§18、法治主義か、徳治主義か

以上のように現在の中国(中華人民共和国)には、英米法における法の支配は存在しない。ところが意外なことに中国は世界で最初に法治主義を国是として建国した国なのである。紀元前2000年紀に黄河の中流域(中原)に殷王朝が成立した。この王朝については20世紀初頭に殷墟から巨大な遺跡が発掘され、いわゆる甲骨文字と呼ばれる漢字の原型で書かれた大量の文書が出土したことによって伝説上の殷王朝が実在したことが確認された。

司馬遷の『史記』によれば殷王朝の前に夏王朝が存在したことになっているが、考古学的には今日のところまだ発見されていない。殷王朝は『史記』によれば、その最後の王が酒池肉林の日々を送っていたため、天の怒りを買い周の一族に殷に代わって中国を統治せよとの天命が降下した。これに応えて周の王・武王が立ち上がり殷を攻撃して滅ぼした。

周は殷との戦いに協力した周の一族と功臣に領地を与えて諸侯とし、各地を統治させる封建制を採用した。武王の弟であった周公・旦は兄の亡き後兄の子を周王として擁立し、自らは東方の洛陽を拠点として荻を服属させることに専念した。この周公・旦が後に孔子によって聖人とされ周の諸制度を整備した人物として称えられた。孔子の理想とする周の政治は有徳者が為政者となる徳治主義と呼ばれ、儒教によって理想の政治とされた。また、大切なことは、この周が殷を倒した王朝交代は天意とされ以後中国では王朝交代のことを革命(天命が改まる)と呼ぶようになった。

しかしその後、周は黄河上流から夷荻の攻撃を受け東方の洛陽へと遷都した。この遷都以降を東周と呼びそれ以前の西周と区分する。この東周の時代には周の王家は衰え、代わって有力な緒侯が尊王攘夷(周の王を尊び夷荻と戦う)を唱えて会盟を主宰し抗争した。

この東周初期の600年間には合計五人の諸侯が覇者と称して会盟を主宰した。彼らのことを春秋の五覇とよぶのは後に孔子がこの時代の年代記として編纂した書物『春秋』にちなんだものである。

ところがこの春秋時代の末期に孔子が出現した頃から下剋上が公然と行われるようになり、各地の諸公は王と称して周の王家を無視して抗争するようになった。この時代を春秋時代と区別して戦国時代と呼ぶのは、この頃の各国の外交政策を助言した学派(縦横家)について記録した書物『戦国策』にちなんだものである。

この戦国時代には鉄製の農具や牛耕が広まって、農業余剰が大きくなったためその余剰を租税として確保した諸侯は富国強兵策をとり相互に激しく戦った。この春秋戦国時代には、各国の王に対して富国強兵策を助言するいくつかの学派が互いに論争したので、彼らのことを諸子百家(様々な先生が多数の学派を率いて全国を遊説した)と呼ぶ。その第一人者が孔子の率いる儒家である。

儒家は天命を受けた有徳者が天子として統治する周の制度(封建制)を理想とした。この儒家の立場を徳治主義と呼ぶ。孔子は徳治主義を唱えて全国を遊説したが、富国強兵策にはしる各地の諸候は儒家を相手にしなかったため、孔子は失意のうちに没した。その後孔子の流れに属する孟子が性善説を唱え、性悪説を唱える荀子と論争したが、孟子の性善説が以後の儒教では正統とされた。敗れた荀子の流れをくむ学派が法家である。法家は儒教の徳治主義を批判して秦に採用され、それによって秦は戦国の7雄(戦国時代の7つの強国)の中で最強の勢力になった。

秦王・政(後の始皇帝)は法家の韓非子と李斯(リシ)の助言を得て、6カ国を次々と滅ぼし初めて全中国を統一した。この統一は全国を郡に分け、郡をさらに県に分け、郡県の長官は皇帝が任命するという意味で郡県制と呼ばれる。以後中国では任命制の官僚による中央集権体制を郡県制と呼び、世襲される諸侯による封建制と区別するようになった。

この中央集権体制のもとで、始皇帝は北方の遊牧民・匈奴に対する遠征を行い、万里の長城を建設するなどの重労働に全国の農民を使役したが、始皇帝の死と同時に大反乱が起り秦は一代で滅亡した。司馬遷の『史記』によればこの反乱のきっかけは、万里の長城の守りにつくため村人を率いて北上していた陳勝と呉広らの一行が、長雨のため黄河が増水して渡れなくなったため、黄河南岸で足止めになった時、長城への到着が間に合わないと判断した陳勝が村人に向かって、「王侯相将いずくんぞ種あらんや」(王、諸侯、大臣、将軍などと言っても、そんな人種があるわけではなく、実力と運によってその身分を得た連中に過ぎない。我々農民だってもはや期日までに間に合わなかった場合には、法治主義のもとでは処刑されることになる。だったらここで思い切って反乱に立ちあがろう。運さえ良ければ我々農民だって王公相将になりあがれる。やろうじゃないか)と農民を扇動して秦に対する反乱に決起した。

この陳勝・呉広の乱をきっかけに全国各地で野心家が挙兵して秦はたちまち滅亡した。彼ら郡雄の中で最初に秦の都・咸陽に上洛したのは農民出身の劉邦であったが、後から到着した楚の貴族出身の項羽に身分が低いがゆえに左遷されて漢の王に降格となり、雌伏して捲土重来の機会を待つこととなった。その間に項羽は楚の王を擁立して秦の都・咸陽に火を放つなどの蛮行によって人心を失った。

この情勢を見て再び決起した劉邦は法三章(人を殺すな、人のものを盗むな、人を傷つけるな、3つの法律)以外の秦が定めた法律を全廃して人心を得、項羽と戦ってついに項羽を倒して全中国を再び統一した。劉邦が建国した漢は、秦が法治主義を採用して短期間で滅亡したことに教訓を得て、法治主義に反対して徳治主義を唱えていた孔子の学派を登用し儒教を国教とした。

§17、人治か、法治か

前回、東シナ海の尖閣諸島をめぐる日中間の紛争について考察し、最後に中国は未だに国際法を受け入れていないのではないかと言う疑問を提起しておいた。しかしその後中国のいくつかの大都市において反日暴動が発生し、警察当局がほぼ完璧に規制している状態を見て、新たな疑問が生じた。つまりこの反日暴動は自然発生的なものではなく、当局が計画した自作自演の「暴動」ではないかと感じた。
そこから新たな疑問が生じる。つまり中国では国内法ですら政府によって操作されているのではないか。
建国以来の中国の混乱、特に十年間の災厄と呼ばれる文化大革命の混乱を繰り返さないため、現在の中国共産党指導部は「人治から法治」への移行を唱えている。その意味は建国の父である毛沢東やその夫人江青らが混乱を起こした張本人であって、高い地位の人物なら法を犯しても許されるという風土を変えなければならない。例え共産党の最高幹部であっても、法に反することは許されないということである。
この意味での法治は英米法における「法の支配」に相当する。世界各国の法は英米法系と大陸法系に大別される。英米法は裁判官による判例を法とする考え方に立つ。一方、大陸法はヨーロッパ大陸のドイツ・フランスを中心とする法体系である。後者は古代ローマ帝国が残したローマ法を中世に大陸諸国が受け入れ、それを基にして近代に法典として編纂されたものである。その典型的な例がナポレオンによるフランス民法典の編纂と、ドイツ帝国によるドイツ民法典の編纂である。
日本は明治時代にこのふたつの法典を基にして民法典を編纂したので、基本的には大陸法の流れに属するが、第2次大戦後、アメリカ軍占領下で英米法の一部を取り入れた国である。
これに対して前者は、大陸諸国とは違って中世に古代ローマ法を受け入れなかったイギリスおよびその植民地アメリカで発達した法体系で、別名 Judge-Made-Law とも呼ばれる。
英米法において法の支配とは「人の支配ではなく法の支配(RULE of LAW, NOT of MAN)」という意味である。具体的には17世紀のイギリスの内乱(ピューリタン革命とも呼ばれる)の中で、国王による圧政に対して当時の最高裁の長官が宣言したものである。つまり国王と言えども法には従わなければならず、法に反する場合は処罰されるという事である。
この革命では王は実際に処刑されている。その後間もなく王政が復活し再び圧政が始まったためイギリス議会は王を追放し、亡命した王に代わってオランダ総督がイギリス王位についた。これが名誉革命である。
このふたつの革命の間にイギリス議会は国王による不当な逮捕および投獄を阻止するため、有名な人身保護法を制定している。これは「何人も、現行犯を除いて裁判官による逮捕令状がなければ、逮捕投獄されることはない」という法律で、日本国憲法にも同じ趣旨の条文がある。人身の自由を保障した法律である。
最近中国の天安門事件に参加して言論の自由を唱えて投獄された中国人の活動家に対して、ノーベル平和賞が授与された。この人物は公平な裁判を受けることなく投獄されたわけであるが、中国以外の近代国家では考えられない事態である。
さらに言うと、司法の独立が中国では保障されていないので、公平な裁判を行うことは裁判官がやろうと思っても無理であろう。このような中国が近代的な法治国家であるとは思えない。中国では国内法国際法を問わず法の支配は存在しない。
「人治から法治へ」というキャッチフレ−ズは掛け声だけに終わっている。現在の中国共産党指導部は経済成長によって豊かな社会を作ることによって、自由を求める国民を飼い慣らそうとしている。

§16、主権国家体制と国際法

すでに述べたとおり、近代世界は経済的には国際分業体制(資本主義経済体制)、政治的には主権国家体制という二重のシステムの複合体である。経済体制としては市場経済の価格機構が作動するが、主権国家体制には国際法と呼ばれるルールがあって、各国はこれを遵守する義務がある。
この国際法の根本は主権平等の原則と内政不干渉の原則である。このことを近年東シナ海で発生した日中間の紛争の考察に適用してみよう。
日本は島国であるから多くの国境紛争を抱えている。ひとつはロシアとの間の北方領土紛争である。これは第2次世界大戦中の米ソ間のヤルタ協定に基づいて、太平洋戦争末期にソ連が突如日ソ中立条約を破棄して、日本に対する攻撃を開始し満州・朝鮮・サハリンおよび千島列島を武力占領した既成事実に基づいて戦後も続いている。朝鮮については、米ソが北緯38度線を境に分割占領した。
また、日本海の竹島(独島)については日韓双方が領有権を主張し、韓国が武力で占領している。最後に沖縄諸島は、太平洋戦争末期に米軍が占領し、戦後も1972年までアメリカの統治下にあった。1972年に日本に返還されたが、その沖縄諸島の一部である尖閣諸島については、その後中国が領有権を主張し日本と対立するようになった。しかし現実には尖閣諸島は日本が領有権を行使して、海上保安庁が巡視している。
中国の漁船が尖閣諸島の海域で操業するようになり、日本の漁民との間で衝突が懸念されていたが、今年になって海上保安庁の巡視艇によって停船命令を受けた中国の漁船が逆に巡視艇に衝突したため、その船長が逮捕されて身柄を拘留される事態が生じた。
これに対して中国政府は、船長の身柄の解放を日本政府に求め、北京では反日的集会が開かれるようになった。
日本政府は当初、事件は日本の司法権の発動であって、検察当局の判断に任せるべきであって、司法の独立を尊重する立場から、内閣が介入する問題ではなく、日本の国内法に基づいて検察当局が判断したことである、という立場をとっていた。
ところがこれに対して中国政府が、船長を開放しなければより強い措置をとると、強硬に主張し始めると、たちまち船長の身柄を解放し中国に送還した。その根拠は一切明らかになっていない。これに対した中国は、謝罪と賠償を要求するという態度に出た。
中国側の謝罪および賠償の要求に対し、日本の菅内閣は中国側の要求は全く根拠がないので、応じるつもりは全くないと言明した。
この間の経過をみて不思議なのは、検察当局がなぜ突然に船長を釈放したのかについての、当局の説明が一切行われていないことである。そこで日本の世論の一部には、結局日本は中国の圧力に屈服したのであって、事実上の超法規的処置であるという指摘もある。
私の意見では、日本に謝罪と賠償を求める中国の行動は内政不干渉と言う、国際法の根本ルールに違反しているということである。要するに日本の国家主権が中国によって侵害されていることが最大の問題であって、日本政府は中国に厳重に抗議すべきである。
ここでは日本政府の今後の動きを見守ることにして、逆に中国側の高圧的な要求の背後に潜む中国側の、国際法に対する無理解についてその歴史的背景を考察する。
§12で述べた東アジアの伝統的な国際秩序であった、柵封体制(中国を宗主国としその周辺国が中国に朝貢してその保護を受ける不平等な関係)の残滓が依然として払拭されていないのではないか。漢の時代から2000年近く続いた東アジアの柵封体制は、19世紀に入ってアヘン戦争においてイギリスによって破られ、最終的には日清戦争において日本によって崩壊させられた。
同じ東アジアでも日本はペリー来航以来積極的に欧米の国際法を受容してきたのに対して、中国では国際法を本当の意味では受容していないのではないか。もしそうだとすれば、日中間の紛争は異なった文明の衝突であって、最悪の事態を招いてもおかしくない。
なお現在の時点で、すでに中国は日本に対してレアアースの輸出を停止するという経済制裁を発動しており、最悪の事態にかなり近い段階まで中国の態度は極度に強硬である。



§15、「共有地の悲劇」とイギリス産業革命

中世のイギリスでは鉄の製造や暖房のために大量の木材を消費していたので、森林資源が枯渇して燃料としては木材に代わって石炭が利用されるようになっていた。また、村落には共有地があって森林や湖沼は誰でも利用できたので、乱伐が進んで荒廃していた。
そこでイギリス議会は議会の決議に基づいて、全国的な囲い込み運動(エンクロージャー)を展開し、共有地も私有地として分割された。この囲い込み運動は当時増大していた人口に対応して、食料を増産するためであったから、16世紀に毛織物工業の発展に対応して原料の羊毛を増産するために、牧羊地を拡大する目的で行われた最初の囲い込み運動と区別するため、第2次エンクロージャー(別名議会エンクロージャー)とよばれる。
18世紀には炭鉱で石炭の採掘が進むとともに、地下水がでてくるという問題が深刻化したため、排水用に初めて蒸気機関が発明された。この蒸気機関は後にワットによって改良され、上下運動を回転運動に変換する汎用の原動機となった。
こうして綿織物工業を中心として紡績機や織機を利用する工場製機械工業がマンチェスターを中心に発達した。その際この工業に必要な労働力としては、囲い込みによって農村から追放された住民(貧しい農民)が、都市に移住して工場で労働者として働くことによって供給された。中世には貧農であっても、共有地に入って木材その他の資源を利用することによって、生計を立てることができたが、囲い込みによって共有地が消滅したため、農村を出て都市で職を求めざるを得なかったのである。
なお、タイトルに掲げた「共有地の悲劇」とは、経済学の数理モデルである。つまり、私有地を共有地とすると誰もが利用できる半面、だれも維持管理のコストを負担しないため、乱開発によってその土地は荒廃する、という悲劇である。

§14、主権国家体制と近代資本主義の関係について

近代500年間に、政治的な世界システムとしては主権国家体制が、経済的な世界システムとしては資本主義経済体制が続いてきた。このふたつの世界システムの関係について考察してみる。

まず主権国家体制であるが、その拡大は全世界が独立国(外国からの内政干渉を受けず、外国との紛争に際して、外交上の交渉で解決できない場合には、最後の手段として武力を行使する国家)によって分割されつくす過程であって、その結果今日の世界には、どの国の領土でもない地域は南極大陸しかない。

主権国家は一定の領土を持ち他国と国境を接しているので、国境紛争がしばしば起きるということである。19世紀までの国際法学では、無差別戦争観(あらゆる戦争は国家主権の発動であるから、その善悪を論じない)が支配的であったから、すべての国は他国からの攻撃に備えて軍備を拡大することになる。 このような各国の軍拡競争が20世紀に入って世界戦争として爆発した。

第1次世界大戦は前線の兵士が戦うだけでなく、銃後の国民も戦争に協力する総力戦となって、死者は1千万人に達した。そこで戦後、戦争の再発を防止するための国際平和機構として国際連盟が設立され、また1928年には不戦条約がほとんどの国によって調印され、自衛のための戦争以外は国際法上違法とされた。

ところがこの不戦条約に調印した日本とドイツは1930年代に、いずれも自衛権の行使と称して、侵略戦争を始めた。これが第2次世界大戦である。

第2次世界大戦では5千万人の死者がでたため、戦後設立された国際連合では侵略国に対しては、国連軍を派遣して軍事制裁を行うことができるようになっている。

このように主権国家体制のもとでは、軍需物資の生産拡大が呼び水となって資本主義経済が成長する。ひとたび政府と軍需産業の相互依存関係が生まれる(これを軍産複合体とよぶ)と、何年かに一度は戦争しないと経済が維持できないことになる。

たとえば第2次世界大戦後のアメリカは、共産主義国・ソ連の脅威を誇張し、これに対抗するためと称して、莫大な核兵器や通常兵器を備蓄してきた。ところが1991年ソ連が解体したため、以後はソ連の脅威を理由に軍備を拡大し戦争を始めることができなくなった。

ところがアメリカの軍事費の支出は、世界全体の軍事支出の約半分を占めるほどの規模にまでなっているので、アメリカの軍需産業はアメリカ政府に圧力をかけて、世界の紛争地域にアメリカが介入して、紛争を拡大することで兵器を世界中に輸出することに活路を求めている。

近年のイラク戦争も、フセイン大統領のイラクが大量破壊兵器を開発して、それをテロリストに与えているから、イラクが世界の脅威であると強弁して開戦に至ったことは記憶に新しい。しかし、あっけなくフセイン政権が倒れたことによって、実はイラクには大量破壊兵器がなかったことが明らかになった。つまりアメリカの開戦目的は、イラクが脅威であるといったことではなく、アメリカ軍需産業にカンフル剤を打つことにあったものと考えられる。

このイラク戦争についての客観的な評価は、アメリカの機密文書をはじめとする証拠に基づいて、将来の歴史家が結論を出すだろう。
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