空知大気の朝は普通だ。
何が普通かって起きる時間が普通だ。
7時ちょうどに彼は起きる。必ずその時間に起きる。
規則正しい生活は、規則正しい起床から始まるのだ。
「今日もいい天気だ」
う~んと言いながら限界まで背を伸ばす。
これがなかなかに気持ちよく、何度もしたくなるが、やるのは必ず一回だ。一回だけやることに意義がある。
カーテンと窓を開ける。
心地のよい冷たい風が部屋に入り込む。
大気はその風を受け少し目を覚ます。
その後、まだ少し寝ぼけた頭で一回にある洗面所に向かい、歯磨きと顔を洗う。
リビングに行くと、そこには朝食が並んでいて母親と二人でのお食事。
父親は今日は帰ってきてはいない。泊り込みで仕事のようだった。
大気は母親と二人で目を瞑り、心で会社でがんばっている父親にエールを送りいただきます。
今日の朝食は、スクランブルエッグだった。
それから幼稚園の制服に着替え、バスが来るのを待つ。
どうせ来ないだろうなと思いつつも待つ。
隣では母親がウォーミングアップを始めた。
7時15分、バスの迎えが来る時間であるが、未だ来ず。
まだだ、まだちょっと道が混んでるとか前の人で手こずってるとかあるかもしれない。隣で母親はストレッチを始めた。イチ、ニー、サン、シー。
さらに五分が経過する。
まだだ、まだ来る途中に事故に巻き込まれたとかいう稀にみる可能性が残ってる。隣で母はブラジル体操を始めた。イチ、ニー、サン、ニー、ニー、サン。
さらに五分が経過。
今日もバスは来なかったか、と大気は落胆する。隣では完璧にウォーミングアップが完了した母親が自転車を引いてやってきた。
「乗るかい?」
「お願いします」
大気は母親がこぐ自転車に乗りながら考える。
一年前に比べスピードが段違いだ、と。
母さん最近は自転車でのツーリングが趣味だって言ってたしなぁ。
新しいツーリング用の自転車も買ってたし。
今の母親には速さが足りないなんてことは全くなかった。
むしろ、今も成長真っ盛り。近い将来が楽しみである。
大気は未来の母親を想像した。
ずっとペダルをこぎ続けるによって鍛えられた下半身の筋力。
力強くハンドルを握るため鍛えられた握力と、それを長く持ち続けるために鍛えられた腕力。
後ろの重荷(大気)と自転車のバランスを取るために鍛えられた腹筋と背筋。
数年後、マッチョになった母親を想像する。
……ちょっと嫌な気分になった。
母親がマッチョにならないためにも、苦労をかけないためにも早く一人で自転車に乗れるようになることを密かに決意した大気だった。
それでも母親は自転車を無常にもこいでいく。こがなければ幼稚園に辿りつかない。
必死にこぐ母親は背でかなり微妙な母の将来像を想像していることなど夢にも思わず、ひたすらこぎ続ける。
自転車を全力でこげば幼稚園には30分程度で着く距離だが、その全力というのは時速30km程度のスピードである。
ママチャリではありえない速度ではないが、それをキープし続けること自体は非常に困難なことである。
まして、大気が乗っており重さやバランスともに高速度を保つには厳しい条件下だ。よって、幼稚園に辿り着くには45分以上の時間を用する。
一般的に考えればちょっとした遠出レベルの時間を使って幼稚園に行くわけだから、筋肉がつくのもうなずけるという話だった。
空知大気は母にそんな苦労をかけてまで、私立遠見第一幼稚園に通っていた。
この幼稚園は比較的裕福な家庭が行くような幼稚園である。
もちろん、この幼稚園に行けるからには空知家はそれなりに裕福であるということだ。
母親は専業主婦のため、収入源は全て父親である。
空知大気の父親は基本的に親馬鹿だった。
彼はバニングスグループの数ある会社の内の一つの社長であり、かなり多忙な人である。
家に帰る頻度は週に一・二回しかない時だってあるほど、忙しい身だった。
それだけに家族愛に飢えている、とでもいうべきなのだろうか。
忙しいため休みは不定期、祝日休日に休みが普通に重なるときもあるが、平気で平日に入る時もあった。
平日に入ってしまうと、折角の休日なのに大気と遊ぶことが出来なくなる。
父親はそれが悲しい。
どうしようもなく悲しいから……母親に黙って大気を連れ遊びに行ってしまった。
平日で幼稚園があるというのに、父親は家族の誰よりも早く起き、誰よりも素早く行動する。
母親が起きる前に大気を起こし、遊びにいくぞと一言。
反対するものは今、眠っている。チャンスだった。
大気は遊びにいくという言葉に反対するはずもなく、言われるがままに遊びに行った。
例えば動物園。
大気があれ見たい、これ見たいと言う前に、父親はあれがいいぞ、これがかっこいいぞと先導する。
例えば遊園地。
父親は迷わず二人乗りの出来るものを選び、乗った。
ゴーカートでは、大気を膝に載せ楽しんだ。父親が。
一番楽しんでいたのはもちろん父親だった。
父曰く「だって遊びたいんだもん」
初めの数回は優しく微笑み「子供か」と突っ込みながらも見逃していた母親だったが、それを懲りずに何度も行う父親を見て「いい加減にせい」と突っ込んだ。
しかし、父親は諦めきれずこっそり内緒で、止せばいいのに大気を連れ出して遊びに行った。
楽しく遊んで汗だくになったところを母親に見つかって、その汗がいつの間にか冷や汗と変わってしまうなんてこともあった。挙句に大気との添い寝禁止令を出されて密かにトイレで泣く父親の姿があったとかなかったとか。
こんな親馬鹿な父親のおかげで大気は良い幼稚園へと通っているのである。
母親が苦労しつつも、どこか満足気な顔をしながら幼稚園まで見送られ、幼稚園へと入る。
外で待つ先生に大気は自分から挨拶の声をかけると、先生はやや驚いた顔をしながらも心地良く挨拶を返してくれる。
その後教室に入ると、比較的すぐに出席の点呼が始まる。
当たり前だが五十音順に名前が呼ばれるため、大気は大体真ん中の方に呼ばれるはずなのだが、
「佐藤さん」
「はーい」
「園前君」
「はい」
「月村さん」
「あの……先生、また空知君が」
「あっちゃー、ごめん、また忘れてた。空知君」
「先生またー?」
「あははは、どうも私にとって空知君は死角のようだよー、ごめんね。んじゃ、もう一回、月村さん」
「はい」
このようなやりとりが毎朝起きていた。
大気はバスだけでなく、出席の時も忘れられがちのようだった。
ここまでくるとどうもたまたまとは思えないのだが、先生がわざと行っているようには思えないので、ある種この扱いにはもう慣れていた。
これでも前よりはいい方だったりする。
以前は、後の人も大気のことを気づかずそのまま出欠の確認が終わることがよくあったりもした。
今は、一回目は忘れられているとはいえ毎朝欠かさず名前が呼ばれるので、大気はちょっと嬉しかったりもしていた。
「月村さんいつもありがとうね」
「ううん。気にしなくていいよ。それに──」
大気が毎回名前が呼ばれる要因になっているのは、次に名前の呼ばれる月村すずかのおかげであった。
月村すずかは紫に輝く綺麗な長い髪を持ち、内気な性格からか非常にやんわりとした雰囲気を持つ、その年代の子からは少々飛び抜けた美を持つ少女だった。
その容姿からか、よく男子に悪戯の類のちょっかいをかけられるが、内気の性格のため嫌と言えずにいることがよくあった。
いい意味でも、悪い意味でもこの幼稚園で注目を浴びる存在だった。
そう、注目を浴びる存在だったのだ。
そのちょっかいをだされ注目されている光景を見つけた大気はすぐさま割り込んだ。
それは善意からではない。
「ねえねえ! なにやってるの!? 一緒に混ぜてよ!」
いつもみんなからも忘れられがちで、なかなかみんなに構ってもらえない少年の人一倍目立ちたいという欲望からの素直な行動だった。
「わっ! い、いきなり現れるなよ! ビックリしたじゃないか」
「ずっと側にいたけどね……」
「どうでもいいよ、ていうか大気は一人で砂場で遊んでろよー」
「えぇー、一人じゃつまないじゃん。それより月村さんとなにしようとしてたのー?」
「別に、何も」
「何も? え? 暇なの? じゃあさドッチやろうぜ、ドッチ!」
「ああ、分かった、分かったよ」
結果的にいやがるすずかを助けた形になることがよくあっただけの話。
ただそれだけの話。
大気にとってすずかとは、よく教室で注目されて羨ましい人であった。
「──私もよく助けられてるから」
「ん? 何のこと?」
「ううん、なんでもないよ」
とっても微妙で些細な持ちつ持たれつの関係を大気とすずかは確立しつつあった。
◆ ◆ ◆
月村すずかにとってこの私立聖祥大学付属幼稚園はあまり居心地のいい場所ではなかった。
その内気な性格からか、滅多に自分でなにかをしようと動くことはなく、いつも流されるままであった。
活動的ではない彼女は他の子からするとどうも異端に見えるらしく、ちょくちょく思い出したかのようにちょっかいを出される日々であった。
友達はいない。
すずかはそれでもいいと思って今まで生きてきた。
たった四年程度生きただけで彼女はそう思い始めていたのだ。
月村家は上流階級と十分に言える家柄である。
すずかの家は邸と言えるに足る豪邸であったし、資産も相当なものだ。
そんな家に生まれた彼女は四歳よりももっと小さい時から、少し大人の世界を味わっていた。
それは所謂社交界などのことであるが、そういった場に顔を出すと必ず同年代の子が彼女に近づいてきた。
少々黒い理由を添えて。子供にその気はなくても親にその気があるということを知っていた。教えてもらった。
すずかはそれがたまらなく嫌だった。
だからこそ、本来であれば私立聖祥大学付属幼稚園に行く予定だったが、それを避けたのである。
だが、それは逆に仇と成り彼女に返ってきた。
結局、この幼稚園でも黒くはないとは言えちょっかいは消えなかったのだ。
しかしそれも年少までだったのが、大きな誤算だった。
空知大気の存在である。
惚れたわけじゃない。
惚れる要素がない、訳ではなかったが、惚れたわけじゃない。
空知大気はよく見れば確かに美形と言える骨格はしているが、可能性は秘めているが、今はそれほどでもない。
目は一重だし、髪はその辺の泥を被って楽しんでいる少年のボサボサヘアーと一緒、下手したら普通以下である。
そして何より……目立たない。
すずかだって同じクラスになるまで知らないどころか、最初の席順で前にいたのに全く意識が向かなかった。
知ったのはいつも出席の時、名前を忘れられるという印象から。
覚えたのは明るい性格と目立とうとする行動からだった。
どうやら最近は前に比べたら諦めた感のある雰囲気を感じるが。
すずかは年長になってもちょっかいをかけられていた。
内気な彼女はそれを嫌とも言えず、なわなわになりながらも必死に抵抗していたが、それはどうやら相手に伝わっていないらしい。
手加減の知らない子供のため段々激しくなり周りが注目し始め、そろそろ先生に気づかれるというときに、その声はかかった。
「なにしてるの?」
興味津々というのは体で表現し、ギランギランに目を光らせている大気の声だった。
一瞬、誰かが助けに来てくれたのかと期待したすずかだったが、その大気の姿を見て絶望した。
なまじ期待しただけにショックは大きかった。
誰も私を助けてくれないんだよね。
知ってたよ。
うん、知ってたから。
……もう、いい加減にして欲しい。
すずかが抵抗を諦めた。
だが、この後いろんな意味で彼女の心境は複雑になる。
「みんなに注目されて羨ましいな、月村さん」
「え?」
「え?」
少年の鶴の一言で場が凍る。
大気の予想外の言葉に、度肝を抜かれたのはすずかだけじゃなく、すずかにちょっかいを出していた少年もだった。
この後、大気による一人は寂しい、忘れられるのは寂しいよの語りにちょっかいを出していた少年は、自分が何をしていたのかさえ忘れ。
すずかはなにを考えて、何をされてたのかさえ忘れた。
「ああ、もういいよ! 分かったから! じゃあドッチやろうぜ、みんなで!」
「え? いいの?」
「いいよな、みんな」
「あ、ああ! やろうぜ! やろうぜ!」
結果的に大気がすずかを救う形となった。
大気は気づかず、すずかのみは後になって、ドッチやろうと思ったのに大気が外に出た瞬間雨が振りしょぼくれて帰ってきた大気を見て気づいた。
このやり取りがループする。
すずかに誰かがちょっかいを掛ける、注目を浴びる、大気が感づいて接触、流れ解散。
すずかは大気に無意識とはいえ助けられたのを、事情を説明して大気に理解させた上でお礼を言おうと何度も思ったが、朝に大気の名前が呼ばれ忘れ、それを先生に告げ、大気が感謝するその姿を見て何度も諦めた。
すずかは思う。
こんな関係があるなら、案外この幼稚園も悪くない、と。
──すずかと大気はまだ友達ではない
{空気だとか影薄いだとか言われて性格が弄れくれていくお話}