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読み散らかし日記 このページをアンテナに追加 RSSフィード

October 06(Fri), 2006

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今日付の朝日新聞社安倍首相へ 歴史を語ることの意味についてなんですけど…。

 1940年6月。欧州に暗雲がたれこめていた。ナチス・ドイツが破竹の勢いで進撃し、フランスもあっけなく軍門に下った。イギリスの命運も風前のともしびかと思われた。

 そのとき、首相チャーチルはこう述べた。「イギリスの戦いが今や始まろうとしている。もしイギリス帝国連邦が千年続いたならば、人々が『これこそ彼らのもっとも輝かしい時であった』というように振る舞おう」

 第2次世界大戦の最も厳しい時に、英国民を鼓舞した演説の一節である。後世の人々が私たちを見ているという言い回しには、人の心を揺さぶるものがある。

 彼の覚悟の背後には、歴史を経ても通用する価値への強い信念がある。20世紀を代表する名演説のひとつだ。

 ところが、そのチャーチル首相を尊敬するという安倍首相の、歴史をめぐる発言には疑問を持つことが多い。首相は保守とは何かを聞かれて、こう答えた。

 「歴史を、その時代に生きた人々の視点で見つめ直そうという姿勢だ」。言いたいことは、侵略や植民地支配について、今の基準で批判するのではなく、当時の目線で見よということなのだろう。

 この考えは、歴史について半分しか語っていない。過去の文書を読み、歴史上の人物の行動を理解するとき、時代の文脈を踏まえることは言うまでもない。だが、それは出発点にすぎない。

 さらに一歩進んで、歴史を評価するとき、その時代の視線を尺度にしたらどうなるだろうか。歴史には様々な暗黒面がある。人間が人間を動物のように扱う奴隷制や人種差別ホロコーストなどの大量虐殺。それぞれはその体制の下では問題にされなかった。

 私たちは時代の制約から離れて、民主主義や人権という今の価値を踏まえるからこそ、歴史上の恐怖や抑圧の悲劇から教訓を学べるのである。ナチズムやスターリニズムの非人間性を語るのと同じ視線で、日本の植民地支配や侵略のおぞましい側面を見つめることもできるのだ。

 安倍氏の言う歴史観は、歴史の持つ大切な後半部分が欠けている。

 安倍氏の歴史観にはもうひとつ奇妙な点がある。肝心なことになると、歴史家に評価をゆだねてしまうことだ。

 5日の衆院予算委員会では、村山談話などを個人として受け入れる考えを示し、従来の姿勢を改めつつあるものの、民主党の菅代表代行に満州事変の評価を問われると「政治家は謙虚であるのが当然であろう」と答えを避けた。

 安倍氏は民主主義や平和を重んじてきた戦後日本の歩みは誇るべきだと語っている。ならばその対比としての戦前にきちんと向き合ってこそ説得力を持つ。

 政治家が歴史の前に謙虚であるべきなのは、チャーチルに見られるように、現代の行動の評価を後世がするという緊張感からなのだ。単に歴史を語らないのは、謙虚ではなく、政治家として無責任、あるいは怠慢と言うしかない。

太字部分を読んで、あぁ自分は朝日に求めるもの無いなーって思ってしまいました。

過去のエントリーで何度か自分の考えを打ち出してきましたが、私のこの「考え」は安倍首相が言う歴史観と同じだと思います。。

mumurさんが指摘されてますけど、

朝日は文章中で「ナチズム=ホロコースト」という図式を提示しているのに、「日本の植民地支配や侵略のおぞましい側面」に対する事例を全く挙げてないんですよね。「言わなくても分かるでしょ」っていう意味ではなく、これまで特亜のスピーカーとしてガンガン取り上げてきた従軍慰安婦南京虐殺の根拠が揺らぎ、東京裁判の是非が改めて問われているという危機感が文章中に現れてしまったんじゃないかと思います。

まして日本と特亜ほど政治が歴史を踏み絵にして展開される国は無いでしょう。おそらく「政治家が歴史の前で謙虚であるべき」という言葉については、チャーチルと朝日の間では大きな違いがあると思います。チャーチルが示したのは、歴史観を政治に反映させ何らかの利益を誘導したいという意味ではなく、その時代の背景(国家間の関係)や常識(価値観)に照らして、当時の国民や政治家の判断が正しかったかどうかは後世が判断するという意味じゃないでしょうか?

なんというか、結局のところ朝日は「自分たちの歴史観にそぐわない歴史観」を徹底的に攻撃したいだけじゃないかと思いますね。

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