Hatena::ブログ(Diary)

藤岡真blog

2011-03-10

唐沢俊一追討日記 ジェーン・ラッセル

10:28

 オンリー・ワンだった女(ひと) 【訃報 ジェーン・ラッセル】

 あるパーティで、ボブ・ホープが彼女を紹介して曰く。

「ご紹介します。二つの、そしてオンリー・ワンの存在、ジェーン・ラッセルです」

 ……もちろん、“二つ”とは彼女の胸(おっぱい)を指して言っている。

 彼女の二つの胸を、大富豪ハワード・ヒューズが発見したのは1940年。すでにヨーロッパではヒトラーが破竹の進撃を続け、世界はアメリカがいつ参戦するか、固唾をのんで見守っていた。もちろん国内最大級の航空機会社を経営していたヒューズなのだから、そっち方面でも凄まじく情報収集に神経を使っていたと思うが、そのさなかにちゃんと女性収集もしていたというのがさすがというか何というか。彼は歯医者の受付嬢だったラッセルを、現在自分が製作中の映画『ビリー・ザ・キッド(後に『アウトロー(ならず者)』と改題)』のヒロインに抜擢した。

 ヒューズは二つのラッセルに惚れ込むあまり、監督のハワード・ホークスを降ろして自分が監督になり、ひたすら彼女のおっぱいを強調して撮った。胸の谷間をギリギリまでのぞき込める撮影法を考案させ、アップにしても(もちろんおっぱいを、だ)縫線の目立たないシームレスブラジャーをデザインさせた。

 世界は上記のような状況である。時局を考えないそのエロチシズムに検閲機関はヒステリーを起こして、ハサミを入れまくり、結局公開されたのは完成から2年後の1943年。評判も客の入りも最低だった。宣伝部は何とか、その検閲されまくったエロ映画、という評判を逆手にとってウリにするしかなかった。

 たいていの映画コラムには、これを巨乳オタクのヒューズの狂いっぷりのあらわれ、と書いている。それは間違いないだろう。しかし、いくら巨乳フェチでも、そこはハワード・ヒューズ。そこらのオタクとは先見性が違う。彼は、当然のことながら、アメリカは第二次大戦に突入する、と確信していた。そして、映画プロデューサーとして、これからは演技力や美貌よりも、とにかく肉体美、それも脚とかではなく胸が最大のポイントとなる、と見抜いていたのだ。戦場に狩り立てられ、死線をさまよわされるのは、まだ女性を知らない年頃の若者がほとんどだ。彼らが塹壕の中で妄想をたくましうして想像するのは、視覚的に最も強烈な巨大なおっぱい、幼いころお母さんのそれを間近で見て、他の女もそうなんだろうと想像のつく中で最大級のものである。現に、映画がまだ公開するさせないで揉めている最中に彼女のピンナップは『ライフ』誌の表紙になり、戦場の兵士たちの間でひったくりあいになった。

 映画はコケたが、それは製作費がスキャンダルネタで集まった客で回収するにはあまりに巨額になりすぎたことと、肝心のシーンは全てカットされてしまっていたこと、そして本来の観客である、おっぱい好きな若い男性たちのほとんどが、海の向こうに戦争に出てしまっていたことにあった。

 ちなみに、監督のヒューズはこの映画の興業成績などはすでに眼中になかった。戦争が始まり、彼は世界最大の飛行艇、H−4 ハーキュリーズを製作することに没頭していたからである。おっぱいと飛行艇への執着の関係というのも、考えると何やら心理学的に深遠なものがありそうな気がする。某アニメ監督とか。

 やがて戦争は終る。アメリカ本国には、ゾロゾロと若者たちが帰ってきた。長い戦争で、妄想ばかりかき立てていた結果、みな、巨乳マニアに成り果てて。戦後、最も早くセックス・シンボルとして有名になった映画女優は1946年、『ギルダ』(チャールズ・ヴィダー監督)におけるリタ・ヘイワースだったが彼女がこの映画で強調したのは、“腕”だった。これでは若者は満足できない。しかしラッセルがこの時期に出演したのは、上記のボブ・ホープとコンビを組んだ『腰抜け二挺拳銃』(1948)や、怪奇俳優ヴィンセント・プライスと共演したフィルム・ノワール『犯罪都市』(1951)などで、コメディ演技を見せたり、歌を披露したりして芸域を広げていたが、おっぱいファンには物足りず、やきもきするばかりだった。彼らは仕方なく、B級映画の『ターザンと豹女』(1945)のアクアネッタや、イタリア映画『花咲ける騎士道』(1951)のジーナ・ロロブリジーダなどで満足せざるを得なかった。黒澤の『羅生門』(1950)がアメリカで評価されたのも、京マチ子のおっぱいが大きかったことが要因のひとつなんじゃないか。

 やっと彼女が胸の谷間をたっぷり見せてくれたのは1953年のミュージカル『紳士は金髪がお好き』で、ここでラッセルはかつてヒューズに監督を降ろされたハワード・ホークスにやっと最初から最後まで演出をつけてもらえる。だがしかし、この映画で大ブレイクしたのは、ラッセルではなく、共演のマリリン・モンローの方であった。ラッセルはこのとき、後輩のモンローの引き立て役を自ら引き受けたとも、怒り狂って制作者に抗議したとも言われている。どちらもゴシップとしては面白い。

 やがて彼女は、もう一人のハワードの方、かつて自分を発見したハワード・ヒューズとも再度、仕事をする。今度は監督が温厚かつ職人肌のジョン・スタージェスだったので安心であった。とはいえ、今回もヒューズはおのれの趣味を全開にしていた。『海底の黄金』(1955)と題せられたその作品は、とにかくラッセルの水着姿、ということは必然的に露出されるそのおっぱいをたっぷりと観客に(そしてヒューズに)観賞させることが目的の映画であった。いくら趣味を全開にしても、今度はもう世相も変わり、誰も文句をつけなかった。この映画以降、アメリカでは女性のダイビングが流行したという。ヒューズは、自分の趣味と世間の嗜好を一致させることに、やっと成功したのであった。

 ラッセルは自伝の中で、自分の演技力をかなり低く評価し、肉体の魅力のみで売れたことを客観的に認めている。かなり早い時期に映画界を引退したのも、女優という職業に自信が持てなかったからだと言われる。敬虔なクリスチャンで、ヒューズはじめ多くの男性が次から次へと誘惑してくるハリウッドの生活に嫌気がさしたのでもあろう(もちろん彼女は全てをはねのけ、まっとうな結婚をした)。

 ラッセルの存在は、その偉大なる胸がスクリーンへの露出をやめると同時に、急速に忘れ去られていった。ラッセルより半世紀以上先にこの世を去ったモンローの方は、いまだにイコン化されているというのに。

 しかし、彼女は彼女は(ママ)世界大戦前と後という、世界の価値観の変貌の中で、見事に輝きを発し、その変化の象徴となった。『ならず者』のトラブルも、今思えば、それはその作品が世界を変貌させるだけのパワーを持った存在だったということだ。そして、そのパワーは、他の誰でもない、ジェーン・ラッセルというオンリー・ワンの存在だった女性のものだったのである。

 2月28日死去。89歳。

 世界一の大富豪の誘いさえ蹴り飛ばした清廉さを持った女性だ。絶対天国へ行けるだろうから、心配はない。

 R・I・P

 はいはい。

 ジェーン・ラッセルは巨乳だった。本人の想いとは別に、その巨乳を売り物にする映画ばかりに出演させられ不幸だった。それだけのことを、延々と書いているのですね。

「ご紹介します。二つの、そしてオンリー・ワンの存在、ジェーン・ラッセルです」

 ……もちろん、“二つ”とは彼女の胸(おっぱい)を指して言っている。

 ボブ・ホープの言葉を、自動翻訳したのかしら。原文は"the two and only Jane Russell"で、これは当然"one and only(唯一無二)"のもじりですね。二つの、そしてオンリー・ワンの存在、ジェーン・ラッセルって意味分かります?

 さて、この後に続く映画の解説は、あらかたAudio-Visual Triviaというblogからのイタダキです。ずっと劣化しているのはいつものこと。

 ホモ疑惑(そういや最後に共演していた女優も「少年探偵」だったね)と並んで、しばしば話題になる童貞疑惑の面目躍如というのが、次の一節だ。

 戦場に狩り立てられ、死線をさまよわされるのは、まだ女性を知らない年頃の若者がほとんどだ。彼らが塹壕の中で妄想をたくましうして想像するのは、視覚的に最も強烈な巨大なおっぱい、幼いころお母さんのそれを間近で見て、他の女もそうなんだろうと想像のつく中で最大級のものである。現に、映画がまだ公開するさせないで揉めている最中に彼女のピンナップは『ライフ』誌の表紙になり、戦場の兵士たちの間でひったくりあいになった。 

 つまり、戦場でジェーン・ラッセルのピンナップに夢中になっていた(童貞の)若い兵士が追い求めていたのは、母親の乳房だったというのですね。いやはや。まあ、オッパイ星人にはマザコンが多いとも聞きますが、明日をも知れぬ戦場で、必死にマスターベーションに打ち込む青少年のオカズだなんて、「まんが極道」の嫌なエピソードを思い出してしまいます。まさか、巨乳好きのハワード・ヒューズも母親の乳房に憧れる童貞だったなんて言い出さないよね。

黒澤の『羅生門』(1950)がアメリカで評価されたのも、京マチ子のおっぱいが大きかったことが要因のひとつなんじゃないか。

 つまらないジョークだが、ひょっとして、本人は気の利いたことを言ってるつもりなのかな。

 やっと彼女が胸の谷間をたっぷり見せてくれたのは1953年のミュージカル『紳士は金髪がお好き』で、ここでラッセルはかつてヒューズに監督を降ろされたハワード・ホークスにやっと最初から最後まで演出をつけてもらえる。だがしかし、この映画で大ブレイクしたのは、ラッセルではなく、共演のマリリン・モンローの方であった。ラッセルはこのとき、後輩のモンローの引き立て役を自ら引き受けたとも、怒り狂って制作者に抗議したとも言われている。どちらもゴシップとしては面白い。

 後輩のモンローの引き立て役を自ら引き受けたってのが、ゴシップなのかね。だいたい、怒り狂って制作者に抗議するなら、最初から『紳士は金髪がお好き(Gentlemen Prefer Blondes)』なんてタイトルの映画に出演しなければよろしいのでは。二人の演技を比べてみれば貫禄の違いが分かるはず。

 マリリン・モンロー演じるローレライが唄う"Diamonds Are A Girl's Best Friend"

D

 法廷でローレライの替え玉を演じる、ドロシー(ジェーン・ラッセル)。

D

『海底の黄金』(1955)と題せられたその作品は、とにかくラッセルの水着姿、ということは必然的に露出されるそのおっぱいをたっぷりと観客に(そしてヒューズに)観賞させることが目的の映画であった。

 水着姿が必然的におっぱいの露出になるわけではない。芸能人水泳大会 おっぱいポロリじゃないんだから。

 絶対天国へ行けるだろうから、心配はない。

 心配はないって、アンタ何者なの? ガセ(詐欺)とパクリ(窃盗)の常習犯で、絶対地獄にいけるお方が。

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トンデモブラウトンデモブラウ 2011/03/10 11:42 >しかし、彼女は彼女は世界大戦前…見事に輝きを発し

大事なことなので二回言いました、というやつかな。

>R・I・P

は気になりますね。
元のラテン語はとっくに忘れてしまったけど、英語では『Rest in peace』ですよね。
中黒で省略するのは、ミドルネームでしかみとことないけど。

藤岡真藤岡真 2011/03/10 12:51 >トンデモブラウさん

>ラッセルの存在は、その偉大なる胸がスクリーンへの露出をやめると同時に、急速に忘れ去られていった。

 と書いた数行後に
>世界大戦前と後という、世界の価値観の変貌の中で、見事に輝きを発し、その変化の象徴となった。

 というのもわけが分かりません。戦後の輝きなんなんだろう。

粗忽亭主人粗忽亭主人 2011/03/10 14:41 そもそも

> そして、映画プロデューサーとして、これからは演技力や美貌よりも、とにかく肉体美、それも脚とかではなく胸が最大のポイントとなる、と見抜いていたのだ。戦場に狩り立てられ、死線をさまよわされるのは、まだ女性を知らない年頃の若者がほとんどだ。彼らが塹壕の中で妄想をたくましうして想像するのは、視覚的に最も強烈な巨大なおっぱい、幼いころお母さんのそれを間近で見て、他の女もそうなんだろうと想像のつく中で最大級のものである。



> 映画はコケたが、それは(中略)本来の観客である、おっぱい好きな若い男性たちのほとんどが、海の向こうに戦争に出てしまっていたことにあった。

って、えらく矛盾するように思うのですが。假に唐沢氏の言うとおり、若者が塹壕の中で巨大なおっぱいを妄想していたとしても、「本来の観客である、おっぱい好きな若い男性たちのほとんどが、海の向こうに戦争に出てしまう」のでは映画を観に来られないのは当然のこと。そんなことも想像できない(=需要予測ができない)ようじゃ、映画プロデューサーとして失格ですよね。ヒューズの先見性を賞揚するのは理屈に合わないと思います。
あいかわらず思いつきだけで書いているということでしょうね。

藤岡真藤岡真 2011/03/10 15:23 >粗忽亭主人さん
>えらく矛盾するように思うのですが
 あ、突っ込み忘れましたが、わたしもそれは感じました。おっしゃる通り「そこはハワード・ヒューズ。そこらのオタクとは先見性が違う」って全然先見の明がなかったわけですからねえ。ジェーン・ラッセル以前から、ピンナップガールはグラマーってのも相場が決まってましたし。

桃李庵主人桃李庵主人 2011/03/10 16:03 アレコレ言う前に、ジェーン・ラッセルが「今まで生きてた」という事実にまず率直に驚きたい。
本当に「有名人は二度死ぬ」んですね。唐沢先生そのへん淡々と書きすぎではw

2011-03-06

唐沢俊一追討日記 ケネス・マース

10:28

 見いだされた男 【訃報 ケネス・マース】

2月12日に亡くなった男優、ケネス・マースについて

 ボリス・カーロフが最後にフランケンシュタインの怪物を演じた『フランケンシュタイン復活』(1939)で、怪優ライオネル・アトウィルが扮したのが片腕のクローヴ警部。“先代の”モンスターに片腕をもぎ取られた体験を持つ、屈折したキャラクターだ。それをモデルにしたケンプ警部を演じたのがケネス・マース。

 上記『フランケンシュタイン復活』のパロディ映画である、メル・ブルックスの『ヤング・フランケンシュタイン』(1974)においてだった。義手をギリッ、ギリッと音を立てて巧みに動かすギャグが傑作で、

「達者なコメディアンを探してきたものだな」

 と思っていたのだが、実はメル・ブルックス作品ではすでに、ブルックスの出世作『プロデューサーズ』(1968)で出演済みであり、ナチスマニアの脚本家、リープキンをナンセンスに演じていた。DVDの特典に入っているインタビューによると、彼は役作りのため数日間風呂に入らず、そのため、彼に抱きつかれたゼロ・モステルとジーン・ワイルダーが露骨にイヤな表情をしていたのが、自然な演技となって名シーンになった……のだとか。

 他にも、モンティ・パイソン・グループのグレアム・チャップマンが脚本・主演の『チーチ&チョン イエロー・パイレーツ』(1983)では荒くれ船員と海賊島の拷問係の二役。拷問係の演技が最高だったが、この映画では『ヤング・フランケンシュタイン』のマーティ・フェルドマン、マドライン・カーン、ピーター・ボイルと共演している。一方で、1968年の『明日に向って撃て!』では、後にヤンフラで共演することになるクロリス・リーチマンと共演。どちらも小さい役だったけれど。

 晩年はディズニー・アニメなどの声優で活躍していたが、そもそもが声優出身で、1962年の『宇宙家族ジェットソン』がデビュー作であったという。そのうちテレビドラマの脇役で顔出しの仕事であちこちからお呼びが掛かるようになり、1967年に『それゆけ!スマート』にゲスト出演。そこで原作・制作をやっていたメル・ブルックスに見いだされたのであろう、翌年の『プロデューサーズ』での抜擢になる。

 いかつい顔に、声優経験を生かしての素晴らしいセリフ演技、そして声優あがりとは思えないパントマイム的な動きのギャグ、コメディアンとしては完璧な俳優だった。もちろん、コメディばかりではなく、アイドル・スターだったモリー・リングウォルドが、十代の母親を演じた『この愛に生きて』(1988)では、彼女を妊娠させてしまった男子の父親の役などをやっていたが、どこかにコメディっぽさが漂う。それは『刑事コロンボ』の中の『殺しの序曲』(1977)でもそうで、マースは高い知能指数の人間しか入会できない天才クラブ『シグマ協会』の役員役。ほんの数シーンの出演だったが、出てくるたびにパイプが違っていたり、紙巻きタバコを吸っていたりテンデンバラバラだった。あれはギャグのつもりだったのか? そう言えばケンプ警部も、ときどき義手の腕が左右違っていたりしたっけ。

 全身を癌に冒され、2月12日死去。

 目を閉じると高校生のころ、映画館の暗がりで、秘かな悪事(別に禁止されているわけではなかったが、当時の高校では、映画を見ることは決して推賞されていなかった)の快感にワクワクしながら観ていた、『ヤング・フランケンシュタイン』を思い出す。

 R.I.P。

 唐沢は『ヤング・フランケンシュタイン』をリアルタイムで見ていたようだ。そして、そのとき、ケネス・マースを見て、「達者なコメディアンを探してきたものだな」と思ったと言う。高校生時代からこんな上から目線で映画を見ていたのかと思うと、田舎のコンプレックスの固まりのような少年が、映画館の暗闇の中では、いっぱしの評論家面していたのだなあなんて考えてしまい、一抹の憐憫すら感じてしまう。そして、それを言うなら、マーティ・フェルドマンに関しては、「達者なコメディアンを探してきたものだな」とは思わなかったのかしら。以前から、マーティ・フェルドマンを知っていたとは到底思えない。

 で、唐沢は、ケネス・マースを「いかつい顔に、声優経験を生かしての素晴らしいセリフ演技、そして声優あがりとは思えないパントマイム的な動きのギャグ、コメディアンとしては完璧な俳優だった」と持ち上げるのだが、ということは今回の「見出された男」というタイトルは、ひょっとして唐沢俊一に見出された男って意味なのか。

 ――と書いてきたが、まあ、これはどうでもいいようなことだ。今回の白眉は、以下の文章。

目を閉じると高校生のころ、映画館の暗がりで、秘かな悪事(別に禁止されているわけではなかったが、当時の高校では、映画を見ることは決して推賞されていなかった)の快感にワクワクしながら観ていた、『ヤング・フランケンシュタイン』を思い出す。

 いかな1974年とは言え、16歳の高校生が、たかが映画館に入っただけで(しかも、成人映画でもエロ映画でもない)、秘かな悪事の快感にワクワクしたのか。もはや、これに対しては、お子ちゃまという言葉を進呈する以外にはない。 

 今回もまたなにも書くことがなかったのね。

蘭月新十郎蘭月新十郎 2011/03/06 13:33 正直申しまして、ケネス・マースという人はよく知らないのですが、知らないなりに気なることを。
知らない人にはなにが言いたいかわからない、知っている人には物足りない。帯に短し襷に長しの文章を書いたら今の唐沢さんに勝てる人はいないでしょう。
あ、ちなみに私「古い映画をみませんか」の新作だと思って読んでました。追討でもやることが同じならいちいち分けることないのに。

>メル・ブルックスの
>メル・ブルックス作品
こういう文中の不統一がなにを説明したいのか一層不明確にしてます。こだわりのないおたくモドキ1号の印象を植え付けてますね。

藤岡真藤岡真 2011/03/06 20:17 >蘭月新十郎さん
 文章全体のテンションの低さから、ああ、知りもしない(思い入れもない)人のことを書いているのは分かります。だからといって、「秘かな悪事の快感にワクワクした」では、果たして映画を語る資格があるのかって問題ですよね。

成吉斯汗の画面成吉斯汗の画面 2011/03/07 03:11 >ボリス・カーロフが最後にフランケンシュタインの怪物を演じた『フランケンシュタイン復活』

ブー。正解は1962年10月24日放送の「ルート66」第68話。下記リンクの2分30秒あたりに出てきます。
http://www.youtube.com/watch?v=IKgCp03riSQ&feature=related


>怪優ライオネル・アトウィルが扮したのが片腕のクローヴ警部
正しくはクローグ警部。普通まちがえますかね、グとヴ。

藤岡真藤岡真 2011/03/07 07:56 >成吉斯汗の画面さん
 ルート66か。ちょっと気が付きませんねえ。以前、ロスからオクラホマシティまで車でいったことがあります。ルート66はルート44の支線みたいになってました。

>普通まちがえますかね、グとヴ。
 ローマ字入力だと、GとVは斜めに並んでいるのでミスタッチでしょうね。当然見直しなんかしない。

ましゅましゅ 2011/03/07 10:15 自分は中学生の時に「ぴあ」を新宿の紀伊国屋で買って(そこでしか買えなかったので)、
2番館で映画を見ていたのですが(ぴあで料金割引があった)、
特に珍しいことではなく、ぴあのことなどは僕自身クラスの友人から教えてもらったくらいで、
ちょっと映画が好きなら普通だったんですけどね。
高校生の時に映画館に行くことを「密かな悪事」と書く唐沢氏は、
当時の自身の純朴さを訴えたかったのかな?
地方の道徳概念はそんなものだったのかもしれませんしね。
映画館でワクワクしていた、高校時代のほほえましいエピソードとして
受容してもいいのではないでしょうか(笑)。
映画に関する悪事というと、高校生の頃、池袋文芸座そばのピンク映画館に学校をサボって行って
制服(普通のYシャツとスラックスでしたが)で学割のチケットを買おうとして、
窓口のおばちゃんに「高校生はダメだよ」と追い返された事を思い出します。
新宿の三越裏のピンク映画館は問題なく入れてワクワクしながら見ていました。

藤岡真藤岡真 2011/03/07 10:38 >ましゅさん
 中学生時代、入場料金50円の洋画三本立ての映画館に通っていたことがあります。古い映画は大体ここで見ました。『女狐』『幸福』とか、一連のミレーユ・ダルクの映画で、外人女優のヌードも堪能しました。高校生になってから、映画館で罪悪感を感じたことはありません。制服を着替えて『女体の神秘』とかラス・メイヤーの映画なんか見てましたけど。

トンデモブラウトンデモブラウ 2011/03/07 11:02 高校時代にはまだ名画座とかあったので、映画マニアの友人に付き合って50本/月とか観た時もありました。
当然学校の帰りなので制服(学ラン)でしたけど、映画館では特にドキドキ・ワクワクはしなかったなぁ。
まぁ人それぞれなので…
それより、試験の最終日終了後に雀荘に行ったとき、レッドキングというあだ名の体育教師が見廻りに来た時には、ドキがむねむねしました。
壁には学ランが掛けてあったし。(そのせいで私服に見えたのかな。)
柔道を選択していた奴が入り口から背中向きだったので、難(?)を免れましたが。(後半は無関係な自分語りでした。)

でも『ヤング・フランケンシュタイン』は大好きな映画の一つなので、唐沢に語られるとなんだか穢れたみたいでヤだよぉ。

藤岡真藤岡真 2011/03/07 11:38 >トンデモブラウさん
 わたしは高校時代は体育会なんで、成人映画をかためて観たのは秋以降なんですね。50本/月なんて夢のまた夢です。

>『ヤング・フランケンシュタイン』は大好きな映画の一つなので、唐沢に語られるとなんだか穢れたみたいでヤだよぉ。

 本当にそう思います。つか、金輪際映画に関しては語って欲しくない(あとプロレスも)。なんでご専門の「少年愛」を語らないのかしら。家庭が崩壊しようとも、わたしは少年愛に殉じたのである、とか。

ラーオラーオ 2011/03/09 02:11 >もはや、これに対しては、お子ちゃまという言葉を進呈する以外にはない。

1974年、小学6年生の正真正銘のお子ちゃまだったわたしは、女の子数人と連れ立って「ノストラダムスの大予言」を見に行きましたけれど…。
うーん。べつにそんな取り立てて…。

藤岡真藤岡真 2011/03/09 07:48 >ラーオさん
 高校生のくせに『ヤング・フランケンシュタイン』を観にいって、「秘かな悪事の快感にワクワク」するのは、お子ちゃまではないのかと。

ラーオラーオ 2011/03/09 09:29 あまりに呆然として言葉足らずになってしまいました。
当の小学生ですら「秘かな悪事の快感にワクワク」なんて思わなかったのに、方や高校生でそんなこと感じるなんてどんだけお子ちゃまだ??!といいたかったのでした。
同じ時空間を生きていたとは思えない…

「別に禁止されているわけではなかったが、当時の高校では、映画を見ることは決して推賞されていなかった」って、光星高校生ってそんなウブだったのかしら?

唐沢って、自分周辺のローカルな感覚を全日本人の感覚として拡大解釈するところがありますね。同じ札幌に住んでいても、唐沢の言っていることはピンとこないことが多くて困ります。

藤岡真藤岡真 2011/03/09 10:08 >ラーオさん
 唐沢が奥手でも光星高校がウブでも、呆れこそすれ非難すべきことではないんでしょうが、それがケネス・マースの追討を締めくくる言葉となると、本当にケネス・マースに思い入れがなかったことが分かります。

2011-03-02

唐沢俊一追討日記 和田寿郎

10:28

 背中を押された男 【訃報 和田寿郎】

 医博・和田寿郎氏死去。88歳。

 http://www.asahi.com/obituaries/update/0215/TKY201102150243.html

 1968年、札幌医大で宮崎信夫くんに日本初の心臓移植手術を行った。宮崎くんは経過は良好とされてマスコミは車椅子の彼の姿をこぞって紹介し、同時に和田教授の満面の笑顔もテレビ・新聞等に映ったが、術後83日目に気管にタンがつまったことが原因で死亡。その後、この移植手術に関してさまざまな疑問が噴出し、殺人容疑で告発されたりもしたが証拠不十分で不起訴。

 その後、東京女子医大教授になり、自分の名を冠した和田寿郎記念心臓肺研究所の所長となって“それなりに”栄誉に包まれた晩年を送った。裁判では証人として呼ばれた医学関係者がいずれもあいまいな証言に終始して、被告を有罪に持ち込めなかった。リアル『白い巨塔』などと言われたりもした。

 当時、私は中学生。自分の住んでいる札幌で日本中の注目の的となる心臓移植手術が行われたことに、かなりワクワクしたことを記憶している。そして、宮崎くんの死を告げたときの和田教授の泣き腫した目と、

「宮崎信夫くんは、呼吸不全により本日×時×分……死亡いたしました」

 という言葉が発せられた瞬間の、報道陣のどよめきも、昨日のことのように思い出す。日本初の心臓移植は、日本初のテレビによる医学ショー、でもあった。

 和田教授の手術がいかに問題のあったものか、についてはここではを費やさない。ただ、1968年という時代の雰囲気と、この手術の関係を個人的感想から述べておきたい。心臓移植の患者が、アイドルのように新聞や雑誌の誌面を飾る(亡くなった後、芸能雑誌である『週刊平凡』に“宮崎君83日の記録”という記事が載った)ほど話題を集めた時代だった。この年の紅白歌合戦の審査員には、和田氏でこそないが、心臓外科医の榊原仟氏が選ばれている。いかに心臓移植というトピックが日本人を興奮させたかという証左だろう。

 宮崎くんは、自分の手術後の推移を見守っている全国の人々に、

「信夫はこれからもがんばります」

 というメッセージを送った。何か、この“信夫”はという言い方はその年の1月に自殺したマラソン選手、円谷幸吉

「幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」

 という遺書とダブって見えた。男子が“僕”や“私”でなく自分のことを名前で呼ぶのには、妙に自分の体が自分のものでなくなっている感覚が漂う。テレビで見る宮崎くんには、生きているのではなく“生かされている”感が紛々と漂っていた。

 その年、日本は“いざなぎ景気”と呼ばれる長期好景気に沸いていた。GNPがアメリカに次いで2位になった。日本初の超高層ビル、霞が関ビルディングがオープンした。一方で70年安保騒動で、安田講堂が占拠され、デモが荒れ狂った。性開放(ママ)も加速され、永井豪ハレンチ学園』が話題になった。好況と政治的混乱が一挙に襲い、国民はどこか狂躁的な感覚に陥っていた。要は“何でもアリ”。この感覚が日本中を覆っていたと言っていい。その象徴だったのが、この年の末に起った三億円事件だった。ともかくも、やってしまった者が勝ち、の時代だった。“心臓移植”というインパクトに富んだ語感は、この時代の日本を覆っていた万能感に、見事にマッチした。

 和田教授の、医師としてのモラルに問題があったことは確かだろう。だが、彼の背中を強く押したのは、明らかに”時代“の勢いだったと思う。あと5年早くても、5年遅くても、この事件は起こらなかったのではないか。少なくともメスを握る手に、躊躇が生れていたはずだ。1968年という年は、日本中が、興奮状態にあった年なのである。

 心臓移植手術報道騒動は、そのシンボルであった。

 そして、その後の和田教授追求は、興奮状態から覚めた日本人の、

「あの時自分は何をやっていたのか?」

 という、泥酔の翌朝の感覚に似た自己嫌悪の発露だったように思えるのだ。

 己の実体験を書くのになんでわざわざ間違えるのだろうか。

 1968年、唐沢は十歳の小学生だ。

 ぐちゃぐちゃと書き殴っているが、要は1968年が特別な年(“いざなぎ景気”と呼ばれる長期好景気に沸き、GNPがアメリカに次いで2位になり、日本初の超高層ビル、霞が関ビルディングがオープンした。70年安保騒動で、安田講堂が占拠され、永井豪ハレンチ学園』が話題になり、三億円事件が発生した)で、和田教授はその狂騒的な勢いに背中を押されて、心臓移植手術に踏み切ったのだと言いたいようだ。

あと5年早くても、5年遅くても、この事件は起こらなかったのではないか

 過去の検証でkensyouhanさんも何度か指摘しているが、ある年を特別な年のように描くことは意味のないことなのである。たとえば翌1969年だって、

 昭和天皇パチンコ狙撃事件、東大安田講堂攻防戦。東京大学の入学試験中止。永山則夫連続射殺事件犯人逮捕。東名高速道路全線開通。アポロ11号が人類初の月面有人着陸。大菩薩峠赤軍派53人逮捕される。

 象徴的な大事件が発生している。書き様によれば文明の急激な飛躍とそこに生じた歪による凶悪犯罪の年であった、なんて。

 和田寿郎が不正なやり方(ドナー脳死状態でなかったし、移植を受ける方にも必然性はなかった)で心臓移植手術を1968年に強行した理由は、只一つ、1967年12月3日に南アフリカケープタウンクリスチャン・バーナードが「世界初の心臓移植手術」に成功したため、日本初の称号を得んとしたためである。

 そんなことも見抜けず、間抜けな時代論を展開する、自称雑学の神様に、未来はないよなあ。

心臓にいい暮らし方 50のポイント

心臓にいい暮らし方 50のポイント

トンデモブラウトンデモブラウ 2011/03/02 09:59 素で自分の年齢とその時どこの学校に通っていたのか繋がらないのでしょう。
気の毒なことですが。

丁度5年遅い1973年には、エジプトとシリアがイスラエルに侵攻してますけど。(オイルショックを知らないのかな?)
日本がイスラエルで農業共同研究してた場所がえらいことになったのに。
狂騒的な勢いに押されるなら、5年後もかなりそんな雰囲気じゃないかなぁ、とまたしょうもないツッコみを。

藤岡真藤岡真 2011/03/02 10:06 >トンデモブラウさん
 わたしが中学生のときに東京オリンピックが開催されました。小学生時代、高校生時代と間違えようもない。大事件だけ取り上げれば、毎年が「狂騒的」な年になりますしね。

儒学者儒学者 2011/03/02 17:44 藤岡先生

>術後83日目に気管にタンがつまったことが原因で死亡。

と唐沢氏は断定文で書いていますが、これはあくまで和田寿郎が発表した死因であって、病理解剖を行った同じ札幌医大の病理学教室藤本教授の見解では緑膿菌感染による化膿性腹膜炎となっています。
心筋と冠状動脈には拒絶反応の痕跡があることから、「最初は免疫抑制剤を使わず、拒絶反応が起こった後から慌てて使った(しかも使いすぎた)所為で死の原因となった感染症を引き起こした。よって和田寿郎は移植医としての不適格」ということは、和田移植を扱った文献には大概載っているエピソードです。死因を呼吸不全と書いていることで、文献なんて全然読んでないことがバレバレです。
まあ、唐沢氏が書きたかったのは移植の話そのものではなくて、68年の話なのでしょうね。

>あと5年早くても、5年遅くても、この事件は起こらなかったのではないか

5年遅くても、まだ日本で誰も実行していなければ和田はやったでしょう。藤岡先生も書かれておられる通り、日本で最初にやることに意味があったのでしょうから。

藤岡真藤岡真 2011/03/02 18:15 >儒学者さん
 唐沢は「和田教授の手術がいかに問題のあったものか、についてはここではを費やさない」と書きながら、ご指摘のような虚偽をそのまま引いてくるのですから、本当に無知蒙昧です。和田教授が、ろくに準備もせずに手術に踏み切ったのは「一番病」のせいだと、なんで分からないんでしょうかね。

CREWGUYSCREWGUYS 2011/03/02 22:22 >己の実体験を書くのになんでわざわざ間違えるのだろうか。
>1968年、唐沢は十歳の小学生だ。

唐沢が歳をサバよんでるようにも思えてきました。
唐沢商会当時にやたらと「若いのに古いことをよく知っている」と言われると強調していましたが、
同年代から年下に対してハッタリをかますためにキャラを作っていたのではないかと推測。
だから経歴や経験を書くたび不統一で韜晦(?)になっちゃうのでは……

藤岡真藤岡真 2011/03/02 22:53 >CREWGUYSさん
 ひ弱で小心な唐沢坊やは、人生の初期に、いい加減な嘘が通用し良い目を見るという経験をしてしまったのかも知れませんね。見え透いた嘘だってなんとかなるという。だから年齢、学歴、女性体験、ことごとく嘘で通してきた韜晦人生。

蘭月新十郎蘭月新十郎 2011/03/02 23:21 >昨日のことのように思い出す。日本初の心臓移植は、日本初のテレビによる医学ショー、

昨日のことのように思い出すことなのに当時、自分が小学生か中学生かわからない。もう「究極超人あ〜る」の光画部時間なみに前後の幅をもった「唐沢俊一時間」の中で生きているとしか考えられません。

藤岡真藤岡真 2011/03/03 07:47 >蘭月新十郎さん
 せっかく近所で、かつリアルタイムで体験したことなんだから、自分の周囲がどんな反応を示したとか、どんな空気だったとか実体験に基づいて書けばいいのに一般論に持ち込むのは、wikipedia無しではなにもできないことを証明しているようなものです。
>「究極超人あ〜る」
 天本英世が出てましたね。

nisimuranisimura 2011/03/03 20:07 >光画部時間
 おいらの所にも以前はありました(今も?)。
 30分遅れは誤差の内、でも飲み会は指定時間前でも練習と言って飲み始めます。
 時間が遅れるのは結構○○(土佐とか信州とか)時間といって今でもあるかなあ。
 まあ、からさわどんの方は、単に物忘れか良い格好しいかと。
 しかし、素で記憶が混濁していたら・・・

にしむらにしむら 2011/03/03 20:08 と言っておきながら、日本語変換忘れてました・・・にしむらです

藤岡真藤岡真 2011/03/04 07:18 >にしむらさん
 唐沢時間では、十年以内は誤差範囲なんじゃあないかと思います。

2011-03-01

検証 唐沢俊一 わたしはなにをしてきたか

14:38

 事前にお約束したとおり、これまでわたしが起こしてきたアクションを総括することにする。別に内部告発の文章ではないので、あくまでもわたしが責任を取れる範囲での話である。後輩や得意先に迷惑をかけないよう、匿名の部分も多々あることをお断りしておく。また既報と重複するところと新情報を区別するために新情報は青文字にしておくので、留意していただきたい。

 まず、わたしは「知的財産」といった概念を唐沢に理解させようと考えた、コピペで自分の著作を作り、相手が訴えない限り罪には問われない。相手がアマチュアならパクリ放題、といった考えが社会に通用するものでないことを思い知らせようと思ったのだ。すなわち「知的財産権の侵害」は親告罪だということに胡坐をかいている人間に、鉄槌を下すことにした。JASRACに通報するというやり方である。音楽著作権の侵害は親告罪ではない。露見した段階でJASRACは徹底的に取り締まる。通常の文芸作品とは違い、歌詞は引用できないし、歌詞を使用する場合には作曲者の許諾も必要なのだ。CMの場合、作詞、作曲者の許諾を得(有償無償、金額も様々)、なおかつオンエア回数に添った金額をJASRACに支払う。たとえば東京キー局なら一回のオンエア料は数万円である。全国ネットで展開したならどれほどの金額になるか想像できるだろう。ただし、多くのCM楽曲はJASRAC登録前に「タイアップ」扱いとし、この金額を発生させない方式をとっている。それとて、既成楽曲(登録済み)には適用できない。

★裏モノ日記、及び著作に引用されている既成楽曲の歌詞が、JASRACの許諾を得たものか、裏モノ日記をネットで検索できる分総て洗い出し、JASRAC担当者に送った。結果、著作物は出版社が許諾をとっていたが、日記は総て無許可ということだった。営業用のサイトに歌詞を載せる場合は営業行為と看做され、年間で数十万円という金額が請求される(作詞者、作曲者には別途許諾を得た上で)。唐沢は十年以上裏モノ日記を続けていたので、どれほどの金額になったのかは想像していただきたい。

筒井康隆『バブリング創世記』の違法朗読会(著作財産権口述権、著作者人格権の侵害)をホリプロ経由で通報。中止させる(具体的にどういった話し合いが為されたかは不詳)。

司馬遼太郎作品の違法朗読会(著作財産権口述権の侵害)を文藝春秋社担当者に通報。中止させる(具体的にどういった話し合いが為されたかは不詳)。

アインシュタインの「舌出し写真」が「熱写ボーイ」の『世界ヘンタイ人列伝』第16回「世界最高の頭脳の真実」に使用されている件。アインシュタインの肖像は、グリーンライトという会社が管理していて、広告で使用する場合、事前の原稿チェックを受けた上で一千万円以上の使用料を支払っている。しかし、雑誌等の記事の場合は正当な使用と認められた場合は無料で使用できる。「熱写ボーイ」は無断で掲載した上、内容は「アインシュタインは変態だった」。通報したグリーンライトの担当者はかなり怒っていた。その結果か、「熱写ボーイ」は廃刊となった。

★キリスト教系某宗教団体Aを、著作内でカルト系の某教団Bを語る際に、同様のものと記述した件を、教団A広報に通報した。非常に丁寧な返事を戴いたが「日本で布教して何十年にもなるが、こんな誤解をされているのは布教活動に至らぬ点があるのだろう。やり方を見直したい」という感謝の内容だった。朝日新聞書評委員がこうした誤解をしているのがショックとも書かれ、あくまでも「誤解」ととっているようだった。その後のAのアクションは不明。

★某障がい者支援ボランティア団体を揶揄するような記述が、裏モノ日記にあることを、その支援団体に通報した。責任者の方から非常に丁寧な返事を戴いた。この方は唐沢俊一を知っていて「テレビなどで有名な文化人が、こうした文章を書くことが哀しい」とおっしゃっていた。その後のアクションは不明。

★外資系C社のアメリカ本社が制作したCMを無許可でイベントで上映した件をC社日本法人に通報。即日以下のような返事をもらった。

 ご連絡をいただきましてありがとうございます。また、日頃からのご愛顧に心よりお礼申し上げます。○○○(註:商品名)のCMは各国で独自に検討され、放映されております。お知らせいただいたサイト(註:上映した事実を書いた裏モノ日記)を拝見いたしましたが、Cで制作、放映しているCMではないようで私どもとしては関与する立場にはございません。

 貴重な情報をありがとうございました。

 今後とも皆様にお喜びいただけるような製品づくり、企業活動に努めてまいりますので、一層のご支援を賜りますよう、お願い申し上げます。

と学会誌22の表紙にに唐沢のイラストとともに、チタノザウルス、メカゴジラの写真が掲載されている件を東宝に問い合わせた。WEB担当者からは、以下のような返事をもらった。

お問合せをいただきありがとうございました。すべて拝見させていただきますが、回答をいたしかねる場合がございます。また、回答までお時間いただく場合がございます。ご了承ください。【お問合せコード : 18146】

 事後の報告はなかった。

唐沢俊一缶チューハイの雑誌広告に起用された件。

 唐沢は担当代理店「博報堂」の名前を出して、再三「美味しい仕事」を強調していた。博報堂ではCMに出演するタレントは、原則的にミュージック&エンターテインメントという組織を介して契約するので、要注意人物としてリストアップされている唐沢が起用されることはあり得ない。では、あれはなんだったのか。あれは週刊現代編集部による「編集企画」である。雑誌社が企画し原稿制作し誌面を提供、各代理店にスポンサーを募る。代理店は売り違い御免で各社を廻りスポンサーを探す。決定した場合媒体仕入れはその代理店の業務になる。制作費は媒体社が負担。当然、博報堂制作はノータッチのため、唐沢が起用されてしまった。

電通コンプライアンス部門と提携して、要注意人物の情報を交換する。

 リスク情報も競合のエッジとなると判断され実現には至らなかった。

★D社の新製品キャンペーンに於ける唐沢俊一の起用

 競合で獲得した新製品広告キャンペーンのコンプライアンスチェックを行った。企画書内に、メインのマス媒体のキャンペーンとは別に、その商品の豆知識を企業サイトの新たなページに掲載し、その監修者を唐沢俊一にする旨が記載されていた。わたしは営業部長を呼びつけて『社会派くんが行く!』を見せ、唐沢がどんな人物かを説明した。D社には組織横断の厳しい倫理委員会がある。部長はこんな人物は到底起用できないと、人選の見直しをD社に申し出、D社も当然ながら変更を指示した。わたしは知泉さんの名を上げたが(ある理由があって、D社の責任者は知泉さんを知っていた)、結局D社内の開発担当者が起用された。唐沢にとっては缶チューハイよりもっとずっと美味しい仕事が一つなくなったことになる。

 これ以外にも雑誌編集者、出版関係者、TV局関係者と話すときには、唐沢俊一がガセとパクリの常習者であることを説明してきた。どこまでそれが浸透したかは不明だが無駄ではなかったと思う。

 以上。

? 2011/03/01 07:10 実際の行動、ネラーの自分は頭が下がる思いで拝見しました。ご立派です。

猫遊軒猫八猫遊軒猫八 2011/03/01 07:25 おつかれさまでした。
藤岡さんに検証イベントの出演をお願いしたところ、かなり辛辣なお言葉を頂きました。
あのとき頂いたアドバイスでそれなりのものになりました。
回を重ねることは出来ませんでしたが、ありがとうございました。

藤岡真藤岡真 2011/03/01 08:19 >?さん
 一読お分かり戴けたと思いますが、わたしの行動の大半は、属性とは関係ありません。広告屋として動いたのは、アインシュタインの件と最後の例だけです。

>猫遊軒猫八さん
 イベントには苦労してきましたので、ついリスクを考えて厳しいことを言ってしまいました。面白半分でも良かったのかなとも思います。

トンデモブラウトンデモブラウ 2011/03/01 08:31 個人的にはJASRACのあり方や知的財産に関する現行の状況には問題あると思っていますが、こういった「利用法」はアリですね。
というか、これが正しい利用法なんでしょう。

藤岡真藤岡真 2011/03/01 08:38 >トンデモブラウさん
JASRACが文芸の著作権も管理すると言い始めたときは、わたしも反対しました。引用が出来なくなり書評も出来なくなります。自分が作詞作曲した歌を歌っていたスナックの経営者(歌手)が、JASRACから十何年分の著作権料を請求され、支払えずに店を閉めたという事件がありましたが、唐沢もこの程度の請求をされたようです。

ラーオラーオ 2011/03/01 12:05 ご説明ありがとうございました。
約束の実行の早さにびっくりしましたが(内容にも)、と学会会長も藤岡さんを見習って早く「長文」をアップしてもらいたいとも思います。

JASRACにも困ったことだなぁと思います。
なぜ自分の曲で著作権料を請求されるんだか、訳が分からない。
札幌でも小さなライブハウスでアマチュアバンドが既成曲を使用した際の著作権料を何年分も請求されたことがありました。
文芸作品まで管理しようなんて、驕ったことです。

でもこのエントリー、もし唐沢が読んでいるとしたら逆恨みされそうですね。身から出た錆ですが。

藤岡真藤岡真 2011/03/01 13:30 >ラーオさん
>唐沢が読んでいるとしたら逆恨みされそう
 JASRACの話はリアルタイムで日記にアップしましたし、当時の裏モノ日記では唐沢が愚痴を書き捲くっていましたから、今更でしょうね。

おおくぼおおくぼ 2011/03/01 14:35 八百長を地道に告発してきたのに無視されつづけてた人達が、やっと陽の目を見た「大相撲騒動」を連想しました。

藤岡真藤岡真 2011/03/01 14:43 >おおくぼさん
 わたしは、個人的な八百長は、大相撲の伝統だと思っています。貴乃花が若乃花に負けたような。近代スポーツではありませんから。しかし、組織ぐるみの集団八百長、しかも大金が右から左に動く状況は、腐りきっていると思います。

おおくぼおおくぼ 2011/03/01 17:31 唐沢俊一検証から外れてすいませんが、貴乃花と若乃花の優勝決定戦は八百長だったと思うのですが、若乃花は八百長をするつもりではなかったと思います(推測)。
貴乃花一門は八百長厳禁で有名ですが、あの一番が八百長になった理由は、父親が息子に優勝をさせてあげたいという願望を二代目貴乃花につぶやいてしまったのが原因だと言われています。

NNTNNT 2011/03/01 22:32 エントリと関係なくてすみません。
>おおくぼさん
あの優勝決定戦は八百長ではなく、弟が兄を見くびった取組だったと思います。
本人の無意識が取らせたというか。
兄弟の確執って色々ありますからね、唐沢兄弟も…。

藤岡真藤岡真 2011/03/02 08:45 >おおくぼさん
>NTTさん
 安易に八百長と書いてしまいましたが、真相は当人しか分からないことですね。繰り返しになりますが、陥落の危機にある同輩に片八百長で星を進呈することを八百長と糾弾したくはありません。誤解を覚悟でいうなら、それはある種の「美徳」とも思います。ロサンゼルスオリンピックの柔道決勝の、ムハマンド・ラシュワンみたいに。

萩 2011/03/02 09:00 >歌詞は引用できないし、歌詞を使用する場合には作曲者の許諾も必要

これはJASRACが法的根拠もなく勝手にやっているだけではないでしょうか?

著作権法には引用であれば認められるという記載があるのみで、具体的にどこまでが転載でどこからが引用になるのかについては、裁判の判例で判断するしかないですが、歌詞については判例がなく具体的な基準がまだありません。

ですが、引用自体が認められることは(特に歌詞について除外の規定が法令化されているわけではないので)明らかですので、「歌詞の引用は許可が必要」というのは誤りです。

JASRACが請求するのは勝手ですが(引用の範囲であれば)払う義務はないはず。

>作詞作曲した歌を歌っていたスナックの経営者(歌手)が、JASRACから十何年分の著作権料を請求され

楽曲の演奏については引用ではないので唐沢の件とは関係がないかと。

藤岡真藤岡真 2011/03/02 10:19 >萩さん
 ご指摘ありがとう御座います。今回の記事は(良し悪し別にして)JASRACの基準に即して書いております。JASRAC側は上記した方針で請求すると告げてきましたので、それを記述しました。法的根拠、唐沢がどう応対したかは不明です。

>「歌詞の引用は許可が必要」というのは誤りです。
 唐沢の著作では出版社が許諾を得て掲載しています。出版社の方針というだけかも知れませんが。

>楽曲の演奏については引用ではない
 唐沢のような文筆家の公式サイトは、営業用ツールと看做すので、そこにおける詞の使用は単なる引用ではないと判断する、といったようなJASRACの見解を聞いたように覚えています。
 また、文芸であっても、CMでの使用は「引用」とは看做されません。裁判になった場合、短いフレーズが「著作物」と看做されるかは疑問ですが。
 JASRACへの通報は「強硬手段」を期待してのことだったので、あるいは過剰な希望的意見を書いてしまったかも知れません。その点はお詫びします。

萩 2011/03/04 16:13 お忙しい中ご回答いただき、ありがとうございます。唐沢がどのような「引用」をしていたかは知らないのですが、JASRACは歌詞の批評サイトにも「引用にあたらない」とクレームをつけていたので、「報道・批評・研究」にあたらないような使われ方なら、抗議されるのは当然でしょうね。

藤岡真藤岡真 2011/03/04 21:21 >萩さん
 モチーフが似ていても問題ないというのが慣例だったのに、JASRACはワンフレーズも許さないという方針を押し付けてきます。唐沢は、歌詞を駄洒落で改竄したものを載せていたので、当然「報道・批評・研究」には当たらないと思います。

2011-02-28

検証 唐沢俊一紙芝居 限りなく時空は歪む

14:38

 以前、検証のペースは落ちるけど、やめるわけではないと書いたのに、日本語に不自由な方が数名いらっしゃるようで、やめると言っておきながらネチネチと続けている、なんて非難していやがる。あのねえ、唐沢の過去の著作をひっくり返す作業はやめると言ったんだよ。こっちが忙しくなってきたのと、唐沢の著作は全部捨てたんで、ひっくり返すこと自体できないからね。

 さて、本日は、おかしなサイトを見つけたんで、そこに書かれている、唐沢の幼少時代について検証する。

 そのサイトは「唐沢紙芝居」というものだ。唐沢はここで斉藤友里子という人からインタビューを受けている。全文は長くなるのでリンク先を参照して下さい。

一一そんなに紙芝居ってナンデモありなんですか?

●斉藤さんなんかもそうだと思いますが、紙芝居は幼稚園や小学校の課外授業なんかで体験してるでしょう? 教育紙芝居ってやつ。でも紙芝居はカタイだけじゃない。昔はエロもあったと梅田先生が教えてくれたのですが。「お座敷紙芝居」。芸者さんと遊んでいたりするでしょう。そこへ紙芝居屋さんを呼んでダンナと芸者さんがエロ紙芝居を鑑賞するというやつなんですが。今で言えばラブホテルでエロビデオを観たりっていうのに近い行為なのかもしれない。紙芝居がテレビ代わりだったのだから、御客の要求に応えていけば、エロもグロもあっておかしくないってことですよね。

一一だからナンデモありだと。

●そうですね。僕の紙芝居の原体験はやはり幼い頃になるのですが。足が悪かったんでリハビリに通 ってましてね。少し離れた町に出かけていっていたんです。治療が終わったら迎えに来てくれていたんですが、それまでに時間があることが多くて、近くの公園で紙芝居を観て時間を過ごしたりね。紙芝居って結構エグいセリフ言うんですよね。「妾の子が!」とか。後で知ったのですが、その町って事情があって、実はつまり二号さんの子供が多く住んでいたらしい。ナンデモありというか、シュールというか、ナンセンスといいますか。

青文字が唐沢)

 うーむ

 唐沢はかつて、自分のリハビリについて、こんなことを書いていた。裏モノ日記2008年8月2日

 あれは小児麻痺のリハビリのマッサージを受けていたころだから4歳か5歳の頃か。まだ昭和30年代である。札幌・中の島のマッサージ医院(東京から飛行機で通っている患者もいたそうだからかなり高名なところだったのだろう)、医院と言っても普通のしもた屋みたいなところだったが、そこの縁側に、少年サンデー』が積んであった。待ち合わせの間に読んで、“世の中にこんなに面白いものがあったのか!”と、文字通り心ふるえたのが『おそ松くん』の、忘れもしない『チビ太の移動歯医者』の巻であった。わがままを言って持ち帰らせてもらい(たぶん泣いたりわめいたりしたんだと思う)、家で繰り返し読んだ。何十回も読んだ。読むたびに快感があった。それほど面白いものに出会ったのは生れて初めてだった、と、少なくともそのときはそう思った。

 ええと。その町って事情があって、実はつまり二号さんの子供が多く住んでいたらしい。って、中の島のことなの? 中の島にどんな事情があって二号さんの子供(二号さんは?)が多く住んでいたんだろう。そして、そんなところで、「妾の子が!」なんて言葉をわざと使うなんて、客に喧嘩を売っているだけじゃないか。そんなことして紙芝居屋になんかいいことあるの?

 それに、唐沢は『おそ松くん』に夢中になっていたはず。家族が迎えに来るまで、4、5歳の子どもが、一人で紙芝居見ていたなんてねえ。紙芝居が話題なんで、例によって「昔から紙芝居のファンだった」という嘘をでっちあげたんだろう。まあ、やること為すこと。

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トンデモブラウトンデモブラウ 2011/02/28 15:11 落語は一発で覚えて再現できた、という武勇伝に倣って、漫画も紙芝居も本職顔負けの画力でそっくり再現とするには画力が足りないか…
韜晦趣味(?)で語る経歴が全て嘘臭いというのは笑えるけど。

藤岡真藤岡真 2011/02/28 16:27 >トンデモブラウさん
 弟に絵を描かせて紙芝居をやり、好評を博したなんて話になりそうなもんなんですが。