「そういや、まだ、あれ残ってた!」
ふと思い出した。
『僕の周りに在ったWAR』である。
その「T」と「U」を去年の9月、たくらだ堂の155と156で書いた。
155=家に在ったWAR
156=遊びの中に在ったWAR
戦争はまだまだある! 書くことにした。
■テレビの中に在ったWAR■
僕は昭和で言うと24(1949)年の生まれだから、まだまだ世の中にテレビは無かった。
テレビ史的には昭和28年2月1日が我が国のテレビ放送開始の日である。勿論NHK(東京)だ。
この時の受信契約数は866。日本中で僅か866軒だ。これが半年後の8月には3000に増えている。因みに受信料は月額200円。大卒の初任給が8000円だったと言うから40分の1。安くはない。しかし、テレビそのモノがバカ高かった。アメリカ製21インチが255、000円!勿論、白黒である。係長クラスの給料1年分だ。
そして、3年後の昭和31年12月、民放放送が始まる。その栄誉を手にしたのは中部日本放送(CBC)と大阪テレビ放送(現ABC)。以後、数年の間に雨後のタケノコのように民間テレビ放送局が開局する。
但し、たった今、電話で姉(63歳)に確かめたところ、僕の家にテレビが来るのは更にそこから6年後の昭和37年の12月だったという。僕は中学1年生。テレビはゼネラル製で14インチだった。これは僕が憶えていた。
更に姉の話だと、その日は火曜日で、最初に家族で見た番組はNHK『お笑い三人組』だったそうだ。
翌年の春に、中学卒業で故郷を離れて就職する姉のために父が月賦で買ってくれたのだと姉は言う。前もって何の相談もなく、その日突然テレビがやって来た。今で言うなら、父なりのサプライズだったのだろうか。
そんな昭和37年は2年後に東京オリンピックを控えたこんな年だった。
▼1月・東京都の人口1000万を超える
▼3月・大正製薬、リポビタンD発売
▼4月・吉永小百合主演『キューポラのある街』封切
▼4月・日本アートシアターギルド(ATG)発足
▼4月・プロレス中継の流血シーンで死者2人
▼5月・サリドマイド児問題化(9月販売中止)
▼6月・ABC『てなもんや三度笠』放送開始
▼6月・北陸トンネル完成。全長13.87km
▼7月・植木等主演『ニッポン無責任時代』封切
▼7月・台湾でコレラ大流行。台湾バナナ輸入禁止に
▼8月・堀江謙一、ヨットで単独太平洋横断に成功
▼8月・男性整髪料「バイタリス」発売
▼8月・国産初の旅客機YS−11初飛行に成功
▼10月・ファイティング原田、世界フライ級王座に
▼10月・日本自動車連盟(JAF)設立
▼10月・最高裁吉田石松の再審決定(昭和の岩窟王)
▼11月・美空ひばり・小林旭挙式
▼11月・TBS、『コンバット』放送開始
▼12月・レコード大賞に『いつでも夢を』
▼12月・東京でスモッグ禍発生
日本は高度成長時代期で、消費文化の増殖が感じられる。
海外では8月に世界で最も愛された女優マリリン・モンローが亡くなり、10月、彼女との仲が噂になった大統領J・F・ケネディのアメリカを巻きこんで世界の破滅に後一歩だった「キューバ危機」が起きている。
さて、そんな頃、「テレビの中に在った戦争」である。最初に思い出すのは!
【チャーチル回顧録】
チャーチルとはあのイギリス首相・ウィンストン・チャーチル(1874・11・30生〜1965・1・24没)のことである。
1940年から終戦の45年まで戦時内閣の首相を務め、連合軍の勝利に貢献した。
その第二次大戦を描いてノーベル文学賞を受賞している。
また、ジョークの名人としても有名で、首相時代のある時、女性議員から「私が貴方の妻だったら貴方の紅茶に毒を入れますわ」と言われ、即座に「私が貴女の夫だったら、喜んでその紅茶を飲むね」と返したという。
さて、番組の記憶はおぼろげである。家で見たか、それとも、その頃毎週日曜日の朝から夕方ぐらいまでテレビを開放してくれていた萩原小学校の作法室で見たか定かではないが、例えば『月光仮面』のような待望の番組を見る前に、見るべき番組がそれぐらいしか無くて、何度か見たというような記憶である。
今、ネットで調べました。昭和37年7月1日から7日までの1週間の番組表があって、その3日(火曜日)の夜10時50分にこの番組はありました。朝日テレビの30分番組である。何年何月に始まって、いつまで放送してたのかなどは判らないが、僕が見たのは絶対に夜中ではない。僕は中部地区だったから放送時間が違う可能性はある。
さて、その中身だが、チャーチル本人が出演しているというようなことはないし、またチャーチルの政策や戦略を紹介したり、取材している訳でもない。ひたすら第二次世界大戦のドキュメントフィルムが流れるだけだ。勿論、ヨーロッパ戦線。ナレーションは無かったように思うが定かではない。シーンの殆どは戦闘シーンで、ナチスの収容所や兵士の死体など、残虐なところはなかったように思う。基本的にはイギリス軍、もしくは連合軍側からの映像だったと思われる。恐らく戦争記録班等のそれであろう。
僕は小学生から中学生に至る時期で、戦争には無関心で、物語もなく、主人公もいないニュース映像など全く興味が無かった。何度か漫然と見た覚えはあるが、決して毎週欠かさず見た言とうような番組でもない。なのに何故か覚えているのだ。
戦争が終わって十数年、何故こんな番組をやっていたのだろう。戦争の悲惨さを伝えたかったのだろうか。それなら、ゲルマン民族の闘う映像より、勇猛でも悲惨でもいいから日本人の戦いの方が、身近で効果があるだろうに。いや、それには日本はまだまだ戦争を客観視出来てはいない時代だったかもしれない。それは今でも大差ないようだが。
だから、過大な評価もしないし、テレビの中にそんな空間が紛れ込んでいたという印象の番組である。でも、確かに実戦争ではあったのだ。
そして、こんな番組もあった。だが、その番組名が判らない。
■(兵隊喜劇)?■
確か日曜日のお昼だったはずだ。
登場人物は全部で10数名もいたと思う。
全員が兵隊さんで、二等兵、一等兵、上等兵、兵長、伍長、軍曹と言った面々だ。将校は登場しなかった・・・・ハズ。
場所は恐らく外地で、南方の何処かではなかったか。
だが、戦闘シーンも訓練シーンも無かったから、最前線では無かったハズ。
舞台は内務班といわれる、兵営(兵舎)内で兵隊が寝起きする部屋だった。そこは板敷きの大部屋の中央に長机、両側にわら布団のベッドが並べられており、寝室であり、食堂であり、兵器手入れ室であり、休養室でもあるところであった。
ところが、冬にはそこに大きい木炭ストーブがあった気がする。ということは南方ではなく、満州辺りだったかもしれない。
役者もうる覚えだ。南道郎、逗子とんぼ、八波むとし、南利明とかが記憶に残っている。八波むとしと南利明、脱線トリオのうちふたりが出ていたのに、もうひとり由利徹のイメージが無い。出ていたのかもしれない。
それに、女性も記憶に無い。出ていたのかも。出ていたとすれば、若水ヤエ子とか、武智豊子とかだろうか・・・・
にしても、主役は誰だったのだろう?
ストーリーも覚えていない。ただ、初年兵が古年兵(軍隊に一年以上いる者)たちに絞られたり、ビンタを食らったり、殴られたりしていたシーンばかりが頭に残っていて、お笑いだったろうに、陰険で恐いイメージが強い。
僕はこの番組で確実に軍隊嫌いになった。それは間違いない。
僕は小さくて、暴力が恐かった。生命の危機さえ感じるのだ。
特に、初年兵をいじめる南道郎が印象深い。
兵隊には絶対なりたくないと思った。
絶対、初年兵から始めなくてはならないし、将校どころか下士官にもなれないだろうし。戦争には絶対行きたくないと思った。
それは、上官だからというだけで暴力を振るう奴がいる世界、それが認められている世界が大嫌い、いや、肉体的に恐怖だからだ。
だから、その頃の僕にとって戦争のイメージはそこで終わっている。銃を持って敵を撃ち殺さなければならないなんていうところまで到達していない。まして、特攻隊なんて!
そんな内務班に屯する彼らの服装は、軍衣、軍跨、営内靴と呼ばれる、冴えない所謂国防色(カーキ色)の何だかダラッとした日本兵の服で、迫力とか、威厳とかには欠けていた気がする。
なんなら、古年兵とかはその口振りとか、態度から、まるでゴロツキだった。――演出だが。
因みに、カーキ(KHAKI)とはヒンドゥ語で土ぼこりという意味である。
そして、ネットで調べたが、該当する番組は見つからなかった。
『ダイラケ二等兵』という番組があったが、ダイマル・ラケットは出ていなかったハズだ。ともかくも関西の番組ではなかった。
何を狙った番組であったのか。少年の僕は、兵隊はイヤだと思わされただけだったが、結構そんなことが狙いだったのかもしれない。それとも、高度成長期とはいえ、まだまだ暗い時代に楽しい番組を提供しようと、東京のコメディアンを出来るだけ集めて、兵隊さんの悲喜交々の中に笑いを込めようとしたのかもしれない。
それとも、もう少し確固たる、意図的な反戦?そうかもしれない。
描かれるのは、大抵、兵隊さんの、中でも新兵(初年兵)さんの辛さ、大変さ、言ってしまえば悲しみだ。悲喜劇とも言える。そうまでは言えなくても、ペーソス & コメディだ。
しかし、戦争の非人間性や愚かさまでは標的にしていた訳ではないように思える。
まさか、軍隊ノスタルジーではあるまい。
もし、この番組の企画書でもあったら、企画意図とか意義とか読んでみたい気がする。
実はその頃(昭和30年代)はテレビで舞台中継をやることがままあった。中には松下電器一社提供の『ナショナル観劇会』というような番組もあって、新派から、喜劇から、歌手の芝居まで毎週日曜のお昼に放送していた。少年の僕が好むようなモノは少なかったが、喜劇は出来るだけ見た。案内役はご存知ナショナルの顔・泉大助さんでした。
そうした喜劇の中に、時にその番組のような「兵隊さんを主役にした喜劇」があったのだ。それが、出演者を変えて年に2回ぐらいはあったのではないか。勿論、ストーリーは違います。
上記の他に、こんな役者さんたちだったはずだ。
森川信
三木のり平
千葉信夫
佐山俊二
関敬六
谷幹一
平凡太郎
海野かつお
だが、それらも反戦だったのだろうか。
ところで、今でも時々それをコントにする芸人を知っている。我が、明石家さんま師匠である。
「杉本一等兵、参りました!」と、そのカーキ色の冴えない軍服に巻脚絆、頭には略帽の後ろに帽垂れを付けて登場する。杉本とは本名杉本高文より。
相手役はご存知村上ショージを筆頭に数人の芸人たちである。中身は、自己紹介だったり、戦闘の報告だったり、歌だったりするが、基本、ボケの天丼の連発である。
だが何故彼が、21世紀に兵隊コントをやるのか?
彼は僕より6歳年下なので、劇場中継も含めテレビで僕が見たようなものを見ることはあっても不思議ではないが、それを今あの明石家さんまになってやる動機、意味は何処に在るのであろうか?
只、僕の少年時代は飛騨の山の中、彼は奈良である。大阪の劇場や、花月に来てその種のモノを見て大いに笑ったことがあったのかもしれない。それをやっていたのはルーキー新一だったか、はたまた岡八郎だったか。
そしてもうひとつ。彼は戦争ドラマ、というより明らかに反戦ドラマである『サトウキビ畑の唄』に出たり、ドラマにも、舞台にもなった兵隊喜劇『7人ぐらいの兵士』(作・生瀬勝久)にも出たりするのだ。
更に、明確にその言葉を言った訳ではないが、何かの折に「戦争に反対」であるという意図のある発言をしたのを覚えている。それは聞き逃せばそうでもないことかもしれない。僕の方が意図的にそう理解(曲解?)しているのかもしれないが、僕は明石家さんまにそういう部分を感じるのである。
無論、面白ければ兵隊であろうと、癌であろうと、犯罪であろうと、自身の結婚であろうとネタにしてしまう人なのだけれど。
あの昭和のコントの伝統(?)があの明石家さんまに引き継がれていることが嬉しいかぎりなのです。
そして、三つ目はアメリカ製戦争ドラマだ。
■コンバット■
♪固く結ば〜れた友情は 男の正義の生きる道ぃ
行くぞ 力ぁをあわせ 突撃だぁ 前進だぁ
確か、こんなテーマ曲でした。
1962年から1967年まで米ABCで放送されたもので、日本では1962年11月7日の第一話から1967年9月27日の第152話まで、TBS系列で放送されている。
だから、丁度僕の家にテレビがやって来た頃から始まっている番組ということになる。
その人気は、懐かしさもあって、今でもDVDが出てるし、「コンバット」と入力すると幾つかの個人のホームページが検出される。
オンエア―は毎週水曜日午後8時から1時間。
舞台は第二次世界大戦のヨーロッパ戦線。サンダース軍曹とヘンリー少尉が率いる小隊を描いた戦争ドラマである。だが、戦闘シーンや作戦の成否や、勝敗の行方などを主眼にしたそれではなかった。
ウィキペディア氏もこう言う。
――ヒューマンドラマと言われる所以は、物語の主題が軍事ではなく、「戦争を通じた人間模様」を描くことにある為である。このため戦争は舞台に過ぎず〜敵役とされるドイツ兵についても決してただの悪役としては描かれておらず、むしろドイツ兵の日常のさりげない描写を通じて主人公のアメリカ兵たちと大差のない、同じ人間として描かれている。勿論、舞台は戦場なので戦闘アクションシーンも多いが、人間の内面を描くドラマであるがゆえに、全くアクションのないエピソードもある。基本的に兵士個人の視線で描かれ、戦争の酷さ、戦争とは、人間とは何か等の深いテーマを扱っているドラマである――
主役はほぼ隔週でヘンリー少尉(リック・ジェイソン)とサンダース軍曹(ヴィック・モロー)が演じる。部下はケリー、カービー、リトル・ジョン、衛生兵。「チェックメイト・キングツー。こちらホワイトロック、どうぞ」とサンダース軍曹のしゃがれた声が今でも耳に残っている。そうそう、吹き替えです。サンダース軍曹を山田信夫、ヘンリー少尉は納谷悟朗、他にルパン三世の山田康雄、スタローンの羽佐間道夫らであった。
ところで、この手の戦争ドラマは日本に無い。この手のとは、テレビで、毎週ということである。
先ず、ロケーション(ロケ地)選びが困難なことがあるだろう。そして、戦車や銃器や爆弾を爆発させねばならないことなど、金が掛かるということも。
更に、結局日本は戦争に負けたわけで、勝利して進む軍隊(部隊)を描くことに無理があるという点。戦争をカッコイイことのように描けない国情だったのだ。ひょっとするとまだGHQに対し、それはとりもなおさずアメリカに対しという意味だが、遠慮があったかもしれない。いや圧力さえあったかも。
だが、もっと大きいことがあると僕は考える、
それは日本が行った戦争がどうもまずいのである。
勿論、中国へは侵略であるし、アジアの各地で土地、食料、人材を収奪し、行けるところまでは、人類史上始まって以来、戦争の現場に慰安のための、いやいや性処理のための女性を同伴して行った軍隊であるから、そこを描くことなどとてもとても。
しかも、兵隊は飢えと病気でドンドン死んで行くし、カッコイイも何もあったもんじゃない!
で、視線を海の方に変えて、対米太平洋戦争ときたら、騙し打ちの真珠湾から始まり、半年後にはすぐさま形勢逆転、中国戦線と同じく、飢えと病気と転進と玉砕の日々!ドラマに出来る要素など何処にもありはしない。
せめて耐えしのぶ銃後を描くか、特攻隊をモデルにするしか手は無かったようだ。それもテレビではなく映画でだ。
とはいえ、『コンバット』の人間ドラマは中学生の僕には理解できるものではなかった。戦争さえも良く判らないまま、アメリカ人の戦争はカッコよく、イジメも無さそうで楽そうだった。
ま、お気楽な中学生だったというしかない。
さて、『チャーチル回顧録』『(兵隊喜劇)』『コンバット』
全く違う戦争を扱った番組。
あの頃のテレビは僕たちに何を訴えていたんだろう。

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