編集長日誌〜本の御しるし
★編集長日誌18★
2月16日(水曜日)
出社と同時に来日西洋人を追跡しておられる武内博さんが来社、しばらく話していかれた後、瀬沼寿雄さんが定期購読代を収めに来られて、お歳(85歳)の話から、戦時中に北海道の農家へ勤労奉仕に行かれた話、終戦直前に習志野連隊に入られた話などをされて行った。さらに元明治大学図書館司書の飯澤文夫さんが来社、そこに扶桑書房の東原さんが来合わせて、しばらく古書目録の話やら、最近の地方では新刊書店が減り、購入はネットに頼らざるを得ない話、小学校で将来は本の形をした教科書が使われなくなったら、書物を読む習慣がなくなるのではないか、IT化を国家的に進めるシンガポールでは既に小学校の教室から黒板が消え、先生はパワーポイントを使って授業をしているといった話題になった。次から次の来客で忙しい午前中であった。
二月号が届かないという連絡が二、三入った。小社宛送った分も午前中には届かず午後1時にやっと届いた。14日にメール便で発送しだが、三連休の後と、やはり雪の影響で少し遅れたのかもしれない。
社長から面白いからと、之潮という出版社のPR雑誌季刊「collegio」を渡された。昨年亡くなった古地図専門古書店忠敬堂今井哲夫の娘さん彩子さんが父の思い出と、忠敬堂さんが自店のHP用に用意していた原稿が掲載されていた。店主コラム「参謀本部の地図の虜」という文章のほか明治以来のわが国の地形図について簡潔に紹介されていて極めて興味深い。これは今井さん追悼の意味も込めて四月号に転載させて頂こうと思う。
2月17日(木曜日)
物事は順調な時は不思議なくらいスムーズに進むもので、昨日の「collegio」の今井さんの文章転載の件だが、八木書店に之潮の芳賀啓さんが丁度来社されて、転載の件を話したら快く承知してくださり、今井さんの娘さんにも連絡して下さるとのことだった。
神保町の大屋書房ウインドウに、現在本誌で「未紹介黒本青本」を連載されている木村八重子先生の「鈴木重三先生との夏」という文章が掲載された雑誌のようなものが、頁を開いた形で展示されていた。木村先生にそのことをメールでお知らせすると、その雑誌とは別に、先生が編集された鈴木重三さんを偲ぶ会のおりの資料集もあり、「聞書抄」も掲載されているという。これもお送り下さるとのことで、到着が待ち遠しい。
二月号の到着が各地で遅れ、苦情の電話が何本かあった。改めてお詫び申し上げる。
2月18日(金曜日)
金曜日だが、21日の中央市会大市の準備で明治古典会も即売会も休みだ。先週祝日でも明治古典会が開催されたのは、二回連続休会を避けたのかと今頃気づいた。
昼休みに小宮山書店のガレージセールで岡崎武志さんに出会う。「これを見て」と岡崎さんが指差すものを見れば、講談社の『日本近代文学大事典』一巻から三巻の人名篇だ。三冊千円とは恐れ入るしかない。もっとも現在では文学者の経歴は、ウイキペディアで、この事典に出ている程度は調べられる。ただ、「雑誌・新聞篇」「索引・叢書目録」の五巻、六巻は他では調べようがないから、これらはさすがに三冊千円コーナーには出てこない。しかし、そうはいっても驚きでもあるし、売れ残っているというのがさらに凄い。
私は、竹村俊則という方が、江戸期の名所図会風に京都の俯瞰図を描き、各名所の歴史や現状を詳しく記録した『昭和京都名所図会5・洛中』(400頁、駸々堂・1984)というのを購入した。洛中だけで64図ある。一見、見慣れた江戸期の名所図会だが、よく見ると道路に自動車やバイクが走っている。ところが寺院の周囲にあるはずのビルは殆ど描かれていない。勿論描かれているのもあるが少ない。秋里籬島の名所図会シリーズによほどほれ込んだ御仁と見える。全七巻のもらしいが、これは偉業と言ってよいお仕事であると感じた。
一昨日来社の武内博さんが、これもライフワークの外人墓地関連の本を近く刊行されるが、その跋文のようなものを依頼された。目上の人の本に、年下のものが跋文というのはどうかと思うが、是非にということなのでお引き受けした。考えてみれば年下といっても56歳だ。いい爺様である。引き受けたが、どう書くか考えていたが、何事も過剰な思い入れと執着がなければ、作品に結晶しない。竹村さんの仕事を見て、跋文の内容も固まった。そういえば、『日本近代文学大事典』の雑誌・新聞解説や叢書細目も、まさに昨年亡くなられた紅野敏郎先生の執念の結晶であった。
2月21日(月曜日)
中央市大市会が開かれていて、沖縄や北海道からの業者の顔も見える。出品もかなりの分量である。地下の会場に比較的高額品が展示されていて、2階から4階までが、ある程度分量のあるものが数本の束で出品されている。昨日と今日だけで全部を見るのは至難の技だろう。古本屋さんたちはどちらを優先して入札するか迷うところかもしれない。「週刊ポスト」「週刊現代」「フォーカス」などの大山もあるし、漫画も多いようだ。中途半端に古いゲームソフトの大山もあったが、これなど店で売れずに処分に困った商品かもしれない。何が売れるのか私など見ていても良く分からない。興味の湧く商品はあるが、それが果たして客の付くものか見当もつかない。『馬賊になるまで』といった本を含む馬関係の五本口の商品に札が沢山入っていた。馬政学から生物学的な本まで馬と書名にあれば集めた一口だが、少し毛色の変わったこうしたものに人気があるのが現在の古書業界だろう。地下には『コドモノクニ』35冊というのもあって、けっこうな落札額になると思うが、それも売れるかどうかは又別問題なのだ。
青木正美さんの新刊『ある「詩人古本屋」伝―風雲児ドン・ザッキーを探せ』(筑摩書房)が届いた。癌治療のなかで仕上げた著書である。『古本探偵追跡簿』(マルジュ社・1995)の一章としてかつて取り上げたテーマをさらに掘り下げたものだ。大正期のダダイズム詩人都崎友雄ドン・ザッキーを現在に甦らせたのは青木さんの功績である。先週の金曜日八木書店の卸部で見本配給されたこの本を見て、これは話題になる本だと感じた。あとがきを、石神井書林の内堀弘さんが書いている。売れると良いが。
木村八重子先生が、鈴木重三さんを偲ぶ会の配布資料や追悼文のコピーなどを送って下さった。鈴木先生は国立国会図書館の司書監を勤められたあと、白百合女子大で教鞭を取られ、昨年九月に九十一歳で逝去されている。近世絵本や浮世絵、馬琴や山東京伝の研究にも功績を残されている。私が大屋書房のウインドウで見たのは「浮世絵藝術」161号であった。送って下さった資料の中に、片岡球子画伯が描いた「浮世絵師歌川国芳と浮世絵研究家鈴木重三先生」という屏風絵の絵葉書があった。国芳描く「七浦大漁繁昌之図」をアレンジした図柄の前に二人が対座する構図で「面構」のシリーズ作品の一つらしい。近代の絵画のモデルになった学者はそんなにはいないだろう。
2月22日(火曜日)
本格的に3月号の校正が出始まった。アンケートは分量が多く二回連載にする必要がありそうだ。分載すると迫力がなくなるが、あまり頁を取りすぎるのも問題がある。
急に学研が出した泉鏡花の『高野聖・歌行燈』(秦恒平訳・「明治の古典」4)が必要になって、確か八木書店の特価本売り場に長い間売れ残っていたはずと、調べてもらうと在庫無しという。皮肉なものである。しょうがないので日本の古本屋で注文したが売価400円。手数料にも満たない金額で、古書店さんに申し訳ないようだ。玉三郎が現在、「高野聖」をやっているらしい。高野聖・宗朝役は以前、海老蔵だったが、現在は獅童だ。いずれにしても随分がっちりした宗朝である。玉三郎が宗朝をやったほうがそれらしく思うがどうだろう。それとも諸国を歩く高野聖は頑丈な体をしていたのか。
2月23日(水曜日)
どんどん出てくる3月号校正、ひとつ見ては著者に送り校閲していただくという作業が続く。EメールにPDFで取り込んだ画像を送るという方法もあるが、当社ではゲラをPDF化することが残念ながら出来ない。大抵はFAXか郵送である。
明治から昭和初期にかけて、近世俳書の翻刻が進み、博文館の「俳諧文庫」とか、天青堂の「古俳句文庫」、俳書堂の「俳諧古典集」など、B6判で薄いがハードカバーの本が沢山出された。私はこれらが好きでよく買うのだが、今日は、俳書堂の蕪村『新花摘』を見つけた。「新花摘」は蕪村が私の在所である茨城県下館結城地方に来遊していた折の思い出が書かれたもので、かつて国会図書館で原本を見せていただいたこともある。松村呉春(月渓)の挿絵も七葉入る本だ。中に、旅姿の僧体の人物画があり、正面向きと横向きが見開きで描かれている。この本でも口絵にして収録されている。この人物が誰か、正面図は蕪村だが横向きが誰かが問題で、その判明の経緯をかつて大礒義雄先生が本誌1994年6月号「蕪村漫筆」で書いておられる。絵画にも詳しい清水孝之氏は共に蕪村説、大礒先生は横向き人物を潭北と判断されていたが、同時期に描かれていた「芭蕉百回忌取越俳諧」の一幅を見るに及んで蕪村であることを確認できたという内容だ。大礒先生が潭北説を唱えたのは昭和十年ころだが、本日購入の『新花摘』は大正五年初版、同十五年第三版、籾山梓月が解説まで書いているが、そこではちゃんと共に蕪村像としている。次に潭北が遣わした飛脚が、蕪村が白石の旅舎に忘れた「埋木」を前にした老夫婦と対座している図がある。この絵の説明を梓月は「潭北が飛脚、いまし、白石の旅舎に到り着き、かの埋木を請ひ需むるところなるべく」と解説しているが、右の夫婦は潭北夫婦で、飛脚が埋木を持ち帰った場面ではないだろうか。右の中老人は大礒先生が間違えた前の図と似ていないこともない。帰って蕪村全集で調べようと思うが、前記の正面と横向きの図は確か少し違うものを収録していた記憶があり、別の本なのかもしれない。
2月24日(木曜日)
『新花摘』は全集七巻に収録されているが、例の旅姿の人物図は、全集が底本とした逸翁美術館蔵の巻子本では、正面を向く蕪村と横向きの人物が少し重なるように描かれたもので、つまり二人は別人である。であれば、横向きの人物は潭北ということになる。次の飛脚と埋木を挿んで対する夫婦の図もその間隔が狭い。巻物であるから版面を気にする必要がない構図である。ただ、全集にこれら挿絵の解説はない。全集の解説を担当した山下一海氏は、版本には若干の誤字・脱字のほか、一部字句や図版に改竄のあとが見られると書いているだけだ。重なっている二人の人物を分け、蕪村の方は描かれていなかった左腕が描かれているのだから一部の改竄どころではない。新潮日本古典集成の『与謝蕪村集』は清水孝之先生の解説で、「新花摘」の解説も要を得たものと素人目にも分かる。蕪村の師早野巴人の師である其角の亡母追善の『華摘』に倣ったやはり蕪村の亡母五十回忌追善集で、夏行として一日十句を自らに課した。弟子几薫らにも俳諧修業の方法として勧めたもので、安永七、八年頃、蕪村の最も充実した時期の作と推定されている。ただ、主に前半の俳句の方の解説で、俳文に添えられた挿絵の説明はない。逸翁美術館の巻子本には全然触れていない。柿衛文庫には巻子本にされる前のものから直接写したといわれる月渓・田福交筆の半紙本『新華摘』があるが、図録で見る限り罫線のある写本ゆえ絵があるのかどうか分からない。版本の原本は失われているが、安永期の蕪村遺稿を天明期に月渓らが書写、挿絵を添えたものだから、挿絵は蕪村とは直接関係ないが、大礒先生が見た「芭蕉百回忌取越俳諧」の一軸も逸翁美術館のものらしい。ささいなことだが二人の人物の確定、私は気になる。
先日の中央市会大市の落札品が少し会館にのこっていて、その中に「週刊ポスト」「週刊現代」「FLASH」の口があった。落札札がついていたのを見たが、もし遠方からの出品だったら割りには合わない額である。以前「平凡パンチ」の大揃いはかなりの金額になったのだが「平凡パンチ」と「週刊ポスト」の差はどこにあるか。考えられるのは「平凡パンチ」が、新聞などでは追えない若者文化の変遷を辿ることが出来る点だろう。中年文化では魅力が少ないし、他でいくらでも調べられそうだ。
2月25日(金曜日)
明治古典会は月末の特選市だが、やや迫力にかける主品かと感じた。速報に高柳重信「伯爵領」、富澤赤黄男「天の狼」共に毛筆句入りというのが出ていたが、品物を見ると「天の狼」は重信が池上浩山人装丁二百部限定で出した戦後版であった。最終台にないから不思議だったが納得した。最終台には山頭火の句短冊「ぬれてふてふ二羽になり三羽になり」があったが、速報には無い出品である。
久々に古通鑑定堂に鑑定依頼があった。薩摩暦の天明五年版で、暦に詳しい岡田芳朗文化女子大学教授も、二〇〇一年の紀要では寛政十一年まで確認とされていた。ただ、その後天明五年版を確認されたようで、国会図書館のHPでは「天明五年以降を確認」と訂正されている。今回の鑑定品は、そのまさに天明五年版で、写真を公開するのは本誌があるいは初めてになるかもしれない。通常の薩摩暦でも伝存は少なく、古書市場にでれば二、三十万円はするらしい。
古書市場で、この編集長日誌バックナンバーは見られないのですか、と聞かれた。嬉しい限りだが、トラックバックできるようにすると、毎回見てくれないし、目的は当社のHPに来てもらうことなのでとお答えした。
2月28日(月曜日)
午後から霙になった。暑さ寒さも彼岸まで、三寒四温などというが、温かくなったりまた寒くなったりを繰り返して春になって行く。毎年同じだが、違うようでもあり、人間はともかく様々なことを忘れる動物である。
昔読んだ泉鏡花の『高野聖』を先日ネットで購入した学研の「明治の古典」で読み直した。といよりも、挿絵が気になって求めたのだが、鏑木清方と川端龍子の二種の挿絵が較べられて良かった。すごく引き込まれて読んだ記憶があっただけで、読み直すと旅の宿での今は高僧になった高野聖宗朝が、若い頃の不思議な体験を旅の宿の同宿の語り手に夜語りするという設定であったことも忘れていた。作品としては明らかに山中に棲む美しい妖女の描写が眼目であろう。泉鏡花の筆はその怪しい美しさを描いて確かに比類がない。宗朝の体つきは表現されていないが、清方も龍子も旅に日焼けし風雨に鍛えられた筋骨隆々の人物には描いていない。若いきれいな旅の僧侶をイメージするのは当然であろう。
青木正美さんの新刊『ある「詩人古本屋」伝―風雲児ドン・ザッキーを探せ』が頗る面白い。大正期ダダイズムの研究家がドン・ザッキーを研究して書いてもこうした内容にはならないだろう。私も多少関係のある本で、勿論、青木さんが調べていた期間も承知し、以前の『古本屋探偵追跡簿』も読みある程度知ってはいるつもりでいたが、今回の本ではドン・ザッキーの姿が改めてぐっと迫ってくる感じだ。この本きっと評判になると思う。
大屋幸世先生の新刊『近代日本文学書の書誌・細目八つ』が完成した。依頼されていた発送先にお送りした。人はものを忘れる動物ゆえに、こうした記録が残される意味があるのだ。先生は自分は書誌的な研究に向かないと仰せだが、こうした地味な仕事は他の誰れが出来るだろう。定価1050円(送料80円)、販売部数は二〇〇部に満たない。