東京都隣県の真ん中あたり。
新宿から快速に乗って一時間くらいのところにある鈴音町。
下町の人情と都会の喧噪がほどよくブレンドされたこの町に、そのケーキ屋はある。
洋菓子専門店ストレイキャッツ。
地元密着、商店街御用達をモットーに営まれるこの店には、二つの伝説があった。
ひとつには、店員たちの容姿の美しさ。
商店街の男たちの心を掴んで離さぬ美貌の店主を筆頭に、ご町内の美人コンテストを総なめにする美少女たちがウエイトレスにパティシエールに脇を固めている。
もうひとつ……この店には、“迷い猫”たちが集まってくるという。
実際、店の奥を覗けば十五匹を超える猫が見えるだろう。
でも、それがすべてじゃない。
孤独を抱えた人、他人との繋がりを忘れた人、自分のことがわからなくなってしまった人、抱えきれない想いに押しつぶされそうな人……そんな“迷い猫”たちが気持ちを持ち寄る場所。
そして、みんな、必ず笑顔になって帰っていく、ぜひあなたも寂しいしい時には、立ち寄ってみることをお勧めする。
ストレイキャッツは、きっと、あなたを温かく迎えてくれるに違いない。
プロローグ
そこは、都内でもハイエンドと言っていいホテルだった。
街並みを一望できるロイヤルスイートで、クリスはひどく慌てた様子で着替えをしていた。
お気に入りのシャツを適当に脱ぎ捨て、鞄の底に隠していたピンクのブラウスに袖を通す。
着慣れない服に苦労しながら、ややこしいボタンをとめ、襟元を整えた。
最後に残ったプリーツのスカートに手を伸ばすと、少しの間ためらってから足を通す。
たった七日間とはいえ、初めての一人旅だ。
準備は万全にしておきたかった。
それになにより、ここは日本。生まれ育ったアメリカとは何もかも勝手が違う。
「あ……」
準備をしていたクリスの手が止まる。
その目は、リュックの底にしまい込んだ小さな箱を見つめていた。
「クリスマスイブまで七日もあるんだ。きっと見つかる……」
まるで誰かに言い聞かせるように呟き、クリスはその箱を大事そうにリュックの奥へとしまい込む。
「うん、きっと見つかる!」
リュックを背負って立ち上がると、クリスは決意を込めてもう一度同じ言葉を繰り返した。
穿き慣れないスカートがひるがえって、一瞬なんとも心もとない気分になったが意識しないことにした。タイムリミットまであと一週間。手がかりはないに等しい。
だが、クリスにはひとつだけ、この窮地を救ってくれる“希望”に心あたりがあった。
「スズノネチョウ……オトメ・ツヅキ……」
一度だけその人物の名前を呟き、クリスは部屋を出ていった。
つけっぱなしのTVからは、聞く人のいないクリスマスソングが空しく響いていた。
「ぶ……ぶ……ぶわっくしょん!」
乙女姉さんが盛大なくしゃみをする。
「姉さん、だからまだ起き上がるには早いって言ったのに!」
「寝ていた方がいい……」
俺と希が心配しているのをよそに、乙女姉さんはTVに釘付けだ。
「だって〜、ワイドショーから目が離せないんだよ〜」
『エマ・ロンドです! 見えますでしょうか!?あのエマ・ロンドが初来日致しましたっ!』
TV画面ではマイクを手に、リポーターと思しき女性が声を張り上げていた。
カメラが追いかけているのは、外国人らしき長身の女性だ。
大きめのサングラスのせいで細かい表情はわからないが、どことなく不機嫌そうに空港の到着ロビーを歩いていくその立ち姿は、まさに世界のセレブといった感じだ。
「エマ・ロンドってなぜが今まで日本に来なかったんだよね〜」
「誰、それ? 」
「ほら、大ヒットした映画の主題歌を歌ってる人〜」
「エマ・ロンド。CD売り上げ全世界で三億枚のトップミュージシャン。世界の歌姫と呼ばれている……」
「そうそう、それそれ っすが希ちゃんだ、解説ありがとうね〜」
褒められて頭を撫でられた希は、姉さんの膝の上の猫と同じ表情をしている。
ちょっと可愛い。……って、そんなことで誤魔化されてはいけない。
「いいから姉さん、布団に戻ってよ。また風邪が悪化したらどうするの? 希もこっちは俺に任せて、ケーキ作りに戻って」
「ん……乙女の分も頑張る」
「希ちゃんよろしくね〜」
希はリビングから出ていく。イマイチ頼りにならないオーナーですまん、希。
「巧ったら、そんなに姉さん心配〜? もお、可愛いんだから? でも万全の態勢だから大丈夫だよ〜」
確かに、袢纏を羽織り、コタツの中に潜り込み、右手にはかじりかけの煎餅、膝の上には安心しきった様子でスヤスヤ眠る猫たち。三六〇度死角なし。『ザ・日本の冬!』。
「なに言ってんの。さっさと治してくれないと困るんだよ? クリスマス直前だよ?」
「わかってる、わかってる〜♪ もうちょっとだけ〜」
クリスマスといえば、洋菓子店にとって最大の稼ぎ時である。
もちろん主戦力は、クリスマスケーキ。
ブッシュ・ド・ノエルに始まって、最近ではビターなチョコケーキも売れ筋。
既にクリスマスイブまであと十日、日待ちする洋菓子に関しては、大量生産シフトに入っていなければならないタイミングである。作り置きして冷凍保存するために。
そして、オーナーパティシエールたる乙女姉さんは頑張った! 珍しく頑張った。風呂上がりにまで。結果、湯冷めして風邪をひいてしまったわけである。
『エマ・ロンドの来日を長年日本のファンは持ちこがれていたわけですが、これまで実現しなかったのはどうしてなのでしょう? 』
「そうなのよ〜、なんでだろ?」
コメンテーターの質問に乙女姉さんが首を傾げる。
『あくまで噂ですが、エマは日本嫌いだと言われてますねー』
「え――っ、それはイヤだなあ〜。エマが日本を好きになってくれるといいのにねぇ〜」
TVと語り合わないでください、姉さん。寂しい人に見えるから。
「ほら、いいから寝る。番組は録画しておけばいいから」
「エマの出る番組、チェックしといて〜」
「はいはい」
TVはエマなんたらの映像クリップに変わって、音楽が流れ出した。
「あ……これなら知ってる。有名なクリスマスソングだよな」
家康の勧めるアニメやゲームの曲しか知らない俺でも、知ってる名曲だ。
「いい曲でしょ〜? そうだ。お店でも流そうよ。きっとみんな喜ぶよ」
「うん」
クリスマスがテーマの切ないラブソングを少し掠れた美声が歌いあげる。
「こんな歌を歌える人には、嫌ってほしくないよね〜、日本……」
しみじみと言う乙女姉さんに、俺は微笑んで頷いた。
都築巧が、乙女の看病についている頃……。
ストレイキャッツの厨房では、三人の少女が肩を並べて、チョコの加工に奮闘していた。
「あたし、ウエイトレスとして慟いてたんじゃなかったっけ……楽しいからいいんだけどさ」
ぼそり、と呟いたのは、手をチョコだらけにした梅ノ森千世である。
「クリスマスは洋菓子店のハイライトだもの。去年とか一昨年なんかバイトはあたしひとりで、本っっ当に大変だったんだから」
(…この続きは本書にてどうぞ)
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