66回目のその日が巡ってくる。1945年3月10日未明、東京は300機を超えるB29に爆撃され、10万人以上が死亡した。東京大空襲だ。
一夜にして長崎原爆の犠牲者を上回る命が失われた。戦争の歴史に残る惨劇である。
家が密集した下町を選び、周りを取り囲むように焼夷弾(しょういだん)で炎の壁を作る。逃げ道をなくしてから内側を焼き払う。計算し尽くした爆撃だった。B29の機内には焦げた臭いが充満したという。
炎の中を逃げ回る中に半藤一利少年もいた。長じて旺盛な作家活動を展開する人である。
「地獄の劫火(ごうか)でした。地に身を伏せる人間は、瞬時にして、乾燥しきったイモ俵に火がつくように燃え上がる。髪の毛は火のついたかんな屑(くず)のようでありました」
近著「15歳の東京大空襲」に書いている。
焼夷弾を見つけたら砂や泥、ぬれむしろをかぶせて消す−。かねて指示された心得が何の役にも立たないことは、半藤少年にもすぐに分かった。
<国際法上も許されず>
非戦闘員に対する攻撃はその当時も国際法違反とされていた。無差別の爆撃はむろん許されない。戦争遂行に関係の薄い下町を標的にした空襲に疑問を挟む声は、米軍の中にもあった。
マクナマラ元国防長官は記録映画「フォッグ・オブ・ウォー」で、空襲を指揮した当時の上司ルメイ司令官の言葉を振り返っている。「もし負けていたら、われわれは戦争犯罪人だった」
日本人の戦意をくじき戦争の終結が早められれば、米兵の犠牲を少なくできる。そんな理屈で懐疑論はかき消されていく。
東京だけではない。名古屋、神戸、大阪…。日本の主要都市は軒並み、じゅうたん爆撃にさらされた。行き着いた先が広島、長崎への原爆投下だった。
長野県も爆撃を受けている。終戦2日前の8月13日。空母の艦載機が長野市上空に飛来し、飛行場や軍の病院、長野駅周辺に爆弾を落としていった。
「長野空襲を語り継ぐ会」の調査によると、この爆撃で47人が死亡している。前後して上田市、旧長門町(現長和町)などでも小規模な爆撃があった。
朝鮮半島、ベトナム、旧ユーゴスラビア、旧ソ連のカフカス…。無差別空爆は第2次大戦の後も各地で繰り返され、罪のない人々が殺されてきた。
空襲、空爆の特徴の一つは「する側」が「される側」に対し圧倒的上位に立つことだ。米軍が進める「テロとの戦い」では無人爆撃機まで登場している。ばらまかれたクラスター弾は不発弾となって人々を殺傷する。
そして今、リビアではカダフィ大佐の空軍が反政府勢力に銃弾を浴びせている。パイロットの多くは外国人の雇い兵だという。権力者による国民に対する究極の暴力である。国際的な圧力を強めてやめさせなければならない。
<加害の歴史を踏まえ>
無差別の爆撃は人道上も国際法に照らしても許されない。日本人はそのことを骨身に染みて知っている。「ノーモア・トウキョウ」の声を上げ続ける責任も、それだけ重いと考えたい。
ただし私たちは、東京大空襲の非を鳴らすだけでは済まされない。旧日本軍が中国で同じようなことをしてきたからだ。
代表格が抗日の拠点になっていた重慶に対する爆撃だ。荒井信一さんの「空爆の歴史」(岩波新書)によると、5年半、216回にわたる爆撃で6万人以上が死傷したと推定されている。
日本のかつての同盟国ドイツでは、チェコ国境に近いドレスデンが連合軍の空襲で徹底的に破壊された。東京大空襲と並び、都市への無差別爆撃の代表例とされている。この悲劇の前段にも、ピカソの代表作で知られるスペインの都市、ゲルニカに対するドイツ空軍による空爆があったのだ。
日本人が戦争の歴史に目をふさいだまま東京大空襲の被害を訴えるようだと、「自業自得」との声が返ってくるだろう。
<受忍論を超えて>
東京をはじめ日本各地の空襲の被害者が賠償を求め、裁判に訴えてきた。最高裁は最終的に「受忍論」を掲げて訴えを退けた。戦争の被害は国民が等しく我慢すべきもの、という論理である。
同じ戦争被害でも、国は軍人、軍属には手厚く補償してきた。被害は等しく我慢させても補償の方は等しくない。最高裁の論理を受け入れるのは難しい。
民間人の被害について東京地裁は2年前「国家の主導の下に行われた戦争による被害という点で、軍人、軍属との間に本質的な違いがないとの議論が成り立つ」と述べ、立法による救済を国に促した。こちらの方が胸に落ちる。
日本政府はサンフランシスコ講和条約で米国に対する補償請求を放棄した。代わって補償する責任は政府にある。