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草津(地区)とは、広島市西区に位置する地名です。
町名としては、草津本町、草津南1〜4、草津東1〜3、草津浜町、草津新町1・2、草津梅が台とありますが、草津新町1・2および草津港1〜3は埋立地である為、古くからの地元の人は「草津(地区)」として認めていないと云われているそうですのでこの頁では表題を「草津附近」としました。 |
草津は、神功皇后の伝説で軍津浦輪(いくさつうらわ)と呼ばれ、三韓出兵に向け軍船が集結したとされています。
中世には古江村内の浜方(漁村)として港湾が整備されました。また水運、軍事的にも活用され、毛利氏の時代に児玉氏が草津城の城主となり、厳島合戦の際には草津城や海蔵寺が陣所になりました。
近世には、浜方は分離され三次支藩の一村として独立しました。福島正則は(東の尾長村と)西のここ草津村に大門(関所の役割をもっていた門)を置きました、その後、広島城下と廿日市宿の中継地の間宿(あいのしゅく)となりました。広島藩の専売品などの積み出しを取り締まる番所が設けられ浜田藩の船屋敷も置かれるなど賑わっていました。また、(江戸時代中期)「牡蠣の養殖法」が開発され牡蠣養殖も盛んになり、大坂に向けた「カキ船」が評判を得て風物詩ともなり、広島の牡蠣を有名にしました。 |
1889(明治22)年4月1日町村制発足で新たに埋立て造成された隣接の庚午(新開)地区とともに佐伯郡草津村新設。1909(明治42)年2月1日町制を施行草津町と改称。1929(昭和4)年4月1日(近隣6町村とともに)広島市に編入し消滅。旧町域は広島市「草津町」となりました。古来干潟と入江に富んでいた草津の海岸線は1971(昭和46)年以降「西部開発事業」の埋め立てにより一変し、漁港はかなり沖合に移っています。 |
2005年交流ウォークでこの草津(地区)を(わたしは)はじめて案内してもらったのです。それから原爆関連の慰霊碑を一人で訪ね頭を垂れたりしましたが、交流ウォークの時に案内役をされる藤井先生のようには草津の街を知っているわけではありませんが、わたしなりの視点で編集しています。 |
2010年に交流ウォークで訪ねるまでわたしがただ知らなかった処、撮影していても編集していなかった処も加えて再編集しました、詳細頁はこれから編集していこうと思っている所です。 |
10.09.15更新 10.07.24再編集 05.03.22裕・記編集 |
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05.03.21撮影 |

10.05.01撮影 |

05.03.19撮影 |

08.09.28撮影 |

10.06.12撮影 |
(町並:草津東3)
土蔵鏝絵 |
(町並:草津東3)
残された手押しポンプ |
(被爆した山門)
慈光寺 |
(新築された)
慈光寺 |
(慈光寺)
御百度石 |
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05.03.21撮影 |

05.03.21撮影 |

05.03.21撮影 |

07.06.06撮影 |
草津八幡宮 |
(草津八幡宮)
凱旋碑 |
(草津八幡宮)
凱旋燈 |
草津城跡 |
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10.06.12撮影 |

05.03.21撮影 |

07.006.06撮影 |

05.03.21撮影 |

05.03.21撮影 |
小泉酒造場 |
置鳳輦止處・碑 |
(草津で最初)
元・郵便局 |
(草津)御幸橋 |
(草津町並)
袖壁〔うだつ〕 |
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10.06.12撮影 |

05.03.21撮影 |

07.10.21撮影 |

07.10.21撮影 |

05.03.21撮影 |
(草津町並)
蒲鉾屋・亀康 |
西楽寺 |
(西楽寺)
小林五郎左衛門の墓 |
(西楽寺)
雪見山の墓 |
教専寺 |
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05.03.21撮影 |

10.05.01撮影 |

07.06.16撮影 |

07.06.16撮影 |

07.06.16撮影 |
(草津本町)釣井 |
(西・草津にあったという)
大門の蝶番・模型 |
(町並・草津南町2)
手押しポンプ |
草津橋 |
(旧)思案橋銘板柱 |
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05.06.18撮影 |

10.05.01撮影 |

10.07.10撮影 |
(西国街道・草津)
大石と大石餅店跡 |
西部埋立第四公園 |
(西部埋立第四公園)
(植樹の)エバヤマザクラ |
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10.07.10撮影 |

07.06.06撮影 |

07.07.21撮影 |

10.07.10撮影 |
西部埋立第七公園 |
(西部埋立第七公園)
埋立で陸地に取り残された灯台 |
西部埋立第九公園 |
西部埋立第十公園 |
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