今月末のプロ野球シーズン開幕を前に、かつての広島東洋カープの本拠地・旧広島市民球場は第1期の解体工事が進む。カープオーナー家の3代目、松田元さん(60)の脳裏に焼き付いているのは、初めて球場を訪れた時のまばゆい光。マツダスタジアムへの移転3年目、球団経営にかける情熱の原動力は、少年時代の感動だった。【矢追健介、寺岡俊】
「6、7歳の時、初めてナイターを見たのよ。1階入り口から階段を上がっていくと通路が暗いんだよ。そこを明るい所へ向かって上がっていって、階段の一番上に立った瞬間、ここは別世界か、いう感じなんじゃ」
球場完成は1957年。原爆の爪痕が残る街にはバラックが建ち並び、灯火も少なかった。広島の真ん中に光の空間が現れた。
「緑の芝に光がぱーっと当たって、そこだけ浮いとる感じ。素晴らしかったね、あのインパクト。今でも覚えとる」
松田オーナーは小学生時代、球場近くにあった木造の進学塾に通っていた。高校まで広島で過ごし、慶応大に進んだ。上京しても、“広島ナショナリズム”の思いは強く、広島弁を使い続けた。
「子どものころの体験があったからこそ、わしらにはこんな球場があると、東京に出ても自信を持てた。だからこそ今も頑張れる」
市民球団として発足したカープだが、経営強化のため、東洋工業(現マツダ)を創業した松田家がオーナーに就くことに。初代オーナーの恒次さん(70年、74歳で死去)は祖父。先代オーナーだった父耕平さんが02年、80歳で死去したのを受けて、後を継いだ。直後の04年、プロ野球は再編問題に襲われ、地方球団のカープの存続を危惧(きぐ)する声が高まった。「広島に球団を残すことが使命」と語り、地域に支えられながら黒字経営を続ける。
忘れられないことがある。市民球場最後のシーズンだった08年の終盤、車椅子を押されたお年寄りの姿がスタンドに増えたという。
「子どものころ連れて来てもろうた球場に、親を連れてきたいんじゃのうと思ったんよ。世代を結んでくれた場所じゃった。ぐっときたよ」
年配の市民は、原爆からの復興を球場の歩みに重ねる。カープに在籍した選手たちにとっては、自分を育ててくれた場所だ。
「やっぱりさみしいはず。よその球団から冷房がないじゃのクレームがついたこともあるが、やっぱりわしらは好きじゃった。みんなもそうじゃろう」
思い入れが深いからこそ、解体されていく球場を正視できない。しかし、次世代につなげたい思いは深い。
「わしらの世代は中継ぎ。ゲームは永遠に続いていくんだけど、広島の次世代のために、やらにゃいけんわけよ」
毎日新聞 2011年3月5日 地方版