2011年8月5日、日本中が熱い夏に辟易し始めた中、全国を揺るがす大事件が起きた。
その余りにも突飛な事件は、内容の奇怪さも相まってか在日米軍の秘密実験だとか、自衛隊が不発弾の処理を誤っただとか、はたまた宇宙人の仕業だ、と色々な説が浮上したものの決定的な証拠が出ることはなかった。
そして、その事件の行方不明者の数の大きさ(後の調査で延べ1500人にも及ぶ事が判明した)から、世界最大の集団失踪事件として世界に認知されることとなる。
2011年8月5日 南キャンパス 教育棟103号室
「えー、であるからして、この培地のphは……」
カーテンに締め切られた部屋の中ではおおよそ30名ほどの学生が、教授の補講を聞いていた。テストで点を十分に取れなかったから……という質の補講ではない。教授が四月の頭にインフルエンザにやられた為に出来なかった授業に押されて、こうした形になっているのだった。
ここ南キャンパスの教育棟の教室は朝日が差し込み、眩しいことで有名である。よって通常、学生たちはカーテンを閉め切り、隙間から洩れる光に映し出された塵を眺めながら講義を受けていた。
地方国公立に通う学生たちの一般的な傾向として『生真面目』ということが言われている。もうそろそろ夏休みかどうかという、もっとも緩みやすい時期にしては、皆真面目に受けているようであった。
しかし、その中にも無論例外がいる訳で。香藤克哉は昨日の徹夜マージャンの所為か、机に突っ伏して惰眠を貪っているのであった。
「ちょっと、香藤君! そろそろ起きないと坂田と言ってもさすがに怒られるわよ!」
小声で隣から注意された香藤は、まだ完全には開ききっていない、その寝ぼけ眼をこすり、ぶつぶつと呟きながらも覚醒する。そんなめんどくさそうな態度に呆れたのか、注意した張本人である松田久美は溜息を軽くついて、目の前の黒板をノートに写す作業に戻るのだった。
坂田教授――別名、仏の坂田はその講義中に爆睡していても全く気にも留めない授業進行、また齢80を超えると噂されるよぼよぼの外見からそのうちぽっくり逝ってしまうのでは? という余計なおせっかいから付けられたあだ名である。その外見を見た香藤も最初はなるほどと感心したものだ。
香藤としては後で松田にノートを見せてもらえればそれだけでよい。講義の内容をリアルタイムで聞くよりも、香藤にとっては今、体力を回復させる方が大切であった。
「……ベンケイソウ型酸代謝を行うのは、cam植物で……、む?」
子守唄の様に単調な坂田の朗読が止まる。学生たちも机に落としていた目線を上げて辺りを窺う。部屋を照らしていた蛍光灯が一斉に消えたのだ。停電か、と誰かが訝しんで呟く。
数秒経って、すぐに回復しないことを悟った坂田はのそりのそりと、閉めきった東側の窓辺に近づきカーテンを開けた。太陽光でも真っ暗よりマシと考えたのだろう。
開けた坂田は、その細い目を大きく開けてその窓の外を見つめていた。そんな挙動不信な様子を見て学生たちの頭上に、はてなマークが浮かぶ。
「坂田教授、どうなさったのですか?」
近くにいた女学生がたまらず声をかけた。が、その言葉にも反応せず、老教授は外を見つめたままだ。しばらく経って、教授は何度も外を見て、何度も何度も確認するように外を見て、ようやく声を発した。
「ワシが耄碌したのか……ちょっと、そこの君、来てみなさい」
指名された女学生は、戸惑いながらも同じ様に窓辺に近づいて……、同じ様に固まった。
「……現実、の様じゃのう」
ポツリと洩らした坂田の言葉が教室に響く。
教育棟に並走するように植えられていたはずの街路樹、そんないつもの光景は消え失せ、窓の外には地平線が見えるほどの荒地と青い海が広がっていた。
第一話「転移」
大学には三つのキャンパスがある。硬式野球サークルの応援歌が『Eの形の~』で始まる通り、大学を上空から見るとEの形に見えるのは有名だ。上から北キャンパス、中央キャンパス、南キャンパスと何のひねりもないネーミングであるが、学外には分かりやすいと好評であった。
『本部』と呼ばれる中央キャンパスにある文化ホール、その第一会議室には重苦しい空気が漂っていた。
工学部准教授である、若林啓志はその空気を感じるに事態の深刻さと、このファンタジックな状況が真実であることを改めて認識したのだった。
「見ろよ、あの顔。この世の終わりって顔してるぜ」
若林は気楽そうな声で、苦手な教授をあげつらう隣の男を呆れた顔で見る。農学部准教授、正木敏と若林は同時期に准教授になり、年が近いこともあって度々話す間柄であった。若林は、正木の事をあまり深く物事を考えない男、簡単に言うと馬鹿だと内心思っていたが、このような状況にあってさえいつもと変わらないその態度を見て、呆れを通り越して感心してしまう始末であった。
文化ホールは、学外から招かれた著名人の講義の時などに使われるホールである。その為にホールには数百人ほどが入れるほどの大きさが確保されていた。今回集められたのは大学に勤める職員である。8000人を超える学部生を擁していた大学に勤める職員もそれなりに多く、このホールでさえ少し手狭な感じがするほどであった。
「……まぁ、あの噂が本当なら頭を抱えたくもなるだろうさ」
「そんなもんかねぇ。俺なんかワクワクしてるんだが」
「それは、なんちゅうか、おめでたいことだな」
「……今、馬鹿にしたか?」
それを直接聞く時点でそういうことじゃないのか、と若林は思った。
「お、集まったみたいだぞ」
正木は壇上を見やる。ざわめいていた会場が水を打ったように静かになっていく。壇上に登った男は、会場中の視線が一手に集まったのを確認するとゆっくりと話し始めた。
「皆さん、前置きは無しにして初めに結果だけ伝えましょう。皆さんの”噂”は事実です」
正木は顔を緩め、正反対に若林は顔をしかめる。
「先ほど学門などを見に行きましたが、確かにこのキャンパス外はすべて荒地となっていました。それも、北キャンパスの方はなんと海、正確に言うと崖に面しています」
より具体的な話を聞いて、若林はなるほどと先から鼻をくすぐる潮の匂いの正体を理解した。何故どちらかと言うと山の中に”位置していた”筈のこの大学が、海に面しているということに納得はしていなかったが。
壇上の男の言葉を聞いて再び会場はざわめき始める。
「では、まずプリントを配ります。それを見ながら、今後の対応を追って説明します」
配られたプリントを眺めながら隣の職員と話合う者、一心不乱にプリントに齧りつく者……様々であったが唯一共通していたのは一体この状況は何なのかという不安であった。
若林もそのプリントに目を通す。半分ほど読み進めた後、大体が地震などの災害が起きた時のマニュアルである事に気がつく。学生たちは一か所に集め、まずは点呼、欠けている学生などいないかなどを確認するなど、なるほど確かに合理的である。こんな訳が分からない事態に直面して、すぐにマニュアルを用意出来る辺り岡田学長は有能な男なのだと若林は改めて思った。
若林はその処理能力に舌を巻くとともに、この後向かいあうだろう学部長教授たちの渋い顔が脳裏に浮かび顔をしかめる。学長と教授陣の犬猿の仲は、大学でも有名な話だ。
この大学も国立大学法人化によって、平成16年から独立行政法人としての出発を余儀なくされた。その結果、ほとんどの国立大学と同じ様に教授会の権限が弱まり、反対に学長の権限が高まった。
この学長が曲者で、これまでなら教授会で決まった学部長などが収まるのが通例であったが、今回の改正により学長選考会議という別の会議で決まることとなった。そして、その学長選考会議には学外からも参加できることとなり、付属病院院長などの学外の有識者が参加できる。
学校の運営は難しい……ことから、学長を民間から迎えようという動きが出てもおかしくはない。そして、結果選ばれたのが、当時大規模通信事業に参入を果たしたことで有名であった企業グループの若き会長であった。
結果面白くないのが教授会だ。結局、教授会自体が学長の案に賛成するだけの機関になってしまったのだから。彼らは勝手に学内職員からの意見聴取としてアンケートを実施し、学長に対抗したりと血みどろの戦いに発展した。
そのような経緯があるから、当然教授陣と学長の溝は深い。
若林は、これからの事を思い深く溜息をついた。