玄関を開ける音が聞こえて、美佳はパソコンから目を離す。手を離して自分の部屋から出て、帰ってきた相手を見た。
「お帰りなさい、紫峰さん」
午前二時。最近帰ってくる時間がいつも遅い。要人警護という特殊な職業だから、そうなることも多いのだが。けれどここ一ヶ月くらいはずっとこんな感じだ。
「ただいま。仕事中?」
遅くなるので最近は車で出勤している。きっとネクタイは車の中で緩めたのだろう。首から下がっているだけのようなそれが、疲れを表している。
「そう、仕事中。ご飯、食べます?」
美佳は言いながら行動した。けれど、言われた言葉は残念なことに、いらない、という言葉だった。
「とにかく、寝たいから。ごめん、美佳」
そのまま寝室へと向かう紫峰を見て、美佳は瞬きをした。
結婚して一年以上。美佳が、というよりも紫峰が忙しい。結婚記念日も一緒に過ごせなかったが、何より新婚旅行にだって、流れに流れて行ったことがない。とくに最近は本当に帰ってくるのが遅くて。
美佳は結婚した時から与えられた自分の部屋に、再度向かう。そしてパソコンの画面を見ると、英語の羅列ばかりでため息が出る。翻訳の仕事はほとんど断っているのだが、今回はどうしても、と言われて翻訳をしている。急ぎで、と言われたので、明後日までには上げないといけない。これが終わったら、と思うが次は雑誌のコラムを書いて、それから新たに本を出すと言うから、打ち合わせもしなければならない。
「意外と、私も暇がないのね」
ため息をついてカレンダーを見つめていると、美佳の部屋がノックされる。そうして、後ろを向くと紫峰がいて。
「美佳は寝ないの?」
「……あ、ごめんなさい。今、急ぎの仕事なの。もう少ししたら、寝るから。紫峰さん、先に寝てて」
美佳が笑顔を浮かべて言うと、紫峰は頷いたけれどため息をついた。美佳のそばまでやってきて、見上げる美佳の座っている椅子を回転させて、自分の方へ向ける。
「仕事なら邪魔できない」
美佳の前に腰をおろして、その膝に頭を乗せる。
「疲れた」
「お疲れさま、紫峰さん」
膝に乗った紫峰の頭を少し撫でると、頭を起こして、美佳の首に手を回す。少し引き寄せられて、何をしてほしいのかわかって、美佳も紫峰に顔を近付ける。
短いキス。少し音を立てて離れたそれに、紫峰は満足したのか微笑んで、そして立ち上がる。
「仕事の邪魔をして悪かった。また明日」
「……はい、また明日」
紫峰は美佳の部屋のドアを閉めた。その閉まる音が耳に残って、パソコンの画面を見ても、翻訳が進まない。早く仕上げなければ、紫峰との時間だって取れないのに。
午前二時半。ため息ばかり。
こんなことでは進まない。絶対に仕事なんかできない。
何とか三行だけ翻訳して、そしてシャワーを浴びて。三行だけじゃ間に合わないかもしれないけれど、明日頑張れば、と思いながら髪の毛を急いで乾かして、でもそれでももう午前三時。
「……明日、紫峰さん……きっと七時に起きて、八時には出て行く」
美佳と話して、眠ったらもっと遅くなる。仕事に集中できないと、きっと困るだろう。
そう思うと、とたんに心が萎えてしまってため息が出る。
「仕事、しよ」
美佳は仕事をするために自分の部屋に戻った。
少しだけ寝て、朝は紫峰のために食事を作って、そして少しでも話そう。美佳はそう思うと少しやる気が出て、仕事がはかどった。これなら仕事が早く上がりそうだと思う。そうしたら、紫峰との時間ができる。
美佳はそう思って頑張った。
◆
「あれ? あ、え?」
起き上がると体がきしんだ。肩とか腕がとにかく痛い。
「いった……」
どうにか起き上がって、顔をしかめる。腕を上げると、結構痛かった。
こんな痛みをよく覚えている。決まって机の上で寝たときや、パソコンの上で寝たとき。何度となく経験して、そのたびに整体に行く。今は仕事の量を決めてやっているので、このような痛みはほとんどと言っていいほど、なかったのだが。
おまけに今はベッドの上。誰がここまで連れて来たのかなんて、すぐにわかる。
「痛い。肩、どうしよう」
「そりゃ、痛いよ美佳。パソコンの上で眠ってた」
きしむように痛い肩や背中を丸めていると、寝室の出入口に紫峰がいた。ドアに身体を預けるように立っている。ジャケットは身に着けていないが、きっちりとしたスーツ姿。疲れを感じさせない、決まった格好。
今日もカッコイイ、と思いながら美佳は紫峰を見た。
「紫峰さん、ここまで運んでくれた?」
「なんでか五時ごろ目が覚めてね。部屋をのぞいたら、君がパソコンの上で寝てた。あんなに身体を丸めて寝ていたら、肩や首を痛める。当たり前だよ」
食事を作ろうと思っていたのに、と時間を見るとすでに七時五十分を過ぎようとしていた。
「ご飯は? 食べた?」
「軽く。もう行くよ」
食事を作れなかったことに半ばがっかりした。疲れていた紫峰に朝食を作ろうと思っていたのに。自分がその疲れている紫峰に世話をかけては、意味がない。
顔を上げると微笑んだ紫峰が、手招きをする。美佳は首を傾げて、足をベッドから下ろす。きしむ身体に、息を吐いてこらえてから紫峰のそばに行く。何だろう、と思いながら。
「後ろを向いて」
「後ろ?」
「いいから、後ろ向いて」
美佳は瞬きをして後ろを向いた。その両腕の間から、紫峰の手が入る。羽交い締めをするように、紫峰の腕が美佳の腕を軽く固定して、その手は美佳の後頭部に軽く添えられた。
「おとなしくしていて。ちょっと痛いよ」
言われて眉を寄せて、後ろを向こうとする前に、紫峰の腕が美佳の肩をそのまま後ろに引くように、がっちりと固定した。
「いっ! 痛いっ! や、ギブ、ギブっ!」
「もう少し」
さらに力を込めるように後ろに肩を引き上げられて、美佳は痛くて歯を食いしばった。
「紫峰さんっ! 離して! 痛い!」
声を出して、笑った紫峰はもちろん離さない。
「がんばって」
肩がゴキゴキ言いそうな、そんな感じだった。たぶん時間にしてそんなに時間はたっていない。力を緩められたと思うと、軽く左右に揺らされてこれも痛かった。ようやく紫峰の腕が離れて、最後に腕を引っ張られて、背に何かをあてられて、強く引っ張られた。ゴキリ、と音が鳴った気がした。
「痛っ!」
腕を離して、最後に軽く背を撫でられる。息をはくと、どこか肩が軽くて背の痛みも和らいだ。整体に行って身体を矯正された感じに。
「治った?」
後ろを向いて紫峰を見る。相手はにこりと笑って美佳を見た。
「痛かったです。する前に言ってくれないなんて」
「ちょっと痛いって言ったよ?」
可笑しそうに笑った紫峰。確かにそう言ったけれど。
「美佳、肩が硬い。たまに運動させないと、関節が固まる。パソコンに向かっている時間が多いんだから、きちんと肩を回したりしないと。あとはパソコンの上で寝ないこと」
紫峰が寝ていた美佳をベッドまで運んだのだ。全く気付かなかった。しかも、痛かったけれど、美佳のつらい肩や首、そして背の痛みを和らげてまでくれた。
「ごめんなさい。でも……またするかも」
美佳の言うことに少し苦笑して、その横を通り過ぎる。寝室にあるクローゼットからジャケットをとって、それを身に着けながら美佳に言った。
「だったら、さっきのやつ、またやるしかないな」
ジャケットを着てボタンを閉めて。美佳の髪の毛に触れて、耳にかけてから軽く美佳の唇を奪う。
「たまには休んで、肩を動かして」
肩を軽く叩いてから、美佳の横を通り過ぎる。
ハッとして、美佳は寝間着姿のまま、紫峰を追いかけた。玄関で追い付いて、靴をはくその背に美佳は言った。
「いってらっしゃい、紫峰さん。気をつけて」
靴を履き終えた紫峰が美佳をみて、その頬を撫でる。
「今日も遅くなるかもしれない。仕事がなかったら先に寝てて」
そうして笑顔を向けて玄関を出る。
「行ってきます」
美佳は手を振って、紫峰を見送った。今日も遅くなる、という紫峰の言葉を聞いて、やはりこれもがっかりする。
美佳の仕事も不規則で、紫峰も不規則。美佳は家にいるのだが、時間がないと変な時間に寝て、変な時間に起きてしまう。それでも紫峰と生活するようになってからは、結構規則的になっていた。
それでもたまにこういうことがあると、ため息が出る。
紫峰との新婚旅行にだって、互いの都合が合わずに行ったことがない。もう一年以上たつのに。
ただ、子供のことは言われなくなった。まだなのか、と特に紫峰の母親から言われたのだが、紫峰が義母に言ってくれたらしい。もう少し二人でいたいから、と言うと呆れていた、と言っていたけれど。
「二人でゆっくりしたい……なぁ」
その願いは聞き届けられるかどうかなんて、全くわからない。
紫峰は忙しい人だから。夜中に何かあれば起こされることもあるくらいに。
とにかく仕事を上げよう、と思った。これを上げなければ、ゆっくりも何もないから。
紫峰が矯正してくれたおかげで軽くなった肩を回して、とにかく身支度を整えるために美佳は洗面台に向かう。
そして、自分の顔を見てため息が出る。
「クマができてる。もう若くない証拠?」
自分で言って苦笑して。もう三十になった自分を省みて。
もっときちんとした生活ができるよう努力しなければ、と思った。
いつも紫峰の前で綺麗であるような努力も、必要だと考えながら。
NEXT→ 目次へ戻る この記事にコメントする
始まったんですね!
おはようございます。起きて一番に何気なく美珠さんのサイトにお邪魔したら、新しい紫峰&美佳が!!!
今私の顔がどれだけニヤけているか想像できますか? 新しい連載が始まったんですね。もう嬉しくって、嬉しくって。どんな感じになるんでしょう…。楽しみです!! 紫峰さん、整体もどきもできるんですね。制服姿も凛々しいし、奥様への愛情はばっちりだし・・・あ~、ホントに素敵な旦那さまです! Re:始まったんですね!
コメントありがとうございます。
始まらせてしまいました。本当は、どうしようか迷っていたのですが……。ここで始まってしまうと、ほかの連載が…、と思ってまして。 でも、喜んでいただけてよかったです。 一年たっても旅行にさえ行っていない二人ですが、どうでしょうね。これから。キョウコさんも紫峰に整体やられたいでしょうか?(笑) 後ろから羽交い締めって、なんか独特で、ほかの人が見たらどう思うのでしょうね。 それでは、今後もよろしかったらお読みください。
ありがとうございます
「この世界に君がいるから」から間をおかずの新シリーズ開始、本当に嬉しいです。
1ヶ月ほど前にこちらのサイトへおじゃましてから、ほぼ日参している状態で、 「君が好きだから」シリーズはプリントアウトして繰り返し読んでいます。 紫峰と美佳のこれからの物語、楽しみにしていますね! Re:ありがとうございます
コメントありがとうございます。
日参していただいているんですね。ありがとうございます。 毎日読んでくださっているようでうれしいです。 それではまたよろしかったらお読みください。
ちょっと寂しいですね
日常生活って感じですね。若い20代ではない大人の結婚だなって思いました。お互いの生き方を尊重しあってる、でも我侭が言えないのがかえってツライかも。たまにはごねてみるのも可愛いですよ。いや、ここのご夫婦だとごねるのは紫峰さんの専売特許でしたね(笑)
Re:ちょっと寂しいですね
続けてのコメントありがとうございます。
二人の今後はいろいろとあると思いますので、楽しみに待っていてください。こんなに落ち着いた雰囲気じゃなくなるかも? それではまたよろしかったらお読みください。 |
カレンダー
カウンター
リンク
フリーエリア
最新記事
(01/30)
(11/28)
(11/08)
(11/06)
(11/02)
最新コメント
[03/04 veinkeriarlf]
[03/01 かしまる]
[02/28 かしまる]
[02/02 maukiti9]
[01/31 こはく]
カテゴリー
プロフィール
HN:
美珠
性別:
女性
職業:
猫
趣味:
ボディーボード・お昼寝
自己紹介:
三毛猫のキキと同棲中。
寝るのが好きで、あとはボディーボードをやったり。 小説を書くのがとても速いと言われることがある。 小説を書く間にも、よく昼寝をしている。
ブログ内検索
リンク
最古記事
(07/08)
(07/08)
(07/08)
(02/17)
(02/18) |