赤木智弘の眼光紙背:第170回
インターネット上のゲームサイトや、SNSといった、男女の出会いを主な目的としたものではない「非出会い系サイト」の利用によって、わいせつなどの被害に遭う児童が増えているという。(*1)
これまでは、男女の出会いを目的にした、いわゆる「出会い系サイト」に対して、携帯電話会社などがフィルターをかけ、子供たちが携帯などからアクセスできないようにしていたが、そうした出会い系サイトに当てはまらないサイトでも、子供たちは見知らぬ大人と出会ってしまうようだ。
いくら子供の親たちがそうしたサイトへのアクセスを塞ぎ、親が関知しないところでの出会いを無くそうとしても、子供たちはそのスキマをこじ開け、見知らぬ他者と出会おうとする。それは子供たち自身が、成長しようとする意欲のあらわれである。
もちろんそこにリスクは潜むが、リスクと成長は表裏一体である。いろいろな人と出会い、時には傷を受けることが、子供を大人に近づけていく。
そうした牧歌的な出会いと、子供に性的欲求をぶつけようと手ぐすね引いて待っている大人との出会いは、切り分けることができると考える人もいるかも知れない。
しかし、恋愛とセックスを切り離すことができないように、他者との出会いは多かれ少なかれ、牧歌的で善良な要素と、欲望の要素を合わせ持っている。
それでも多くの子供は、他人と知り合ったり、恋愛をしたりせずにはいられない。それを規制しようというのは、子供に対して「家に引きこもれ。親の関知した人間関係だけで成長せよ」というメッセージを送っているのと同じである。それは子供をとても馬鹿にした行為であると、私は思う。
数年前までは、そうした考え方をもつ大人も、かなりの数がいたように思う。
しかし今では「子供の安全安心を守れ」という号令のもとに、そうした人間関係を許容する考えかたは、さも子供を守らない無責任な考え方であるかのように理解されてしまっている。
「児童に対するわいせつ行為は、犯罪や条例違反だから悪いのだ。大人は加害者で、子供は被害者だ」という一方的な見かたは、子供自身がいろいろな人々との出会いを欲していることや、セックスが恋愛の重要な要素の1つであることを忘れさせる。
そして、人間同士の出会いで産まれるはずの、心や体やお金といった複雑な関係性を否定し、どこにもあるはずのない「清く正しい出会い」があるかのように、人々に思わせてしまっている。そして正しく無い出会いは全部不健全なのだとして、子供を家庭の中に押し込めようとする。
他者との出会いというのは、常にリスクと隣り合わせである。それは親戚であろうが、学校であろうが、ネットであろうが、会社であろうが、それは変わらない。
重要なのは、あくまでも「出会いはいつでもリスクを含む」ということを子供に伝え、対処法を伝授することであって、「悪いから悪いのだ」というトートロジーで、子供が他者と出会い、成長しようとする欲求を押さえつけることでは無いはずだ。
非出会い系での子供の被害とやらが増加しているのは、決してフィルタリングが不十分だからではない。
大人が、人と人が知り合ったり付き合ったりすることの複雑さを、子供に対して真っ正面から真剣に対話して伝えようと考えず、フィルタリングや都道府県の青少年育成条例、そして警察に、子供の行動を抑制してもらうことばかりを考えているからだ。
そうして逃げ続ける限り、被害が増えていくのは避けられないと、私は考えている。
*1:「非出会い系」の被害増加=フィルタリング推進を強化―警察庁(時事通信)
http://news.livedoor.com/article/detail/5349594/