青年は頑張りすぎたのです。
母子家庭でこれまで苦労して育ててくれた
母親の期待になんとか答えよう、
との親孝行の心の持主だったのでした。
それが携帯をつかったタイムリーな
「カンニング」行為であったために世間をさわがす
「事件」になり「逮捕」までされる、
という事態に至ったのです。
いずれ青年は短期間で保釈されるでありましょうが、
青年の通っていた塾関係者は、今後しっかりとしたサポート体制をとって
青年を導き更生に力をつくして支えていただきたいと願います。
センズリとカンニングをしたことのない人間などどれほどいるでしょうか。
センズリとカンニングは青年の特徴です。
二つの共通点に「後味の悪いこと」が上げられます。
二つの相違点はセンズリは想像力を豊かにし
細胞を活発化させて生命力をたくましくするプラスの面があること、
カンニングの場合はリストカットと同じく自分を傷つけ血を流す
無益な自傷行為のマイナスの面しか考えられません。
あやまちを正す、には早いことにこしたことはありません。
その意味でこのたびの「発覚」は青年のこれから先の長い人生を考えれば
ラッキーなことでした。
これだけ日本中が大騒ぎとなった「事件」の主人公となった青年の
これからの人生はどうあっても「カンニング」とは
無縁なモノとなる筈だからです。
「独創性とは今まで誰一人として言わなかったことを言うことでなく、
まさしく自分で考えたことを言うことなのだ」とアイルランドの作家、
ジェイムズ・ステーヴンス(1880年〜1950年)は言っています。
青年には釈放された暁にはカンニングとオサラバして
「独創性」を磨くために日に三回のオナニーを日課として、
蛍雪の日々を重ねられ再び受験にチャレンジすることを
期待するのでございます。
また青年はこのたびのささやかなつまづきで自信を失ってはいけません。
碩学は「逮捕と貧乏を病気が大人物になるための必修の経験である」
と看破しているのです。
自信が揺らいだときは当方までご一報ください。
世の中には上には上がいることを思い知っていただける、と思います。
社会で青年たちが引き起こす事件のたいがいのものは、
少なからず理解できるのですが、
この「カンニング」だけはどうにも理解できないでおります。
「カンニング」の経験が全くない、のでございます。
カンニングを必要としないほどに優秀だったからではございません。
反対でございます。あまりにも愚かだったために
カンニングをしようと思わなかったのでございます。
カンニングは成績をなんとか少しでも上に上げようとする
積極的な人間が行なう行為でございます。
手前どもには、小・中・高と12年間の学生生活の中で
勉強の「成績」に向き合ったことが一度も記憶にございません。
ズーッと劣等生でドンケツでした。
それもハンパなドンケツではありません。
小学校では一クラス60名ほどいましたがその中で一番ビリの成績で、
同学年生中300人の中でうしろから数えても三番目、四番目の成績でした。
どうして同学年生で成績が後ろから
三、四番目だったのが分かったか、と申しますと、
小学校五年の時点で後ろの三人が
特殊学級送りになっていなくなったからです。
小学校6年になって順番が廻ってきました。
母親が学校に呼ばれて担任から特殊学級「ひまわり教室」に
お宅の子供さんを行かせてみたらどうか、と進められました。
母親は学校から帰ってきて
「6年生になったんだから、特殊学級の(ひまわり教室)に行ってみるか」
と聞いてきました。
母親は「ひまわり教室」がどんな教室であるかを知らないままに、
担任の先生が言う通りに進めてきたのでした。
「母ちゃん、そこがどんな教室だか分かっているのか」と反発しました。
バカはバカなでしたがその「ひまわり教室」に行かせられるほどのバカだ、
との自分に対する認識はありませんでした。
これまでの人生を考えると今にして思えば
あの時「ひまわり教室」に行く話は正解だったのかも知れません。
担任の先生はさすがに慧眼だったのでした。
中学に入ると13クラスある学級に同級生が700名近くいました。
学校では一学期、二学期、三学期の期末テストがあると
全学年生の一番からビリまでの成績が職員室の廊下に貼り出されました。
中学卒業するまでの三年間、下位10番以内から
一度も脱出することのないまま終わりました。
高校は県立高校に入りました。
そんなビリの成績だったのによく入れたものだと
今でも不思議な気がします。
高校の三年間は合計で100日間ほどしか学校に行きませんでした。
その変わり小説が大好きでした。
朝から真夜中まで好きな作家の本を手あたり次第に読みあさっていました。
高校時代は卒業したら、ブラジルに行って
牧場経営することを考えていました。
学校から見える阿武隈山脈の稜線をながめながら
あの山の彼方に希望のブラジルがある、と大きな夢を抱いていました。
今考えてみると阿武隈山脈の彼方にあるのはブラジルではなくロシアでした。
アンポンタンなために頭の中に正しい地球を描くことが
できずにいたのです。
そうした落ちこぼれの人生を歩いてきた身にとって、
仙台の青年のこのたびの「カンニング」騒動は新鮮な驚きでした。
しかしこれまでの人生で一度もカンニングをしたことがなかったか、
というと「嘘」になります。
一度だけ「カンニング」をしたことがあります。
フィリピンで、です。
自動車免許を取る試験でのことでした。
ひと昔前、忙しい日々が続いていて気がつくと更新手続きを忘れてしまい
自動車免許が失効していました。
改めて免許を取るには30日近く自動車教習所に通わなければなりません。
しかし仕事に追われていてそんな時間の余裕がありませんでした。
どうしたものか、と考えておりましたら知り合いの男から
「フィリピンに行ったら4、5日で簡単に免許が取れる。
その取った免許と同時に国際免許を手に入れれば、
日本でも堂々と車を運転できる」とアドバイスをもらいました。
知り合いの男は必要ならそうした免許を取得することを希望する人間を
日本からフィリピンまで連れて行く仕事をしている
ブローカーを紹介してくれる、という話でした。
渡りに船、とその話に乗ってフィリピンに行くことにしました。
以前からフィリピンで免許証を取りそれを国際免許にかえて
日本で車を運転する方法があることは知っていました。
しかしそうしたケースで取得する運転免許証は全部「ニセモノ」でした。
しかし当方は世間で少しは知られた立場の人間です。
万が一フィリピンの「ニセモノ」の運転免許証で
運転していたことがバレたら一大事となります。
それでなくともなにかと非国民扱いされかねない立場でございます。
「ニセモノ」の運転免許証で運転していたことが露見すれば、
それこそ国民の皆様から「日本から出て行け」の
バッシングを受けることは必竟となるでありましょう。
どこの国のモノであっても手前どもにとっては
「ニセモノ」はご法度の立場でございました。
このたびの「フィリピン」の「自動車免許」取得話で
気に入ったことはそれが「正式な自動車免許証」である、ということでした。
フィリピンに行く前に知人が紹介してくれた
「運転免許」ブローカー氏と面談しました。
ラビット関根氏似の好感を持たれる紳士でした。
彼にフィリピンに行って免許を取り日本に帰ってくるまでの
プロセスの説明を受けました。
マニラに到着したその日は休んで、次の日に免許を取るために必要な
写真を撮ったり申請書類を書いたりで一日が終わります。
運が良ければ次の日、運が悪くてもその次の日に
試験場に行って試験を受ける、という段取りになります。
試験といってもどういう事情からかは分かりませんでしたが
実車試験は免除されていて、筆記試験のみを受ける、とのことでした。
試験が終わって即日に合否が発表され、めでたく合格すれば
翌々日には運転免許証が発行されて日本に帰国できる、との話でした。
早ければ4日、遅くとも5日で正式な運転免許証を手にして
日本に帰ってくることができる、というわけです。
思い切って挑戦することにしました。
ただ難題がありました。
筆記試験に出る問題が全て英語かタガログ語で書かれてある、
ということなのです。
前述しましたように、お勉強の方は特殊学級組でございます。
撮影で世界のあちらこちらを廻ってきたおかげで、
英語での多少の日常会話は成立する自信がありました。
過去に英語会話学校を経営していた経験もあります。
しかし話すことは話せても読む方はサッパリなのでした。
ブローカー氏に渡されたこれまで出題されたという
筆記試験の問題集を読んでみましたが、
書かれていることは単純な交通法規なのでしょうが
サッパリ正解を導き出すことが出来ませんでした。
が善は急げ、といいます。
とりあえずフィリピンに行って試験に挑戦することにしました。
フィリピンまでの機内やホテルに入ってからも、
英語辞典を引きながらそれなりに勉強しましたが、
どうにも進捗状態が思わしくありませんでした。
記憶する力が抜群に弱いのです。
東京拘置所でご厄介になっているときは4ケタの自分の番号を
一週間たってまともに覚えることが出来なかったほどです。
朝の看守先生さまの点呼を受ける際に自分の番号を
「4787番」と云って、その夕べは「7118番」と
マチマチのことを口にするのでした。
ふざけたりしている訳ではないのですが、
どうしてもこの4ケタの数字が頭に入らないのでした。
看守先生はそれを「反抗的な態度」ととられたようで
「お前がその気なら、こちらにも考えがある、
拘置所だからといって懲罰房がない訳ではないんだぞ、
覚悟しておけ!!」と大いにお叱りをなされたものでございます。
試験日当日、かのラビット関根似のブローカー氏にともなわれて
小さな講堂のような試験場に入りますといくつもの長い机が並べられてあり、
およそ70人近い受験生が席についていました。
見回してみると日本人は当方が一人でした。
「頑張って下さいよ」とラビット関根氏に肩を押されて
試験場に入り空いている席に腰を下ろしました。
デップリと太ったオバンの教官が試験場に入って来ると、
問題用紙を配りました。オバンの顔は小錦似でした。
ベルの音が鳴ると受験生たちは一斉に問題用紙に向かいました。
答案は筆記するところはなく、
全て答とされている二択や三択の答から選んで○をつける選択方式でした。
出題数は100問近くありました。
問題用紙にはあのラビット関根のブローカー氏から事前に渡されていた
問題集とは全く違ったことが書かれてありました。
これは全然わからない、とパニックになりました。
しかし時間はどんどん過ぎて行きます。
ラビット関根氏からは8割正解が合格ラインだ、と聞いていました。
何も書かなければ0点になってしまいます。
分からなくても何か書けば、ひょっとしてマグレで合格、
ということがあるかも知れません。
運を天にまかせてともかく答をペンで〇か×をつけて埋めることにしました。
またたくまに終了の時間を来てベルが鳴りました。
オバンの小錦が受験生の机の上から試験用紙を回収して歩きました。
当方の傍はオバンは通りすぎて行きました。
どうしたことでしょう。
何故かオバン小錦は当方の試験用紙だけを未回収のままに、
全員の試験用紙を回収し終えたのでした。
「どうして自分の試験用紙を回収しないのだろう」
とワケが分からなくなって不安になりました。
するとオバン小錦が全員から回収した試験用紙を小脇に抱えたまま、
当方の机のところにやって来ました。
そして試験用紙の解答部分を見て指で差しました。
それは自分が正解として○をつけたものとは違う
もう一つの方の答の方を指で差していました。
指で差し示されたものの、どうしていいかわからずにいると、
オバン小錦はイライラしたように眉をしかめて、
テーブルの上に置いてあったケシゴムを使い○をつけた答の部分を消して、
鉛筆で新にもう一つの部分に○をつけました。
次の質問の部分もオバン小錦は前と同じように
当方がつけた答とは違った答の方を指で差し示し、
その上を指先でトントンとはじきました。
今度は先程オバン小錦がやったと同じ要領で、
自分で消しゴムで前の答を消し、
オバン小錦に指でさされた答のところを○に書きました。
それから3番目の質問、4番目の質問と順番に指先が移って行きました。
10問中終わった段階で、
正解と思われる指で指摘を受けない答えが3つほどありました。
あとは全部間違っていたようでした。
オバン小錦の指先の指導がなければ
完全に不合格になっている答案だったのです。
オバン小錦に導かれながら40問50問と
スムーズに答えの修正を続けました。
気がつけば机の周囲には同じ受験生で黒山の人だかりができていました。
皆、笑顔を見せています。
日本なら何故たった一人にこんなエコヒイキをするんだ、
と大騒ぎになったことでしょうが、フィリピンでは違いました。
机を囲んだ人たちは楽しそうにしていました。
外国人(彼等は多分、当方が日本人であることは
知っていたに違いありません)がオバン小錦に指示されながら
必死になって答案を書き直している様子が、
彼らには余程面白く感じられた様子でした。
考えてみれば日本人として恥さらしな屈辱的行為でございます。
がオバン小錦に指の動きにさからえるような雰囲気ではありませんでした。
オバン小錦が答を指で差すたびに周囲から歓声があがりました。
見物人となった彼等も同じ受験生です。
オバン小錦の指の動きで自分の回答が正しかったのか、
間違っていたのかを知り、一喜一憂して大いに盛り上がりをみせたのです。
最後の答の書き直しが終わると、机を取り囲んでいた人達の輪から
「ワァーッ」という大きな歓声が上がりました。
「サンキュー、サンキュー」といって周囲を取り囲んでいた
誰かれに関係なく頭を下げて握手を求めました。
最後にオバン小錦にも・・・。
「OK」とビックリするほどにチャーミングなウインクをしてオバン小錦が
手前どもの答案用紙を持って試験会場から立ち去って行きました。
試験会場の講堂から出ると、
10メートルほど先にオバン小錦とラビット関根氏が
笑顔で歓談する姿がありました。
すべてはラビット関根氏のさし金でした。
オバン小錦は当方が外国人だから
親切に指差し指導を行なった訳ではなかったのです。
きっとそれ相当のラビット関根氏からの
便宜供与があった上での「親切」だったのでしょう。
ラビット関根氏のフィリピンでの「免許取得旅行」の費用は
当時の一般的パック旅行の四倍近くはする高額なものでしたが、
その「高額」の意味がようやく合点がいきました。
試験の結果は「カンニング」と申しましょうか
「インチキ」というべきでありましょうか、
関係者のご尽力によって「合格」をいただき、二日後正式な免許証を貰い、
無事帰国の途についたのでございました。
その時正規のフィリピンの運転免許証と同時に発行を受けた
国際免許証の有効期間の一年間が終わるのを期に、
それを使うのを止めました。
「善人ぶる」わけではありませんが、
どうにも「インチキ」をしているようで、
自動車のハンドルを握っている間中、心が落ち着かなかったからです。
生来、余程気が小さい性分のせいなのでした。
仙台の青年の逮捕ではございませんが、
人生におきたすべての出来事はそれで良かったのだ、
との認識が正しいのでございます。
あのまま青年が携帯の「カンニング」をバレることなくパスしていれば、
もっと大きな「カンニング」どころではない
取り返しのつかない大きな失敗に手を染めてしまうことに
なりかねなかったのでは、と云えるのでございます。
中学に入った頃、一度友達と万引きをした経験があります。
後にも先にもたった一度の万引きでしたが、そのたった一度の万一を
見つけられて大騒動となりました。
近所に昔、田舎ではよく見られた雑貨屋がありました。
お店には果物から惣菜、野菜、お菓子、缶詰、と
魚の焼き網からチリ紙にホウキにゾウキンまで何でも揃っていました。
同級生の友達とその店に入ってパンを二個ずつ万引きしました。
お店にはいつも50歳前後のオバさんが店番をしていました。
その日、どういう事情か、オバさんの姿が店の中にありませんでした。
最初は万引きをするつもりはまったくありませんでした。
腹がすいたので小遣いでパンでも買おうと立ち寄ったのでしたが、
いつも必ずお店にいるはずのオバさんの姿が見えなかったのです。
店に入って一分ほど時間がたったでしょうか。
友達と二人で袋に入ったパンを二個ずつポケットにしまうと、
店から脱兎のとごくかけ出して逃げました。
山の畑にある柿の木の下まで全力疾走でかけてきて、
その場でヒックリ返りました。
生まれて初めての万引きでした。心臓が早鐘のように鳴っています。
傍の友達を見れば、彼もまたゼイゼイと大きな息をして
仰向けに寝て空をにらんでいます。
彼はどちらかというと頭の良い方でした。
家も父親が郵便局に勤めていて裕福でした。
万引きグセなどある筈がなく、彼も今度が始めての万引きのようでした。
当方も極貧の家庭に育っていましたが、
それまで万引きの経験は全くありませんでした。
それがどうしてあの場面でパンを二つ
ポケットに入れて走り出してしまったか、
自分自身にとっても謎でした。
ポケットから万引きをしてきたパンの袋を取り出して
中のパンを口に入れました。
アンパンでした。
ヘンな臭いがしました。
かじった残りのパンを見ると、カビが生えていました。
あの店は電気代を節約しているからでしょうか
いつも中は電気をつけずに暗くなっていました。
いままでにも二度ほど買ったパンに同じような
カビが生えていたことがありました。
昔は賞味期限など関係なくカビが生えていても平気で売っていました。
客の方も余程のことがない限りクレームをつけることはありませんでした。
よりによって万引きしてきたパンにもまたカビが生えていたのでしたが、
腹がすいていましたので、またたく間に平げました。
友達の方もパンを口いっぱいに頬張っていましたが、
そのパンにカビが生えていたかどうかは聞きませんでした。
翌日、学校帰りに万引きした友達と一緒にその雑貨屋の前を通りました。
すると奥からオバさんが出てきて手招きをしました。
店に近づいていくとオバさんが怖い顔をして
「あんたたち、昨日パンを万引きしたね、
おばさんは奥の方でちゃんと見ていたんだからね。
あんたたちの父ちゃんと母ちゃんを連れてきな、
おばさんがあんたたちのしたことをちゃんと言いつけてあげるから。
そうでもしなければあんたたちの万引きグセは治らないからね」
と言いました。
オバさんは自分たちがこれまで何度も店から万引きをしていた
常習犯だと思い込んでる様子でした。
「俺達、きのう初めてやったんです。昨日の分のお金を払いますし、
もう絶対にしませんから許して下さい」と二人揃って頭を下げましたが
「万引き常習犯」だと信じて疑うことのなくなったオバさんは
怒り心頭に達している様子で聞く耳を全く持ちませんでした。
「いいんだよ、あんたたちが父ちゃんと母ちゃんに
正直に自分のやったことを言えないのなら、
おばちゃんが学校に行って、校長先生に話を聞いてもらうから」
ここに至っては、両親に正直に告白するしかない、と諦めました。
友達は泣いていました。
万引きをした、などと言ったら父親に殴られる、と恐がっていました。
しかし当方も事情は同じでした。
殴られる、どころか半殺しにされることにもなりかねない予感がありました。
家に帰り、夕食が終わった頃、
両親の前で「万引き」をしたことの一部始終をうち明けました。
案の定、烈火のごとく怒った父親の鉄拳が顔面に飛んできました。
倒れたところを足蹴にされました。
殺される、と裸足で家を飛び出して外に逃げしました。
1時間ほど夜の道をさまよい歩きました。
家の近くまで戻ってきて電信柱の後で震えながら隠れていると、
母親が探しに来ました。
母親に居場所を知らせようとしてわざと大きな泣き声を上げました。
母親が近づいてきて「この薄らバカ」と平手で思い切りホホを殴られました。
翌日、学校から帰ってきて母親と一緒に雑貨店に謝りに行きました。
丁度店には友達も母親につれられて詫びに来ていました。
母親と友達の母親が店の中に入って行きオバさんの前で
米つきバッタのように頭を下げて謝りました。
友達と二人で店の外に立つ二人の母親が謝る後ろ姿を見ていました。
頭を下げ続ける母親の後ろ姿を見ているうちに、
なにかとても悲しくなりました。
ああ母親に悪いことをしてしまった。
申し訳ない、二度とこんな悲しい思いをさせては駄目だ、
と心から反省しました。
友達もまた同じ心境になったように見えて、隣でススリ泣いていました。
それから一ヶ月も経たない頃でした。
雑貨店が閉まっていました。
三日も四日も一週間経っても雑貨店は閉まったままでした。
ある日、万引きをした友達が顔を寄せてきて小さな声でささやきました。
「あの雑貨店がどうして閉まっているか分かるか、万引きだよ、
あのおばさん、お店にならべるものを仕入れに行っていた市場で
万引きをしていたそうだよ、それももう何年もの間ズーッと。
これまで何回も捕まってその都度に説教されて許されてきたらしいけど、
あんまり反省する気配がないので、
とうとう警察に突き出されてしまったんだって」
人は自分にある欠点を他人に見いだすと
常軌を逸したように怒るものなのでした。
あんなに万引きで大騒ぎした理由がようやく飲み込めました。
子供心に「誰かが必ず見ている」ことに思いを至って、
二度と万引きをすることのないように心に刻印したのでございます。
どんなことがあろうとも、
それが今の自分にとって最高の人生と思うことが大切でございます。
自分の身におきる全ての出来事は
すべて「それでいいのだ」なのでございます。
海老さまご夫妻も、あのような被害にあうことがなければ
今日のような固い夫婦の絆を取り戻すことができえなかったでありましょう。
それに海老さまのあのままの酒乱を続けていたならば
そのうち全治数ヶ月どころの騒ぎではなく、
命さえ落とすことになりかねなかったのではないでしょうか。
一方の加害者の元ナントカ連合の暴力ゴリラ、
伊藤リオン加害者にあっても然りでございます。
前刑の執行猶予が切れてもまた間もないうちの
再びの暴力犯罪でございました。
あのまま逮捕されることなく「暴力」を標榜する生活を続けていたなら
必ず十三階段を登る破目に落ちることは目に見えていました。
今回の事件で彼が人間凶器であることは全国に知れ渡りました。
何かまた暴力犯罪を起こせば一生かけて償うような刑を
言い渡されることは確実であります。
クワバラクワバラ、でございます。
全国版になったことでこれ以上グループに所属していると
皆に迷惑をかけてしまうから、と付き合いを止める良い口実ができました。
裸一貫でいつでも出直す覚悟があるのなら
AV男優などが最善でございましょう。
海老さまを殴ったパンチがどれほどのものか、
今度はその真ッ黒なチンポのパンチで世間の皆様を
驚かせていただきたいのでございます。いつでも相談に乗ります。
沢尻エリカさまご夫妻にあっては互いの器量を早目に知ることができた、
というだけで今日の破局は幸運でございます。
沢尻エリカさまはノータリンの淫売、高城ダンナは甲斐性ナシのダメ中年、
との判定を正気となってそれぞれに下せただけでも
ありがたいものでございます。
特に高城ダンナのツベコベはみっともなさすぎでございます。
あの極上のボディのエリカ様を何百発もやりまくったんだから、
それでいいじゃないか、いいかげんに黙って離婚してやれよ、
未練たらしくってみっともねえぞ、でございます。
手前どもにも過去、相手の女性の素性が早目に分かって
救われたことがございます。
若き日、ある女性と真剣に結婚しようとして悩んだことがありました。
相手の女性は処女でした。行為のときに出血し、たいそう痛がりました。
処女を捧げてくれた女性に責任をとろう、結婚を考えたのです。
相手の女性もそれを強く望んでいました。
結婚を前提としてのお付き合いの許可をいただきに、
相手の女性の家に挨拶に行きました。
将来のムコ殿が来てくれた、と親類縁者総出で大歓迎を受けました。
贅沢な料理がテーブルいっぱいに盛りつけられて
飲めや唄えの大宴会となりました。
宴も一区切りついたころ、
彼女の祖母が得意のマッサージを施してくださることになりました。
祖母の室に招かれて畳の上に敷かれたフトンの上に横になりました。
祖母は70歳を超えたばかりであったでしょうか。
マッサージを自慢するだけのことはあって
実に上手に体をモミほぐしてくれました。
一生懸命に額には汗が吹き出していました。
問わず語らずに祖母はマッサージをしながら
一人語りを始めたものでございます。
「いや、則子(処女の彼女の仮名)が
とうとう結婚することができることになって、
私はもう何も思い残すことはありません。
いつでもこの世にオサラバできます。
あの娘が中学二年生のとき、
暴力団の男に騙されて九州まで連れて行かれちゃったときは、
本当にどうなるか、心配で心配で命が縮む思いがしました。
まさか中学二年の女の娘が暴力団の男を好きになるなんて
考えてもみなかったのです。
警察にもお願いをしてようやく一年後に無事家に戻ってきて、
そしてこれまで何度も男を家に連れてきましたが、
あんたのように正式に結婚を前提として真面目に
お付き合いを申し込んでくれた人は誰もいませんでした。
それが、ようやくあんたのような真剣に結婚を考えて
付き合って下さる方が現われて、
これも皆んなご先祖さまのお陰だと感謝しています」
祖母の人のマダラボケが始まっていたのでしょうか。
それとも純粋に正直者だったのかも知れません。
彼女とはその週に別れました。
彼女に理由を告げずに「別れたい」と切り出すと「あら、そう」と
アッケラカンと返事を返してきました。
こちらが気落ちするほどに・・・。
「ワタシは最高にツイている」
いつも持ち運んでいるバックにも事務所の壁やトイレの壁にも貼っている、
大好きな言葉です。
この言葉の由来は知りませんが、
この言葉を教えてくれたのは我が女房ドノです。
やることなすことがウマくいかず落ちこんで
フテ寝をしていたことがあります。
すると女房ドノが小さな紙を枕元にツッと置いたのです。
何事か知らんとその紙を見ると「ワタシは最高にツイている」
と書かれてありました。
まさしくそれは女房ドノの生き方を象徴する、
どんなときでも「今が最高」と思って生きる不屈の生き方そのものを
書き記しているものに思えました。
女房ドノの生き方は「ネガティブ」とは一切縁を切った生き方でございます。
妊娠している頃、女房ドノは毎日パチンコ店通いをしていました。
倒産して間もなかったせいもあり、
家にはほとんど生活費らしいものを入れていませんでした。
女房ドノはその生活費をパチンコ店通いをして稼いていたのです。
一日八千円前後を確実に稼いで帰ってきていました。
二万三万と大勝ちをすることなく必ず勝ちは八千円なのでした。
理由はパチンコ店の店員と結託していたから、です。
結託といっても何か悪い裏ロムの話ではございません。
パチンコ屋の店員に気に入られてフィーバーが出る台を
コッソリと教えてもらいその台で打っていたのです。
女房ドノは妊娠姿でありながらも
「いまは仮の姿よ、妊娠していないときだったら、
こんなもんじゃないんだから」
とさも将来に期待をもたせるような仕草で
店員にパフォーマンスをしてフィーバー台にありつくことが
出来たのではなかったのか、と見ております。
女房ドノの名誉のために申し上げれば、彼女は「淫売」ではございません。
現状を打破するにあたって持てるすべてのものを使う全力投球の持主、
ということなのでございます。
店にとっても誰彼の客をこれ見よがしに
フィーバー台で打たせる必要があったのかも知れません。
それが若い妊婦であれば、健全娯楽をうたうパチンコ屋にとっては
好都合でもあったのでしょうか。
互いに利害が奥底で一致した、のでした。
いずれにせよ、女房ドノは妊婦でありながら
「これは仮の姿」と店員諸氏に未来の夢を持たせて、
約6ヶ月近く毎日パチンコ店通いをして生活の安定に寄与したのでした。
女房ドノは子供を出産してから腰痛に悩みました。
子供が幼稚園に通いはじめると週に一度の頻度で
近所のマッサージ店に通うようになりました。
一回に約3時間のマッサージをしてもらっていました。
当方もそのマッサージ店に行ったことがあるのですが、
マッサージ室には五つほどのマッサージ台が置いてあり
それぞれに男女のマッサージ師がつくことになっていました。
一時間約5000円というリーズナブルな値段なのですが、
女房ドノのように3時間もマッサージをしますと
金額はバカになりません。
経済的に余裕のない家計で週一といえども
よく3時間のマッサージを受けているな、
と思い女房ドノに聞いてみましたら
「あのお店の店長は私にだけ3時間5000円の料金で
特別にしてくれるのよ」とニコリとするのでした。
どういうアピ−ルをしたのか知りませんが、
3時間もマッサージをして一時間の正規の料金より1000円安い
「5000円」でやらせているなんて、見上げた根性でございました。
腰痛が完全に治るまでの間、約一年半ほど女房ドノは
そのマッサージ師のところに通っていました。
一週経って女房ドノが姿を現わさないと、
家の留守番電話に決まって店長のメッセージが入ってきました。
「奥さま、お体の方はそろそろずい分と
張っていらっしゃるんじゃありませんか。
是非ご来店をお持ち申し上げております」
店長の声はうわずり、なにか刹那さを漂わせていたものでございます。
店長といえば近くの大手の薬局チェーン店の店長も
「仲間入り」をさせております。
女房ドノはその薬局には生理用のナプキンとかタンポンしか
買いに行くことはしないのでございます。
女房ドノがその店に買い物に行くとこれは試供品のセットですから、
と山のように化粧品やサプリやインスタント食品を
大きな袋に入れて渡してくれるのでした。
一度どんな様子なのかを一緒についていって、
離れたところから見ていたことがありました。
女房ドノは店長氏が何か言うとさも
史上最大のジョークにめぐりあったかのように、
体を折り曲げて全身で笑う姿を見せていたのでございます。
もはやそれは媚びるとか迎合するといった仕草ではなく
「捧げる」に近い圧倒的に無防備な姿でした。
本当のしたたかさ、とはどういうものであるのかを
女房ドノの体を折り曲げて全身で笑う姿から
学ばせていただいたのでございます。
歯を入れたときもそうでした。
ファミレスで食事中、女房ドノが肉の骨の部分の固いところを噛んでしまい
前歯の二本の差し歯を割ってしまいました。
突然のことでそのファミレスの前にあった歯医者に飛び込みました。
院長は女医でトビッキリの美人でした。
三人いた看護婦も美人揃いです。
その日から治療のために何度から通っているうちに
その歯科医院はレズ軍団であることが分かりました。
そして・・・どういう理由と手段による結果なのでしょうか。
女房ドノは本来は保険適用外で20万円したものを、
たった一万円弱の保険適用とし新しいモノに取り換えることに
成功したのでした。
近くにブランド物専門のディスカウントのブティックがあります。
経営者は70歳を少し過ぎたぐらいの年輩者でございます。
季節変わりの折々に女房ドノはそのブティックに行っては
ブランド物の洋服を手に入れております。
手に入れる、といっても勿論万引き、をするわけではありません。
買う、のでございますがどうにもその値段が安過ぎるようなのでございます。
女房ドノに云わせれば店主の年輩者のオヤジは会計のときに
必ずケタを一ケタ少なく間違えるのだそうでございます。
そんな馬鹿な、と思いましたが、
女房ドノによればどうせそれは本当のようなのでした。
どうして年輩の店主が一ケタも値段を間違えるような
破天荒なことをするのか分かりませんが、
いずれにせよ女房ドノの全力投球の結果のことであることは
間違いないようでございます。
女房ドノは何をどう全力投球して一ケタ下の金額で
モノをゲットしているのか、
後学のために今度一度のぞいてみたいと考えていましたら
残念なことにご亭主がつい先日脳梗塞を起こして倒れられてしまいました。
何かで女房ドノの手口が明きらかになり、
そのショックが引き金となって脳梗塞を引き起こしたのではなかったのか、
と秘そかに案じております。
女房ドノの実力をまざまざと見せつけられたことがあります。
子供が2歳の頃、高熱を出して大学病院に駆け込みました。
待合室は順番待ちの患者でいっぱいでした。
女房ドノはウロウロと我が子を抱きながら待合室を右往左往していました。
とあるソファのところに行ってそこに腰をおろしました。
女房ドノが腰をおろしたソファの隣には、
見るからにその筋の親分と思われる風格の坊主頭の大男が座っていました。
女房ドノはその男の隣に腰をおろすと、
高熱でうなされて泣き声を上げる幼い息子をかき抱いて、
途方にくれたように「もう少しの我慢よ、もう少しだから頑張って」
と語りかけ続けました。
そんな母子の様子をジッと見ていた坊主頭の大男がやにわに立ち上がり、
受付の看護婦に向かってドナリ声を上げました。
「よう看護婦さん、
この小さな子供が死ぬか生きるか、っていっているんだ、
可哀そうじゃないか、早くなんとかしてやれよ、
他の大人なんてどうせ自業自得で病気にかかってやって来てるんだ。
言ってみりゃ天罰だよ。
ほらこの罪のない子をまず一番に助けてやれ、
すぐ医者を呼んで来い。いいか、分かったか、貴様!!」
坊主の親分がタコのように真ッ赤になって怒る勢いに
気圧されたように看護婦は慌てて我が女房ドノにかけ寄り、
先生の待つ奥の診察室へと導いて消えたのでございました。
「かつて自分が存在しない時があったことなど、誰も気にしない。
とすれば、自分がいなくなる時が来ることも、何でもないはずだ」
ウイリアム・ハズリット(1778〜1830)の言葉です。
未来や過去を思いわずらうことなく、
何があっても今が自分の能力、自分の運命、
自分の人生にとって最高のときなのだ、
と考えて今を楽しみ人生を生きるべきです。
「十万匹の精子の中で、あなたが一着だなんて信じられないわ」
(米国のコメディアン、ステーブン・パールの言葉)
の恥しめの言葉を受けることない十万匹の精子の中で
トップであった生命力にふさわしい人生を、
たくましく生き抜きたいものでございます。





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