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天声人語

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2011年3月6日(日)付

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 太陽暦の作者は雪国に親切だった、と新潟県育ちの詩人堀口大学が書いていた。なぜなら2月が短く終わるから。待ちかねた3月の声を聞けば北国の寒気もゆるむはず。と思いきや、余寒どころか真冬を思わせる冴(さ)え返りに数日ふるえた▼お前さん、それでも3月のつもりかい――とぼやきたくなる寒い風が東京にも吹いた。優雅に花見月とも呼ぶけれど、弥生の空の気まぐれは手ごわい。たとえるなら、お付きを翻弄(ほんろう)するわがままな姫様か。とはいえ春は、周囲にたしかに兆している▼近くの公園で、毎年一番に芽を吹く柳が、あるかなきかの色ながら青んで見える。桜の枝々はうっすら赤みを帯びている。灰色だったコブシの花芽も渋い緑に変じてきた。純白の花が枝いっぱいに群舞する日は遠くない▼桃の節句を過ぎて、きょうは二十四節気の啓蟄(けいちつ)。地中に眠っていた多彩な命がうごめき出す。地虫や蛇、蟻(あり)が「穴を出る」という季語が俳句にある。〈穴を出る蛇を見て居る鴉(からす)かな〉高浜虚子▼虚子記念文学館に聞くと、実際にカラスがヘビを捕って食うかどうかはおいて、そんな意味に見ていいでしょうとのこと。生き物の目覚めはきびしい生存競争への参入でもある。自然の掟(おきて)を、どこかとぼけた味に写し取って面白い▼さて弥生の空は、啓蟄と知ってか一転春めき、暖地は花粉が総出撃だ。虚子のユーモラスな句をもう一つ。〈つづけさまに嚔(くさめ)して威儀くづれけり〉。嚔はくしゃみ。冬の季語だが、いまや春にも違和はない。あらたまった席での連発には、よくご用心を。

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