§23、第二次世界大戦中の連合国首脳会談(年表)

第二次世界大戦中に制海権・制空権を握った5大国(米英仏ソ中)を主力とする連合国は、以下の順に作戦会議を開き、また戦争末期には戦後世界の構想に基づいて、国際連合やIMFなどの国際機構の構想も建てていた。

(1)  大西洋上会談(1941年8月)

米英首脳(ローズベルト大統領・チャーチル首相)がイギリス領カナダの港に停泊していたイギリス戦艦プリンスオブウェールズの艦上で開いた最初の会談。きっかけは1941年6月にナチスドイツ軍が独ソ不可侵条約を破棄してソ連領に侵攻し、独ソ戦が始まったこと。これに対して米英首脳はドイツと戦うソ連を支援すると言明した。(敵の敵は味方という考え方によるソ連支援であって、実態は共産主義との協力ではなかったので、ソ連首相スターリンは米英の援助が不十分であるという理由で、以後再三にわたって米英に対して「第二戦線の開設」を要求した)

この大西洋上会談の終了後、米英首脳は記者会見で第二次世界大戦の連合国の戦争目的を「大西洋憲章」をして発表した。内容は8項目あるが、その核心はナチスドイツの打倒と、ドイツ軍が占領していた地域(東欧)に民族自決の原則に基づいて、国民の選挙による政府を建てることである。

※第二戦線とは、第二次世界大戦の初期において、ドイツ軍の電撃戦の前にフランスが降伏し西部戦線が事実上消滅したため、ドイツ軍がほぼ全兵力を独ソ戦に投入していた。この独ソ戦を第一戦線と呼び、西部戦線を第二戦線と呼ぶ。

(2) カサブランカ会談(1943年1月)

米英首脳がイタリア軍・ドイツ軍と戦って北アフリカのモロッコを占領したため、安全地帯となったモロッコのカサブランカで再び会談を開いた。会談後ローズベルト大統領は枢軸国(三国同盟側)に対して無条件降伏を要求すると発言してチャーチル首相を驚かせた。

※無条件降伏とは枢軸国を武力で占領して、占領軍がその憲法を制定するなどして改革を実施することを意味する。横に座っていたチャーチルは衝撃を受けた。その理由は従来の戦争では戦争は交戦国の講和会議で終結するのが、国際法上の慣行であって、講和会議では戦勝国と敗戦国がともに出席して妥協を図ることが通例であったからである。しかし、無条件降伏という敗戦国にとって屈辱的な降伏形式を宣言すれば、枢軸国側が激しく抵抗して連合国側の苦戦となり、戦死者が増えるという軍事的な理由である。

(3) カイロ会談(1943年11月)

米英を中心とする連合国軍側がモロッコからエジプトまでの、北アフリカ全域でドイツ軍・イタリア軍を破って安全地帯となったエジプトのカイロで開いた。米英に加えて中華民国総統の蒋介石も参加して、対日処理方針を協議決定した。会談後カイロ宣言で日本が日清戦争後獲得した朝鮮を日本から独立させ、台湾は中華民国に返還すること。しかし、朝鮮独立の具体的な方式は示されないため、戦後の朝鮮戦争の遠因となる。

(4) テヘラン会談(1943年11〜12月)

カイロ会談に出席した蒋介石がカイロ会談の対日処理方針に満足して帰国した後、米英首脳はイランの首都テヘランに移動して、ソ連首相スターリンを招いて開いた三カ国首脳会談。議題はスターリンが再三にわたって要求してきた第二戦線問題。この会談の中で米英両国は半年後、米英を主力とする連合国軍が北フランスに上陸する形で第二次戦線を開設するとスターリンに約束した。

(5) ヤルタ会談(1945年2月)

米英を主力とするノルマンディー上陸作戦が成功した後、ドイツは東西二正面戦争を戦わざるを得なくなり、ドイツの敗北が時間の問題となって時点で、連合国がドイツ本国に突入する直前に決めておく必要があった、ドイツの分割占領の問題についてヤルタ協定を結んだ。すなわち米英仏ソ4カ国によるドイツ分割占領を決定。なお米ソの間ではドイツの降伏後2〜3カ月以内にソ連が対日戦に参戦することを密約した。その代償としてローズベルト大統領はスターリン首相に対して、千島列島およびサハリン南部を日本から奪ってソ連に与えると約束した。このヤルタ密約は連合国が勝利しても敗戦国の領土を奪うことはない、と宣言した大西洋憲章に違反する。

(6) ポツダム会談(1945年7〜8月)

ドイツ占領後、ベルリン近郊のポツダムで米英中三カ国首脳が日本に対してポツダム宣言で無条件降伏を要求。そのほか戦争犯罪人の処罰など戦後処理の細目も協議した。なお以上の一連の会談にフランス代表ドゴールが一度も出席していないのは、アメリカ大統領ローズベルトの意向による。これを知ったドゴールは後にフランス大統領になった時反米の姿勢をとるに至る。

※以上の首脳会談のほか、大戦末期の1944年アメリカで戦後の世界秩序について協議する以下のふたつの国際会議が開かれた。

(a) ダンバートン・オークス会議で国連憲章の原案を作成した。しかし、五大国の拒否権については意見の一致を見なかったので、翌1945年の米英ソの三か国首脳会談(ヤルタ会談)が開かれ、五大国に拒否権を与えることで合意した。これによって例えソ連一国でも反対すれば国連安全保障理事会の決議が成立しないことになった。

(b) ブレトンウッズ会議。1929年から始まった世界恐慌の中で、米英を中心とする大国が自由貿易主義を放棄して排他的ブロック経済を構築したこと、および各国が通貨切り下げ競争で狂奔して自国の輸出を増やし、自国への輸入を制限する近隣窮乏化政策をとった結果、世界の貿易が縮小して植民地をほとんど持たない日独伊三国が打撃を受け、領土拡大を進めて失業問題を解決するファシズム政権が成立し、これが第二次世界大戦の道をひらいた経験への反省から戦後は自由貿易を原則とし、貿易を拡大するための以下のふたつの国際機構を創設することを決定した。ひとつはIMF(国際通貨基金)で、アメリカの通貨ドルを基軸通貨とし、貿易赤字が続いてドル準備が枯渇した国にはIMFが短期資本としてドルを貸与するシステムである。もうひとつはIBRD(国際復興開発銀行、略称は世界銀行)で、これは戦場となったヨーロッパや日本の経済復興を援助するため、および発展途上国の経済発展を援助するため、長期資本を貸与するシステムである。

このブレトンウッズ体制はアメリカが発行する通貨ドルが、いつでも一定の金と交換できるという前提(金ドル交換)に基づいて、各国の通貨とアメリカのドルの交換の比率(為替相場)を固定するという固定相場制を維持することにあった。しかし1960年代のケネディ・ジョンソン両大統領の時代に、ベトナム戦争の長期化でアメリカが深刻な財政難に陥ったこと、およびアメリカの経済援助でヨーロッパと日本の経済が復興して、アメリカの貿易収支が赤字になったことのふたつの理由によって、1971年アメリカのニクソン大統領が金ドル交換を停止する、と突然発表したこと(ニクソンショックまたはドルショックと呼ばれる)により崩壊した。その後現在に至るまで各国の通貨の価値は、需要と供給の関係で変動する変動相場制になっている。

 

§22、第二次世界大戦の経過(年表)

1939年9月、ドイツがポーランドに侵攻、続いてソ連もポーランドに侵攻。ポーランドは東西に分割され消滅した。(独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づくポーランド分割)

1940年3月、ドイツ軍が電撃戦でデンマーク、ノルウェーを占領。続いてドイツ軍はオランダ、ベルギーを通過してフランスの首都パリを無血占領した。

※奇妙な戦争(戦闘なき戦争)が6カ月間続いた理由はふたつある。イギリス・フランス側としては宥和政策を続けていたため、ドイツとの戦争準備が完成していなかったからである。ドイツ側の理由としては可能な限りイギリス・フランスとの戦いを避けて、東ヨーロッパにゲルマン人の生存権を拡大することがヒトラーの戦争目的であったから。ヒトラーは第一次世界大戦でドイツが敗北した原因は、東西二正面戦争になったことにあると考えていた。

※ドイツ軍がパリを無血で占領できたのは、西部戦線におけるドイツ軍の攻撃の前に、勝てないと判断したパリの第三共和国政府が、ペタン将軍に全権をゆだね、ドイツ軍に対する抵抗を止めナチスドイツ軍に協力する態度に転換していたからである。これに対してフランスのドゴール将軍はペタン将軍に対抗してロンドンに亡命し、自由フランス政府を建てロンドンから電波でフランス国民に対して、ドイツ軍に対するレジスタンス(抵抗)を呼びかけた。その理由は西部戦線で惨敗したイギリス・フランス軍の敗残兵の一部が、北フランスのダンケルクからイギリスにイギリスの船で渡っていたため、敗れたといっても全兵力を失った訳ではないからである。

一方緒戦におけるこの惨敗の責任をとって、宥和政策をとってきたイギリス首相チェンバレンが辞任し、これに代わって宥和政策を厳しく批判してきたチャーチルが挙国一致内閣の首相となって徹底抗戦を続けた。このチャーチルのイギリスに対してドイツは、占領下の北フランスに飛行場を建設してイギリスに対する空爆を始めたが、イギリス側も空軍を使ってドイツ空軍を迎撃し激しい空中戦の結果、イギリスが制空権を握った。その上ヒトラーは航空機の生産を優先して海軍の建設を犠牲にしたため、北海の制海権もイギリスが握り、ドイツは第一次大戦の時と同様、潜水艦を使ってイギリス海軍と戦うしかなかった。

この英独の空中戦をイギリス人は誇らしげにバトルオブブリテンと呼ぶ。

※ヨーロッパ戦線は第一次大戦でも第二次大戦でもドイツを中心に西部戦線と東部戦線に分けられる。東西二正面戦争とはドイツがこのふたつの戦線で同時に戦うことによって、兵力を2分することになってドイツが苦戦することを意味する。

※電撃戦とは戦争が長期化すると資源の点で苦戦するドイツが航空兵力と地上軍を同時に使って敵国をできるだけ早く降伏させる作戦のこと。ドイツの進出方向が北ヨーロッパのデンマーク、ノルウェー、続いてベネルクス三国となった理由は、第一次世界大戦ではイギリス海軍による北海の海上封鎖を許したため、海外からのドイツへの軍事物資の輸入が途絶したことであると、ヒトラーが考えていたためである。

1940年、援蒋ルート(蒋介石の重慶中華民国政府に対する米英両国の物資援助ルート)を遮断するため、日本軍がフランス領インドシナ(ベトナム、カンボジア、ラオス)の北部に進駐した。これに対してアメリカは日本に対する経済制裁を開始した。そこで日本は石油などの戦略物資を自力で調達するため、オランダ領東インド(現在のインドネシア)に近いスマトラとボルネオの油田に近いフランス領インドシナの南部にも進駐した。

※進駐とは抵抗を受けることなく他国の領土の一部または全部を占領すること。インドシナに駐留しているフランス軍が日本軍に抵抗しなかった理由は、フランス本国でドイツに協力するというヴィシー政府が成立しており、ドイツの同盟国である日本軍に抵抗しなかったからである。

 

ドイツが電撃戦によってイギリス・フランス軍を圧倒した事実を受け、日独伊三国軍事同盟が成立した。その目的は日本がドイツ・イタリア側に参戦することによって、中立国アメリカの参戦を牽制すること。そこで日米戦争を避けるためワシントンの日本大使館とアメリカ国務省との間で、日米戦争を回避するための妥協が模索された。これを日米交渉という。しかしアメリカ国務長官ハルの態度は非妥協的であって、日本に対して三国同盟からの脱退と中国からの撤兵の2点については、決して譲歩しなかったため交渉は行き詰まった。日本では天皇が出席する御前会議で開戦やむなしとの結論に至った。こうして12月8日、日本海軍がハワイのアメリカ軍基地とイギリス領マレーを奇襲して米英に宣戦、太平洋戦争が勃発した。

翌1942年に入ると、日本軍はイギリス領マレーを通過してイギリス領シンガポールを攻略し、さらにマレー沖海戦でイギリスの誇る戦艦プリンスオブウェールズが日本の空爆によって撃沈され、イギリスの国威は失墜した。一方日本は油田が存在するオランダ領東インド(現在のインドネシア)のスマトラとボルネオを確保して、東南アジア全域(アメリカ領フィリピン;フランス領インドシナ;イギリス領マレー・ビルマなど)を占領し、「大東亜共栄圏(日本を中心とするブロック経済)」を建設すると豪語した。

ところが、同年6月にはハワイ北西のミッドウェー海戦で、日本海軍の主力となる航空母艦の多くが米軍に迎撃されて沈没し、日本は西太平洋の制海権および制空権を失った。

翌1943年2月には南太平洋の日本軍の拠点ガダルカナル島が米軍に占領され、戦局は日本の守勢。米軍の攻勢へと転換した。同じ頃ヨーロッパの東部戦線でもヒトラーの東方生存圏構想に基づいてソ連領に侵攻したドイツ軍が、南ロシアのスターリングラード(現在のボルゴグラード)で激戦の結果ソ連に降伏した。このスターリングラードの戦いの敗北によってドイツが確保しようとしていた、小麦の産地ウクライナおよびカスピ海西岸のバクー油田を死守したソ連軍は、以後守勢から攻勢に転じた。

一方ドイツ軍は、ソ連の首都モスクワを目前にしてソ連側の激しい抵抗の前に初めて後退した。さらにレニングラード(現在のペテルブルク)も攻略できず、ドイツ軍の敗色が濃厚になった。

一方議会の孤立主義の立場から、ヨーロッパ戦線において孤立しているチャーチルのイギリスからの救援要請に応えることができなかった中立国アメリカは、日本海軍のハワイ奇襲に続いて三国同盟の同盟国であるヒトラーのドイツおよびムッソリーニのイタリアもアメリカに宣戦したため、アメリカ議会はほぼ満場一致で参戦を決議し、議会の制定した武器貸与法を適用して、連合国(ふたつの世界大戦における戦勝国を連合国とよぶ)に対して、「民主主義の兵器廠」(武器庫)を自任して莫大な軍需物資を輸送して連合国の勝利に大きく寄与した。

早くも1943年には米英軍を主力とする連合国軍がシチリア島を経て南イタリアまで侵攻したため、敗戦後の戦争責任を恐れるイタリア国王がムッソリーニを解任し、後任のバドリオ将軍の政権が連合国に無条件降伏したが、ドイツ軍が軟禁されていたムッソリーニを救出して、北イタリアに傀儡政権を建てなお連合国に抵抗した。

1944年6月には米英を主力とする連合国軍が、アメリカのアイゼンハワー将軍の指揮下に北フランスのノルマンディー海岸に敵前上陸した。このノルマンディー上陸作戦の成功によって西部戦線が復活し、ドイツは第一次大戦と同様に東西二正面戦争を余儀なくされ、ヨーロッパ戦線でも攻守所を変えるところとなった。

ドイツ国内でも軍部を中心とする反ヒトラー勢力が、ノルマンディー上陸作戦の結果を知ってついに立ちあがってヒトラー暗殺を試みた。これはヒトラーを侮蔑していた貴族出身のシュタウヘンベルク大佐が実行犯となって、ヒトラーの爆殺を図ったクーデターであるが、ヒトラーは奇跡的に爆殺を免れ、逆にシュタウヘンベルク大佐はもちろん、北アフリカ戦線で「砂漠の狐」と呼ばれ恐れられていた、戦車線の英雄ロンメル将軍もクーデターに加担した理由によって逮捕されることになり自殺した。

この7月20日のクーデターの失敗によって、ドイツ国民自身の力でヒトラー政権を打倒するチャンスが失われ、結局ドイツは1945年ソ連軍占領下のベルリン地下豪で、ヒトラーが自殺することによって、米英仏ソ4カ国によって分割占領されることになった。

一方太平洋戦争でもガダルカナル陥落を転機に、1945年4月には米軍がフィリピンを経て沖縄へと北上し、米軍機による日本主要都市が空爆を受けるようになり多数の死傷者が出たが、それでも降伏しない日本に対してアメリカは広島・長崎に原爆を投下した。

そこで日本政府は軍部が主張していた本土決戦を諦め、天皇が出席する御前会議での「聖断」(天皇の決断)によって連合国のポツダム宣言を受諾して降伏した。こうして6年間続いて推定5000万人の死者を出した第二次世界大戦は1945年8月にようやく終わった。

これに続いて8月9日ソ連が日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦し、満州・サハリン・千島列島および朝鮮半島北半を占領した。一方日本を占領した米軍は、続いて朝鮮半島南部も占領したため、朝鮮は北緯38度線を境に米ソによって分割占領された。

§21、2回の世界大戦(1914〜1918;1939〜1945)の連続性について(20世紀の三十年戦争と呼ぶ説もある)

世界地図1206s- 

すでに述べたとおり、第一次世界大戦は覇権をめぐるヨーロッパ列強間の戦争に、日本とアメリカも参戦して世界大戦となった。敗北したドイツではベルサイユ条約で課せられた重い賠償金や領土の削減に反発して、「ベルサイユ体制の打破」を叫ぶヒトラーのナチスが出現した。一方、戦勝国であった日本でもアメリカ中心のワシントン体制による軍備縮小に反発する日本海軍を中心に、ワシントン体制の打破と大陸への進出を唱えるナショナリズムが台頭した。

またイタリアでは戦勝国であったにもかかわらず、「未回収のイタリア」を完全に回復することができなかったことから、ベルサイユ体制に対する国民的不満が高まる一方、工業地帯である北イタリアで労働組合のストライキが無政府状態を招いて、市民の労働者に対する反感が広がっている中で、ムッソリーニが労働者の運動を鎮圧する自警団として、地主や資本家の資金援助でファシスト党を結成して労働組合を攻撃し議会にも進出した。1922年にはムッソリーニの指令でイタリア各地から武装したファシスト党員(通称黒シャツ隊)数万人が、首都ローマに集結して国王に圧力をかけた(ローマ進軍と呼ぶ)結果、イタリア国王は少数政党指導者に過ぎないムッソリーニを首相に任命した。ちなみにヒトラーはこのイタリアのクーデターにヒントを得て、ドイツのミュンヘンでクーデター(ミュンヘン一揆と呼ぶ)を決行したが、即日に鎮圧されて投獄された。この獄中で書いたヒトラーの自伝が有名な「わが闘争」である。この自伝の中でヒトラーは第一次大戦におけるドイツの敗因を分析し、将来の戦争(第二次世界大戦)におけるドイツの目的を赤裸々に書いている。すなわち、人種理論に基づくドイツの東方生存権の建設とユダヤ人の追放である。

1929年ニューヨークの株価の暴落をきっかけに世界恐慌が始まると、失業者の増大や農産物価格の下落に悩む農民層の支持を得て、日独両国ではベルサイユ体制・ワシントン体制(英米中心の世界秩序)を打破して領土拡大を唱えるファシズム勢力が台頭した。

日本では日露戦争で獲得した南満州鉄道を警備する関東軍が、満州(中国東北地方)を地盤とする軍閥・張作霖を支援して北京に進出させたが、張作霖は蒋介石の率いる国民革命軍(北伐軍)に敗れて満州に帰還する途上、奉天で関東軍に爆殺された。これを奉天事件と呼ぶが、当時の日本では満州某重大事件と呼んだ。ところが東京の政府はこの関東軍の暴挙を処罰しなかった。しかし爆殺された張作霖の息子・張学良は反日の姿勢を強めた。そこで関東軍は張学良の率いる東北軍閥の20万人の兵力を満州から一掃するため、1931年奉天近郊の柳条湖で南満州鉄道を爆破しこれをきっかけに満州全土を占領した。これが満州事変である。

張学良は日本軍に対する抵抗を訴えたが、蒋介石の南京国民政府の命令で日本軍に抵抗せずに満州から撤兵し、西安に移動して共産党と戦うように命令された。しかし1936年の西安事件をきっかけに国共両党は接近し、翌1937年の盧溝橋事件を転機に第二次国共合作が成立した。こうして始まった日中戦争は、米英の援助を受けた蒋介石が南京から重慶へ遷都して日本軍に抵抗したため長期化した。

一方世界恐慌後の大不況を背景にドイツでは、ベルサイユ体制の打破を唱えるヒトラーのナチスと、モスクワに本部を置くコミンテルンのドイツ支部であるドイツ共産党が、失業者の急増を背景にワイマール共和国の議会選挙で躍進し、1932年の選挙でナチスは議会第一党に躍進した。そこでユンカー出身のヒンデンブルク大統領は、ナチスによるスキャンダルの暴露を恐れて不本意ながらヒトラーを首相に任命した。こうして成立したヒトラー政権は、1936年ベルサイユ条約・ロカルノ条約で非武装地帯となったドイツフランス国境地帯のラインラントにドイツ軍を進駐させ、続いて翌年にはベルサイユ条約で禁じられていたオーストリアを併合して、ドイツ国民の支持を高めた。

ところがヒトラーがチェコスロバキアのズデーテン地方(ドイツ系住民が多い)の割譲を要求し、これをチェコスロバキアが拒否すると両国の国境に軍隊が集結して対峙し、一触触発の状態となった。この時、ファシズム勢力(日独伊三か国)に対する宥和政策を唱えるイギリス首相・ネビル-チェンバレンが介入してミュンヘン会談(英仏独伊四カ国首脳会談)が開かれ、ドイツにチェコスロバキアがズデーテン地方を割譲することを条件に、以後は領土拡大を要求しないことをヒトラーが約束して戦争は回避された。

ところがヒトラーは第一次世界大戦におけるドイツの戦争目的であった中東欧に領土を拡大する構想を支持しており、さらにドイツ領土をその東方に拡大する生存圏構想を持っていたため、このミュンヘン協定に満足せず翌1939年には、ポーランドに対してベルサイユ条約でドイツから奪われた、バルト海に面する貿易港ダンチヒおよびダンチヒとドイツ本国の通路に当たるポーランド回廊の通行権を要求した。

このヒトラーの態度に激怒したイギリス・フランスはポーランド政府に対して、もしドイツがポーランドを攻撃した場合には、全力を挙げてポーランドを支援する約束をポーランドに与えて、ドイツのポーランド侵攻を抑止しようとした。

ここでヒトラーはこれまで着々と成功してきた領土拡大を続けるのか、それともイギリスに屈服してポーランドに対する要求を撤回するかの岐路に立たされた。ドイツ軍の幹部は異口同音にポーランド侵攻に反対した。その理由はイギリス・フランスが今回は譲歩しないであろうということ、すなわちドイツ軍がポーランドに侵攻するとイギリス・フランスは直ちに参戦し、ポーランドを支援するであろうということにある。つまりドイツのポーランド侵攻は第二次世界大戦の勃発を意味するであろうという事である。

そこでヒトラーはポーランドの背後のソ連の独裁者スターリンに接近し、独ソ不可侵条約を結んで独ソ両国によるポーランドの分割などを密約して英仏の参戦を牽制した。ところがヒトラーの期待に反して、イギリス・フランスはポーランドと正式に軍事同盟を結んでポーランドを守るという決意を再確認した。ヒトラーは衝撃を受けたが、カリスマ的指導者としての威信を失うわけにはいかないので、危険を冒してでもポーランドを攻撃するという決意を表明して、軍部の反対を押し切った。

こうして1939年9月1日、ドイツ軍のポーランド侵攻が始まった。2日後の9月3日、イギリス・フランスはポーランドを支援するため、ドイツに宣戦して第二次世界大戦が始まった。

イギリス・フランスは第一次世界大戦でドイツと戦って大きな犠牲を払った経験から、宥和政策を続けるであろう、つまりポーランドのために戦争の危険を冒すことはしないであろうと見ていた読みが外れたヒトラーは、失望したが今さら戦争を止めるわけにはいかないと思い直した。ところがイギリス・フランスはドイツに対して宣戦したものの、ドイツを攻撃せずドイツもまたイギリス・フランスを攻撃しないという、「奇妙な戦争」となった。

 

§20、アヘン戦争後の東北アジアの激動

20101206-辛亥革命後の中国地図3-s500 
アヘン戦争で敗北した中国では、南京条約により上海など貿易港の増加によって、中国からの銀の流出が一層激しくなった。その結果通貨である銀が激減してデフレーションとなり物価が下落した。そのため租税を銀で納める当時の税制のもとで、農民は実質的な重税に苦しんで土地を失うものが急増した。仕事を求めて移動する失業者や没落した農民が都市に流入し治安が悪化した。

加えて南京条約で貿易港を拡大したにも拘わらず、中国への輸出が伸び悩んでいたイギリスは、たまたま発生したアロー号事件(広州港に停泊していたイギリス国籍のアロー号を中国の警察官が密輸の疑いで立ち入り検査しようとして、船員とトラブルになり警察官がマストにかかっていたイギリス国旗を引きずり下ろしたという、取るに足りない出来事を国旗侮辱罪として、イギリスはたまたま同じころフランス人のキリスト教宣教師が中国で殺害された事件について、中国政府に抗議していたフランス皇帝ナポレオン3世を誘って共同出兵し、天津北京地区を占領した。これがアロー戦争である)

一方この間中国南部では、上海が貿易の中心となったことで、貿易港を地位が低下した広州近郊で、洪秀全が率いるキリスト教系の上帝会が没落農民や失業者・流民を結集して勢力を拡大し、「滅満興漢」を叫んで蜂起した。この太平天国の乱で苦戦した清はイギリス・フランスの力を借り、十余年間をかけてようやく平定した。

北京条約で貿易港をさらに拡大し、キリスト教の布教を全面的に公認した上、首都北京には中国最初の外務省として総理各国事務衙門(略称総理衙門)を設立し、列強との和親策に転換した。

この平定にあたって活躍した漢人の官僚・曽国藩や李鴻章らが中心となってイギリス・フランスなどの列強から軍艦や大砲を購入し、富国強兵を図る洋務運動を始めた。

しかしこの洋務運動は日清戦争で清の誇る北洋艦隊が日本海軍に黄海開戦で惨敗したことによって破綻した。つまり軍備を強化しただけでは不十分であり、明治維新後の日本にならって立憲君主制を導入する必要がある、という変法運動が始まった。

この運動を支持した皇帝はしかし西太后によって幽閉され、洋務運動はほんの3ヶ月で中止させられた。(1898年のこの政変を戊戌(ボジュツ)の政変という)。

こうして改革は頓挫したが、中国各地では北京条約で公認されたキリスト教の布教が活発になった結果、地元の住民による宣教師に対する暴行や教会の破壊などの仇教運動が始まった。この仇教運動の中から出現した団体が義和団である。

義和団は1898年にドイツ人宣教師が殺害された事件を口実に、ドイツが出兵して山東省の青島市の膠州湾に上陸し、中国から膠州湾の租借権を奪ったことに抗議して、山東省に集結しそこから北京を目指して北上した。これに対して西太后を首班とする清の政府は義和団を支持して列強に宣戦した。

「扶清滅洋」を叫んで北京の外国公使館を20万人の義和団が包囲攻撃し、その際日本人とドイツ人の外交官が殺害されるという、国際法上例を見ない暴動へと発展した。

この義和団事件に対して列強8カ国が共同出兵し、たった2、3カ月で北京・天津地域を占拠した。降伏した清の西太后の政府は列強と北京議定書を結んで、外国軍隊の北京常駐を認めることになった。

このような屈辱的な敗北を重ねる清に対して、ふたたび滅満興漢を唱える革命運動が始まった。その中心人物が孫文である。孫文は海外の華僑や中国人留学生を中心に興中会を組織し、海外の華僑からの資金援助で武装蜂起を繰り返したがすべて失敗に終わった。

このような中で明治維新後開国を要求して朝鮮に進出していた日本は、まず日清戦争で清を破って朝鮮を清から独立させ、続いて日露戦争でロシアを破ってロシアによる朝鮮の保護国化を阻止した。

この日露戦争中に孫文は東京の中国人留学生や華僑を中心に、革命諸派を糾合して中国革命同盟会を結成し三民主義(民族の独立・民権の伸長・民生の安定)を掲げた。

たまたま財政難に陥っていた清の政府は、列強の銀行団からの借款による幹線鉄道の国有化を打ち出した。この政策は列強に対して国有鉄道を担保にして新たな借金を負うことであると考えた四川省の民族資本家(民有鉄道の株主や租税を負担している地主など)が、警察署を襲撃するなどの暴動を起こした。これを四川暴動と言う。この暴動を鎮圧するため清は一斉弾圧を実施しようとした。

そこで機先を制して革命派は湖北省の武昌(現在の武漢市)で挙兵した(1911年10月10日)。この事件を武昌起義と呼び今日では中華民国の建国記念日(双十節)とされている。翌1912年革命の知らせを聞いて海外から帰国した孫文を臨時大総統として、革命派は南京で中華民国の建国を宣言した。この革命を辛亥革命と呼ぶ。

これに対して清は軍の実力者・袁世凱を総理大臣に起用して鎮圧を図ったが、袁は密かに革命派と裏取引を行って、孫文から臨時大総統の地位を譲り受ける代償に、清の宣統帝を退位させ清を滅ぼした。ところが袁は一転して革命派との約束を破って自らが皇帝になろうとしたため、中国各地で革命派が再び挙兵して第二革命が始まり、その混乱の中で孫文は東京に亡命して秘密結社・中華革命党を結成する一方、袁も帝政復活に反対する世論を背景とする第二革命に直面して帝政復活を撤回し失意のうちに病没した。

こうして中国では以後10年に渡って各地の軍閥が兵を率いて北京に上洛して大総統と称するようになり、互いに抗争する内乱状態が続いた。(この時代を厳罰政権の時代という)

この間にヨーロッパでは第一次世界大戦が始まり、イギリスがドイツに宣戦すると日英同盟を結んでいた日本は、同盟国イギリスを援助するという口実で中国に出兵し山東省青島を占拠し、またドイツ領南洋諸島(パラオなど)を占領した。

翌1915年、日本政府は北京の袁世凱に対して、21カ条の要求(ドイツが中国で持っていた権益を日本が継承することを中国に認めさせた)を突き付け、武力を背景に袁に受諾させた。

第一次世界大戦後1919年、パリで講和会議が開かれ中華民国代表団も出席して、袁が認めた21カ条要求の破棄を要求したが、列強はこれを無視してベルサイユ条約の中で敗戦国ドイツに対する制裁の一環として、山東におけるドイツの権益を日本が継承することを追認した。この知らせが北京に伝わると、同年5月4日北京では大学生を中心とする群衆が反日を叫んでデモ行進し、一部は暴動へと発展した。これを五四運動と呼ぶ。

この運動が労働者・農民も参加する全国的な反政府運動に発展する中で、孫文は秘密結社であった中華革命党を公然と活動する大衆政党・中国国民党に改組した。一方第一次世界大戦中のロシア革命で政権を握ったレーニンは、世界革命を唱えて首都モスクワにコミンテルン(第三インターナショナル)を創設し、1921年コミンテルンの中国支部として上海で中国共産党が結成された。

ソ連は中国に特使を派遣して孫文を説得し、国民党に共産党員が加入して国共合作による広東国民政府を樹立させた(これを第一次国共合作と呼ぶ)。1925年孫文は「革命未だ成らず」の遺言を残して没したが、翌1926年から孫文の遺言に基づいて国民政府軍が北京の軍閥政権を打倒するための国民革命(通称北伐)を開始した。この国民革命軍総司令に任命された蒋介石は、共産党を敵視する立場から北伐途上の上海で、多数の共産党員や共産党を支持する労働者を襲撃して、国民政府を南京に遷都した。このクーデターを上海クーデター(別名四一二クーデター)という。

これに反発した国民党の左派と共産党は、一旦は武漢にもう一つの中華民国国民政府を樹立して、蒋介石の南京国民政府に対抗したが、間もなく蒋介石の武力を前にして、国民党左派が共産党と分離して南京国民政府に合流した。そこで孤立した共産党は労農紅軍(現在の人民解放軍)を結成して、共産党支持者が多い都市部で武装蜂起したが、すべて蒋介石の南京国民政府に鎮圧され、余儀なく農村部へと拠点を移した。こうして以後約10年に及ぶ国共内戦が始まった。

この国共内戦の間に1931年9月18日の柳条湖事件(日露戦争後のポーツマス条約でロシアから南満州鉄道を獲得した日本は、鉄道を破壊から守るため一万人の日本兵を関東軍と称して鉄道沿線に駐屯させていたが、その関東軍が軍閥の張作霖を暗殺したため、張作霖の子張学良が反日の姿勢を強めていたので、日本の関東軍は張学良の軍団を満州から排除する機会を作るため、ダイナマイトで南満州鉄道の線路を爆破した。)を口実に、関東軍はこれを張学良の犯行であると称して満州全域を占領した。これを満州事変と呼ぶ。(中国では九一八事変という)

蒋介石は部下の張学良に対して満州からの撤兵を命じる一方、国際連盟に日本は侵略者であると訴えた。この訴えを受けた国際連盟はイギリス人のリットンを団長とする調査団を満州に派遣した。

しかし調査団の調査が完了する前に関東軍は、滅亡した清の最後の皇帝・宣統帝(本名溥儀(フギ))を擁立して満州国の建国を宣言した。リットン調査団の報告に基づいて国際連盟が満州国を否認すると、日本は国際連盟からの脱退を宣言した。

その中で共産党は各地の農村に建設されていた解放区を統合して、1931年南京南西の瑞金に首都を置く中華ソビエト共和国を建国し、南京国民政府と戦ったが勝てず、1934年包囲された共産党の労農紅軍は瑞金を脱出して中国北西部の延安に遷都した。これを長征と呼ぶ。その長征の途上、遵義で中国共産党は政治局の拡大会議を開いて、この敗北の原因を分析し、都市部に集結したことが敗因であり以後は農村部に分散してゲリラ戦を実施すべきであるという毛沢東の意見が初めて支持された。

翌1935年モスクワで開かれたコミンテルンの第7回大会が、ファシズムに反対するすべての勢力と各国共産党が連立政権を作るべきであるという方針に転換すると、中国共産党も直ちに方針を転換して、8月1日日本軍に対抗するため国民党と共産党は内戦を停止しようと国民に呼びかけた。これを八・一宣言と呼ぶ。

この八・一宣言が中国全土で反響を呼ぶ中で、かねてから蒋介石の方針に不満を持っていた張学良は密かに延安の共産党首脳の周恩来らと連絡を取っていた。これを知って激怒した蒋介石は、急きょ南京から西安に飛来して張学良を叱責したが、逆に張学良は蒋介石の身柄を拘束して共産党との協力を訴えた。この事件を西安事件と言う。

翌1937年北京近郊の盧溝橋(ロコウキョウ)で日本軍が中国側からの発砲を受けたと称して、中国に対する全面戦争を始めた。これを日中戦争(1937年〜45年)と呼ぶ。

日中戦争の勃発直後、共産党と国民党は急速に接近し、日本軍を共通の敵として国共両党は協力して戦うとの合意に達した。これを第二次国共合作と呼ぶ。この戦争中に上海に上陸した日本軍は強行軍の末同年12月には首都南京を攻略した。そこで蒋介石は中華民国の首都を南京から重慶に移し、米英の援助で日本軍に対する抵抗を続けた。

一方共産党の労農紅軍も八路軍と名前を変えて日本軍と戦った。こうして日中戦争は日本の期待に反して長期化した。

 

§19、中国の革命のサイクル

以上のように最初の全国統一を達成した始皇帝の秦が、大反乱のうちに事実上一代で滅亡した後、劉邦が建てた漢(前漢)以降の歴代王朝は最後の王朝・清に至るまで約2000年間にわたって儒教を国教として、有徳者(論語の言葉を使えば「君子」)を官僚に登用してきたが、特に隋が科挙を導入して以降、ペーパテストによる学力検査の成績に基づいて官僚が任用されるようになった。

ただ科挙試験の採点基準はいずれも孔子が編纂したと伝えられる、五経(詩経・書経・易経・春秋・礼記)とされたため、優秀な才能の人物がみな官僚になろうとして、幼いころから五経の暗記に終始する受験勉強を強いられた。

日本も遣隋使、遣唐使を通じて中国文化を導入したが、幸い科挙試験は導入しなかった。この点は同じ中国の隣国である朝鮮と日本の歴史を大きく分ける相違である。

朝鮮では文人が何よりも尊重され武人は軽蔑されたが、日本では平安時代の末期から武士団が出現して後に征夷大将軍と称して実権を握るに至る。

10世紀の中国では五代十国と呼ばれる内乱が約50年間続いたが、その主役は節度使(武人)であった。有名な安史の乱で活躍した反乱軍の指導者も武人であり、いずれもイラン系またはトルコ系の出身者と考えられている。13世紀にはチンギスハーンがモンゴル高原の遊牧民の諸部族を統一してユーラシア大陸の内陸部を制圧し、モンゴル帝国を建てた。

5代目のハーンに即位したフビライハーンは全中国を征服して元を建て、海上にも進出して日本など周辺国に対して朝貢を要求した。

これに対して当時の鎌倉幕府は武人政権であったので、元の使者を処刑し朝貢の要求を拒否した。怒ったフビライは服属した朝鮮の高麗と中国の宋に命じて、日本に対する遠征を実施した。これを日本では元寇と呼ぶ。

遠征は2回にわたって行われたが、いずれも鎌倉幕府の御家人の活躍と暴風雨によって博多湾に上陸することができず全滅した。

一方元は農耕民族である宋を軽蔑し科挙試験も停止して圧政を行ったため、大農民反乱が起き、モンゴル高原に逃亡した。この反乱の中から頭角を現した漢人が建てた王朝が明である。明の3代目皇帝・永楽帝はイスラム教徒の宦官・鄭和を指揮官とする大艦隊をインド洋まで派遣して明に対する朝貢を命じた。これを南海遠征と言う。

しかしこの遠征は財政上の理由から7回で打ち切られた。永楽帝の没後明の末期には、豊臣秀吉の朝鮮出兵に対抗して朝鮮を守るため、40万人の明軍を朝鮮に送って日本軍と戦った。結局秀吉の死によってこの朝鮮出兵は打ち切られたが、明の財政難はますます深刻になった。この混乱に乗じて中国東北地方では、満州族が自分たちの国を建て明の内部の農民反乱に乗じて、たちまち首都北京を占領した。

これに対して明の3人の武将は満州族に協力して、中国南部に領地を与えられた。一方明の鄭成功は明への忠誠を守って台湾に渡り日本にも援助を求めて大陸を制圧した満州族の清に抵抗した。しかし日本の江戸幕府は鄭成功の救援依頼に応えず、結局台湾も清に征服された。

清は科挙を励行して漢人を要職に登用する一方、満州族を侮蔑する言論を許さず、また弁髪と呼ばれる遊牧民の風習を漢人にも強制する硬軟両面の政策をとって、約300年間中国を統一した。この間に清は中国東北地方(別名満州)・内モンゴル・外モンゴル(現在のモンゴル共和国)・台湾・新疆(現在の新疆ウイグル自治区)も支配下において、歴代中国王朝史上前例のない広大な版図を実現した。

一方海上貿易を広州一港に限定し、公行と呼ばれる特定の中国商人に独占させた。これに対して当時(18世紀後半)世界で最初の産業革命が始まっていたイギリスは、清に使節を送って自由貿易を要求したが、当時の中国皇帝・乾隆帝はこのイギリスの要求を一蹴した。その理由は中国が「地大物博」(領土が広大で国内で自給できないものは何もない)であるということであった。

しかし、乾隆帝の退位の翌年から白蓮教徒の乱と呼ばれる大反乱が起り、清の常備軍が苦戦して結局各地の地主が作った自警団がかろうじて10年でこの反乱を鎮圧した。この反乱の原因は人口が急激に増大したための土地不足から、各地の貧民が山間部に移住して苦しい生活をしていた地域に終末思想が流行して決起したことである。

その後19世紀に入るとイギリス東インド会社が中国貿易を独占したが、中国側の一方的な貿易黒字が続いて、通貨である銀がイギリスからインド経由で中国へと流出した。

そこでイギリスは中国に対して自由貿易を求める一方、密かにインド産のアヘンを中国に密輸して、中国に流入した銀をイギリスに還流させる三角貿易を始めた。

その結果今度は中国からインド経由でイギリスへ銀が流出したほか、アヘンの吸引によって満州族の兵士の多くが廃人となったため、中国は密貿易に対する取り締まりを強化して広州に密輸入されたアヘンを没収し廃棄した。

これを絶好の開戦理由としてイギリス議会は清に宣戦を布告した。こうして始まったアヘン戦争は蒸気船からの艦砲射撃に対して、清側が全く反撃できず結局南京条約を結んで、広州以外に貿易港を拡大したうえ、広州沖合の香港島をイギリスに割譲した。

しかしイギリス側の期待に反して、イギリスから中国への輸出はなかなか増大しなかった。その理由はまさに乾隆帝の言葉どおり中国は外国から輸入するものが何もないということであったが、イギリスはそうは考えず貿易港のさらなる拡大を要求し、アロー号事件を口実に再び清に宣戦し再び圧勝した。

結局このアロー戦争でも中国は惨敗し、首都北京の玄関口である天津をイギリス・フランス軍に占領された。この天津で結ばれた講和条約では貿易港をさらに拡大したほか、香港島の対岸の大陸側の九竜半島もイギリスに割譲した。さらに19世紀の末になるとフランスと戦って属国・ベトナムを失い、続いて日本と戦って敗れ、下関条約を結んで属国・朝鮮の中国からの独立を認めた。

この日清戦争によって朝鮮を失ったことにより、中国を宗主国とする東アジアの2000年間続いた柵封体制はついに瓦解した。

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