§23、第二次世界大戦中の連合国首脳会談(年表)
第二次世界大戦中に制海権・制空権を握った5大国(米英仏ソ中)を主力とする連合国は、以下の順に作戦会議を開き、また戦争末期には戦後世界の構想に基づいて、国際連合やIMFなどの国際機構の構想も建てていた。
(1) 大西洋上会談(1941年8月)
米英首脳(ローズベルト大統領・チャーチル首相)がイギリス領カナダの港に停泊していたイギリス戦艦プリンスオブウェールズの艦上で開いた最初の会談。きっかけは1941年6月にナチスドイツ軍が独ソ不可侵条約を破棄してソ連領に侵攻し、独ソ戦が始まったこと。これに対して米英首脳はドイツと戦うソ連を支援すると言明した。(敵の敵は味方という考え方によるソ連支援であって、実態は共産主義との協力ではなかったので、ソ連首相スターリンは米英の援助が不十分であるという理由で、以後再三にわたって米英に対して「第二戦線の開設」を要求した)
この大西洋上会談の終了後、米英首脳は記者会見で第二次世界大戦の連合国の戦争目的を「大西洋憲章」をして発表した。内容は8項目あるが、その核心はナチスドイツの打倒と、ドイツ軍が占領していた地域(東欧)に民族自決の原則に基づいて、国民の選挙による政府を建てることである。
※第二戦線とは、第二次世界大戦の初期において、ドイツ軍の電撃戦の前にフランスが降伏し西部戦線が事実上消滅したため、ドイツ軍がほぼ全兵力を独ソ戦に投入していた。この独ソ戦を第一戦線と呼び、西部戦線を第二戦線と呼ぶ。
(2) カサブランカ会談(1943年1月)
米英首脳がイタリア軍・ドイツ軍と戦って北アフリカのモロッコを占領したため、安全地帯となったモロッコのカサブランカで再び会談を開いた。会談後ローズベルト大統領は枢軸国(三国同盟側)に対して無条件降伏を要求すると発言してチャーチル首相を驚かせた。
※無条件降伏とは枢軸国を武力で占領して、占領軍がその憲法を制定するなどして改革を実施することを意味する。横に座っていたチャーチルは衝撃を受けた。その理由は従来の戦争では戦争は交戦国の講和会議で終結するのが、国際法上の慣行であって、講和会議では戦勝国と敗戦国がともに出席して妥協を図ることが通例であったからである。しかし、無条件降伏という敗戦国にとって屈辱的な降伏形式を宣言すれば、枢軸国側が激しく抵抗して連合国側の苦戦となり、戦死者が増えるという軍事的な理由である。
(3) カイロ会談(1943年11月)
米英を中心とする連合国軍側がモロッコからエジプトまでの、北アフリカ全域でドイツ軍・イタリア軍を破って安全地帯となったエジプトのカイロで開いた。米英に加えて中華民国総統の蒋介石も参加して、対日処理方針を協議決定した。会談後カイロ宣言で日本が日清戦争後獲得した朝鮮を日本から独立させ、台湾は中華民国に返還すること。しかし、朝鮮独立の具体的な方式は示されないため、戦後の朝鮮戦争の遠因となる。
(4) テヘラン会談(1943年11〜12月)
カイロ会談に出席した蒋介石がカイロ会談の対日処理方針に満足して帰国した後、米英首脳はイランの首都テヘランに移動して、ソ連首相スターリンを招いて開いた三カ国首脳会談。議題はスターリンが再三にわたって要求してきた第二戦線問題。この会談の中で米英両国は半年後、米英を主力とする連合国軍が北フランスに上陸する形で第二次戦線を開設するとスターリンに約束した。
(5) ヤルタ会談(1945年2月)
米英を主力とするノルマンディー上陸作戦が成功した後、ドイツは東西二正面戦争を戦わざるを得なくなり、ドイツの敗北が時間の問題となって時点で、連合国がドイツ本国に突入する直前に決めておく必要があった、ドイツの分割占領の問題についてヤルタ協定を結んだ。すなわち米英仏ソ4カ国によるドイツ分割占領を決定。なお米ソの間ではドイツの降伏後2〜3カ月以内にソ連が対日戦に参戦することを密約した。その代償としてローズベルト大統領はスターリン首相に対して、千島列島およびサハリン南部を日本から奪ってソ連に与えると約束した。このヤルタ密約は連合国が勝利しても敗戦国の領土を奪うことはない、と宣言した大西洋憲章に違反する。
(6) ポツダム会談(1945年7〜8月)
ドイツ占領後、ベルリン近郊のポツダムで米英中三カ国首脳が日本に対してポツダム宣言で無条件降伏を要求。そのほか戦争犯罪人の処罰など戦後処理の細目も協議した。なお以上の一連の会談にフランス代表ドゴールが一度も出席していないのは、アメリカ大統領ローズベルトの意向による。これを知ったドゴールは後にフランス大統領になった時反米の姿勢をとるに至る。
※以上の首脳会談のほか、大戦末期の1944年アメリカで戦後の世界秩序について協議する以下のふたつの国際会議が開かれた。
(a) ダンバートン・オークス会議で国連憲章の原案を作成した。しかし、五大国の拒否権については意見の一致を見なかったので、翌1945年の米英ソの三か国首脳会談(ヤルタ会談)が開かれ、五大国に拒否権を与えることで合意した。これによって例えソ連一国でも反対すれば国連安全保障理事会の決議が成立しないことになった。
(b) ブレトンウッズ会議。1929年から始まった世界恐慌の中で、米英を中心とする大国が自由貿易主義を放棄して排他的ブロック経済を構築したこと、および各国が通貨切り下げ競争で狂奔して自国の輸出を増やし、自国への輸入を制限する近隣窮乏化政策をとった結果、世界の貿易が縮小して植民地をほとんど持たない日独伊三国が打撃を受け、領土拡大を進めて失業問題を解決するファシズム政権が成立し、これが第二次世界大戦の道をひらいた経験への反省から戦後は自由貿易を原則とし、貿易を拡大するための以下のふたつの国際機構を創設することを決定した。ひとつはIMF(国際通貨基金)で、アメリカの通貨ドルを基軸通貨とし、貿易赤字が続いてドル準備が枯渇した国にはIMFが短期資本としてドルを貸与するシステムである。もうひとつはIBRD(国際復興開発銀行、略称は世界銀行)で、これは戦場となったヨーロッパや日本の経済復興を援助するため、および発展途上国の経済発展を援助するため、長期資本を貸与するシステムである。
このブレトンウッズ体制はアメリカが発行する通貨ドルが、いつでも一定の金と交換できるという前提(金ドル交換)に基づいて、各国の通貨とアメリカのドルの交換の比率(為替相場)を固定するという固定相場制を維持することにあった。しかし1960年代のケネディ・ジョンソン両大統領の時代に、ベトナム戦争の長期化でアメリカが深刻な財政難に陥ったこと、およびアメリカの経済援助でヨーロッパと日本の経済が復興して、アメリカの貿易収支が赤字になったことのふたつの理由によって、1971年アメリカのニクソン大統領が金ドル交換を停止する、と突然発表したこと(ニクソンショックまたはドルショックと呼ばれる)により崩壊した。その後現在に至るまで各国の通貨の価値は、需要と供給の関係で変動する変動相場制になっている。