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日米間で揺れた移民事業/外交文書に見る復帰前の沖縄 2000年5月29日  このエントリーをはてなブックマークに追加 Yahoo!ブックマークに登録

 
  「(沖縄の)軍用基地化に伴う海外移住には積極的に援助支援したき所存」と日本。「沖縄行政権が日本政府にコントロールされる」と警戒する米国-。外交文書は、1972年の沖縄返還の5年前、米国が沖縄の移民事業だけを日本に返還することになった舞台裏を明らかにした。同文書によると、米国が日本に移民事業の権限を移譲した直接のきっかけは、南米ボリビアへの約3000人の移民の存在だった。
 
  沖縄では戦後、米軍基地建設のため銃剣とブルドーザー"による土地接収で約5万世帯24万人が土地を奪われるなどして年々失業率が増加。海外に活路を求めて戦前の移民熱が再び高まり、琉球政府は54年から、ボリビアへの移民事業を開始する。
  だが米軍統治下、沖縄移民の地位は不明確で、外務省も「琉球住民は日本国籍を保有。沖縄移民は人手の許す限り保護方ご配慮」と南米の在外公館に指示する一方、別の文書では「たとえ恩恵的な意味にせよ施策を及ぼすことは米国の同意がない限り不可能」と強調するなど一貫性を欠いていた。
  54年に入植し79年に沖縄へ戻った長山哲さん(76)は「日本は米国に気兼ねし何もしてくれなかった」と証言する。
  米側は当初、日本側の沖縄への関与を警戒、移民事業の権限移譲に反対だったが、66年の第九回日米協議委員会で沖縄移民への第一義的な責任は日本が負うことで原則合意に変わる。
  背景には、道路や水、学校問題などが深刻だった移住地への財政援助の負担を軽減したいとの米側の思惑がうかがえる。
  また日本は56年にボリビアと移住協定を締結していたが、米国は協定締結に失敗していたことも分かった。
  しかし、原則合意後も米側は「(琉球政府は)USCAR(米国民政府)の下部機構。日本が財政援助を与えて琉政を直接コントロールすることは欲しない」と警戒。日本側も「施政権に触れることは考えられない」と理解を求めている。
  日本は67年、海外移住事業団(現国際協力事業団)沖縄事務所を設置し、移民事業を開始。だが既に63年から移民数は激減しており、さらに沖縄返還で一気に減少、移民事業自体が衰退していった。
 
 交渉の過程よく分かる
 
  琉球大の石川友紀教授(地理学)の話 沖縄移民事業の返還をめぐる日米間の交渉過程や日米の思惑がよく分かる重要な資料。ボリビアへの移民は、当時の沖縄県民に移民再開の光明を与えるものだったが、南米の熱帯地域でのゼロからの出発はまさに苦闘の歴史だった。米国とボリビアの間で移住協定が失敗したことは今まで知られていなかった背景で、日本側の見方ではあるが興味深い指摘だ。
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