死。それは生きとし生ける者達にとって逃れられない運命。
必ず訪れ、終わりを告げるもの。死についてはいろいろな事が語られる。
肉体は死しても魂は残る。その魂は幽霊となる。その魂は天国や地獄へ行き、輪廻を巡る。全知全能の神の下へと帰る。または何も残らず消滅する等々…。
しかし、死の向こう側の世界など見える事は無い。それは生者にとっては永遠に関わり合いのなれない世界なのだから。
伝えられない。伝わらない。ただあくまで想像の産物でしかない「死」の向こう側には何があるのか?
さて、唐突だが、本当に唐突な事なのだが自分は死んだ。
死。そう。死んだ。恐らく死んだ。多分死んだ。確定は出来ないけどそれは九分九厘確信しているようなもの。
死んだ。そう。それだけの事。今、この思考している状態が俗に言われる魂の状態なのかはよくわからない。今の自分が幽霊だと呼ばれるものなのかもよくわからない。
もしくは自分はまだ生きていて、これは夢のようなものなのかもしれない。それが最後の夢なのか、それともただ眠っているだけなのか。
わからない。あぁ、わかる事など1つもない。言葉には出来ない。形には出来ないのだから。
――…にゃあ。
話は変わるが、胡蝶の夢という話を知っているだろうか? ある詩人が夢を見ていた。だがふと詩人は自分が蝶になっていた夢を見ていたのか、それとも蝶が自分になった夢を見ているのかわからなくなってしまったという話だ。
さて、先ほど自分は魂だけなのか、幽霊になったのか、と言ったとは思うがそれは今、否定されている。
いつからそうだったのか。いや、最初からそうだったのか。
私は猫になっていた。
…いや、もしくは在るべき姿に戻った。よくはわからないが、今、猫という自分という存在を認識している私はここにいる。
今、私が明確に事実として言えるのは、私が猫であるという事。そして私は「死んだ」という事。
この死というのがよくわからない。今の私は生きているのだが、それでも強烈に「死」の記憶が残っているのだ。
やはりよくわからない。私は死んで、魂だけになったものが猫になったのか。それとも猫であったものが人の夢を見て、その夢の終わりが死であったのか。
どちらなのかわからない。だが、私にとっては夢であろうが現であろうが変わらないのだ。
死は、恐ろしい。
「――…ッ…」
吐く吐息が震える。死の恐怖に怯えるように身を震わせ、空を仰ぐ。
身体が動く。人であった筈なのに猫の身体を容易に動かす事が出来るのはやはり私は猫だったのか。
もう、いい加減に良いだろう。現実を否定するための黙考など益にはならない。
私が猫であったのか、私が人であったのか、人が猫になったのか、猫が人になっていたのか、もうなんでも良い。
ただ私は死ぬ訳にはいかない。もう二度と。死にたくはない。そう、生きるのだ。
私は飼い猫という立場ではない。野に放たれた野良猫なのだ。誰も比護してくれない自然の中で生きていかなければならないのだ。
曖昧に残る人としての記憶が不安を呼び起こす。強き者が生き残る弱肉強食の世界で私は生き残れるのか?
恐怖。それは恐怖だ。死への恐怖と、生への恐怖。間を挟まれるようにして私は身を震わせる。
視線を空へと移す。見上げた空は夕焼け。橙と紫、藍が複雑に入り乱れる空が視界へ映る。綺麗だな、と素直に思う。
生きたい。死にたくない。恐怖は消えない。だけど幾つも理由を並べ立てて私は生きていこう。
この綺麗な夕日を私はまだ見ていたい―――。
+ + + +
そこは幻想郷。現世に忘れ去られし幻想達の楽園。
妖怪達が闊歩し、幻想とされた光景が自然とそこに存在している世界。
人は闇に怯え、闇に妖怪達は闊歩し、人の恐怖を煽る。
だが、それでも人と友好的な妖怪が存在していない訳ではない。今から視点を当てる彼女もその1人である……。
「盗難被害、ですか?」
「そうなんですよ。魚がやられるそうで、タチの悪い化け猫でね」
「…化け猫、ですか。随分と豪胆と言うか、短慮というか…」
はぁ、と溜息を吐いたのは1人の女性。彼女は夕食の食材を買う為に人里へと降りてきたのだが、そこで聞いた話に眉を顰めていた。
美しい顔立ちの顔。だがその頭には普通の人には無い耳があった。それは狐のものだ。更に奇特なのは耳だけではなく、彼女の背の方に揺らめく九本の立派な狐尾。
八雲 藍。それがこの女性の名だ。彼女はその外見からわかる通り、人間ではない。
彼女は九尾の狐。化け狐はその尻尾の数で妖力を増すが、彼女のソレは並の妖怪など歯牙にかけぬ力を持っている証である。
彼女はこの幻想郷の管理者である妖怪の賢者「八雲 紫」に使役される式であり、その行動も基本的に主に準ずるものである。
ふむ、と彼女は小さく呟いて。
「人を襲うなどという兆候は見られないのか?」
「へぇ…軽い怪我ぐらいならしたんですが、傷付けよう、といった意志はねぇみたいですや」
力の無い妖怪か、と藍は呟く。妖怪は人を喰らう種族だ。だが、幻想郷にある人里では人を襲う事を禁止している。
それは幻想郷を維持する為に必要な処置である。現世は幻想を科学によって論理的に証明し、恐怖する事を忘れ、闇を人工の光によって奪っていった。
そうしてから妖怪達の力は衰え、それを危惧した八雲 紫によって幻想郷は生まれ、今もこうして存在している。
そのようなバランスを保っているこの世界で、人里を襲おうなどという妖怪はいない。そんな妖怪がいれば妖怪の賢者と謳われる八雲 紫は勿論、人を守護する為に存在する「博麗の巫女」を敵に回すからだ。
そうなればこの幻想郷では生きてはいけなくなる。その理を理解出来ない低級の妖怪は人を襲うかもしれないが、この話の妖怪は少々特殊なようであった。
少し気になる、と藍は思った。そう思い、買い物袋を下げて歩き出す。目的はよく被害に逢うという魚屋へと足を向けた。
藍がちょうど魚屋に辿り着こうとしたその時だ。まるで示し合わせたかのように上がる悲鳴。
藍の目の前。そこに一匹の猫がいる。二股の尻尾は警戒するように揺れ、口元に加えた魚をしっかりと噛み締める。
藍は軽く威圧するように猫を睨み上げた。藍の睨みと共に妖気が溢れ出す。それだけでこの猫は理解するだろう。自分が何をしたのか、何を敵に回したのかを。
「―――ッ!!」
猫は弾かれたように駆け出した。そのスピードは早く、軽い身のこなしで建物の上を駆け抜けていく。
「待てっ!!」
藍は声を荒らげ、自らも地を蹴って宙へと浮かび、猫の姿を追う。
猫は裏路地の方へと逃げていく。地に這うかのように軽やかに駆け抜け、藍を振り抜こうとする。
が、藍もそこはただの妖怪ではない。猫を捕らえんべく飛翔の速度を上げ、猫へと追い付こうとする。
藍は直ぐさま猫を捕らえる未来を半ば確信していた。藍の予想通り、あの化け猫は妖力もさほど高くも無い。飢えに飢え、こうして人里の魚を狙うしか無かったのであろう。
そして、猫は藍の手に捕らえられた。隙間へと逃げ込もうとした猫の尻尾を藍は手を伸ばし捕まえ、宙づりにぶら下げる。
「ふーっ! ふーっ!」
「ほぅ…実力の差を理解しても抗おうとするか」
藍は未だ妖気を放出している。それ故、この化け猫も理解していると思うのだが、それでも抗おうとするこの化け猫の姿勢に藍は思わず感嘆を覚える。
が、それもすぐ一瞬の事。すぐさまその感嘆の感情を消し去り、冷徹な瞳で化け猫を睨み付ける。
「紫様の取り決めによって人里で騒ぎを起こす事は認められていない。それを理解していない訳ではなかろう?」
「…………知っている」
呻くような声が漏れる。鈴のような凜とした声だ。
「そうか。ならば自分がどうなるか理解しているな?」
「……殺すのか?」
「そうだな。この幻想郷を維持する為に守らなければならない理がある。そしてお前はそれを犯した。ならば排除するだけだ」
だが、と藍は一言呟いて。
「1つ聞いておこう。どうしてお前は人を襲わなかった?」
「……人?」
「惚けるな。わざわざ人里まで忍び込んで魚を盗んだのならば、人を喰らいたいという欲求があると考えた方が自然だ」
「…猫が食べるのは魚じゃないのか?」
「…ん?」
何だ? と藍は猫との話を聞いて思う。何故だかは知らないがこの猫との挙動がどうも不自然に思える。
何だか自らの常識と噛み合わないようなそんな感覚を受ける。思わず、ジィッ、と猫を見つめてしまう。
「お前は、自分を猫だと思っているな?」
「そうだろう」
「…化け猫、だというのは?」
「化け猫? …あぁ、確かに化け猫だろな。私は」
「…ならば人を食いたいとは?」
「猫は魚を食うものだろう? …いや、化け猫は人を食うのか。だが、私は猫だ。人は喰わない」
キッパリと断言する目の前の猫に藍は思わず疑問を思わずにはいられない。この猫は自らの存在をただの猫という事は自覚している。
だが、それでいて人を喰らう事はしない、と断言するこの猫は一体何なのだろうか? と藍は思考に沈む。どうも普通の妖怪とは異なった妖怪のようだが…。
「だが、それでも人里への被害が少なからず出ている」
「………」
「ならば、それを見逃してはおけない。何が火種になるかわからない」
この幻想郷は酷く危ういバランスの上に成り立っている。だからこそ、少しの火種も見逃してはおけない。だからこそ、藍は排除する。
「…そう、か」
だが、何故だろうか。
「…死ぬのか。私は」
その声が言いようもなく心を震わせるのは? 藍は縫い止められるかのように静止した。
+ + + +
ここが幻想郷だと知った。自分は人を喰らいたいという欲求は少なからず無かった訳ではない。だが、それに忌避感を覚えたのは「人間」としての意識が残っていたからだろう。
だからこそわかっていた。自らの行いが罪である事を。だからやりたくは無い。
それでもやっていたのは生きる為だ。生きる為に必要だった。だから魚を奪った。人を傷付けたときは罪悪感にも襲われたが、空腹感の前では罪悪感も消え去ってしまった。
そして飢えが満たされれば、また自己嫌悪して、それでも次も止められない、と考える自分がいた。
自分は弱い。この幻想郷は妖怪達が闊歩する世界。その世界で、ただの喋られる程度の猫など生き残るのは非常に厳しい。
だからこそ、知識を生かした。「人」の知識を。そして「人」から奪い、生き延びてきた。
人間じゃなくなってしまった、と思う事があったが、当然のように受け入れていて、自分はやっぱり人間じゃないんだな、と自覚して。
…何のために、私は生きていたんだろう。
ただ、死にたく無い。ただ、この恐怖から逃げ出したかった。
死ねば終わるだろうか? それとも私はまだ夢を見るのだろうか? また死んだ記憶を抱えて、怯えながら生きていくのだろうか?
「…死にたくない…」
嫌だ。
「死にたくない…」
嫌…。
「死にたくないよぉ…」
嫌。苦しいのは、もう嫌なのだ。
――…あら、随分と面白い存在がいたものね。
そして、私は出会う。夕焼け。夜の近づき、藍に、紫に、橙が混じるその空の下で…。