乙武洋匡さんの「五体不満足」 |
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乙武洋匡さんの「五体不満足」 |
乙武洋匡さんに関する特集 「先天性四肢切断」という重度の障害をもって生まれたにも拘らず、 単なる「身体的特徴」と考えて「自分しかできないことがある」と 「心のバリアフリー」を提唱している。 .「五体不満足」著者・乙武洋匡さん(22歳)は「先天性四肢切断」という障害をもっ て生まれる。明るく前向きがモットー。その体験をまとめた「五体不満足」を出版。 200万部突破。「なんでボクは障害者なんだろうと考えた時に思ったんです。人間は 一人一人、なんか使命なんて大げさだけど、その人にしかできないことがあるはず だ。この体はそれを見つけるためのヒントなんじゃないか・・・こういう体で、こういう 性格で自分しかできないことが、あるはずだって思ったんです。」そして、 「心のバリアフリー」を唱える。「自分が世界でひとりしかいない。かけがいのない 人間だと思えば、他の人にも、そう思えるはず。」「もともとバリアフリーとは、段差を 無くしたり、スロープをつけたりする物理的なものであるが、ボクが目指しているの は、”心のバリアフリー”であって”他人を認める心”が必要であると思っています。」 読者からの手紙で、23歳のフリーターは「乙武さんが誇りをもって生活し、人生を楽 しんでいることが、本当にうらやましく思えたのだ。”かわいそう”と思っていた自分 が”かわいそう”と思えた。」と言っている。 乙武洋匡さん「五体不満足」の著者。(講談社1,680円)先天性四肢切断とい う障害を、単なる「身体的特徴」と考えて、「自分にしか出来ないこと」= 「心のバリアフリー」に少しでも貢献するため、電動車椅子にのって全国を飛び歩 いています。 ボクは、五体不満足な子として生まれた。不満足どころか、五体のうち四体まで がない。けれども、多くの友人に囲まれ、車椅子とともに飛び歩く今の生活に、 何ひとつ不満はない。ボクは声を大にして言いたい。「障害を持っていても、ボク は毎日が楽しいよ」。健常者として生まれても、ふさぎ込んだ暗い人生を送る 人もいる。そうかと思えば、手も足もないのに、ノー天気に生きている人間も いる。関係ないのだ。障害なんて。(「五体不満足」本のあとがきより)。 乙武洋匡さん「五体不満足」を1998年10月出版。 この本の中からいくつかを 紹介しましょう。 まえがき- 昭和51年4月6日。満開の桜に、やわらかな陽射し。やさしい1日だった。 「オギャー、オギャー」火がついたかのような泣き声とともに、ひとりの赤ん坊が生まれ た。元気な男の子だ。平凡な夫婦の、平凡な出産。ただひとつ、その男の子に手と足 がないということ以外は。先天性四肢切断。分かりやすく言えば、「あなたには生まれ つき手と足がありません」という障害だ。- から始まるこの本。 母子の初対面-「その瞬間」は、意外な形で迎えられた。「かわいい」母の口をついて 出てきた言葉は、そこに居合わせた人々の予期に反するものだった。泣き出し、取り 乱してしまうかもしれない。気を失い、倒れ込んでしまうかもしれない。そういった心配 は、すべて杞憂に終わった。自分のお腹を痛めて産んだ子どもに、1ヶ月間も会えな かったのだ。手足がないことへの驚きよりも、やっと我が子に会うことができた喜びが 上回ったのだろう。- 生後1ヶ月、ようやくボクは「誕生」した。 高木先生「手伝ってはダメ」- 先生は悩んだ。みんなが手伝ってあげるということは、 乙武への理解と同時に、クラス内に助け合いの気持ちが芽生えているという喜ばしい ことだ。それを無理にやめさせてしまうことは、やはり抵抗がある。しかし、このまま まわりの友達が何でも乙武のことを手助けしていたら、「待っていれば、誰かがしてく れる」という甘えた気持ちが育ってしまうに違いない。そんな葛藤の末に出した結論 は、「乙武くんには、自分でできることは自分でさせましょう。その代わり、どうしても ひとりでできないことは、みんなで手伝ってあげてね」というものだった。それからは 積極的にする子はいなくなった。その日も、ボクは道具箱相手に悪戦苦闘していた。 ふだんならば、作業の早い子が「やってあげるよ」と。数日前に先生から注意を受け たばかりで、みんな気になっていたようだが、手伝ってくれる子はいなかった。そして、 授業は再開された。「グスン、グスン」とうとう、ボクは泣き出してしまった。学校で、 初めて流した涙。その作業ができなかった悔しさよりも、自分ひとりが取り残された という淋しさの方が大きかったのだ。慌てて先生が飛んでくる。「えらいぞ。よく、ここ までひとりで頑張れたね」優しくされた安心感からか、ついに、ボクは「ワァーッ」と 泣き出してしまった。 「デビュー」5年生の100m走が、次第に近づいてくる。ボクの胸は「運動会デビュー」 に向けて、高鳴りっぱなしだった。そして、出番。50m地点にラインが引かれ、周囲が 「あれ?」というようような顔をする。そこへ、ひょこひょことボクが登場。観衆が一気に どよめく。なんだか、スターになった気分だ。ピストルの音とともに、いっせいにスタート。 ボクも50m地点から号砲を聞いて走り出した。しかし、瞬く間にその差をつめられ、コー ナーを曲がったところで、一気に全員に抜き去られる。100mならば、遅い子でも20秒 かからない。つまり、スタート20秒後からボクがゴールするまでは、広い運動場にボク ひとり。独壇場となる。「ガンバレ!」。拍手とともに声援が聞こえてきた。拍手の音も、 次第に大きくなってくる。なんだか照れくさかったが、やはりうれしいものだ。残り10m くらいに差し掛かり、さすがにへばってきた。スピードも落ちてくる。そんな時、岡先生 の「休むなっ、走れ!」という声が響いた。急に、徒競走に参加できることにになった 時の喜びが胸に甦り、最後の力を振り絞ることができた。みんなよりも20秒以上も遅れ てのゴール。しかし、ボクは走り切ったという充実感でいっぱいだった。満場の拍手を 受けて、6位の旗のところに並ぶ。- 帰り際、岡先生に「来年も走るか?」と聞かれた。 ボクは、なんの迷いもなく、「うん、走る」と答えた。 「オバサン、泣いてるよ」 9月9日。ついに、水泳記録会の日がやって来た。この水泳記録会は、近隣3校の合同 で行われるため、他の小学校の子も見ている。カッコいいところを見せなくては、と意気 込んでいた。-いくら「自由形」と言っても、自家製のビート板を持ち込んで泳ぐなど、前 代未聞だろう。-「19組 1コース 乙武くん 用賀小」 ひときわ大きな歓声が上がる。 -「パン!」心地のよい音と同時に、水面に真っ逆さま。初めての人が見たら、間違えて 落ちてしまったのではないかと思うかもしれないが、この夏にずっと練習を重ねてきた、 立派な「飛込み」だ。いったん沈んだ体が浮き上がってから、ひとかき、ふたかき。 そして先にプールのなかで待ち構えていたミノルとススムがボクをすくい上げ、スー パービート板に乗せる。「さあ、行ってこい」と言わんばかりに、グイッと押し出す。 長旅の始まりだ。-他の子は、どんどん先へ行ってしまい、広いプールにたったひとり。 「静寂」という言葉がピッタリだった。しかし、突如その静寂が破られる。大きな歓声と拍 手。しかも、それは他の2校からのものだった。-他校の生徒に応援されるというのは、 うれしいけれども、不思議な気分になる。-1分57秒。-他の2校からあらためて拍手が送 られる。なかなか止むことのない、最大級の拍手だった。そんななか、ボクのクラスメイト は、岡先生にこんな報告をしていた。「ほら先生、あそこのオバサンたち、泣いてるよ」そ の目は、いかにも不思議なものを見るような目だった。先生は、そのことが何よりもうれ しかったと言う。-先生は大声で怒鳴っていた。「1分57秒?いつもより、ぜんぜん遅いじ ゃないか」だが、その言葉の裏には、心からの祝福の気持ちが込められていた。 「おめでとう。オマエを特別視することのない、本当の仲間を得ることができたんだ」 「棒体操」4年生の運動会で、棒をモチーフとしたダンスで、ふたりで1組のペアになって 踊る。昨年までのこのような機会では、ボクのペアは、必ず木先生だった。しかし、 4年生になった今年は、子どもたちの方から「オトちゃんの相手は、ぼくたちがします」 と言ってくれた。ボクとペアを組んだ相手はスピードもゆっくりになり、できない部分も 出てくる。自分を抑えなければならなくなるわけだから、先生はボクを子ども同士で組 ませてよいものか迷ったそうだ。だが、せっかく子どもたちの方から言いだしてきてくれ たことだからと、任せてくれることとなった。運動会の終了した4日後、保護者会が開か れた。その会で、ボクとペアを組んだ子のお母さんが、こんな感想を述べている。「うち の子と乙武くんをペアにして頂いて、本当にありがとうございました。一緒に踊ったり、 最後に車椅子を押して運動場を1周したりと、感激で言葉もありません。うちの息子は、 本当に幸せものです」と、何度も繰り返していたという。ボクと組ませたことで叱責され こそすれ、感謝の言葉を言われるなんて思ってもみなかった先生は、思わず面食らって しまったらしい。それだけ、他の保護者の方々は、ぼくのことを温かく見守ってくださって いたのだろう。「乙武くんが、このクラスにいることは、周囲にとって、とてもプラスになっ ていますね。うちでも、[乙武くんは、体が不自由なのにあれだけ頑張っているのだか ら、あなたも頑張りなさい]と、ついつい引き合いに出してしまうのですよ」 |