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太田龍著 「長州の天皇征伐」

  成甲書房(2005年11月)

日本の「近代化」はここから始まった

この書は奇書である。少なくとも正史ではない。明治維新という日本の近代化が幕末の薩長勢力によって成し遂げられた時代を振り返って考えよう。この本を読むきっかけは、ベンジャミン・フルフォード著 「世界と日本の絶対支配者ルシフェリアン」という書のなかに、盛んに太田龍氏の著作が引用されていて、「孝明天皇親子暗殺される」という記事を目にしたからだ。こんなことを言い出す太田龍氏とは何ものぞということで、氏の略歴を紹介する

太田 龍(1930年生まれ )は、日本の革命思想家である。 本名、栗原 登一(くりはら といち)。 当時、日本領であった樺太豊原町出身。東京理科大学中退。元日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)委員長。革共同から分裂した太田氏は、1958年8月に「トロツキスト同志会」(トロ同)を結成。トロ同は全組織を挙げて、日本社会党の地区組織に「加入戦術」を行う。トロ同は、1958年12月に「国際主義共産党」(ICP)に発展解消した。新たに「第四インターナショナル(ボルシェビキ・レーニン主義派)」(BL派)とその大衆組織である「武装蜂起準備委員会-プロレタリア軍団」を結成するが、この時期から次第にマルクス主義そのものとの決別を開始し1971年に脱党。同年頃より竹中労・平岡正明らと3バカゲバリスタと呼ばれる仲になり「世界革命浪人」と自称する。1972年にはアイヌ革命論者となり、北海道庁爆破、白老町長および北海道知事に「死刑執行」を宣告(ただし実行犯とは別)、土着革命論、「人類独裁の打倒によるゴキブリの解放・ネズミの解放・ミミズの解放を!」(『日本エコロジスト宣言』)を訴える「エコロジー主義」など主義・主張を転々とし、現在は「ユダヤ・ネットワークが世界を裏で支配している」と主張する反ユダヤ主義およびユダヤ陰謀論の日本における代表的論客の一人。1974年に三菱重工爆破事件などの連続企業爆破事件を起こした東アジア反日武装戦線に思想的影響を与えた。1970年はじめはアイヌ、終わりごろは自然食(マクロビオティック)や特に自然食運動の始祖桜沢如一の革命理論を取り込んでいき、反家畜制度、反米、フリーメーソンやイルミナティのような秘密結社を含む反ユダヤ主義、反国際金融支配となる。いわゆる「陰謀論者」といわれる。1986年の第14回参議院選挙で、日本みどりの連合公認で比例区から出馬するが落選。1987年の東京都知事選挙にも日本みどりの連合から立候補したが落選した。1990年の第39回総選挙には地球維新党を率いて東京1区から立候補するも落選。現在ではユダヤ陰謀説というよりも、フリーメーソンなどの組織を陰謀の主体と考える傾向が強まっている。現在の太田氏の思想の三本柱は陰謀論 ;国粋主義、伝統主義 ;自然食、家畜制度の全廃である。

太田龍氏とはいわば思想界の独立愚連隊派で、左翼運動の結成・分裂の絶え間ない繰り返しに身を置いた人物のようだ。本書の末尾に著作が数多く挙げられているが、ここでは煩雑になるので紹介しない。ただベンジャミン・フルフォード氏との共著に「間もなく日本が世界を救います」を著わした。二人とも「陰謀理論」界の大物だそうだ。ユダヤイルミナリティ(ルシフェリアン)の世界的大財閥ロスチャイルドとロックフェラーの4000年来の陰謀というオカルトじみた説で世界史と現代を読み解こうとする態度で共通している同志である。本書はその陰謀に対抗する思想的立場が国粋主義(右翼もびっくり)に傾いている。しかも「縄文神道」だと云う点には、私もついてゆけない。従って本書を明治維新と明治政府の歴史と云う意味で読んでゆきたい。出来る限りオカルトと国粋主義を排してゆく。長州による徳川家茂・孝明天皇親子暗殺というドラマは見逃すわけには行かないので、これを中心に本書を紹介したい。(ユダヤ陰謀説についてはベンジャミン・フルフォード著 「世界と日本の絶対支配者ルシフェリアン」をみていただきたい)

長州藩 孝明天皇親子暗殺

本書のメインテーマである「長州藩 孝明天皇親子暗殺」は、証拠がある話ではなく憶測に基づくストーリーであるが、ある重要な側面を鋭く突いている。言いたいことは「長州伊藤は公卿岩倉具視と謀り、孝明天皇を暗殺し、さらに睦仁親王が明治天皇として践そされるや、日を待たずの殺害。そして長州の南朝皇統 大室寅之祐を明治天皇にすり替えた。」である。長州にとっては徳川は関が原以来の仇敵で、尊皇攘夷とはまやかしそのもので倒幕の便宣に過ぎなかった。攘夷を叫びながら、イギリスのグラバーらの手助けを仰ぎ坂本竜馬に兵器・軍艦購入と密輸を依頼し、着々と洋式化を準備していた。英国は中国進出を狙うロシアに対抗する東アジアの日本を番犬にするため、強兵政策を援助していた。長州征伐に出向いていた徳川家茂を大阪城で変死(毒殺)させたのも長州の隠密組織であったという。徳川家茂と孝明天皇は公武合体政策を進め、妹和宮の嫁下によって義兄弟の間柄となっていた。徳川幕府に対しては攘夷で挑発し、公武合体による政権の延命を破壊するために孝明天皇を暗殺し、徳川家茂も暗殺したと云うストーリーである。どうです、なかなかよくできたお話でしょう。睦仁親王も暗殺して意のままになる南朝の末裔大室家(長州が保護していた)の若造を明治天皇にすり替えたと云うところがミソです。これによって天皇の皇統は切り替わった。

昔から皇統は何度も入れ替わっていた。(万世一統の皇室なんてことは真っ赤な嘘であることは公然の事実であろう、誰も公言しないだけです) 太古から飛鳥時代は天皇が死ぬたびに、戦争が起きた。天皇がまだ軍事力を持っていたからである。奈良時代になって藤原氏の後ろ盾によって、女性天皇を立てて皇統の断絶を防ぐ智慧が発明されたが、それにより天皇の権限は藤原氏に奪われ、天皇はお飾りになった。天皇家とはイコール藤原家の血統である。南北朝から足利幕府の時代に皇統はズタズタに切り裂かれた。天皇家は没落貴族となり、ここに和歌管弦を中心にした王朝文化も完全に終息した。替わったのが武士・僧階級の室町文化で今日の日本文化が花開いたのである。

徳川家茂変死、孝明天皇・睦仁親王暗殺説は昔から噂されていたようである。しかし正史では完全に無視されてきた。睦仁親王暗殺説については全く歴史資料がないので、異説・でたらめ・憶測といわれても仕方ないが、徳川家茂・孝明天皇暗殺についてはかなり有力な資料がある。その一つにアーネスト・サトウの「一外交官のみた明治維新」(岩波文庫)がある。要約すると「噂では帝の崩御は疱瘡によるとしていたのだが、一日本人によって、帝が毒殺されたと云うことを信じるようになった。帝は攘夷論者で、幕府滅亡後の西洋との外交において災いをもたらすと予見する人達によって、帝は邪魔者にならぬようにかたずけられた。帝を毒殺する事は東洋の国々ではごく普通にあることだ。帝が14,5歳の後継者を残して政治的舞台から消えてなくなったことは、最も時機を得た者である事を否定することはできない。十四代将軍徳川家茂の場合では、噂では彼が一橋(御三家の一つ)によって殺されたという噂を聴く。」というものだ。攘夷論者孝明天皇がいなくなった事で最も得をするのは、英国と密約し軍事援助をえて倒幕を進めてきた長州薩摩の勢力であろう。

さらに1907年朝鮮総督であった伊藤博文を暗殺した、朝鮮の壮士、安重根の「斬奸状」が伊藤の孝明天皇暗殺を暗示させている。安重根はその「斬奸状」で、伊藤博文の罪を15か条あげて、始めの一条に「1967年、明治天皇陛下父親太皇陛下を暗殺大逆道之事」という。そして旅順法務院法廷での安重根の証言「日本は東洋の撹乱者なり・・・伊藤公は韓国に足して逆賊なるとともに、日本皇帝に対しても大逆賊なり。彼は先帝孝明天皇を・」で裁判長は発言を封じ、裁判を非公開としたという。戦前にはこのようなことを発言すれば死刑は免れなかったが、戦後にはねずまさし「孝明天皇は病死か毒殺か」、南条範夫「孝明天皇暗殺の傍証」という様な本も出版された。徳川家茂の御小姓組頭として長州征伐に従軍した蜷川の末裔である蜷川新というひとが「家茂は宮中から来たという医師が調合した薬を飲んで毒殺された」と母親から聞いたという。そして孝明天皇暗殺については維新資料編纂委員だった植村澄三郎氏の言として「岩倉が妹を宮中に入れて天皇を風呂場で殺した」と述べた。また徳川慶喜の大阪城定番(隠密)の小名渡邊平左衛門丹後守章綱の子息宮崎哲雄氏が京都の天皇の老女を調べたところ、天皇は妾宅で刺殺された。刺殺の実行犯は伊藤博文と云う殺し屋、案内したの岩倉だという。

次は三浦芳聖と云う人の証言である。彼は南朝の末裔を自称して地元では三浦天皇と呼ばれていた。南朝(吉野朝)が滅亡したあと、実は南朝系と称する三つの皇統が存続したと伝えられる。水戸藩が保護した熊沢天皇家、豊川市の三浦天皇家、長州が保護した大室天皇家である。いかさまなのか本当に末裔なのかは知るべくもない。三浦天皇家の末裔と称する三浦芳聖が明治の元勲田中公顕(土佐藩)から聞いた話として「実は明治天皇は孝明天皇の皇子ではない。明治天皇は後醍醐天皇の子満良親王の末裔で長州毛利氏が御守護申上げてきた・・・」と云うことを書物に記している。天皇のすり替えは実は室町時代にも起きている。足利義満が自分の子を貞成天皇にしたという。皇統は足利家に移ったのである。

長州征伐は孝明天皇の意思であり、勅命であった。ところが逆に本書の題名である「長州の天皇征伐」になってしまった。長州が孝明天皇親子を抹殺して首を挿げ替えたのである。勿論岩倉や三条などの公卿の手引きがなくては出来ない芸当であるが。

明治維新政府と国体

明治政府は長州が捏造した国家である。薩摩人脈を抹殺し、以降今日にいたる140年間は完全に長州の単独政権であった。この権力を合法化するため明治天皇を神にした「国家神道」という擬似一神教をでっちあげた。天皇が神といったことは明治前には一度もない。これはドイツの「立憲君主制」を借り物として、さらに強力な天皇の下に庶民の奴隷化を推進した日本独特の体制であった。これらの「日本近代化」を推進したのが、岩倉、三条、大久保利通(唯一の薩摩であるが早くに暗殺された)と木戸孝允、山県有朋、伊藤,井上らの長州勢力であった。西郷隆盛はこの明治政府のたくらみに負けて挑発されて自滅した。ともかく明治10年前後には明治維新の立役者はすべて死亡、暗殺され、残ったのは伊藤のみであった。これによって明治政府と「大日本帝国」の成立を見る。

明治18年から始まった内閣制では明治45年までの27年間に、なんと内閣総理大臣は長州閥の伊藤、山県、桂で20年間も独占した。明治維新の主力は「薩長土肥と公卿」と教科書には書いてあるが、明治17年岩倉具視が死去し太政官制が廃止されると、日本の国家中枢は圧倒的に長州の天下となった。明治17年までを3期に分けると、第1期は薩長は五部五部であった。第2期に西郷と大久保の薩摩勢力が分裂し、志と異なると察知した西郷は挑発されて西南の役で殺されて力を失う。第3期には大久保も暗殺され、薩摩の有力者は一掃された。長州の独走体制となった。大久保利通の暗殺事件も9.11事件と同じようにテロを誘導した明治政府とくに伊藤と川路利良の陰謀によるらしい。

明治時代末期に「南北朝論争」が爆発したが、明治天皇が明治44年3月に、南朝正統の勅裁を下した。こうして南朝正統論は国論となり、教育の現場で楠木正成が忠臣として高揚されるようになった。なぜ明治天皇が南朝の味方についたのだろう。もし明治天皇が孝明天皇の子息なら本人は北朝系統であるにもかかわらず、自分の系統を否定するのはどうしょうもない矛盾である。こうして大正・昭和20年までの30年余は狂信的南朝正統論「皇国史観」は忠臣愛国の宣伝手段として機能した。明治天皇は南朝系であったと理解すれば氷解する。それよりもなによりも、あの明治天皇の若い時の写真を見れば、あの野暮ったい顔つきはあきらかに天皇家の顔とは異質であり、南方系の血が濃厚に混じっていると直感できる。この陰謀に加担せざるを得なかったのが、睦仁親王の妃であった昭憲皇后の悲劇である。真実を曝露しようとすれば殺害は逃れられない。黙認せざるを得ないのだが、一條寿栄姫は公式の后として明治天王の后の役を全うされた。勿論明治天皇とは夫婦関係はなかった。天皇の子息は側室腹ばかりである。睦仁親王を産んだ生母中山慶子の実家中山大納言家も沈黙を守った。

ところがこの明治末の「皇国史観」の南朝正統論は、明治政府の史観と矛盾している。1392年10月南朝の御亀山天皇が、神器を北朝後小松天皇に返還し、これで以って南北朝は合体した。これ以降は京都の天皇が正式の天皇であるというのが明治政府の歴史観の公式見解である。南朝正統論は全くご都合主義の見解である。明治政府の云う国体は「軍人勅語」、「帝国憲法」、「教育勅語」で定まった。この三つの文書は山県、伊藤、井上の長州閥の作である。この国体は中国の歴史の原理である天命を受けた者だけが前の国を破って新しい国を造るという「易姓革命説」とも異なり、君権絶対主義イデオロギーである馬融の「忠経」を採用した。「君、君たらずとも、臣、臣たらざるべからず。死んで諌めよ」と云う天皇絶対主義である。「日本に革命はあってはならない。日本は万世一系の天皇が支配する神の国である」という国体は一切の反論を武力で封じ込めるもので、その影で長州の権力者がやりたいようにするのである。なにせ明治天皇は自分達が祭り上げた「馬の骨」であるからだ。「無辜の民」という美名に隠れた国民奴隷制である。このような思想は太古の昔からに日本にはなかった。軍人勅語では日本の軍隊を天皇の軍隊とした。中国でも皇帝が「大元帥」を称したことはない。「上官の命令は天皇の命令とおもえ」というのも絶対服従を要求する非合理な組織原則である。公侯伯子男という貴族制度も本来日本にはない取ってつけたような華族制度である。これら天皇独裁中央集権国家(見かけ、法制上の)はドイツのグナイストから学んだ伊藤の作である。「明治天皇は長州天皇である」

明治維新以来日本を支配した「近代化」と「ユダヤ金融寡占資本体イルミナティ・サタニスト」

明治維新は英仏の代理戦争とか、イギリスのユダヤ金融資本がロシアに対する番犬化のために維新革命を起こしたといわれる。「イルミナティ・サタニスト」についてはベンジャミン・フルフォード著 「世界と日本の絶対支配者ルシフェリアン」をみていただきたい。明治維新が日本の近代化に果たした役割に疑問を挟む人はいないと思うが、その結果が太平洋戦争で、米軍の原爆投下であり占領であったとするならば、多少反省の余地はあると思う。猪突猛進で不平等条約改正のため近代化と富国強兵政策を進め明治政府のやり方は、はなはだ歪の多い手法であった。それも列強諸国の植民地化を避けるためと云う言い訳があるが、日本はついに民主主義とは無縁であったことは残念でならない。それも市民階級の発展がなかったことで、全て上からの指導育成策での近代化のためである。出来上がったのは中央集権官僚制と軍国主義であった。戦後60年以上たってもまだ基本的にはその伝統を引きずっているのだ。天皇制の残影もまだ残っている。

著者のオカルト趣味と陰謀論は脇において、では著者は何を持って日本をよしとするのかというと実にばかげたことを言っている。まるで復古主義者か、右翼もびっくりするような伝統主義者でやはりご都合主義の西欧化反対論に過ぎないようだ。「縄文神道」というアニミズム崇拝が日本の国体であるといってみたり、幕末の頑迷な攘夷論者を愛国者と賛美したり、海軍参謀高嶋辰彦の「日本百年戦争論」を聖典といったり、大東亜宣言を重要文献に加えたり、右翼以上の過激な主張はもはや正常な論をなしていない。旧左翼は挫折すると右翼になると云う格言は当っているようだ。明治政府を詐欺政府と非難している著者から、攘夷や大東亜戦争肯定論を聞かされるとは支離滅裂の至りである。ただ西郷隆盛は明治政府から離脱したいきさつについては興味があるので調べてみようと思う。


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