思索の海辺

那由他楽人の個人的思索を書き付けておくブログです。
主に創価学会関係。

二乗作仏

2010-11-17 01:52:24 | 思索の断片
 法華経には二乗の成仏が説かれ、悪人・女人の成仏と合わせ、これをもって「一切衆生の成仏」となる(厳密に言えば違う部分もあるかもしれないが)。
 
 ところで、なぜ法華経において二乗作仏が説かれたのだろうか。
 どのような必要があって、二乗作仏が説かれるに至ったのだろうか。

 釈尊の滅後100年頃に起こったとされている「根本分裂」以降、上座部(戒律遵守派。後に大乗仏教側から「小乗仏教」と呼ばれる)と大衆部(進歩派。後に大乗仏教を自称する)は対立していた。
 その対立の相手の成仏を、法華経は説いていることになる。それは何故だろうか。

 全くの私見だが、私にはそれが「法華経における寛容の精神」だと思っている。

 法華経が「最高の経典」であるのは、「一切衆生の成仏」を説いているからというよりも、「誰一人切り捨てることのない経典」であるからではないだろうか。
 悪人だから、女性だから、二乗だから、といった理由で、他者を否定しない。それを表現したのが、法華経における「二乗作仏」であると思う。

 だから、今回の任用試験のテキストを見たときに「もうそろそろ五重の相対から脱却したほうがいいのではないだろうか」と思ったのである。
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6 コメント

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二乗への差別を乗り越える (はち)
2010-11-19 08:43:09
初めてコメントさせていただきます。

今回のブログを拝見して、法華経以前には二乗が差別を受ける側に置かれていたことに気づきました。
確かに二乗(知識層)への差別意識は、今の私たちにも存在すると思います。
でもそれは、手が届かない(と思いこんでしまっている)ものへの嫉妬心の裏返しのような気がしてなりません。

「あいつらは自分のことしか考えてない」「狭い世界にとらわれて満足してる」というようなレッテルや先入観に惑わされないで、その人自身をきちんと見ること
(ブログでおっしゃっていた、「二乗だから、といった理由で、他者を否定しない」ということ)。
それが「人間主義」の仏法の姿なのだと思います。
はちさんへ (那由他 楽人)
2010-11-24 00:30:50
コメントありがとうございます(返信遅くて申し訳ありません)。

まだまだ浅学の身なので、書いていることが正しいのかどうか不安な面もありますが…。

今や「小乗仏教」という言葉が「差別的である」という理由で使われなくなっているようです。
いずれにしても、誰かが誰かを否定するのは「不軽菩薩の精神」から離れていると思います。
五重の相対 (一ロム者)
2010-12-04 22:28:33
突然失礼します。

>「もうそろそろ五重の相対から脱却したほうがいいのではないだろうか」

以前、大白蓮華に先生の「開目抄講義」が、連載されていました。
その後、単行本として出版もされましたが、
その講義の中での「五重の相対」の箇所で、

-----------------------------------------------------------
五重の相対は、究極の因果を示すことで、人生を常に
向上に導く最高の指標を指し示す教えです。
そして、最終的には、末法の凡夫が一生成仏を遂げていくための
最高の手本となる至高の主師親を示した法理なのです。
----------------------------------------------------------

実際に書籍で、御確認していただくと確実ですが、
「主師親」に関わってくるということです。
その故に、開目抄で、明かされたとも言えるのでしょうね。
御参考にしていただければ幸いです。
Unknown (成田)
2010-12-27 09:11:27
任用試験で学ぶ基礎教学としては、五重の相対は必要だと考えます。
理由は、御書を研鑽する上で何度も出てくる考え方だからです。
同様に五時八教も、現代では通用しないとしても、御書を学ぶ上では基礎教学として知っておくべきだと考えます。
いかがでしょうか?
一ロム者さんへ (那由他 楽人)
2011-01-05 00:38:00
ご紹介ありがとうございます。

全集に収録されていましたので、講義部分を拝しました。

ただ、個人的な印象でいえば、主師親を念頭において解釈すれば、といった内容であると感じました。

もう少し研鑽いたします。
成田さんへ (那由他 楽人)
2011-01-05 00:49:44
コメントありがとうございます。

ただ、そう言ってしまうと学ぶ範囲が非常に広くなってしまうように思います(私が任用を受験した22年前は非常に広い範囲でしたが)。

私が「五重の相対からの脱却」と書いたのは、学ぶか学ばないかというよりは「それを学ぶことでどのような仏法者を志向するのか」という観点から、今の学び方では他宗教を見下して終わるのではないか、と危惧したからです。

難しい問題ですが。

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