ドキュマン ou dialogue
*nの詩の余白に ndg-hayashi(林正憲;Hayashi Masanori)
確かに、日常と呼べる何かがある。そこから苛立ちと怒りと憎悪が生まれる。日常の合理性、効率性。あるいは批判なき反復。単なる習慣。『砂の女』で描かれたような、日常を形成する小さな反復たち。
そこに、詩のことばが吹いてくる。それは光か、沈黙か。
あるいは窓辺または水辺に、ひとりの女がいる。確かに幼いが、もう少女とは言えない。だが大人のと言うよりは、いくつもの年齢をそれぞれ育てあげつつあるといった・・・
突然、彼女が歌い出し、私は驚く。イタリア語の歌曲を口実に、自らの身体の中で声を響かせ、たちまちその音は外へと流れ出す。内部が外部へ出て行く。秘密が明らかになるみたいに。今そこに感じられる秘密。答えであるのに問いであるもの。よくあることだが、日常の単純な二分法が通じなくなる。明るいが暗く、暗いが明るい・・・と、そんな思考のゲ-ムは引き裂かれる。声の持続が臨界点からあふれ出し、いくつもの異なる物体を一つに結びつける。境界線がわからない。同一的な癒しの空間ではなく、目眩むような差異化の動きそのもののなかに置かれている。
と、歌は終わった。世界は変わった。だが日常の顔がそこに見える。私は忘れることのない声の響きとともに、少し落ち着いて、nの詩を読むだろう。(2005年02月14日 00時47分)
*Re:nの詩の余白に(02/06) zero-alpha(永澤 護)
久しぶりに、あの懐かしい頃みたいに、ちょっと恥ずかしいのだが、アッシュと呼んでみたい。
そこで、アッシュ
素晴らしい書き込みありがとう。
『砂の女』は恐ろしすぎる---小さなものほど恐ろしく執拗な---ミクロの同一者の反復を---果てもなく繰り返すこと---あの男が砂の底なし沼に嵌ってしまったように---詩の言葉がこれほどまでに無力なのは---なんと素晴らしい奇跡/軌跡だろうか---窓辺または水辺に言葉もなく佇みながら---語りかけることしかできないとは---勘違いしてはいけない---詩によって仮に---日常の単純な二分法が---通じなくなるのだとしても---それこそ無力さの極みであり---だがそれは---もし幸運に恵まれるなら---思考のゲームの無力さを剥き出しにするはずの無力さを---このゲームと共有している---何一つなすすべもなく---日常の顔をただそのままに---今ここに---そして同時に---いつかどこかの時空に保存しながら---私はもうすぐそこにある---アッシュの文書に出遭うだろう---
(2005年02月14日 20時37分)
Copyright(C) 林正憲(Hayashi Masanori) & Nagasawa Mamoru(永澤 護) All Rights Reserved.
|