2011年2月17日放送

フォックスと呼ばれた男 愛情秘話


2_01  思いがけない発見だった。 昨年の四月、愛知県に住む大場久充さんが物置の整理をしていた時のこと・・・ それは、1000通にもおよぶ手紙の山だった。 端正な母親の文字が目についた。
 実は、久充さんの母・峯子さんは19年前に亡くなっていた。 駅前の交差点で車に轢かれ、病院に運び込まれたが、帰らぬ人となったのだ。
 遇然発見された手紙は、母が生前、父と交わしたラブレターだった。 それは、昭和から平成へ・・・日本、中国、アメリカ・・海を越え、時を越えた若い男女の奇跡の愛の物語だった。
2_02  裕福な家庭に育ち、花嫁修業の真っ最中だった平野峯子さん。 そんな彼女の元にその手紙は届けられた。 『毎日忙しいことだと思う。一生懸命に手伝いをしているだろうね。僕も元気』 差出人は大場栄さん、2つ年下の恋人だった。
 小学校の先生をしていた栄さんと出会ったのは、地元の学校に赴任した直後。 町長を務める、峯子さんの父の元にあいさつに来たのがきっかけだった。 一瞬で恋に落ちた二人。 赤裸々な思いを手紙に綴った。
『お目にかかりたくて、初めて学校の近くにまで伺ったのも、今のように暑い最中だったと存じます。』
『毎日帰れる日のみを指折り数えている。中々一日の長い事、その日の来るのが待ち遠しいね』
2_03  自然に結婚を意識した二人。 しかし、栄さんは農家の長男であり、奥さんとなる人は農作業の大事な働き手となるのだが・・峯子さんはお嬢さん育ちで、しかも年上。 二人の結婚に周囲は難色を示した。 そこで栄さんは・・・
『年上くらいなんでもないと思う。敢えて躊躇することはない。俺もこう心に決めた以上、なるべく早く結婚した方が良策かと思う。』
熱いプロポーズの言葉が峯子さんを励まし、結婚。 翌年には長男の一弘さんが誕生した。 親子三人の幸せな家庭生活。
 長男の誕生から、わずか半年後、一通の手紙が運命を変えた。 栄さんに赤紙、召集令状が届いたのだ。
2_04  1937年7月、日中戦争が勃発。 国中が戦時体制となっていた。 中国戦線を闘うため、招集されたのだ。 結婚からわずか1年あまりで、突如引き裂かれた夫婦。 生きて帰れる保証などなかった。
 当時、中国では日本軍の上陸を阻もうと、中国軍が徹底抗戦。 上海を舞台に死闘が繰り広げられていた。 そんな戦場から届けられた初めての手紙。
『一旦郷土を出たからは戦に立つ身、明日の命を知るべくもなし。・・・くれぐれもお前達の健康を祈る。さようなら』
夫の覚悟が文面から伝わってきた。
2_05  残された峯子さんも必死だった。 農家の嫁として、夫の実家で暮らし、慣れない農作業に明け暮れた。 だが彼女には心の支えがあった。 『お前が全然出来ない百姓で、両親に対する遠慮でお前が居ずらかろうと、いつも思っている。それのみ、いつも気がかりです。』 命がけの闘いをしているのにも関わらず、いつも峯子さんの身を案じた。
 そんな夫のために峯子さんは・・・長男の一弘さんにいつも「これがあなたのお父さんよ」と、栄さんの写真を見せていた。
『一弘は日増しに可愛くなってまいります。母ちゃんはどうしても覚えませんのに、機嫌の良い日は、父ちゃん、父ちゃんの連発です。戦地のあなたさまに聞いていただきたい程、ハッキリ申します。』 手紙で、戦地の夫を励ました。
 しかし、首都南京が陥落しても、中国軍は抵抗を続け、日本軍は大陸の奥深くに嵌っていった。 栄さんの所属する、歩兵18連隊も闘いの泥沼に巻き込まれていった。 そして、ついに恐れていたことが・・・。
2_06  週に1回は届いていた栄さんからの手紙が途絶えていた。 戦場では昨日まで元気だった者が次々に命を落としていく。
『傷は右腿を軟部貫通。左腿擦過傷です。貫通も骨に触っていませんので、すぐに治ります。』
『早くご無事なお便りに接したいと、それのみ念じております。“恋は理性を狂わせる”そんなことわざなかったかしら』
『遇いたいのは君以上、しかし帰国のためでしたら私情は捨てねばならない』
『私たちには皆様に比べて色々な楽しい思い出が沢山有るはずなのに、それがみんな遠い昔の夢のような気がして寂しゅうございます』
 二人にとって、手紙だけが唯一の絆。 思いの丈を伝え続けた。ありのままに。
2_07  戦争は一向に終わる気配を見せず、太平洋戦争が勃発。 多くの若者が次々へ戦地へ向かった。 時折地元へ帰ってくるのは・・・亡骸だった。 死の影は確実に忍び寄っていた。
 だが、峯子さんに出来ることといったら、手紙にしたためられた栄さんの言葉を信じることだけ。 気がつけば、栄さんが戦地へ行ってから4年の月日が流れていた。
『もし峯子に翼がございましたなら、野を越え、山越え、海超えてお側へ飛んで行ってご介抱させて頂きたく存じます。』
 しかし、どれだけ思いを馳せても、その願いが叶えられることはなかった。 なぜなら、栄さんは中国から故郷へ帰還することなく、激戦の地、サイパン行きを命じられたのだ。
2_08  現在、観光地として知られる北マリアナ諸島のサイパン、戦前は日本が事実上統治していた。 だがそこへ、アメリカが目をつけた。 日本本土を攻撃する拠点とするためである。 そしてアメリカはサイパンを占領すべく、凄まじい攻撃を仕掛けてきたのだ。
 実は膨大の手紙中にサイパンからの手紙は一通も残されていない。 なぜなら・・・栄さんがサイパンに着いてから間もなく、上陸してきたアメリカ軍の圧倒的な軍事力の前に日本軍は次々と玉砕。 とても兵士が手紙を送れる状態ではなかったのだ。 また、峯子さんたち日本で待つ家族も手紙の送り先すらわからなかった。
 サイパンの状況を知る由もない峯子さんにとって、心の支えは夫からのラブレターを読み返すひと時。 『時々、峯子の夢を見ます。夢で見る峯子は相変わらず、やさしくいたわってくれます。いつ帰れるかわからない。メーキャップして待っていてくれるであろうね。』
『誰に見せるでもないメーキャップをしてはみましたけれど、待つ君のいつ帰られる宛もないのに一層寂寞を感じました。』
2_09  栄さんがサイパンへ赴任し、連絡がとれないまま1年半が過ぎた頃、日本を歴史に残る悲劇が襲った! 広島に原爆投下。14万人もの命が一瞬にして奪われた。
 その翌日のことだった。 峯子さんの元へ、夫の死亡通知が届いた・・・。 マリアナ諸島周辺で戦死。 峯子さんの願いは打ち砕かれた。
 サイパンに赴任する前年、栄さんに峯子さんが送った1通の手紙が残されている。 二人が交わした最後の手紙である。 そこには、離ればなれの生活が続く、妻の願いが込められていた。
『お帰りをお待ち申し上げております。一日でも、いえ、一時間でも長くご一緒にいられますよう。』
それが最後の一文だった。
2_10  栄さんの死亡通知が届いた一週間後、終戦。 日本は無条件降伏を受け入れた。 峯子さんは終戦から1年程がたっても、復員兵を見ると、つい夫の姿を求めた。 そんな頃、徐々に、サイパンでの日本での状況が明らかになった。 実は終戦後も、サイパンでの戦いは終わっていなかったのだ。
 物語は終戦の1年前に遡る。 サイパンでは、アメリカ軍の圧倒的な兵力の前に日本軍は壊滅。 およそ4万人もの日本兵が犠牲となり、終戦の1年前に玉砕。 全員死亡の知らせが新聞に載る。
 サイパン島はアメリカ軍が制圧したかに思えたが、予期せぬ出来事が!! 現れたのは、大場栄さんだった。 日本軍が玉砕してもなお、生きていたのだ!!
2_11  アメリカ軍によるサイパン上陸戦で、4万人の日本兵が死亡したが、ジャングルなどには大場栄さんをはじめ、僅かながら、日本兵が生き残っていた。 彼らは残存兵として、アメリカ軍に狙われる立場となった。
 終戦を知ることのなく、上官から降伏命令も届かない戦場。 栄さん達日本兵は戦うしかなかった。 軍人として、そして何より、愛する家族の元へ帰るため。
 やがて、アメリカ軍の捕虜になっていた日本の民間人がやってきた。 終戦から2か月、これ以上の戦闘に終止符を打ちたいアメリカ軍が捕虜を通じて、日本の敗戦を正式に伝えた。 降伏して捕虜になるくらいなら、ここで死なせて欲しいという部下を、栄さんは国の再建のために働くべきだと諭した。
 新たな目標に向かって、栄さんは46人の日本兵を連れ、アメリカ軍に投降した。 軍刀をアメリカ軍の中佐に委ね、武装解除。 こうして、大場栄さんの戦争は終わった。
2_12  それから1年後・・・出征から実に8年、愛する妻の元に返ってきた。 栄さん32歳、峯子さん34歳の冬だった。 帰還した栄さんは、繊維関係の工場を立ち上げ、家族のため必死に働き続けた。
 そして戦時中、1000通もの手紙を交わす程の峯子さんとの絆は、生涯失われることはなかった。 そう思わせる出来事が起こっていた。
2_13  奇跡の生還から46年、二人は手紙に綴った思いそのままに、幸せに年を重ねた。 そして、栄さんが肝炎を患い、入院したのだ。 足しげく通う峯子さんの支えもあって、病状が回復することもあったが、治療は長引いていた。 それでも家族や見舞客の前では元気に振る舞った。
 その日は、遠方より戦友が見舞いに訪れ、駅まで見送った帰り、峯子さんに悲劇が起こった! 病院に戻る途中、交差点で峯子さんは車に轢かれたのだ!!
 栄さんは峯子さんが同じ病院で治療を受けていることを知るやいなや、会おうと必死だった。 意識不明の重体だった。 栄さんは、黙ったままよりそった。
 峯子さんに寄り添い続けた栄さんは、この3日後、突如、眠るように息を引き取った。 峯子さんも同じ病院で、わずか2週間後、この世を去った。
 時代に翻弄され、戦争に引き裂かれながらも、栄さんと峯子さんの絆は固く結ばれていた。 まるで、手紙に綴られた最後の一行のように。
『お帰りをお待ち申し上げております。一日でも、いえ、一時間でも長くご一緒にいられますよう。』
2_14  遇然発見された、大場栄さんと妻・峯子さんの戦時中の手紙は、多くの人たちの心を動かし、その協力で書物としてまとめられた。 苦楽をともにした夫への峯子さんの思い。 それは、晩年、趣味である俳句でも詠まれていた。 夫が肝炎を患い、入院したときに詠んだ俳句。 病気回復を願う気持ちがにじみ出ていた。
『ふんだんに 福の豆まく 夫の部屋』




[ MENU ]