高校野球の箕島高(和歌山)監督として1979年の春夏連覇を含む4度の甲子園大会制覇を果たし、6日にぼうこう移行上皮がんのため68歳で死去した尾藤公氏の告別式が9日、和歌山県有田市内の斎場「フューネラル有浄会館」で営まれた。尾藤家と箕島高硬式野球部OB会の合同葬の形で行われ、甲子園の土やユニホームなどが納められたひつぎは、星稜の山下智茂総監督(66)らに担がれ約600人の参列者と箕島高校の校歌に送られ旅立った。
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箕島高の校歌が流れる中、出棺の時を迎えた。尾藤氏のひつぎを乗せた車は、そのまま斎場からほど近い、箕島高校に立ち寄ると、校門前では、ユニホーム姿で整列した同校硬式野球部1、2年生50人に見送られた。
告別式には、約600人が参列。遺体には「MINOSHIMA」の校名が入ったユニホームが掛けられ、高野連関係者から届けられた甲子園の土、OBのサイン入り硬球、好物のせんべい、近所の子供たちからの手紙などがひつぎに納められた。祭壇には「尾藤スマイル」を浮かべた遺影。多くの人が故人をしのび、涙ながらに手を合わせた。
出棺の際には、79年夏の甲子園3回戦で延長18回を戦った星稜高の総監督である山下氏や、同試合の審判4人らがひつぎをかついだ。山下氏は「この2日間、延長18回の試合が夢に出てくる。寂しい。宝物を失ったよう」と声を震わせた。
OB会長の児島昭人氏が「私たちにとって甲子園は尾藤さんそのもの。夢をありがとうございました」と弔辞を読み上げた。参列した春夏連覇当時の主将、上野山善久氏は「これだけ大勢の方に参列いただいたのは尾藤さんの人柄。野球部の活躍を一番願っておられると思う。OBとして支えていきたい」と元監督に語りかけるように話した。
誰からも愛され、尊敬された尾藤氏。喪主で箕島高OBの長男・強さんは「あなたと一緒に野球をできてよかった。あなたの息子で幸せでした」と涙で声を詰まらせながらあいさつすると、別れを惜しむようにすすり泣く声が漏れた。
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