。
 そこは、云わば牢獄。この闇の中に潜む者を閉じ込めておくための、そして同時に、守るための…。
 闇の中で歌を歌う。それしか知らない歌を歌う。ベッドの上で膝を抱えて。ただ孤独に歌う。
 だが、その歌がふと、唐突に止まった。ゆっくりと、その闇を作り出していた部屋に灯りが差したからだ。誰だろうか、とこの部屋の主は光差す方を見つめた。


「――やぁ」


 聞こえた声は少女の声。聞いたことの無い声だ。声をかけてきた見知らぬ少女はゆっくりと部屋の中に足を踏み入れてジッ、と部屋の中の主を見つめる。
 再び光が閉ざされ、部屋は闇の中に沈む。その闇に沈んだ部屋の中で、部屋の主が見せる表情は警戒の色だ。睨むかのように部屋に入ってきた少女へと視線を向けて。


「…誰?」
「八雲 橙」
「…ヤクモ チェン…?」
「君は?」
「…え?」
「君の名前を教えてくれるかな?」


 知らない名前に首を傾げていると、少女は優しげな声で名を問うてきた。いつかの記憶が蘇ってきそうになり、思わず意識がブレそうになる。
 いけない、と一瞬首を振って衝動を堪える。駄目だ、と自分に言い聞かせて部屋の主は、そっと己の名を口ずさんだ。


「…フランドール・スカーレット」
「フランドール・スカーレット…。じゃあ、フランで良いかな? 私は橙で良いよ」
「…いや、あの…」


 どうしよう。この部屋の主にして、この館の主人、レミリア・スカーレットの妹、フランドール・スカーレットは困惑を露わにした。
 ここに閉じこめられ長い月日が過ぎ去った。いつの日か傍にいてくれた教育係を追い出して以来、この部屋に踏み居るものは居らず、孤独に時を過ごしていた。
 それが再び破られた。それを破ったのは、八雲 橙と名乗る少女。良く見れば猫の耳と尻尾があるのが見える。猫の妖怪なのだろう、というのがわかるが重要なのはそこではない。


「…貴方何なの? ここに何をしに来たの? いや、そうじゃない。そもそもどうしてここに入れたの? お姉様は? 美鈴は? パチュリーは?」
「んー、一度に質問されると困るけど、私は八雲 橙。簡単に言えば化け猫だね。ここにはフランとお話しに。ここに入れたのはパチュリーが案内してくれたよ。君のお姉さんの許可を取った上でね」
「…なに、それ。貴方、もしかしてお姉様に騙されたの? 私の事、知らないでしょ?」
「ありとあらゆるものを破壊する程度の能力を持っている事、それ故に閉じこめられている事しか知らないね」
「――――ッ!?」


 フランの困惑は最高潮だ。橙は自分の能力の事を知りながらも尚、この部屋に踏み入ってきた。それに困惑するなという方が無理だ。誰もがこの能力を恐れて自分をここに閉じこめたのだから。
 あの自分の教育係を務めていたラクチェでさえ、自分の能力で抗えるからこそこの部屋に踏み入ってきた。だが、この橙というのは自分に何かする訳でもなく、ただ話に来たという。正直、理解しろという方が難しい、と。


「貴方…馬鹿? 自殺しに来たの?」
「そういう貴方こそ…私を殺したいの?」
「な―――っ!?」


 橙の言葉にフランの頭に血が昇る。よくわからない。意味がわからない。理解が出来ない。私の能力を知っている癖に、と。それでもまるで自分が殺されないかのようなその言い方。
 本当にわかっているのか? わかっていてここにいる? じゃあ何でそんな平然としている? あぁ、やっぱり理解が出来ない。


「死にたいの?」
「殺したいの?」
「…ぅっ…」
「…どうなの?」
「…殺さない…」
「じゃあ安心だ」


 クスクス、と何気ない仕草で橙は笑う。先ほど湧いた怒りはどこかへと消え失せ、不気味さが胸を過ぎる。いくら人に触れ合う回数が少ないとはいえ、フランはこの橙という存在が不気味に思えて仕様がなかった。


「さて、何を話そうか?」


 そのフランの様子に何でもないように、橙は笑みを浮かべてフランに声をかけるのであった。





[16365] 黄昏境界線 26
Name: 道化◆5a734804 ID:d4ec8ce0
Date: 2010/02/25 13:56
「フランは何か好きなものある?」
「…特に」
「無いの? じゃあ、好きな事は?」
「…特に」
「そう? じゃあ…そうだねぇ…」


 そこから響くとすればフランの歌声ぐらいだった部屋は今は賑やかに声が響いている。
 声と言っても、明らかに橙が喋っていて、フランがそれに困ったように返答を返しているだけだ。それに橙は特に気にもせずフランに喋りかけている。
 例え答えが益にならないとしても橙はフランとの会話を止める事はない。次は何を質問しようかと考えており、指を唇に当てて悩んでいる。
 一方、話しかけられているフランとしては戸惑うばかりだ。フランは圧倒的に人と話したり触れ合ったりする機会が少なかった。そしてその機会の多くは全てが身内だ。一番長い時間を共に過ごしたのはラクチェだが、彼女はこのように気安く話しかけてくる事はなかった。
 いつも気遣ったように様子を伺いながら話していた。それは私の能力が危険で、暴走するかもしれないから。暴走させてしまうかもしれないから。だが、それが嫌だった。危険なら傍に寄らなければ良い。私はそれで良かった。
 誰かを傷付けるのは確かに嫌いだ。だが、フランの心はそれを許さない。フランの心は大きくブレやすい。感情の起伏が激しいとも言う。怒り、笑い、泣いて。だがそれは時にフランの意志とは裏腹に他者にとっては害になることがある。
 故にフランはどのように人と付き合えば良いかわからない。それが地下に閉じこめられて拍車をかけていたのだ。フランを怖がるように、フランもまた他者が怖い。そしてこの橙というのはその恐怖だけではなく、不気味さも併せ持っている。
 正直、傍に居たくない。理解が出来ないこの存在と。フランという、誰もが恐れた存在を恐れないこの存在を。


「どうしたの?」
「…っ!?」


 ぼんやりとしていたフランだが、ふと自分の目の前に橙の顔があり、驚いたように身を後ろへと下がらせた。その反応に橙は少し驚いたようにフランを見ていたが、少し苦笑を浮かべて。


「ごめん。ビックリさせちゃった?」
「……」
「…あー、なんか私ばっかり話しててごめんね。何か聞きたい事ある?」


 橙は気まずそうに頬を掻きながらフランに問う。だが、フランは睨み付けるように橙を見るだけで何かを問う事は無い。
 それに橙はしばらく黙っていたが、フランは何も聞いてこない。困ったな、と橙は後頭部の髪をかき混ぜるように掻いて。


「…怖くないの?」
「…ん?」
「私が、怖くないの?」


 フランがようやく問いかけてきた言葉に橙は一瞬、目を丸くして。すぐにその表情を笑みに変えて。


「うん」
「…どうして?」
「どうしてだろう?」
「…答えになってない。巫山戯てるの?」
「怖がられたいの?」
「…っ…」
「そうじゃないでしょ? だから、それで良いんだよ」
「良くないっ!!」


 苛々と。フランは橙の顔を睨み付けながら叫んだ。


「何なの貴方は!? 私なんかと話して、何がしたいの!? お姉様の差し金!? もう、いい加減にしてよっ!! 私はここで一人で良いのっ!! 誰も傷つけない、誰も怖がらせない、誰にも怖がられない!! それだけで良いのっ!!」


 はぁ、はぁ、と息を荒らげながらフランは息を吸い込む。感情のままに叫んだ言葉はまさにフランの本音だ。自分なんか放っておいて欲しい、誰も傷つけたくないから。自分が傷つきたくないから。
 もう嫌なのだ。誰かが傷つくのも、自分が傷つくのも。だからここで一人で良いと。この地下室で閉じこもっていた方が良いと。何もいらない。だから何もしないで欲しい。放っておいて欲しいのだと。
 そのフランの叫びに橙は笑みを消してフランを見据えた。フランはその橙の表情に思わず後ずさった。ここに来てから消えることが無かった笑みが消えた。だが、この橙の一挙一動がフランには恐ろしい。


「…そっか」
「……」
「フランは、すごく優しいね。すごく純粋で、すごく傷つきやすくて、ずっと我慢してきたんだね」
「…ぇ…?」


 何を言っているんだろう、とフランは唖然とする。優しい? 誰が? 純粋? 誰が? 傷つきやすい? 誰が? 我慢してきた? 誰が? …自分が?
 わからない。何をどうしたらそんな評価が自分に向けられるのかが心底理解が出来ない。だからフランはやはり橙が恐ろしい者に見えて仕方がない。


「フランは、自分を卑下しすぎだよ。環境が悪い所為もあるし、境遇もあるんだろうけど…フランほど、純粋で優しい子は珍しいと思うよ?」
「……して」
「ん?」
「どうして? どうして、貴方がそんなことわかるの? どうして私にそんな風に思えるの? 私、すぐに物壊すし、人を傷つけるし…」
「それは、貴方の意志? フランは壊したくて壊してるの? 違うと私は思うけど、どうかな?」


 あぁ。
 どうして。どうしてなのだろうか。どうして自分をそんな風に認めてくれるのだろうか。どうして自分をそんな風に思うことが出来るのだろうか。わからない。わかるはずがない。
 誰だって、自分は危ない、自分は怖い、皆、皆そうだった。それだけじゃなかったけど、だけど皆怖い、って思ってた。皆私を恐れていた。どこかにそんな影が見えていた。なのに、どうして。


「…どうして…?」
「ん?」
「どうして私をそんな風に見られるの?」
「私が見ているのはフランだからだよ。私が見ているのはありとあらゆるものを破壊する程度の能力を持つフランでも、地下室に閉じこめられているフランでもない。それを全部含めてそこにいるフランを私は見ている。そしてそう見えたからそう見えた。それだけのことだよフラン。どれだけ危険な能力だって、それはフランの一部で、フランの全てを否定する評価には繋がらない」


 あぁ、やっぱり訳がわからないよ、とフランは首を振った。そんな、そんなのはきれい事じゃないか、と。
 だって彼女は知らないじゃないか。私があっさりと物を壊してしまえることを。そうだ。知らないからそんな風にきれい事が言えるんだ。
 苛々と。苛々と。あぁ、目障りだ。邪魔だ。鬱陶しい。こんなにも心をかき乱してくる。嫌だ、心が乱れるのは嫌だ。苦しくなるから。また壊してしまうから。あぁ、嫌だ。やめて。
 ――壊れちゃえ。
 フランは自らの心の囁きに答え、橙を冷たい瞳で見据える。そして見据えるのは「目」。それこそ、フランの見える「特異点」。それはその物体がもっとも緊張した部分。もっとも壊れやすい部位。
 それを自らの右手に引き寄せ、フランはそれを思いっきり握りつぶした―――。


「――あ、れ…?」


 潰した。潰した、はずなのに。いや、これは、どうして、何故。
 ――潰れない。
 いつもと同じように。魔力を込めて握れば壊れるはずの目は壊れない。ただそこにあり続ける。
 わからない。何故、どうして? フランは思わずその「目」をのぞき込んだ。見える。見える。橙が血まみれになって倒れ、内蔵が飛び散り、光を失った瞳で虚空を見ている姿が。
 ――血の海に沈む橙が、ぎょろり、とフランを睨み付けた。唇が動き、ニィッ、と笑みを浮かべている。それはまるで、残念でした、と嗤うかのように。


「――ひぃぃっ!?」


 フランは短く悲鳴を上げて部屋の隅へと後ずさった。それを見つめるのは、何事もない橙。内蔵も飛び出していない。血も溢れていない。ただ無傷、何もない、先ほどと変わらない姿でそこにいる。
 潰したはずなのに。壊したはずなのに。なのに、壊れない。壊れてない。生きてる。こちらを見ている。


「ひっ、ぁっ、みる、なっ、見るなぁぁぁあああっっ!!」


 フランは頭を抱えて叫んだ。怖い。怖い、怖い怖い怖いコワイコワイコワイッ!!
 どうして壊れない? どうして死なない? どうしてまだ生きている? どうして、どうして? どうしてっ? どうしてっ!?
 右手にはまだ目が残っている。握る。だけど、潰れない。どうしても潰れない。力を入れて潰そうとしても堅くて潰せない。そしてまた目を覗き込んでしまえば、血の海の中で嗤う橙の姿が見えて。
 目を思わず消す。怖い、見たくない、と。壊れない、壊れてくれない、と。ただフランは恐怖した。自分の能力はいつも通りに発動しているはずだ。なのに、どうしても壊れない。


「――怖い?」


 橙の静かな問いかけが聞こえた。フランは身体を震わせ、短い悲鳴と共に大粒の涙を零す。ゆっくりとした動作で橙が立ち上がるのが見えた。
 能力が通じない。生きて、動いて、こちらに来る。怖い。誰か。助けて。お姉様。お父様。お母様。ラクチェ。美鈴。パチュリー。小悪魔。誰でも良い。誰か、誰かッ!!
 身体が竦んで動かない。ただぼろぼろと涙を流しながら橙を見上げることしか出来ない。どうすれば良い? どうしたら目の前の化け物は壊れてくれる?
 ふと、フランの脳裏に浮かんだものがあった。レーヴァテイン、と。自らの杖。炎の魔剣の名を冠する魔杖――。


「うぁぁぁあああああああああっっっ!!!!」


 喉が張り裂けんばかりの声を荒らげてフランは自らの魔杖を召還し、その魔杖に炎を顕現させ、それを剣と化す。灼熱の焔が熱を放ち、室内の温度を上昇させる。それに橙が眉を顰めたのと同時に炎の魔剣は振り下ろされた。
 チッ、と橙は舌打ちをする。この狭い室内、しかも炎の剣だ。何かに引火してはマズイ。どうする? と思考が問いかけ、そして半ば無意識に橙はそれを行っていた。


 ――白刃取り。


 反発の能力を発動させ、灼熱の剣を押さえ込もうとする。押さえ込まれたレーヴァテインは橙の手に挟み取られるように食い止められる。
 それにフランは目を見開き、橙は歯を食いしばる。フランは振り下ろそうと力を込めるも、橙の二股の尻尾が四本の尻尾へと別たれ、妖力が上昇しレーヴァテインを押さえ込む。その余波がフランの部屋の物品を破損させていく。


「くっ、のぉぉぉおおっっ!!」
「ぎっ…ぃ…っ!!」


 状況は動かない。フランが押し切ろうとしてもそれを橙が防ぎきる。だが、例え力が均衡としていても両者に変化は現れる。
 フランは恐怖していた。目の前の理解が出来ない存在。己の能力が通じず、さらには自分の中でも高威力のレーヴァテインも食い止められている。初めて出会う存在だ。こんな恐ろしい、そう、化け物は。
 橙は歯を食いしばりながら、静かな瞳でフランを見据えていた。額に汗を浮かべ、両手を震わせながらもただ、静かに。
 その静かな瞳が逆にフランの恐怖を煽る。怒りがある訳でもなく、焦りがある訳でもなく、そう、ただ静かなのだ。そんな瞳、フランは見たことが無い。


「なん、なのよぉっ!! 貴方はぁぁぁああああああっっっ!!!!」
「――八雲 橙。それ以上でも、それ以下でも…無いっ!!」


 橙は反発の力を更に凝縮させ、レーヴァテインを――捻り、へし折った。
 灼熱の魔剣が刀身の半ばからへし折られ、そして消滅していく。その様をフランは呆然と見つめる事しか出来ない。消えゆく灼熱の剣の先、そこに橙がいる。


「ひっ……ぁっ……ぃっ…ゃ…っ…」


 カラン、と音を立ててフランの手から杖が落ちていった。それに続いてフランもその場に腰を下ろして身体を震わせてしまう。
 ただその視線は橙へと向けられている。橙は一度自らの両手へと視線を向ける。いくら反発の力を持っていても、レーヴァテインの熱の余波は橙の両手を焼いていた。それを強く握りしめて、橙はフランへとまっすぐに視線を向け、膝をついた。


「…私が怖い?」
「…ひっ…」
「…大丈夫だよ。私は君を傷つけない」


 そう言って橙はフランへと笑いかけた。傷ついた両手を隠すように握りしめながらもフランに安心して欲しい、と願うように笑みを浮かべる。
 その表情にフランは呆然とした。どうして、笑えるのかと。わからない。理解が出来ない。何故笑えるのか、フランには理解する事が出来ない。


「…どう、して…」
「…私がそうしたいと思うから。それだけじゃ、足りないかな? 私はフランを知らない。だからフランのために、だなんて言えない。
 …そうだな。フランのこと、もっと知りたいから。もっと知って、フランと友達になりたいんだ。それが理由じゃ駄目かな?」


 困ったように笑みを浮かべる橙に、フランは小さく呟くような声を漏らした。その瞳にじわじわと涙が溢れてきて、橙が見えなくなってくる。
 どうしよう、目が熱い。瞳の奥から涙が沸き上がってきて目が開けられない。息をするのも震えて、しゃくりをあげるように息をしている。
 心がどうしようもなく震えている。知りたいと、私の事を知りたいと。こんな私と、友達になりたいと。
 殺そうとしたのに、壊そうとしたのに。なのにそれでもこんな私の事を知りたいと言う。友達になると言う。正直、信じられない。馬鹿げてる。
 なのに、それでも笑っている。優しい笑みで。それが嘘じゃないと言うように。そんな訳無いのに。なのに、それでも笑っている。


「…わかんない…わかんないよっ…!」
「わからないから知りに行くんだよ。フラン。知りに来たよ。君の事。だから教えて。フランが何を考えて、何を思って、何を望むのか。そして知って欲しい。私の事。だから教えるよ。私が何を考えて、何を思って、何を望むのか」


 そっと、一瞬、橙が躊躇したように動きを止めたが、そっと、橙の手がフランの頬を撫でた。
 その手は熱を持ち、レーヴァテインを受け止めた余熱で火傷を負っていた。その手で触れるのは失礼かと思ったが、それでも触れたかった。
 ごめん、と小さく呟いてから橙はやさしくフランの頬を撫でる。触れるだけで痛いだろうに、それでもそんな痛みなど無いと言うように微笑んで。


「頼まれたんだ。フランの事。だからここに来た。何か出来ないかな、って。私に何か出来る事があるならそれを叶えたいと思ったから。そして、ここに来て思ったんだ。君の事をもっと知りたいって、君の事を知って、友達になりたいって」
「…どう、して…?」
「…何故かな。たぶん、そうだね。フランと私は似てるからかな?」
「…似て、るの…?」
「私はそう感じたよ。…そうだ。ならフラン、君も一緒に考えてくれないかな? 私の事を知って、私の事をどう思うのか。私と一緒に」


 どうかな、と問うように橙は微笑む。その微笑みにフランは更に涙を増やしていく。声は震え、目が開けていられない。自分の頬に触れている橙の手に触れて、その橙の手の体温を感じて、それをもっと感じたくて両手で橙の手を包むように握る。
 火傷によって傷ついた手。自分が傷つけてしまった手。絶対に痛いに決まっている。なのにそれでも笑ってくれる。私の事を知りたいと、友達になりたいと言ってくれる。それは、あぁそれはなんと言えば良い。


「…痛い…痛いよ…胸が…痛いよ…」
「……ごめんね。痛い思いさせて」
「うぅん…うぅんっ…! 嫌じゃない…っ…でも、それでも…すごく…痛いよ…っ」


 フランはただ泣く。心が熱いんだ、と。自分の心じゃなくなってしまったように痛いんだ。橙を傷つけてしまったから。それでも橙が優しくしてくれるから。自分でももう、訳がわからない程に心が熱くて、震えて、苦しくて、痛くて。
 だから涙がこみ上げてくるんだ。それはきっと悲しい訳じゃないのに、だけど零れてくるんだ。わからない。どうすれば良いのかわからなくて、ただ涙を零す事しか出来ない。


「…ごめんね。傷つけないって言ったのに」
「…違う…違うのっ…! 止まらない…止まらないんだよぉっ…!」
「…良いよ。泣いて。泣いて良いんだ。我慢したら辛いから。だから、泣いて良いんだ」


 橙はフランを包み込むように抱きしめた。あやすようにフランの背中をぽん、ぽん、と一定のリズムをつけて叩いていく。
 それがフランの涙を止まらなくさせる。優しいその手つきが胸の痛みを加速させていく。悲しくないのに、辛くないのに、なのにどうしてこんなにも痛いのかわからない。
 だけど嫌じゃない。この痛みは嫌じゃない。苦しいのに、それでもどうして、こんなにも、こんなにも――暖かいんだろう。
 わからない。わからないよ、とフランは首を振り、橙に顔を押しつけるように抱きついた。堪えきれなくなった声が上げられ、暗い部屋の中に響いていく。
 橙は泣きつくフランをただ優しくあやし続ける。その涙が止まるそのときまで、やさしくその背を叩いて、フランの好きなようにさせて。フランがその胸の内に溜まったものを吐き出すまで、ただ、好きにさせ続けた。





 + + + + +





 どれだけフランは泣き続けただろうか。だが、決してその時間は短くなかったような気がする。
 フランはようやく落ち着いたのか、鼻を啜るだけで涙は零していない。ただその瞳は真っ赤になり、涙の跡が残っているのは少し痛々しい。


「大丈夫? フラン」
「ぁ…ぅん…」
「そっか。…あ、顔と服、汚してごめんね」
「…橙こそ…手…」
「あぁ、これ? 大丈夫だよ」


 実際すごく痛いが。動かすだけで痛みが走る。正直あまり動かしたくない。だがそれでもフランに大丈夫と見せるように開いたり閉じたりして見せて。
 それが嘘だというのはフランとてわかる。眉を寄せて、フランはおもむろにベッドのシーツを剥がし、それを歯で噛んで裂いていく。咄嗟のフランの行動に橙は呆気取られて。


「あ、あの? フラン?」
「ちょっと待ってて」


 裂いたシーツを包帯に見立ててフランは橙の手にシーツを巻こうとする。橙の手に触れると、橙は小さくうめき声を上げた。
 やっぱり痛いんじゃない、とフランはまた泣きたくなる。だが、それを堪えてフランは丁重に薄く裂いたシーツを橙の手に巻いていく。
 最初は指丸ごと巻こうとしたのだが、橙が指が使えないのは嫌だ、自分でやる、と言いだし、なら自分が巻く、とフランが橙の指にシーツを巻いていく。だが、やった事が無いフランだ。その手つきは鈍く、淀みがある。
 だがそれでもフランは一生懸命に橙の手にシーツを巻いていく。橙はそれを黙って見守っていた。片手が終わり、もう片方の手を出して、とフランはまたシーツを裂いて橙の手に巻いていく。
 その最中、橙はフランが一生懸命に巻くその様を見ながら小さく笑みを零した。


「…ふふ」
「…どうしたの?」
「…やっぱりフランは優しいね」
「……そうかな」


 よくわからない、とフランは返しながら橙の手にシーツを巻いていく。それを最後に手首の部分で結んで固定する。橙は何度か手を握ったり開いたりして。


「うん、もう大丈夫」
「…嘘。痛いでしょ?」
「でも大丈夫。明日には治ってるよ」


 多分、と橙は心の中で呟く。だがそれはフランには察されなかったのか、ほっ、とフランは一息を吐いて。


「…あ…そうだ…パチュリーに頼んだ方がちゃんと治療してもらえるかも…」
「ん? あぁ、それもそうだね」
「……駄目だな。私、こんな事しても全然駄目なのに…痛いよね? ごめん…パチュリーに頼んで治療してもらってきて」
「え? 大丈夫だよ。これぐらい」
「駄目っ! …行って。じゃないと、嫌だ…」


 フランはそう言って橙に背を向けてしまった。フラン、と橙が読んでもフランは橙の方も向こうともしないし、答えようともしない。
 これは恐らく出て行かなければフランは口を利いてはくれないだろう、と。仕様がないか、と橙はため息を吐き出して。


「…わかった。治療して貰ってくるよ」
「…うん」
「じゃ、また明日ね」
「……ぇ?」
「だから、また明日、だよ」


 フランは橙の言葉に驚いたように振り替り、橙を見ている。橙はフランに対して優しく微笑みかけている。
 橙の言葉の意味を理解出来ない程、フランは馬鹿じゃない。また明日。そう、また明日、橙はここに来てくれる、と。


「私はまだ、フランの事全然知らないし、私の事も知って貰ってない。だから、また明日、だよ。フラン」
「……ぁ…」
「ほら、また明日」
「…ま…また明日」
「うん、また明日」


 フランが戸惑いながらも言葉にすると、橙も嬉しそうに言ってフランの頭を撫でた。
 そしてフランの手を軽く一撫でした後、橙は入り口の方へと歩いていく。フランはその姿を唖然と見送る。
 最後に橙が扉を閉めるその直前、フランに対して手を振って。
 そして、それを最後に扉が閉まり、再び部屋には暗闇が満ちていく。その中でフランはそっと、自分の胸を押さえて。


「……また、明日」


 ぽろり、と。また一粒、涙が落ちて消えていった。




[16365] 黄昏境界線 27
Name: 道化◆5a734804 ID:d4ec8ce0
Date: 2010/02/27 11:54
「パチュリー、悪いけど、これどうにかしてくれない?」


 紅魔館の地下図書館。フランの部屋を後にした橙はその図書館を訪れていた。図書館の一角で本を読んでいたパチュリーを見つけ、橙が彼女に声をかけるとパチュリーはまるで観察するように橙を見る。
 一通り橙を見回した後、両手へと視線を向ける。ふぅん、と小さく呟きを零して読んでいた本に栞を挟んでふわりと浮かんで橙の下までやってくる。パチュリーは橙の手を手にとって、状態を確かめるように見て。


「シーツ、取ってくれる?」
「ごめん、両手火傷して動かしたくない」
「…火傷?」
「フランの炎の剣みたいの止めたっけ火傷しちゃった」
「……レーヴァテインを? …とんでもないわね。貴方」


 パチュリーは一瞬驚いた顔をするも、すぐに呆れたように嘆息し、橙の手に巻かれたシーツを解いていく。そこには確かに重傷とまでは行かないが、軽傷とも言えない火傷の後がある。
 その手を観察してから、ふぅ、とパチュリーが一息ついて。


「火傷も酷いし、骨にもヒビが入ってそうね。まぁ…レーヴァテインを正面から受け止めてこの程度で済むなんてあり得ないけど」
「いたっ…! もうちょっと優しく触ってよっ…!」


 そっと橙の手に触れるパチュリーだが、それでも橙には痛いのか涙目で橙は抗議する。それに溜息し、パチュリーは詠唱を始める。橙には何を呟いているのかわからないが。パチュリーが詠唱を終えたのか、橙の手に自らの手を翳す。するとパチュリーの手から淡い光が零れ、橙の両手へと落ちていく。
 ゆっくりだが、橙の手から痛みが引いていく。火傷の後も少しずつ消えていき、完全に消えるのも時間の問題だろう。便利なものだな、と橙はその様を見つめて。


「凄いね、魔法って」
「………」
「……フランが、さ」
「…?」
「…私に怪我させて、自分で治療するって言ってさ、シーツを巻いてくれたんだ。だけどさ、その後、パチュリーに診せた方が早かったね、って言ってたんだ」
「……」
「…フランは、すぐにパチュリーに治療して貰うって考えなかった。同じ館に住んでるのにね。…フランは、そうやって誰も頼れなかったんだよね」
「…そうね」
「…それが、凄く悲しく思えたよ」


 パチュリーの手から零れる淡い光を見つめながら、橙は目を細めて小さく呟いた。
 それを聞いていたパチュリーは何を言う訳でもなく、ただ橙の両手の光を注いでいた。フランによってつけられた火傷はだんだんと癒えていく。ふと、橙は破いて包帯代わりにしたシーツへと目を向ける。
 最早用を無くしたそれは何の意味も為さない。だが、橙の心の中には暖かな物を満たすのには十分すぎた。





 + + + + +





 手の治療を終えた橙は紅魔館を後にしようとしていた。だが、その橙を引き留める者が居た。紅魔館の主、レミリアだ。レミリアはどこか落ち着きのない様子で橙を見ては視線を反らし、ちらりと視線を向けたかと思えばまた反らすと益の無い行為を繰り返していた。
 だが、それでも橙は何も言わずレミリアが何か言うのをひたすら待っていた。急かす訳でもなく、苛つく訳でもなくただレミリアの言葉を待っている。その様子にレミリアはもちろん気がついている。だが、言葉が出ない。


「…橙」
「…何?」
「…フランは、どうだった?」


 結局出た言葉がそれだった。妹はどうだった? と。それは安否を問うているのか。それとも印象を聞いているのか。意味の取り方によっては様々な意味を孕むレミリアの問いだが、橙はまっすぐにレミリアを見返す。


「気に入ったよ」
「……」
「それだけで伝わるでしょ?」


 レミリアは橙の言葉を聞いて、少し顔を俯かせる。安堵しているようにも見えれば、悔いているようにも見える。または別の想いを抱いているのかもしれない。橙にはレミリアの心情を理解する事は出来ない。橙はレミリアではないのだから。
 それは別に良い。橙はレミリア、と彼女の名を呼ぶ。橙に呼ばれた事によってレミリアは顔を上げる。揺れる深紅の月の瞳を橙は静かな瞳で見据える。その静かな瞳にはどこか不気味さが漂っていてレミリアは思わず息を呑んだ。


「…聞いて良いかな」
「…何だ?」
「フランの能力は、「目」を潰されたら必ず即死するの?」
「……いや」


 橙の問いかけにレミリアは否定を示す。レミリアの返答に橙は納得する訳でもなく、驚く訳でもなく、ただ確認を終えたように頷いて。


「そうだよね。じゃなきゃラクチェ・スカーレットが生き残っている訳が無いんだ」
「…それがどうした」
「レミリア」
「…何だ?」
「…願ってるだけじゃ、絶対に変わらないよ」


 たった一言。それを告げて橙はレミリアに背を向けた。レミリアは息を呑んでその背を見送る。レミリアの手が拳を作り、レミリアの額に押し当てられる。
 変わらない日常に未来は無い、それはフランの現状に対する言葉だろう。そんな事、レミリアにはわかっている。だが、だが、だ。


「…だったら…どうしろと…どうすれば良かったと…言うんだ…」
 

 その呟きは空しく響き、誰にも聞き取れず広い廊下に空しく消えていくのであった。





 + + + + +





 八雲邸。その縁側で橙は特に何をする訳でもなく星を見上げていた。先日、藍と話した時のようになる訳だが、今日、隣には藍はいない。
 ごろん、と縁側で横になって空に手を翳すように伸ばす。火傷があった手はパチュリーの魔法によって完璧に治療され、フランにつけられた傷跡などその名残すら無い。
 瞳を閉じれば思い出す。フランとの応対。フランに対して感じた印象、そして思い。橙はそれを噛み締めるように思い出し、それを確かめていく。


「橙」
「紫様?」
「隣、良いかしら?」
「えぇ、どうぞ」


 よっ、と橙は声を出して寝転がらせていた身体を起こす。その様子に紫はいつも微笑を浮かべながら橙の隣に腰を下ろした。


「藍がもう少しでお酒持ってくるから、皆で呑みましょ」
「え? 私そんな強くありませんよ」


 紫の言葉に橙は少し眉を寄せる。橙はさほど酒に強い訳ではない。呑めない事は無いが、進んで呑もうと思う物でも無かったりする。それに紫はクスッ、と小さく笑って。


「良いじゃない。八雲 橙。そのお祝いよ」
「…ぁー、そういう事ですか」
「そういう事です」


 要は橙が八雲の姓を名乗れるようになったその祝いに、という意味なのだろう。それを察して橙は納得したそぶりを見せて頬を掻く。その仕草に紫はまたクスクスと笑う。


「紅魔館、行ったんでしょ?」
「…紫様は、知ってたんですか? フランの事」
「調べない訳がないわ。…で? どうだったの?」
「…別に。普通ですよ。面倒な能力がある以外は人里の子供と変わりませんよ。ただ境遇と環境が悪いな、って感じました。感情が豊かで、だけどちょっとブレが大きいですね。でもそれ以外は優しい子ですし、感受性が高い、と言えば良いんですかね?」
「ふふ、貴方にかかれば破壊の能力を持っていようとも子供は子供になるのね」
「それ以外の何になるって言うんですか?」
「貴方はそう思えても、そう思えない者が多いのよ。この世の中は。貴方とてわかるでしょう? 貴方だってかつてはそうだった」
「……」
「見えるものが増えて、見たいものを明確に定めている貴方だからこそ見えているのよ。きっとね。貴方は確かに恐れもするし、恐がりもする。偏見だって持つわ。だけどもいつだってまっすぐだもの。悪く言えば愚直と言うまでに、ね」
「酷いですね」


 紫の言いように橙は苦笑を浮かべて告げる。だが、紫も決して貶して言っている訳ではない。ただ、純然たる事実なのだろう。橙はそれを否定しない。自覚があるし、別に悪い事を言われてる気にはならない。
 ただの人間だった。少なくとも最初はそうだった。いや、それはあくまで「私」の始まりか、と橙は思って。自分の始まりは最早何者ともわからぬ存在からのスタートだった。ただ「私」から受け継いだ「死」に怯えて生き足掻いた。
 それがいつしか、多くを知って変わった。知る事によって意味は変わり、本当の意味で私は始まった。純粋な時に、多くの物を持ち得たが故に橙は揺らがない。
 だからこそ多くのものが見えるようになったのだろう。それも真っ直ぐに。だからこそ人には為せない事が出来る。過ぎたる程までに真っ直ぐだからこそ。橙のような存在など二人と居ないのだから。


「ねぇ、橙」
「はい?」
「貴方のその曇り無き瞳は、私をどう見る?」
「…曇ってないかどうかは置いておくとして…」


 紫の問いかけに橙は考え込むように空を見上げた。あー、だの、うー、だのしばらくうめき声を上げて。


「……寂しがり屋、かな?」
「寂しがり屋?」
「…胡散臭い、とか、奇妙、とか、そういうのも紫様に当てはまると言えばそうなんですけど、それを全部引っくるめて紫様を見ると、なんか寂しそうに見えるんですよね」
「……」
「人にちょっかいかける割にはいつもどこか線引きしてるみたいだし、手を貸すときだって一歩引いたところから。あまり本心見せないで飄々としてて…なんか、うまく言葉がまとまらないんですけど、そんな感じですかね?」
「…それで、私が寂しそうだと?」
「友達いなさそうとか思ってる訳じゃないですから、頬をつねるのやめてくれませんかね?」


 ぎゅー、と紫の指が橙の頬を引っ張っている。紫の顔は笑顔だ。だが、だからといって空気が重いという訳でもなく、張り詰めているという訳でもない。
 どちらかというと照れ隠しに近いように橙は感じる。何でそう感じるか、なんて橙にはわからない。感覚なんてものは本当に言葉にしにくいものなのだから。そう感じたからそれで良い。それがきっと正解だ。


「しかしそれだと、紫様はずいぶん人が悪いな」
「あ、藍様」
「…藍、どういう意味よ?」


 その会話の中に混じってきたのは藍だった。お盆の上に三つのお猪口とお酒を乗せてこちらに歩いてくる。藍は紫の隣に腰を下ろし、お盆を縁側に置いてお酒を手に取る。
 紫はその間に藍にジト目に近い目で見ながら藍に問いかける。それはどういう意味だ、と問うかのように。


「紫様が寂しがり屋なら、私など目にも入らないのですか?」
「…あら。拗ねてるの?」
「えぇ、拗ねますとも。もう何百年側にいると思ってるんですか。なのに橙にそんな評価をされると悲しくなりますよ」
「……やぁね。そんな事ないわよ。藍。まったく、やっぱり橙の評価なんて当てにならない事がわかったわね」


 ぷい、と紫は藍から顔を背けて呟いた。しかし藍から顔を背けると自然にそこには橙がいる。橙は紫の顔を見て珍しくにやにやと笑っていた。


「あれ? 照れてます? 顔赤いですよ?」
「……さて、何のことかしら?」
「はは、不器用ですね。紫様も」
「………はぁ」


 もう何を言っても無駄だと悟ったのか、紫はお猪口を手にとって藍に向ける。注げ、と無言の圧力をかけ、藍に酒を注ぐように命ずる。藍はその無言の紫の命に小さく笑みを浮かべて酒を注ぐ。
 藍が自分の分と橙の分を用意し、橙へと手渡す。小さく礼を言って受け取る。


「じゃ、乾杯しますか」
「えぇ」
「じゃ、乾杯」
「「乾杯」」


 互いにそれだけ言えば三人は口に酒を運ぶ。橙はちびちびと、藍は普通に、紫は少し煽り気味に。
 それはそれぞれの気質もあれば、雰囲気や、気分もあるのだろう。橙はお猪口から口を離して、紫へと視線を向けて。


「紫様~。お酒で誤魔化そうとするのは卑怯じゃないですか?」
「さっきからしつこいわねー、この出鱈目猫」
「にゃー」
「橙が出鱈目なのはいつもの事じゃないですか」
「うわ、藍様酷い。そういう藍様は神経質というか、心配性というか、苦労人体質ですよね」
「誰が苦労させてるのか言ってみろ? 橙」
「紫様」
「あら、聞き捨てならないわね、橙。むしろ貴方だと思うのだけれど?」
「どっちもどっちだと自覚してください」


 はは、と笑い声が響く。それは三人の誰からも。小さく笑みを浮かべて、穏やかに会話を交わす。
 話ながら酒を飲めば、酒を飲むペースはさほど速くはない。だが、それでも酒は無くなっていく。
 紫が酒が無い、と藍に追加をするように命ずる。はいはい、と言いたげに藍が腰を上げて縁側を後にする。
 その背を見送った紫は、ふと一口、お猪口に注いであったお酒を飲み干し、空を見上げる。


「…橙」
「はい?」
「長い時間を生きてるとね、知りすぎて、要領は良くなるけど、でも手が回らなくなるのよ。抱える物も増えて、捨てる物も増えて、だんだんと固まっていてしまう」


 語りかけるように紫は言葉を紡ぐ。遠くを見据えて、何かを憂うかのように。


「人間は弱かった。時間も短く、身体も弱く、不安定だった。だけど、だからこそ彼等は発展していった。妖怪達をも追い出す速さで」
「……そうですね」
「それを良いとは言えない。でも悪いとも言えない。でも、だからと言って妖怪が悪かった訳じゃない。良かった訳じゃない」
「互いに存在の在り方が違っただけ、そうじゃないですか?」


 橙の言葉に、紫がそうね、と頷く。


「…だから私は幻想郷を作った。妖怪達が消えないように、無い物とされないように。私は変えたくなかった。変えたくないものが未来に残って欲しかった。そして、今でもそれを望んでいる」
「……」
「…でもね。妖怪は人間があってこそ存在する。でも、人間も妖怪を忘れた事で忘れた物がある」
「…それは何ですか?」
「変わらない、という事よ。私たち妖怪は人間など歯牙をかけぬ程の力を有していた。それ故、その在り方もそうそう変わらないものなのよ。だから、変わらないのよ。その恐怖は、その恐ろしさは。だけども人は知ってしまった。知って、変わってしまった」
「…不変に未来はありませんよ」
「変わらなければ、いずれ滅び行くもの。そうね、妖怪の滅びはそれならば定められたものなのかもしれない。…ねぇ、でも橙。変わる事はそんなに必要な事かしら?」


 紫は橙に視線を向けて問いかける。紫の瞳はただ深く、何を考えているのかはわからない。だが、それでも橙に一つだけわかるのは、紫は己の答えを待っているという事。
 橙は考える。考えて、思って、纏めて。それを言葉にして、伝わるように、伝えられるように並べ立てる。ようやく纏め終われば、溜息を吐き出して。


「…そんなの、わかりませんよ」
「……そう」
「ただ、一つだけ言えるのは、そうしたいならそうしたい、それで正解で良いじゃないですか。私が変わって欲しいと思っても、変わって欲しくない人がいるのかもしれない。だったら私が変わって欲しいと願うのをやめれば良いのか、それとも変わって欲しくない人に変わって欲しいと願ってもらえるように何かすれば良いのか。そこに正否なんて無いんじゃないですかね。判断するのは誰かで良い。ただ…自分が信じて、どうしても譲れないならそれを譲らなければ良いじゃないですか」


 きっと、そんな簡単な事。
 橙は笑って紫に告げた。世界は十人十色。人の数だけ、妖怪の数だけ考えがあって、それぞれが全部違って、そんな世界の中で自分達は生きている。


「変わる意味も、変わらない意味も、求めなくて良いんじゃないですか。ただ、変わりたい、変わりたくない、それで良いじゃないですか。余計な理由なんて、そこにはいらないんですから。紫様は幻想郷が好きなんでしょう?」
「えぇ。そうよ」
「だったら、それ以上の理由なんてきっといりませんよ。想いなんて口にする事が難しいんですから。どんなに論を並べ立てたって、きっと証明出来ない。はは、それこそ一生証明なんて出来ないと思いますよ、人間には。ほら、そこに幻想がある。ならいつか外来人だって幻想しますよ。心を捨てるなら別ですけどね」
「…そうね。想いこそ、最大の幻想、という事かしら?」
「私はそうだと思いますよ。どれだけ理論づけたって、所詮それは理論ですし。この世全てに適応する理論なんて、それこそ無い。どれだけ理論を並べ立てたって、世界は広いんですよ。それこそ宇宙人が住む世界は私たちが想像も付かない理論があるのかもしれない」


 もしもこの広い宇宙で、地球とは別に独自の生命体が生まれていたらそれこそ、その生命には独自の理論があるだろう。これはあくまで地球の、今ある世界の理論でしかない。
 理論はいつだって覆される。今ある「当たり前」がいつかは「地球」の当たり前になんてなっているかもしれない。変わらないかもしれないし、変わるかもしれない。そんな曖昧さを孕むのがこの世界なのだから。


「曖昧なものを確定させられませんよ。なら、私は曖昧なものでも、真っ直ぐに、そのまま突き通せたら良いな、って思いますよ」
「…そう」


 紫の口元に浮かぶのは、笑み。橙を見て、紫はただ優しげに笑みを浮かべる。


「…やっぱり、貴方は妖怪なんかじゃないわね。そして人間でもない」
「…? 紫様?」
「…何でもないわ。…ねぇ、橙。貴方ならきっと、貴方の思いを貫いて生きていけるわ」
「…? はぁ…」
「だから…貴方はそのまま変わらないでね?」
「…約束は出来ませんよ。でも、紫様がそう願ってるって事は忘れませんよ」


 それなら約束出来ます、と橙は紫に微笑みかけた。なら、それで良いわ、と紫も笑って返す。そして紫は空を見上げながら小さく呟きを零す。


 ――飛鳥尽きて良弓蔵され、狡兎死して走狗煮らる。


「…それ、何ですか?」
「飛ぶ鳥が居なくなったから弓は蔵へ、兎がいなくなったから犬は煮られた。物が消えゆくごとにまた、それを糧としていたものも消え去っていった。この世は無常。しかして、幻想郷はその全てを受け入れましょう。…そこに、優しさはないけれどね」
「それは、ちょっと違いますよ。紫様」
「…あら? 何がどう違うのかしら?」
「世界は在るだけで優しい。でも、それは当たり前に感じている私たちだから、更なる優しさは、この手で作っていくんですよ。己の意志で、己が為に。…だからこそ」


 そこで橙は一度口を閉ざす。悪戯する童のように笑い、紫を見る。紫はそんな橙に目をきょとん、とさせる。そんな表情を浮かべる紫から橙は視線を反らして。


「「それはとても残酷な事」」


 いつも間にか背後に立っていた藍と橙の声が唱和する。紫が藍、と彼女の名を呼ぶ。
 藍は先ほどと同じように紫の隣に腰を下ろして、紫へと視線を送る。


「世界と同じ事を、こんなちっぽけな我らにやれと言うのは、それこそ無理ですよ。いや、本当にね」
「……それも、そうね」
「でも、残酷だからこそ、その優しさはいつか絶対誰かを笑わせるよ。紫様」


 ぽん、と橙は笑いかけながら紫の肩を軽く叩いて。


「だから、変えたくないものの未来の為に、変えていきましょう? 少しずつ、守って、進んで。私たちには、まだたくさんの時間がありますから。八雲 橙として、それだけは絶対に裏切らないから」
「なら、私も改めて八雲 藍として誓いましょう。紫様の為に、橙の為に、幻想郷の為に、そして何より、私の為に」


 藍が紫のお猪口に酒を注ぐ。その顔には笑みがある。橙も紫の肩に手を置いてほほえみかけている。


「私達はここに居ますから。ね? 紫様。だから寂しがる必要は無いんですよ」
「…また、貴方はそうやってさっきの話を引っ張ってくるのね。最後の一言だけ本当に余計だわ、まったく」


 紫ははぁ、と溜息を吐き出して空を見上げ、瞳を閉じて酒をあおった。けほっ、と紫がむせたように咳き込み、その瞳に涙を浮かび上がらせた。
 そんな紫の様子に、はは、と橙のからかうような笑いが響き、紫がその橙の頭を軽くはたいた。その二人のやりとりを見ていた藍もまた微笑み、忍び笑うのであった。



[16365] 黄昏境界線 28
Name: 道化◆5a734804 ID:d4ec8ce0
Date: 2011/01/29 00:27
 ――まどろみの中、たゆたう意識。
 夢を見ている。黒い水、いや、光の届かない闇の中を漂う。
 ぽつり、ぽつりと暗闇の中に光が満ちていく。それは淡い光。強ければ、弱い光もある光達。
 手を伸ばす。光がその手の動きにあわせて幾つか、この手の中に収まる。
 光を覗き込む。光はいつしか…「目」へと変じていた。それを覗き込む。目を通して瞳に映像が飛び込んでくる。



 ――闇の中。なのにそれでもわかる、真紅の色。

 ――紅く、朱く、赤く、紅、朱、赤、紅朱赤アカアカアカッッ!!

 ――その中で、ケタケタと、笑い声が聞こえる。

 ――暗い闇の中、闇の中でもわかる程の、アカい空間で、「アノ子」」は嗤っていて――



 いつの間にか、ぎゅっ、と、手を握りしめていた。その手は真紅に染まっていた。その手は震えていた。ぬるりと、感触の悪い液体が手を伝っていく。
 まだ、掴めないのか。
 まだ、見る事は叶わないのか。
 まだ、まだ…――





 + + + + +





 ――また明日。
 その意味はわかる。だけど、それは本当なのだろうか?
 寝て、起きて。実はその約束は夢の中の事で、目が覚めたらまた孤独な時間が始まっているのだろうか。
 それは、違う。あの時感じた温もりは嘘じゃない。目が覚めても、暗い地下室では時間がわからない。時間感覚はあってないようなものだ。
 ――また明日。
 不安と期待と。その二つの感情が心を揺らす。だがそれは決して不快な揺らぎじゃない。まだかな、と小さく呟きが零れる。だけど、それは決して辛くない。どきどきが怖いくらいに胸を叩いて口元を笑みに緩む。
 ――こんこん、と小さく音が鳴った。
 フラン、と呼ぶ声が聞こえる。思わず顔を上げた。あぁ、嘘じゃなかった。安堵と歓喜が身体を駆けめぐり、すぐに声は張り上げるように発せられた。


「橙! いらっしゃいっ!!」


 そして「今日」は始まった。





 + + + + +





 橙は紅魔館の地下にあるフランの部屋にいる。フランの部屋のベッドに腰掛けながら橙はフランと話をしている。橙の話に耳を傾けて、その一区切り一区切りに様々な反応を見せるその仕草は人里の子供達とは何ら変わりない。
 その仕草に橙がフランに感じるのは可愛い、と簡単なものだ。だが同時に胸を過ぎるのは彼女の不遇。家族がいるのに、その家族とは半ば隔離され、ただ孤独に生きてきた。いくら能力の所為だとはいえ、あまりにもあんまりな境遇。
 どれだけ長い月日、この中に居たのだろうか。それは辛くなかったのだろうか? 悲しくなかったのだろうか? そのような問いを投げかけるのも馬鹿らしい程に明確だろう。辛かったに決まってる。悲しかったに決まっている。
 それでもフランの笑顔が失われていないのは奇跡だと橙は思う。だからこそ、橙は思う。その奇跡は絶対に取りこぼさない。奇跡はもう起きた。この境遇の中でも、いやこの境遇の中だからこそ純粋に育った、だがそれでも奇跡的に歪まずに育ったこの子の心を守りたい。
 橙は全知全能ではない。ただ人よりも手を伸ばしやすい能力を持っているだけだ。万人が救えるとは到底思っていないし、万人を守りきる力があるだなんて思ってない。ただ自分に出来るのは最良を目指して足掻き続ける事だけなのだと。


「ねぇ、フラン」
「ん? なぁに、橙」
「フランにはさ、なんか夢はある?」
「…夢?」
「将来、こうなりたい、とか、こんなものが欲しい、とか。そういう叶えたい事とか、お願いとか?」


 橙の問いかけにフランはきょとん、とした表情を浮かべていたが、ふと、悩むように眉を寄せて、腕を組んで唸り出す。橙はそれを急かす事はしない。ゆっくりとフランに考えさせる。
 暫くフランは唸っていたが、そのうなり声は段々と悩むような声に変わっていき、暫くしてそのうなり声も悩む声も聞こえなくなり、ただ眉を寄せるフランだけが残る。
 フランは眉を寄せて悩んでいる。時折、橙に視線を向けるが、橙は一切フランに手を貸さない。フランが自分の言葉で、自分の願いを言うべきだと思っている。だからこそ待っている。フランが自分から言い出すまで。
 どれだけ時間を置いただろうか。フランが、あのね、と小さく呟いて。


「…お姉様と、お話したい」
「レミリアと?」
「うん。…お話して、遊んで、一緒に食事して、おやすみ、おはよう、って…普通に…普通に暮らしたい」


 前みたいに、と呟くフランの言葉が、橙にはとても重々しかった。いつからフランがこの地下室に閉じこめられているのかは知らない。だが、フランが地下室に閉じこめられる前にはその風景が当たり前のようにあったのだろう。
 フランとレミリアが笑い合って遊んでいる光景が、きっとそこに。そしてそれはきっとフランが何よりも望んでいたものなのだろう。ただ、以前のように。


「…後は、外に行きたいかな」
「外に?」
「うん。…橙の話、聞くまで別に外に興味なんか無かったから。でもさ、聞いちゃうと、1回でも良いから見てみたいな、って」
「…どうして、興味無かったの?」
「…だって、お姉様が悲しむから」


 それは、と橙は言葉にして、それ以上の言葉にならない。それはきっと、レミリアの後悔なんだろうと。破壊の能力を有しているが為に、外に出る事を許されない妹。それに対する同情、何も出来なかった自分への不甲斐なさではないか、と。
 だが、すれ違っている。フランは自分の所為だと言う。レミリアもまた自分の所為だと言うのだろう。だが、生まれ持ってきたものは変えられないし、どうしようもない。
 誰の所為でもない筈だ。だが……1つだけ。たった1つだけ。


「…フラン」
「…ん?」
「…夢が、叶うと良いね」
「…うん」


 その返答に、希望は無かった。





 + + + + +





 橙は地下室を後にした後、真っ直ぐに向かう場所があった。やや廊下を歩く足は早足で、道中、すれ違った妖精メイド達に少し驚かれた後に避けられる。
 だが、橙はその妖精メイド達に頓着しない。ただ真っ直ぐに目的の場所へと足を運ぶ。暫し歩を進めた後、橙は目的の場所へと着いて扉を軽くノックした。
 部屋の主が返答を返す。橙はすぐさま、扉を開けて部屋の中へと足を踏み入れる。足を踏み入れた先は――レミリアの私室。


「…何の用だ?」
「…フランが」
「…フランがどうした?」
「…レミリアと話がしたい、と言っていた」
「……」
「話だけじゃない。遊びたい、一緒に食事がしたい、いつも起きたらおはよう、寝る前はおやすみ、そんな日々が続けば良いと言っていた。あぁ、後、外に出たいとも言っていたっけね」


 捲し立てるように橙はレミリアに語りかける。レミリアは橙へと視線を向ける。だが、それも一瞬の事。レミリアは橙から瞳を逸らして視線を彷徨わせる。
 レミリアは何も答えない。ただ、瞳を閉じて口を固く引き結ぶだけだ。暫し、沈黙の時間が橙とレミリアの間に流れていく。だが、レミリアは動かない。しかし、レミリアの引き結ばれていた唇が震えを帯びた。


「………駄目だ」
「……レミリア」
「…駄目、だ」
「レミリア」
「くどいぞ」
「レミリアッ!!」
「くどいと言ったぞ」


 紅の月の瞳が刃のような鋭さを宿し、橙を睨み付ける。だがそれに橙は真っ向から睨み返し、レミリアと視線を合わせる。レミリアはただ静かに、橙はわずかに握りしめた拳を振るわせて。


「…たった、これだけの事も叶えられないの?」
「……」
「たった、こんな、誰もが当たり前に感じられるものがフランには与えられないのっ!?」
「…あぁ」
「どうしてっ!?」
「…私が、スカーレットだからだ」


 叫ぶ橙に対し、レミリアは静かな声で返す。その声に込めたのは威厳と威圧感。橙は一瞬、思わずレミリアに呑まれたように息を詰まらせる。


「…そんな事、あぁ、確かにそんな事だ。だがな、逆に言えばそんな事を送るだけで何かを破壊してしまうんだ。わかるか?」
「だからっ」
「だから、私は出せないんだ。私には、私に仕える者達を守る義務がある」
「…っ…で、でもっ!!」
「くどいと言ったぞ!」


 眼を見開かせ、勢いよく机に手を叩き付け、机を破砕させながらレミリアは橙を睨み付けながら吐き捨てるように告げる。橙は一瞬、大きく唾を呑むも、それでも納得がいかない、と言わんばかりにレミリアを睨み付ける。
 確かにレミリアの言う通りだ。橙だってフランに誰かを傷つけて欲しい訳じゃない。だからこそ、必要なんじゃないかと思う。他者との触れ合いが。きっと、それがフランには必要なんだ、と、やはり橙はそれは譲れない。
 そんな橙の様子を悟ったのか、レミリアは小さく息を吐き出しながら、橙を静かに見据えながら言葉を紡ぐ。そこに揺らがない絶対の意志を込めて。


「納得が出来ないならそれで良い。気に入らないならそれで良い。だが、なんと言われようと私はフランを地下室からは出さない。絶対だ。あの子が自身の能力を理解し、扱いこなせるようになるまでは駄目だ」
「……それだったら…変わらないよ…」
「……変わらなくても、私にはフランの為に出せる犠牲なんか無いんだ。…そんなのは、フランの為とは言わない」


 固い声でレミリアは橙に告げ、その背を向けた。もう話す事は無い、と言わんばかりに彼女は橙を突き放す。橙はその背を見つめていたが、歯軋りするまでに歯を噛み締めて勢いよくレミリアの私室を後にした。
 遠ざかっていく橙の足音に、レミリアは耳を澄ませる。それが聞こえなくなるのと同時にレミリアは自分の身を抱きしめるように両手を回す。その両手は震えていた。手だけでなく、身体全体が震えを帯びていた。


「…そうだ…変わらないんだ。…だけど…それじゃ、駄目だ…駄目…なんだよ…」


 わかっている。橙の言うことだってわかってる。フランに必要なのは他者と触れ合う事によって得られるものなのだろう、と。感動であり、経験であり、思い出であり、本来誰もが当たり前に得られるものこそフランには必要なのだろう。
 だが、わかっていても無理だ。無理なんだ、とレミリアは自分に言い聞かせるように呟く。フランの能力は容易に破壊してしまう。物も、人も、何もかも、その全てを。そしてレミリアには仕えていてくれる者たちがいる。
 美鈴が、パチュリーが、そして妖精達が。その者達をフランに破壊させる訳にはいかない。だからこそ、レミリアにはフランを閉じこめる事しか出来ない。
 これが自分だけならばまだ良い。だが、自分はスカーレットなのだ。この館を仕切る主なのだ。ならばこそ、自らが身を投げ出す事は出来ない。例え、それでフランが救われるのだとしても……出来ない。出来ないのだ。


「…っぅ…っ……っぁっ……ぁぁっ……!!」


 身を縮めるように自分の身体を抱きしめながらレミリアは涙を零した。脳裏には橙の言葉が嫌でも響いてくる。わかっている。わかっている、そんな事。わかっている――!!
 でも、駄目なんだ、と心は荒れ狂う。
 暴れ回る心に従って、身体も暴れ回らせたかった。何かに当たり散らしたかった。だがそんなのは駄目だ。私にはしてはならない。この身は誇り高きスカーレットの血を引いているのだと、だから、押さえ込め、と身体を強く抱きしめながらレミリアは堪える。


「…ごめん…なさい…っ…ごめん…なさい…っ…ごめん…なさい…っ…フラ…ン…ッ!!」


 たったそれだけの事も叶えられない姉を許してなんて言えない。あぁ、なんて、なんて情けない姉なんだろう。フランに何もしてやれない、こんな姉など。
 何が姉だ。何が運命を操る力を持っているだ。私は…私の得たいモノはたった一つだと言うのに、手に入らない。
 名誉も、地位も、富も、畏敬も、本当はいらない。ただ一人、たった一人。妹さえ、そこに居てくれれば、私の全てを祝福出来たのに。今まで積み重ねた努力を誇れるというのに。


「あぁぁあ……っ!! うぁぁあああああ……っっ!!!!」


 瞳の奥から押し上げられるように涙が流れ落ちていく。止まらない涙は幾多も頬を伝う。
 お姉様、と呼ぶ声が聞こえる。忘れる事なんてない妹の可愛い声。聞こえなくなってしまった愛しい声。あぁ、私もフラン、って呼び返して微笑みかけたい。
 一緒に食事をして、一緒にお話をして、一緒にお出かけして、一緒に寝て、起きたらおはよう、と挨拶して、寝る前におやすみなさい、って挨拶して。
 そんな、そんな日常を待っていた。私だって待っていたのだ、とレミリアは叫びそうになる。そう、レミリアとてこんな状況を望んでいる訳ではない。望んでいる筈が無い。
 フランが閉じこめられた日から、レミリアは努力を重ねてきたのだ。フランがいつ戻ってきても、フランに頼られる姉になろうと、親の言いつけを守り、努力し、完璧に振る舞ってきた。


「…なんの、意味がある…っ!! そんなの、無意味じゃないのよっ!!」


 震える声でレミリアは堪えきれずに叫び、椅子から落ちる。床に蹲る形になり、レミリアは腕に顔を押しつけながら嗚咽を押し殺す。
 たった一つ。それさえあれば色づいた筈の日々には何の意味を見いだせない。あぁ、フラン。愛おしい妹よ。
 どうして、私の記憶に貴方は居ない? どうして……?


「フラン…ッ…!! フランッ…フラン…!!」


 レミリアの涙を拭う者は居ない。ただ、レミリアは泣き崩れる事しか出来ない。どうしようもない現実に己の意味を求めて、見いだせず、ただ藻掻き、苦しむ。
 足掻く事も出来ない。ただ、現状に堪えて、踏みとどまって信じることしか出来なかった。全てを捨てる事などレミリアには出来なかったのだから。
 だから、ただ、レミリアは泣き続ける。それはまるで助けを請う幼子のように涙を零し続けた。





 + + + + +





 橙は八雲邸の道中の草むらの上に寝転がりながら思考を巡らせていた。もちろん考えている事はフランとレミリアの事だ。
 レミリアに思うところが無いか、と言われれば無いとは言えないが、冷静になって考えてみるとレミリアの言うことは確かに正しいのだ。
 だが、だからといって自分が間違っているとは橙はどうしても思えなかった。フランは確かに破壊の能力を持っているが、それでもフランはフランなのだ。
 フランは子供と同じだ。だから少しでもその望みを叶えてやりたい、と思うのは自分だけじゃない筈。きっとレミリアだってその筈だ。だが、レミリアにはフランを外に出せない理由がある。
 それはレミリアには守るべき者がいるからだ。だから、フランを外に出す事をレミリアは許可する事は出来ない。


「……でも、やっぱり、それでも私は――」


 ――納得がいかないんだ。
 確かにわかる。わかっている。それは理解した。それが叶えられないのは致し方ない。
 だが…だからといってこのまま諦めるのは嫌だ。最後まで足掻くと決めたのだ。精一杯生きて、そして間違っても、その判断を悔やんでも、一生懸命に生きたんだと思うように。
 だから橙は動く。そっと視線を上に向ければそこには月が浮かんでいた。





 + + + + +





 朝であろうと、昼であろうと、夜であろうと、そこは暗い。ここは紅魔館の地下にあるフランの自室。そこでフランは軽く口を開けながら天井を見上げていた。
 今日も橙が来てくれた。たくさんお話をした。人間が住む人里の事、妖怪が住まう妖怪の山の事、橙が知り合った人達の事、美しい景色を見たこと。
 その全てを話す時、橙はいつだって楽しそうだった。そう、楽しそうだったのだ。その顔を見てフランは羨望を抱いたのだ。自分はもう400年ほどここにいる。月の光の明るさも、生い茂る緑の香りも、何もかも、もう忘れてしまった程だ。
 良いな。純粋にフランはそう思った。しかし自分は出られない。自分の能力がそれを許さない。そして姉もまた許さないだろう。フランはわかっている。自分の立場を。だから、ここにいる。出る事はない。そう思っている。


 ――こんこん。


 ふと、扉がノックされる音が聞こえた。誰だろう? とフランが首を傾げ、扉へと眼を向ける。
 ゆっくりと扉が開かれ、現れたのは橙だった。フランは驚きに眼を見開かせて橙を見た。


「橙!」
「シッ! ちょっと、レミリアには秘密で来てるから。存在を感知される事に反発する、ってかなり疲れるなぁ…」
「…え?」


 嬉しそうにフランは橙の名を呼ぶと、それを戒めるように橙が唇に人差し指を当てて静かにするように告げ、小さな声で呟く。
 橙の呟くような声にフランは怪訝そうな顔をする。姉に秘密でここに来た、というのはどういう意味なのだろうか、と。
 橙はそっとフランの側まで来て、フランに手を伸ばす。フランは橙に差し出された手の意味を理解出来ず、橙を見上げて。


「…外、行こうか」
「…ぇ…」
「ごめん。レミリアには駄目だって言われたんだけど、どうしても、私は少しでも良いからフランに外を見て貰いたい。フランに知って欲しい。わかって欲しい。そして、思って欲しいんだ。そこで生きていきたい、って。こんなところに閉じこめられないで、自由に外の世界で生きて欲しいって」
「…橙…?」
「…フランの為、なんて言わない。だけど、フランが一緒に外に出られるようになったら私は嬉しい。きっと…レミリアも喜んでくれる。確かにフランの能力は簡単に物を壊してしまうかもしれない。だけど、それでも外に出ちゃいけない、なんて私は認めない」
「……でも…」


 橙の言葉に圧倒されたようにフランは息を呑む。外に出る? 私が? 外に、出られる?
 胸に沸き上がるのは、渇望。見たい、感じたい、外に出たい、隠し続けてきた思いがあふれ出そうになる。しかしそれを押しとどめるのは自らの能力と、姉の顔。
 悲しませたくない。きっと姉は外に出れば悲しんでしまう。不安がらせてしまう。それは嫌だ、とフランは思う。姉が自分を愛してくれているのは知っている。何を思ってこの地下室に閉じこめているのか、わかっているつもりだ。
 だから、フランは首を縦には振れない。壊してしまうから。いろんな物を。だから、無理なんだ、と。
 そんなフランの手を、橙は優しく包むように握る。そこに浮かぶのは満面の笑み。


「壊させないよ」
「…橙」
「私はこの世界が大好きだ。幻想郷が大好きだ。だから、フランには絶対に壊させない。そして知って欲しいんだ。私が住む世界を、幻想郷を。そして…そこで皆で笑って生きて行ければ最高だ」
「……」
「幻想郷は全てを受け入れる。なら、フランだって受け入れてくれるさ。だから――」


 ――行こう。
 優しく耳に届くその声がフランの涙腺を緩ませる。望んで良いの? と。私でも本当に受け入れられるの? と。
 行きたい。あぁ、行きたいとも。…だけど、自分はやっぱりいけない。脳裏に過ぎる姉の顔が最後の一線を踏み留まらせる。


「…でも、お姉様が」
「…フランは、望んでくれる? 外に行きたい、って」
「…望まない訳…ないよ…」
「でも、レミリアの事も心配させたくないんだよね?」
「…うん」
「…じゃあ、ごめんね。でも安心して。フランが心配させる訳じゃないから」
「…え?」


 戸惑うフランが顔を上げると、そこには悪戯めいた表情を浮かべた橙が居た。





 + + + + +





 そして、紅魔館が慌ただしく動き出した。
 一番始めに動きを見せたのは、地下の図書館で本を読んでいたパチュリーだった。彼女はびくり、と身体を震わせると、驚きに眼を見開かせて立ち上がった。


「…結界から、フランが外に出ている?」


 パチュリーが気づき、驚きに眼を見開く頃。また、その事実を感知した者が居た。
 紅魔館の廊下を歩いていた美鈴だ。感じた気配に美鈴は一瞬、呆気取られるも、すぐ側に感じた別の気配に眉を寄せ、美鈴は廊下を勢いよく蹴り、気配の元へと向かう。
 気配を探ると、その気配のスピードは尋常じゃない。館内で一体どのようにしてそんなスピードが出るのか、と。
 気づけば、自分の目の前にある角にまで気配が来ている事を感じる。ならばここで止める、と美鈴はその場で構えを取った。


 ――そして、現れたのは橙。それと橙の背中にしがみつくように乗っかっているフラン。


「ッ! 美鈴ッ!!」
「橙さん! 何故フラン様を――」
「ごめんっ! 押し通るっ!!」


 そして美鈴の問いに答える前に橙は壁を蹴った。反発の能力を作用させ勢いよく橙は館内を駆け抜けていく。壁に、天井に、床に、その全てを蹴りながら橙は駆け抜けていく。それはまるでピンボールのようで、そのスピードも並じゃない。


「くっ! お待ちくださいっ!! フラン様ッ!!」


 美鈴も追いかけようとするが、明らかにあちらの方が早い。閉鎖的な空間での機動力は自分の比ではない。追いかけても先に門を抜かれたら流石にマズイ、と。
 故に美鈴は呼びかける。橙の背にしがみついているフランに向けて。しかしフランは少し視線を美鈴に向け、申し訳なさそうに小さく頭を下げてそのまま橙と共に走り去ってしまう。
 美鈴を抜いた橙は全力で駆け抜けていた。景色がめまぐるしく移り変わっていく。背に感じるフランの気配を感じながら橙は思う。ほんの少しで良い。ほんの少しでも見てくれれば、感じてくれればきっと何かが変わる。そう信じてる。きっとそれが正しいのだ、と。
 だからこそ、超えていく。超えさせて貰う、と橙は前方を睨み付ける。そこには中庭へと続く扉がある。それを蹴り破り、橙とフランは外へと飛び出した。
 そして、砕いた扉の破片と共に外へ飛び出した橙が見たのは、月を背後に背負いながらこちらを睨み付けるレミリアの姿だった。



[16365] 黄昏境界線 29
Name: 道化◆5a734804 ID:d4ec8ce0
Date: 2011/01/29 00:28
「橙、貴様ぁっ!!」
「チィッ!!」


 空より急降下しながらレミリアは橙を狙って爪を振り下ろす。橙はそれを両手をクロスさせて防ぐ。
 レミリアが防がれた爪とは逆の爪を振るい、橙を引き裂こうとするもそれよりも早く橙が反発の能力を使い、レミリアをはじき飛ばす。
 はじき飛ばされたレミリアは地に降り立ち、橙を睨み付けながら殺気を叩き付ける。自分には向けられていないとはいえ、感じる殺気にフランは身を震わせ、橙は息を呑んだ。


「どういうつもりだっ!! 何故フランを地下室から出した!?」
「フランに外の世界を見せたいと思ったから。ただ、それだけだよ」
「貴様…っ!! 今すぐフランを地下へ戻せっ!!」
「断るっ!!」


 怒りを押し殺した声でレミリアは橙に告げる。が、それに返す橙の声もまた揺るがない。互いににらみ合い、隙を伺う。だが時間が無いのは橙だ。このままレミリアと膠着状態を続けていれば美鈴やパチュリーがやって来かねない。
 だからこそ、押し通る。そう決め、橙は一歩を踏み出し、加速する。それを食い止めるようにレミリアが先回りし、その爪を振るう。橙はそれを手首を抑える事で防ぎ、もう片方から迫った手も同じように防ぐ。


「レミリア…ッ! レミリアがどれだけフランの事を心配しているかわかったよ…っ!」
「っ…!!」
「今までずっと、フランを傷つけるのを、フランが傷つくのを恐れて、必死にレミリアなりに守ってきたんだよね…! それを間違ってるなんて、私には言えない!! だけど、それでも、私はフランに見て欲しいと思ったんだ! だから、ほんの少しでも、ほんの僅かでも…フランに、この世界を見せに行くと決めたんだ!! だから…退いてっっ!!!!」


 橙の反発の能力がレミリアの身体を吹き飛ばす。レミリアはすぐに体勢を立て直し、橙を殺さんばかりの勢いで爪を振るおうとした。橙は動きを止めていた。ただレミリアを睨み付けるのみ。そして、レミリアの爪が振り下ろされ――。


「――お姉様ッ!」


 ――その爪が止まる。愛おしいその声に。
 橙の背にしがみついていたフランがレミリアを見上げる。どこか苦しげに歪んだ眉。レミリアはその顔を見て思う。あぁ、お前は一体何に苦しんでいるんだ? 私はそんな顔を見たくはなかった。だから傷つけないように、傷つかないように、私は、お前を…。


「お姉様の気持ち、わかってるから。…だけど、ごめんね。私…それでも、ほんの少しでも良いから見たいの! 橙が笑って話す世界の事! それを見て、知って、笑って帰ってくるから! だから…ごめんなさいっ!!」


 フランは叫ぶ。姉がどんな気持ちで自分を守ろうとしてきてくれたのか。自分の能力を恐れながらも、レミリアなりに尽くしてきてくれた事をフランは知っている。
 過去の事だ。フランが癇癪で人形を壊しても、レミリアはすぐに新しい人形を持ってきてくれた。人形を壊した事を嗜める事はあったけれども、叱った事は無かった。それが自分が怖いから怒れないんだ、と、人形を壊しても新しい人形を持ってくれば済むんだと、自分なんかどうでも良いんだと思った事もあった。
 わかっていない訳じゃなかった。家族が私を愛してくれている事を。だが、孤独は、人との触れ合いが皆無なフランは段々と猜疑心を持つようになり、母を、父を、姉を、全て疑うようになった。レミリアは愛されて、自分が得られない全てを得ているんだと思うと姉にどうしようもない憎しみが募った。
 だけど、違うと知ったのはラクチェが自分の教育係になった時だった。自分が壊した人形や、様々なものは、皆、レミリアのものだったり、レミリアがフランの為に用意したものだったとラクチェは語ったのだ。
 レミリアは何も望まなかった。代わりに望んだのはフランに全てを与える事。自分にはそれしか出来ない。だから、せめてもの慰みに自分のものを全て与えた。自分が得る筈だった全てをフランの為に使った。
 それを知った衝撃は計り知れない。姉を憎んだ自分を恥じた事もあった。だが同時に孤独が人の心を歪ませる事を知った。自分が少しずつおかしくなっている事を自覚した。あぁ、そうだ。あの時からようやく私は正気に戻れたのかもしれない。地下室に籠もり、孤独でいる事で歪み始めた自分の事を。
 扉越しでも、何度も話しかけてくる姉が優しかった。でも疎ましかった。憎かったから素っ気ない言葉で追い返した事もあった。だけど、全てを知った時からフランはレミリアが怖かった。触れ合いたくなかった。じゃないとおかしくなってしまいそうだった。だから傷つけた。そして泣いた。心が酷く痛んだ。本当は愛したいのに、愛せなかった。こんな形でしか姉と触れ合えない自分を呪った事もあった。
 いつしかレミリアの声は聞こえなくなった。孤独だけが自分に優しくしてくれた。歪んだ私にはもう、それしか残ってないんだと思うと切なくて笑えた。これで良いんだ、と。狂ってしまった私には相応しい、と。


 ――だけど、それはただのフランの悪夢だったのだ。


 今、自分を背負ってくれている橙がいる。私に壊されず、私に笑いかけ、私の為に怒り、私の為に尽くしてくれる彼女がいると、フランは知った。そして、自分は狂っていないと、ただ不幸なだけだったのだと彼女は言った。
 私は狂っていない。私は外に出ても良い。一人では無理かもしれない。でもいつかはきっと。そんな言葉は信じられない。信じられる筈が無かった。だが、橙の言葉なら信じても良いか、と思えるようになった。
 初めて真正面から向かい合って、それでも壊れず、真っ直ぐに自分を見つめてくれた橙にフランは長い間、抱き続けていた絶望の殻に罅を入れた。何も望めず、何かを望めば壊してしまうそんな殻に、罅を入れ、光を注ぎ込んだ。
 いつか夢見た日々がある。普通におはようの挨拶を姉とかわし、朝食を一緒に食べ、遊び、寝る時は一緒で、おやすみなさい、と言って眠る。そんな日々を願って、傷ついて、いつしか押し込めて、忘れていた。
 だけど、橙が見させてくれた夢。思い出させてくれた夢。それを叶えたい。全てじゃなくても良い。だから――。


「帰ったら、お話しようねっ! お姉様!!」


 きっと、笑って貴方に話せると思うから。扉越しでも良い。きっと、貴方を笑わせられるから。
 そのフランの言葉と、そのフランの表情にレミリアは呆気取られ動きを止める。その間に動きを止めていた橙がゆっくりと動き始める。
 橙の身体には今、反発による負荷がかかっている。前へと進む力に反発する力だ。だが、それでも橙は身体を前へと踏み出した。そしてその前方には橙のもう一つの能力が発動している。
 反発をゼロにする。反発する空間を抜け、全ての反発から逃れる空間へと橙が飛び込む。


「――大丈夫。約束する。信じて」


 その直前、レミリアに橙はそれだけ告げて風を巻き起こしながら跳んだ。反発に抗った分だけの力が橙を加速させる。フランは加速する橙の背にしがみつく。
 風よりも早く、橙とフランの姿は一気に紅魔館の外へと飛び出して行ってしまった。その背を半ば呆然とレミリアは見つめていた。暫しその背をレミリアは見つめていたが、だらりと両手を下げ、力を抜く。


「お嬢様」


 そこに現れたのは美鈴だ。美鈴はレミリアの背後に立つように現れ、レミリアの様子を伺うようにレミリアへと声をかける。
 だがその声が聞こえていないかのようにレミリアはただ橙とフランが跳んでいったその先を見つめていた。どこかぼんやりとし、力が抜けたような表情だ。
 はぁ、と溜息を吐き出してレミリアは美鈴へと振り向いた。その顔は眉が寄せられて、眼も細められている事からレミリアの不機嫌さが伺える。だがその表情を見ても美鈴の表情は揺るがない。


「…見逃したな?」
「まさか! 私がお嬢様の意に沿わない事をするとでも?」
「…わざとらしい。…あぁ、確かに私の意に沿わない訳じゃないさ」


 わざとらしく芝居がかった仕草で美鈴がレミリアに告げる。その仕草にレミリアは呆れたように鼻を鳴らし、その視線を再び橙とフランが消えていった先へと見つめた。
 空は晴れ渡っている。雨が降る心配は無い。夜明け前に戻ってくればフランが傷つく事はない――。
 そう考える自分がいる事にレミリアはそっと瞳を閉じた。眉を寄せながら手で髪をかき混ぜるように掻き、唇を引き結ぶ。


「……は、ぁ…まったく、困ったものだな。あの馬鹿猫には」
「…お嬢様」
「…フランを泣かせたら…ただじゃ、済まさないんだからな…ったく…くそっ…」


 手のひらを押し上げるようにしてレミリアは瞳を拭った。その手には僅かな水気があった。レミリアはそれを隠すように何度も瞳を拭い、拳を固く握りしめる。


「…行ってきなさい。フラン。そしたら……たくさん、お話しましょう」


 最後にそれだけ呟き、レミリアは口元に笑みを浮かべて瞳を閉じるのであった。その瞳からは一滴の涙が伝っていった。
 その背後にはただ、美鈴が控えるだけ。ふと、美鈴が視線を後ろに反らせばそこには紫色の髪が隠れるように揺れていた。小さく口元に笑みを浮かべ、美鈴は何も言わずにただ空を見上げた。
 良い月夜だ。小さく、美鈴はそう呟いた。





 + + + + +





 空。漆黒の空。だけど、地下室の暗さとは違う闇の色。空に瞬くのは星。そして輝くのは月。星月が照らす光が世界を見せる。豊かな自然の緑の色を。
 胸一杯に息を吸い込む。風の臭いがする。地下室の空気とは違う臭い。肌を撫でる風が少し肌寒くて、だけど、それでも心地よい感触がする。
 橙は森の中へと入り込むように着地した。橙が膝をついて、先にフランが橙の背から降りて大地に足を踏みしめる。
 柔らかい、だけどそれでもしっかりと自分を受け止めてくれる草と土の感触。何度か確かめるようにフランは大地を踏みしめる。そしてもう一度、胸一杯に息を吸う。草の香りがする。生き物の香りがする。


「…はぁ」


 思わず感嘆とした息が漏れた。空気がおいしい。風に揺られて響く森達のざわめきは心を安らげ、肌を撫でる風の感触が心地よい。何もかもが違う世界。あぁ、ここは地下じゃないんだと何度も思い知らされる。
 遠くから生き物たちの鳴く声がする。フランはそれがどんな生き物か知らない。鳥なのだろうか、それとも虫? これは一体何の声? 心がわくわくと、まるで踊り出すかのようだった。
 そっと、そのフランの手を橙が繋いだ。フランが橙に視線を向けると、橙は優しく微笑みを浮かべてフランを見返す。


「ふふ、どこか行っちゃいそうだから確保」
「えー、行かないよ。失礼ねー」
「そう。でも、繋ぎたいんだ。だから良いでしょ?」
「…まぁ、橙がそういうなら」
「そう。なら行こうか」
「どこに?」
「どこかに」


 互いに言葉を交わし、橙とフランは歩き出した。草を踏みしめる音が響き、フランの耳に届く。奧に進んでも森のざわめき、生き物たちの声は止まない。フランは少し目を閉じてその音に耳を傾ける。


「…演奏会みたい」
「演奏会?」
「うん。森の演奏会」
「はは、それは面白い表現だね」
「…変かな?」
「どうだろう。だけど、フランがそう感じたならきっとそれが正解なんだよ」
「橙はどう感じる?」
「私は…どっちかと言えば合唱かな」
「うーん、そっちの方がしっくり来るかもね」


 森の中を歩いて進みながら橙とフランは互いに言葉を交わしていく。森のざわめきが、動物たちの鳴き声が重なり合って、不思議な感覚を胸に思い起こさせる。フランの口元には僅かに笑みが浮かんでいる。
 2人は歩いていく。どこへ向かう訳でもなく、ただ森の中を進んでいく。森の声に耳を傾けながら、ただ歩くだけ。しかし歩き続けるだけというのはなかなかに体力を削られるものだ。フランは小さく息を吐いて。


「ねぇ、橙。ちょっと疲れちゃった」
「んー…じゃあ少し休憩しようか。ほら、あの木の根もとなんか座れそうじゃない?」
「あの木? …ぁ……わぁ…っ!」


 月明かりに照らされる森。その森の中で一際大きい木がフランの目の前にそびえ立っていた。他の木よりも太く、背が高いの木に思わずフランは圧倒される。木を見上げながら歩くフランの足下に注意しながら橙はフランの手を引いて森の中を進んでいく。
 木の根元に来ると、更にその大きさがわかるようだった。両手を広げてもまだ足りない太い木。フランの背など、まるで人と虫を比べる程までに追い越す大きな木。フランは思わず息を呑む。純粋にただその大きさに、凄い、と。


「大きい…」
「そうだね。ここまで大きくなるのにどれだけ年を重ねるんだろうね。木って」
「…私はわかんないよ」
「木には樹齢ってのがあるらしいんだけどね。木を切ると、層が積み重なってて、それを見ると木の年齢がわかるみたいだよ」
「…そうなんだ…」


 そっと、フランは橙と言葉を交わしながらそっとその大木に手を伸ばした。木肌の感触を確かめるようにフランは大木に触れる。目を閉じて、額を押しつけるようにフランは大木に体を預ける。


「…なんか、暖かい気がする」
「木も生きてるからね。温もりがあるんじゃないかな? よく木で作った家にはぬくもりがある、って言うし」
「そうなの?」
「うん。ログハウス、とか別荘を持つ人だっているからね。癒しになるんじゃないかな?」
「…そうなんだ」


 フランは額を離し、空に高く伸びゆく大木を見つめる。その様子に橙は何も言わずにフランの好きにさせる。
 暫くフランは大木を見上げていたが、飽きたのか、首が疲れたのか大木の根に腰をかけて一息を吐いた。橙もまたその隣に座って空を見上げる。


「…木って、凄いね」
「そうだね。木って、凄いんだよ。土砂崩れを防いだり、命を育んだりしてるんだ」
「命を?」
「うん。木を住処にする鳥とか、虫とかいるし、それに木から落ちた葉っぱは栄養になって土を豊かにする。そして森が豊かになって、また命が増えていって、育っていくんだ」
「…森は、皆生きてるんだね。皆で支え合って、助け合って生きてるんだね」
「そうだね。助け合って、支え合ってこの森は生きてるんだ」


 そっか、とフランは呟きを1つ零した後、周囲の景色に目を向けた。この森は生きている。皆が支え合って、助け合って。それはとても凄い事なんだな、と改めて噛み締めるようにフランは森を見渡す。
 そんなフランに橙は笑みを浮かべる。ふと、空を見上げていた橙だが、何かを思いついたようにフランの肩を叩いて。


「フラン、木の天辺まで行ってみない?」
「え?」
「そこからならもっと広く見渡せると思うから。ね?」


 橙の言葉にフランはすぐに頷いた。もっとこの景色を見てみたい、そんな思いがフランを動かす。
 フランが宝石のような飾りをつけた翼を広げて空を舞う。橙もまた空へと浮かび、互いに木の天辺を目指し合う。
 そしてやがて2人は木の頂きへと辿り着く。橙が木の枝の太いのを選び、そこに腰掛けフランを呼ぶ。橙の声にフランも橙の座る枝に腰掛けて、改めて世界を見渡した。


「……凄い」


 月明かりに照らされた世界。人々にとっては暗い先の見えない世界であっても妖怪である彼等にははっきりと見えている。
 森がある。草原がある。山がある。空がある。川がある。そう、そこは地下室では想像する事しか出来なかった世界が広がっていた。物語の中で表現されている世界が目の前にあったのだ。
 当たり前の光景だ。だが、フランにとっては特別なこの光景。フランは見惚れたように世界を見渡す。


「…ここが、私達の住んでる世界、幻想郷」
「…幻想郷」
「まだここから見えない場所だってある。まだ知り合ってないたくさんの人間や、妖怪が住まう場所。忘れ去られ、受け入れられなかった者達が集まる、そんな世界」
「…ここが、橙の大好きな世界?」
「うん。まだここだけじゃない。もっと多くの人や妖怪がいて、その人たちと話したり、遊んだり、教えて貰ったり、それがとても楽しいんだ。生きている事がとても楽しくなる」
「…楽しい、か」


 橙の言葉に相槌を返すフランの声には羨望があった。羨ましいな、というそんな純粋な思い。楽しいだなんて、久しく感じていなかった感情だ。だが橙と話すようになって本当に久しぶりに、楽しいと感じる事が出来た。
 そんなフランの頭を橙は優しく撫でた。フランが橙へと視線を向ける。そこには橙の満面の笑みがある。彼女は微笑みながら告げた。


「フランだってこれから楽しくなるよ。ねぇ、フラン。フランはこの景色を壊したいと思う?」
「…思わないよ」
「だったら、ほら。フランは外に出られるさ。壊したくないと思うなら、能力だって使わないで済むし、それに、壊したくないなら頑張れるよね?」
「…橙」
「生まれ持った物なんだ。仕様がないよ。だけど…それでも生きる事が楽しい。そう感じる為なら能力をコントロール出来るようにすれば、私は、私達はこれからもこの場所で生きていける。そして…この場所を護っていける。それは…幸せな事でしょ?」


 ね? と笑う橙は、本当に嬉しそうで、本当に幸せそうだ。あぁ、とフランは橙の顔を見ながら思う。こんな風にいつか自分も笑えるだろうか。自分の破壊の能力をコントロール出来るようになって、彼女のように自由に外を歩けるだろうか。そうすれば…あの人と、お姉様と私は…。


「…ねぇ、橙」
「ん?」
「…いつか、お姉様とこの景色を、知らない景色を見に行けるかな?」


 遠くを見つめるように視線を向けながらフランは呟くように言う。そのフランの言葉に橙はそっと、フランの肩を叩いて。


「フランが望むなら。きっと、必ずね」


 うん、とフランは頷き、目を閉じて耳を澄ました。まだ森の中からは森のざわめきが止まない。その音にフランは耳を傾け、大きく息を吸った。心はただ、どこまでも安らかであった。





 + + + + +





 手を繋いで空を飛ぶ。橙とフランが目指すのは紅魔館。そろそろ夜明けも近く、吸血鬼であるフランに日光は害にしかならない。
 フランが橙の手を強く握った。不意に強く握られた手に橙はフランへと視線を向ける。フランの視線は俯いていてる。どうしたのか、と橙が問うと、フランはゆっくりと顔を上げて。


「…お姉様…怒ってないかな」
「怒ってるだろうねー。主に私に」
「えぇっ」
「だから素直に怒られてくるよ」


 はは、と笑って返す橙にフランは不安げな顔を浮かべる。そんなフランを安心させるように橙はフランの手を優しく握り直す。そしてフランに微笑みかけて。


「またね」
「…え?」
「明日、とか約束は出来ない。だけど、私はまたフランの所に遊びに行くよ。だから、またね」


 ニッコリと橙は微笑む。どこまでも優しく、どこまでも暖かく。フランは知らず知らず、小さく頷いていた。また明日、そして、またね。また会えると。またこうして言葉を交わすと約束した。
 それがどうしようもなく嬉しい。どうしようもなく心が震えて泣き出しそうになる。あぁ、あの地下室に戻るのが少し嫌になる。また一人になるのはイヤになる。だけど…まだ自分には早い、とフランは思う。
 いつか、自分でも胸を張って能力を制御出来るようになろう。癇癪で破壊しないように、またこの外の世界に出る為に頑張ろう、と。
 互いに言葉はなく、静かに空を飛ぶ。段々と眼下に紅魔館の姿が見えてきたのをフランは確認した。そして…フランは見たのだ。
 紅魔館の門。その入り口で腕を組み、壁に背を預けて目を閉じているレミリアの姿を。その隣には美鈴とが居る。ふと、美鈴がこちらに気付いたように軽く手を挙げた。
 美鈴が声をかけたのか、ゆっくりとレミリアが目を開き、橙とフランへと視線を向ける。レミリアの視線を感じ、フランは不安げに橙の手を握る力を強める。やはり、面と向かって会うのは少し怖い、と。
 大丈夫、と告げるように橙はやさしくフランの手を握る。フランもそれに後押しされるように、表情を引き締める。
 そして2人は紅魔館の門の前へと降り立った。橙も、フランも、レミリアも、美鈴も、誰もが言葉を発しない。ただ無為に時間だけが過ぎていく。


「…フラン」
「…っ…!」


 その沈黙を破ったのはレミリアだった。レミリアに声をかけられて、フランは竦み上がったように体を震わせ、そして、姉の顔を覗き込むように視線を上げた。


「…おかえりなさい」


 そこには、ただ優しげに微笑む姉の顔があった。ぁ、と小さな呟きがフランの口から零れた。怒っていない、逆に笑って迎え入れてくれる。
 おかえり。あぁ、それはただの何気ない言葉だけれど。だけども…それは、ずっと自分が欲しかった何気ない日常の一コマ。出かけていた私が帰る場所に帰ってきて、そしてそこで迎えてくれる家族がいる。


「…ぃ…ま」


 声が震えてしっかりと発音出来ない。瞳の奧から込み上げてくる涙が止まらない。
 そっと、フランの手を握り返す橙の手の感触。それにフランは後押しされているように感じた。そう、まるで頑張れ、と言うかのように。


「…っ…ただいま! お姉様っ!!」


 私には、帰る場所がありました。







[16365] 黄昏境界線 30
Name: 道化◆5a734804 ID:d4ec8ce0
Date: 2010/07/10 20:00
 紅魔館の館のテラス。日傘をさしてティータイムを楽しむのは館の主であるレミリア・スカーレット。その対面に座るのは橙だ。レミリアはティーカップを傾け、紅茶を口に含む。
 それに習うように橙も紅茶に口をつけようとする。だが、カップを口元に運んだところで一度止めて息を吹きかける。それからゆっくりとちびちびと紅茶を口に含む。その仕草を見ていたレミリアは小さく鼻を鳴らす。
 鼻を鳴らされた事に橙は眉を立ててレミリアを睨み付ける。怖い怖い、と言うようにレミリアは肩を竦めてティーカップを置く。橙はようやく熱さに慣れたのか、紅茶を口に含み、ほっ、と一息を吐く。


「…穏やかだね」
「ふっ、お前が来るとフランがうるさいからなぁ」


 うるさい、と言う割にはレミリアは楽しげに言う。それはそうだろう。彼女の長年の悩みであったフランの問題が解決の兆しを見せているのだから。
 ありとあらゆるものを破壊する程度の能力。ある種、呪われた過ぎた力だと言うべきだろう。それによってフランは地下に閉じこめられてしまった。それは確かに不幸な事だろう。出る杭は打たれるのだ。望む、望まないと限らずに。


「…最近はフランも落ち着いている。館の外にこそは出せないが…たまに地下から出してやる事が出来るようになった」
「フランから聞いたよ。地下室に足を運ぶようになったって。お姉ちゃんしてるじゃん」
「…してやれなかったからな。今まで」


 臆病だったからな、と呟くようにレミリアは言葉を口にする。フランを傷付ける事が恐ろしくて結局手を差し伸べる事が出来なかった自分。だが橙というキッカケを得て少しずつではあるがその環境にも改善の兆しが見えてきている。
 自分のやった事は無駄じゃなかった。そう思えば自然と橙の頬には笑みが浮かぶ。そこで不意にレミリアが表情を変える。穏やかだった表情は張り詰めたような表情となり、居住まいを正して橙を見つめる。


「…八雲 橙。改めて、紅魔館の主として、そしてフランドールの姉として、礼を言わせて貰う」
「…いきなりだね。どうしたの? 急に改まって」
「お前はフランを救ってくれた。そしてお前を信頼に値すると私は判断した。…そしてこの話はフランには内密にしてくれ」


 そのレミリアの言葉に橙は居住まいを正す。フランに隠さなければならない程の何かをレミリアが語る。それに自然と橙の心も構えてしまう。一体何が語られるのか、と。
 レミリアは橙が居住まいを正したのを見ると、すっ、と腕を上げた。そして何気なしにその手をゆっくりと握りしめた。すると、だ。橙の目の前に置かれていたティーカップが無造作に壊れた。爆風が起き、テーブルの上が乱れ、罅が入る。


「…な…」
「………」


 爆風を両手で遮るように反射的に構えを取った橙は息を呑んだ。橙は今の現象を感覚的に理解した。反発の能力を持つ橙だからこそ気付いたのだ。今、レミリアが何をしたのかを。


「…どういう事? レミリア」
「……こういう事だ」
「…こういう事って…」
「私はフランと同じ事が出来る。ただ、それだけだ」


 きゅっ、としてドカーン、ってな。とレミリアは巫山戯たように呟く。だが橙は平静ではいられない。両手を勢いよくテーブルに叩き付けてレミリアを見据える。その瞳には困惑がありありと浮かんでいる。


「…フランの本来の能力は、私と同じ運命を操る能力だ」
「…どういう事…?」
「不思議に思わないか? きゅっ、としてドカーン。感覚的に言えば簡単な事だ。だが現象そのものを簡単に説明すると、その物が持つ未来を「殺す」。そうすれば未来を失ったものは崩壊するしかない。爆発するのは本来、その物が持つエネルギーが余剰して爆発へと変換される…」


 理解出来るか? と問うようにレミリアは橙を見据える。橙は両手をテーブルに付けたままレミリアを見据える。


「…じゃあ、何? フランが今まで閉じこめられてたのは何だって言うんだよっ!?」
「……」
「レミリアと同じなんでしょ!? 同じなのにどうしてっ!!」
「同じじゃないさ。――フランの方が力が強大なだけさ」


 感情を露わにする橙に対してレミリアは静かに答える。その仕草はどこか疲れたようにも見えて橙は思わず息を呑む。


「強大が故に、それを1つの方向性にしか理解が出来ない。それがどういうものなのかは感覚的にわかっていても、私のように理性的には理解出来ない。故にフランは壊す事しか出来ない。だが将来的には――運命を自由自在に操る事が出来るようにもなれるかもしれない」
「……な……」
「私は精々キッカケを与えるだけだ。そして変化させる。それは誰にだって出来る。ただ私は意図した方向に転がせる。だが、それを確定させる事は出来ない。だがフランなら…私以上の事が出来るようにもなるかもな」


 レミリアは口元に皮肉げな笑みを浮かべる。天を仰ぐように視線をずらして額に手の甲を乗せる。


「…私の能力がフランの能力と同じだと言う事を知った時、どうしようもなく絶望した。そして覚悟したんだ。―――私は、フランを守る、と。何をしようとも、何を犠牲にしようとも、私はあの子を守る。私がどうなっても良い。例え…憎まれ、疎まれ、殺されようとも、だ」
「……レミリア」
「…お前に話したのは、きっとお前ならフランを頼めると思ったからだ。無論、私とて死ぬつもりは無い。…だけどな、フランになら、仕様がないかな、とは思ってる」
「……どうして、私なのさ」
「お前は優しいからな。すまんな、その優しさを私は十分に利用させて貰うよ。お前はフランを守ってくれ。フランは優しい子だ。真っ直ぐに世界を見られて、笑っていられるままで送り出してやりたい。いつかあの子が自らの能力の使い方を覚えて、間違わないように」


 だから、とレミリアは橙を見つめて。


「…だから、これからも出来ればあの子の事をお願いしたい。私だって、死にたくはないし、フランに殺しても良いなんて思われるような姉でありたい訳じゃない。…だが、いつかきっとフランは知るだろう。自分の力の正体を。その時、フランがどんな答えを出しても、傍に居てやって欲しい」


 レミリアの言葉を受けて橙は一度、瞳を伏せる。暫し、間をおいてふぅ、と溜息を吐き出して、すぅ、と指を伸ばす。指を伸ばした先はレミリアの傍にあるティーカップ。


「紅茶、お代わり」
「え?」
「約束はしない。けど…情が移っちゃったからね。精々、やれる事はやるよ。責任は持たないけどね。それはやっぱり、レミリアが持たなきゃいけない責任でしょ?」
「…えぇ」
「だから私はこう言うよ。――フランと遊ぶのも、レミリアを紅茶を飲むのも楽しいってね」


 橙の言葉にレミリアは目を瞬きさせる。暫し、目をぱちくりと開いて橙を見つめていたレミリアだったが、不意に息を吹きして笑みを浮かべる。それは次第に吹き出した息は笑い声へと変わっていって。


「私も嫌いじゃないよ。こういう時間はね。今すぐ美鈴にお代わりを持って来させよう」
「ん、どうも。レミリア」
「なに…。……友達だろう?」


 レミリアが告げる一言に、橙は小さく吹き出し、満面の笑みを浮かべるのであった。





 + + + + +





 その日、結局、橙はフランに捕まり、紅魔館にお泊まりさせられる事になった。しかし紅魔館の来客用のベッドは橙には慣れない高価なものであった為に橙は寝付く事が出来なかった。
 頭を掻きながら紅魔館の廊下を歩く。吸血鬼の館は日光が入りにくい構造となっている為に暗い。それでも妖怪の目ならば容易に歩けてしまう。橙は昼間とは打って変わって静かになった紅魔館の廊下を歩いてゆく。


「…なんか、もう慣れちゃったよね」


 キッチンへと足を向ける橙。水の一杯くらい頂こうか、という考えだ。そう思いながら橙が歩いているとだ。橙は奇妙な感覚を捉えた。なに、と橙が思った瞬間だ。
 ずぷり、と。橙の躯に何かが突き刺さるような感覚。え、と思うのは遅く。だが、それでも躯は反射的に動いた。反発の能力が内側から爆ぜるように自らを侵そうとした何かをはじき飛ばす。


「――ご、ふっ…!」


 だが、橙は吐血した。当たり所が悪い。急所を的確に狙われた。反発の能力ではじき飛ばしたが、それでも遅く、少なからず傷を負ってしまった。橙は視線を移す。そこには影がある。
 橙はその姿を確認して目を驚きに見開かせる事となる。そこに居たのはまだ年端も行かない少女であったからだ。その手には自分の血で汚れた銀色のナイフを手にしている。冷めたような感情を伺わせない紅の瞳に橙はゾッ、と背筋を振るわせた。
 まるで人形。意志も、感情も感じられない瞳に橙はまるで得体の知れないものを見るような物を見るような感覚を橙は憶える。


「…まだ、動く…」


 少女が感情の無い無機質な声で呟きを零した。そして再びの奇妙な感覚。橙は肺に息を溜め込むように吸い込み、腹に力を込め。


「喝ァッ!!!!」


 吐き出した。同時に放たれたのは反発の波動だ。自身に、そして自身の周囲に何かの影響を及ぼそうとした能力に対しての反発を行う。瞬間、世界がひび割れる音のようなものを発止、自分に飛びかかろうとした少女が目を見開くのを橙は見た。
 橙はナイフを突き出した形の少女の腕を取る。そしてそのまま地に抑え付けるようにして腕を取る。間接を決められた少女は苦悶の声を挙げてナイフを取りこぼした。カラン、と音を立てて落ちるナイフを見て橙はふぅ、と息を吐き出す。
 改めて橙は見る。自らの抑え付けている少女が待とうのは黒一色の服だ。どこかで見たことがあるような、と首を捻り、彼女の首もとに揺れていた十字架のペンダントを見て、ハッとしたように目を開く。


「…シスター…?」


 シスターとは教会に使える女性の筈、と橙は曖昧な知識を掘り出しながら思う。ではこの子は教会の所属。教会は魔を嫌う。魔女、悪魔、それは教会にとっては忌むべき敵である。
 ここには悪魔の中でもポピュラーな吸血鬼であるレミリアやフランが。更には魔女で言うならばパチュリーがいる。何らかの情報でこの場所を突き止めたこの少女がレミリア達を殺しに来たと考えるのが自然か、と橙は思う。


(…いくら能力持ちだからって…こんな小さい子に…)


 幻想は実在する。だが外の世界では幻想とは既に否定された存在だ。故に、存在はしてもそれは現れれば見せ物か、もしくは異端として忌避されるかだ。故に隠される。隠され、都合の良い道具として扱われる。
 そんな末路を橙は想像して眉を歪めた。これはあくまで橙の想像の中の話であって実際この子が歩んだ道とは限らない。だがそうだとしても、そうじゃなかったとしても、こんな幼い少女が何かを殺すという事を行う事が橙の胸を痛めた。


「――ほぅ、侵入者か?」


 不意に声がした。それはこの紅魔館の主であるレミリアだ。興味深げに橙が抑え付ける少女を見据えながらレミリアは靴音を鳴らせながら歩み寄ってくる。


「…レミリア…」
「…お前に手傷を負わせる、か。…どれ、…ふむ…」


 レミリアは少女と目を合わせるようにしてしゃがみ込んだ。橙に抑え付けられた少女の瞳は何も移さない。絶望も、希望も、悔しさも、だ。ただガラスのような何も移さない瞳でレミリアを見据える。
 何気なしにレミリアは少女へと手を伸ばす。それが少女の頬に触れようとした瞬間に少女はレミリアの指に歯を立て、噛み千切る勢いで噛んだ。お、とレミリアが驚いたような顔をする。


「レミリアッ!?」
「喚くな。この程度の傷でどうにかなる程ではない。…しかし、ふむ…」


 少女が噛む指を引き抜く。自らの血と少女の涎に汚れた指をレミリアは自らの舌で舐め取る。少女はレミリアの血がまるで不快だ、と言わんばかりに床に吐き捨てる。その仕草を見て更にレミリアは笑みを浮かべた。


「…気に入った。お前が気に入ったよ、純白の娘よ」
「……?」
「どうだ? 私を殺したいのだろう? なら、私の心臓にナイフを突き立てるが良い。一度だけ許してやろう。出来なければお前の運命は私の手の中に、というのは?」
「レミリア!?」
「橙、その小娘を離せ」
「な…離せる訳が…」
「いいから。…私を信じろ」


 レミリアは安心しろ、と言うような笑みで橙に告げる。橙がそれに一瞬、力を抜いた瞬間だった。少女が半ば強引に橙の拘束を振り解くようにしてレミリアへと向かっていく。あ、と橙が声を漏らして制止しようとした瞬間にはもう遅い。
 レミリアは自然体で立っている。その顔に不敵な笑みを浮かべて構えることもなく、だ。そして橙は再びあの奇妙な感覚を感じた。
 そして橙は見た。一瞬にして変化していたその光景を。少女のナイフは抵抗も何もないレミリアの肉体へと突き刺された。心臓へと銀のナイフが突き立てられるその様を。
 あ、と橙が目を見開く中、橙は見た。心臓を突き刺されたレミリアが吐血したのを。そして吐血したその口元が――笑みに歪んでいたのを。少女が驚いたように目を開き、ナイフを抜こうとして躯を退こうとした。それが一瞬の隙となった。


「――残念。お前が私の心臓を穿つ運命は私が奪わせて貰った。だが、約束は約束だ。お前の運命、私が頂く」


 少女の頭を掴み、レミリアはそれを勢いよく床に叩き付けるようにして廊下に押し倒した。鈍い打撃音が響き、少女がくたりと意識を失ったのか力を抜く。ふぅ、と息を吐き出したレミリアは胸元に刺さったナイフを引き抜く。
 ごほ、と咳き込むレミリアの手には血が付いている。ふぅ、と咳を堪えるようにして息を吐き出すレミリアはナイフを突き立てられた部分をそっと撫でた。


「……片肺は持ってかれた、か。やれやれ…銀のナイフの傷は塞がりにくいんだがな…」
「レミリア…何でこんな真似を…?」
「何。ちょっとした―――気紛れだ」


 ふっ、とレミリアが笑みを浮かべて橙に言うのと同時に廊下の奥から駆けてくる音がした。それは美鈴だ。美鈴は橙とレミリアの姿を見て眉を顰め、すぐに2人の下へと駆け寄って気による治療を施す。
 そして事情を説明された美鈴はレミリアへの小言をレミリアに告げている。その間にもレミリアは意識を失った少女を自らの太ももに乗せるようにして頭を撫でていた。橙はそんなレミリアの姿を怪訝そうに見つめるのであった。





 + + + + +





「…ふぅん。昨夜、そんな事があったの?」
「そうなんだよ…」


 後日の事。橙は眉を寄せながらパチュリーの下に居た。話すのは先日の夜の事。例の襲撃者は今は隔離されている。客間の一室に、だ。レミリアは今はそこにいるらしい。美鈴が朝起きた橙にそう告げていた。
 橙はレミリアが気紛れと称した行動が読み取れずに居た。何を思い、レミリアはあの少女に自らの心臓を刺させようとしたのか? 何かの意図があったのはわかるが、わざわざあんな怪我を負ってまで何がしたかったのか? と。
 それを聞いたパチュリーは不意に本へと落としていた視線を橙へと向けた。すっ、と指を指して。


「…貴方の影響ね」
「え? 私の?」
「貴方の話を聞く限り、ね。レミィは……まぁ、気紛れとは言うでしょうけど、なら気紛れという事にしておきましょうか」
「? どういう意味?」
「貴方が知らなくても良い、という事。レミィはそれを認めないだろうし、貴方はそれを知って何か得るものがある訳じゃない。私が教えても結果はどうせ同じだろうから」
「…ますますわからないよ」
「だって、貴方だものね」


 ――禄に知らぬフランの事を救おうとした貴方の姿に、かつて救えなかった自分の過去からレミリアはその子供を救おうとしたのだろう、と
 パチュリーは推測は口にしない。口にしたところでこの目の前の化け猫が何か得る訳でもない。逆に何か余計な事を口走りそうだ。そうでなくても自分なんて、と謙遜の言葉しか出てこないだろう。
 やれやれ、とパチュリーは肩を竦めた。それでも不器用過ぎるだろう、と親友の顔を思い浮かべながらパチュリーは溜息を吐き出すのであった。





 



[16365] 黄昏境界線 31
Name: 道化◆5a734804 ID:d4ec8ce0
Date: 2010/10/14 14:35
 ――時は流れる。
 符が宙を舞う。妖怪の力を封じ、滅する力を秘めた符だ。それは投擲者の意志によって向かってゆく。向かうべきは空。空に浮かぶのは1つの影だ。日の光を背負うようにして眼下を見下ろす影は口元をやや緩める。
 だがそれも一瞬。符から逃れるように身を捻る。僅かな動作で符は影を追い抜いていく。だが追い抜いた符は逆転して影へと迫る。お、と声が影から漏れた。それは感嘆とも取れる。そして再び、身を捻り。
 そこに迫るのは朱と白の玉だ。陰陽玉と呼ばれる秘宝。それに込められた霊力がヒシヒシと肌に伝わる程だ。本気だなぁ、と影は呟く。暢気とも取れるような発言の間にも陰陽玉は影へと迫る。


「――せぃ、やッ!!」


 裂帛の一声。歯を噛み締めれば口の中で響く歯と歯の軋む音。影の腕は細い。だがその腕に込められた力は尋常ではなく。振るわれる。拳が陰陽玉に向かい――殴る。叩き付けられた拳と陰陽玉は拮抗する。
 が、それも僅かな間。陰陽玉は影の拳に破れて地へと落ちる。だがその犠牲は無駄ではなく、影の動きは確かに止まっていた。それは一瞬の停滞。されど一瞬の停滞。その一瞬こそに全てを賭ける者がいた。
 空を突き抜けてくる影があった。空を一直線に駆ける影が纏うのは紅白の衣装。日本での伝統的な衣装である巫女服を着るのは、この世界において調停者の名を背負う守護者、博麗の巫女であり、それはつまり―――博麗 霊夢他ならない。


「――夢想、」


 手にした御祓い棒を振り抜き、妖魔を滅する霊力の光が幾多にも溢れてゆく。周囲の空気が放たれる霊圧によって震える。博麗 霊夢の持てる全力を込めた封邪の光は確かな威力を持って―――。


「――封印ッ!!」


 ―――放たれる。
 陰陽玉の迎撃に動きを止めていた影は霊夢の姿を見て確かに笑みを浮かべた。その嬉しさを表すかのように二股の尻尾が揺れる。


「流石」


 お見事、と続け。霊夢の放った光は――――。





 + + + +





「―――このデタラメ猫」
「デタラメとは酷いなぁ…」
「夢想封印を無理矢理打ち破るってどんな能力してるのよ。相変わらず。腹立つ能力持ってるわね」
「霊夢の能力に言われたくないなぁ、こっちは防ぐ事しか出来ないのになぁ」
「…嘘つき。しないだけでしょ、橙」


 博麗神社の縁側。機嫌が悪そうに、だがそれでもしっかりと茶を出している霊夢に苦笑を浮かべるのは八雲 橙だ。どこか困ったように尻尾を揺らしていると、その尻尾を思いっきりお盆に叩き付けられて橙は思わず「ひぎぃっ!?」と短い悲鳴を上げた。
 そして涙目になる橙の顔に少しスッキリしたのか、霊夢は小さく息を吐き出してお茶を啜りだした。橙は叩き付けられた尻尾を撫でながら霊夢の仕草を見る。あれから時は流れるのも早く、霊夢は既に幼子から少女へと至っていた。
 そして、先ほどの霊夢と橙の戦いは稽古であり、その結果は霊夢の敗北であった。霊夢が完全に捕らえた、と思った夢想封印は橙の発した妖力によって相殺され、自らのまた橙の接近を許して王手へと至った。
 あまりの力業一辺倒の所行に霊夢は完全に機嫌を損ねている訳だ。無論、霊夢が無能な訳ではない。そこら辺の低級妖怪など本気も出さずに終わるだろう。だが橙とてまた無能な存在である訳もない訳で…。
 更に霊夢が不機嫌なのは橙は霊夢の急所を確実に捕らえる前に拳を止め、私の勝ち、と宣告して決着としたのだ。こちらは本気で殴ろうとしたのにも関わらず、手加減された。霊夢が怒るのも無理はない。舐められている、と取っても何もおかしくはないのだから。


「ホントだって。霊夢。信じてよ」
「いいえ、信じないわ」
「霊夢ぅ…」
「……ふん」


 鼻を鳴らして霊夢は橙にそっぽ向いた。やや長めに伸ばした黒髪が揺れる。赤いリボンによって結われた黒髪は美しい。だが霊夢の事だ。あまり手入れもしていないのだろう。そういう所には無頓着な彼女だ。
 どれ、と橙は思って霊夢の頭を撫でるように振れた。霊夢はびく、と身を揺らして抵抗しようとしたが、すぐに橙によって丸め込まれて為すがままにされる。


「ぅー…」
「はいはい。敗者は勝者の言う事を聞くものでしょ?」


 何度か橙は霊夢の髪に触れる。手入れされているのか、いないのか。わからないがそれでも綺麗な髪は保たれている。博麗の秘術に不老や美容健康の秘術でもあるのだろうか、と橙は半ば真剣に悩む。
 しばらく髪に触れられていた霊夢だったが、これ以上は金取るわよ、と封魔針を橙に突き付けた事によって中断させられる事になった。


「んじゃ、霊夢の様子も見たことだし。帰るよ」
「さっさと帰れ馬鹿猫」
「ちゃんと料理しなよ? 面倒臭がんないで」
「してるわよ! あーもう、うるさいからさっさと帰れッ!!」


 今度は本気で封魔針が飛んできた事によって橙は慌てて逃げ出すのであった。そんな橙が去っていくのを霊夢は見送った後、ふん、と機嫌悪そうに鼻を鳴らして茶を啜るのであった。





 + + + +





 橙が向かっていたのは紅魔館だ。紅魔館の入り口には美鈴が立っていた。…立ったまま寝ていた。その美鈴に橙は苦笑を浮かべて、あんまり寝るなよー、と軽く声をかけて中へと入っていった。
 美鈴の服装はメイド服ではない。中華洋式の衣装であった。それを改めて見た橙は軽く肩を竦めて紅魔館のドアを開いた。すると、中では妖精メイド達が慌ただしく仕事? をしていた。遊んでいるようにも見えるのはやはり妖精故にか、と橙は苦笑する。


「あら、橙様。いらっしゃいませ」
「あ、お務めご苦労様。咲夜」


 咲夜、と橙が呼んだのは霊夢と同年代の少女であった。メイド服を纏った銀髪の少女。そう、いつぞや紅魔館に襲撃した例の少女である。咲夜、という名は何の気紛れを起こしたのか、レミリアによって付けられ、こうして彼女は今、紅魔館にメイドとして仕えている。
 その間に過程に橙は何があったのかは実はあまり詳しくない。紅魔館に来れば橙は大抵はフランに捕まるからだ。後は他にもパチュリーに色々と頼み事をしなければならない事があり、パチュリーの雑用とされているのにも理由がある。
 そんな訳でちょくちょく顔を合わせる咲夜との挨拶もそこそこに橙は紅魔館を歩き出す。そんな橙の背に咲夜は声をかけた。


「今日はフラン様ですか? それともパチュリー様ですか?」
「パチュリーに。例の頼み事だよ」
「そうですか。お茶はお入れしますか?」
「んにゃ、すぐ帰るから良いよ。んじゃ」


 咲夜に背を向けたまま手をヒラヒラと振り、橙は紅魔館の図書館へと向かっていった。





 + + + +





「や、パチュリー。いつも悪いね」
「えぇ、その分の対価は頂いているから気にしなくても良いわ。――小悪魔」
「はい。橙さん、こちらが橙さんの頼んでた魔導書になります」


 図書館でいつも通り本を読んでいたパチュリーに橙は声をかける。そんな橙に視線を向ける事無く、手元の本に意識を集中させながらパチュリーは小悪魔に指示を出す。指示を受けた小悪魔は橙に幾つかの本を示す。
 橙はそれを受け取り、ありがとう、と礼を告げる。それを大事に扱うように袋へとしまった後、背に背負う。本がずれたり折れてしまったりしないように気を使った上での処置だ。


「…悪いね。パチュリーにとっては大事なものでしょ?」
「言ったでしょ? その分の対価は頂いている、と。もっと支払って貰っても私としては構わないけど…」
「ごめん、それ無理」
「なら、悪いなんて言わなくて良いわ。私も貴方からギリギリまで絞ってるし。これ以上絞ったら――先がないじゃない」


 まるで、つまらない、と吐き捨てるようにパチュリーは橙に冷ややかに告げる。あぅ、と橙は唸った後に頬を掻き、そして溜息と共に項垂れた。そしてそのどこか暗い雰囲気を纏ったまま、紅魔館の図書館を後にしようとする。


「そう言えば、橙さん。その魔導書を手渡す子供の才能はどうなんですか?」
「…どうだろうね。魔法の事は私、よくわからないからさ。…でも」
「…でも?」
「あの子は、凄い努力家だから」





 + + + +





「…まぁ、そう言った手前、君はただの努力家だって終わらせたいんだけどね…」
「何の話だぜ…? ってか、おい、勝手にものをずらすなよ」
「こんなゴミが何の役に立つの? もう、少し目を離すとこれだもんなぁっ!!」
「いーから勝手に片付けとかやめろよ!!」


 魔法の森と呼ばれる森がある。湿度が高く、キノコが異常に繁殖し、そのキノコが見せる幻覚が魔法だと誤解された事からこの森は魔法の森と呼ばれている。妖精や一般的な妖怪でさえ滅多に近寄らない森。
 だがそこに群生しているキノコは魔法の森を形成しているキノコだけであって魔法使いにとっては研究の材料となる事も屡々であり、前述の通りに妖精や一般的な妖怪ですら近づかないこの地は隠れ蓑としても最適である。
 そんな森の中に立つ家。その家に住むのは少女だ。黒と白の二色が目立つ色彩の服を着込んだ魔女風貌。その少女の名は―――霧雨 魔理沙。かつては人里に住んでいたが、今は実家を飛び出して魔法使いの道を突き進む少女だ。
 橙は彼女の約束を憶えている。彼女が大きくなったら立派な魔法使いになって人里を護る、と。彼女がそれを憶えていて、今、魔法使いとしての道を歩んでいるのかは橙にはわからない。
 だが、それでも橙は魔理沙の背中の後押しをしていた。パチュリーに頭を下げて魔導書を見繕って貰い、それを魔理沙へと渡す。そうして魔理沙の家を掃除する。それがいつもの流れ。


「あ、おい! 勝手に私のものに触るな馬鹿!!」
「馬鹿はどっちさ! あぁッ!? 洗濯物までこんな所に放置してッ!!」
「そ、それは溜まった時に洗濯しようと思ってだな…」
「信じられない!! もうっ、すぐに洗濯するからねっ!! …まだ埋まってそう、先に部屋の片付けだね…」
「私が自分でやるから出て行けってーのッ!!」


 そして押し問答の結果、結局魔理沙に家を追い出される橙であった。





 + + + +





「まったく! 魔理沙は本当に適当なんだから!」
「……」
「藍様、聞いてるんですか藍様!!」
「あぁ、聞いているとも。その話は既に3回目だぞ?」
「…あれ?」
「まったく…不満に思うのはわかるが、同じ話を繰り返すのはあまり良くないぞ?」


 苦笑を浮かべて藍は橙に告げた。藍は結界の見回りを終えた帰りだ。そこを魔理沙に追い出された橙がやってきて、こうして藍へと魔理沙への不満をぶちまけていた。それを受け止める藍はどこか苦い顔を浮かべる。
 そんな藍に対して橙は謝罪をする。いいさ、と藍は話を切り上げて橙に今日は何をしたのか訪ねた。橙は霊夢と咲夜に会った事を話した。それを聞いていた藍が不意に小さく呟いた。


「…しかし。随分変わったものだな、霊夢と魔理沙、そして咲夜という子もか」
「…ん?」
「お前のしていた最初の話からすると、大分印象が変わって聞こえる、って事さ」


 藍は霊夢以外には面識がない。唯一面識がある霊夢とさえだってあまり関わりがない。故に彼女達の事を聞けるのは橙の話以外、不可能になる訳で。
 そこで橙から過去に聞いた話と今の話を聞いていると、どうやらその子達はそれぞれの環境でそれぞれの成長をしたように思える。


「…藍様」
「ん?」
「…私も、成長してるんでしょうかね?」


 藍の変わった、という話に橙は思わず自分を顧みる。自分は変わっているのだろうか、と思う。大きく変わった起点は思い出せる。だが、それから自分は成長しているのだろうか、と。
 そんな橙に対して藍は橙の頭に手を伸ばして軽く撫でる。それに橙は藍へと視線を向けると、藍は笑みを浮かべて。


「大丈夫だよ。お前は。だから、不安にならなくて良い。お前はお前らしくあれば良いさ」


 そう言って藍は橙の頭から手を離す。やや、藍が橙よりも先に空を飛んでいく。軽く呆けていた橙はその口元に小さく笑みを浮かべて、藍の名を呼びながら、藍の背を追って空を飛んでいくのであった。



[16365] 黄昏境界線 32
Name: 道化◆5a734804 ID:de87e9fa
Date: 2010/10/14 18:56
 私にとって妖怪とは、恐れるべき存在では無かった。その力が人間と比べ、圧倒的に優れていて、人に害を為す存在だと知っていてもだ。
 それに抗う力を持って育ち、それを使命としてこの身に命じていたのだから。故に妖怪に恐れを成す事はまず無い。
 そして、妖怪といえど、彼らには人間のように個性がある。笑えば泣き、怒りもすれば悲しみもする。それは人間から見て異形の部位などが無く、異形の気配さえ無ければ人間として見てもおかしくはない。
 その筆頭に浮かぶのが一人の少女の姿だ。そいつはいつも優しげな笑みを浮かべてこっちを見ている。その視線を受けているとどうしても背筋が痒くなるというか、落ち着かなくなる。
 あいつとの出会いは、恐らく最も古い付き合いだと思う。一番最初に妖怪に出会ったのは恐らくあいつだし。その影響なのか、私は妖怪を恐れる要因が無い。
 あいつは確かに妖怪として力を振るえば、人間などあっさりと殺してしまえるだろう。私だって本気になったあいつと勝負をして勝ちを持ち込めるか? と聞かれれば正直、悔しいことに難しい。
 だがあいつはその力を無闇に振りかざす事はしない。逆にそんな力を持っているのか、と疑わしくなるぐらいにあいつは優しいし、悪く言えば間抜けだ。子供達と遊び、大人達と気軽に世間話をして。
 そして、いつも笑っている。穏やかに、楽しそうに、幸せそうに。私は…やっぱりあいつを思い出すと、そんな笑顔が真っ先に浮かんでくるのだ。





 * * *





 幻想郷の歴史には「異変」と呼ばれる幻想郷の大きな事件が記されている。それには様々な異変がある。時には幻想郷に甚大な被害をもたらす。そして今回、幻想郷の歴史にある異変の名が刻まれる。その名を――「紅霧異変」と呼ばれた。





 * * *





「というわけで、見ろよ、霊夢。空が紅い霧に覆われてるぜ?」
「えぇ、見事に真っ赤ね」


 ずずっ、と霊夢が茶をすする音が縁側に響いた。そんな霊夢に話を持ってきた黒白の魔法使いの出で立ちをした魔理沙は苦笑を浮かべた。魔理沙が言うように、空は紅の霧によって覆われている。
 日光が遮られ、やや気温は肌寒い。その所為で人里には大きな影響が出ている。農作物は日の光を遮られたばかりか、気温の低下によって不作の懸念がされている。さらに霧を吸い込んだ者たちの中には体の異常を訴える者まで出てきた。
 そんな中、魔理沙に報告されるまでもなく霊夢は人里から異変解決の要請が出されていた。放置しておけば被害が増えるだろうし、何より幻想郷の結界の外へと紅霧が漏れる可能性がある。
 幻想郷は常識と非常識を分かつ結界に覆われている。幻想の漏洩は幻想郷の崩壊にも繋がりかねない。幻想は幻想に。消え入った者たちが易々と外には関わってはいけない。
 やれやれ、と霊夢が気怠げに首を回しながら立ち上がる。ふと、懐へと手を伸ばし、中から何かを取りだした。


「…ルール制定後にわざわざ狙った異変、か。なんか、焦臭い気もするんだけどな」


 そう、それはスペルカードと呼ばれるものであった。
 スペルカードルール。それは最近、霊夢発案の下、幻想郷の管理者である妖怪が纏めて発行された新しい「決闘方法」である。
 元々、幻想郷は妖怪の力が低下し、争いなども縮小化していく事を懸念していた妖怪達が多く居た。そんな妖怪達が何か打開策は無いか、と考えていた時に霊夢の何気ない一言がそれを打ち破った。


 ――別に、決まり付けてやればどこでどう戦おうが別に良いでしょ。


 霊夢らしい、適当な意見。だがこれを耳にしたある妖怪が管理者である妖怪に告げたところ、その結果、スペルカードルールというものが誕生した訳である。
 概要としてスペルカードルールを説明すると、模擬戦感覚に近い。予めこちらが出す技をスペルカードとして宣言しておき、それを発動と宣言し、それを攻撃に移す。
 手の内がわかっていれば避けられる、という簡単なものではつまらない、と、死なない程度の通常戦闘も交えた決闘方法。外の世界で言うならばスポーツ感覚に近いだろうか。
 しかしまだ出来たばかりのこのルール。果たして応じてくれるものかどうか、と霊夢は思う。一応、何故か発案者として名前を挙げられている以上、真っ先に無視する訳にもいかない。
 尚かつ、霊夢は理解している。自分が本気で殺し合いなど妖怪相手にしようものなら――まず、勝つのは難しい。負けない、とは言わない。だが勝てる、とも言えない。本気でギリギリのところまで戦わなければいけないだろう、と。
 逆にこのルールがある、という事で霊夢の精神は至って落ち着いていた。そう、霊夢にとってこのスペルカードルールというのは日常と化している。思い出すのはあの黒猫の―――。


「――ま、良い機会、か」


 小さく、ぽつりと霊夢は呟いて地を蹴った。ふわり、と霊夢の体が浮かび重力より解き放たれる。


「おい、霊夢。どこ行く? 目的地はわかってるのか?」
「さぁ? でもま、適当に行けばわかるでしょ」
「おいおい、適当かよ」
「えぇ、強いて言うならば、私の勘」


 適当に霊夢はそう返答を返し、魔理沙に告げたように自らの勘が赴くままに空を駆けるのであった。





 * * *





 私にとって、博麗の巫女というのは特別な存在だ。だがその特別という価値観は一般的な人里の人達が思うような特別とは違う。私にとっての特別、というのはこいつは友人であり、同時に目標であるからだ。
 今でも覚えているこいつとの最初の出会い。気に入らない、気にくわない。そんな彼女の何かと気を回していたあの人の顔がちらつけばちらつく程、博麗の巫女に対する不満が募っていった。
 博麗の巫女は特別だ。だから、普通とは違う。私もそのままなら良かったのかも知れない。もしかしたら私も人里の人達と同じようにただ特別視しただけで終わっていたかも知れない。
 だが、私は約束した。だからこうして私は空を飛んでいる。魔法使いとして。
 護る、と。力になる、と約束した。だから必死に勉強した。必死に修行した。親の反対を押し切ってでも魔法使いになると心に決めた。楽な事じゃない。辛い事もあった。だけど、それでも約束した。
 ちら、と私は前を行く霊夢の姿を追う。切っ掛けは何だっただろうか。私が自分の魔法に自信を持った時ぐらいだろうか。こいつに喧嘩を吹っかけたのは。そしてそれからだ。私と霊夢の今の関係が始まったのは。
 最初はいがみ合うだけだった。だが、いがみ合うだけが私の目的では無かった。認めさせたかった。私という存在を。あの時、初めて一緒に遊んだあの日、まるでどうでも良いという存在だった私を認めさせてやりたかった。
 そうすれば、約束を守る事に繋がると思った。居もしない存在だとされれば、何がこいつの力になるだろうか。認めさせなければならない、と思った。対等に付き合える存在なのだ、と。
 そんな張り合いを続けていく内に、いつの間にか私は神社に入り浸るようになっていた。お茶を要求するようになったのはこちらが勝った時に勝者の特権として要求した事から始まったのだろうか。
 今ではよくわからない。必死になって追い求めてきた。ただ、その結果だけを求めていた。今はどうなのだろうか? 私は約束を果たせているのだろうか? そんな自問自答。
 答えは、きっと今日にもでも出るかもしれない、と何気なく空を仰いだ。その空は紅く、太陽の光など遠い。だが何故か、その霧の向こうに太陽があるのだと想像するとアイツの顔が浮かぶ。


「…やれやれ、毒されたかな、私も。お節介だな」


 帽子の鐔を指で挟むように掴み、被り直す。今までの努力は無駄ではない、と証明する良い機会だ。約束を果たす。あの日から誓った誓いを護ろう。


「…そういやアイツ、何してるのかな?」





 * * *





 霊夢の勘を頼りに霊夢と魔理沙は空を行く。空は紅霧が広まっている為か、やや肌寒い。夏だというのに肌寒いというのは如何なものか、と魔理沙が考えているとその霧の濃度がやや濃くなったように感じた。


「おい、霊夢」
「わかってるわよ」
「…ってか、勘ってすげー。お前、本当にそれ勘か? 未来予知の類じゃないのか? 巫女なだけに」
「知らないわよ、そんなの」


 霧の濃度が濃くなるということは発生源もまた近い、という事だろう。それを勘だけの移動で元凶への道を見つけてしまうのだから、魔理沙が霊夢に未来予知の能力があるかどうか疑ってしまうのも自然の流れだろう。
 霊夢は自分にそんなものは備わっている自覚はない。あるかもしれないし、ないかもしれない。が、霊夢にとっては別にどっちでも良い。あろうがなかろうが霊夢にとっては関係ないのだから。
 暫く進むと、そこには巨大な湖が見えてきた。一度、そこで霊夢と魔理沙は止まり、湖の奥、霧で遮られたその向こうを見据えた。


「…この先、って確か」
「…えぇ、吸血鬼が住まう館がある場所。…つまり、今回の紅霧は」
「吸血鬼の仕業、って事だな」


 そうと決まれば善は急げ、と魔理沙は笑みを浮かべた。対して、霊夢は表情を引き締めて霧の向こうへと向かおうとして。


「ちょーと待った!! そこの紅白と黒白!!」


 威勢の良い声が二人の足を止めた。霊夢と魔理沙は声の方へと視線を向ける。そこには冷気を纏い、氷で出来た羽を広げる少女が居た。おや、と魔理沙は目を何度か瞬かせて少女を見る。


「妖精、だな」
「えぇ。氷の妖精ね。…妖精にしては力の強いって話は聞くけど」
「ふふん、よくわかってるじゃない! アタイはサイキョーなのよっ!!」


 腕を組み、尊大な態度で彼女は言う。


「アタイはチルノ! 今日はこのサイキョーの私に助けを求めるアイツの為にここは通さないわよっ!!」
「…アイツ?」
「この異変の首謀者、と言えばわかるかなー?」


 不意に、チルノと名乗った妖精の後ろからふわり、とまた別の少女が舞い降りる。金色の髪を揺らし、黒のスカートをわずかに風に翻しながら現れた少女の気配は人外の者。自然と霊夢と魔理沙は身構える。


「私はルーミア。まぁ…チルノと同じ頼み事をされてるんだよー。そしたらご飯食べさせてくれるって言うから」
「…へぇ…じゃ、何? つまりあんた等は私の邪魔をするって事ね?」
「まぁ、そういう事だね」


 ルーミアが無邪気に言う。霊夢は己の問いかけに返ってきた答えに小さく、そう、と告げた。それと同時に霊夢はお払い棒を握り、もう片方の手には符を構えた。高まっていく霊夢の霊力に呼応するように空気が震え出す。
 それにルーミアはわはー、と感嘆の声を上げて、チルノはにやり、と口を歪めた。魔理沙は楽しげに笑みを浮かべている。


「スペルカードルール。知ってるわよね?」
「これの事かー?」


 霊夢の問いかけにルーミアはカードを掲げた。それこそ、スペルカードルールで制定したカード。自らの霊力、魔力、妖力のいずれかを封入し、技として納めておく。そして必要な時にその力を発現させるもの。
 ルーミアと同じようにチルノもまた、カードを掲げている。霊夢はそれを確認し、キッ、とルーミアとチルノを睨み付けた。


「邪魔するなら、退かすわよ」
「そうなのかー」


 霊夢の宣言にルーミアはわかっているのか、わかっていないのか曖昧な返答を返す。それに霊夢は一瞬、気を抜きそうになるが、すぐに気を引き締める。


「おい、霊夢はルーミアって奴が相手か? なら私はそこの妖精か?」
「…何よ、魔理沙もやるの?」
「何のために来てるんだよ、って話だぜ? そりゃ」


 魔理沙は霊夢の問いかけに苦笑を浮かべながら符を取り出した。これもまたスペルカードだ。魔理沙は元より異変解決の為に動いているのだ。ならば、その異変解決を邪魔するのであれば押しのけるが道理。


「ふん、アンタがアタイの相手かしら? 良いわ! コテンパンにしてあげるわ!!」
「はっ、言ってろ妖精風情がっ!!」


 開始の宣言は互いに無く、魔理沙が放った魔力弾とチルノの放った氷弾がぶつかりはじけ飛ぶ。それを合図として二人は宙を駆けた。その間にも互いの弾丸は放たれ、敵を迎撃しようと飛び交う。
 それを横目で確認し、霊夢はルーミアと向き合った。ルーミアはただにこにこと笑みを浮かべている。そして、不意に彼女は何かを思い出したのか、霊夢へと声をかけた。


「ところで、博麗の巫女は食べられる人類か?」
「――否よ。良くても、食べさせないわよ?」
「そうなのかー」


 そして、霊夢が投げつけたのは針だ。封魔の力を込めた針は一直線にルーミアへと向かっていく。それをルーミアはステップを踏むように両手を広げて宙を回転し、回避する。
 ルーミアの笑った口元がわずかに犬歯を見せる程まで歪む。たん、ともう一度ステップを踏むようにルーミアが霊夢へと向かうのと同時に、ルーミアの妖力によって作られた弾丸が霊夢へと殺到した。





 * * *





「くっ、この、当たれーーーっ!!」
「そんな見え見えの弾に当たってたまるか!!」


 チルノの苛立ちを含んだ声と共に放たれる氷弾を魔理沙は危なげなく避けていく。箒に跨り、自由自在に空を飛び交う様は正に魔女そのものだ。氷弾の軌道は正直に言えばまっすぐ過ぎる。故に狙いがどこかわかるし、相手にはフェイントというものがない。
 戦闘による駆け引きなどはなく、正に力押しの、喧嘩のような戦いだ。正直、魔理沙は拍子抜けしていた。霊夢と何度か模擬戦をしている事に加え、今はまだ遠い「彼女」の背を追いかけている事もあって戦闘経験はある。
 この異変は自分の力が今、どれだけになっているのか確かめる機会だと思ったが、これでは如何せんわかりがたい。やれやれだぜ、と魔理沙は戦闘中ながら肩を竦める。


「おいおい、これじゃ話にならないぜっ!! お前の自慢のスペルでも使ってみろよ!!」
「言ったなーっ!! なら、受けて見ろっ!!」 


 ――氷符「アイシクルフォール」


 チルノが掲げたカードが光を放つ。そして札に込められた力が解放され、魔理沙に向けて無数の氷弾が放たれる。先ほどよりも明らかに数が多い。飛び交う氷弾は正に弾幕と称してもおかしくはない程だ。
 だが、魔理沙は焦らなかった。むしろ、落胆していた。魔理沙はわずかに身をかわすだけで氷弾を回避する。氷弾はただ数が多いだけで散漫だ。確かに普通の人間であれば驚異だろう。だが、あいにく魔理沙は普通ではない。


「はっ、こちとら博麗の巫女様に肩並べようって言うんだ! この程度で負ける訳にはいかねぇんだよっ!!」


 そう言って魔理沙がカードを掲げ、放る。そこから溢れだした魔力を再び自身に還元しつつ、魔理沙が取り出したのは八角形の形をした何か。それは八卦炉と呼ばれる魔力を原動力に火を起こす火炉だ。
 彼女にとって馴染み深い知り合いが作ってくれたものだが、これが彼女の最大の武器。ありったけの魔力を込められた八卦炉は膨大な熱と光を放ち始め――。


「行くぜ! 弾幕は…パワーだぜっ!!」


 ――恋符「マスタースパーク」


 空を貫かんばかりの轟音と閃光を放ちながら八卦炉から放たれた魔砲は魔理沙に迫っていた氷弾すらも打ち砕き、その先にいる驚愕の表情を浮かべたチルノを捉えた。チルノは抵抗する間もなく、魔砲の閃光に呑まれていった。





 * * *





 魔理沙とチルノが激しく空を飛び交いながら弾幕を打ち合う中、霊夢とルーミアの戦いは降着状態にあった。互いに最初にいた位置からほとんど動く事はない。最初の接近こそあったものの、そこからは弾幕の押収だ。
 霊夢が符と封魔針を用いてルーミアの放つ妖弾を相殺していく。それにルーミアは次々と妖弾を放ち、とその繰り返しになっていた。これには霊夢は思わず舌打ちする。
 元々、妖怪と人間では地力が違いすぎる。そして霊夢の持つ装備には限りがある。単体の力のみで弾幕を張れるような力は人間が引き出すには例え天才と称される霊夢でも種族の差は超えられない。
 例え巫女として破格の才能を持つとしても、まだ霊夢はまだ人間の枠に収まっている。それに至るまでの年月は、今の彼女にとってはあまりにも足りない。


「チッ」


 小さく舌打ち。符や針の数はまだまだあるものの、無くなれば不安は増す。これはまだ本命ではない。そして本命である筈の吸血鬼はこの妖怪よりももっと強大な力を秘めているだろう。
 霊夢とて話こそ聞いた事がある。吸血鬼の持つ力の強さを。最近、最も強い力を持つ勢力と言えばやはり吸血鬼なのだ。それは記憶に一番新しい「吸血鬼異変」が証明していると言っても過言ではない。
 なるべくならば消費は控えたい、と霊夢はわずかに思った瞬間、轟音と共に閃光が迸った。霊夢は一瞬、その音に意識を奪われる。


「――隙あり!」


 そこにルーミアが迫った。ルーミアの意識はただ霊夢のみに向けられていた。霊夢の意識が逸れるその瞬間、霊夢への接近と同時にルーミアはスペルカードを発動させた。


 ――夜符「ナイトバード」


 迫る弾幕は霊夢の逃げ道を塞ぐように放たれ、霊夢へと向かっていく。接近して放つ事によって霊夢の逃げ道を塞ぐ。ルーミアの選択は正しい。逃げ場を塞ぎ、霊夢を撃ち落とすならば。
 だが―――誤算だった。ルーミアの想像はあっさりと破られた。霊夢は再び意識をこちらに戻すと、何事もなかったように弾幕をすり抜けてきたのだ。まるでそこにいる霊夢が幻なのではないかと錯覚してしまう程に簡単に。


「――ぇ?」
「…能力、使う気なかったけど、ま、こっちを失うだけの方が経済的、か」


 とん、とルーミアは自らの胸に何かを突きつけられたのを感じた。それは霊夢の指だ。その指には何かが挟まれている。それは先ほど自分が発動させたものと同じもの。慌ててまだ発動を継続していた弾幕を再び放とうとする。
 が、遅い。それよりも霊夢が早くに宣言した。


 ――夢符「封魔陣」


 魔を封じる陣がルーミアを中心に展開され、ルーミアを縛り付ける。ナイトバードを展開していた妖力と封魔陣の霊力が拮抗するも、それもわずかの時間。展開された陣はルーミアを縛り付け、戒めをその身に与えていく。
 その戒めにルーミアは苦痛の声を上げ、藻掻くも結界は解かれない。その隙に霊夢は針を指に挟むように握り、ルーミアの胸元へと突きつけて。


「――で? まだやる?」


 頷かなければやられる、と。ルーミアは言いようのない悪寒を感じて、わずかに頷く事しか出来なかった。





 



[16365] 黄昏境界線 33
Name: 道化◆5a734804 ID:de87e9fa
Date: 2010/10/17 23:09
 紅に染まる館。そのある一室。暗がりに包まれた部屋。唯一灯すのは蝋燭の揺らめき。 灯りに照らされ揺れるのは横顔。誰かの横顔、つり上がる唇は笑みの形。
 くすくす、くすくす、笑い声は二つ。横顔もまた二つ。その間に挟まれ眠るのは誰か。
 動かない。動けない。いや、動かない。それは動く事はない。ただ、ただ…動く事はない…。




 * * *





「ったく、余計な時間と手間取らせてくれて」
「前哨戦としては良かった、と思っておけよ、霊夢」


 紅魔館への道をまっすぐに突き進むのは霊夢と魔理沙だ。互いに服の裾を風に揺らせながら空を駆ける。その間、霊夢は機嫌が悪そうに、大して魔理沙は陽気に会話をしている。
 これは二人の気質の違いだろう。博麗の巫女として育ってきた霊夢。魔法使いを目指して育ってきた魔理沙。ある種、この二人は対なる存在だ。才能に満ちあふれ、道を定められた巫女。才能無くとも、夢を掴む為に道を定めた魔法使い。
 故に反目し合う。が、故に互いを意識する。無視出来る存在では無いのだ。互いに。互いの過去からの繋がりだけじゃない。噛み合わないようでいて、噛み合うからこそ二人はこうして肩を並べ、競い合うのだろう。
 軽口のやり取り。いつもの日常と変わらぬ会話は不意に途切れた。霧によってぼやけていた紅の館。不気味、と称するに相応しい館。悪魔の住まう館―――紅魔館。
 そこに一人の女性が立っていた。館の前にある門を塞ぐように両手を後ろで組み、瞳を閉じた中華様式の衣装を纏う女性。それに、霊夢と魔理沙は感じた。把握した。――ただ者じゃない、と。


「……おい」
「………」
「……おいってば」
「………」
「おぉーーーいってばっ!!」


 魔理沙が必死に声をかけるも、反応が無い。そう…―――完璧に寝ているのだ。この女性は。立ったままで。鼻提灯をつけたまま。魔理沙が必死に呼びかけているのにも関わらず寝ているのだ、この女は。
 魔理沙も流石の熟睡加減に思わず汗が出る。恐らく立ち位置的に彼女は門番なのだろうが…完全に寝ている。これでもか、という程までに寝ている。逆にどうして良いのかわからなくなるぐらいに寝ている。
 おい、と魔理沙が霊夢の方へと視線を向けるとそこには霊夢が居ない。あれ? と魔理沙が思った瞬間、霊夢がさっさと門を超えて屋敷の庭へと入っていく姿が見えた。


「うぉおおいっ!! お前、完全スルーかよっ!!」
「寝てるんだし、良いじゃない。それとも何? 起こしたいの? アンタ」
「…いや、別にそういう訳じゃ…」
「だったら放っておきなさい。スペカも符も針もただじゃないんだから」


 そういってあっさりと霊夢は屋敷の方へと歩いていってしまった。魔理沙はそれに眉を寄せ、何度か霊夢の後ろ姿と門番であろう女性に目を向け、苛立ちの声を上げながら霊夢の後を追うのであった。
 霊夢と魔理沙が屋敷へと入っていく。その気配が遠ざかっていくのに合わせて、女性の瞳がうっすらと開かれた。


「…巫女の方は勘づいたかな? 魔法使いの子はまだまだ。…でも、楽しみな子達ではありそうだね……」


 そうして、紅魔館の門番である美鈴はその口元に笑みを浮かべた。楽しげに笑う美鈴。だが、しかしその口元は再び引き締められた。


「…やれやれ。でも可哀想にな……」


 哀れむように、美鈴はため息を吐いた。紅霧で遮られた空は日の光も遮る。ただ、世界は薄暗い…。





 * * *





 紅魔館の扉を勢いよく霊夢は蹴破った。その開け方に魔理沙はおいおい、と思いながらも霊夢に何を言っても無駄、というのは経験上悟っているので呆れるだけに終わる。そんな魔理沙の様子に気づいているのか、霊夢は紅魔館の中へと入っていく。
 魔理沙もその後に続く。すると、だ。急に扉が閉まった。ばたん、と。いつの間にしまったのかさえわからない程までに急に。それはあまりにも不自然すぎる閉まり方に魔理沙は扉へと視線を向ける。


「…おい、まさか嵌められたか?」
「知らないわよ。んなの」
「おいおい! いくらお前が我が道行く奴でも行き過ぎだろ!!」
「うっさいわね。罠ごと蹴散らせば良い話よ」
「…お前矛盾してないか? 符やスペカが無くなるの嫌なら無駄な労力は避けるべきだろう?」
「避けて本当に経費削減になるなら、ね」
「…それも巫女の勘とやらかよ、本当に巫女様々だなっ!!」
「―――えぇ、御利益の無さそうな巫女だけど」


 不意に声がした。音もなく、気配もなく、正に唐突かつ突然に彼女は現れた。メイド服を纏った少女。銀の髪を僅かに揺らし、恭しく一礼をしながら現れた彼女に霊夢と魔理沙の視線は集中する。


「ようこそ、招かれざるお客様。私、この館でメイド長を勤めさせております十六夜 咲夜と申します」
「…自己紹介は要らないわ。むしろ邪魔」


 咲夜の挨拶などどうでも良い、と言わんばかりに霊夢は咲夜に告げる。咲夜は一礼の態勢を変えぬまま、霊夢へと告げる。


「…では、当館にどのようなご用件でありましょうか? 只今、我が主はお戯れの真っ直中。良ければお帰り頂ければ、と」
「戯れ、ね? 幻想郷に異変を起こしてるのが戯れ、ねぇ…? ――今すぐ止めろ」
「私に申されましても…。お嬢様の決定に私は従うしかありませんので。そしてお嬢様を害する、というのならば―――それ相応の対応を取らせていただきますが?」


 瞬間、空気が張り詰めた。霊夢は瞳を鋭く、その身から霊力を発散させる。咲夜はそんな霊夢に怯む事無く睨み返す。一触即発、正にそんな空気がその場に漂っていた。何か少しでも刺激があれば一気に戦闘へと変わってしまうだろうその空気は。


「まあ、待て。咲夜、招かれざるとも客は客だろう? ならば持て成してやれば良い」
「――お嬢様」


 更なる威圧感によって掻き消された。その小柄な身には似合わぬ威圧感に魔理沙は息を呑み、霊夢は眉を寄せた。姿こそ幼子、だがその背には疾駆の翼が見える。見た目で判断などしてはいけない。そんな事をすれば一瞬でクワレル。
 そう錯覚させる程に。彼女には、この館の主、レミリア・スカーレットにはそれだけの存在感があった。正に主。彼女こそ、その名に恥じぬ悪魔の館の主なのだと告げている。余裕を見せるように腕を組み、レミリアは霊夢と魔理沙を見下ろす。


「で、だ。用件を聞こう。博麗の巫女に魔法の森の魔法使い。今日は何用だ?」
「単刀直入に聞くわ。――紅霧を出してるのはアンタね?」
「如何にも。それが何か?」
「…迷惑よ、今すぐ止めろ」
「止めろ、と言われれば止めたくなくなる、そうは思わないか?」


 ククッ、とレミリアは喉を転がすように笑った。それに霊夢の霊力の発散が増加する。彼女の感情に反応して霊力が発露されているのだ。魔理沙はそれに当てられて少々辟易した表情を浮かべていた。
 霊夢が一歩、前へと踏み出す。いつでもレミリアへと飛びかかれるように足に体重をかけ、睨み付けるようにレミリアを見ながら霊夢はもう一度、告げる。先ほどよりも尖り、敵意を以て。


「もう一度言うわよ? ――今すぐ止めろ、止めなきゃ止める」
「ほぅ? どうやって止める?」
「力尽くで」
「くっ、ははははっ!! 吼えるな、巫女! いくら巫女といえど、人間の身でこの私に啖呵を切った事は多いに評価してやろう!! 誇りに思えよ?」
「…止めるのか? 止めないのか? どっち?」
「止めると思ったか?」
「じゃあ―――」
「あぁ、そうだ。止めてみろ? 八雲の使いのようにな?」


 霊夢の動きが止まる。今、奴は、なんと言った? それを理解しようとする霊夢に代わって問いかけを投げかけたのは魔理沙だった。霊夢と同じように一歩を踏み出し、レミリアを睨みながら問いかけを投げかける。


「橙が此処に来たのか?」
「橙? あぁ…そんな名前だったか? どうでも良いから忘れてたな」
「…橙はどうした…?」
「…なんだ。どうせお前等も同じ道を辿るんだ。まぁ良い。特別に教えてやろう―――何も喋らなくなったよ、ただ、それだけだ?」


 ―――みし、と。


「まったく、身の程知らずも大概にして欲しかったがな。博麗の巫女、お前ならまだしも、ただの化け猫風情が私に逆らおうなどと片腹痛い。まぁ、その所為で初のルール違反者か? 私は。せっかくのルールも意味が無い。あぁ、でも「事故」もあるよなぁ?」


 ―――何か、が。


「何だ? 顔見知りだったか。それは残念。―――惨めだったよ、あの化け猫風情は」


 ―――砕けた音がした。


「…おい、糞餓鬼」
「ん?」
「―――それ以上、口を開くな」


 魔理沙が帽子の鐔を掴み、深く被りながらレミリアに告げる。その声は冷淡だった。ただ温度が無い冷め切ったものだった。だが、その声には震えがあった。それは無理矢理殺した温度の行き場。隠しきれない震えは彼女の全身を震わせる。
 が、それに気づいているのか、それともいないのかレミリアは鼻で笑った。


「何だ? 気に入らないか? ――愚者を愚者と言って何が悪いのか、是非とも説明してくれないか?」
「――黙れ、って、」


 魔理沙が動く。その手に握られるのはスペルカードと八卦炉。スペルカードは光を放ち、八卦炉に光を注ぎ込む。それはチルノにも放った光の奔流。魔理沙の十八番。それはチルノに放たれたものよりも早く、大きく、―――。


「言ってんだろうがぁぁあああああああああああっっっ!!!!」


 ・――恋符「マスタースパーク」


 ――咆吼を上げた。光の奔流はレミリアを飲み込まんと迫る。それにレミリアはほぅ、と一息を吐く。避けるそぶりも見せない。そのまま光の奔流はレミリアを飲み込もうとして。


 ・――禁忌「レーヴァテイン」


 光の奔流は灼熱の焔によって相殺される。かき消える光の奔流と灼熱の焔。自らの放った魔砲を相殺された事に魔理沙は一瞬、呆然として。


「――あはは、次の遊び相手は貴方? 魔法使いさん」


 けたけた、と。笑い声を上げながらレミリアの横に立つようにふわり、と降りてきたのはレミリアとよく似た顔立ちの少女だった。だが、レミリアと同様に纏う雰囲気は人外のもの。その背には歪な、羽と言えぬような羽が揺らめいて。
 その手にはスペルカードが握られている。既に魔力の残滓を失っている為、既に意味を成さないだろう。だがそれが意味するのは魔理沙のマスタースパークは新たに現れた少女によって無効化されたという事。


「あら、フラン。どうもありがとう」
「いいよー? で、お姉様、次はこの人達で遊んで良いの?」
「えぇ。あぁ、壊しちゃ駄目よ? 咲夜のお仕事が増えちゃうでしょ?」
「うん、さっきみたいにはしないよー」
「一応ルールには殺さないように、ってあるんだから、駄目よ?」
「うーん、だって…あの猫みたいに弱かったら、すぐ消しちゃうんだもん」


 頭が沸騰しそうになる。目の前が真っ赤になる。何かを叫びたい衝動が走る。体全体は力んで軋みを上げている。駄目だ、これ以上こいつ等の言葉を聞いていたらおかしくなる、と魔理沙が思った瞬間。





「――あぁ」





 それは、酷く静かな声だった。
 何もなかった。何もない、それは正に空虚な声だった。だからこそ空恐ろしい。何もない。だからこそ不気味だ。空なのだ、中身が無い声。ただの音だ。だが、確かに人の声だ。でもそれを人が発しているのだとは到底思えない――!!





「そう、ね」





 ただ、静かに。





「――殺す」





 宣告した。ここで、殺す、と。
 何故自分がこうなっているかわからない。霊夢の意識はあるものの、それはどうにも曖昧でぼやけている。ただ、客観的に自分を見ている。だから理解が出来ない。自分がどうしてしまったのか。
 異変を止めるのは博麗の巫女の使命だから? 違う。別にそんなことにこうなるんだったさっきだってそうなっている筈だ。
 じゃあ、何で? 何でだろう? どうしてだろう? だって、わかってるんだ。でもそれを理解しちゃったら認めてしまったら―――。





「―――ここで、殺すッ!!!!!!」





 ――ほら、もう止まらない。脳裏にアイツの笑顔がちらつく度に、まるで罅が入るような音が自分の中で響く。体全体から軋むような音が響いてくる。体が自分のものではなくなってしまったような錯覚。
 ただ熱い、ただ、熱い。ただ…熱い。熱に浮かされたように脳は思考を失っていく。だが、それでもどこかでただ冷静に何かが思考を回している。そしてそれはただ一つの単語を繰り返す。





 そうだ、私はこいつ等を殺したい―――ッ!!





 霊夢が動く。霊夢は駆けた。同時に魔理沙も地を蹴った。箒に跨った彼女は再び八卦炉に火を灯す。迎え撃つのは吸血鬼の姉妹。その口元は笑みの形に歪んでいた―――。





 



[16365] 黄昏境界線 34
Name: 道化◆d582f48e ID:0469b47c
Date: 2011/01/29 00:26
 揺れる。紅き舘が軋みをあげている。その軋みの要因は二つの争いが原因だった。それを見つめていた咲夜は、ほぅ、と感嘆の息を吐き出して見せた。
 眼前に広がる光景は壮絶にして芸術。飛び交う弾幕は多色の光を見せ、規則正しいパターンを描きながら対象を打破せんと迫る。それをかいくぐり、逆に己が弾幕を持ってしてこれを打倒せんと挑みかかる。
 繰り返される光の乱舞。激しい衝突音をも交えたその戦場は咲夜に感嘆の息を吐き出させるまでに美しい。あぁ、これが弾幕ごっこという決闘方法の醍醐味か、と。魅せられるまでに強かで、魅せられるままに美しい。


「…美しいわね」


 たった一言。それにどれだけの思いを乗せて咲夜は呟きを零したのか。未だ、弾幕の雨は止む気配を見せない。





 * * *





「っ、ちぃっ――!!」


 荒い息の中に交えるように舌打ち一つ。箒に跨り、空を駆ける魔理沙。時折壁を蹴りつけ、バウンドするようにしながらも速度を落とさぬままに紅魔館の中を駆け抜ける。飛び交う弾幕の隙間を縫うようにして加速。掠った弾幕が彼女の衣服を無惨にも破り、その体に傷を生んでいく。
 魔理沙を狙うように弾幕を放つのは吸血鬼姉妹が片割れ、フランドールだ。彼女は楽しげに、ぱん、と手を叩いて、宙で一回転。軽やかにステップを踏むようにして回って両腕を広げる。口から出るのは陽気で楽しげな声。


「鬼さんこちら! 手の鳴る方へ!!」
「――ッッッ!!」


 ギリッ、と歯を噛みしめる鈍い音が魔理沙の口内で広がる。その無邪気な、巫山戯た仕草が魔理沙の心に巣くった感情に火を注ぐ。全身はまるで沸騰するんじゃないか、という程熱い。思考は壊れてしまったかのようにたった一つの回答しか出さない。
 思考は一極化し、それ以外に不要なものはカットしていく。故に魔理沙の動きは鋭敏となっていく。フランの放つ弾幕を回避し、徐々に、徐々に彼女との距離を詰めていく。鬼気迫る迫力を放ちながら魔理沙は加速する。


「お、ぉぉぉぉおおっっ!!」
「お、っと!?」


 魔理沙の放った魔力の光、レーザーと言うべき閃光が迸る。マスタースパークの簡易版というべきレーザーを無数に、しかしフランの逃げ場を奪うように解き放つ。そのまま自身もそれに合わせて突撃。
 それをフランは宙を蹴るようにステップを踏み、踊るように回避する。ゆらり、ゆらり、フランの体が揺れる度にフランを狙って放たれたレーザーはフランの後ろへと突き刺さり、壁に穴を開ける。
 フランが顕現させたのは先程、魔理沙のマスタースパークを無効化した炎の剣。魔理沙はそれに臆する事なく、箒を握りしめ、魔力を纏わせる。


「ぶ……っ、殺すっ!!」


 叫びと共に加速。最大限の加速を持ってして、箒を中心にして魔力を集束させた突撃。それを迎え撃つフランのレーヴァテインの魔力と干渉し合い、二人の間には火花が散る。フランは笑みを浮かべ、魔理沙はフランを睨み付けている。
 その拮抗の後、魔理沙とフランは同時に弾かれるように後方へと下がった。魔理沙の箒は僅かに煙りが上がり、フランのレーヴァテインはその形を崩すように揺らめき、そのまま空中へと霧散していった。


「凄い凄い! 人間にしては破格じゃないかな!? こと破壊という点では私にひけを取らないって、凄い人間だね、貴方!!」
「っざ、けんじゃねぇっ!!」


 口汚く魔理沙が吐き捨て、空中にいる状態で八卦炉を構えた。炉に魔力が集束していく。そして宙にスペルカードを投げ放つ。先程のマスタースパークか、と、警戒したのか、フランは床に脚をつけ、やや態勢を沈ませる。いつでも飛び出せるように、だ。


・――魔符「スターダストレヴァリエ」


 しかし放たれたのは無数の星屑を散りばめたような弾幕だった。てっきり先程の魔砲が来るのだと警戒していたフランは思わず脚をつんのめらせた。それは魔理沙の放ったスペルカードの領域に入ってしまったという訳で。


「うわ、まずい、よ、とっ!」


 たん、た、たたん、たんたん。まるでそんな音を刻むようなステップ。前に飛び、片手で地面についたかと思えば、今度はそのまま片手を軸に回転するように大地に着地、そのまま再び一歩、二歩、ジャンプ。
 まずい、と良いながらもその声は楽しそうで、彼女は魔理沙に接近しながらも懐からスペルカードを出した。


「ちぃっ!!」
「あははっ! 次は私の番!!」


・――禁忌「フォーオブアカインド」


「防げるかな?」
「ゲームオーバー?」
「それともコンティニュー?」
「さぁ、踊りましょう魔法使いさん!!」


 スペルカードが解き放たれるのと同時に響く笑い声は四つ。
 クスクス、あはは、うふふ、けたけた、と。四人に分身したフランが笑う。それが魔理沙を取り囲むように陣取る。それに魔理沙が眼を見開いていたのも一瞬、完全に囲まれる前に離脱しようと箒を蹴り上げるようにして、魔理沙は加速した。


「早いね!」
「でも?」
「残念!」
「貴方は、もうコンティニューできないよ!!」


 が、それを追うフランは四人だ。四人のフランより放たれる弾幕は単純に四倍。それが多方向からの攻撃だ。圧倒的なまでの弾幕量。魔理沙はそれから逃れようとするも、次第に逃げ場を失っていく。


「はい、ゲームオーバーッ!!」
「うぁっ!?」


 穂先に掠った事によって箒のバランスが崩れる。不安定になった箒は魔理沙を弾幕から逃れられぬ場所へと誘い、魔理沙はその身に弾幕を受けた。迫る弾幕の雨の中、魔理沙は打ち上げられるように弾幕に飲まれていく。


「ふふ、貴方も橙と同じにしてあげる? バイバイ、出来損ないの魔法使いさん?」
「…ぁ…」


 けたけたと笑いながらにっこりと笑ってフランは魔理沙に告げた。そして藻掻くようにフランへと手を伸ばすも、力尽きたような声と共に、ゆっくりと魔理沙は宙に投げ出される。その手から箒を手放して…。





 * * *





 ほぼ同地に床を蹴る。床を蹴った際の力が強いのか、軋みの音を生み出しながらもぶつかり合うのは霊夢とレミリアだ。霊夢は霊力を込めたお払い棒に淡い霊力の光を発光させ、それをレミリアへと叩きつける。
 それを防ぐレミリアの爪にはレミリアの妖力が込められている。互いに反発するようにぶつかりあう。霊夢はその好きを見て懐から札を飛ばし、レミリアへと弾幕を放つ。が、それをレミリアは危なげなく回避していく。


「はっ! どうした博麗の巫女! この程度か?」
「――」


 レミリアの問いかけへの返答は封魔針の投擲だった。およそ10本ほどの霊夢の霊力を込められた針がレミリアへと迫るが、レミリアはそれを妖力で纏った指で全て挟み、捌ききって見せた。ふっ、と笑みを浮かべ、封魔針を投げ捨てる。
 からん、と音と共に霊夢が爆ぜるように地を蹴った。レミリアへの愚直なまでの突撃。だがそれが蛮勇でも無謀でもない事をレミリアは知っている。霊夢とレミリアの身体的能力は霊夢が劣る。いくら巫女としての修行を積んでいようがスペックが違う。
 純粋にぶつかり合えば霊夢の敗北は必至。しかし、それを可能とするのが脈々と受け継がれる彼女の博麗の巫女としての才覚なのか。現に霊夢の加速は並の妖怪よりも速い。


「――ッ!!」


 蹴り一閃。レミリアのこめかみを狙った蹴りはレミリアの手の甲によって防がれる。そのまま霊夢は回転するように逆の手を叩き込もうと震う。霊夢が放った掌低をレミリアの掌が受け止め、霊夢の手を握り込む。
 互いが手を握り合った瞬間、空気が震え出す。霊夢の霊力とレミリアの妖力が互いにぶつかり、周囲に衝撃波を撒き散らす。互いの圧力に押しつぶされないように自身の力を絞り出すように出し合う二人。


「は、成る程、なかなかにこの実力、認めざるを得ない」
「―――」
「しかし、だなぁ」
「――」
「少しはゆとりを持ったらどうだ?」
「――だま、れッ!!」


 レミリアを引き寄せるようにして、そのまま逆の手の肘をレミリアの鳩尾へと霊夢は叩き込む。手加減無しの一撃はレミリアの骨すら軋ませる。常人であれば内臓破裂で死んでもおかしくはない程だ。
 これが博麗の巫女の力。その身に秘められた霊力はそこいらの妖怪に劣る事などない。際限なく湧き水の如く沸き上がる力は霊夢の絶対的な強みとなっている。だが、しかし。


「ふん」
「――っ!?」


 つまらなさそうに鼻を鳴らしてレミリアは無造作に霊夢の腕を掴み、そのまま放り投げた。勢いよく投げられた霊夢は受け身すら取れずに壁へと叩きつけられる。それに肺の息を吐き出すのは一瞬、すぐさま呼吸を取り戻す為に距離を取り出す。
 それをレミリアは弾幕を向けて霊夢を急かすかのように解き放つ。霊夢はそれを危なげなく交わしていくが、その息はだんだんと荒くなっていく。蓄積されたダメージは決して軽いものではない。霊夢は徐々に劣勢に追い込まれていた。


「おいおい、どうした? 博麗の巫女。妖怪を退治し、異変を調停する巫女がこの程度じゃこの異変を起こした意味がないじゃないか?」
「はぁ…っ、はぁ…っ!」
「ふん、そんなに、あの化け猫、八雲の式神を好いてでも居たのか? 冷静さを失うまでに」
「―――」


 霊夢が踏み込んだ。レミリアの弾幕を擦り抜けるように飛び込む。一歩、踏み込み、恐れずして霊夢はレミリアへと迫った。その身には弾幕を掠った事による傷が増えていくが、霊夢は決して恐れずに前へと向かい。


「――戯け、動きが丸見えだ」


 あっさりと、レミリアに捉えられた。レミリアへと向かっていた脚はレミリアによって止められ、手を取られた。不味い、と霊夢が思うにはもう遅すぎた。霊夢の手を引き寄せ、霊夢の態勢を脚で崩す。そのまま前のめりに倒れかけた霊夢の腹に。


「――耐えろよ?」
「――ご、ァッ!?」


 掌低を叩き込んだ。ぼき、と骨の折れる嫌な音が聞こえた。痛みが麻痺し、痛覚として感じられない。最早それは痛みではなく熱だ。視界がブレ、霊夢は飛んだ。ぐるり、世界が回ったのを霊夢は見て、そしてそのまま背中を壁に叩きつけられた。
 先程の再現、しかし結果は霊夢が這い蹲るという結果が違う。霊夢は血を吐き出した。折れた骨が内臓を傷つけたのか、呼吸する度に血が混じり、霊夢は咳き込みながら吐血し続ける。


「報われない、あぁ、報われないなぁ! この程度か? なぁ、博麗の巫女? つまらない、あぁ、つまらない! がっかりだよ。あぁ、本当にがっかりだ! 博麗の巫女ならばもっと役割に忠実であるだけで良かったんじゃないのか? それが情に絆されてこの低落、まったく、幻想郷を守護する八雲の縁の者が全く持って、余計な事をしたものだなぁ?」


 唄うように、レミリアは両手を広げて霊夢へと歩み寄りながら告げる。床に倒れ伏した霊夢は、動けず、ただ、そこで。


「本当に、下らない奴らばかりだ」





 * * *





 ――”巫山戯るな”





 * * *





「――ぁ、」


 魔理沙は落下する。痛みは感じたことまでにない程に痛い。骨なんて折れているに決まっている。今すぐに叫んで泣き出したい。だけど、歯を食いしばる。ギリギリと、奥歯が砕けた音がした。だけど、まだ強く、そう、強く…!


「――ァア、」


 約束を。
 いつか、貴方と一緒に護ろうと。
 誰にも負けないぐらいに強くなろうと。
 アイツに肩を並べられるぐらいに強くなれば。
 きっと、貴方は――。


「――ア、ァァァアアアアアアアアアッ!!」


 八卦炉が光を灯す。落下しながらも魔理沙は宙に浮かぶフランへと突きつける。フランはそれに気づき、その口元を釣り上げるように笑みを浮かべた。


「アハハッ!! 来なよ!!」


 ぶっ飛ばす。その顔も、その体も、その存在も。ただ、それだけで良い。だから、それだけで良いから。それ以外にいらないから。願うのはたった一つだから。どうか…。
 …いいや、絶対に届けて見せる、と。届かせるさ、と。浮かぶのはあの人の微笑で。届かせるとその為に努力してきたんだ。だから絶対に。そう。


「今も、変わらない…約束だ…!! 魔理沙さんは…約束は破らねぇっ!!」


 浮かべた笑みは不敵に。既に八卦炉から漏れ出す光の発行量は臨界点を超えている。八卦炉が悲鳴をあげるように軋みをあげる。それを意に介さずに掲げたスペルは――2枚。それを震える八卦炉を押さえつけるように共に構える。


「…ダブル…ッ…」


 一つで届かないのなら、二つだ。単純で良い。いつだってシンプルが勝つ。複雑に飾り立てる必要もない。足りないなら、足りさせる為に持ってくれば良いだけだ。今にも砕けそうなまでに八卦炉に魔力を込めて。
 届けよ、と。願い、祈り、思い、その全てを込めて。


「マスタースパァァークッッッッ!!!!」


 双星の流星は駆け抜ける。その身を絡ませ、螺旋を描く閃光の奔流はやがて混じり合うように一つの星となりてフランドールへと迫る。それをフランはレーヴァテインを顕現させて対抗しようとするも、打ち付けた瞬間にレーヴァテインが軋みをあげる。


「嘘っ!? ちょ、ちょっと、ここまでなんて聞いてな…いっ…!!」


 先程のマスタースパークを二つ撃てば確かに二倍と考えるのは納得。だが、この圧力はそんなものではない。単純な二倍なだけではなく、重たく、濃厚な一撃に流石のフランもお手上げ、というように苦しそうな吐息と共に悪態を吐き出す。
 耐えきれなくなったのか、遂にフランはすぐさま身を翻した。レーヴァテインは一瞬にして霧散し、紅魔館の壁がぶち抜かれる。それにほっ、と、フランが息を吐いた瞬間だった。


「――お、」
「え?」
「ぉぉぉおぁぁぁあああああああああああっ!!!!」


 魔理沙が八卦炉を持っていた手を無理矢理に横にねじ曲げた。八卦炉を中心にして鼻照れたマスタースパークはそのまま薙ぎ払うように振るわれた。嘘、とフランが思うのは一瞬。それを最後にフランは閃光の奔流に飲まれた。





 * * *





 だん、と。霊夢が勢いよく床を叩いた。その瞬間、レミリアの足下に陣が急速に引かれる。それは霊力によって敷かれた陣。それは魔を封ずる陣。気づくのが遅れたレミリアは驚愕に眼を見開かせた。


「何っ!? いつの間に…!!」


 陣より光が立ち上り、結界を形成する。レミリアの体に圧力がかかり、気を抜けば地面に這い蹲るのは自分だ、とレミリアは歯を噛みしめる。そのまま圧力に耐えるように一歩、脚を前に踏み出した瞬間にレミリアは見た。
 いつの間にか霊夢は悠然と立ち上がっていた。その口元から垂れていた血を手の甲で拭い、そっと、静かに胸の前で腕を合わせた。そして、それをゆっくりと広げていく。掌の間に挟まれていたのは―――スペルカード。


「―――」


 体が痛い。頭はまるで金槌で殴られ続けているんじゃないか、というまでに痛む。意識は朦朧とし、意識は今にも飛びそうなまでに痛い。体中は熱く、まるで火で炙られてるじゃないかというまでに熱くて。
 今、眠ってしまえば楽になれるんじゃないかという甘い誘惑。が、そんなものには屈しない。屈する事など出来ない。博麗の巫女として、そして何より、博麗 霊夢として譲れないものがある。
 何故かアイツが頭に浮かぶ。お節介でどうにもうざったいアイツ。だけど、あぁ、何だかんだといってアイツが切欠で変わった事がある。癪だが、それが、博麗霊夢が確かに感じている事。
 私は、うん、きっと、そうなんだろう。あぁ、思考でも明確に言いたくないぐらいに、博麗 霊夢は彼女の事を。
 だから、あぁ、そうだ。だから――。


「――言ったわよね?」


 霊夢の無表情が、崩れた。それは嬉々としたように笑みを浮かべた。が、それは冷笑と呼ばれる類のものだ。
 思わず、レミリアはゾッ、とする。そして、思わず笑ってしまった。これが博麗 霊夢か。人間らしくありながらも、どこまでも冷酷になれる――!
 博麗の巫女に情はいらない。それが調停者に望まれるもの。第三者という調停の立場には自身の意志など介在してはならない。
 だというのに、この霊夢は違う。彼女は揺るがない。何故ならばそれが当たり前だから。だから彼女は強い。強いから揺るがない。揺らがないから強く、強くあれるから揺るがない。そうして彼女は進む。己は間違っていないと頑なに思えるから。
 故にどこまでも傲慢。故にどこまでも不遜。故に――何よりも、あぁ、彼女は強い。人間らしく、だが、人間らしすぎて普通じゃない。決めたという事を押し通して行くのだ。それは天才が故に。それが当たり前のように。当然の権利だと言うように。


「それが、博麗の巫女、いいや、博麗霊夢! お前という存在か!! ははっ、はははっ!! いやはや、参ったな!! 参ったよ、本当に!!」
「黙れ、煩い、そして――死ね」


 ――霊夢は、レミリアへの宣告を告げた。霊夢の霊力を溜めに溜め込んだスペルカードは遂に発動され。


・―――霊符「夢想封印」


 魔を封ずる破邪の光が解き放たれた。レミリアが結界を踏み越えるよりも早く、破邪の光はレミリアを飲み込んだ。



[16365] 黄昏境界線 35
Name: 道化◆d582f48e ID:0469b47c
Date: 2011/01/29 22:13
「――がっ!?」


 どん、と魔理沙が自ら放ったマスタースパークの余波に飛ばされて壁に叩きつけられる。それに肺から息を吐き出し、魔理沙は力なく壁に背を預けた。余波によって噴煙が舞う。腕に鈍い痛みが走る。無理矢理にマスタースパークの軌道を変えたのが仇となったのだろう。
 だが、それでもアイツを、フランドールを吹き飛ばした。これ以上の無い全力だった。これなら、と思い、未だ煙が舞うその先を見る。だんだんと風によって煙が晴れていく中、魔理沙が見たのは。


「――無事ね? フラン」


 紫色の髪を少女だった。纏っている服はまるで寝間着と間違えてしまいそうな服装だ。だが服装や容姿よりも魔理沙の眼を引いたのは魔理沙のマスタースパークを防いだのだろう魔法障壁だった。
 その障壁を、魔理沙は理論として知っていた。だが自身の性には合わない、と知識に留まっていた魔法。それが実現して、いや、尚更洗練されてそこにあった。それに魔理沙は思わず食い入るように見てしまったが、その少女の背後にフランがいるのを見て、魔理沙は立ち上がろうとする。


「止めておきなさい。全身ががたがたの上に、魔力枯渇症状が出る一歩寸前、それに貴方が使っているその炉も限界よ」


 いつの間にか自分の眼前に来ていた少女が眠たげな眼で魔理沙を見つめながら言う。それに魔理沙が反論しようとするも、自分の状態は誰よりもわかっている。これ以上は無理だ、と。
 少女は魔理沙の横に膝をつき、魔理沙へと手を伸ばす。何を、と魔理沙が警戒をして身じろぎをしようとした瞬間、少女の手より漏れたのは暖かな光だった。光なのに暖かい、というのは不思議で、それが治療魔法だと気づくのに数秒の時間が必要だった。


「…お前…?」
「パチュリー」
「…あ?」
「パチュリー・ノーレッジ。お前なんか、で呼ばないで。…今回は貴方の勝ちよ。ねぇ? フラン」
「うん。予想外だったよ。橙に聞いてた通りだ。貴方は凄い努力家なんだね。本当に凄かったよ。…その、ごめんね?」


 パチュリーとは逆側、そこにはいつの間にか、先程魔理沙と戦っていた筈のフランがいた。先程まで見せた無邪気な様子は影を潜め、そこにはただひたすらに申し訳ない、と言うように表情を歪めたフランがいる。
 は? と魔理沙が首を傾げるのも当然のことだろう。ちょっと待って欲しい、というように魔理沙は自分の掌で顔を押さえる。どれだけ時間を置いただろうか。中指で額をとんとん、と叩くようにしつつ、魔理沙は纏まらぬ疑問の解消の為に二人に問いかける事にした。


「…つまり、どういう事だ? 状況が掴めないんだが」
「まぁ、全ては筋書き通り、って事よ。貴方の行動も、この異変の全ても、ね。あっちも話はついたみたいね」


 そういってパチュリーが視線を向けた先、魔理沙も視線を移せば、そこには憮然とした表情のまま、咲夜に肩を貸されるままに歩く霊夢と、そんな霊夢を見て喉を鳴らすようにして楽しげに笑うレミリアの姿があった。


「博麗の巫女、咲夜の手を借りたのは悪かったと思うが、あれを喰らっては流石の私も堪える。まだ話が終わっていないのに倒れる訳にもいかないのでな、まぁ、あれは正真正銘、霊夢の勝利だ。だからそこまで機嫌を損ねないで欲しいものだな」


 何やらレミリアが霊夢へと弁明しているようだったが、霊夢は完全に聞く耳持たずだ。うわぁ、最悪にアイツ機嫌悪い、と魔理沙は思わず思う程、霊夢の放つオーラは不機嫌さが顕著に表れていた。


「いやいや、謀るような真似をして悪かったな。霧雨 魔理沙。実に予想通りの、いや、予想以上の人間の可能性というものを見させて貰った。なかなか心躍る時間だったよ」
「…やい、ちびっ子。どういう意味だ?」
「ちび言うな、これでも500歳で貴様等の倍以上は生きてる。…まぁ、スペルカードルール。そのルールを広める為の一芝居、という訳さ。なに、私としては本心で貴様達と心行くまで弾幕勝負を楽しみたい、という思いがあったのは事実だよ」


 レミリアのその言葉に、霊夢と魔理沙は顔を見合わせるのであった。


「…一芝居、って事は…」
「…あの馬鹿猫は?」
「あぁ? 橙か? 今頃寝てるよ。アイツに知られれば妨害しようとしてくるだろうしな」
「だから私の地下図書館の整理整頓を徹夜でやらせて、睡眠を取っている間に魔法で眠りを持続させてるわ。邪魔させないように、と、頼まれてもいたしね」
「……八雲 紫」
「ま、そういう事。全ては彼女の思いのまま、隙間妖怪の掌の上よ」


 残念だったわね、と。パチュリーが気の毒そうに肩を竦めて言った。それに霊夢と魔理沙は言葉を無くして、ただ、互いの顔を見合わせていた。そんな二人に治療魔法を施しながらパチュリーはふぅ、と一息を吐く。
 レミリアはフランに怪我が無いかしきりに確認して、フランはそれに少し過剰気味なレミリアに苦笑しながらも怪我は無いことを報告している。咲夜はぼろぼろとなった屋敷を見回し、憂鬱そうに溜息を吐き出す。
 そんな中、固まる事しか出来ない霊夢と魔理沙の耳に音が聞こえた。それは扉の開く音だった。扉が開いた先、そこから姿を現したのは――眠そうに欠伸をしながら歩いてくる橙の姿だった。


「ふわぁ…なんか、凄いよく寝た気分………って、え"? 何この惨状!? 何があったのさ、って、あれ!? 霊夢に魔理沙!? 何で!? ってか空が紅い!? え? 何、何なのさこの状況!?」


 扉を開いて、ようやく寝ぼけていた意識が切り替わったのか、橙は目の前に広がった惨状に慌てふためいている。しかもそこにはいるとは思っていなかった霊夢と魔理沙の姿まである。ただわたわたとした仕草をしながら橙は全員を見渡している。
 そんな橙を見ていた霊夢と魔理沙だったが、不意に、互いに視線を合わせて頷いた。ふぅ、と吐息を一つ。霊夢はぐるぐると肩を回し、魔理沙は首をこき、と一度鳴らし、指を鳴らし始める。


「え? あの、二人、とも? あのー…その、もしかして…いや、もしかしなくともだけど…怒ってらっしゃいます…?」
「……」
「……」


 橙が二人の様子に疑問符を頭に浮かべながらも、自らの身に迫る危機を感じ取ったのか、尻尾がぴん、と伸びている。そのまま、動揺を隠しきれないままに二人へと問いかける。その瞬間、霊夢と魔理沙のこめかみには青筋が浮かぶ。


「あ、あの、その、私、本当に身に覚えがないんだけど、っていうかどうして二人が紅魔館にいてこんな事になってるのか、とか色々聞きたいんだけど…?」
「「……橙?」」
「は、はい?」


 よくわからないが不味い、と判断した橙はすぐさま話を逸らそうとするも、二人は静かに橙の名を呼び、話題を逸らす事は出来なかった。そして、一息の間を置いて。


「一発殴らせろ」
「一発と言わず半殺し確定、いいえ、ぶち殺すわ」
「何でっ!? って、うわぁっ!? ちょ、夢想封印とマスタースパークって洒落にならないって、うきゃぁぁああっ!? 何で何で何でぇぇええっ!?!?」


 轟音、閃光、そして炸裂。反発の能力をも使い、橙は全力での離脱を試みる。それを霊夢が封魔針、札、陰陽玉、お構いなしに橙へと投げ放ち、魔理沙はマスタースパークを放出したまま橙を狙う。
 その度に紅魔館がどんどんと壊れていく様を、咲夜が口元を引きつらせて見て、パチュリーは我関せず、というように肩を竦め、フランは咲夜の後の苦労を思って苦笑し、レミリアは、腹を抱えるように腕を組んで。


「く、くっくっ! いやはや、あぁ、本当に飽きない奴らだよ、お前達は!!」





 * * *





 こうして、吸血鬼が起こした異変、「紅霧異変」は終結した。
 外聞として伝えられたのは、これが芝居ではなく、巫女と魔法使いの活躍によって吸血鬼は調停され、異変を収めたという話だ。こうしてスペルカードルールの知名度は一気に跳ね上がる事となる。
 幻想郷において新参者、という印象が強い上にかつ、幻想郷のパワーバランスの一翼を担う吸血鬼がスペルカードルールを用い、異変を起こした、というこの事実は妖怪達に衝撃をもたらした、と言っても過言ではない。
 そんな事もありはしたが…幻想郷の平和は戻った、と言っても良いのだろう。そうして、異変の中心に居た彼等は…。


「この、待ちなさい、泥棒、魔法使い…! 魔理沙!!」
「へっ! 悪いな、パチュリー、死ぬまで借りていくんだぜっ!!」
「死んだら誰が返せるのか言って見なさい…!! 今日という今日は見逃さないわ!!」


 ぜぇぜぇ、と息を荒らげながら地下図書館を飛び回るのはパチュリーだ。パチュリーが追うのは魔理沙だ。箒に跨った魔理沙の背には大量の本を詰め込んだ袋があり、それは全てこの図書館にある本、他ならない。つまりパチュリーが言うように窃盗である。
 堂々と現場犯行を繰り返す魔理沙に流石に業を煮やしたパチュリーが般若の形相で魔理沙を追うも、単純な魔法合戦ならともかく、速度においては魔理沙はパチュリーに対して圧倒的なアドバンテージを持っている。
 故に、パチュリーは今までみすみすと魔理沙に自らの蔵書の数々を窃盗されていた訳なのだが、今回はひと味違う、とパチュリーはにやり、と笑った。


「そういう訳で! 魔理沙!! ここを通りたかったら私と弾幕勝負だーっ!!」
「げっ!? フラン!?」


 魔理沙の行く手を塞ぐように現れたのは元気いっぱいに満面の笑みを浮かべたフランだった。


「パチュリーがご褒美くれるっていうから喜んで協力するし、魔理沙と遊べるから一石二鳥!! というわけで…突撃ぃーっ!!」
「うわ、馬鹿野郎!! レーヴァテイン振りまわしてくんな、えぇい、こなくそぉおっ!! 危ねぇぞ、小悪魔ぁっ!!」


 フランが嬉々とした様子でその手にレーヴァテインを展開して魔理沙へと突撃した。それを魔理沙はギリギリで回避しつつも加速。その道中、ぶるぶると震えていた小悪魔の首根っこを掴み、巻き込む。
 魔理沙に引っ張られるままに連れ去られる小悪魔は、え? と首を傾げるも、自分の真横に掠ったレーヴァテインを見て、ぞっ、と背筋を凍らせた。


「ひぃぃいいっ!? 何で私の首引っ掴むんですかぁぁああっ!?」
「おっと、こんな所に良い人質、もとい盾が」
「いやぁぁああっ!! 離して解放して死にたくなぁぁぁいっ!!」
「大丈夫、小悪魔! 安心してぇっ!!」」
「フラン様!!」
「峰打ちだから!!」
「炎の剣に峰打ちも何も在るわけないじゃないですかぁぁあっ!!」
「待ちなさい! フラン!!」
「あぁ、パチュリー様!! 助けてくれるんですね!! こあ、感激!!」
「――本が燃えるじゃない!!」
「私の心配はっ!? もういやぁぁああああああっ!!」





 * * *





「…また地下が騒がしいわね」
「そうですねー。また暴れてるんですかねー?」


 メイド服ではなく、作業着を着た咲夜が中庭でぼんやりと呟く。同じく作業着を着た美鈴が肩を竦めながらそう呟く。その間にも美鈴は壊れた壁を修復している。木の板でとりあえずの応急処置をしてはいるものの、だんだんと壁には穴の痕跡が増えてきている。


「…まったく、あの白黒には困ったものね」
「あはは、まぁ、良いじゃないですか。元気な証拠ですよ」
「やんちゃが過ぎる、って話よ。美鈴。あぁもう、これで一体どれだけ壁を直せば良いのかわからなくなるわ。メイドの仕事に大工なんて含まれてたかしら?」
「此処ぐらいじゃないですかね。メイドの仕事に大工なんて含まれているのは。あ、咲夜さん、そこの釘取ってください」


 とんとん、と金槌で釘を打ちながら美鈴は咲夜に言う。それに咲夜は、ふぅ、と吐息を吐き出しながら美鈴へと釘を手渡すのであった。


「そういえば、咲夜さん、お嬢様と一緒にいかなくても良かったんですか?」
「橙様と一緒にお出かけした所を見ると、恐らくは神社でしょう。橙様も一緒なら問題はないですわ」





 * * * 





「…はぁ、お茶がおいしいねぇ」
「…緑茶というのも紅茶とはまた違うが、うん、悪くない」
「…あんた等、何を当然のように縁側でくつろいでるのよ…」


 博麗神社の縁側、そこで橙とレミリアは緑茶をすすりながら、ほっ、と一息を吐いていた。そんな二人の様子を居間から忌々しげに見ていた霊夢は舌打ちを一つ零す。


「えー、折角茶菓子まで持ってきてあげたのに、霊夢ってば酷いよ」
「良いじゃないか霊夢。私達とお前の仲だ。たまにはこうして茶をくみ沸かすのも悪くないだろ?」
「知るか。ったく、茶菓子置いて帰れ」
「なんて横暴な…私は悲しいよ、霊夢」
「アンタは私の親か何かか!! 相変わらず鬱陶しいな…」


 霊夢は叫んだ後に面倒くさい、と言うように机に突っ伏して橙達から視線を逸らす。そんな霊夢の態度がおかしかったのか、レミリアはくすくすと笑い出す。それに橙がレミリアへと視線を向ける。


「どうかした? レミリア」
「何。口では何だかんだ言いつつも追い返そうとしないのは、感謝の表れか、親愛の表れかな、と思ってな」
「…なに? 異変の時みたいにぼろくそにして欲しいのかしら? 吸血鬼」
「おやおや、照れ隠しに出る言葉がそんなに物騒だと、橙が悲しむぞ?」
「橙は関係ない!! あぁもうっ、出て行け! 出て行け出て行けっ!!」


 霊夢が封魔針を投げ放つが、レミリアはそれを全て指で挟むようにして次々と受け止め、投げ捨てる。まるで曲芸のようなやりとりに橙はぱちぱち、と拍手をして。


「…良いわ…そんなに死にたいなら相手をしてあげる、表出なさい、レミリアッ!!」
「ふん。弾幕ごっこか。悪くないな!」


 遂に霊夢が青筋をこめかみに浮かべて立ち上がった。それにレミリアがにやり、と笑みを浮かべて立ち上がる。二人は同時に縁側を飛び越え、空へと上がる。何を開幕の合図としたのか、空には弾幕の光が散った。
 それを縁側から見上げるように橙は見つめる。霊夢の放つ弾幕が、レミリアの放つ弾幕が空を彩っていく。空は曇り空。レミリアが日光で焼ける事はないだろう、と緑茶を口に含む。そうして、息をほっ、と吐き出して。


「――隣、失礼するわね」
「あれ? 紫様。それに藍様」
「休憩がてらに寄らせて貰ったよ。…なんだ、弾幕ごっこをしていたのか」


 不意に声がしたかと思えば、ずるり、と隙間から出てきたのは紫だった。そうして入り口の方から入ってきたのは藍だ。藍は空に響く音と、放たれる光に気づいたように二人を見る。
 それを三人で見上げる。霊夢の弾幕の雨を回避しながらもレミリアが強引に接近しようとするも、霊夢はそれを許さない、と言うように弾幕の密度を上げていく。そんな戦いを見守る橙は、やはり微笑みを浮かべていて。


「綺麗なものですね。弾幕って」
「そうね」
「あぁ、私も暇を見て色々作ってみるのも悪くないかな」
「それも良いですねぇ。私も何か作ってみますかね」


 そんな穏やかな会話。あぁ、見上げればほら、レミリアは楽しげに笑っている。霊夢だって、表情が変わらないように見えて必至にレミリアの弾幕の軌道を読み切ろうとしている。そんな楽しそうで、微笑ましい光景。


「あぁ…」
「あら? どうしたのかしら? 橙」
「いえ、ちょっと」


 うん、と小さく橙は呟いて。





「――今日も、平和ですね、なんて」





 END……。



[16365] 黄昏境界線 36
Name: 道化◆d582f48e ID:0469b47c
Date: 2011/03/10 22:20
 ――それはきっと必然だったのだろう。会うべくして出会った。
 今、思い出せば実にそう思う限りだ。彼女と私は対極の存在。故に互いに憎悪し、互いに対立し、互いに否定する。それは決して混じり合う事の無い平行線上の存在。故に憎い。故に疎ましい。故に、無視する事が出来ない。
 彼女はここに来るだろうか。いや、来るだろう。来なければ嘘だ。むしろ確信がある。彼女はここに来て私の前に立つであろう、と。そうして終わらせるのだ。この因縁を。その結末の行く先が例え――どちらかの終焉であったとしても。


「…咲き誇りなさい。幻想の春を集め、喰らい、咲き誇りなさい…」


 唄う。唄う。唄う。
 彼女は唄う。それはまるで待ちわびるかのように、己の心に焦らされ、焼かれるかのように。漏れた吐息は艶めかしい。憂いた吐息を長く吐き出し、その口元を隠すように彼女は待ち人を待つ。
 その彼女の眼前には一本の桜。未だ咲く気配の見せぬ桜は、まるで、鼓動するかのようにその枝葉を揺らせた。





 * * *





 季節は巡るものだ。春が芽吹き、夏が猛り、秋で彩り、冬で凍える。春夏秋冬。それは日本の良き風景を彩るものだ。


「――さむい」
「…寒いねぇ」


 霊夢が半目となりながら縁側の向こうに積もった雪を見て呟きを零した。それに同意するように橙が頷いた。見事な雪景色だ。冬であれば当然の光景であろう。…そう、冬であるのならば、だ。


「暦じゃもう雪解けが始まってもおかしくないって言うのに…どういう事なのかしらね?」
「……」


 霊夢は睨むように橙を見た。それに対し、橙は指の先に摘んだ何かをじっ、と見据えるだけで返答はしない。橙の指先についていたもの。それは桜の花びらだった。それは橙の手を離れると同時にまるで幻だったように消えていく。
 ふぅ、と吐息を一つ。橙は縁側から降り立ち、首を鳴らすように回す。


「……わざわざ私に届くように送ったのは、私に用がある、って事か」
「…行くの?」
「勿論。このまま冬を続ける訳にはいかない。春が来なければ作物に影響を与えかねない」


 春が来ない。幻想郷は今、そのような状態に陥っているのだ。
 本来ならば雪解けが始まってもおかしくないこの時期に降り積もり、止む気配を見せない雪。流石に異常を感じ取った橙は雪女の妖怪の下などを訪ねて見たのだが、どうにも異常気象は意図的に起こされていた、という事がわかったのだ。
 それとほぼ同時に橙の下へと届いた桜の花びら。その花びらから感じられる気配、臭いに橙は驚きと同時に顔を顰めたのだ。そして、橙は博麗神社へと訪れたのだ。


「行く先は決まってる。霊夢、手を貸して。私があの人の下に行く為に」
「……異変解決は私の仕事よ。…で? 今回の事件の首謀者ってのは誰なのよ?」


 霊夢は橙と同じように縁側へと降り立ち、体をほぐしながら問いかけた。それに橙は厳しい表情のまま、溜息を吐き出して。


「冥界の白玉楼に住まう亡霊の姫、西行寺幽々子」





 * * *





「…で、なんであんた等がいんのよ?」
「異変と聞いて駆けつけてやったぜっ!」
「冬が終わらないので調査しろとお嬢様の命令で」


 宙を行く霊夢と橙。その二人を追うように飛翔するのは魔理沙と咲夜だ。明らかに自分たちに付いてくる気だ、という事を確信して霊夢は重たい溜息を吐き出した。


「…冬は終わらないし、煩い奴らと道中は共にしなきゃいけないし、散々ね」
「ははは…本当に、ね」


 霊夢の呟きに対して橙は真っ直ぐ前を見つめながら呟いた。その橙の呟きに誰もが沈黙する。橙はただ厳しい表情をしたまま、ただ飛翔しているのだ。その様子が霊夢達にはどうにも気がかりなのだ。


「…で、よ? 春を奪ったっていう冥界の姫様ってどんな奴なんだよ?」
「さぁ? 私もどんな人、かなんてどう言えばいいかわからないよ」
「……橙様。もしかしてそのお方がお嫌いで?」
「…嫌い、って言うかなぁ…」


 魔理沙と咲夜の問いかけに橙は困ったように眉を寄せる。暫く唸りながら飛んでいた橙だったが、ゆっくりと纏めた自分の考えを口にした。


「…苦手なんだよ。あまり関わり合いになりたくない。…だけど、絶対に無視出来ない、そんな人かな」
「…よくわかんねーけど、複雑なんだな」
「別に橙がそいつをどう思ってるのかなんてそんなのはどうでも良いのよ。やるべき事はそいつをぶっ飛ばして春を取り戻すだけでしょ?」


 橙の説明に魔理沙が、わからん、と言う表情で返す。霊夢はどうでも言い、と言わんばかりに鼻を鳴らせて言う。霊夢の言葉に橙は僅かに苦笑。そうだ、今は異変を解決する事が最優先。ならば彼女との確執を考えていたって仕様がない、と。
 そうして先を急ぐ四人の前に影が見えた。雪が降っている為に僅かに視界が悪く、霊夢達は誰か判別する事が出来なかったが、橙だけはその影を確認する事が出来た。


「アリス?」
「あら? 橙じゃない」


 橙が声をかけたのは少女だ。アリス、と呼ばれた少女は橙の顔を見れば少し目を瞬きさせた後、軽く手を挙げて挨拶をした。その逆の手には魔導書を抱えていて、彼女の周囲には精巧な人形が付き従うように浮かんでいる。


「橙、誰よ、此奴?」
「…霊夢、誰って、覚えてないの?」


 霊夢は見慣れない顔に眉を寄せて怪しむようにアリスを睨む。その霊夢の反応に橙は目をぱちくりとさせ、少し苦笑するように口元を釣り上げながら問いかけた。そんな霊夢と橙の反応を見ていたアリスは肩を竦めながら溜息を吐き出して。


「久しぶりなんだから覚えてる訳ないでしょ? ねぇ? 博麗の巫女に霧雨の家出娘さん?」
「あ? お前、なんで私達の事知って……」
「昔、橙に連れられて私の人形劇を見に来たでしょう? 覚えてないの? 私は覚えているけど? 橙が連れてきた、って言う印象があったからでもあるけど」
「……そんな事もあったような、なかったような…」


 アリスからの説明に霊夢と魔理沙が両手を組んで唸り出す。思い出そうとするも、なかなかに該当する記憶が出てこない。そのままうなり続ける二人を無視して橙はアリスへと視線を向ける。


「アリス、どうしてここに?」
「…恐らくはアンタと同じ理由だと思うけど?」
「…あぁ、そういう事。でも、アリスが動くなんて意外だったよ」
「…まぁ、ね。今回はたまたま。気まぐれよ。そう、そこの巫女さんが発布したっていうスペルカードルール用の人形なんて作ってみてね。その稼働がてら、春の盗人でもこらしめようかと、ね」
「…アリスらしいや。…ねぇ、アリス、頼みがあるんだけど…」
「手伝え、って? まぁ、別にいがみ合う理由も無いから良いけど?」
「ごめん。ありがとう」
「良いわよ。利害の一致よ。…というわけで、よろしく? 博麗の巫女に霧雨の家出娘、それと…紅魔館のメイドさん?」


 橙の頼みを快諾したアリスは橙に軽く微笑みかけた後、橙の後ろに控えていた霊夢達へと挨拶をする。


「霊夢で良いわ」
「家出娘言うな。魔理沙だ」
「十六夜咲夜、と申します。以後よしなに」


 それぞれの反応を返しながら自己紹介が終わる。アリスは個性的な三人の挨拶にふん、と小さく鼻を鳴らすようにして橙へと視線を促した。


「行くべき場所はわかってるんでしょ?」
「うん。…冥界だよ」
「そう。じゃあ急ぎましょう」





 * * *





「…幽々子様、春度を集めて参りました」
「…そう。どうもね。妖夢」
「いえ…。ですが、満開にはまだ足りません」
「そうね…」


 冥界、白玉楼の一角。そこで幽々子の傍で跪く妖夢がその態勢のまま、幽々子が見つめている桜を見つめながら呟いた。幽々子は妖夢に視線を向けず、その桜に視線を向けたままだ。
 その桜の名は西行妖。妖怪桜と呼ばれ、人の血を吸って咲き誇ると逸話がある伝説の桜だ。いつしか人の血を吸いすぎた桜は妖怪となり、人の生き血を啜る為に自らの根本へ人を誘い、死へと招くという。
 今、その桜が咲き始めている。西行妖には咲く事がないように封印がされている。故に桜は未だ満開にならず。おおよそ八分咲き、と言った所だろう。妖夢はそれに対して申し訳なさそうにするも、幽々子はまるで心ここに在らず、と言うように桜を見続けている。
 妖夢は暫し無言でその場に跪いていたが、不意に幽々子が妖夢、と名を呼んだ。それに妖夢は返事を一つ返しながら、幽々子の次に続く言葉を待った。


「……そろそろ、あの子が来るわ。あの子だけは通しなさい。他はここに入れては駄目よ」
「…御意。それでは失礼いたします」


 幽々子の言葉に、妖夢は苦い思いを噛みしめるように唇を惹き結び、強く歯を噛みしめた。全ての変化の元である彼女の姿が妖夢の脳裏に浮かぶ。ただ暢気に冥界での生活を謳歌していた幽々子の姿はない。
 今、目の前にいる彼女はどこか心在らずで、ただ、待ち人を待っている。そこに表情はまるでない。能面のように無感動の表情で幽々子は待ち続ける。いつからだろうか、と妖夢は思う。
 いつから変わってしまったのだろうか、と。妖夢はそんな呟きを飲み込んで、主の命を完遂する為に白玉楼を後にするのであった。



[16365] 幻想郷縁起 ~黄昏境界線~
Name: 道化◆5a734804 ID:d4ec8ce0
Date: 2010/02/18 22:23
 幻想郷縁起 ~黄昏境界線~




二つ名:反逆の黒猫
能力:反発を制御する程度の能力
危険度:低
人間友好度:高
主な活動場所:人里、妖怪の山
概要
 妖獣の中でもスタンダードな化け猫。その化け猫の中でも変わり者であり、八雲 藍の式神であるのが彼女だ。
 妖怪・妖獣問わず、彼らは人間を喰らい、人間を襲うが、彼女は魚や米など人間と同じような食生活を好んでいるようだ。事実、人里の食事処でその姿が確認されたことがある。
 どうも前世が人間だった(※1)らしく、その人間だった時の記憶などを受け継いでることがそもそもの原因だとは彼女自身の弁。
 人里に顔を出すことが多く、気性や価値観も前述の通り人間のもののため、人を襲ったり、悪戯したりすることはなく、むしろ子供たちの良い遊び相手(※2)になっている。
 そのためか、あまり力のない妖怪に見られがちだが、その実力は幻想郷でも上位に食い込む程の実力者だというのだが、普段の様子を見ていると本当にそんな気がしない。
 好物はシーチキンらしい。おにぎりはツナマヨ、これ一番だと言って譲らない。だが鮭おにぎりも捨てがたいらしい。結局どっちだ。


(※1)しかも外来人らしい。
(※2)ねこのおねーちゃん、橙のおねーちゃんと慕われている。

◆能力◆
 例えばの話をしよう。親から叱りつけられたとき「どうして怒られなきゃならない」と思う時があるだろう。反抗心、つまりは反発することだ。
 彼女の能力は簡単に言ってしまえばそれである。自分の望まぬことなどを強いられた際、それに対し抵抗することの出来る能力である。
 もちろん感情的なことだけではなく、物理的、つまり殴られることに対し、反発すればその拳をはじき返すことも可能。
 逆にその反発をゼロとして受け流すことも出来るようだが、多用しているのは反発の方らしい。
 感情と直結した能力でもあるので暴走することもあるらしい。呪いという形で存在などに反発し、能力の発動を阻害したり、その存在が息絶えるまで攻撃しようとしたことがあったらしい。
 今は精神的に落ち着いているため、そのようなことはないらしいが本当ならば危険である。


◆目撃報告例◆

・魚屋で魚を買っているのを見たな。魚屋の子供と親しいみたいだったな。(上白沢 慧音)

 彼女は何かと魚屋を贔屓しているようだ。猫だからか。


・人里の子供たちにもみくちゃにされて涙目になってたな。本当に妖怪か?(森近 霖之助)

 妖怪ではある。しかし、本当に強いのか謎である。


・妖怪の山を勢いよく駆け抜けていくのを見たよ。あれは天狗と良い勝負ができそうだ。(匿名)

 彼女の能力を考えれば出来なくはなさそう。だが想像は出来ない。


・水の上に立ってた! なんかすげー格好良かった! 俺もいつかやるんだ!(人里の子供A)

 修行の一環らしい。危ないので真似はしない。



◆対策◆
 特に記述すべきことはない。人間にかなり友好的なので襲いかかってくることはまずない。だが彼女も妖怪。本気で憎まれたりするようなことだけは避けるように。
 見かけからはそうには見えないが、幻想郷でも上位に食い込むほどの力を持つと言われているのだから。…真実の程はどうかとして。





[16365] 黄昏境界線 番外「レミリアとの弾幕ごっこ」
Name: 道化◆d582f48e ID:0469b47c
Date: 2011/03/10 22:21
 それは月が浮かぶ夜の事だ。


「――はっ!!」
「――つっ!!」


 空気を振るわせる音。どん、と空気が破裂したような音共にはじけ飛ぶ二つの影は宙を舞う。片方の影が大きく広げるのは背の翼。漆黒なる蝙蝠の翼、夜の支配者たる証を雄々しく広げレミリアは対峙する相手を睨んだ。
 中華様式の色を見せる衣装を纏うのは橙だ。その拳を握り、油断なくレミリアを睨んでいる。空中で取った構え、半身になるようにレミリアへと向かい合い、片方の拳を前に、逆の拳は引き絞るように。
 ふん、とレミリアは鼻を鳴らす。上空、月を掴むように掲げた手、底に浮かび上がるのは紅の魔弾。荒れ狂うように膨張と収縮を繰り返す魔弾を振りかぶるようにレミリアは投げはなった。
 風を巻き込むように疾走する魔弾を橙は向かい打つ。息を吐き出し、丹田に込めた力を全体に行き渡らせる。引き絞った拳を振り抜く。橙の妖力を込めた拳はレミリアの放った魔弾を殴りつけ、ぱん、と空気が破裂するような音と共にかき消える。


「そら、まだまだだっ!!」


 橙の反応に気を良くしたようにレミリアは腕を振る。振るう度に空中には赤き光が蛍のように浮かび上がる。それは脈動し、先程の魔弾と同じように膨張と収縮を繰り返した後、橙へと殺到する。
 橙が息を吸い込む。身を回すようにして橙が大きく腕を振るった。振るった先より放たれるのは爪の軌跡を描く光の爪。それはレミリアの放った魔弾を纏めて掻き消していく。空気の破裂音が連続として響き渡る。連鎖する爆裂音は止む事を知らない。


「そらそらそらそらぁっ!!」


 昂ぶったように声を上げながら指揮者のようにレミリアは腕を振るう。昂ぶる感情に任せた熱の入った指揮の元、レミリアより放たれた弾幕は橙へと向かっていく。無数の赤の蛍のような弾幕。それをかいくぐるように橙は光の爪を放つ。
 無数に繰り返される弾幕の応酬。が、それを終わらせたのはレミリアが先だった。レミリアは懐より一枚のカードを取り出す。それに妖力を込め、空へと掲げるようにカードを放り投げた。


・――天罰「スターオブダビデ」


 レミリアを中心にして展開される魔法陣。レミリアの魔力を込められた魔法陣はその効力を発揮し、無数の弾幕と光線を吐き出した。遠目から見れば一種の絵のように見えるその中に取り込まれた橙は迫り来る弾幕を時には殴りつけ、自らを安全な場所へと運んでいく。


「こ、のっ!」


 一発、二発、三発、腰溜めに構えた拳を橙は休む事無く振るう。これだけ大規模の弾幕となると先程の己の妖力を込めた爪で一気に消失させる事も出来ない。確実に一つ、自らに迫る弾幕を打ち消していく。
 めまぐるしく迫る弾幕、それを橙は殴り飛ばし続ける。その足掻く姿にレミリアは笑みを浮かべてみせた。そうして、レミリアの頭上に掲げていたカードが力を失ったように風に飛ばされる。


「見事!」


 宙に展開されていた魔法陣がかき消えるのと同時にレミリアは賞賛の言葉を言いはなった。それに応えるように橙が懐へと手を伸ばす。


「そりゃどうも!! 今度は、こっちの番ッ!!」


・――拒符「封絶断界」


 橙の懐から取り出したカードを両手で挟み込むように手を叩いた。瞬間、橙の両手に光が灯る。更に橙はその手に扇子を握り、それを開いた。橙は腕を大きく振り、体を回すようにステップを踏んだ。それはまるで舞うようにだ。
 いつの間にか、橙の足下には陣が敷かれていた。それは結界。いくつも、いくつも、小さな薄い結界が生まれていく。その結界が花弁を開くかのように橙を包んでは開き、包んでは開きを繰り返していく。
 それは橙を永続的に護る結界にして、他者を寄せ付けぬ拒絶の結界。拒絶の結界は花開くと同時に弾幕へと代わり周囲へと撒き散らされる。レミリアはそれを己の弾幕を以て相殺する。橙の弾幕は薄い。容易に懐へと潜り込める。潜り込んでしまえば結界が花開き、薄くなった所を狙えば良い、とレミリアは翼を羽ばたかせる。


「ふん、随分と守りに徹したスペルだな!」


 この弾幕には攻勢が見られない。故にレミリアはそう称したのだが、違和感を覚えるのもまた事実だ。そして不意にレミリアは橙への接近を止めた。周囲を見渡せば時既に遅し、レミリアが回避していた弾幕がいつの間にか制止し、その場に停滞していた。
 橙が舞を止める。そうして、再び橙が舞出す。それは先程とは別の舞、足下に描かれた陣がその形を書き換える。レミリアを囲うように停滞していた弾幕は今度は橙に引き込まれるように集まり出す。


「くっ――!?」


 橙が身を抱きしめるように両腕を交差させる。レミリアはすぐさま引き返そうとするも弾幕が濃い。入るは易し、出るは難し。吸引される弾幕の速度はそれぞれがばらばらで、思わぬ場所から弾幕が現れる事もあり、レミリアに気を緩ませる時間すら与えない。


「――このっ」


・――紅符「スカーレットマイスタ」


 逃れられぬ、と判断したレミリアの行動は早かった。懐より別のスペルを取り出し発動。力任せに解き放った弾幕は橙の弾幕を相殺し、レミリアに脱出の道を見いださせる。レミリアはその道を突っ切るように翼を羽ばたかせ、橙の造り出した弾幕の結界より抜け出す。


「カード、2枚目。行くよっ!!」
「――ちぃっ!!」


 橙の一枚目のスペルが力を失って消える。が、既に橙は二枚目のスペルを用意していた。レミリアはそれに舌打ちをし、未だ効力を失わないスペルを橙へと解き放つ。レミリアの妖力にモノを言わせた力任せの、故に圧倒的な弾幕が橙へと迫る。


・――蹴破「我が道に阻み無く」


 橙が低く身を縮ませる。空中でまるで地を踏み込むように橙は空気を踏んだ。そこにある空気を反発し、橙は疾走を始めた。それはただ走るだけ。しかり橙の速度は上がっていく。一歩、また一歩と踏み込む度に加速する。
 そして橙はレミリアの放った弾幕を突き抜けた。橙の全身からは橙の加速によって得られた力と妖力によって作られた膜によってレミリアの弾幕は突破されたのだ。一点集中突破方のスペルか、と判断したレミリアは口元を釣り上げるように笑った。


「ふんっ! ならば新作だ!! 存分に受けると良いっ!!」


・――神槍「スピア・ザ・グングニル」


 深紅の光が迸る。レミリアのスペルカードを中心に形成される光の槍。それは次第に形を象っていき、一本の深紅の槍と貸す。橙はそれを見て、口元に笑みを浮かべて更に踏み込み、加速を続ける。
 流星のように眩いまでの光を放ちながら迫る橙に対し、レミリアは全力の力を持ってその槍を投げはなった。深紅の槍は夜の闇を切り裂くように疾走し、橙はそれを迷う事無く迎撃の態勢を取った。


「せ、やぁっ!!」


 橙の拳が加速に乗って放たれる。それはレミリアの放ったグングニルと衝突。そのまま拮抗状態へと持ち込まれる。暫く光と光が衝突し合い、火花を散らしていたが、レミリアの放ったグングニルが在らぬ方向へとはじき飛ばされた。
 だが、はじき飛ばした代償として橙のスペルは効力を失い、橙自身も肩で息をする。疲れに相手への集中が途切れたのは一瞬、橙はすぐさま視線を上げてレミリアの姿を探した。
 そして、見つけた。月を背負うかのように両手を広げて立つレミリアの姿を。その口元に浮かんだ笑みは問うている。――さぁ、足掻け、と。レミリアの手に握られるグングニルが。それを構え、レミリアは橙へと突撃した。


「足掻くさ…! それが私の生き方だ…!」


 スペルカードを構える。それを宙に放れば、橙の妖力が解放される。それはレミリアの先程放ったグングニルのように形を変えていく。それは光り輝く光の槍。


・――天槍「天瓊矛」


 それはかつて日本を創造したとされる神話の槍の名を冠した天槍。橙の手に生み出された。白銀の天槍は大きく橙が振りかぶり、勢いをつけて解き放たれる。レミリアもまたそれに応えるようにグングニルを解き放った。
 衝突。荒れ狂う妖力の渦に空気が軋み、噛み合う二つの槍は互いを打ち消さんとし拮抗する。そして―――。





 * * *





「……引き分けかぁ」
「…ふん、動けぬ身で何を言う。立っていられる私の勝ちだ」
「うん。凄いぷるぷるしてるけどね」
「うるさい!」


 紅魔館の門の前、そこで橙は大の字になって大地に身を投げていた。空に浮かぶ月を見上げていると、橙を見下ろすようにレミリアがやってきた。が、その足はぷるぷると震えていていまにも座り込んでしまってもおかしくはない。
 あれから弾幕ごっこを心赴くままに楽しんでいた二人だったが、結果は結局はドロー。勝敗が付かないままで終わった。


「ところで、橙、お前、私のグングニルパクったろ?」
「え? いや、あれの元々の構想はフランのレーヴァテインが元だしなぁ」
「ほぅ、あくまでフランの真似であって私の盗作ではない、と?」
「唯単に構想が被っただけでしょ? …あれ? そうなるとレミリアもフランのを元にしたんじゃ…?」


 そんな橙の呟きにレミリアは応えない。が、視線を逸らしている所を見ると実に怪しいものだったが…。


「…まぁ、いいや。楽しかったし」
「…ふ、そうだな。あぁ、こんなにも良い月夜に遊べたんだ。本当に―――」


 ――良い夜ね。


 唄うようにレミリアは告げる。それに橙も同意するように小さく笑みを浮かべて笑うのであった。


 


 


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