大島さんとの約束の『ザ・ジャーナル』用の原稿を書き上げた。
一度だけならいいが、
二度も三度も過去の文章の再掲では、向こうの読者諸氏に失礼だろう、
と考えたからだ。
向こうに掲載されるのだが、
僕の読者諸氏に、あそこまで見に行ってくれ、なんて失礼は、当然言えない。
同じものを、ここにも掲載することにした。
執筆料をもらっているわけでもないので、それくらいは許してくれるだろう。
読んでやってくださいな。
僕、厚かましくも、
購読料送れと、ゆうちょの口座番号まで書いてしまったよ。
笑って許してくれるかなあ。
小泉純一郎と小沢一郎
現在、民主党の圧勝によって、
小泉純一郎という政治家の価値は、著しく低下している。
自民党の議員たちでさえ、
8月の総選挙では、小泉路線の軌道修正を言っていた。
しかし、
僕には、この現象は、はなはだ不当に過ぎる、
と思える。
なぜなら、
そこには、
2005年のいわゆる「郵政選挙」で、小泉自民党が何故あれほどまでの大量票を獲得したかという考察が、まったく欠如しているからだ。
小泉政権の最高支持率は80%だった。
鳩山政権の最高支持率は78%くらいだ。
いささか乱暴だが、
これによって両陣営の岩盤が見え、これを単純に差っ引くと、
この国には約55%の浮動票が存在している勘定になる。
乱暴ではあるが、これは、あたらずとも遠からずの数値だと思える。
つまり、
平成日本においては、
有権者の約半数が、その時その時の「気分」で投票しているという事実が浮かび上がる。
仮に、今、
鳩山民主党政権誕生によって、小泉純一郎の存在価値を全否定するということは、
あの時期、小泉純一郎を支持した浮動票の「気分」を全否定するのと同義になる。
つまり、有権者の半数の政治意識は愚かだったということになる。
しかし、
そんな馬鹿な話はないだろう。
平成日本で傑出した政治家を挙げよ、
と言われたなら、
僕は即座に、小泉純一郎と小沢一郎の名を挙げる。
僕は、29歳の時(昭和57年)から特定郵便局長をしていて、
小泉純一郎の郵政民営化闘争を、まったく対立する陣営から見つめ続けてきた。
当時、
小泉の主張する郵政民営化は、
僕の所属する全国特定郵便局長会(通称全特)が核になった、「郵政族」と呼ばれる政界最大の族集団によって一笑に付され、
彼は、僕たちの陣営から、阿呆呼ばわりされていた。
しかし、
僕は、いつの時期からか、
「この男は、いつか必ず郵政民営化をやり遂げるぞ」
と思うようになった。
なぜなら、
彼の主張は、とても単純化されていて、わかりやすかった。
そして、もうひとつ、
力のない当時の彼は、
常に、
政治家に向かってではなく、
国民大衆に向かってダイレクトに語りかけていた。
僕には、
この戦術はきわめて現代的で優れている、
と思えた。
それから、彼は、
一歩一歩、ほとんど自力で階段をのぼり、
郵政大臣になると、総スカンを食いながらも郵政民営化を主張し、
首相になると、抵抗勢力を無視して、郵政民営化一本で国民に改革を訴え、画期的な大勝利を手にした。
節々で見せた役者顔負けの科白の数々は、
名アクターとしての素質を存分に発揮し、国民を酔わせた。
勝って当然だな、
と僕は思った。
有権者の5割が、
彼の主張を諾として、
小泉票を投じたこの勝利は、正当に評価されるべきだ。
今になって、その5割の有権者を、「先見性に乏しい輩だった」と嘲笑する者たちは、
本当の意味で、政治を語る資格のない人たちだ、
と僕は思っている。
郵政選挙の圧勝によって、自民党は小泉純一郎に逆らえなくなった。
小泉旋風の勢いはすさまじく、
小泉のパフォーマンス政治こそが平成政治の主流だ、という風潮が蔓延し、
国会議員は、与党も野党も、みな、
論理よりも、中身はなくても耳あたりのいいワンフレーズ探しに躍起になった。
つまり、
政治家たちは政治論理を放擲し、
この国では、政治論理が不要になった。
そこまでの政治光景をつくっただけでも、小泉純一郎の力量は、評価されてしかるべきである。
僕に言わせれば、
あとに続く自民党の政治家たちが阿呆ぞろいだったのだ。
その象徴的存在が、山本一太とかいう蛸を歪めたような目立ちたがり屋だ。
あんな馬鹿が、自分が何者かのように、
ある時は安倍晋三の応援歌を作ったかと思うと、
安部が退陣するや福田康夫の応援団をやるという無節操ぶりを見せ続けた。
だらしない風化の象徴だな、
と思ったが、
そんな男を重宝がるマスメディアが存在したという意味で、みんな共犯だ。
そうした風潮の中で、
聞く耳を持たない有権者や政治家に向かって、執拗に政治理念を語り続けたのは、
小沢一郎ただひとりだった。
しかし、
この事実は、肝に銘じておかねばならないが、
小泉純一郎在任中、論理を主張する小沢一郎は、
ワンフレーズで国民にダイレクトに訴える小泉純一郎に、
どうしても勝てなかった。
小沢一郎だけではなく、
日本の政治家は、誰一人、小泉純一郎に勝てなかった。
あれは、何故だったのか。
僕は、
ここに、平成日本の大衆意識解明の鍵がある、
と思ってきた。
この大衆意識の秘密を解き明かさない限り、
僕たちは、この国の政治状況についてうぬぼれる資格は与えられない。
ただ、
激しい小泉旋風の中で、
ほとんどの政治家は、失語症におちいり、その存在意義すら失ったが、
たった一人、
小沢一郎だけは、
勝てなかったが、後退しなかった。
彼の支持者は彼から離れなかった。
これは刮目に値する。
小沢一郎ならばのことだった。
この一点を評価しなければ、小沢一郎の何も評価しないのに等しい。
小沢一郎は、この国では稀有な、優れて論理的な政治家だった。
彼独りが、小泉旋風の奥底にあるものを見つめていた。
それはこんな発言が証明している。
「国民はこのままじゃダメと思っていて、変化を求めているんです。そして、小泉
首相ならば、なにかそういうことをやってくれるのかもしれないという錯覚を持っ
た。その結果、05年の総選挙(引用者注:郵政選挙のこと)で自民党が圧勝した」
「簡単なことなんです。小泉首相のパフォーマンスだけで、自民党にあれだけの票が
入るんだから、変化を望んでいる国民に対して簡明なシグナルを送ることができれ
ば完全に勝つ。絶対に勝つ」
「小泉首相なんか選挙で一言もマニフェストに触れないで、ただ『イエスかノーか』
しか言わない。それで票が集まるわけです」
「中身のあるしっかりした政策は、そうそう簡潔に説明はできない。だから難しい」
(90年代の証言 小沢一郎 政権奪取論』(朝日新聞社刊)
小泉純一郎に対する敵がい心はあるが、
ことの本質をよく見据えている発言だ、と思う。
僕たちは、
ややもすると、
今回の政権交代が、小沢一郎の「卓越した選挙技能」によってもたらされたのように誤解しがちだ。
マスコミの論調もそれ一色だ、
しかし、
それは、
とんでもない見当違いだ。
見えてないにもほどがある。
あるいは、見てみないふりにもほどがある。
小泉政権下で5割の浮動層の政治意識を研究した小沢一郎が、
「国民の生活が第一」という、実に<わかりやすい理念フレーズ>を用意し、
それを地道に訴え続けて、浮動層の関心を自分に向けさせたからこそ政権交代が実現した、
と読むべきなのだ。
讃えるのなら、
小泉政権から始まった非論理の政治状況の中で、
政治論理の必要性を説き続けた小沢一郎の強靭な持続力と行動力をこそ褒め讃えるべきである。
どちらにしても、
平成政治16年間の本質を語る時、
小泉純一郎と小沢一郎の二人の存在価値を、同じ重量で受けとめて語れない論は、すべて無効である、
と僕は思ってきた。
そして、
それは、
好き嫌いレベルの話では、ない。
<追記>
僕は貧しいもの書きで、
人様の喜捨(日記購読料)によって生きている。
もし、この論を読んで、購読に値した、と思った方がいたら、購読料を送ってくださいな。
ゆうちょ銀行
記号 10180
番号 56027811
口座名 フケダアミ
なお、ゆうちょからの「お知らせ」では、他銀行から送る場合は、
店番号 018
普通預金
口座番号 5602781
となるそうです。
一度だけならいいが、
二度も三度も過去の文章の再掲では、向こうの読者諸氏に失礼だろう、
と考えたからだ。
向こうに掲載されるのだが、
僕の読者諸氏に、あそこまで見に行ってくれ、なんて失礼は、当然言えない。
同じものを、ここにも掲載することにした。
執筆料をもらっているわけでもないので、それくらいは許してくれるだろう。
読んでやってくださいな。
僕、厚かましくも、
購読料送れと、ゆうちょの口座番号まで書いてしまったよ。
笑って許してくれるかなあ。
小泉純一郎と小沢一郎
現在、民主党の圧勝によって、
小泉純一郎という政治家の価値は、著しく低下している。
自民党の議員たちでさえ、
8月の総選挙では、小泉路線の軌道修正を言っていた。
しかし、
僕には、この現象は、はなはだ不当に過ぎる、
と思える。
なぜなら、
そこには、
2005年のいわゆる「郵政選挙」で、小泉自民党が何故あれほどまでの大量票を獲得したかという考察が、まったく欠如しているからだ。
小泉政権の最高支持率は80%だった。
鳩山政権の最高支持率は78%くらいだ。
いささか乱暴だが、
これによって両陣営の岩盤が見え、これを単純に差っ引くと、
この国には約55%の浮動票が存在している勘定になる。
乱暴ではあるが、これは、あたらずとも遠からずの数値だと思える。
つまり、
平成日本においては、
有権者の約半数が、その時その時の「気分」で投票しているという事実が浮かび上がる。
仮に、今、
鳩山民主党政権誕生によって、小泉純一郎の存在価値を全否定するということは、
あの時期、小泉純一郎を支持した浮動票の「気分」を全否定するのと同義になる。
つまり、有権者の半数の政治意識は愚かだったということになる。
しかし、
そんな馬鹿な話はないだろう。
平成日本で傑出した政治家を挙げよ、
と言われたなら、
僕は即座に、小泉純一郎と小沢一郎の名を挙げる。
僕は、29歳の時(昭和57年)から特定郵便局長をしていて、
小泉純一郎の郵政民営化闘争を、まったく対立する陣営から見つめ続けてきた。
当時、
小泉の主張する郵政民営化は、
僕の所属する全国特定郵便局長会(通称全特)が核になった、「郵政族」と呼ばれる政界最大の族集団によって一笑に付され、
彼は、僕たちの陣営から、阿呆呼ばわりされていた。
しかし、
僕は、いつの時期からか、
「この男は、いつか必ず郵政民営化をやり遂げるぞ」
と思うようになった。
なぜなら、
彼の主張は、とても単純化されていて、わかりやすかった。
そして、もうひとつ、
力のない当時の彼は、
常に、
政治家に向かってではなく、
国民大衆に向かってダイレクトに語りかけていた。
僕には、
この戦術はきわめて現代的で優れている、
と思えた。
それから、彼は、
一歩一歩、ほとんど自力で階段をのぼり、
郵政大臣になると、総スカンを食いながらも郵政民営化を主張し、
首相になると、抵抗勢力を無視して、郵政民営化一本で国民に改革を訴え、画期的な大勝利を手にした。
節々で見せた役者顔負けの科白の数々は、
名アクターとしての素質を存分に発揮し、国民を酔わせた。
勝って当然だな、
と僕は思った。
有権者の5割が、
彼の主張を諾として、
小泉票を投じたこの勝利は、正当に評価されるべきだ。
今になって、その5割の有権者を、「先見性に乏しい輩だった」と嘲笑する者たちは、
本当の意味で、政治を語る資格のない人たちだ、
と僕は思っている。
郵政選挙の圧勝によって、自民党は小泉純一郎に逆らえなくなった。
小泉旋風の勢いはすさまじく、
小泉のパフォーマンス政治こそが平成政治の主流だ、という風潮が蔓延し、
国会議員は、与党も野党も、みな、
論理よりも、中身はなくても耳あたりのいいワンフレーズ探しに躍起になった。
つまり、
政治家たちは政治論理を放擲し、
この国では、政治論理が不要になった。
そこまでの政治光景をつくっただけでも、小泉純一郎の力量は、評価されてしかるべきである。
僕に言わせれば、
あとに続く自民党の政治家たちが阿呆ぞろいだったのだ。
その象徴的存在が、山本一太とかいう蛸を歪めたような目立ちたがり屋だ。
あんな馬鹿が、自分が何者かのように、
ある時は安倍晋三の応援歌を作ったかと思うと、
安部が退陣するや福田康夫の応援団をやるという無節操ぶりを見せ続けた。
だらしない風化の象徴だな、
と思ったが、
そんな男を重宝がるマスメディアが存在したという意味で、みんな共犯だ。
そうした風潮の中で、
聞く耳を持たない有権者や政治家に向かって、執拗に政治理念を語り続けたのは、
小沢一郎ただひとりだった。
しかし、
この事実は、肝に銘じておかねばならないが、
小泉純一郎在任中、論理を主張する小沢一郎は、
ワンフレーズで国民にダイレクトに訴える小泉純一郎に、
どうしても勝てなかった。
小沢一郎だけではなく、
日本の政治家は、誰一人、小泉純一郎に勝てなかった。
あれは、何故だったのか。
僕は、
ここに、平成日本の大衆意識解明の鍵がある、
と思ってきた。
この大衆意識の秘密を解き明かさない限り、
僕たちは、この国の政治状況についてうぬぼれる資格は与えられない。
ただ、
激しい小泉旋風の中で、
ほとんどの政治家は、失語症におちいり、その存在意義すら失ったが、
たった一人、
小沢一郎だけは、
勝てなかったが、後退しなかった。
彼の支持者は彼から離れなかった。
これは刮目に値する。
小沢一郎ならばのことだった。
この一点を評価しなければ、小沢一郎の何も評価しないのに等しい。
小沢一郎は、この国では稀有な、優れて論理的な政治家だった。
彼独りが、小泉旋風の奥底にあるものを見つめていた。
それはこんな発言が証明している。
「国民はこのままじゃダメと思っていて、変化を求めているんです。そして、小泉
首相ならば、なにかそういうことをやってくれるのかもしれないという錯覚を持っ
た。その結果、05年の総選挙(引用者注:郵政選挙のこと)で自民党が圧勝した」
「簡単なことなんです。小泉首相のパフォーマンスだけで、自民党にあれだけの票が
入るんだから、変化を望んでいる国民に対して簡明なシグナルを送ることができれ
ば完全に勝つ。絶対に勝つ」
「小泉首相なんか選挙で一言もマニフェストに触れないで、ただ『イエスかノーか』
しか言わない。それで票が集まるわけです」
「中身のあるしっかりした政策は、そうそう簡潔に説明はできない。だから難しい」
(90年代の証言 小沢一郎 政権奪取論』(朝日新聞社刊)
小泉純一郎に対する敵がい心はあるが、
ことの本質をよく見据えている発言だ、と思う。
僕たちは、
ややもすると、
今回の政権交代が、小沢一郎の「卓越した選挙技能」によってもたらされたのように誤解しがちだ。
マスコミの論調もそれ一色だ、
しかし、
それは、
とんでもない見当違いだ。
見えてないにもほどがある。
あるいは、見てみないふりにもほどがある。
小泉政権下で5割の浮動層の政治意識を研究した小沢一郎が、
「国民の生活が第一」という、実に<わかりやすい理念フレーズ>を用意し、
それを地道に訴え続けて、浮動層の関心を自分に向けさせたからこそ政権交代が実現した、
と読むべきなのだ。
讃えるのなら、
小泉政権から始まった非論理の政治状況の中で、
政治論理の必要性を説き続けた小沢一郎の強靭な持続力と行動力をこそ褒め讃えるべきである。
どちらにしても、
平成政治16年間の本質を語る時、
小泉純一郎と小沢一郎の二人の存在価値を、同じ重量で受けとめて語れない論は、すべて無効である、
と僕は思ってきた。
そして、
それは、
好き嫌いレベルの話では、ない。
<追記>
僕は貧しいもの書きで、
人様の喜捨(日記購読料)によって生きている。
もし、この論を読んで、購読に値した、と思った方がいたら、購読料を送ってくださいな。
ゆうちょ銀行
記号 10180
番号 56027811
口座名 フケダアミ
なお、ゆうちょからの「お知らせ」では、他銀行から送る場合は、
店番号 018
普通預金
口座番号 5602781
となるそうです。
コメントの反応が楽しみです。
そもそも、ボロとはいえ、そしてまたその経緯は如何にあろうとも、雨露がしのげる部屋を持ちながら、「放浪」とはお門違いであった。
それにしても、赤貧・真性放浪者の論説を掲載するとは、The JOURNALの懐の広さに経緯を表する。
もしかすると、これを機会に「段ボールハウス」からの投稿が増えるかも?。
3年前の夏、広島の何とか公園にお住まいである、Cさんの段ボールハウスに招かれ、発泡酒を酌み交わしたことがある。無論、発泡酒と乾き物は私の持参ではあったが・・・・。
あの時も、ハウス内にはノートパソコンがあり、ネットに繋がっていたが、電気は?、ネット接続はどうなっていたのだろうと、今ごろ気になり出した。
赤貧さん、まだまだ修行の余地有り。
経緯→敬意