§8、覇権のサイクル

上記のような覇権国のジレンマから覇権国の全盛期は長続きせず必ず衰退局面を迎える。

ウォーラステインは経済学の長期波動論であるコンドラチェフ循環を援用して、100年周期の覇権のサイクルを主張している。つまり、覇権国の歴史の前半の50年は拡大局面であり、後半の50年は衰退局面であるという。

しかし、経済学の景気循環論を国際政治学の覇権のサイクルに応用することは誤りである。なぜなら、学問には固有の法則性があって、すべての学問が同じ法則性によって発展するものではないからである。

§7、覇権国の利点とその代償

覇権国には一般の国にはない利点があるが、その反面には代償も払わねばならない。利点としては基軸通貨を発行する特権がある。従って、自由貿易主義を掲げて関税を引き下げ、世界中から安価な商品を大量に輸入することができる。

世界各地の紛争に対して第三者として強力に介入することができる。その方法は経済援助と軍事介入が主である。ちなみに、現在のアメリカは世界に200か所以上に米軍基地を置いているが、その中でも沖縄の米軍基地は東北アジアは「世界の火薬庫」であるから、(核保有国が中国と北朝鮮の2カ国もあり、いずれも共産党政権である上、中国は台湾に対して武力を背景に併合を企図しているし、北朝鮮は韓国を併合すると公言している)アメリカは覇権国としての地位を維持するためには、沖縄からの米軍基地の撤去には応じられないであろう。

その反面、世界各地に軍事基地を置くことは政府財政に軍事費支出の重い負担をかけることになる。

以上のことを総括すると、覇権国が払う代償とは貿易赤字と財政赤字ということになる(いわゆるアメリカの「双子の赤字」はその典型)。他方、覇権国が貿易赤字であるということは、裏返せば覇権国以外の国が貿易黒字である(たとえば現在の中国と日本)ということを意味するので、それらの国から資本を覇権国は輸入することができる。

しかし、軍事支出拡大による財政赤字については、結果的に金利の上昇を招くので、外国から資本を輸入するためには有利であるが、反面国内経済では景気後退を促すことになる。

§6、覇権安定論の問題点

アメリカの金融史家キンドルバーガーは1929年に始まった世界恐慌の原因のひとつを、両大戦間期が覇権国不在の時期であったことであると主張した。このような立場を覇権安定論とよぶ。

具体的には、第一次大戦の勃発によってイギリスは覇権を失った一方、イギリスに代わって実力を持ったいたアメリカは孤立主義に復帰して、国際連盟に参加しなかったため、国際連盟は有名無実の存在となったことを指している。この覇権安定論について近代史500年の事実に照らして検証する。

まず最初の覇権国としてスペインが君臨した16世紀は、戦争と混乱の時代であった。具体的にはイタリアの支配をめぐって、フランスとオーストリア(神聖ローマ帝国)が激しく戦った。また、ドイツではルターの宗教改革を発端に、プロテスタントとカトリックの宗教戦争(シュマルカルデン戦争)が始まる。同様に、フランスでもプロテスタントとカトリックの宗教戦争(ユグノー戦争)が始まった。

ちなみに、このユグノー戦争を終わらせるため、ボーダンが『国家論』で国家が主権を握ってこの戦争を終わらせるべきだと主張した。これが主権という言葉の初出である。

スペインから独立したオランダは、ヨーロッパの中継貿易を独占して繁栄したが、その独立が国際的に承認されたのは1648年のウェストファリアー条約であり、この間80年間オランダはスペイン本国と戦った(80年戦争とよぶ)。

かつまた、この17世紀前半にはドイツを舞台に、ヨーロッパの主な国がドイツに出兵して30年間戦う宗教戦争があった(これをドイツ30年戦争とよぶ)。

オランダが衰退した18世紀には、イギリス・フランス両国が覇権をめぐって戦う一連の戦争が続いた(これを第2次100年戦争とよぶ)。この18世紀については、オランダという覇権国が衰退したことによって、戦争が長期化したかもしれないので、覇権安定論が妥当するかも知れない。

次の19世紀のイギリスと20世紀後半のアメリカの覇権のもとで、大きな戦争が起きなかったことも覇権安定論にとって有利な事実であろう。

以上のように覇権国の存在が国際秩序の安定をもたらすかどうかはケースバイケースであり、一般論はたてられない。しかし、覇権安定論は論理的錯誤がある。つまり、覇権国とは覇権をめぐる主権国家間の長期の戦争に勝利した国のことである。従って、覇権国が登場した時点では、すでに戦争が終わっているという意味で世界は平和であった。



§5、覇権国の条件

以上のような近代500年間に覇権国としての役割を果たした国は、スペイン・オランダ・イギリス・アメリカの4カ国であった。ウォーラステインはオランダを最初の覇権国としているが、オランダより以前にスペインが覇権国としての役割を果たしていると私は考える。

その理由は、世界経済に基軸通貨(国際公共財)を供給した最初の国はスペインだったからである。コロンブスによる大西洋の横断(1492年)を援助したのは、同年にグラナダを攻略して800年間続いたイスラム教徒勢力との戦い(スペイン語ではレコンキスタ、日本語では国土回復運動とよぶ)に勝利を収めたスペイン女王イサベルであった。

その後、新大陸を征服したのもスペイン人のコンキスタドーレス(コルテス、ピサロ)であり、ポトシ銀山などの銀を大量に採掘してスペイン本国に輸送したのだが、この銀はメキシコ太平洋岸のアカプルコ港から、ガレオン船で太平洋を横断してスペイン領フィリピンのマニラ港に送られ、中国の生糸などのアジア物産の輸入に使用され、結果的に大量の銀が中国に流入した(これをメキシコ銀とよぶ)。

一方、新大陸の銀はスペイン領ネーデルランドのアントワープから、ヨーロッパ各国の物産(イギリスの毛織物、フランスのワイン、エルベ川以東・バルト海沿岸の木材など)を輸入する支払い手段として使われた。その結果大量の銀がヨーロッパで流通するようになり、全ヨーロッパで物価が緩やかに上昇して経済が活況を呈する価格革命が生じた。

オランダはスペインに対する独立戦争中から、ヨーロッパ各地で安く買った商品を別の国で売却して、利潤を得る中継貿易を展開した。この中継貿易で蓄積した巨万の金銀を、ヨーロッパ各国に貸し付ける金融業(国際金融)の中心もオランダであった。

しかしオランダは国土が狭く人口も少ない小国だったため、自国の市場を開放して海外から大々的に輸入するという面では不十分であった。また、覇権国の第3条件である海上権(シーパワー)の点でも力不足であったため、オランダはイギリスのクロムウエルが発布した航海法に対抗して「自由貿易」を唱えて開戦したが敗れ、北アメリカのニューアムステルダム(現在のニューヨーク)をイギリスに奪われた。

名誉革命をきっかけにイギリス・フランス両国の第2次百年戦争が始まり、北アメリカとインドを戦場にして両国が戦ったが、最終的には19世紀初頭のナポレオン戦争でフランスが敗れ、イギリスが覇権国の地位のついた。100年後、ドイツ帝国の挑戦を受け第一次世界大戦となり、最終的にアメリカの参戦によって辛くも勝利した。しかしこの戦争中にイギリスはアメリカの債務国となり、国際金融の中心もロンドンからニューヨークへ移動した。

ところがアメリカ議会上院は、建国以来の孤立主義(アメリカはヨーロッパの戦争に対しては中立を守るという外交方針)に復帰して、ベルサイユ条約を批准しなかったので、アメリカは自ら提唱した国際連盟には参加しなかった。その結果、世界恐慌を背景にドイツと日本でファシズム政権が成立して第二次世界大戦となった。そこで、再び参戦したアメリカは国際連盟に代わる集団安全保障機構として、国際連合を設立する中心となった。戦後アメリカの覇権のもとで大きな戦争は起きていないので、この時代をパックス・アメリカーナの時代とよぶ。

ところが、21世紀の初頭の同時多発テロに衝撃を受けたアメリカのブッシュ政権は、イラン・イラク・北朝鮮の3カ国を「悪の枢軸」とよんで非難し、イラクのフセイン大統領がテロリストを支援していると主張して、国連安全保障理事会の決議を得ることなく、米英軍がイラクを攻撃した。(イラク戦争)

こうしてアメリカの威信は失墜する一方、アメリカに代わる大国がいまだ現れいない。現在は覇権国アメリカの衰退期である。この状態を「新しい中世の始まり」とみなす論者もいるが、現時点では多極化とみなすべきであろう。アメリカ一極集中が終わって、多極化が始まったとみなすべきであろう。 BRICs(ブラジル、ロシア、インド、中国)の4カ国の台頭がどういう結果に帰するかは、今のところ不透明である。しかし、中国は現在海軍の軍備拡大を進め、東アジア方面でのアメリカとの間の緊張が徐々に高まりつつある。

なお、覇権国(hegemon)とは古代ギリシャの都市国家アテネが、ペルシャ戦争後にデロス同盟を結成しその盟主となり、アテネ海軍がエーゲ海の海上権を握ったことを表すギリシャ語に由来する。

世界経済システムが順調に作動するための経済外条件としては、上記のような主権国家体制の発達のほか、交通通信手段の発達が必要である。通信技術については、最初は音声言語から始まったが、紀元前3000年ごろメソポタミア南部で活躍したシュメール人が、粘土板に楔形文字を刻んだときから各地で様々な文字の記録(史料)が出現した。

次に15世紀ドイツの印刷業者グーテンベルクが、活字による聖書の印刷に成功してから活版印刷術が広まった(これを印刷革命とよぶ)。19世紀に入ると電話・電信・無線通信が発明され、20世紀に入るとラジオ・テレビなどのマスメディアも生まれた。さらに第2次世界大戦中にはドイツの暗号を解読するため、米英が協力して最初のコンピュータを開発した。

その後コンピュータは電子工学の発達により、小型化が進みパソコンが出現した。現在はコンピュータとコンピュータをつなぐインターネットが普及しつつある。

また交通手段としては牛・馬・ラクダなどの大型家畜を飼育し、車輪で動く馬車および風力を利用して海上を進む帆船の時代が18世紀まで続いた。ところが18世紀後半から始まったイギリス産業革命の中で、石炭を輸送するための運河が各地に開削され、続いて蒸気機関が発明され鉄道網が発達した。帆船に代わって蒸気船(汽船)が発明され、とりわけ大西洋横断航路で、ヨーロッパから数千万人の移民がアメリカ合衆国に渡った(人類史上最大の移民)。
20世紀に入ると航空機が発明され、蒸気機関に代わって内燃機関を利用する、自動車の大量生産も始まった。

このような交通通信手段の発達が世界の一体化を促進してきた。

最後に主権国家体制のもとで各国が普通教育のために多数の学校を建設し、識字能力が飛躍的に向上したことにより、各国で「国民(nation)意識」が高まった。ベネディクト・アンダーソンは、国民とは「想像上の政治的共同体(imagined political community)」であるとしたが、私もこれに同意する。このような各国における国民意識の高まりは、徴兵制(一般義務兵役)の導入によりさらに促進された。その結果20世紀の2回の世界大戦はいずれも総力戦となり、数千万人の死傷者がでる凄惨な戦争となった。

そこで、戦勝国がアメリカを中心に「国際連合(united nations)」を創設したが、先述のようにアメリカのブッシュ政権が、国連安保理決議なしにイラク戦争を開始したため、国連の威信は失墜した。これが現状である。

以上のことを要約すると、確かにウォーラステインが指摘するように、16世紀の大航海時代から始まった世界の一体化(globalization)は、19、20世紀になって加速され、インターネットおよび携帯端末の普及により一応完成しつつあると思われる。





§4、覇権国の興亡(16〜20世紀)

16世紀以来近代世界では主権国家体制のもとで、特定の強国が覇権国(世界のリーダー)の役割を果たしてきた。16世紀にはスペイン海軍がレパントの海戦でイスラム教徒のトルコ海軍を破って、無敵艦隊と呼ばれた。

ところがスペイン支配下のネーデルラントが、スペイン本国による重税や宗教弾圧に反発してネーデルラント連邦共和国(通称オランダ)の独立を宣言。

これに対して同じプロテスタントのイギリスは、スペイン無敵艦隊をドーバー海峡の近くで迎え撃ってオランダの独立を援助した。このオランダの独立は、1648年のウエストファリア条約で国際的に承認された。このオ ランダ独立戦争の間に、すでにオランダはバルト海・北海・大西洋・地中海沿岸の港湾と港湾を結ぶ中継貿易を独占するに至った。

そこで同じころ(17世紀中ごろ)イギリスのピューリタン革命で政権を握ったクロムウエルは、航海法を発布して、イギリス本国および植民地の港湾への、第三国(オランダのこと)の商船の寄港を禁止した。これにたいして「自由貿易」を唱えるオランダは、反発してイギリスに宣戦布告した(英蘭戦争の勃発)。

さらにヨーロッパ最強の常備軍(陸軍のこと)を建設していたフランス王ルイ14世も、領土拡大を追求してオランダの併合を図った。こうしてイギリスとフランスの攻撃を受けて窮地に立ったオランダはイギリスと和解。

一方イギリスでも、ルイ14世の援助を受けてカトリックの復興を策していた、国王ジェームズ2世に反発したイギリス議会がプロテスタントのオランダ総督に救援を要請した。

これを受けてオランダ総督ウイレムは、1万人の軍隊を率いてイギリスに上陸。これを知ったジェームズ2世は戦わずしてフランスに亡命した。そこでイギリス議会は、オランダ総督ウイレムがイギリス王を兼ねることを求め、オランダ総督ウイレムがイギリス王ウイリアム3世の名で即位した。これをイギリス人は誇らしげに名誉革命と呼ぶ。(流血がなかったため名誉ある革命という意味である)

ウイリアム3世のイギリスは、ルイ14世のフランスと北アメリカで植民地争奪戦を開始。これが以後100年間続く英仏の第2次100年戦争の始まりである。この戦争は最終的には、19世紀初頭のナポレオン戦争における、イギリスの勝利・フランスの敗北という結果に終わる。以後100年間イギリスは、覇権国としての地位を守った。

この100年間をイギリス人は誇らしげに、パックス・ブリタニカの時代とよぶ。1914年のサラエボ事件をきっかけに、オーストリアがセルビアに宣戦、ドイツが同盟国オーストリアを援助して、フランス・ロシア両国に宣戦し、ドイツ軍はシュリーフェン計画に基づいて永世中立国ベルギーに侵攻すると、イギリスも国際法違反を理由にドイツに宣戦。こうして第一次世界大戦がはじまった。

戦争は長期化して世界史上最初の総力戦に発展。この戦争の混乱に乗じて、ロシアの革命家レーニンの率いるボルシェビキは、首都ペテルブルグで蜂起してロシアの政権を奪った(これをロシア11月革命とよぶ)。 こうして世界最初の共産党政権がロシアに成立した。政権を握ったレーニンはただちに「平和に関する布告」を発表して、「無併合無賠償・民族自決」の三原則に基づく即時講和を提唱した。

これに対して、中立国アメリカの大統領ウイルソンは、ドイツの無制限潜水艦(Uボート)作戦を国際法違反としてドイツに宣戦し、翌1918年、共産主義者レーニンの「平和に関する布告」に対抗して「14カ条の平和原則」を発表し、「無併合無賠償・民族自決」および「海洋の自由」と「国際平和機構」(後の国際連盟)の創設を提唱した。

一方ドイツでも、1918年キール軍港で水兵の暴動が起り、これをきっかけに、首都ベルリンを始め各地に労働者・兵士の評議会(ドイツ語ではレーテ、ロシア語ではソビエトとよばれる)が設立され、政権が成立した。

いとこであるロシアの皇帝一家がレーニンの命令で全員銃殺されたことを知っていたので、恐れをなした皇帝ウイルヘルム2世はオランダに亡命、ドイツ帝国議会の第一党だった社会民主党を中心とする連立政権が成立して休戦協定に調印した。こうして第一次世界大戦はドイツの敗北のうちに終わった。翌年(1919年)ワイマールで憲法制定議会が開かれ、ドイツは共和国となった。(通称ワイマール共和国)

この敗戦国ドイツに対して、イギリス・フランスを中心とする戦勝国はベルサイユ条約で、戦争責任はすべてドイツにあると断定して、巨額の賠償金を課し植民地をすべて奪った上、アルザス・ロレーヌなどドイツ本国の領土も削減し、ドイツの軍備を制限するなど厳しい制裁を加えた。

当初ワイマール共和国政府は、ベルサイユ条約による賠償金支払いを履行しない政策をとったが、これに反発した戦勝国フランスがベルギーを誘って出兵し、ドイツのル−ル工業地帯を占領した。これは軍事的な制裁ではなく、現物賠償として石炭や機械類を差し押さえる目的の行動であったが、反発したドイツ政府は「占領軍に協力するな」とルール地方の全住民に呼びかけたため、ゼネラルストライキが始まった。そのため極端な物資不足から急激なインフレーションが進行した。

そこで半年後、ドイツ政府は抵抗を中止して生産を再開しインフレを終息させた。これに好感を持ったアメリカは、銀行家のドーズを委員長とする賠償問題委員会を設立して、「ドーズ案」を実施した。これはアメリカがドイツに資本を貸与して、ドイツ経済の復興を援助し、それによってドイツの賠償金支払いを可能とすると同時に、イギリス、フランスの対米戦時債務の履行も可能となった。

その結果ドイツ経済は順調に復興し、ヨーロッパ全域が経済的に安定した。(1924年〜1929年:相対的安定期とよぶ)

ところが1929年、ニューヨークのウォール街で株価が暴落したことをきっかけに、アメリカ経済の極端な景気後退が始まった。そこでアメリカによるドイツへの復興援助が打ち切られ、ドイツの失業率は最大40%に達したと推定される。

このような世界恐慌を背景にワイマール共和国では、「ベルサイユ体制の打破」を唱えるヒトラーのナチスが議会第1党に躍進。翌1933年ヒトラー内閣が成立した。同年アメリカではニューディール政策を掲げるフランクリン・ローズベルトが大統領に就任。

ヒトラー政権は、すでに以前から始まっていたアウトバーン(速度制限なしの高速道路)の建設を続行し、またベルサイユ条約を破棄して大規模な再軍備を推進するなどの政策により、急速に失業問題を解決した。

一方アメリカのローズベルト政権も、TVA(テネシー河域開発公社:多目的ダムや発電所の建設および植林など)と称する公共事業を実施して、失業問題の解決を図ったが、財政赤字の深刻化を恐れて政府支出を制限したため、失業問題の解決は成功しなかった。

ところが、ドイツの再軍備を呼び水として、全ヨーロッパで軍備拡大の動きが始まったため、アメリカからヨーロッパ諸国への輸出が急増した。

ついに1939年ドイツ軍のポーランド侵攻に対して、イギリス、フランスがドイツに宣戦して第2次世界大戦がはじまると、中立国アメリカは完全な景気回復に成功した。とくに1940年ドイツ軍が電撃戦でイギリス、フランスを圧倒してパリを無血占領し、フランス政府が対ドイツ協力に転換すると、孤立したチャーチル首相のイギリスを救済するため、アメリカ議会は武器貸与法を制定して、莫大な軍需物資をイギリスに輸出し始めた。

さらに1941年6月にドイツが独ソ不可侵条約を破棄してソ連を攻撃すると、アメリカは武器貸与法をソ連にも適用した。ドイツ軍の優勢が伝えられる中で日本は、日中戦争で抵抗する蒋介石の中華民国を米英が援助していることを理由に、同年12月8日ハワイ真珠湾のアメリカ海軍基地を奇襲すると同時に、イギリス領マレーに上陸、米英に宣戦布告した。こうして太平洋戦争が始まり戦火は世界のほぼ全域をカバーするに至った。(第2次世界大戦による死者・行方不明者は5,000万人に達すると推定され、これは第1次大戦の5倍である)
なかでも、ヨーロッパではユダヤ人数百万人がナチスによって収容所に連行され、毒ガスで殺害された。

また日本では、太平洋戦争で反撃に転じたアメリカ軍による空爆で、東京をはじめとする主要都市は廃墟となった上、広島・長崎に原爆が相次いで投下された。

結局日独伊3国は降伏し、ドイツは4カ国(米英仏ソ)により分割占領され、日本はアメリカにより単独占領された。こうして第2次世界大戦は終了した。

この間、米英ソ3カ国首脳会談の合意に基づいて、1945年4月アメリカのサンフランシスコで、連合国50カ国が国際会議を開いて国連憲章に署名した。この国連憲章では、加盟国すべてが出席する国連総会は多数決で運営されるが、重要問題については安全保障理事会の常任理事国5カ国(いわゆる5大国)の全会一致が必要とされる。(5大国のうち1国が反対すると決議できない。これを5大国の拒否権という)。とは言え、連合国の主要国がアメリカであることは衆目の一致するところであったから、事実上アメリカの意向が国連を通じて実現するものとアメリカ政府は楽観していた。

ところが実際には、ソ連が第2次世界大戦中にドイツ軍を撃退して、東ヨーロッパほぼ全域を占領し、共産党を中心とする「人民民主主義政権」が次々に出現したので、ソ連の発言権も大きかった。

そこでアメリカのトルーマン大統領は、1947年ソ連に対する「封じ込め」政策を打ち出し、国務長官マーシャルの名でヨーロッパ諸国の戦後復興を、アメリカが経済的に援助するマーシャルプランを実施したが、ソ連・東欧諸国はマーシャルプランの受け入れを拒否して、コミンフォルム(各国共産党情報局)を創設してアメリカに対抗した。これが米ソの冷戦の始まりである。

しかし1949年東アジアの中国でも、毛沢東の中国共産党が蒋介石の中華民国政府を台湾に追放して大陸中国を制圧し、中華人民共和国の建国を宣言する一方、同年ソ連も核兵器を保有するに至り、後に中華人民共和国も核武装するに至ったため、核軍拡競争は続いたが、冷戦が熱戦に転化することはなかった。

最終的には1989年ベルリンの壁が崩壊し、東欧各国の共産党政権も倒れた上、1991年にはソ連も解体して、約半世紀に及ぶ米ソの冷戦はアメリカの勝利のうちに終わった。

西暦2000年のアメリカ大統領選挙では、一般投票では負けた共和党のブッシュが大統領選挙人の選挙では勝って、翌2001年アメリカ大統領に就任した。

しかしこの選挙は票の集計に疑惑があったため、就任当初のブッシュ政権の支持率は高くなかった。ところが同年9月11日、アメリカの首都ワシントンおよびニューヨークで、テロリストにハイジャックされた民間航空機が、マンハッタンの世界貿易センタービル(ツインビル)やペンタゴン(アメリカ国防総省)のビルに突撃した。(9・11同時多発テロ)

衝撃を受けたブッシュ政権は、テロの犯人はアラブ人であり、その大部分はサウジアラビア人であったにもかかわらす、その背後でイラクのフセイン大統領が大量破壊兵器を開発してテロリストに与えているので、さらなるテロを予防するためと称して、米英軍を投入してイラクを攻撃、バグダードに空爆を加え、潜伏していたフセインを捕らえイラク臨時政府に処刑させた。これをイラク戦争と呼ぶ。(戦争は長期化して現在も終わっていないどころか、戦火はアフガニスタンにまで拡大している)
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