▲竹島でのアシカ猟(写真提供:山陰中央新報社)
竹島が発見された正確な年月は不明ですが、遅くとも江戸時代初期には日本人に知られていました。
元和4年(1618年)ごろから米子の大谷甚吉、村川市兵衛という人たちが幕府から許可を得て鬱陵島(当時「竹島」と呼ばれていた)へ渡り、アワビ、アシカ等の漁猟、木竹の伐採などを行っていました。この鬱陵島へ行く途中の寄港地として、また漁猟地として竹島(当時「松島」と呼ばれていた)を利用していました。寛文元年(1661年)ごろからは、「松島」(こんにちの竹島)へも正式に幕府の許可を得て渡航するようになりました。
その後、江戸幕府は朝鮮との争いのため、元禄9年(1696年)に鬱陵島への渡航を禁じましたが、松島(こんにちの竹島)については渡航を禁じませんでした。天保年間(1836年)に浜田の今津屋八右衛門という人が禁令を破って鬱陵島へ行った廉で処罰されましたが、その裁判記録中には、松島へ行く名目で渡海したとあります。松島の知見は、書物や地図に記録され江戸時代を通じて維持されました。
明治時代に入り、日本人による鬱陵島への渡航が再び始まりました。多くの漁民が鬱陵島に行くようになり、その途中竹島に寄港していました。明治20年代の終わりごろからは隠岐の島民たちが竹島でアワビ、アシカ等の漁猟に従事していました。
このように竹島は歴史的にみて日本の領土であることは疑いありません。
元和4年(1618年)ごろから米子の大谷甚吉、村川市兵衛という人たちが幕府から許可を得て鬱陵島(当時「竹島」と呼ばれていた)へ渡り、アワビ、アシカ等の漁猟、木竹の伐採などを行っていました。この鬱陵島へ行く途中の寄港地として、また漁猟地として竹島(当時「松島」と呼ばれていた)を利用していました。寛文元年(1661年)ごろからは、「松島」(こんにちの竹島)へも正式に幕府の許可を得て渡航するようになりました。
その後、江戸幕府は朝鮮との争いのため、元禄9年(1696年)に鬱陵島への渡航を禁じましたが、松島(こんにちの竹島)については渡航を禁じませんでした。天保年間(1836年)に浜田の今津屋八右衛門という人が禁令を破って鬱陵島へ行った廉で処罰されましたが、その裁判記録中には、松島へ行く名目で渡海したとあります。松島の知見は、書物や地図に記録され江戸時代を通じて維持されました。
明治時代に入り、日本人による鬱陵島への渡航が再び始まりました。多くの漁民が鬱陵島に行くようになり、その途中竹島に寄港していました。明治20年代の終わりごろからは隠岐の島民たちが竹島でアワビ、アシカ等の漁猟に従事していました。
このように竹島は歴史的にみて日本の領土であることは疑いありません。