アラブの激変とサウジの危険性(佐々木 良昭 上席研究員)
更新日:2011/03/08
一時期、アラブの衛星テレビに、カダフィ大佐の茫然とした表情が、大写しになっていた。BGMがその彼の狼狽ぶりを、何倍にも膨らまして視聴者に驚愕の印象を与えている。彼ばかりではない、多くのアラブの国家元首たちが、いま彼と同じような心境に置かれているのではないか。
ツイッター革命、あるいはフェイス・ブック革命と呼ばれる、アラブの大衆蜂起をアラブの友人は大津波と表現した。チュニジアからエジプトそしてリビアへとターゲットを移し、次第に津波の大波は本丸に向かって突き進んでいるように、思えてならない。その本丸とは述べるまでも無い、世界の石油庫、エネルギー大国のサウジアラビアだ。
現実はどうなっているのであろうか。何処迄その革命の津波が、サウジアラビア近づいているのであろうか。状況を順を追って検討してみたい。
大津波は最初、北アフリカの小国、チュニジアで始まった。ヒラリー・クリントン国務長官の大衆蜂起に対する、擁護発言ともとれる一言で、たちまちチュニジアの状況は悪化していった。彼女は民主主義を支持し、大衆の行動を支援するといった内容の発言をしたのだ。
このヒラリー・クリントン国務長官の一言は、チュニジアの大衆にアメリカはベン・アリ大統領を守らない、と受け止められたのだ。実際にはそうした展開になり、間もなくベン・アリ大統領はサウジアラビアに、亡命することとなった。
次いで起こったエジプトの大衆蜂起でも、オバマ大統領はあいまいな発言を続けていた。しかし、舞台裏ではがっちりと、エジプト軍と革命後の両国の協力関係を協議していたようだ。
そのことが、その後のチュニジアとエジプとの、差を生み出していった。チュニジアの場合は、革命後、チュニジア軍は正面に出て来なかった。大統領が打倒された後の中核には、チュニジア軍はなれなかったのだ。そのため革命後の混沌がチュニジアでは続いている。
他方、エジプトの場合は大衆蜂起、大衆革命とはいうものの、肝心な部分は軍が完全に把握していたのだ。つまりエジプトの場合は最終段階で、クーデターが起こったのだ。したがって、革命後も軍が全権を掌握する形になり、新政府の組閣でも大きな影響力を、行使したものと思われる。
このチュニジアとエジプトの革命は、何だったのだろうか。何が目的だったのだろうか、という疑問がわいてくる。その疑問に対する答えは、じきに明らかになった。
両国に挟まれる位置にあるリビアでも、大衆の蜂起が始まったのだ。反カダフィ運動がリビアの東部を起点に始まり、現在では南部や西部でも、反カダフィ闘争が展開されている。
つまり、チュニジアの革命とエジプトの革命は、うがった見方をすれば、北アフリカの本命国であるリビアに、火をつけるための仕掛けだったのではないかということだ。
そうであるとすれば、アルジェリアやモロッコはあまり激しい運動には、発展しないかもしれない。すでに目的は達成され、カダフィ体制は大きく傷つき、倒壊寸前になったからだ。
アメリカとイギリスはその後にリビアに登場し、リビアの持てる石油資源を、奪おうということではないか。
このチュニジアとエジプトの動きに始まった、リビア体制の追い込みと極めて似通った動きが、サウジアラビア周辺諸国で展開している。サウジアラビアを取り囲む、共和国でも王国でも、反政府の動きが活発になっているのだ。
最初はサウジアラビアの南東部に位置する、イエメンで反政府の闘争が始まった。もとはと言えば、部族と政府の対立だったものが、多分に経済状態を悪化させたのであろう。最近では学生が政府打倒の矢面に立って、運動を続けている。
サウジアラビアの北部に位置するバハレーンは王国であり、サウジアラビアとはコーズウエー橋でつながる、いわばサウジアラビアの一部のような立場にある国だ。
そのバハレーンの場合は、実に深刻な状況に至っている。国民の70パーセントがシーア派イスラム教徒と言われるこの国を、支配しているのは少数派であるスンニー派の国王なのだ。
最初は権利の主張、平等の実現、といったことが叫ばれていたが、最近では国王打倒を叫び始めている。すでに反政府の活動はノー・リターンのところまで進んでいるのだ。
この状況にあわてたサウジアラビア政府は、「バハレーンとサウジアラビアは一体であり、バハレーンの安全はサウジアラビアの安全と切り離せない。」とし、軍隊の派遣まで言及するに至っている。
しかし、サウジアラビアがもしバハレーンに軍隊を送り、シーア派国民に対して武力を行使することになれば、シーア派の総本山とも言えるイランが、黙っては居ないだろう。考えようによっては、サウジアラビアはバハレーンを庇おうとするあまり、自国の安全を脅かしている、とも言えるのではないか。
王国が不安定になっているのは、バハレーンばかりではない。サウジアラビアの東部に位置するオマーンでも、国民による体制批判が起こっている。この場合も次第に強硬な形に、なってきているのではないか。
本来であれば、オマーンは穏健な国民性であり、スルタン・カ―ブース国王は穏やかで、英明な国王と評されてきており、この国で国民が反体制に動くことなどは、考えられなかったことだ。しかし。現実は極めて厳しい状況に、至っている。
サウジアラビアの西に位置するヨルダンも同様に、いま国民による王家に対する突き上げが、起こってきている。この場合も、次第に激しさを増しているのだ。最初は部族長の集団が、ラニア王妃批判をしたことに始まるヨルダンの不安定化は、遂に都市部住民の体制批判活動に変換している。
現段階で言えることは、バハレーンの王家が極めて危険な状況にあるということ、イエメンのアリー・サーレハ大統領体制が極めて危険な状況にあること、そしてヨルダンのアブドッラー国王体制が、追い込まれているということだ。
こうしてサウジアラビアの周辺諸国の状況を考えると、サウジアラビアだけが安定を維持できるとは考えにくい。分かりやすい言い方をすれば、サウジアラビアの周辺諸国は、一様に猛火のなかにあり、サウジアラビアはそれらの国々に、取り囲まれているということだ。
あるいは、サウジアラビアの周辺諸国は、大きな津波の波に飲み込まれそうに、なっているということだ。その猛火や大波が、サウジアラビアには及ばないと、誰が言い切れようか。
サウジアラビアにはバハレーンほどではないが、人口の20パーセントに当たるシーア派住民が居住している。バハレーンではシーア派が立ち上がっており、イランがすぐそばに位置しているなかで、差別を受け続けてきたサウジアラビアのシーア派国民が、何も起こさないという保証が、何処にあるのだろうか。
サウジアラビアが猛火に包まれる日、あるいは大波に飲み込まれる日は、意外に近いかもしれない。その時に対する対応を、準備しておく必要の方が、国内の政争以上に、第一優先するのではないのか。
※本稿は月刊日本4月号掲載予定の原稿に筆者が加筆したものです。
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