今回は、前原誠司氏にお話を伺ってまいりました。 【プロフィール】 前原誠司[まえはらせいじ] 氏 ■昭和37年 4月 京都市左京区に生まれる ■昭和44年 4月 京都市立修学院小学校入学 ■昭和50年 4月 京都教育大学教育学部附属京都中学校入学 ■昭和53年 4月 京都教育大学教育学部附属高等学校入学 ■昭和57年 4月 京都大学法学部入学、国際政治学(高坂正堯ゼミ)を専攻 ■昭和62年 4月 (財)松下政経塾入塾 ■平成 3年 4月 京都府議会議員選挙(左京区選出)において府議会史上最年少の28歳で初当選 厚生労働、環境対策委員、同和推進副委員長、文教委員を歴任 ■平成 5年 7月 第40回衆議院議員総選挙において初当選(京都1区選出) ■平成 8年10月 第41回衆議院議員総選挙において2期目の当選 ■平成12年 6月 第42回衆議院議員総選挙において3期目の当選(京都2区選出) ■平成13年 9月 民主党 幹事長代理に就任 (〜平成14年9月) ■平成14年12月 民主党「次の内閣」安全保障ネクスト大臣に就任 ■平成15年11月 第43回衆議院議員総選挙において4期目の当選(京都2区選出) ■平成15年12月 民主党「次の内閣」ネクスト外務大臣に就任 ――――では、よろしくおねがいします。 最初は、前原さんご自身のことについてお聞きしたいと思います。 前原さんは13年前に京都府議に立候補され、今年、4期目の衆議院選挙に立候補され、 今回も見事ご当選されました。今回は民主党のネクストキャビネットに ご入閣されてもいます。そのような華やかなご経歴の一方で、 二世議員でもあられない訳ですし、初当選時等々には相当苦労があったとおもわれます。 そのような苦労にどのように向かって、どのように乗り越えられてきたのでしょうか? おっしゃるように、親父が家庭裁判所につとめていて、最後は簡易裁判所の裁判官 だったんですが、僕が中二の時に亡くなりました。母親は主婦だったんですが、 親父が死んでから働き始めました。普通の家庭だったんですね。 当然金もないし、祖先に遡っても政治家はいないと思う家系ですよ。 ですから、よくいわれる地盤・看板・カバンといわれる、その三つはほぼなかった。 ほぼというのは、大学を卒業してから、松下政経塾というところに 四年間勉強させてもらいまして、私は政経塾の8期生なんですけど、 政経塾としての知名・期待はあった。という意味で、 若干の看板はあったのかなあという意味です。ですから、どこの馬の骨ともわからぬという、 まったくの地盤・看板・カバンがなかったというわけではなかった。 政経塾というということで、ある程度まともだと思って頂けた状況だったのかな。 ――――地盤やカバンはどうだったのですか? 苦労したのは、この地盤とカバンがないことでしたね。 この左京区というのは、ぼくの生まれた場所ですが、親父が死んでからは、 山科区に引越したんです。ですから中学2年生からずっと離れていたので、 そのとき住んでいた山科で出馬するか、生まれ育った左京で出馬するかずっと迷ったんです。 結局、生まれ育ったところということで、左京で立候補して、今に至るんですけれども。 地盤・カバンの問題もありますけど、まずは、まあ、票を集めなければならない。 票を集めるっていうことは、これはねずみ講と一緒でね。知り合いから知り合いを 辿っていくわけですよ。これが大変でしたよね。だから、昔の小学校の同級生、 またはその親御さんといったところを辿って、紹介してもらうんですよ。 だから本当、ねずみ講とかわらない。ゼロからスタートしていくわけですね、 だから本当に砂に水をまくようなものでした。ポスターも自分で貼っていかなくては いけませんから、かといってどこにでも貼ってもいいものでもないですし、したがって、 一軒一軒たのんでいくわけですよ。今でも覚えていますよ。9月の23日、 平成二年の秋分の日に、ポスターを貼り始めたんですけど、半日回って、 三軒しかOKをもらえなかった。ず〜っとまわったのにね。 だから、そういうものをやっていくのは本当に気が遠くなるような作業だった。 ただそれを続けていけば、支援者というのは自然とひろがるもので、大体そうですね、 八ヶ月で1万件くらい歩いたんですよ、家を。今でも忘れませんよ、 9678票という票をいただいたのは、回ったぶんだけ票がでたかんじでしたね。 で、半日で3枚しか貼れなかったポスターも、おかげで、選挙の直前には2000枚くらい 貼れたのかな、左京区で。 毎朝月曜から土曜まで、七時半から九時まで、街頭演説をやり、そして、十時くらいから 夜の六時七時くらいまでは、家をあるき、そしてそれから残務整理をする という毎日を続けていました。 で、戻るんですが、大変だったのは、体の大変さと同時にお金がかかるんですね。 事務所をかまえる。ポスターをつくる。名刺をつくる。ビラを作る。 あるいは、事務所にアルバイトのひとを雇わなくてはいけない。 アルバイトだけじゃなくて、手伝ってくれるひとがいるかもしれない。 ことお金がかかって・・・、これは本当賭けでしたけどね、 最終的に選挙が終わるころには借金が残った。落ちていたら大変なことになっていた。 収入がないのに、借金があって。この借金も、いわば応援してくださる方が、無担保で、 出世払い的にかしてくれるのが多くて、あとは母親が持っていたマンションを担保にして・・・、 だから下手をしたら、家がなくなってしまうリスクを背負ってやりましたけどね。 いまとなっては笑い話ですみますけれど、その当時は落ちていたら大変なことになっていた。 ――――そういった地道な努力と前原さんのご人望によって、今があるというわけですね いやまあ、なんかやろうとおもったら、リスクをとるかとらないかっていうのはありますよね。 安全なところでは、なかなか新たなものっていうのは、うまれてこない。 商売と一緒じゃないですか。 ――――では、次の質問に移らせていただきます。京都府議時代は京都のために 尽くしてこられた訳で、そして今は国会議員として国民に尽くしておられるわけですね。 そういった意味で、府議から国会議員へ転身されて、前原さん自身はどのように お変わりになられたのでしょうか? はい。28歳で府会議員になって、いわゆるぼくの生活設計・人生設計といったものは、 地方議員は3期12年やって、40歳くらいで国会にでたいと、そういう人生設計を もっていた訳です。それで国会にでるっていうのは、府会議員でも困るくらいだから、 よっぽど集金能力をつけて・・・、そのころは中選挙区制だったんですよ。 いまの選挙区の倍の広さで、それだけ支援者も広げなきゃダメだし、 左京区だけでも大変だったし、だから12年計画で、やっていこうってことを思っていた。 しかも、地方議員を足がかりにするようなものではなくてね。 やっぱり地方自治といったものをしっかり知った上で、京都の問題っていうものを しっかり知った上で、力をつけたいと、思っていたんですよ。 将来はやはり、高坂正堯先生という、国際政治の先生のゼミで、国際政治を学んだから、 それをやりたくて、政治の世界にはいったんだけれども、今は中西寛さんかな?法学部の。 僕の一年うえです。国際政治、外交安全保障の問題をやりたいということで、 この世界に入ったので、将来はそれを専門にやりたい。地域のことも、地元のこともわかってなきゃ いけないということで、そういう計画をたてました。しかし、日本新党にはいるということになって、 細川さんがたまたま松下政経塾の役員をされていて、それで政経塾の先輩が、 細川さんの秘書をされていた。日本新党に入らないかと話しをされたが、お断りしていたんです。 私は無所属だったんで、しばらく無所属でいようと思っていたんです。 しかし、選挙を手伝ってくれといわれて、手伝ったんですよ、別に日本新党に入らずに。 選挙を手伝うって言うのは日本新党のはじめての参議院選挙です。 僕が近畿四国遊説隊長っていうのをやったんですよ。あのころは18日間くらいかな、 選挙期間中、ものすごく長い、ドサまわりをしたわけですよ、近畿地方と四国をね。 それで、日本新党に対して親近感をもって、日本の政治を本気で変えられるんではないかと思い、 日本新党に入りました。突然、衆議院にでてくれっていわれて、それはとんでもない。 まだ、なりたてでね。衆議院なんてそんな簡単になれるもんじゃないと思っていたんでね。 半年間くらい断りつづけて、しかし、だんだんだんだん、支援者が・・・、 日本新党の期待感っていうのはそのとき凄いものがありました。これで挑戦しなかったら、 男じゃないという雰囲気になってきた。 まわりから、でもう2年ちょっとしか府会議員をやらずに、そして運良く当選できました。 出ることをきめたのが5月で、解散が6月で、選挙が7月でしたもの。 ですから、あれよあれよという間でしたね。だから、そのころはあまりお金がかからなかったんですよ。 しかしそれからは、苦労続きで・・・、ブームで通ったって足腰は全然しっかりしてないから、 二回目の選挙は小選挙区で落選して、比例復活という・・・、 いわば拾ってもらうような形で当選をして・・・。 そこから、三回目、小選挙区で初めて通って、今回(4回目)勝つまでは相当大変な、 府会議員でるときと同じように歩いたりとか、街頭演説したりと、まあ国政のことも大切だけれども、 やっぱり選挙にかたなくちゃ、政治家は駄目ですね。 ――――すごいですね。最初の13年プランみたいなものは。 そう、どっかふっとんじゃってね(笑) ――――おもしろいですね〜 では、最後に、前原さんの政治家としてもっていらっしゃる、 夢やヴィジョンみたいなものはどのようなことでしょうか? まず大きくいえば、日本をもう一度強い国にしたいと。凋落傾向といわれていて、 アジアでも中国にその盟主の座を明け渡すのではないかと、 昔はLOOK EASTということで、日本を見習って、アジアの国々も日本に 続こうとしていたのに、近頃では、大丈夫か日本は? といわれている。 経済の面でも、教育の面でもすべての面で、そういわれている。それをもう一度、 再復活させたい、日本を。そういった意味で、ぼくは外交安全保障を切り口として、 日本再生のための安全保障戦略ヴィジョンというものを打ち立てて、 それに基づいた外交安全保障をしていきたいと。たとえば、食料・エネルギーの確保とか、 産業競争力の強化とか、あるいは地域安全保障とかね。あるいは、環境の問題もそうだし、 ヴィジョンをもって、それをしっかり実行できるような体制をつくりあげていきたいと 思っています。外交の担当者なので、今まさに、専門家の方々と話をして、外交ヴィジョン というものをつくりあげている最中なんです。ですから、野党の立場なんで、 すぐそれができるというわけではないんですけれども、例えばマニフェストに 落とし込むものは落とし込んで、政権交代の暁には、それをやりきると。 日本再生、あるいは日はまた昇る戦略というものをね、しっかりとやっていきたいとおもいますね。 政治の役割というのはごく簡単にいえば、我々の次の世代によりいい日本を残していく、 前よりも悪いものを引き継がしてはいけない、よりいい形にして引き継がせるということだと思うので、 だからそのための、一国会議員ですから、力は微々たるものかもしれないですけど、 国民の代表として選ばれている一員ですから、一生懸命やりたいなと思います。 ――――最後に、京都の学生にむけて、メッセージをいただけますか? そうですね。自分の経験というものがベストだったとはまったくおもわないんですけれども、 大学時代というのは最大のモラトリアムなんですよね。 だから本当いろんなことを経験してもらったらいいとおもいます。ひとつはやはり、 いろんなアルバイトをしてね・・・、ぼくもいろんなアルバイトをしたけれども、 社会を垣間見るということ。それからクラブ活動もやってもらいたいし、遊びも大切ですね。 それでいてやはり自分の核になる勉強は、なにかやっぱりやり続けるっていう、バランス感覚を養って、 なにか人間を広げていってもらえる時期になればいいかなっておもう。 あとは、そういったなかでいずれは、就職をしなければいけないんで、 なかなか難しいとは思うけれど、そういう試行錯誤を通じて、一生うちこめる仕事を 探し当ててほしいなっておもいます。 ぼくはさっきいったように、高坂先生の講義をうけて、ゼミを取って、 国際政治にかかわる仕事につきたいと思った。だから、テーマで職業をえらんで、 外交官っていう選択肢もあったし、大学に残るっていう選択肢もあったし、 政治家っていう選択肢もあった。そのなかで選んだのが政治家っていう仕事だった。 まあ、そういった意味では、やりぬきたいテーマがないと、職業から選んだら、 こんなはずではなかったっていうことがでてくるんじゃないかなって思いますけどね。 まあ、そんな偉そうなことをいえる大学生活を送ってないんで(笑) 楽しかったですよ、大学時代。本当おもしろかった。 ――――今日は本当にお忙しい中、ありがとうございました
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