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繰り返されるか、宮中祭祀の形骸化
 
───皇室伝統を蔑ろにする宮内官僚を糾す
 
 
 
 
 
 皇室の、そして日本の危機である。
 
 順徳天皇が「およそ禁中の作法は神事を先にし、他事をあとにす」と「禁秘抄」(1221年)の冒頭に書かれたように、宮中祭祀こそは天皇第一のお務めである。「国中平らかに安らけく」という私なき天皇の祈りは、古来、連綿と継承されてきた。天皇は政治権力ではなく、祭りの霊力によって、多様なる国民を多様なままに統合し、この国を治めてこられた。天皇の祈りは昔も今も、日本という文明の核心である。
 
 しかしいま、文明の根幹に関わる宮中祭祀の伝統が、あろうことか、皇室を守るべき立場の、ほかならぬ宮内官僚たちによって破壊されようとしている。これを危機といわずして何というべきか。
 
 
「祭祀の調整」を宮内庁発表
 
 今年2月、宮内庁は、天皇・皇后両陛下のご健康問題について発表した。金沢一郎・皇室医務主管は、天皇陛下がガン治療による副作用で、骨に異常を来す可能性があることから新たな療法の確保が必要だ、と述べ、風岡典之・宮内庁次長は、運動療法実施のためご日程のパターンを一部見直す、と補足した。
 
 風岡次長の補足説明は、
 
1、昭和天皇のご負担軽減の先例に従うこと
2、宮中三殿の耐震改修が完了し、3月末から宮中三殿での祭祀が再開されるのを機に、ご日程見直しの一環として調整を検討していること
3、御在位20年を超える来年から、という陛下のお気持ちを尊重すること
 
の3点であった。
 
 翌3月には、両陛下のご負担軽減の観点から、祭祀の態様について所用の調整の検討が進められていることが、風岡、金沢両氏の連名で追加説明された。
 
 喜寿を迎えようとされている両陛下のご健康は国民の大きな関心事である。だが、なぜ宮内庁は、陛下のご健康問題への配慮と称して、皇室伝統の祭祀に真っ先に手をつけようとするのか。
 
 風岡次長は昭和天皇の先例を根拠としている。けれども昭和天皇の晩年期に行われた祭祀の「簡素化」(入江日記)はご健康問題が理由ではなく、御代拝という「調整」をしたのでもなかった。端的にいえば、入江相政侍従長ら側近による祭祀の骨抜き工作の結果であり、したがってこの悪しき先例を何食わぬ顔で踏襲することは、前例を盾にした反対封じであり、あってはならない伝統破壊の正当化にほかならない。
 
 むろんご負担の軽減は必要であろう。宮中三殿で行われる宮中祭祀は大祭・小祭あわせて年間約20件。祭儀は生命力の蘇りであり、受難ではないが、とくに第一の重儀である、11月23日の夜に長時間にわたって行われる新嘗祭から、翌年1月まで、寒さが募る時期に集中的に続く祭祀が、療養中の今上陛下にとって激務であろうことは間違いない。
 
 しかしそれなら、国事行為の臨時代行とは直ちに飛躍しないまでも、法的根拠や伝統的裏づけがあるわけでもない御公務のお出ましを削減し、あるいは御名代として皇太子殿下を立てるという方法がなぜ検討されないのか。皇室第一のお務めである祭祀が最初の標的にされなければならない謂われはない。
 
 大祭の親祭、小祭の親拝がご負担だとするなら、大祭なら皇族または掌典長に祭典を執行させ、小祭ならば皇族または侍従に拝礼させるという慣例がある。なぜ、ことさらご健康への配慮を公言し、「調整」する必要があるのか。
 
 
入江侍従長による「簡素化」
 
 歴史をひもとけば、宮中祭祀の改変は、敗戦後、占領軍による圧迫に始まった。すなわち昭和20年12月に発せられた、いわゆる神道指令である。「国家と宗教を分離すること」を目的とする神道指令は、駅の門松や注連縄(しめなわ)までも撤去するほど過酷なもので、占領軍は神道に対する差別的圧迫を加えた。宮中祭祀は存続を認められたものの、公的性を否定され、「皇室の私事」におとしめられた。
 
 22年5月、現行憲法が施行され、それとともに、皇室祭祀令などは廃止され、宮中祭祀は成文法上の根拠を失った。
 
 憲法は「天皇は憲法が定める国事に関する行為のみを行い、国政に関する
権能を有しない」(4条1項)と規定するが、皇室の祭儀は国事行為には含まれない。しかし、「従前の例に準じて事務を処理すること」という宮内府長官官房文書課長の依命通牒によって、かろうじて祭祀の伝統は守られた。
 
 被占領国の宗教に干渉することは戦時国際法に明らかに違反していたが、アメリカがあえてこれを無視して干渉したのは、戦争中から、「国家神道」こそ「軍国主義・超国家主義」の源泉だという妄想に囚われていたからにほかならない。
 
 アメリカはわずか数年で自分たちのトンチンカンに気づいた。であればこそ、24年11月の松平恒雄・参議院議長の参議院葬は神式で行われ、26年10月には吉田茂首相が靖国神社に参拝することも認められた。占領軍が国家と宗教を分離する絶対分離主義から、国家と教会を分離する限定分離主義へと政策変更したことについては、GHQ職員の裏づけ証言がある。
 
 平和条約の発効で日本は独立を回復し、神道指令も失効した。しかし政府は今日に至るまで、国の基本法に天皇の祭祀を正しく位置づけること、世界に類例のない祭祀王としての天皇を憲法論的に確立する作業を怠ってきた。怠慢以外の何ものでもない。
 
 それでも34年の皇太子御成婚で、賢所大前での神式儀礼が「国事」と閣議決定され、国会議員が参列した。宮中祭祀はすべて「皇室の私事」とした神道指令下の解釈が打破されたのである。10年後の44年には瓜生順良・宮内庁次長が参議院で、他の公有の宗教施設と同様、宮中三殿の国有財産化が法的に可能である、という内閣法制局の見解を示し、祭祀の公的性がやっと認められた。
 
 天皇の祭祀を私事に閉じ込めてきた神道指令以来の法解釈はこうして改善されてきた。しかし逆に、このころを境に、揺り戻しが始まる。
 
 43年に侍従次長となり、翌年には侍従長代行、侍従長と駆け上がった入江相政は、43年には毎月1日の旬祭(しゅんさい)の親拝を年2回に削減し、45年には新嘗祭の「簡素化」に取りかかった。入江日記によると、同年の新嘗祭は夕(よい)の儀のみが親祭で、暁の儀は掌典長が祭典を行ったらしい。
 
 
祭祀破壊の真因は政教分離
 
 風岡次長は今年2月、「昭和の時代にも、次第にお年を召されつつあった昭和天皇のご負担軽減という観点から、累次、所要の調整が行われた経緯があります」と、あたかも当時の「調整」が陛下のご高齢を理由に行われたかのように説明しているが、誤りであろう。
 
 「簡素化」が始まった43年といえば陛下はまだ60代である。46年秋にはヨーロッパを、50年秋にはアメリカを、香淳皇后とともに訪問されている。半月もの長旅に耐えられるのは「高齢」ではない。
 
 入江日記には、45年5月に香淳皇后から旬祭の親拝削減について抗議を受けた入江が猛反撃し、ねじ伏せたことが誇らしげにつづられ、「くだらない」との暴言さえ記されているが、親拝削減の理由が「高齢」にあるとの記述はない。
 
 当時、入江が盛んに気にしていたのは昭和天皇の「お口のお癖」で、新嘗祭「簡素化」のきっかけのように説明されている。しかし「お癖」が始まったのは香淳皇后の抗議の直後からで、陛下の「お癖」を入江が老化現象と理解したとしても、43年の旬祭の親拝削減の原因とはなり得ない。逆に入江の工作が「お癖」の原因とも疑われる。
 
 膨大な日記に宮中祭祀の神聖さを何ら記録しなかった「俗物」入江侍従長が執念を燃やした祭祀の形骸化は、「無神論者」を自称していたという富田朝彦・内閣調査室長が四十九年秋に宮内庁次長に就任したあと、舞台を「オモテ」に移し、激化する。
 
 風岡次長のいう「調整」すなわち祭祀破壊の原因が「高齢」ではないのなら、真因は何か。当時を知る宮内庁OBは憲法の政教分離問題だと説明する。
 
 「戦前の宮内省時代からの生え抜き職員たちがそろって定年で退職し、代わって他の省庁から幹部職員が入ってくるようになった。新しい職員は『国家公務員』という発想が先に立ち、皇室の伝統に対する理解は乏しかった。新興宗教と見まごうほどに厳格な政教分離の考え方が宮内庁中にはびこり、なぜ祭祀に関わらなければならないのか、などと、側近の侍従職までが声を上げるようになり、祭祀から手を引き始めた」
 
 大きなうねりのようなものが宮内庁を含む行政全体を襲い、そしていよいよ、戦後30年の昭和50年8月15日、宮内庁長官室の会議で、祭祀の改変が決められた。
 
 最大の変更は毎朝御代拝(まいちょうごだいはい)である。
 
 毎朝御代拝は天皇が毎朝、側近の侍従を宮中三殿に遣わし、烏帽子(えぼし)・浄衣に身を正し、天皇に代わって拝礼させるものである。平安初期の宇多天皇に始まる、天皇が毎朝、みずから伊勢神宮を遥拝した石灰壇御拝(いしばいだんのぎょはい)につらなる重儀とされる。
 
 しかし入江らは、宮中三殿の前庭のなるべく遠い位置からモーニングを着て拝礼する形式に変えた。侍従は国家公務員だから、祭祀という宗教に関与すべきではない、というのが理由で、拝礼場所と服装の変更は神道色を薄めるための配慮とされる。「従前の例に準じて」とする昭和22年の依命通牒は反故(ほご)にされた。
 
 このほか、御代拝に関する重大な変更がなされた。天皇の御代拝は公務員である侍従から内廷職員、つまり天皇の私的使用人という立場にある新設の掌典次長に代わり、皇后、皇太子、皇太子妃の御代拝は廃止された。皇后陛下、両殿下は御代拝の機会さえ奪われたのだ。
 
 
掌典長回答書も空しく
 
 「天皇に私なし」という伝統的考え方に立てば、祭祀はけっして「皇室の私事」ではないが、「国はいかなる宗教的活動もしてはならない」(憲法20条3項)を字義通りに解釈し、天皇の意思に依らずに、宮内官僚らが祭祀の形式を勝手に変更したことは、越権行為であると同時に、みずからの絶対分離主義にも抵触する。「皇室の私事」たる「宗教」に国家機関が介入したことになるからだ。
 
 こうした大転換が起きるほど、公務員は特定の宗教である神道儀式に関われないという絶対分離主義の考え方がはびこり、祭祀の伝統を軽視する空気が庁内に蔓延していたのだといわれる。
 
 司法の世界では52年7月、津地鎮祭訴訟の最高裁判決は目的効果基準を打ち出し、絶対分離主義を否定した。けれども2年後の54年4月、真田秀夫・内閣法制局長官は元号法案の関連質疑で「従来のような大嘗祭は神式だから、憲法20条3項(国の宗教的活動の禁止)から国が行うことは許されない」と逆に絶対分離主義に立つ答弁を行った。
 
 入江らが人知れず進めた祭祀の改変・破壊は58年1月、衝撃をもって社会に知られることになる。前年暮れに現役掌典補が勇気をもって祭祀変更の是非を学会で問題提起し、これを週刊文春が大きく報道したのがきっかけであった。
 
 「憂念禁じがたい」ともっとも強く反発したのが、尊皇意識の人一倍強い神道人で、全国約八万社の神社を包括する神社本庁は、渋川謙一・事務局長名で富田宮内庁長官宛に抗議の質問書を提出した。当時の宮内庁関係者が「祭事は陛下の私事以外には扱えない」と放言しているのを黙過することができず、見解が変わったのか、と詰め寄ったのだ。
 
 これに対して宮内庁は、神社界の重鎮に対して揉み消し工作などを行ったといわれるが、交渉の末、同年5月、長官に代わって、東園基文掌典長名による回答書が発表された。「(賢所の祭儀は)ことによっては国事、ことによっては公事として行われる」という回答は、現状を憂える伝統派の主張を全面的に認めるもので、世上、流布されていた、皇室の祭儀はすべて「陛下の私事」に限られる、とする解釈を否定した。
 
 しかし回答書は「歯止め」にはならず、祭祀の破壊が止むことはなかった。
 
 戦前とは違い、祭祀をつかさどる掌典職はもはや国家機関ではなく、掌典長は内廷の私的使用人という立場に過ぎなかった。掌典長回答書に拘束力はなかった。数カ月後の入江日記には、宮内庁と神社本庁との交渉をまるで嘲笑うかのように、新嘗祭をいちだんと簡素化することを昭和天皇に願い上げ、お許しを得た、という記述がある。
 
 神道人の至情はお公家さんの老獪(ろうかい)さにあしらわれ、文字通り天皇の高齢を理由とする祭祀の改変・破壊がいちだんと進展したのである。しかし傘寿をすでに超えられていた昭和天皇は、祭祀王としての自覚を揺るがせることなく、たったお一人で、争わずに受け入れるという至難の帝王学を実践され、61年の新嘗祭まで親祭を貫かれた
 
 
彷徨う神道指令の亡霊
 
 憲法20条3項は「国はいかなる宗教的活動もしてはならない」と定めている。しかし憲法学者の小嶋和司・東北大学教授(故人)が指摘するように、国立大学での宗教学研究は認められるし、(旧)教育基本法は宗教に対する寛容の態度の尊重をうたっている。89条には「公金を宗教団体のために支出してはならない」とあるが、文化財保護の観点で神社、仏閣の修復が国費で行われている。つまり、憲法の政教分離規定は国家の宗教的中立性を要求してはいるが、無色中立性までは要求していない(小嶋『憲法解釈の諸問題』木鐸社、昭和60年)。
 
 東京都慰霊堂では年2回、仏式の法要が行われているし、長崎県では教会群の世界遺産登録運動が県をあげて展開されている。首相官邸ではイスラム行事「イフタール」が行われている。仏教やキリスト教、イスラムに対しては緩やかな分離政策が採られているが、憲法違反と抗議するものはいない。
 
 人はみな宗教的存在であり、絶対分離主義の考えにこそ無理がある。国家の宗教的無色中立性を原理主義的に貫けば、真善美を追求し、悪を憎み、悲しみに涙する人間性そのものを否定することになる。信教の自由を制度的に保障することが政教分離原則の目的であって、ことさら厳格にとらえて、逆に国民の精神生活を脅かすことになれば、角を矯(た)めて牛を殺す結果になることは目に見えている。
 
 ところが、こと神道に対しては、他宗教とは対照的に、厳格主義が採られている。明らかな法の下の平等に反する宗教差別である。神道指令の亡霊がいまだに彷徨っているのだ。
 
 そして絶対分離主義の立場で、神道儀式か否かで、国の儀式と皇室の行事とを区別する昭和54年の真田構想は御代替わりに具体化した。
 
 昭和天皇崩御から1カ月後、平成元年2月の衆院内閣委員会で小渕恵三・内閣官房長官は、大喪の礼は国の儀式で、葬場殿の儀は皇室行事として行われること、両儀は法的に明確に区別され、国の儀式では祭官は退席し、鳥居・大真榊を撤去することを答弁した。
 
 政府は、神道儀式である葬場殿の儀を皇室の私的行事として押し込め、国の儀式である大喪の礼からは宗教性を排除するという、神道指令的な絶対分離主義の発想に立っていた。
 
 このような厳格分離主義が世界の文明国に共通するのかといえば、逆である。
 
 いみじくも日本で昭和天皇の御大喪のあり方をめぐる国会論議が続いていたとき、アメリカではブッシュ第41代大統領の就任式が行われていたが、厳格主義の本家本元と一般には考えられている同国では自国の宗教伝統に従い、きわめて宗教色豊かに就任式が行われている。
 
 
天皇制反対の確信犯
 
 それなら日本ではなぜ宗教差別が公然と行われているのか。
 
 理由は二つ考えられる。一つは「国家神道」が「軍国主義・超国家主義」の源泉だとする神道指令的な誇大妄想を、いまなお日本人自身が引きずっていること。もう一つは現行憲法の政教分離主義が戦前の反省から生まれたとする誤った歴史理解があることだ。
 
 「国家神道」に対する誤解が解け、占領軍の神道敵視政策は数年で幕を閉じたが、洗脳された一部の日本人は同じ妄想にいまなお取り憑かれている。占領軍が無邪気な勘違いなら、こちらは悪意ある確信犯のプロパガンダといえる。
 
 戦前・戦中に靖国神社をシンボル化したのは、靖国神社自身というより、いま靖国批判に余念のない大新聞である。
 
 たとえば東京朝日新聞は、昭和14年1月、「戦車大展覧会」を主催した。後援は陸軍省で、戦車150台を連ねて東京市中をパレードする「戦車大行進」や陸軍の専門家による「大講演会」も開催された。展覧会の主会場となったのは靖国神社の外苑である。
 
 『朝日新聞社史 資料編』(百年史編纂委員会編、1995年)には、当時、同社が手がけた戦意高揚のためのイベントがいくつも並んでいる。だが、大戦車展については記載がない。口をつぐんでいるということか。
 
 同紙は国家の非常時を大いに利用し、「軍国主義」をあおり、部数を急拡大させ、「経理面の黄金時代」(『朝日新聞70年小史』朝日新聞社、昭和24年)を築いた。したがって「軍国主義」批判なら、国民を煽動し、戦争の狂気に駆り立て、戦後は何食わぬ顔で被害者ぶっている大新聞にこそ向けられるべきで、いまさら大新聞が靖国神社を「軍国主義のシンボル」などと批判するのはバカバカしいほど見え透いた責任転嫁である。
 
 現行憲法の政教分離原則が戦前の反省から生まれた、とする考えも誤りである。なぜなら、戦後より戦前の方が厳格主義が追求されているからだ。
 
 たとえば大正12年の関東大震災後の東京府市合同追悼式は、「宗教的儀礼を抜きにした」無宗教形式で行われ、このため「行政は宗教に無理解」と宗教界が強く反発し、軋轢(あつれき)が生じた、とさえ伝えられている。それほど政府は「世界の大勢にならい、国家は宗教に介入せず」を方針としていた。
 
 だとすると、神道を差別し、宮中祭祀を圧迫し、仏教やキリスト教、さらに無神論者を優遇するというダブル・スタンダードの政教分離政策には根拠がない。憲法の政教分離規定は、むしろ宗教伝統否定、天皇反対の道具として、確信的に悪用されている。さらに私にはこうした天皇反対論にほかならぬ天皇の側近たちが与(くみ)しているかに見える。
 
 
多様な国民を統合する祭り
 
 絶対分離主義者は、天皇の祭祀は神道儀礼であるから、国の儀礼と認めれば、国が宗教的活動をすることになり、神道を優遇し、逆に他宗教を抑圧することになる、と主張するが、あり得ない。
 
 地域共同体を信仰の母体とする神道には布教の概念も統一的教義もないし、宮中祭祀はあくまで儀式であって、信者拡大の意図がない。皇室は宗教団体ではない。国民の信教の自由を圧迫しようがないのだ。天皇の祭祀は「国はいかなる宗教的活動もしてはならない」という場合の「宗教的活動」には当たらない。
 
 もし宮中祭祀が神道を優遇し、政教分離に違反すると本気で考え、厳格主義を主張するのなら、天皇が仏教寺院に勅使を差遣されることにも、教会で行われる教皇の追悼ミサに天皇の御名代として皇太子が参列されることにも、抗議の声を上げなければならないが、厳格分離主義のキリスト者でさえ、そのような原理主義は唱えていない。
 
 国家に宗教的中立性を求めるのは、各宗教の違いを強調し、対立する一神教的発想が前提にある。Aの神もBの神も大らかに受け入れる多神教ではなく、「あなたには私をおいてほかに神があってはならない」(モーセの十戒)と教える一神教だからこそ、信仰者は異教を意識し、布教行為で他教を圧迫するのであって、したがって国民の信教の自由を保障する制度として政教分離が求められるのだ。
 
 しかしいまや一神教のカトリック教会は、第二次大戦後の第二バチカン公会議で、「諸宗教の中に見出される真実で尊いものを何も排斥しない」と宣言し、異教文化の容認を謳うようになった。ローマ教皇ベネディクト16世が、二年前、和解のためにトルコのブルーモスクを表敬し、崇高な祈りを捧げられたことは、世界の多くの共感を呼んだ。
 
 キリスト教世界の多宗教化ともいうべき現象も起きている。ワシントン・ナショナル・カテドラルは、イングランド教会(イギリス聖公会)を母教会とするアメリカ聖公会の聖堂だが、9.11同時多発テロ後の追悼ミサでも、大統領の就任ミサでも、諸宗教の聖職者が参加し、諸宗教の祈りが捧げられている。
 
 こうした現象は、キリスト教文明圏ではつい最近、目立つようになったできごとだが、日本という多神教的、多宗教的文明圏では、古代から当たり前のこととして行われてきた。キリスト教文明圏の方がはるかに遅れているのだ。
 
 そのことは神社の境内を眺め渡せば一目瞭然だ。本社のほかに境内社が並び、自然崇拝や祖先崇拝、皇室崇拝、あるいは義人信仰など、多様な信仰が一つの境内に共存している。外に目を転じれば、古代朝鮮の遺民が建てた古社、仏僧を祀る神社、キリシタンの神社さえある。
 
 キリスト教世界のように血生臭い宗教戦争を経験することなく、このような宗教的共存が成り立ってきたのは、その中心に天皇の私なき祈りがあるからだ。
 
 天皇は国民をみなひとしく赤子(せきし)と考え、私なき公正な立場で、「国平らかに、民安かれ」と祈られ、祭祀の力で、多様な国民を多様なままに統合してきた。天皇の祭りこそ、古来、国民の信教の自由を保障するものだった。
 
 たとえば仏教導入に積極的な役割を果たしたのが皇室であり、天皇が創建した古刹も少なくない。皇室こそ海外文化受容のセンターである。近代になると、皇室はキリスト教の社会事業を深く理解され、支援された。
 
 日本の天皇は異なる多様な宗教への敬意を千年以上も前から示してこられた。仏教に帰依した天皇さえおられる。それでも「神事を先にす」という「禁中の作法」が守られてきた。仏教の守護者ではあっても、一神教的な布教者ではない。
 
 昭和天皇の大喪の礼で、「神道色が強い」などと、鳥居や大真榊を撤去されたことがいかに形式論的で、事なかれ主義だったか。国民の信教の自由を大らかに保障し、宗教的共存を実現させてきた天皇の存在を再認識すべきである。
 
 
陛下がたったお一人で
 
 しかし官僚たちは天皇の祭りの意義を理解するどころか、逆に形骸化の既成事実を積み上げているのではないか。そう疑わざるを得ないのは、一昨年に始まり、今春完了したという宮中三殿の耐震改修工事である。
 
 明治22(1889)年に現在地に遷座して以来、宮中三殿は、関東大震災ほか、いくたびかの大地震に耐えてきた。それだけ耐震性に優れていることの証明だが、今回の改修は、震度8以上の地震で部分的損壊の可能性があるという診断が根拠とされている。
 
 診断が正確か否か、門外漢の私には判断のしようがないが、補強工事の手法には疑問を呈さざるを得ない。筋違(すじかい)を入れて床下を補強するなどの改修が行われたというのだが、和の極致ともいうべき神殿に西洋風の筋違を入れるというやり方は妥当だったのか。
 
 本来、日本の伝統的木造建築には筋違という斜材はなかった。明治24年の濃尾地震の被災地調査に加わったお雇い外国人のジョサイア・コンドルが「日本家屋が地震に弱いのは筋違がないのが原因」と指摘して以来、日本の近代建築は基礎を固め、筋違で抵抗力を増すというヨーロッパ風の「剛」構造路線をひた走ってきたといわれる。
 
 しかし「柔」構造の伝統木造建築は「変形するが粘り強く倒れない」が長所であり、なまじ筋違を入れて建物を固めれば、力のバランスが崩れ、「かえって危険」と批判する木造建築の専門家もいる。
 
 明治の改革は旧弊を打破し、西洋文化を採り入れ、近代化を進めた。文明開化の第一線に立たれたのは皇室で、明治宮殿は洋風が導入され、明治天皇は大元帥服を召された。だが、宮中祭祀の伝統は固守され、祭服も改められなかった。
 
 順徳天皇の「禁秘抄」に、伊勢神宮や賢所に足を向けてはならない、とあるように、皇室の宮中三殿に対する思いは格別である。昭和44年夏に入江侍従長代行が宮中三殿にクーラーを導入しようとしたとき、香淳皇后が「賢所に釘を打ってはならない」と抗議され、中止されたほどだ(入江日記)。
 
 現在では木造建築に関する科学的研究が進み、とくに阪神大震災以降は建築基準法が大改正され、かつては日陰者扱いだった伝統木造建築が近代構法と同等に論じられるようになった。むしろ霞ヶ関ビル以来、近代構法が「柔」構造を採り入れている。
 
 だとすれば、日本の伝統そのものともいえる宮中三殿に、「危険」な筋違を入れるという、筋違いとも思える改修工事がなぜなされたのか。
 
 そして今度は、陛下のご高齢、ご健康への配慮と称し、先帝時代の悪しき先例をもちだし、皇室の伝統である宮中祭祀そのものにメスを入れるというのだ。伝統軽視、ここに極まれり。陛下に近侍する側近たちは取り返しのつかないことをしているのではないか。
 
 風岡次長の発表では、陛下は「平成の御代が20年を超える来年から」と、しばしの時間的猶予を仰せになった。昭和天皇がそうであったように、今上陛下は争わずに受け入れるという至難の帝王学を実践し、たったお一人で皇室の伝統、すなわち日本の多神教文明の核心を守ろうとされているように私には見える。
 
 
註記 この記事は雑誌「正論」平成20年8月号に掲載された拙文「皇室伝統を蔑ろにする宮内官僚を糾す」を少し修正したものです。(2008年9月)
 
 
 
 
 
 
 
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