§33、歴史学における学術論文の限界

学術論文とは過去の研究成果に基づいて新たな知見を発表する論文である。日本人は歴史が好きなので歴史書が大量に発行されているが、その多くは日本史である。中学校の社会科は地理・歴史・公民に三分されているが、歴史の記述の大半は、日本史についての記述である。日本史研究では地方に埋もれている史料を発見して、学会で発表すれば立派な業績となる。大学院生の頃からカメラなどの重い機材を持って農村部を調査すれば、今まで知られていなかった未発見の史料を発見することは珍しくない。

ところが世界史ではこのやり方は通用しない。つまり新しい史料が見つかったとしても、それを解読して発表するだけでは評価されない。世界史の全体像の中でその史料が持つ意味を解明しなければならない。ところが多くの日本史研究者は20代のころから、未発見の史料を求めて全国各地を訪ねて旅行しているので、世界史の大きな趨勢に照らしてその史料を解読することができない。あるいはそのような世界史の全体像を背景に史料を解読したとしても、その論文を審査する日本史研究者の同僚も世界史の基本的な素養を欠いているので、世界史てきな背景の記述を不必要な記述とみなして著者に削除させるであろう。こうして学会誌に発表される論文は、レフリーの段階でエッセンスが削り落とされてしまう。

これは歴史が学問である以上、同僚によるレフリーを避けることができない。その結果世界史の観点からは取るに足りない発見が大発見となる。現在の日本史の研究は微に入り細を穿つ研究で占められている。しかしそこからは日本史の全体像は見えてこない。そもそも史料というものは、貴族や大名などの残した徴税の記録などが主である。江戸時代になると庄屋と呼ばれる裕福な農民が現れて、文字の記録を代々保管し今日まで伝わっている場合もあるが、それらの史料が伝える事実は氷山の一角でしかない。

学問について実証性を重んじる伝統は高々200年前の、19世紀にヨーロッパで始まったものに過ぎない。普通の民衆は文字の読み書きすらできず、風説を信じて暮らしていたのである。日本という国に暮らしていると世界の多くの地域には、過去の事実を伝える史料が殆どない場合が多いことに気付きにくい。文字の史料がない場合には伝承を調べ、考古学的な知見を加味して、過去の時代を想像力によって復元するしかない。そのような研究は史料の裏付けがないという理由で、学会の事務局から却下される。ここには自然科学と社会科学の認識にかかわる根本的な相違がある。

自然科学の世界では原則として実験によって仮説を検証し、さらに追試によって同じ結果が出てこなければ正しいとは認められない。しかし社会科学の世界では文字史料が絶対の証拠とされ、史料が残っていない事実には沈黙を守らなくてはならない。実験による検証の有無は自然科学と社会科学を区別する決定的な要素である。近年のアメリカでは実験経済学と称する経済学が台頭し、その中からノーベル賞受賞者も現れている。しかし実験経済学の対象は消費者行動などのミクロ経済学に限られ、国民経済や世界経済などのマクロな現象には通用しない。

現状はこの通りであるが著者の考えを述べると、史料がない部分については想像力を駆使して補うべきである。例えばジグソーパズルのピースがいくつか欠けていたとしても、全体像を理解することはできる。このブログで書いてきたことは、以上のような著者の考え方に基づいている。だからこのブログは学術論文集ではなくエッセイ集である。エッセイの語源は16世紀フランスのモンテーニュの「エッセイ」という本来の意味は試論である。

このブログを読んでいただいた方は、世界史についての個々の事実については事典などで調べなくてもよい。問題は事実と事実の間の整合性が全体として保たれているかどうかである。そういう想像力の楽しみを経験していただければ、著者としては満足である。

以上を以ってこのブログを終了する。ブログの執筆にあったって協力していただいたNさんに深くお礼申し上げる。

§32、支配者への服従の最大の動機は恐怖と同調である

マックス・ウェバーは「支配」を一定の命令が特定の人々の間に服従を見出すチャンスと見出した。その上で「権力」を抵抗を排除してでも自らの意思を貫き通すチャンスと定義した。支配を安定させる上で利害関心と並んで正統性の信念を挙げた。しかし最近の中東情勢をみて、恐怖こそが体制の安定の最大の基礎であり、一旦支配者に対する恐怖が消え去ると人々は一斉に不服従に走り、インターネットなどのメディアを通じて、一国の範囲を超えた規模で不服従が同調行動を生む連鎖反応が起きて、権力が崩壊するという事実が明らかになった。今回の中東革命の発端は北アフリカのチュニジアで、民衆の蜂起に恐れをなした大統領が、いち早く海外に亡命したことである。このことをニュースで知ったエジプト国民は、30年間独裁を続けてきたムバラク大統領に退陣を要求してデモを行った。

ムバラクは治安警察を使ってデモを鎮圧しようとしたが、多勢に無勢で鎮圧できず民衆の要求を受け入れて退陣した。その後軍が中心となって暫定的な政府と作ったようであるが、軍に関する情報が乏しいので、将来のエジプトがどうなるかについては全く不透明である。

エジプトでムバラクが退陣したことを知ったリビアの民衆が、反政府行動を開始しこれに国軍の一部が同調するに至って、リビア全土はカダフィ大佐の40年間の独裁を支持する首都の民衆、および治安警察とカダフィ大佐に反旗を翻した国軍に一部と民衆の間で、壮絶な内乱状態となった。

国際社会は国際法によれば内乱状態になっている国には、当事者の一方が勝利して治安が回復されるまで介入できないことになっている。これは国際法の民族自決権と呼ばれる考え方で、手をこまねいて見ているだけしかない状態である。

例えば幕末の日本で倒幕派と佐幕派の内戦状態が始まった時、欧米列強各国はこの戊辰戦争と呼ばれる内乱に介入しなかった。しかし一方で経済的には武器援助などの点でイギリスは倒幕派の薩長同盟を支持し、坂本竜馬を通じて大量の武器弾薬を薩長に輸出していたことはよく知られている。一方フランスも中立を標榜しつつイギリスに対抗して江戸幕府を援助していた。このように民族自決権に基づけば中立を標榜しつつ、新政権が自国にとって有利な政策をとるように誘導することができる。問題は戊辰戦争時の覇権国はイギリスであり、イギリスの援助を受けた薩長が最終的に勝利したことである。

これに対して今日の中東情勢に対して覇権国アメリカは、独裁政権が倒れたことを民主主義の勝利として祝福しながらも、それ以上の干渉を慎重に手控えている。たとえ反政府勢力が新しい憲法を制定して民主主義的な選挙を行い、新しい議会を選出したとしてもムスリム同胞団などイスラム教徒系勢力が、多数を占めるのも確実なので親米政権になるとは限らない。

こういった中東の事態を前にしてマックス・ウェバーの「支配の正統性」についての考察は全く無力である。民衆は権力を正統とみて服従しているのではなく、不服従は治安警察によって徹底的に報復を受けるという事を知っている。つまり正統性の信念からではなく恐怖心から独裁政治に耐えているのである。そこに働いているのは利害得失の計算であって反乱が自らの利益にならないことを知っているからである。反乱を起こすと実行犯だけでなく彼の属する部族までが厳しい処罰を受け、場合によってはジェノサイドにまでなるという事を、身を以って経験したことが反抗をためらわせるのである。

このような民衆の行動は決して暴動ではなく合理的な行動である。日本の似たような事例を挙げるなら、江戸時代初期の島原の乱と呼ばれるキリシタンの一揆である。その実態は関ヶ原の戦いで徳川家に敗れてお家をとり潰された、熊本の大名小西行長に仕えていた武士が浪人となって、重税に苦しんでいた百姓を扇動し、幕府軍に対して徹底抗戦したというものである。キリストの信仰は「天草四郎」という少年を救世主として擁立したことに示されているが、実は関ヶ原の戦いの敗者と重税に苦しむ農民の連合軍が、島原の原城に立てこもって幕府軍と戦い、ほぼ全滅したという絶望的な反乱だった。農民一揆としては逃散という形態に属する。またオランダ東インド会社の軍船が江戸幕府の要請を受け、沖合から反乱軍がたてこもる原城を包囲したという事実もこの島原の乱が、宗教的理由に基づく反乱ではない。たまたま同じ17世紀前半オランダは、ドイツ三十年戦争でプロテストント側に参戦している。

しかし今回の中東革命の最大の焦点は、サウジアラビア王国とイランイスラム共和国にこの激動が波及するかどうかであろう。もし波及した場合には石油価格が急上昇し、前例のないインフレーションが日本や欧米にも大きな打撃を与えるであろう。従って政治的には傍観するしかないにしても、国連安保理が人道的介入という国際法上の公認の考えに基づいて、ジェノサイドを阻止するために強い勧告をサウジアラビアの王家やイランの政権を握っているイスラーム聖職者の独裁政権に発信すべきであろう。

§31、「支配の正統性」という問題について

マックス・ウェーバーは晩年の主著『経済と社会』の中で、歴史上の支配の正統性には3つの根拠しかないと述べている。正統性の第一として日常的な出来事を伝統的なやり方で処理する伝統的支配、例えば我が国の天皇家を含め初代の建国者が持っていた特殊な才能であるカリスマが彼の子孫によって血統を通じて受け継がれるという伝統的支配である。一般に王家と言われるものは、初代は確かに超人的な能力の持ち主が多いが、2代目以降は凡庸な彼の子孫が親のカリスマを支配の正統性の根拠としてきた。中でも日本の天皇家は西暦7世紀の「大化の改新」を転機に有力豪族の連合の盟主の地位から豪族とは一線を画する名門としての地位を保ってきた。もちろん日本人ならお分かりの通り、1300年の天皇家の歴史を通じて天皇親政は例外で、多くの場合は外戚が天皇に指名されたとする、征夷大将軍と呼ばれる武家が天皇に代わって統治権を握っていた。

このケースとして近代国家に移る時、王家はそのリーダーシップを握る場合と近代化に反対する場合がある。タイのバンコク朝は11世紀後半東南アジア諸国が次々と植民地化される中で、唯一国王らの巧みな近代化政策によって独立を守った。

近代化に反対する例として中国の清王朝が挙げられる。すでに述べたことであるが、1890年代に日清戦争に敗れた中国では日本の明治維新にならって国民の選挙による議会を開設し西欧型の憲法を制定すべきだという世論が高まり、時の皇帝はこの変法運動と言われる改革を支持したが、皇族の一人である保守派の西太后によって幽閉され、改革派は日本に亡命した。その結果中国はイギリス・フランスをはじめとする列強に植民地として分割されてしまった。この亡国の危機を見て秦の始皇帝以来2000年続いた皇帝による専制政治を打倒してアメリカ合衆国をモデルとする共和国を作らねばならないと考えて、中国最初の革命を始めたのが孫文である。孫文の革命運動が下地となって1911年に軍隊の反乱が起り、孫文が海外から帰国し中華民国の建国を宣言した。これが辛亥革命である。

正統性の第二として、国民主権の考え方に則り国民の選挙によって議会を選出し、議会から権力を奪われて王家が権力を失うという過程である。その典型はイギリスであろう。イギリスには成文憲法がないが憲法上の慣行として議会第一党の指導者が国王によって首相に任命され内閣を組閣する。そして議会で内閣不信任案が可決されれば自ら非を認めて内閣総辞職をするか、議会を解散して総選挙を行い国民の信を問うか、ふたつにひとつである。このように立法府が国民を代表して主権を握り国王は君臨すれども統治せず、という憲法体制を17世紀末の名誉革命以来イギリスは守ってきた。イギリスは国王のすべての行為は議会が制定した法律かまたは慣習法によって定められており、国王が交代しても何ら変化は起きない。その点で最高度の政治的安定性が確保される。このように法律によってすべての統治制度を定めるイギリス型の近代国家を立憲君主制と呼ぶ。マックス・ウェーバーはこれを合法的支配という。

最後にマックス・ウェーバーはアメリカ合衆国を念頭に置いて、カリスマ的支配という概念を提示した。これは国民が議会を選出するだけでなく大統領も直接選出するという制度である。なおアメリカの場合は地方の独立も保障されているので、司法・立法・行政の三権の間に相互に権力の乱用を防止するため、チェック・アンド・バランス(抑制・均衡)が保たれているので、三権分立とも呼ばれる。例えば大統領はアメリカ軍の最高司令官であるが勝手に戦争を始めることはできない。まず事前に議会に報告しその承認を得なければならない。この三権分立に批判して大統領が勝手に戦争を始めいつまでも終わらせることができず、その間に5万人のアメリカ兵を死なせ、政府財政のドル危機を招いたのがベトナム戦争であった。大統領選挙においては候補者のカリスマ的資質が勝敗を左右する。特に1960年の選挙では初めて大統領候補者のテレビ討論が行われ、ルックスの良いケネディが政治的実績では彼を上回るニクソンに逆転勝利した。そしてケネディの下でベトナムへの介入が始まった。

いずれのタイプにせよ国民の投票において重視されるのは何と言っても利害であって、選挙区の国民にどれだけの利益を政府財政からもたらすか、というのが民主主義国における有権者の投票の実態であろう。その点でマックス・ウェーバーの支配の正統性という概念は、現実の選挙の実態とはかけ離れている。

選挙前に全国的な世論調査を実施すれば政治家または国会議員に対する支持率を数値化できるが、その数値は必ずしも政治家の支配の正統性の程度を表すもものではない。逆に存在している政治権力が警察力や出版物に対する検閲を実施して反対意見を封じ込めている場合でも、外部からの観察者にはその政権が正統性を支持されているのか、それとも市民が恐怖にかられて政権を賛美せざるを得ないのか判別する方法はない。北朝鮮を例に考えれば明らかであろう。この際カリスマと言う捕らえどころのない概念を学問の用語としては追放することも一考に値する。

§30、チュニジア発の中東革命の行方

2011年北アフリカのチュニジアで民衆が蜂起して独裁者ベンアリ大統領が追放された。この事件を引き金に独裁者を追放せよという学生を中心とする民衆蜂起の大波が、中東諸国の独裁政権をなぎ倒す勢いである。中でも中東最大のアメリカの同盟国であるエジプトのムバラク大統領の30年にわたる独裁政権がついに退陣した。

ここで少しの間、エジプトの歴史について述べてみたい。

今から5000年前(紀元前3000年ころ)、最初のファラオ(エジプト全土の支配者)が出現して以後3000年近くにわたって、エジプトではファラオによる王朝が続いた。有名なギザのピラミッドが建設されたのはこの王朝時代の初期(古王国時代)である。ピラミッドの建設目的は未だに明らかではない。有力な説としてはファラオの権力を誇らしげに形で示すためと言われる。他には権力者が強制労働で作らせたファラオの墓であるという説、農閑期に民衆がファラオの功績を称える公共事業として、ピラミッド建設に喜んで参加したという説、毎年定期的に発生するナイル川の洪水による被害を最小限にするための治水事業であるという説などがある。著者の見解ではピラミッドの建設に用いられた石材に残された落書きの内容などを見ると、ファラオによる強制労働とは考え難い。エジプトの民衆が喜んでファラオを称えるモニュメントとして建造したものと考える。

西暦紀元前4世紀、マケドニアのアレクサンドロス大王がペルシャ遠征の途上、アレクサンドリアと称する都市をナイル川河口に建設した。アレクサンドリアに残留したギリシャ人のプトレマイオス朝が成立し、その下でエジプトは地中海世界最大の穀倉地帯として繁栄したが、紀元前1世紀プトレマイオス朝最後の女王クレオパトラが、ローマ海軍とのアクテュームの海戦で敗れて自殺し遂に滅亡した。

女王クレオパトラ亡き後、ローマ帝国の穀倉地帯として残ったエジプトおよびシリアは、西暦7世紀アラビア半島から北上したアラブ人のイスラム教徒に征服された。しかしコプト派と呼ばれるキリスト教徒はエジプト人口の一割を占め、決して無視できない勢力である。

10世紀にはチュニジアに成立したシーア派の、ファーティマ朝がエジプトに進出し首都カイロを建設した。

12世紀にはスンニ派のクルド人・サラディンがクーデターで自らのアイユーブ朝を建て、イギリス王リチャード一世と戦って聖地エルサレムを死守した。

13世紀に成立したマムルーク王朝は、モンゴル帝国のフビライハーンの弟フラグハーンによる西アジア遠征を撃退し、また同じ頃エジプトに遠征した西欧カトリック教徒による十字軍も撃退し、香辛料(香料)貿易の中継点としてエジプトが繁栄した。

16世紀に入るとスンニ派トルコ人のオスマン朝が成立し、エジプト・シリアは征服されその領土となった。

18世紀、イギリス・フランス両国がフランス革命とナポレオンの登場によって、戦闘状態に入り、ナポレオンは宿敵イギリスとその植民地インドの連絡を絶つため、1万人の兵力を率いてエジプトに上陸した。これをナポレオンのエジプト遠征と呼ぶ。この遠征時にアレクサンドリア近郊のロゼッタで発見された碑文はロゼッタストーンと呼ばれ、後にフランスの言語学者シャンポリオンによって解読され、古代エジプト文字(ヒエログリフ、日本語では神聖文字)解読の糸口となった。

ナポレオンのフランス軍は、これを追跡してきたネルソン提督のイギリス海軍にナイルの海戦で敗れてエジプトを去った。この無政府状態となったエジプトを収拾したのが、オスマン朝がエジプトに派遣したアルバニア出身の軍人モハンマド・アリである。彼はエジプト各地に割拠していたマムルークと言われる騎兵を一網打尽にし、以後はフランスの援助を得てエジプトの近代化に着手した。アリは続いてシリアに遠征してオスマン朝と戦って(これをエジプト・トルコ戦争、別名エジプト事件と呼ぶ)優勢であったが、ここでイギリス海軍が介入した。イギリスとしては本国と植民地インドを結ぶ最短の連絡路に位置するエジプトおよびシリアが、モハンマド・アリによって統一されることを警戒し、ロンドンで国際会議を開催した。この会議の結論として、ムハンマド・アリがエジプト総督と称してその地位を子孫に世襲させることを承認する一方、シリアはあくまでもオスマン王朝の領土であり、エジプトがシリアを併合することは認めないとなった。その結果モハンマド・アリを初代国王とするエジプト最後の王朝・ムハンマド・アリ王朝(1840〜1952)が成立した。この王朝は国民に重税を課してスエズ運河の開設とエジプトの近代化を推進したが、ヨーロッパの銀行に対する莫大な債務を支払うため、エジプト住民に重税を課し住民の反乱を招くことになった。

その後フランスの外交官レセップスの提唱により、国際スエズ運河株式会社が創設され、1869年インド洋と地中海を結ぶスエズ運河が開通した。最大の株主であったエジプト国王は財政難からスエズ運河の株を売りに出した。その情報を得たイギリス首相ディズレーリは列強の機先を制してエジプト国王が売りに出した全株を買い取り、一躍スエズ運河株式会社の筆頭株主となった。その後イギリス・フランスはスエズ運河の株主の立場からエジプトの財政難解決するようエジプト政府に要求して、エジプト内閣改造を要求しイギリス人やフランス人が入閣した。これを知って激怒したエジプト軍人アラービー・パシャ

(オラービー、ウラービー、とも言う)は部下を率いて決起アラービーしエジプト国王に対して、エジプト人のためのエジプト(エジプトの主権回復)の内閣再改造を要求した。国王はこれに屈してアラービーを陸軍大臣に登用した。これをアラービー革命と呼ぶ。

ところがこの要求を受け入れたエジプト国王は、背後でイギリスに連絡を取って、アラービーの反乱を平定するための出兵を求めたため、イギリスはエジプトに出兵して反乱を平定し、アラービー・パシャは国王に対する反逆罪でセイロン島に流刑となった。その後イギリスはエジプトから撤兵せず事実上エジプトをイギリスの保護領とした。

第一次世界大戦後には再びエジプト人が立ち上がり、エジプトの独立を要求するワフド党の内閣が成立し、イギリスもエジプトの独立を認めた。

1930年代に入るとドイツではヒトラー内閣が成立して軍備拡大を始めたため、イギリスはドイツ軍によるスエズ運河閉鎖を警戒してエジプト政府と交渉し、エジプト・イギリス同盟条約を結んでスエズ運河地帯へのイギリス軍駐留権を認めさせた。

第二次大戦後1948年ユダヤ人がイスラエルの建国を宣言すると、エジプトを盟主とするアラブ連盟は一斉にイスラエルを攻撃したが惨敗した。これを第一次中東戦争、別名パレスチナ戦争と呼ぶ。イスラエルの建国地域に住んでいたアラブ人の先住民はパレスチナ人と呼ばれるが、難民となってエジプト、シリア、ヨルダンに移り住んだ。これをパレスチナ難民と呼ぶ。

この惨敗に衝撃を受けたエジプト人将校ナセルらは秘密結社として自由将校団を結成し、親英的なエジプト国王を追放し共和政の樹立を宣言した。これを1952年のエジプト革命と呼ぶ。名目上はナギグ将軍が初代エジプト大統領に就任したが、実権を握っていたナセルはナギグを追放して第二代大統領に就任し、エジプト・イギリス同盟条約を破棄して、スエズ運河地帯に駐留していたイギリス軍を撤兵させた。

これに反発したイギリスは1956年ナセルがスエズ運河の国有化を宣言すると、密かにフランスおよびイスラエルと協議してナセルの打倒を計画した。まずイスラエルがスエズ運河地帯に出兵してエジプト軍と交戦状態に入った。その結果スエズ運河の航行が不可能となった。この状態を解決するためイギリス、フランスのパラシュート部隊が出兵して制圧した。(この戦争をスエズ戦争と呼ぶ)ところがこのイギリス、フランスの出兵に対して、事前の通告を受けていなかったアメリカ大統領アイゼンハワーは、国際電話でイギリス首相を叱責し、また米ソ冷戦の当事者であるソ連フルシチョフ首相はエジプトの自決権を擁護して、占領三国の撤兵を要求した。この時フルシチョフはスエズ戦争に乗じてハンガリーの反ソ暴動を、ソ連軍戦車部隊を送って鎮圧しハンガリー首相ナジを逮捕ソ連に連行した。その後ナジは西側のスパイとしてソ連にて処刑された。

§29、カリスマ理論の再検討

前に述べたようにゴルバチョフの改革によって東ヨーロッパの共産党政権は、ポーランドを先頭に将棋倒しのように次々と倒れた。戦後半世紀の冷戦の間米ソ両国はアジア・アフリカの独裁政権に対した莫大な援助を与え、中東の油田地帯を自国の勢力範囲にしようと争ってきた。その間に中東ではイギリスのバルフォア宣言に基づいてヨーロッパからユダヤ人の入植が進み、先住のアラブ人(これをパレスチナ人と呼ぶ)の難民が急増していた。

この状況に対してアメリカはイスラエルに軍事的・経済的援助を与えた。これに対抗してソ連はパレスチナの武装組織であるPLO(アラブ解放機構)に軍事的・経済的援助を与えた。ただしサウジアラビア王国は例外で、この地域最大の親米国家である。そうなった理由は20世紀初頭にイギリス・フランス両国が西アジアの主要な油田の採掘権を独占し、アメリカの石油会社はその間、アメリカ国内の油田開発に力を入れていたためこの地域への進出が遅れた。ところが大戦末期のヤルタ会談に出席してヨーロッパを東西に分割したアメリカ大統領ローズベルトは、本国アメリカに帰国する途中サウジアラビアに立ち寄り、サウジアラビアの建国者で初代国王となったイブン・サウード・アブドゥル・アジドの下を訪ね、サウジアラビア国内の油田開発をアメリカが一手に握った。

冷戦後アメリカは中東への石油依存を断ち切ると訴えるオバマが大統領に選出された。強い指導力を持った人物がアメリカ大統領に選出されたこと、およびアラブの王族がアメリカの援助で軍備を拡大し警察力を強化して独裁政権を半世紀以上にわたって続けてきた。しかし豊富な石油資源の輸出によって得られた利益はアラブ諸国の王族によって独占され、国民の生活水準はクェートなど一部を除いて国民には還元されなかった。

このような問題を前にして、石油枯渇後の国の将来を悲観する大学生をはじめとする若者の間に絶望感が広がった。その中の一人の学生の焼身自殺が引き金になって中東各国で、大学を出ても就職できない若年層がインターネットの呼びかけに対して、反政府運動に立ち上がったのが今回の中東革命である。

この中東革命では独裁政権に抗議する学生を中心とする失業者などの若年層の間から、巧みなカリスマ的扇動者が多数現れインターネットを利用して蜂起を呼びかけ反政府運動を拡大させたと見られる。ここでカリスマとは新約聖書の中で使徒パウロによって用いられたギリシャ語で、神の恩寵の賜物としての特殊な才能を言う。

著者はかつて修士論文でマックス・ウェーバーのカリスマ理論について検討したが、明晰な理解を得るに至らなかった。その後もカリスマ理論についての文献等を読んで思索を続けてきたが、たまたま良い検討材料を得たので改めてカリスマ理論について検討したい。

その良い材料とはアメリカの雑誌『ニューズウィーク・日本語版』2011年2月5日号の特集「ジョブズ後のアップル」と称する記事で、カリスマ的創業者が引退した後も業績を維持できるかを問題としている。

ウェーバーによると一般的にはカリスマはいくつかの形態で日常化する。ひとつは世襲または血統カリスマであり、もうひとつは官職カリスマと呼ばれる形態である。前者については親が亡くなった後、子がカリスマを相続することである。後者はローマ教皇に見られるように前任者のヨハネパウロ2世が他界した後、新しい教皇ベネディクト16世の選出によって教皇の地位には、カリスマ的な権威が失われることがなかったと思われる。

カリスマと言うギリシャ語は本来新約聖書の中に収められている使徒パウロの書簡で、教会組織の形態として用いられていたが、ウェーバーはこのギリシャ語を宗教の分野に限定せず、政治・軍事・経営・化学技術など広い分野に見られる、個人崇拝の現象を表す社会学の用語として定義した。

ところでジョブズの業績とは何であろうか。彼はアップルと言う企業の創業者でありマッキントッシュと言うパソコンを世に送り出し、近年では更にiPodiPadiPhoneなどのハイテク製品を立て続けに世に送り出している。ジョブズは現在病気療養と言う事でCEOの地位を退いているが、これらの製品がユーザーによって使い続けられる限りは、アップル社は安泰であろう。このような現象をマックス・ウェーバーはカリスマの日常化と呼んだ。

 

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