もしも君が、ほんとにこの話を聞きたいんならだな、まず、僕がどこで生まれたかとか、チャチな幼年時代はどんなだったのかとか、僕が生まれる前に両親は何をやっていたかとか、そういった《デーヴィッド・カパーフィールド》式のくだんない… サリンジャー / 野崎孝 訳『ライ麦畑でつかまえて』
こうして話を始めるとなると、君はまず最初に、僕がどこで生まれたとか、どんなみっともない子ども時代を送ったとか、僕が生まれる前に両親が何をしていたとか、その手のデイヴィッド・カッパフィールド的なしょうもないあれこれを… サリンジャー/村上春樹 訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』
九一年末のソ連崩壊で、戦後長らく論壇を支配していた進歩的文化人も、遂に引導を渡され、ソ連の道連れとなって歴史の舞台から退場した。 稲垣武『「悪魔祓い」の戦後史』
『もののけ姫』については、入場者数が一二〇〇万人を超えたとか、興行収入の新記録を樹立したとか、一九九七年の社会現象のように語られているわけですが、最初に私たちがこの映画を拝見したときに、これはぜひ、養老さんとの対談を聞いてみたいと思いました。 養老孟志 宮崎駿『虫眼ととアニ眼』
時代と共に言葉は変化していく.今まで使われていた言葉が使われなくなり,それに代わって新しい言葉が登場する.それは,政治経済の動向や科学の進展などと深くかかわっているし,また人々の生活形態の変化や関心の方向ともかかわっている. 三省堂『新クラウン英和辞典』
現代は、しばしば"海図のない時代"といわれます。南北問題や環境問題、地域紛争など多くの問題を抱えているのに、未来が不透明だからです。しかしこのような時代であるからこそ、ますます過去を知り、過去から学ぶことが必要だと私たちは考えています。 帝国書院『明解 新世界史A 新訂版』
しばしば、日本語のあいまいさということが指摘されるが、これは日本語自身の責任というよりも、日本語を使う人の側に責任がありそうである。 西尾実 岩淵悦太郎 水谷静夫 編『岩波国語辞典』
朝。はてしなくつづくビルの山脈のかなた。白い雲のあいだに、夏の太陽がのぼりはじめ、この部屋のなかにも、その日ざしが送りこまれてきた。ここは八十階建てアパートの七十二階。 星新一『行きとどいた生活』
台風が去って、すばらしい青空になった。 都会からあまりはなれていないある村でも、被害があった。村はずれの山に近い所にある小さな社が、がけくずれで流されたのだ。 星新一『おーい でてこーい』
2004年、アメリカ・カリフォルニア州のモハベ空港でスペースシップワンが世界初の民間機による高度約100kmの宇宙旅行を達成。宇宙飛行士でない一般の人が宇宙に行ける時代が、ついに幕を開けた! 林公代『宇宙の歩き方』
13歳、あるいはその前後の年齢の子どもたちにとって大切なことは、好奇心を失わず、できれば好奇心の対象を探すことです。わたしは中学生の頃、クラスの和を乱すとか、学校の指導に従わないと殴られてばかりいました。 村上龍『13歳のハローワーク』
彼は一人ではなかった。 その事実を示すものは、正面のパネルにある小さな計器の白い針以外に何もない。コントロール・ルームには、彼のほか誰もいない。かすかな推進音を除いてはなんの物音も聞こえない——しかし、白い針は動いたのだ。 トム・ゴドウィン / 伊藤典夫 訳『冷たい方程式』
彼は一人ではなかった。 その事実を示すものは、正面のパネルにある小さな計器の白い針以外に何もない。コントロール・ルームには、彼のほか誰もいない。かすかな推進音を除いてはなんの物音も聞こえない——しかし、白い針は動いたのだ。 トム・ゴドウィン / 伊藤典夫 訳『冷たい方程式』
ストラウスはかせわぼくが考えたことや思いだしたことやこれからぼくのまわりでおこたことわぜんぶかいておきなさいといった。なぜだかわからないけれどもそれわ大せつなことでそれでぼくが使えるかどうかわかるのだそうです。 ダニエル・キイス/小尾芙佐 訳『アルジャーノンに花束を』
きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かも知れないが、私にはわからない。養老院から電報をもらった。「ハハウエノシヲイタム、マイソウアス」これでは何もわからない。おそらく昨日だったのだろう。 カミュ/窪田啓作 訳『異邦人』
夜明けまえの暗闇に眼ざめながら、熱い「期待」の感覚をもとめて、辛い夢の気分の残っている意識を手さぐりする。 大江健三郎『万延元年のフットボール』
米軍払い下げの簡易ベッドに寝ていたノブエは、ニワトリの鳴き声で起こされた。テントの中にニワトリがいて、地面にこぼれている食べ物のクズを突いている。 村上龍『半島を出よ』
一九九七年十一月、自殺する時が“ようやく!”来た、とベロニカは確信した。修道院に間借りしていた自室を入念に掃除してから暖房を切ると、歯を磨いて、横になった。 パウロ・コエーリョ/江口研一 訳『ベロニカは死ぬことにした』
救急者のサイレンが遠ざかっていく。 五台の操作車両が急行した独居老人宅は、家の構えに比して庭が広かった。色づいた広葉樹と常緑樹の木々が混在し随所で枝振りを競い合っている。ちょっと見、荒れた雑木林のようでいて不思議と心地好い風が吹き抜けてくる庭だった。 横山秀夫『カウント・ダウン』
その電話がかかってきたのは、パリのホテルでの取材が終わったときだった。 ぼくを取材したいと言ってきたのは、日本の若い男性向けのファッション誌だった。自転車専門誌の取材はよく受けるから、記者なども顔見知りだ。 近藤史恵『老ビプネンの腹の中』
今年はキンモクセイが香るのが、いつもの年よりも遅かった。ふいに漂ってきた甘い香りに、思わず自転車をこぐペダルを止めて辺りを見回すと、細い路地の片隅に建つ家と家との、庭とも呼べないほどわずかな隙間に植えられた木に、輝くばかりの鮮やかな… 乃南アサ『コスモスのゆくえ』
来た来た来た。 すっかり口癖になってしまった。一日に何回、この言葉を発するだろう。一人だけのときは大声で叫ぶこともある。ちょっとした空襲警報だ。ウウウー、ウウウー。来たぞ来たぞ。さあ、みんな、覚悟しなさい。 阿川佐和子『ホルモンの歌が聴こえる』
遠い旅への憧れが、僕の胸に育ちはじめたのは、いつのころからだったろう。 平田オリザ『十六歳のオリザの未だかつてためしのない勇気が到達した最後の点と、到達しえた極限とを明らかにして、上々の首尾にいたった世界一周自転車旅行の冒険をしるす本』
会社の人間が中古車を買ったら、その日のうちに電気系統がだめになったので、同僚たちでディーラーにクレームを付けに行くことになった。 メンバーは三人。当事者で二十六歳の田口と、主任の肩書きを持つ二十八歳の後藤と、二十二歳の雄一だ。 奥田英郎『中古車販売店の女』
『演劇入門』とは、いささか大胆な名前だと思われるかもしれないが、本書は、演劇を通じて人間を見る、演劇を通じて世界を見るということを、できるだけ多くの人に考え、体験してもらうために書かれている。 平田オリザ『演劇入門』
近年、マンガ研究が活発である。 ただし、ここで言うマンガ研究とは、学校でなされるそれのことである。 なぜなら、マンガの情報誌や評論本はこれまでも多く刊行されてきたし、とりわけインターネットが普及して以来、マンガ論やマンガのデーターベースの進歩には… 吉村和真 編『マンガの教科書』
「ねえ、まるで雪みたいだね」と、明里は言った。 それはもう十七年も前のことで、僕たちは小学校の六年生になったばかりだった。学校からの帰り道で、ランドセルを背負った僕たちは小さな雑木林の脇を歩いていた。 新海誠『小説・秒速5センチメートル』
勉強したい、と思う。すると、まず、学校へ行くことを考える。学校の生徒のことではない。いい年をした大人が、である。 外山滋比古『思考の整理学』
われわれは至るところものに取り囲まれて生きている。ものはわれわれの世界空間を満たしている。空間のどの一部分をとってみても、もののないところはない。理想的な真空を考えてみても、そこには真空というものがある。 木村敏『時間と自己』
「オタク」という言葉を知らない人はいないだろう。それはひとことで言えば、コミック、アニメ、ゲーム、パーソナル・コンピュータ、SF、特撮、フィギュアそのほか、たがいに深く結びついた一群のサブカルチャーに耽溺する人々の総称である。 東浩紀『動物化するポストモダン』
2007年末に東京ビッグサイトで行われた「コミックマーケット73」は3日間の開催中にのべ50万人が参加し、参加サークルの数は3万5000。これに対して「第一回コミックマーケット」は1日のみの開催だったが、参加者は700人。参加サークル数… 霜月たかなか『コミックマーケット創世記』
真の紳士は、別れた女と、払った税金の話はしないという金言がある——というのは真っ赤な嘘だ。僕がさっき適当に作った。すみません。 村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』
これは山の日記です。 聖書ぐらいの大きさの布ばり表紙をあけると見返しに『不二小大居百花庵日記武田泰淳』と武田がペンで書いていたのを、今度書き写すためにひろげてみるまで気づかなかった。 武田百合子『富士日記』
冬の初めのある日——それは北門の海にかもめの帰ってきた幾日めかだったが、差出人のない小包が届いた。 開封すると、「ももたろう」の絵本が一冊出てきたので、私はちょっと拍子抜けしてしまった。 松下竜一『絵本』
須貝はるよ。三十八歳。主婦。 同 直太郎。十五歳(今春中学卒業)。 宿泊カードにはやせた女文字でそう書いてあった。住所は、青森県三戸郡下の村。番地の下に、光林寺内とある。 三浦哲郎『とんかつ』
子供の時分絵を描くことは好きだったのに、どうしたわけか観ることは嫌いだった。当時私にとって上野竹の台に開かれた展覧会に連れて行かれることぐらい辛いことはなかった。無数の出品画を見て回り、生々しい色彩や形に、胸を悪くしたり頭痛を覚えたりしたものだ。 岡本太郎『青春ピカソ』
戦場ヶ原ひたぎは、クラスにおいて、いわゆる病弱な女の子という立ち位置を与えられている——当然のように体育の授業なんかには参加しないし、全校朝会や全校集会でさえ、貧血対策とやらで、一人だけ日陰で受けている。 西尾維新『化物語』
一八六〇年のような昔には、自宅で出産するのがふつうだった。 フィッツジェラルド/永山篤一 訳『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』
間抜けで哀れな父親がいた。五年前の話だ。新聞の社会面に小さな記事が載っていた。 重松清『流星ワゴン』
東京駅八重洲口構内は、相変わらずひどく混んでいた。 小松左京『日本沈没』
「それで、お金のことはなんとかなったんだね?」とカラスと呼ばれる少年は言う。いくぶんのっそりとした、いつものしゃべりかただ。深い眠りから目覚めたばかりで、口の筋肉が重くてまだうまく動かないときのような。 村上春樹『海辺のカフカ』
どうしたの、なんだか元気のない声みたい。夕食はすませた? いえ待って、用があるのよ、ちゃんと。さっき佐々木さんから電話がかかってきたの。ええそう、あの佐々木さん、ポプラ荘の。 湯本香樹実『ポプラの秋』
明治三十年初夏の或る夕刻のことである。 平野啓一郎『一月物語』
春琴、ほんとうの名は鵙屋琴、大阪道修町の薬種商の生れで歿年は明治十九年十月十四日、墓は市内下寺町の浄土宗の某寺にある。 谷崎潤一郎『春琴抄』
五月始めの或晴れた夜であつた。十一時頃自分は庭園で青い深い天空に見入つて居ると突然門外に当つて『電報です。』と云ふ声がする。受取つて見ると次の数句が記されてあつた、『クダンサカ三〇一カネコ』『是は何だらう。 村山槐多『悪魔の舌』
自動ドアを開け、客を乗せたとたん、腐った柿の匂いが車内に満ちた。他人の酒の匂いは臭い。タクシーの運転手になるまで、そんなことも知らなかった。少し前までは、自分も夜は酒を飲み、帰りが遅くなればタクシーを使う人間だったからだ。 萩原浩『あの日にドライブ』
ひとときはオハイオ州の冬だった。ドアはとざされ、窓には錠がおり、窓ガラスは霜に曇り、どの屋根もつららに縁どられ、斜面でスキーする子供たちや、毛皮にくるまって大きな黒い熊のように凍った街を行き来する主婦たち。 レイ・ブラッドベリ/訳:小笠原豊樹『火星年代記』
幼いころ、悪い夢を見て泣くと、祖母が起きだしてきてわたしのからだを優しく揺すり、言い聞かせてくれたものだった。「いいかい、マリー。おまえを脅かすものが現れたら、このあたしが消してやる。だから安心してお眠り、マリー」 桜庭一樹『ブルースカイ』
こんなゲームを御存知であろうか。まず、トランプのカードを用意する。ゲームに参加する人間が八人なら八枚。中に、スペードのジャックとジョーカーを混ぜておく。その八枚のカードを裏返しにして、一人ずつカードを引く。スペードのジャックを引いた者は『探偵』だ。 恩田陸『六番目の小夜子』
- 「ばあちゃん、もう春は来とるんかな」ヨウはかまどに薪をくべているるい婆さんに蒲団の中からちいさな顔だけを出して聞いた。 伊集院静『機関車先生』
- となり町との戦争がはじまる。僕がそれを知ったのは、毎月一日と十五日に発行され、一日遅れでアパートの郵便受けに入れられている〔広報まいさか〕だった。町民税の納期や下水道フェアのお知らせに挟まれるように、それは小さく載っていた。 三崎亜記『となり町戦争』
- 小さなヴェリエールの町は、フランシュ=コンテでいちばん美しい町の一つに数えられよう。 スタンダール/小林正 訳『赤と黒』
- うとうととして眼が覚めると女は何時の間にか、隣の爺さんと話を始めている。 夏目漱石『三四郎』
- どこまでもだらだらといい加減な傾斜で続いている坂道を上り詰めたところが、目指す京極堂である。 京極夏彦『姑穫鳥の夏』
- 何かしらの点で、彼らは根本的に間違っている。なぜなら、私が間違っているはずがないからだ。 森見登美彦『太陽の塔』
- これより私は、或る個人的な回想を録そうと思っている。これは或いは告白と云っても好い。そして、告白であるが上は、私は基督者として断じて偽らず、唯真実のみを語ると云うことを始めに神の御名に於て誓って置きたい。 平野啓一郎『日蝕』
- いつから私はひとりでいる時、こんなに眠るようになったのだろう。 吉本ばなな『白河夜船』
- いやな夢を見ていた。私はマイクロバスの後部座席に一人座り、どこかに向かっているところだった。どうやら、行く当てのない旅の途中らしい。 桐野夏生『顔に降りかかる雨』
- サイトウに電話してみたが留守電になっていたのですぐに切った。スキー板を抱えたグループが入ってきて私の横を通り過ぎた。大きなガラスのドアが開いてまた閉まる。 村上龍『空港にて』
- 断っておくが、おれは自分で自分がそう好きなわけじゃない。それどころか、いやでいやでたまらないくらいなんだ。 安部公房『水中都市』
- 「死んだほうがいい」。少女は、ほとんど声にもならない声で、そう囁いた。隣にいる男に聞かせる気もない、本音でもない言葉のノイズだった。 冲方丁『マルドゥック・スクランブル 圧縮』
- モッキンポット神父は甚だ風采の上らない、目付に険のある、天狗鼻のフランス人で、ひどく汚らしい人だった。 井上ひさし『モッキンポット師の後始末』
- 妹のジュスチーヌとあたしとが育てられたのは、パンテモンの修道院でした。御存知のように、この僧院はたいそう有名なもので、パリでいちばん美しくいちばん遊び好きな女たちが、もう何年も前から毎年ここと巣立っております。 マルキ・ド・サド/澁澤龍彦訳『悪徳の栄え』
- まずコンパスが登場する。彼は気がくるっていた。針のつけ根がゆるんでいたので完全な円は描けなかったが自分ではそれを完全な円だと信じこんでいた。彼は両脚を屈伸できる中コンパスである。しかし彼が実際に両脚を屈伸させる場合は極めて少い。 筒井康隆『虚航船団』
- 「少女コレクション」という秀逸なタイトルを考え出したのは、自慢するわけではないが私である。美しい少女ほど、コレクションの対象とするのにふさわしい存在はあるまい、と考えたからだ。 澁澤龍彦『少女コレクション序説』
- この六月二十五日四時頃、ポニュケレ国の皇帝にしてドレルシュカフ国の王タルー七世の聖別式の用意は、万端整ったように見えた。 レーモン・ルーセル『アフリカの印象』
- 西部劇だ。望美は思う。両開きのドアを勢いよく押し開け、さっと中に入る。入った後も背後では、まだ扉がゆらゆらと揺れる気配がしている。静寂が訪れるだろう。西部劇の酒場で。ドアがこんな風に開け放たれたときには。 長島有『ぼくは落ち着きがない』
- ぼくは中西部で育ったが、子供のころ、夜になるとよく外に行っては星をながめ、はてな、と首をひねったものだ。男の子ならだれにでも、みんなそういうおぼえがあると思う。 レイ・ブラッドベリ/大西尹明訳『ウは宇宙船のウ』
- この世界は常に強烈な既視感に包まれている、と俺は思う。その既視感の原因を巧妙に計算されてはいるが、実はこの世界が可能な限り共通のパーツやテクスチャによって構成されているからだと、したり顔で説明する者もいる。そうなのかもしれないし、そうではないのかもしれない。 押井守『アヴァロン』
- 夢を見ていた。自分が、まだずっと小さかった頃の夢だった。幼いぼく。父親、母親、エンダー、ジルバ。それに近所の遊び仲間。狭く閉じていたぼくの世界。ぼくはあまりにも幼くて、これから成長してゆくこの世界が、どんなところなのかまだぜんぜん知らなかった。 大西科学『ジョン平とぼくと』
- シレニャーヴァ川に架かる橋のほうへ坂道を下っていく女性の姿を目にとめて、ポドグルスキは車を歩道に寄せて急停止した。自動小銃で武装した二人の若い民警隊員は、後部座席ですぐさま油断なく身構える。 イェージィ・アンジェイェフスキ/川上洸『灰とダイヤモンド』
- この世の中には「陰謀」が存在する。しかし、他人の口からまことしやかに語られる陰謀は、九十九パーセント以上の確立で、ただの妄想、もしくは意図的な大嘘にすぎない。 滝本竜彦『NHKにようこそ!』
- 雪崎絵里は戦う女の子だ。美少女戦士なのだ。セーラー服を軽やかにはためかせて、彼女は戦う。なんのために?正義のために。的は諸悪の根源、悪の魔人。切っても突いても死なない不死身のチェーンソー男。奴を倒さなければ世界に希望はない。 滝本竜彦『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』
- アリスは姉をならんで川べりにすわって、なにもしないでいるのがそろそろ退屈になっていた。そろそろ一、二度、姉の読んでいる本をのぞいてみたけれど、絵もなければ会話もない。「読んでもしょうがないのに」とアリスは思った。「絵も会話もない本なんて」 ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』
- 最近現職から引退したウォーグレイ判事は一等喫煙者のすみで葉巻をくゆらせ、「タイムズ」の政治記事を熱心に読みふけっていた。やがて、彼は新聞をおいて、窓の外を眺めた。汽車はいまサマセットを走っていた。彼は時計を眺めた―あと二時間だ。 クリスティ/清水俊二訳『そして誰もいなくなった』
- ボビイ・ジョーンズは、ボールをティーにのせ、かるくウォーミング・アップして、ゆっくりグラブをふりあげ、つぎの瞬間、稲妻のような迅さでガーンを打ちおろした。 クリスティ/蕗沢忠枝訳『謎のエヴァンズ殺人事件』
- 神戸市街の中心部から約十キロ東、阪急電車御影駅のすぐ山側に洒落た二階建てのレストラン・ビルが建っている。そのすぐ近く、深田池という神功皇后ゆかりの古い池の周辺は公園にもなっていて、池の北西側のほとりにはつい最近マンションができた。 筒井康隆『残像に口紅を』
- 三方の高僧、ユダヤ僧、メーソンの軍官、アングロサクソン・トラストの操る無能な高官などが、かわるがわる放送や広告を使って、飢えのおそれがあると訴えた。誰もがデマだと思った。プロバガンダだとも噂された。だが、本当のことが分かってくると、誰もが堅固な棍棒を構えた。 ペレック『煙滅』
- 宇宙船時間の十九時、私は竪穴の周りに立っている人たちの前を通りすぎ、金属製の梯子を降りて、カプセルの中に入った。内部はちょうど肘を持ち上げるだけの空間しかなかった。 スタニスワフ・レム/沼野充義訳『ソラリス』
- ぼくは速さにあこがれる。ウサギは好きだがカメはきらいだ。ところが、親父たちはカメに見習えというのだ。カメの実直さと勤勉さ、そしてなによりも「家」を背中にくっつけた不恰好で誠実そうな形態が、親父たちの気に入るのだろう。 寺山修司『書を捨てよ、町へ出よう』
- いつの時代のものでもよい、世界地図を広げたとき、そのどこにも戦争、紛争、対立の示されていない地図など例外中の例外である。紛争地域を赤く塗るならば、現在の世界地図も、とび散った地のように赤く染まる。人間の歴史は戦いの記録でもある。 神林長平『戦闘妖精雪風』
- ニューヨークから二十五里離れたところ、電線を網のやうに張りめぐらした中央に、奥深い物寂しい庭園をめぐらした一棟の邸宅が見える。建物の正面は砂の小徑に横切られた見事な芝生に臨んでゐて、この芝生を歩いて行くと一軒の大きな離れ屋敷のやうな家がある。 リラダン/齋藤磯雄訳『未來のイヴ』
「ジュリー。ねえ、ジュリー」その声は、女が四つの階段を降りていくあいだ、あとを--追ってきた。それは人間の唇を洩れるかぎりの最も低いささやきであると同時に、最も強い呼びかけでもあった。が、女はよろめきもせず、段を踏みはずしもしなかった。 コーネル・ウールリッチ/稲葉明雄『黒衣の花嫁』
- 二人は毎晩八時に逢った。雨の降る日も雪の日も、月の照る日も照らぬ日も。それは、最近はじまったことではない。去年もそうだったし、その前の年も、そのまた前の年もそうだった。 コーネル・ウールリッチ/高橋豊訳『喪服のランデヴー』
- …………ブウウ―――ンンン―――ンンンン……………………。私がウスウスと目を覚ました時、こうした蜜蜂の唸るような音は、まだ、その弾力の深い余韻を、私の耳の穴の中にハッキリと引き残していた。 夢野久作『ドグラ・マグラ』
- 一九九六年、八月六日の朝に、吉井裕美が見た夢。会ったことのないデブの男がとても高い山の中腹の小道で、看守に、キノコ採りをさせられている。何か修行のようでもあるし、罰のようでもある。キノコは見たことのない形でシューマイに似てる。 村上龍『ラブ&ポップ ―トパーズⅡ―』
- 減るもんじゃねーだろとか言われたのでとりあえずやってみたらちゃんと減った。私の自尊心。返せ。 舞城王太郎『阿修羅ガール』
- 死者たちは、濃褐色の液に浸って、腕を絡みあい、頭を押しつけあって、ぎっしり浮かび、また半ば沈みかかっている。 大江健三郎『死者の奢り』
- 全ての可能な文字列。全ての本はその中に含まれている。しかしとても残念なことながら、あなたの望む本がその中に見つかるという保証は全くのところ全然存在しない。 円城塔『Self-Reference ENGINE』
気が付くと小田桐は人間一人がやっと通れるような森の中の狭いケモノ道をフラフラしながら歩いていた。夢から覚めたばかりのような、あるいは夜中に一度目覚めて再びそれまで見ていた夢の中に入り込んだようなそういう気分だった。 村上龍『五分後の世界』
いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。はじめより我はと思ひ上がりたまへる御方がた、めざましきものにおとしめ嫉みたまふ。 紫式部『源氏物語』
「ねぇ、公爵さま、ジェノヴァとルッカはボナパルト家のアパナージ、つまり領地にすぎませんわ。 トルストイ/藤沼貴 訳『戦争と平和』
幸福な家庭はすべてよく似よったものであるが、不幸な家庭はみなそれぞれに不幸である。 トルストイ/中村白葉 訳『アンナ・カレーニナ』
リュリュが真っ裸で寝るのは、シーツに体をすりつけるのが好きなのと、洗濯賃が高くつくからだった。 サルトル / 伊吹武彦 訳『水いらず』
永いあいだ、私は自分が生れたときの光景を見たことがあると言い張っていた。それを言い出すたびに大人たちは笑い、しまいには自分がからかわれているのかと思って、この蒼ざめた子供らしくない子供の顔を、かるい憎しみの色さした目つきで眺めた。 三島由紀夫『仮面の告白』
一八〇一年――。いま私は、家主を訪問して帰ってきたばかりのところだが――この唯一の隣人とは、これから何かにつけて、かかり合いになることだろう。だが、じつに美しい土地だ! エミリ・ブロンテ / 阿部知二 訳『嵐が丘』
ツァラトストラ齢三十の時、故郷と故郷の湖を去つて、山に入つた。ここに、彼はみずからの精神と孤独を享受して、十年にして倦むことを知らなかつた。 ニーチェ / 竹山道雄 訳『ツァラトストラかく語りき』
梁家屯の貧しき寡婦の倅、李春雲よ。畑もなく鍬もなく、舟もなく網もなく、街道に凍てたる牛馬の糞を拾いて生計となす、卑しきやつがれ、小李よ。聞かずとも良い。知りたくば耳をそばだてよ。 浅田次郎『蒼穹の昴』
ほかの人なら、これで一冊の本を書き上げることもできただろう。だが、私がここにしようとする物語は、私が全力をあげて生きたものであり、そのため私の精魂は尽き果ててしまった。だから、私はごく簡単に思い出を記そうと思う。 アンドレ・ジッド / 淀野隆三 訳『狭き門』
誰かがヨーゼフ・Kを誹謗したにちがいなかった。なぜなら、何もわるいことをしなかったのに、ある朝、逮捕されたからである。 カフカ / 原田義人 訳『審判』
幼時から父は、私によく、金閣のことを語った。 三島由紀夫『金閣寺』
荷づくりをおえると、ジャンヌは窓辺に寄った。だが雨はまだやんでいなかった。 モーパッサン / 新庄嘉章 訳『女の一生』
ものうさと甘さとがつきまとって離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重々しい、りっぱな名をつけようか、私は迷う。その感情はあまりにも自分のことだけにかまけ、利己主な感情であり、私はそれをほとんど恥じている。 サガン / 朝吹登水子 訳『悲しみよ こんにちは』
22歳の春にすみれは生まれて初めて恋に落ちた。広大な平原をまっすぐ突き進む竜巻のように激しい恋だった。それは行く手のかたちあるものを残らずなぎ倒し、片端から空に巻き上げ、理不尽に引きgちぎり、完膚なきまでに叩きつぶした。 村上春樹『スプートニクの恋人』
ホテルにはニューヨークの広告マンが九十七人も泊まりこんでいて、長距離電話は彼らが独占したような格好、507号室のご婦人は、昼ごろに申し込んだ電話が繋がるのに二時半までも待たされた。 J・D・サリンジャー / 野崎孝 訳『バナナフィッシュにうってつけの日』
愛は祈りだ。 僕は祈る。 舞城王太郎『好き好き大好き超愛してる。』
私はこれから、あまり世間に類例がないだろうと思われる私達夫婦の間柄に就いて、出来るだけ正直に、ざっくばらんに、有りのままの事実を書いて見ようと思います。 谷崎潤一郎『痴人の愛』
杳子は深い谷底に一人座っていた。十月もなかば近く、峰には明日にでも雪の来ようという時期だった。 古井由吉『杳子』
チェンマイから百二、三十キロ走った北部山岳地帯は間伐に見舞われて草や樹木の色がくすんで見えた。乾燥した大地は茶色い肌をむき出しにして埃っぽく、舗装されていないでこぼこ道を車が走ると砂塵があたり一面に舞い上がり、まるで山火事のような砂煙におおわれるのだった。 梁石日『闇の子供たち』
その男が乗ってきたとき、だれも注意を向けなかった。世界各国から多種多様の人間が集まって来るその場所では、異邦人の彼も、さほど目立つ存在ではなかった。 森村誠一『人間の証明』
戸があいた音で、エリンは目をさました。夜が明けるにはまだ間がある時刻で、雨が薄板葺きの屋根を打つ音が、闇の中に絶え間なく響いている。 上橋菜穂子『獣の奏者』
わたしの名前はキャシー・H。いま三十一歳で、介護人をもう十一年以上やっています。ずいぶん長く、と思われるでしょう。確かに。 カズオ・イシグロ/土屋政雄 訳『わたしを離さないで』
春が二階から落ちてきた。私がそう言うと、聞いた相手は大抵、嫌な顔をする。気取った言い回しだと非難し、奇をてらった比喩だと勘違いをする。そうでなければ、「四季は突然空から降ってくるものなんかじゃないよ」と哀れみの目で、教えてくれる。 伊坂幸太郎『重力ピエロ』
メアリー・レノックスが伯父さんと一緒にくらすためにミッセルスウェイトのお屋敷につれてこられた時には、だれもが、彼女のことを、こんなに感じのわるい子どもは今まで見たことがないといったが、まったくそのとおりだった。 バーネット / 龍口直太郎 訳 『秘密の花園』
こんなゲームを御存知であろうか。まず、トランプのカードを用意する。ゲームに参加する人間が八人なら八枚。中に、スペードのジャックとジョーカーを混ぜておく。その八枚のカードを裏返しにして、一人ずつカードを引く。スペードのジャックを引いた者は『探偵』だ。そして、ジョーカーを引いた者は『犯人』だ。さあ、あなたも一枚引こう。『探偵』に当たった者は名乗り出る。『犯人』は黙っている。これで準備はおしまいである。 恩田陸『六番目の小夜子』
最近の記録には嘗て存在しなかったといわれるほどの激しい、不気味な暑気がつづき、そのため、自然的にも社会的にも不吉な事件が相次いで起った或る夏も終りの或る曇った、蒸し暑い日の午前、××風癲病院の古風な正門を、一人の痩せすぎな長身の青年が通り過ぎた。 埴谷雄高『死霊』
彼は手に一通の手紙を持っていたが、目をあげてぼくの顔を見つめ、それからまた手紙を見、それからまたぼくを見た。 クロード・シモン/平岡篤頼 訳『フランドルへの道』
ある朝早く、スナフキンは、ムーミン谷のテントの中で、目がさめました。あたりは、ひっそりしずまりかえっていました。しんみりとした秋のけはいがします。旅に出たいなあ。 トーヴェ・ヤンソン / 鈴木徹郎 訳 『ムーミン谷の十一月』
初めに雲があった。風に追いたてられながらも、山なみによってかろうじて地平線にすがりつく、黒く、重い、雲の群れがあった。 ル・クレジオ/望月芳郎 訳『大洪水』
まだあと二、三日滞在するつもりだったが、その日の昼すぎ、あるものがわたしの気を変えさせた。というのは、弟のビルの家の浴室の鏡に映ったわたし自身の姿だ。 フレデリック・ブラウン/訳:田中融二『天の光はすべて星』
無数の大黒天吉祥天女が舞い踊っている。通りの両側に建つビルの窓から水が噴き出し、沿道の群衆の発する歓声がひと固まりになって空中に高巻いて唸っている。ひだる神にとりつかれたようだ、花吹雪。 町田康『きれぎれ』
一日のはじまりがはじまる。昨日がどこで終わったのか、わたしにははっきりとした記憶がすでにない。昨日がどんな日であったかを、正確に思い出すことがわたしには出来ない。枕元の時計を見ると十時だ。昨日の夕食に、わたしは何を食べたのだったろう? 金井美恵子『愛の生活』
目を覚ますと、隣の姉の体がベッドからだいたい十五センチくらい浮いている。寝相の悪い姉はタオルケットをベッドの足下に蹴り落としてバンザイ、踊るように腰をひねってべんべんと重ねた足で4の字を書いている。水平に倒れて、空中で。 舞城王太郎『みんな元気。』
夏の終わりのある日、彼はバルコニーに出て、デッキ・チェアに身を沈めていた。黄昏の気配が空気の中にしのび込み、淡い水色の空の彼方は徐々に夜に呑み込まれようとして微かに震えている。 金井美恵子『岸辺のない海』
まだ二〇〇三年三月には六本木ヒルズは開業していなかったから、彼らは六本木の駅からだと西麻布方向の、緩い勾配の道沿いにある、スーパーデラックスという名のライブハウスに向かうとき、その左側の歩道をただ行くだけでよかった。 岡田利規『三月の5日間』
公園は、その時刻になると、魔法の泉の上に、ブロンドの両手をひろげるのだった。意味のない城が一つ、地表にころがっていた。神のそば近く、その城の宿帳は、影法師と、羽毛と、虹とのデッサンのところで開かれていた。 アンドレ・ブルトン/巌谷国士 訳 『溶ける魚』
二〇〇四年の九月、十二歳の誕生日をすぎてまもなく、ぼくはほぼ四六時中、しあわせな気分でいるようになった。 グレッグ・イーガン/山岸真 訳『しあわせの理由』
ぼくはもとより、自分の中からひとりでにほとばしり出ようとするものだけを、生きようとしてみたにすぎない。どうしてそれが、こんなに難しかったのだろう。 ヘルマン・ヘッセ/訳:実吉捷郎『デミアン』
ある日のことである。わたしはとつぜん一羽の鳥を思い出した。しかし、鳥とはいっても早起き鳥のことだ。ジ・アーリィ・バード・キャッチズ・ア・ウォーム。早起き鳥は虫をつかまえる。早起きは三文の得。わたしは、お茶の水の橋の上に立っていた。 後藤明生『挟み撃ち』
ベッドわきの情調オルガンから、アラームが送ってきた陽気な弱いサージ電流で、リック・デッカードは目をさました。 フィリップ・K・ディック/浅倉久志 訳『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』
私はたいそう孤独な生い立ちだった。おまけに物心ついて以来、性的な事柄に悩まされつづけてきた。あれは十六歳頃のことだ、***海岸で、シモーヌという、私と同い年の娘と出遭った。 G・バタイユ/生田耕作 訳『眼球譚』
いまは私は、ここに、ひとりで、まったく安全なところにいる。外では雨が降っている。 ロブ=グリエ/平岡篤頼 訳『迷路のなかで』
八月のある日、男が一人、行方不明になった。休暇を利用して、汽車で半日ばかりの海岸に出掛けたきり、消息をたってしまったのだ。捜索願も、新聞広告も、すべて無駄に終わった。 安倍公房『砂の女』
これは箱男についての記録である。ぼくは今、この記録を箱のなかで書きはじめている。頭からかぶると、すっぽり、ちょうど腰の辺まで届くダンボールの箱の中だ。 安部公房『箱男』
都市再開発の連中がまた襲ってきた。マサチュセッツ街とボイルストン通りの角から私と占い師とノミ屋を追い立てて、砂吹き機、白くさらしたオーク材、草花の吊り鉢などを持ち込んで、最後に見た時はマリン郡立売春宿風に模様替えしていた。 ロバート・B・パーカー / 菊池光 訳『初秋』
私がこの世でいちばん好きな場所は台所だと思う。 吉本ばなな『キッチン』
五千四百七十八回。これは、大橋賢三が生まれてから十七年間に行った、ある行為の数である。 大槻ケンヂ『グミ・チョコレート・パイン』
「ではみなさんは、そういうふうに川だと云われたり、乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか。」 宮沢賢治『銀河鉄道の夜』
サンタクロースをいつまで信じていたかなんてことはたわいもない世間話にもならないくらいのどうでもいいような話だが、それでも俺がいつまでサンタなどという想像上の赤服じーさんを信じていたかと言うとこれは確信を持って言えるが最初から信じてなどいなかった。 谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』
僕がまだ年若く、心に傷を負いやすかったころ、父親がひとつ忠告を与えてくれた。その言葉について僕は、ことあるごとに考えをめぐらせてきた。 スコット・フィッツジェラルド / 村上春樹 訳『グレート・ギャツビー』
ぼくのとうさんのエルマーが小さかったときのこと、あるつめたい雨の日に、うちの近所のまちかどで、としとったのらねこにあいました。 ルース・スタイルス・ガネット / わたなべしげお やく『エルマーのぼうけん』
タクシーのラジオは、FM放送のクラシック音楽番組を流していた。曲はヤナーチェクの『シンフォニエッタ』。渋滞に巻き込まれたタクシーの中で聴くのにうってつけの音楽とは言えないはずだ。運転手もとくに熱心にその音楽に耳を澄ませているようには見えなかった。 村上春樹『1Q84』
「トムや!」返事なし。「トムや!」返事なし。「あの子ときたら、どうしたんだろうね。これ、トムや!」返事なし。 マーク・トウェイン / 石井桃子 訳『トム・ソーヤーの冒険』
僕は三十七歳で、そのときボーイング747のシートに座っていた。その巨大な飛行機はぶ厚い雨雲をくぐり抜けて降下し、ハンブルグ空港に着陸しようとしているところだった。 村上春樹『ノルウェイの森』
おれが書きたい文は、こうだった。『私を生んだのは姉だった。姉は私をかわいがってくれた。姉にとって私は大切な息子であり、ただ一人の弟だった』これが、どうしても書きあらわせない。 神林長平『言壷』
なににもまして重要だというものごとは、なににもまして口に出して言いにくいものだ。 スティーヴン・キング / 山田順子 訳『スタンド・バイ・ミー』
六週間戦争のはじまる少しまえのひと冬、ぼくとぼくの牡猫、護民官ペトロニウスとは、コネチカット州のある古ぼけた農家に住んでいた。 ロバート・A・ハインライン / 福島正実 訳『夏への扉』
西の魔女が死んだ。四時間目の理科の授業が始まろうとしているときだった。まいは事務のおねえさんに呼ばれ、すぐお母さんが迎えに来るから、変える準備をして校門のところで待っているようにと言われた。何かが起こったのだ。 梨木香歩『西の魔女が死んだ』
恥の多い生涯を送って来ました。自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。 太宰治『人間失格』
祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。 『平家物語』
ある朝、眼を覚ました時、これはもうぐずぐずしてはいられない、と思ってしまったのだ。私はインドのデリーにいて、これから南下してゴアに行こうか、北上してカシミールに向かおうか迷っていた。 沢木耕太朗『深夜特急』
メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かねばならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮らして来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。 太宰治『走れメロス』
台所でスパゲティーをゆでているときに、電話がかかってきた。僕はFM放送にあわせてロッシーニの『泥棒かささぎ』の序曲を口笛で吹いていた。スパゲティーをゆでるにはまずうってつけの音楽だった。 村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』
ある朝、グレーゴル・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変っているのを発見した。 カフカ『変身』
親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。 夏目漱石『坊っちゃん』
山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。 夏目漱石『草枕』
吾輩は猫である。名前はまだ無い。 夏目漱石『我輩は猫である』
えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。 梶井基次郎『檸檬』
ロリータ、我が命の光、我が腰の炎。我が罪、我が魂。ロ・リー・タ。舌の先が口蓋を三歩下がって、三歩めにそっと歯を叩く。ロ。リー。タ。 ナボコフ『ロリータ』
女は赤ん坊の腹を押しそのすぐ下の性器を口に含んだ。いつも吸っているアメリカ製の薄荷入り煙草より細くて生魚の味がした。泣き出さないかどうか見ていたが、手足を動かす気配すらないので赤ん坊の顔に貼り付けていた薄いビニールを剥がした。 村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』
申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷い。酷い。はい。厭な奴です。悪い人です。ああ。我慢ならない。生かして置けねえ。 太宰治『駆込み訴え』