§18、法治主義か、徳治主義か
司馬遷の『史記』によれば殷王朝の前に夏王朝が存在したことになっているが、考古学的には今日のところまだ発見されていない。殷王朝は『史記』によれば、その最後の王が酒池肉林の日々を送っていたため、天の怒りを買い周の一族に殷に代わって中国を統治せよとの天命が降下した。これに応えて周の王・武王が立ち上がり殷を攻撃して滅ぼした。
周は殷との戦いに協力した周の一族と功臣に領地を与えて諸侯とし、各地を統治させる封建制を採用した。武王の弟であった周公・旦は兄の亡き後兄の子を周王として擁立し、自らは東方の洛陽を拠点として夷荻を服属させることに専念した。この周公・旦が後に孔子によって聖人とされ周の諸制度を整備した人物として称えられた。孔子の理想とする周の政治は有徳者が為政者となる徳治主義と呼ばれ、儒教によって理想の政治とされた。また、大切なことは、この周が殷を倒した王朝交代は天意とされ以後中国では王朝交代のことを革命(天命が改まる)と呼ぶようになった。
しかしその後、周は黄河上流から夷荻の攻撃を受け東方の洛陽へと遷都した。この遷都以降を東周と呼びそれ以前の西周と区分する。この東周の時代には周の王家は衰え、代わって有力な緒侯が尊王攘夷(周の王を尊び夷荻と戦う)を唱えて会盟を主宰し抗争した。
この東周初期の600年間には合計五人の諸侯が覇者と称して会盟を主宰した。彼らのことを春秋の五覇とよぶのは後に孔子がこの時代の年代記として編纂した書物『春秋』にちなんだものである。
ところがこの春秋時代の末期に孔子が出現した頃から下剋上が公然と行われるようになり、各地の諸公は王と称して周の王家を無視して抗争するようになった。この時代を春秋時代と区別して戦国時代と呼ぶのは、この頃の各国の外交政策を助言した学派(縦横家)について記録した書物『戦国策』にちなんだものである。
この戦国時代には鉄製の農具や牛耕が広まって、農業余剰が大きくなったためその余剰を租税として確保した諸侯は富国強兵策をとり相互に激しく戦った。この春秋戦国時代には、各国の王に対して富国強兵策を助言するいくつかの学派が互いに論争したので、彼らのことを諸子百家(様々な先生が多数の学派を率いて全国を遊説した)と呼ぶ。その第一人者が孔子の率いる儒家である。
儒家は天命を受けた有徳者が天子として統治する周の制度(封建制)を理想とした。この儒家の立場を徳治主義と呼ぶ。孔子は徳治主義を唱えて全国を遊説したが、富国強兵策にはしる各地の諸候は儒家を相手にしなかったため、孔子は失意のうちに没した。その後孔子の流れに属する孟子が性善説を唱え、性悪説を唱える荀子と論争したが、孟子の性善説が以後の儒教では正統とされた。敗れた荀子の流れをくむ学派が法家である。法家は儒教の徳治主義を批判して秦に採用され、それによって秦は戦国の7雄(戦国時代の7つの強国)の中で最強の勢力になった。
秦王・政(後の始皇帝)は法家の韓非子と李斯(リシ)の助言を得て、6カ国を次々と滅ぼし初めて全中国を統一した。この統一は全国を郡に分け、郡をさらに県に分け、郡県の長官は皇帝が任命するという意味で郡県制と呼ばれる。以後中国では任命制の官僚による中央集権体制を郡県制と呼び、世襲される諸侯による封建制と区別するようになった。
この中央集権体制のもとで、始皇帝は北方の遊牧民・匈奴に対する遠征を行い、万里の長城を建設するなどの重労働に全国の農民を使役したが、始皇帝の死と同時に大反乱が起り秦は一代で滅亡した。司馬遷の『史記』によればこの反乱のきっかけは、万里の長城の守りにつくため村人を率いて北上していた陳勝と呉広らの一行が、長雨のため黄河が増水して渡れなくなったため、黄河南岸で足止めになった時、長城への到着が間に合わないと判断した陳勝が村人に向かって、「王侯相将いずくんぞ種あらんや」(王、諸侯、大臣、将軍などと言っても、そんな人種があるわけではなく、実力と運によってその身分を得た連中に過ぎない。我々農民だってもはや期日までに間に合わなかった場合には、法治主義のもとでは処刑されることになる。だったらここで思い切って反乱に立ちあがろう。運さえ良ければ我々農民だって王公相将になりあがれる。やろうじゃないか)と農民を扇動して秦に対する反乱に決起した。
この陳勝・呉広の乱をきっかけに全国各地で野心家が挙兵して秦はたちまち滅亡した。彼ら郡雄の中で最初に秦の都・咸陽に上洛したのは農民出身の劉邦であったが、後から到着した楚の貴族出身の項羽に身分が低いがゆえに左遷されて漢の王に降格となり、雌伏して捲土重来の機会を待つこととなった。その間に項羽は楚の王を擁立して秦の都・咸陽に火を放つなどの蛮行によって人心を失った。
この情勢を見て再び決起した劉邦は法三章(人を殺すな、人のものを盗むな、人を傷つけるな、3つの法律)以外の秦が定めた法律を全廃して人心を得、項羽と戦ってついに項羽を倒して全中国を再び統一した。劉邦が建国した漢は、秦が法治主義を採用して短期間で滅亡したことに教訓を得て、法治主義に反対して徳治主義を唱えていた孔子の学派を登用し儒教を国教とした。