2011年北アフリカのチュニジアで民衆が蜂起して独裁者ベンアリ大統領が追放された。この事件を引き金に独裁者を追放せよという学生を中心とする民衆蜂起の大波が、中東諸国の独裁政権をなぎ倒す勢いである。中でも中東最大のアメリカの同盟国であるエジプトのムバラク大統領の30年にわたる独裁政権がついに退陣した。
ここで少しの間、エジプトの歴史について述べてみたい。
今から5000年前(紀元前3000年ころ)、最初のファラオ(エジプト全土の支配者)が出現して以後3000年近くにわたって、エジプトではファラオによる王朝が続いた。有名なギザのピラミッドが建設されたのはこの王朝時代の初期(古王国時代)である。ピラミッドの建設目的は未だに明らかではない。有力な説としてはファラオの権力を誇らしげに形で示すためと言われる。他には権力者が強制労働で作らせたファラオの墓であるという説、農閑期に民衆がファラオの功績を称える公共事業として、ピラミッド建設に喜んで参加したという説、毎年定期的に発生するナイル川の洪水による被害を最小限にするための治水事業であるという説などがある。著者の見解ではピラミッドの建設に用いられた石材に残された落書きの内容などを見ると、ファラオによる強制労働とは考え難い。エジプトの民衆が喜んでファラオを称えるモニュメントとして建造したものと考える。
西暦紀元前4世紀、マケドニアのアレクサンドロス大王がペルシャ遠征の途上、アレクサンドリアと称する都市をナイル川河口に建設した。アレクサンドリアに残留したギリシャ人のプトレマイオス朝が成立し、その下でエジプトは地中海世界最大の穀倉地帯として繁栄したが、紀元前1世紀プトレマイオス朝最後の女王クレオパトラが、ローマ海軍とのアクテュームの海戦で敗れて自殺し遂に滅亡した。
女王クレオパトラ亡き後、ローマ帝国の穀倉地帯として残ったエジプトおよびシリアは、西暦7世紀アラビア半島から北上したアラブ人のイスラム教徒に征服された。しかしコプト派と呼ばれるキリスト教徒はエジプト人口の一割を占め、決して無視できない勢力である。
10世紀にはチュニジアに成立したシーア派の、ファーティマ朝がエジプトに進出し首都カイロを建設した。
12世紀にはスンニ派のクルド人・サラディンがクーデターで自らのアイユーブ朝を建て、イギリス王リチャード一世と戦って聖地エルサレムを死守した。
13世紀に成立したマムルーク王朝は、モンゴル帝国のフビライハーンの弟フラグハーンによる西アジア遠征を撃退し、また同じ頃エジプトに遠征した西欧カトリック教徒による十字軍も撃退し、香辛料(香料)貿易の中継点としてエジプトが繁栄した。
16世紀に入るとスンニ派トルコ人のオスマン朝が成立し、エジプト・シリアは征服されその領土となった。
18世紀、イギリス・フランス両国がフランス革命とナポレオンの登場によって、戦闘状態に入り、ナポレオンは宿敵イギリスとその植民地インドの連絡を絶つため、1万人の兵力を率いてエジプトに上陸した。これをナポレオンのエジプト遠征と呼ぶ。この遠征時にアレクサンドリア近郊のロゼッタで発見された碑文はロゼッタストーンと呼ばれ、後にフランスの言語学者シャンポリオンによって解読され、古代エジプト文字(ヒエログリフ、日本語では神聖文字)解読の糸口となった。
ナポレオンのフランス軍は、これを追跡してきたネルソン提督のイギリス海軍にナイルの海戦で敗れてエジプトを去った。この無政府状態となったエジプトを収拾したのが、オスマン朝がエジプトに派遣したアルバニア出身の軍人モハンマド・アリである。彼はエジプト各地に割拠していたマムルークと言われる騎兵を一網打尽にし、以後はフランスの援助を得てエジプトの近代化に着手した。アリは続いてシリアに遠征してオスマン朝と戦って(これをエジプト・トルコ戦争、別名エジプト事件と呼ぶ)優勢であったが、ここでイギリス海軍が介入した。イギリスとしては本国と植民地インドを結ぶ最短の連絡路に位置するエジプトおよびシリアが、モハンマド・アリによって統一されることを警戒し、ロンドンで国際会議を開催した。この会議の結論として、ムハンマド・アリがエジプト総督と称してその地位を子孫に世襲させることを承認する一方、シリアはあくまでもオスマン王朝の領土であり、エジプトがシリアを併合することは認めないとなった。その結果モハンマド・アリを初代国王とするエジプト最後の王朝・ムハンマド・アリ王朝(1840〜1952)が成立した。この王朝は国民に重税を課してスエズ運河の開設とエジプトの近代化を推進したが、ヨーロッパの銀行に対する莫大な債務を支払うため、エジプト住民に重税を課し住民の反乱を招くことになった。
その後フランスの外交官レセップスの提唱により、国際スエズ運河株式会社が創設され、1869年インド洋と地中海を結ぶスエズ運河が開通した。最大の株主であったエジプト国王は財政難からスエズ運河の株を売りに出した。その情報を得たイギリス首相ディズレーリは列強の機先を制してエジプト国王が売りに出した全株を買い取り、一躍スエズ運河株式会社の筆頭株主となった。その後イギリス・フランスはスエズ運河の株主の立場からエジプトの財政難解決するようエジプト政府に要求して、エジプト内閣改造を要求しイギリス人やフランス人が入閣した。これを知って激怒したエジプト軍人アラービー・パシャ
(オラービー、ウラービー、とも言う)は部下を率いて決起アラービーしエジプト国王に対して、エジプト人のためのエジプト(エジプトの主権回復)の内閣再改造を要求した。国王はこれに屈してアラービーを陸軍大臣に登用した。これをアラービー革命と呼ぶ。
ところがこの要求を受け入れたエジプト国王は、背後でイギリスに連絡を取って、アラービーの反乱を平定するための出兵を求めたため、イギリスはエジプトに出兵して反乱を平定し、アラービー・パシャは国王に対する反逆罪でセイロン島に流刑となった。その後イギリスはエジプトから撤兵せず事実上エジプトをイギリスの保護領とした。
第一次世界大戦後には再びエジプト人が立ち上がり、エジプトの独立を要求するワフド党の内閣が成立し、イギリスもエジプトの独立を認めた。
1930年代に入るとドイツではヒトラー内閣が成立して軍備拡大を始めたため、イギリスはドイツ軍によるスエズ運河閉鎖を警戒してエジプト政府と交渉し、エジプト・イギリス同盟条約を結んでスエズ運河地帯へのイギリス軍駐留権を認めさせた。
第二次大戦後1948年ユダヤ人がイスラエルの建国を宣言すると、エジプトを盟主とするアラブ連盟は一斉にイスラエルを攻撃したが惨敗した。これを第一次中東戦争、別名パレスチナ戦争と呼ぶ。イスラエルの建国地域に住んでいたアラブ人の先住民はパレスチナ人と呼ばれるが、難民となってエジプト、シリア、ヨルダンに移り住んだ。これをパレスチナ難民と呼ぶ。
この惨敗に衝撃を受けたエジプト人将校ナセルらは秘密結社として自由将校団を結成し、親英的なエジプト国王を追放し共和政の樹立を宣言した。これを1952年のエジプト革命と呼ぶ。名目上はナギグ将軍が初代エジプト大統領に就任したが、実権を握っていたナセルはナギグを追放して第二代大統領に就任し、エジプト・イギリス同盟条約を破棄して、スエズ運河地帯に駐留していたイギリス軍を撤兵させた。
これに反発したイギリスは1956年ナセルがスエズ運河の国有化を宣言すると、密かにフランスおよびイスラエルと協議してナセルの打倒を計画した。まずイスラエルがスエズ運河地帯に出兵してエジプト軍と交戦状態に入った。その結果スエズ運河の航行が不可能となった。この状態を解決するためイギリス、フランスのパラシュート部隊が出兵して制圧した。(この戦争をスエズ戦争と呼ぶ)ところがこのイギリス、フランスの出兵に対して、事前の通告を受けていなかったアメリカ大統領アイゼンハワーは、国際電話でイギリス首相を叱責し、また米ソ冷戦の当事者であるソ連フルシチョフ首相はエジプトの自決権を擁護して、占領三国の撤兵を要求した。この時フルシチョフはスエズ戦争に乗じてハンガリーの反ソ暴動を、ソ連軍戦車部隊を送って鎮圧しハンガリー首相ナジを逮捕ソ連に連行した。その後ナジは西側のスパイとしてソ連にて処刑された。