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[26342] 鬼姫戦国行(戦国時代・伝奇・憑依・TS要素あり)
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:364f7003
Date: 2011/03/06 23:43
 
 
 序章 「羽柴の鬼姫」
 
 
 たったひとつの訃報が、時を凍てつかせた。
 織田信長の死は、それほどの衝撃を、戦国に生きる者すべてに与えた。
 天下人が死んだ。あろうことか後継者までもが直後に死んでいる。天下が宙に浮いたのだ。それをめぐって激しい争いが起こることは明らかだった。

 天下大乱の時が来る。
 狂熱の予感が凍てついた時を溶かし、にわかに混乱が広がった。
 その中で誰よりも早く動いたのは、信長を死に追いやった張本人だった。

 明智光秀。今は惟任日向守を名乗っている。
 織田家の有力武将として畿内方面軍を統率していたこの老将は、混乱の巷であった京都を治めると、与力諸将に懐柔の手を伸ばし、さらには天下人信長の象徴であった安土城を占拠している。

 ここまでわずか数日。電光石火の所業だ。
 光秀は宙に浮いた天下を掴まんとしていた。


 ――かの人は、天下人に成る。


 そう確信する者も多い。
 京極高次もその一人だ。
 この、二十歳になったばかりの若き武将は、夕闇に沈む近江長浜城への道を、手勢を率いてひた走りながら、その思いを深めていた。

 長浜城の主は羽柴秀吉だ。
 光秀と同じく、織田家の一方面軍を率いる有力武将である。
 中国方面で毛利と対峙している秀吉の留守を突いて占拠する。まさに天下取りの一翼を担う働きだ。


「おおっ!!」


 感極まり、高次は思わず吼えた。

 京極氏は、元をたどれば北近江守護の家柄だ。
 それが浅井氏の下剋上を受け、国守の座から転がり落ちた。
 高次自身は、信長の庇護下で近江奥島五千石を領する身でしかなかった。
 若い高次には、それが我慢できない。だからこそ、謀反を起こした光秀に、素早く従ったのだ。


 ――天下人となられた惟任どの(光秀)の令下で、導誉公ほどの威勢を示してみせようぞ!


 バサラ大名として名を馳せた先祖に己をなぞらえて、高次は意気を高ぶらせていた。

 そんな彼の瞳に、ちかと朱の光が映った。
 長浜城のある方角だ。すわ火事かと肝を冷やした高次だが、違った。
 かがり火だ。無数のかがり火が、城を朱に照らしているのだ。城下まで馬を進めた高次はようやくそれに気づいた。


 ――敵襲に備えてか?


“本能寺”より数日経つ。
 光秀謀反、信長死亡の報は、長浜城にもすでに伝わっているに違いない。
 おそらく夜襲に対する備えだろうと見当をつけながら、高次は構わず馬を進めた。


「羽柴筑前は遠征中である。どれほど備えようと、城を守るは寡兵よ」


 声に出したのは、将兵の不安を払うためだ。
 正しい推測だった。兵を寄せてみれば、大手門付近には人の影もない。


 ――やはり兵が足りぬのだ。それゆえ他を捨て、本丸のみを守るつもりであろう。


 無人の大手門をくぐりながら高次は確信した。
 だが、高次の余裕も、本丸にたどり着くまでだった。

 城の中は、かがり火で明々と照らされている。
 長浜城は水城である。二重の外堀と内堀に囲まれ、琵琶湖の湖面に浮かんだ格好だ。
 吸い込まれそうな夜空の下、炎の照り返しは城ばかりか湖面までをも朱に染めている。

 そんな闇と朱の世界に、たったひとつ、人の姿があった。
 開け放たれた本丸門の下である。両脇に据えられたかがり火が、その孤影をはっきりと映していた。

 少女である。
 女と呼ぶにはまだ幼さの残る顔立ち。
 身に纏う打掛はまばゆいまでの白だが、肌はそれ以上に白い。
 艶づやとした髪は黒く長く、唇は血を塗りつけたように赤かった。
 手には薙刀。こちらを見返す瞳が、かがり火の朱い光を反射して、獣のように輝いている。

 知っている。高次は彼女を知っている。
 気圧され、飲んだ息を押しのけるように、高次はつぶやく。


「羽柴の、鬼姫」

「――羽柴の鬼姫」


 少女の名乗りが、高次の言葉に重なる。


「主不在の長浜を侵す狼藉者に……懲罰仕る!」


 厳然と。閻魔が罰を下すように。
 少女は朱の光照り返す白刃を、足元に叩きつけた。


 
 
 第一話 「羽柴の娘」
 
 


 ――景子さま。


 地の底からささやくような声を、ねねは聞いた。
 長浜城への帰路でのことだ。寒い日だった。日中から雪がちらついており、葦の茂る湖岸には、うっすらと雪化粧が施されている。そこに折り重なった死体の山から、声は聞こえてきた。

 賊に遭ったのだろう。殺されたうえ、身に纏うものすべて剥ぎ取られた死体は、みな間違いなく三途の川を渡っている。生き残りの存在を信じるには、亡骸たちの姿は凄惨すぎた。


 ――死者の声かしら。


 ねねは心中つぶやいた。

 当世珍しくない。
 無念を抱えて死ぬものなど、戦国の世にはいくらでもいる。
 その数だけ死霊が漂っているのだ。死者の声など、さして驚く類のものではない。

 とはいえ、捨て置きにもできなかった。
 なんといってもねねはこの一帯の領主、羽柴秀吉の妻なのだ。秀吉不在中は城代を務める身として、目にした以上は処置する必要がある。
 死者の供養の手配を近衆の幾人か指示してから、ねね自身は城への帰路を急いだ。街道を荒らす賊の捜索及び討伐の段取りを相談するためだ。

 その先で、彼女は一人の少女を見つけた。

 最初、ねねはそれを死体だと思った。
 さっきのいまである。湖岸に寄せられた小舟の中で、倒れ伏して動かない少女の姿を見れば、そう思いもする。

 場所も近い。死者となった者たちとともに賊に襲われたに違いなかった。
 小舟の中に隠れてかろうじて助かったものの、この寒空である。そのまま凍死したのだろう。

 小袖姿の少女は、数え十三、四歳ほどか。
 髪は黒く艶のある見事なものだ。幼さの残る顔立ちには、どこか貴風がある。


 ――この娘が、景子さまかね。


 検めさせると、呼吸があった。
 生きている。それがわかると、ねねの心に憐憫の情が湧いた。
 民草ではない。並みの武家でもない。いずれ尊貴な家の娘に違いない。
 そんな少女が、明日よりは天涯孤独の身とは、世の習いとはいえ哀れを誘わずにはいられない。


「この娘を、駕籠に入れて頂戴」


 ねねは少女の冷えた体を抱いて温めながら城に戻った。
 氷の塊のようだった少女の体に少しずつ生気が戻って来るのを間近に見ながら、ねねは少女に愛情を感じ始めている自分に気づいた。

 結婚して十二年。夫、秀吉との間に子はなく、常に身辺に寂しさを覚えていた。その空虚に、少女はするりと滑り込んだのだ。

 この日から二日後、少女は目を覚ます。
 災いの衝撃でか、記憶定かならぬ少女を、ねねは養子として引き取った。

 少女の名は景子という。
 羽柴の鬼姫とは、まだ呼ばれていない。
 
 



 
 


 少女は己の名を覚えていない。
 景子と呼ばれてはいるが、これは後からつけられたものだ。


「あるいは、この体の持ち主の、本当の名前なんでしょうか」


 妙な言い方をするのには、わけがある。
 少女としての記憶を完全に喪失した彼女には、名を忘れた、もうひとりの人間記憶があるのだ。

 このことは、養母であるねねにも教えていない。
 言っても理解されないに違いない。四百年以上未来の男子大学生の記憶があるなんて、景子自身、正気を疑ってしまう。


「でも、事実なんですよね」


 と、景子は文机の上にため息を落とした。
 目下景子は御殿の奥に篭もりきりで武家としての作法教養を勉強中である。
 羽柴家は新興とはいえ武家である。しかも大名格だ。武家の作法どころかこの時代の一般常識すら知らないでは、胸を張って娘ですなどとは言えない。

 なによりも、自分を娘にしてくれたねねが面目を失うような事態は、絶対に避けなくてはならない。


「母上のためにも、頑張らなくては」


 景子にとってねねは大恩人だ。
 野垂れ死に寸前の自分を拾ってくれた、だけではない。
 目が覚めたら城の中で、わけがわからず途方に暮れていた景子に、彼女は「家族にならないか」とやさしく声をかけてくれた。


「母上――母さん、か……ふふ」


 つぶやいてみて、景子は頬を緩ませた。
 景子は施設の出だ。肉親に必要とされず、捨てられた過去がある。
 それだけに家族というものにあこがれていたし、それ以上に愛情に飢えていた。
 だからねねの好意に、景子は涙が出るほど感動し、また彼女のためにどんな労も厭わない気持ちになっている。

 元の時代に未練はないと言えばうそになる。
 友人たちと会えなくなって、それでも平気かと問われれば、首を横に振るしかない。

 だけど、ここには家族がある。
 それだけで、彼女はけっこう幸せだった。


「でも」


 景子はあらためて思う。
 名前も忘れてしまった“自分”が生きていたのは、はるか四百年以上の未来だ。


「それが、気がついたら戦国時代で、そのうえ豊臣秀吉の娘になるなんて」


 景子はいまだ実感が湧かない。
 長浜城で目を覚ますまで、思いもよらなかったことだ。
 いや、ねねと対面して自己紹介された時も、景子は自分が戦国時代にいると気づかなかった。

 彼女の口から羽柴秀吉の名が出てはじめて、もしや“ねね”とはあの“ねね”か。ならひょっとしてここは戦国時代なのかと思い至ったのだ。あまりの環境の変化に、自分が少女になっていたという驚きすら、吹っ飛んでしまったほどだ。


「しかし、こんなことなら日本史をもっと突っ込んで勉強しておくべきでしたか」


 景子はため息をついた。
 彼女が知っているのは、高校の授業で習う程度の歴史に、歴史ゲーム好きの友人が語っていた断片的なエピソードぐらいのものだ。それもかなりあやふやである。


「今は、天正二年……もうじき三年ですか」


 それが西暦に換算して何年になるのかも、景子は知らない。
 ただ何年か後には本能寺の変が起こるのだろうし、その後秀吉は天下人になるのだろう。


「天下人、豊臣秀吉か……一体どんな人なんでしょう」


 天井に目を向けながら、景子は想いを馳せる。
 秀吉は現在他行中である。帰ったら会えるのを楽しみにしているという手紙が、先に届いている。
 
 



 
 


 豊臣秀吉。
 天正二年当時は羽柴秀吉を名乗っている。
 元の名を木下藤吉郎といい、卑賎な身分から出世に出世を重ね、ついに天下を取った空前絶後の人物だ。

 そんな偉人の養子に、景子はなってしまった。
 まだ直接会っていないが、手紙ではいち早く歓迎の言葉を送ってくれている。
 その秀吉が城に帰って来ると知らせを受け、そわそわしながら、景子はねねに身だしなみを整えてもらっていた。

 少女の体でいるのは慣れた。
 というより、名前を忘れてしまったせいだろう。どうも未来の記憶を持つ大学生だという実感が薄れている。
 だからそのぶん今現在の、少女としての自分を容易に受け入れられたのではないか。景子はそう自己分析している。


 ――まあ、嫁入りとか男女のあれこれは、まだまだ勘弁ですけど。


 それはまだ先の話だろうと思っている。
 この時代、彼女くらいの年齢であればすでに適齢期だという事実を、景子はまだよくわかっていない。


「やあ、どこへ出しても恥ずかしくないお姫さんができたよ」


 ねねのこんな台詞を、景子はただの褒め言葉だと思っているのだから、平和なものだ。

 そんな風にして待っていると、ほどなくして秀吉帰城の知らせがあった。
 直後に、なんと秀吉本人がひょっこりと姿を現した。報告した人について来たかと思うような早さだ。
 そこまではしていないとしても、城に帰るやまっすぐに来たのだろう。秀吉の格好は旅塵にまみれ、薄汚れている。


「せめてもうちょっときれいに身を整えてからにしておくれよ」

「まあまあ、ええとしといてくれや――おお、めんこいのが居るのう」


 渋い顔で咎めるねねの言葉もどこ吹く風だ。
 秀吉に無遠慮な視線を向けられ、景子ははにかみながら頭を下げた。

 秀吉は四十前に見える。
 戦場焼けの肌は赤黒く、しかしなめし皮のような艶がある。
 頭髪は擦り切れたように薄くなっており、髭もまた、薄い。シワが笑顔の形に刻まれており、瞳には生気があふれている。


 ――この人が、天下人。


 そう思えば、自然と肩がふるえる。
 無理もない。はるか四百年の後にも、知らぬ者のない名なのだ。


「おまえさんがワシの子か?」


 笑いかけられ、景子はあわてて一礼した。
 頭を下げたところで、やっと自分を歓迎してくれているんだと気づく。
 じわりと広がってきた喜びに、肩を震わせる。そんな景子の肩に、ぽんと手が置かれた。秀吉の手だ。大きくて、温かい。


「秀吉じゃ。おまえの父様ととさまじゃ。よろしくのう」


 やさしい声だった。
 温もりが、心に沁みた。


「ととさま」


 景子は口に出してつぶやいた。
 孤児だった景子にとって、生まれてこのかた口にしたこともない言葉だ。


「おう。ととさまじゃ。遠慮のう呼んでくれい」


 秀吉は笑っている。
 ねねもつられてか、笑顔だった。
 だが一瞬のち、その顔が夜叉にかわる。
 秀吉が景子に「いっしょに風呂に入らんか」などと言い出したためだ。

 他意はなかったのかもしれないが、この場合言った人間に問題がある。
 秀吉の好色ぶりは、四百年も後の、しかも歴史に詳しくない景子ですら知っている。

 ほうほうの体で逃げ回る未来の天下人と、それを追う夫人の姿を、ぽかんと見ながら、景子は次第に笑みがこぼれてくるのがわかった。


 ――私はこの時代で生きる。


 笑いながら、景子は心に決めた。
 生きて、この素敵なふたりに娘と呼ばれたいと、掛け値なしに思ってしまった。
 さよなら、と、未来の知友に別れを告げて、景子は追いかけっこをするふたりに抱きついた。


「――羽柴の娘に、私はなる」







[26342] 鬼姫戦国行02 「虎之助」
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:364f7003
Date: 2011/03/07 00:13
 
 
 第二話 「虎之助」
 
 
 年があらたまり、天正三年。
 正月も三日を過ぎて、長浜城の主、羽柴秀吉はようやく帰城した。
 主君信長のもとへ新年のあいさつに出向いていたのだ。秀吉の帰還を待ちかねたように、にわかに人が集まった。城内には秀吉直属の配下や与力衆などが集まり、新年の宴が開かれた。

 祭り騒ぎを遠くに聞きながら、景子は自室でのんびりと餅を食べていた。
 宴のせいで女中連中は軒並み駆り出されている。景子は手あぶり用の小さな火鉢を抱えてきて真っ赤にいこった炭を落とし、その上に金網を張って手ずから餅を焼いていた。

 味付けは、味噌。
 焼き餅には醤油と決めつけていた景子だが、これはこれでなかなかいける。
 宴の喧騒を肴に、景子はゆっくりと食事を楽しんだ。餅と一緒に酒も分けてもらったのだが、一口つけて始末をあきらめた。さして強くもない濁り酒だが、それでも景子は体に受け付けなかった。


「しかし、一人でのんびりできるというのも、いいものです」


 景子はしみじみとつぶやいた。
 秀吉夫妻に正式に養子として迎えられ、親族たちへの面通しも無事終えて、いろいろな人と顔を合わすようになった。

 初対面の者には、奇異の目で見られることが多い。
 当然だろう。素性も知れぬような少女が、いきなり羽柴秀吉の娘になったのだ。興味を抱かれるのも無理はない。

 本来ならばそこに羨望や嫉妬が混じるはずだが、景子の場合、容姿が幸いした。
 どこか貴げな目鼻立ち。長く艶のある髪。肌などはちょっと見ないほどに白い。どう見ても庶民ではない。
 はったりのきく容姿のせいで、景子は冷たい感情の風に晒されることなく迎えられたのだが、そのあたり本人は分かっていない。


「みんないい人たちでよかったです」


 くらいに考えているだけだ。
 とはいえ、やはりそれなりに気疲れはする。
 ゆっくりくつろげる時間を、景子は満喫していた。

 そんなときである。景子はふと視線を感じた。
 こちらをじっと観察するような、そんな視線だ。しばらく無視していた景子だが、見られている感覚はずっと続いている。


「そこに居るのは誰です?」


 意を決して、景子は視線の主に声をかけた。

 廊下側のふすまの向こうで、息をのむ気配がした。
 だが、それだけだった。しばらく待っても、相手が返事をする様子はない。


「見ての通り私ひとりです。いらぬ気遣いは必要ありません」


 重ねて言葉をかける。
 ややあって、襖がゆっくりと開いた。
 その向こうにあったのは、ばつの悪そうな顔をした少年の姿だった。

 目元のくっきりとした、やんちゃそうな男の子だ。
 年のころは、数えで十五歳ほどか。景子より少し年上に見える。


「あなたは誰?」

「……虎之助」


 少年が頭を掻きながら答えた。
 景子はその名に何の引っ掛かりも覚えない。
 彼女がもう少し歴史に詳しければ、それが加藤清正の通名だとわかっただろう。

 加藤清正。

 秀吉子飼いの中でも、もっとも有名な武将の一人だ。
 賤ヶ岳の戦いにて功名をあげ、いわゆる“七本槍”の筆頭とされた人物である。
 後に肥後熊本五十四万石を領する大大名の、若かりし頃の姿が、ここにある――のだが、景子はさっぱり気づいていない。


「なぜ、私を見ていたんです?」


 景子が尋ねると、少年の口元が不機嫌に歪んだ。


「おまえ」

「景子」

「……おまえ、おねねさまの子供になった娘じゃろ?」


 呼び名を改める様子もない。
 おまえが気に入らない、と、顔中くまなく書いてあった。


「そうですが、あなたは?」

「藤吉郎さまの小姓じゃ」


 それが何よりの誇りだとでも言うように、少年が胸を張る。かわいいものだ。
 こぼれだしてくる微笑を面に出さないよう気をつけながら、景子は虎之助に疑問を投げかける。


「その、小姓の方が、なぜ私を見ていたんですか?」

「――っ。おまえが、おねねさまを誑かす悪い奴じゃないか、見張ってたんじゃ!」


 息をのみこみ、しばし煩悶するように眉根を寄せ、それから虎之助は顔を紅潮させて叫んだ。


 ――ははあ、これは。


 虎之助の様子に、景子はぴんときた。


「母上――おねねさまを盗られたみたいで気に食わなかったんですね?」


 景子の言葉に虎之助の肩がぴくりと震えた。図星のようだった。


「……おまえ、生意気だな」


 さんざ眉をひねくってから、不承不承という風情で、少年は降伏するように言葉を吐いた。
 ひねているが、癇癪を抑えるだけの理性はあるらしい。若いとはいえ小姓として大人の社会にまぎれている。それだけに、景子の知るおなじ年頃の子供より、よほど理性的だった。


「――けーいこぉ。げんきにしてるかぁーい?」


 唐突に、頓狂な声が響き渡った。
 虎之助がまずい、という顔をした。
 豪快に襖を開け、敷居をまたいで入ってきたのは、ねねだった。
 千鳥足である。しかも顔がほんのりと赤い。酒が入っているのだ。


「母上」

「やー、けいこぉ。あそびにきたよぉ」


 言いながら、ねねは景子にしなだれかかってきた。
 相当酔っているのだろう。声の抑制がまるで効いていない。

 これほど酔った彼女を、景子は見たことがない。
 普段は城代として采配を振るわねばならぬ手前、控えねばならぬところだが、今は秀吉が居る。それで安心して度を越しているのかもしれない。


「ありゃ、虎之助。見ないと思ったら、こんなところに来てたのかい」

「おねねさま!」


 少年が顔を真っ赤にして返答した。
 鉄棒が通ったように、背筋をまっすぐに不動の体勢。景子に対する生意気な態度とはまるで違う。


「もう顔を合わせてるんだね。ちょうどいい。この子が私の娘になった景子だよ――景子。こっちがうちの人の親類筋で、小さいころからうちで預かってる虎之助だよ。でかいけど、十三歳になったところかな。いまはうちの人の小姓をやってる」

「よろしくおねがいしますね」

「よ、よろしく」


 ふたりとも首っ玉抱えられて、至近距離であいさつさせられた。

 ねねの豊満な胸に挟まれながら、景子は納得した。
 虎之助は幼いころからねねに養育されたのだ。彼女のことを母に等しく慕っており、だから景子への嫉妬もひとしおなのだろう。


「それにしても景子、体冷たいねー。肌も白いし。雪肌って奴かねー。ああ、ほてりが覚めるー」


 ねねはそう言って頬をこすりつけてくる。
 めちゃくちゃである。虎之助のほうも、ねねの腕と胸に顔を挟まれて、赤くなったり青くなったりしている。


 ――なんだか、弟ができたみたいな。


 苦笑しながら、景子はそう思った。
 
 



 
 


 ねねのおかげもあって打ち解けることができたのか、景子と虎之助は、顔を見れば話すようになった。

 景子は虎之助の話が好きである。
 虎之助が世間話のつもりで語る近年の情勢などが、景子からすれば歴史の話になる。それが景子にとってはひどく新鮮だった。


「あいつが聞けば、のた打ち回って喜ぶんでしょうね」


 歴史ゲーム好きだった友人を思い出しながら、景子はくすりと笑う。
 そのたびに、なぜか虎之助はひときわ声を大きくして、とっておきの話をしだすのだ。


 そんなある日のこと。
 いい日和に誘われて御殿の縁側に出た景子は、庭の隅に立って手槍を構え、じっと動かない虎之助の姿を見つけた。


「虎之助」

「……おまえか」


 声をかけると、少年は脱力したように振り返った。
 その向こうにはふた抱えほどありそうな大きな庭石が転がっている。
 興味をかられた景子は、履物を履いて来て虎之助のところへ行ってみた。


「何をしていたんです? 岩に向かって槍なんか構えて」

「槍の稽古じゃ」

「稽古?」

「ああ。槍を岩に突き刺す」

「そんなことできるんですか?」

「半兵衛さまに聞いた話じゃがな」


 半兵衛と言うのは、竹中半兵衛重治のことである。
 今孔明の名も高い、知略に長けた将だ。現在は与力として秀吉のもとに居る。参謀として秀吉軍に欠かせぬ存在である。


「矢を射て岩に突きたてた大将が、からに居ったらしい。なら槍でも出来んことはないじゃろ」

「岩に、矢を?」

「ああ。虎と間違えて射ったら岩で、それでも刺さったって話じゃ」

「へえ」


 ちょっと感心しながら、景子は虎之助が手槍を向けていた岩のほうに目をやった。
 言われてみればこの岩、虎が這いつくばって獲物を狙っているような形をしている。半兵衛の話に触発されて、わざわざ虎に似たものを選んだのだろう。

 虎之助の仕業だろうか。何箇所か針で突いたような傷があった。
 硬い岩に突きたてたのだ。手槍のほうも無事ではないだろう。刃がつぶれるくらいはしているに違いない。


 ――父上に怒られなきゃいいんですけど。


 庭石はともかく、戦道具を戦以外のところで駄目にするような、いわば武士として不見識なまねに対して、秀吉は厳しい。
 この事を知られれば、虎之助はこっぴどく叱られるに違いない。半べそになっている虎之助の姿が、景子には目に浮かぶようだった。


 ――いっしょに怒られてやりますか。


 景子はふとそう考えた。
 彼女にとって虎之助はかわいい弟分である。庇ってやりたくなったのだ。


「虎之助、槍を貸してください」


 景子は虎之助の前に手を出した。
 一緒になってやったことにしようというのだ。
 普通に庇えばいいのに、こんなことを求めたのは、何のことはない。景子も試してみたかったからだ。こういった少年のような稚気は、少女の体になっても、なくなっていない。


「え、やだよ。なんでだよってああっ!? 先のところ、刃がつぶれとる!」

「……気づいてなかったんですか」


 肩を落とす虎之助からちゃっかり手槍を奪って、景子は庭石に向けて構えた。
 たいしたもので、穂先でつけられた傷は、親指の爪ほどの範囲に集まっている。


 ――ちょうどいい目印です。


 庭石の傷に狙いをつけた、その時。
 唐突に、音が消えた。


 ――何?


 戸惑う間に、景色が消えた。
 何も見えない。痛いほどの耳鳴り。その中で、景子は遠くに水音を聞いた。


 ――川の流れる音? でも。


 景子は身を震わせた。
 何故だか知らないが、景子には、あの水音がとても善くないものに聞こえた。


「――ケタ」


 ふいに、ぞっとするような声が聞こえた。
 はるか遠くにありながら、同時に耳の奥でささやかれたような、異様な感覚。

 抗うように。景子は槍を遮二無二突き出した。
 ばしゃん、と、桶の中の水をぶちまけるような音がして、唐突に景色が戻ってきた。


「おまえ……」


 虎之助が庭石を見て絶句している。

 槍が、その穂先を完全に庭石に埋めていた。
 傷口からは無数の亀裂が放射状に広がっている。
 そして庭石は、この陽気に水をかぶったとしか思えないほどに――濡れていた。

 景子の顔は、青ざめていた。
 庭石を壊してしまったからではない。声を聞いてしまったからだ。
 あの、川音しかない無の世界で、はっきりと景子に向けられて、声はこうささやいたのだ。


 ――ミツケタ。


 
 

 
 


 この翌日、ねねは近衆の一人から報告を受けた。
 景子を拾った日、賊に襲われた死体の供養の手配をした、あの近衆からだ。
 供養を依頼した寺の住職から、こんな連絡があったのだという。


「件の仏(死体)、報せよりひとかた足りず」


 鳥獣の餌となったか、あるいはそれに近しいものの仕業か。
 いずれにせよ当世、珍しいことではない。







[26342] 鬼姫戦国行03 「鬼と悪霊」
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:364f7003
Date: 2011/03/08 23:32
 
 
 第三話 「鬼と悪霊」
 
 
 ひたり、と。水に濡れたような足音を、景子は聞いた。
 茫漠たる闇の中、風に寄せられ、さざ波を立てる琵琶湖の水音を聞きながら。
 はるか遠くで発したはずの足音は、ほかのどんな音よりも間近に、景子の耳朶をくすぐった。

 ひたひたと。ひたひたと。
 迷わず、まっすぐ、はっきりそれとわかる速さで、足音が近づいてくる。
 景子にはなぜかそれが、自分を求めているのだとわかる。それが、とても善くないものだということも、彼女にはわかる。

 わかりながら、景子にはどうしようもない。
 ただ確実に近づいてくる足音を、成す術もなく聞いているしかない。


 そして――


「――夢、ですか」


 蒲団の上で、景子は目を覚ました。
 冬だというのにぐっしょりと汗をかいており、肌着が重く湿っている。

 ただの夢ではない。
 昨日、岩を割った時に聞いた声に関係しているだろうことは、景子にも察しがついた。

 悪霊。怨霊。魑魅魍魎。
 そういった類の存在を、現代人としての景子は否定している。
 だが、そもそもの起こりである昨日の異常は、景子の知識ではとても説明できないのだ。

 放っておいていい問題ではない。
 理性ではなく景子の勘が、全力で警鐘を鳴らしていた。


「私事で父上の手を煩わせたくはありませんが……」


 言うべきか悩んだ末、景子はやはり秀吉に相談することに決めた。
 城に居る時も秀吉は多忙である。捕まえることができたのは日も暮れようかというころだった。

 槍を持ち、岩を割ろうとしたこと。
 不思議な空間を見たこと。声を聞いたこと。
 そして気づけば岩を割ってしまっていたこと。今朝見た夢のこと。
 事の起こりである、虎之助が槍を駄目にした事だけ伏せて、後は全部話した。

 景子が「話がある」というので、最初相好を崩していた秀吉も、話が進むにつれ、しだいに難しい顔になっていった。


「悪霊、かのう」


 最後まで話を聞いてから、秀吉は口をへの字に結んでつぶやいた。


彼岸あのよ此岸このよの狭間に居る亡者よ。おまえはそれに魅入られたらしい」


 以前の景子なら、笑って否定したかもしれない。
 だが、じっさい不思議を体験してしまった以上、笑い飛ばせるものではない。

 不意に秀吉が景子の頭に手を置いた。
 大きくて温かい、父親の手だ。景子は不安が急速にしぼんでいくのを感じた。


「ととさまに任せい。古来悪霊退治は武士の仕事と相場が決まっておる。わしの部下で我が騎下一の勇将をつけてやるから、おまえは安心しとりゃあええ」


 頼もしい言葉に、景子は目を細めてうなずいた。

 それから、景子はあらためて秀吉に呼ばれ、ひとりの男を紹介された。
 大柄で寡黙な、少壮の武者だった。顎のあたりにまだ新しい刀傷がくっきりと残っており、それが景子に戦の風を間近に感じさせた。


「それがし宮田喜八郎。羽柴の殿より姫君の護衛の命を仰せつかった」
 
 
 威のある野太い声だった。

 宮田喜八郎光次。
 いわゆる羽柴四天王の一角として武名高い武将である。
 むろん景子が彼の名など知っているはずもないが、喜八郎の居住まいは、彼女が知っているどんな人間よりも芯が据わっている。


「よろしくお願いいたします、宮田さま。頼もしく思っております」


 応、と、合戦のような声で返されて、景子は苦笑交じりに頭を下げた。
 
 



 
 


 その晩は、早々に部屋に閉じ込められた。
 城のどこかにあったのか、はたまた心得のある者がいたのか。部屋中にべたべたと札が張り付けられて、景子自身もねね愛用の数珠と経を持たされている。これを手渡しながら、ねねは宮田喜八郎にしつこいほど景子のことを頼んでいた。有りがたいが気恥かしくもある。

 その喜八郎はというと、景子の邪魔にならぬよう気遣ってか、部屋の隅で静かに座っている。
 だが鎧兜を身に纏い、弓を杖にして微動だにしないさまは、異常なまでに暑苦しい。しかも喜八郎、部屋に入ってからほとんど口を開いていない。

 気が詰まりそうになる。
 景子は気散じを兼ねて火鉢に金網を置き、手ずから餅を焼いて彼にふるまった。



「かたじけない」


 喜八郎はまったく姿勢を崩さず、むしゃむしゃと餅を食らう。


 ――ああっ、せっかく上手に焼けましたのに。


 景子は餅好きである。
 凝りに凝って焼いた餅が哀れに胃袋に投げ込まれるさまに、密かに涙した。

 皿の中の餅がすべて喜八郎の胃袋に収まったころ、ふいに廊下がきしむ音がした。


 ――悪霊。


 景子はすぐに連想した。
 足音は確実に景子の耳に響いている。
 一歩、一歩、確実に近づいてくるそれは、やがて部屋の前でぴたりと止まった。


 ――昔、こんな話を聞いたことがあります。


 既視感を覚え、景子は以前聞いた怪談を思い出す。
 悪霊に魅入られた男が、お札を張った部屋に籠もる話。
 お札のために部屋に入れない悪霊が、知り合いの声を使ったり、昼間だと欺いたり。あらゆる手段を使って男を騙そうとする、そんな話だ。


「何者か」


 喜八郎が誰何の声をあげた。
 常と変らぬ落ち着いた声である。安心感を覚え、景子は初めて彼の存在に感謝した。

 ふすまの向こうで、喜八郎の声に応えるように、身じろぎするような衣擦れの音があった。ややあって、幼い声が扉の向こうから聞こえてくる。


「……虎之助です。失礼いたします」


 一瞬いやな想像が景子の頭をよぎったが、それは裏切られた。
 ふすまがあっさりと開いた。部屋に入ってきた、間違いなく虎之助だった。


「虎之助。驚かさないでください。肝を冷やしました」

「いや、ちっとも怖がっとるようには見えん――と、喜八郎さま」


 虎之助は喜八郎を見てやおら居住まいを正し、頭を下げた。


「加藤虎之助。護衛の端に加えていただきたく、推参いたしました」


 喜八郎は不動、無言である。
 横で見ている景子のほうがはらはらしてしまう。
 虎之助が重ねて頭を下げた。


「喜八郎さま。どうか許していただきたく」

「許す」


 やはり微動だにせぬまま、この勇将は口元だけを動かした。


「話すのはどうも苦手でな。わしでは姫を落ちつかせられん」


 これまでの沈黙の正体を知って、景子は苦笑いを浮かべた。どっと疲れた気分だった。
 
 



 
 


 虎之助が加わったことで、すこし場が和んだ。
 景子は火鉢の上に金網を置き、はたはたと餅を育てている。
 香ばしい匂いが部屋にあふれ、育ち盛りの虎之助などは生唾を飲んでいる。


「どうぞ。虎之助」


 ぷっくりと脹れ、きれいな焦げ目がついた餅を進めると、虎之助は即座に齧り付いた。
 餅を伸ばしながらうまそうに食べる姿を見せられて、ふるまった景子も満足である。そのあと少年は味噌をつけたのを三つも平らげてしまった。


「美味かった」


 本当においしそうに言うものだから、景子も笑みがこぼれようというものだ。
 しかし、それからさらに餅を取り出し、金網に並べようとする景子に、虎之助がもさすがに辟易とした顔になった。


「もう満腹じゃぞ」

「これは私の分です」


 景子は涼しげな顔で言った。
 ずらりと並べられた餅は、喜八郎と虎之助が食べた量よりも多い。


「おまえ、餅が好きなのか」

「好き、では足りません。私は餅を愛しているのです――ずんだ以外」


 景子は迷わず言った。


「この世にこんなにおいしい食べ物はないと思っております――ずんだ以外。神に愛された食べ物ではないかとも思います――ずんだ以外」

「ずんだとは何じゃ?」

「悪魔の食べ物です」


 景子は断言した。


「いや、餅が天上の食物だという事実を鑑みれば、堕天使的な食べ物と言った方が正しいのかもしれません。初めて食べた時はその過剰な甘さにめまいがしました。断言します。あれを作った人は悪魔です。外道です。天魔です。私は第六天の魔王が居るとすれば、それはずんだの開発者だと確信しました。もし万一そいつとめぐり合うことがあれば、どんな手を使ってでも倒そうと心に決めたものです」

「そ、そうか」


 景子があまりに熱く語るので、虎之助も引き気味である。
 ちなみにずんだ餅を開発したのは、奥州の独眼竜、伊達正宗と言われているが、もちろん景子はその事実を知らない。

 ひとしきり吐き出して落ち着いたのか、景子はまた餅を丹念に育て出した。
 虎之助が景子に微妙な視線を送っているのだが、本人は気付いていない。

 そして夜半過ぎ。景子は水音を聞いた。
 
 



 
 


 悪霊か。
 即座に動いたのは喜八郎だった。
 すっくと立ち上がると空弓を構え、びぃん、びぃんと弦を鳴らした。
 邪気を払うまじないである。それを知らない景子の耳にも、鳴弦の音は頼もしく響いた。

 だが、水音は止まない。
 ひたり、ひたりと、近づいてくる。
 灯明の火が揺れた。ほの暗い部屋の中で、三人の影が躍る。

 喜八郎が矢をつがえ、きりきりと引き絞った。
 水音は近づいてくる。がたりと、ふすまが音をたてた。
 一瞬の間。直後、ふすまが暴れ出した。桟がきしみをあげる。

 心臓を締め付けられるような思いで、景子は数珠を握りしめた。
 喜八郎はすっと景子の前に立ち、不動。ふすまの奥にぴたりと狙いを定め、瞬き一つしない。
 虎之助のほうも槍を構え、景子のわきを守るようにしているが、膝が震えている。


「虎之助」

「む、武者ぶるいじゃ!」


 と、突っ張って見せたが、虎之助はやはり緊張していたのだろう。
 だから。


「虎之助、虎之助かい? ここを開けておくれ」


 こんな、あまりにも不自然な声に、引っ掛かってしまったのだろう。


「お、おねねさま!」


 外の者が声をかけ、中の者が答える。
 これが“招く”行為に当たることを景子は知らない。
 だが、これにより引き起こされた事は、彼女の眼にも明らかだった。

 すっと、音もなく、ふすまが開く。
 その向こうにあった代物を目の当たりにして、景子は凍りついた。

 女だった。
 ねねとは似ても似つかない。死色も明らかなやせぎすの、一糸纏わぬ姿の女だ。
 全身ずぶ濡れに濡れており、肩口から胸まで袈裟がけに斬り下ろされた刀傷が、赤黒い傷口をこちらに向けている。
 眼窩は虚ろであり、その奥におき火のような光があった。


「ミツケタ」


 女は、にたりと、赤い赤い唇を弓なりにしならせた。


 ――怖い。


 景子は数珠をぎゅっと握りしめた。
 死体を見るのは初めてだった。それが動くのもむろん、初めてだ。
 景子には目の前の存在が何ひとつ理解できない。それでも女は動く。その虚ろな視線はまっすぐに景子を射ぬいている。

 死霊。悪霊。
 その存在を、景子は初めて理解した。


「亡者めが!」


 裂ぱくの気合とともに喜八郎が弓を射た。
 それを額に受け、どす黒い脳漿のごときものを撒き散らしながら、死霊は狂笑を浮かべて景子に向かって突進してくる。


「させぬ!」

「景子!」


 喜八郎と虎之助が体をぶつけるようにして割って入り――そのまますり抜けてつんのめった。

 実体がないのだ。
 景子はとっさに反応できない。
 ひやりと冷えた手が、景子の肩に触れた。
 瞬間。


「景子さま」


 女が、声をあげた。


「やっとお見つけいたしました」


 その声が、あまりにもやさしげで、景子は死霊に斬りかかろうとするふたりを手で制した。


「あなたは……私を知っているのですか」


 激しい動悸に息切れしながら、景子はかろうじて声を出す。
 景子さま、と、女は言った。本人すら由来が定かでない名を、この亡者は知っている。


「ええ。もちろんですとも。我々が、われわれがお仕えする御方ですもの」


 女の声がぶれる。
 男のような声であり、女のような声であり、年かさもあればごく若い声も混じっている。体は一つでも、中身はそうではないのだ。


「ずっとお待ちしておりました。冷たい、冷たい地面の下で。景子さまをお待ちしておりました。ですのに、景子さまはちっともちっともいらっしゃらない。こんなにもお待ち申し上げているのに。こんなにもお待ち申し上げているのに。だからだからわたしはそれがしは……」

「――そう。私のために、あなたたちは死後も囚われてしまったのですね」


 景子は理解した。
 ねねに拾われる以前。記憶を失う前の景子に、この女たちは仕えていたのだ。
 哀れだった。ひとえに景子への忠心のために、彼女は、彼女たちはこの世を彷徨っていたのだ。

 景子はいたわるように、女に声をかける。


「今の私は羽柴の娘として、不足ない暮らしをしています。あなたたちはもう、休んでいいんです」


 ぴたりと、女が動きを止めた。


「もう、わたしは要らないと?」


 その言葉には危険な響きがある。
 だが景子はそれに気づかない。静かに首を左右させた。


「不要なのではありません。あなたはもう、あなたのために、目をつむってもいいんです」

「なれば――」


 静かに、女の手が景子の細い首にかかった。
 ばちん、と、数珠がはじけ飛んだ。


「あなたを地下にお送りして、死後も永遠に仕え続けることこそ、我らの望み」

「ま、って」


 声が出ない。
 巻きついた手が、万力の強さで景子の首を締め始める。
 粘性を帯びた空恐ろしい声で、亡者が景子にささやきかけた。


「我ら景子さまのお命が、欲しゅうございます」

「させぬ!」


 裂ぱくの気合声とともに、剣閃が稲光った。喜八郎だ。

 女の体から両の腕が切り離された。
 だが。腕だけになっても首を絞める力はまるで衰えない。
 なおも女を斬ろうと追う喜八郎から逃れるように、亡者は景子の後ろに回った。
 濡れた体を景子に圧しつけながら、亡者は愛おしげにささやく。


「さあ、景子さま。ともに、ともにあの冷たい地の底へ参りましょう。そこでずっとずっとお仕えいたします」


 ――ごめんなさい……できない……それは……絶対に!


 かすみを帯び始めた意識の中で、景子は強く思う。


 ――だって、私はもう、あなたたちの景子じゃない。未来の記憶を持つ、羽柴の娘なんですから!


 生への執着が巌となって感情の湖面を叩く。

 その時、景子は――また水音を聞いた。
 流れる川の音。力が、体の奥深くから流れてくる。ありったけの力で、景子はそれを亡者に投げつけた。

 水音。そして断末魔。
 鳥肌の立つような音をたて、擂り潰されるように、女の姿は掻き消えた。
 女の居た畳は黒く濁った水が溜まっている。それもほどなくして透明になり、消えた。
 喜八郎に切り離された両の腕が力なく地面に落ち、消えた。消える前に九字を切るようなしぐさをしたが、呼吸を求めて必死だった景子の眼には映らなかった。


「これは、鬼門か」


 喜八郎がつぶやくように言った。
 
 



 
 


 そのあと、景子は布団に寝かされた。
 水音はもうなかったが、喜八郎と虎之助は用心して警護を続けている。


「鬼門とは、何ですか」


 寝床から、景子は喜八郎に尋ねた。


「聞いておられたか」

「ええ」


 景子はうなずく。
 この晩、景子の身にはいろいろなことが起こりすぎたが、最後に聞いたこの言葉は、はっきりと心に残っている。

 しばらく言葉に迷う様子でいた喜八郎は、やがてぽつりとつぶやいた。


「鬼門とは、鬼の業」

「鬼の……鬼とは?」

「黄泉返り」


 喜八郎の返しは短い。
 だが、次々と質問して、景子はおおよそを理解した。

“鬼”とは、一度死んだ人間が蘇えったものだ。
 例外なく異常の力を得る。鬼門と呼ばれる力だ。景子が最後に使った“水”。あれこそが鬼門の力ではないか。


「おまえが、鬼? 柴田様や丹羽様とおなじ?」


 信じられないというように、虎之助がつぶやいた。
 柴田勝家と丹羽長秀。ともに織田家の家老であり、鬼柴田、鬼五郎左と称される猛将でもある。
 秀吉の下、武をもって身を立てることを望む虎之助にとって、二将はあこがれの存在だった。


「私が、鬼」


 景子はつぶやいた。
 驚きはない。もとより女の体になったこと自体が異常なのだ。
 そのうえ鬼だのなんだの言われても、実感がわかないというのが本当のところだ。

 景子が気にしたのは、それによって秀吉たちが迷惑を被らないかという、そのことだけだった。


「私が鬼では、父上や母上に迷惑がかかりますか?」

「否」


 喜八郎は首を横に振った、その時。


「――その通りじゃ」


 と、ふすまが開く。
 入ってきたのは秀吉だった。
 景子は驚いたが、あれだけの大立ち回りがあったのだ。おなじ御殿にあって気をかけていれば、気づかぬはずがない。
 静かになって様子を見に来たところで、会話を聞きつけたのだろう。秀吉に続いてねねまでもが入って来た。

 ふたりは喜八郎と虎之助をねぎらってから、景子の枕元に腰を据える。ねねが景子のほほを、やさしくなでた。


「馬鹿だねえ。景子がそんなこと、気にすることないんだよ」

「その通り。景子が鬼であろうが無かろうが、わしらにとっては大切な娘じゃぞ」


 秀吉が、あえてだろう、陽気に言った。


「おまえは羽柴の娘じゃ。いまはそれでええ。将来は、ははっ、わしがどっかええところを見つけちゃるさ。おまえが戦わんでもええ、平和なところをな」

「平和な、ところ」

「虎。おまえにゃやらんぞ」

「い、いらん! そんなつもりで言うたわけじゃないです!」


 ぼそりとつぶやいた虎之助は秀吉に目を眇められ、景子の方を見ながら真っ赤になって否定した。
 その様子に、笑顔になりながら。やはり疲れていたのだろう。景子は深い眠りについた。眠る間際に、また、川の音を聞いた。






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