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「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しき雑談。
 

日蓮遺文をよむ(大分前に書いたエッセーです)

2011年02月28日 15時03分15秒 | 宗教
                           日蓮遺文を読む


このところ種々の理由が重なり、日蓮の究極の教義とはなにか、つまり一念三千とはなにか、という問題に対して、日蓮遺文はもとより、唯識論、心理学、脳科学、量子力学の文献を片っ端から読み漁って一月を越えた。
 その理論面に関しては時を変えて記したいが、その合間合間に日蓮が信者に当てた書簡を読むと、実に心が洗われた。恐らく「書簡文学」という分野では日蓮はその質も量も、圧倒的に日本一の業績を残していると思う。
 私は、時系列を逆に遡り、晩年の書簡から読んでみたが、特にこの二つの文章は、その美文といい、心根の優しさといい、非常に感動したので、まず原文を写し、そのあとに私なりに現代語に訳し、私なりの感想を書きたいと思う。古典は高校時代は好きだったとはいえ、この数十年読んでいない。もし間違いがあれば指摘していただきたい。

{原文}

◆ 上野殿母尼御前御返事 〔弘安四年一二月八日・南条時光母尼〕/ 
乃米一だ・聖人一つつ〈二十ひさげか〉、かんかう(乾薑)ひとかうぶくろ(一紙袋)おくり給び候ひ了んぬ。/ このところのやうせんぜんに申しふり候ひぬ。さては去ぬる文永十一年六月十七日この山に入り候ひて今年十二月八日にいたるまで、この山出づる事一歩も候はず。ただし八年が間やせやまいと申し、とし(齢)と申し、としどしに身ゆわく、心をぼれ候ひつるほどに、今年は春よりこのやまいをこりて、秋すぎ冬にいたるまで、日々にをとろへ、夜々にまさり候ひつるが、この十余日はすでに食もほとをどとどまりて候上、ゆき(雪)はかさなり、かん(寒)はせめ候。身のひゆる事石のごとし、胸のつめたき事氷のごとし。しかるにこのさけ(酒)はたたかにさしわかして、かんかうをはたとくい切りて、一度のみて候へば、火を胸にたくがごとし、ゆに入るににたり。あせ (汗)にあかあらい、しづくに足をすすぐ。此の御志ざしはいかんがせんとうれしくをもひ候ところに、両眼よりひとつのなんだをうかべて候。/ まことやまことや、去年の九月五日こ五郎殿のかくれにしはいかになりけると、胸うちさわぎて、ゆびををりかずへ候へば、すでに二ケ年十六月四百余日にすぎ候か。それには母なれば御をとづれや候らむ。いかにきかせ給はぬやらむ。ふりし雪も又ふれり。ちりし花も又さきて候ひき。無常ばかりまたもかへりきこへ候はざりけるか。あらうらめし、あらうらめし。余所にてもよきくわんざ(冠者)かな、よきくわんざかな、玉のやうなる男かな男かな。いくせをやのうれしくをぼすらむとみ候ひしに、満月に雲のかかれるがはれずして山へ入り、さかんなる花のあやなくかぜのちらかせるがごとしと、あさましくこそをぼへ候へ。/ 日蓮は所らうのゆへに人々の御文の御返事も申さず候ひつるが、この事はあまりになげかしく候へば、ふでをとりて候ぞ。これもよもひさしくもこのよに候はじ。一定五郎殿にいきあいぬとをぼへ候。母よりさきにげざんし候わば、母のなげき申しつたへ候はん。事々又々申すべし。恐々謹言。/ 十二月八日  日蓮(花押)/ 上野殿母御前御返事

{現代語}

お米とお酒、ショウガの乾燥したものを一袋、お贈りいただきました。
 最近の病状は前にも申しました。文永11年6月17日に身延山に入り、今年の12月8日まで、この山を一歩も出ませんでした。その8年の間、痩せ病(下痢を伴う病気・癌とも言われる)といい、加齢といい、年々に身体が弱くなり、心ももろくなっていた上に、今年は春から痩せ病がひどくなって、秋から冬になるまでの間、日々に衰弱し、一夜寝るごとに症状が悪化し、この十数日は食も喉を通らず、その上雪は降り積もり、寒さはこれでもかと厳しくなるばかりです。体は石のように冷たく、胸は氷のように寒くてたまりません。
 そのような時に頂いたお酒を熱燗にして、乾燥ショウガをガリっと食切ってひと飲みしたところ、胸は火をつけたように暖かく、まるで風呂に入っているかのようです。汗が流れて体を洗い、汗の滴に足まですっきりしました。あなたのお志に思いを馳せると、嬉しさのあまり両目から涙がこぼれました。
 実に実に、去年の9月5日には、お子様の五郎殿が亡くなられたことを思い出し、心乱れながらも指を折って年を数えれは、もう二年以上も前のことになりますね。母親のあなたにはあの世からの何かの知らせが何かあったことでしょう。どのような知らせがありましたか。
 雪は降って解けてもまた降ります。花は散ってもまた咲きます。ただ人の死のみ、消えたかぎり二度と帰ってはきません。なんと悲しいことでしょう。なんと悲しいことでしょう。
 傍目でみていても、優れた若者よ、優れた若者よ、玉のように美しい男の子よ、さぞかし親はこのような子供をもって嬉しいだろう、と思っていましたのに、まるで満月に雲がかかってそのまま山の端に消え入ったかのように、満開の桜が風に散ってしまったかのように、寂しさに耐えません。
 私は病気のためにいろんな人の書状にも返事を書かずにおりましたが、このことが余りに悲しくてこの度は筆を執りました。私も余生は長くないでしょう。きっとあの世では五郎殿に会うでしょう。あなたより先に会った時には、母の悲しみをお伝えいたしましょう。


{鑑賞}

日蓮の死の前年60歳のときに南条時光の母(尼)へ当てた返事である。
なんと人間味に溢れた文章だろう。国家を諌め、神仏を諌め、伊東へ佐渡へと流罪になりながらも、我こそは上行菩薩の生まれ変わりと確信し、題目を唱えればこの身は仏と断言した、獅子王のような日蓮の姿はここには全く見受けられない。
 ただ年を取り、病にかかり、心も弱くなったままの、人としての人間日蓮がそのまま放りっぱなしで晒されている。
 時光の母は息子を亡くした。その息子にあの世で会って、あなたの悲しさをお伝えしましょう、とあるのだから、ここに日蓮の浄土観がよく現れている。
 また酒好きにとっては、この一文は有難い免罪符になる。日蓮はお酒が大好きだったようだ。
乾燥ショウガというものを私は食べたことはないが、恐らく口の中が熱くなり、体がポカポカするのだろう。それを熱燗で一杯やると、汗がタラタラと流れ、心地いい気持ちになったことだろう。しかも日蓮は有難さの余り泣いている。泣いた、などと男は言うものではないが、日蓮は隠さずその事実を伝えている。
 これらの言葉を「死を目の前に迎えた老僧の気弱さ」と取るべきではないだろう。一念三千の根底に空・化・中の三諦を置いて悟った日蓮のことだ。悲しいときは悲しみ、泣きたいときは泣き、従容として自分の死を迎えようとしているのである。
 記憶力のいい人は、この一文、丸覚えしていただきたいものだ。
 

{原文)
  
◆ 伯耆公御房御消息 〔弘安五年二月二五日・日興〕/
 御布施御馬一疋鹿毛御見参に入らしめ候ひ了んぬ。/ 兼ねて又此の経文は二十八字、法華経の七の巻薬王品の文にて候。然るに聖人の御乳母の、ひととせ (一年)御所労御大事にならせ給い候ひて、やがて死なせ給いて候ひし時、此の経文をあそばし候ひて、浄水をもってまいらせさせ給いて候ひしかば、時をかへずいきかへらせ給いて候経文なり。なんでうの七郎次郎時光は身はちいさきものなれども、日蓮に御こころざしふかきものなり。たとい定業なりとも今度ばかりえんまわう(閻魔王)たすけさせ給へと御せいぐわん候。明日寅卯辰の刻にしやうじがは(精進河)の水とりよせさせ給い候ひて、このきやうもんをはい(灰) にやきて、水一合に入れまいらせ候ひてまいらせさせ給ふべく候。恐々謹言。/ 二月二十五日  日朗花押/ 謹上 はわき公御房

{現代語訳}

お布施として頂いた栗毛の馬一頭、確かにこの目で見ました。
 それから、(お送りする)この経文28文字は法華経の第7巻の「薬王品」の文章です。
実は私の母が一年の間病気を患い、危篤になり、息を引き取った時に、この経文を燃やして清らかな水に溶かして飲ませたところ、たちどころに生き返ったといういわくのある経文です。
 南条時光殿は、体は小さいけれど、日蓮への信心は実に深いお方です。たとえこの病が死病であるとしても、今度だけは閻魔大王よ、助けてやってください、と誓願しています。
 明日の寅卯辰の刻に精進河の水を汲んで、この28文字の経文を燃やして灰にし、一合の水に溶かして、南条殿に飲ませてあげてください。

{鑑賞}

この文章は、日蓮の死より8ヶ月前、61歳のときの手紙。前出の手紙の相手であった尼母の子供である南条時光の病気治癒の方法を伝えるために、日蓮の弟子・日興に出した手紙である。
 またよほど日蓮は病が重かったのだろう。この手紙は弟子・日朗が口述筆記をしたものであり、そのために「私の母」というべきところを日朗の立場で「聖人の母」と、遠慮して書いてある。
 私は日蓮宗の祈祷主義がどうも気になっていた。現代科学の合理主義に染まった立場から見れば、祈祷など迷信と一緒で古臭い非科学的なものだ、と感じてしまうのだ。
 しかしこの文章を読むと、日蓮が明らかに密教的な祈祷をしていた事実が分かる。
薬王品の中の28文字とは「この経は全世界の人々の良薬である。もしこの経を聞けばたちどころに病は治り、不老不死を得る」と書いてある部分であり、これを燃やして灰にし、清らかな水とともに飲ませれば病は治る、というのである。事実、日蓮の母は、一度死んだのに生き返った、と書いてある。
 実に不思議な話であるが、書いてある以上、またこれが日朗の真筆として残っている以上は、それを信じるしかない。(大石寺所蔵)
 閻魔大王といえば地獄の裁判官、とイメージしがちだが、法華経の守護神でもある。だから閻魔に今度だけは助けてくれ、と誓願しているのである。
 このような文章や「祈祷抄」といった文書も残しているので、現在の日蓮宗は祈祷主義を信奉しているわけだ。
「日蓮密教」と言われるように、日蓮は様々な奇跡を体験している。例えば日蓮が初学の折に、智恵の神様といわれる虚空蔵菩薩を信仰し、「日本第一の智者にしてください」と祈っていたところ、智恵の宝珠が現れ飛んできて日蓮の袖に入った、と伝えられる。そのほか星が降ってきて庭の木にぶら下がった逸話など、日蓮に纏わる神秘は数多い。
 保守的科学はこれらを無視するだろうが、ユング派やトランスパーソナル心理学はこういった神秘を認めている。また素粒子論の世界にはいると、マッハの原理や、非局所論、不確定性原理など、「因果律」を超えた現象が存在することがいくらでも出てくる。
 結論だけを言えば、個と全体が統一しているのが「存在」というものであり、例えば私がこの場で誰かを思ったとすれば、その想いは相手に伝わる。石ころの気持ちも私に伝わるのだ。仏教ではそれを同時と呼び、ユングはシンクロニシティと呼ぶ。


いずれにせよ、ここに日蓮の手紙二つを残した。一つは人情に溢れる日蓮像であり、もう一つは祈祷者としての日蓮像である。「徒然草」が読める人なら、日蓮の遺文は簡単に読める(仏教用語以外)ので、ぜひ原文にあたってほしい。


 
 

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山本玄峰 無門関提唱

2011年02月04日 14時57分46秒 | 書評、映像批評


どうか写真をよく見てほしい。これが山本玄峰の晩年の顔。本当に悟った人間の顔である。実に麗しい。

私はこの本を三度読んだ。、一度通読し、二度目は岩波文庫の「無門関」を参照にしながら、感動的な文句には赤ペンを入れて読み直し、3度目は、赤ペンだけを読み直した。
 約五百ページにわたる難解な本だけに、以上の読書をするのに約3ヶ月かかった。

無門関、というのは、禅宗のうち特に臨済宗・黄檗宗で使う「公案」の問題集であり、提唱というのは、その講義解説である。これは、13世紀、中国の宋時代の禅僧無門が収集したものである。
公案とは、いわばナゾナゾのようなものだ。
 以下、岩波文庫の「無門関」の口語訳をもとに、さらに徹底的に簡略化して、無門関に示されている48の公案のうち、はじめの20を示す。
 無門関は、本文と、それに対する無門和尚の感想と、詩の部分があるが、ここでは本文のみを挙げる。
固有名詞はなるべく廃する。それぞれの問答やエピソードがあるが、そのあとに「さて、この意味をなんと理解するかな?」という言葉が隠れている。
 禅の常識を知っていないと解けない公案もあるので、最低限の註を( )の中に入れることとする。

第1.ある僧が和尚に「犬にも仏性がありますか」と聞いた。和尚は「無」と答えた(註:仏教では一切の存在に仏性があると説く)

第2.ある和尚の説法のときにいつも聞いている老人がいた。その老人が和尚に言った。「実は私は仏陀の生まれる前から法を説いていましたが、仏道を完成したものは因果の支配から脱する、と説いたために、五百年の間、野狐になって現在に至りました。どうかこの身を救ってください」。和尚は「因果の支配からは逃れられない」と言ったので、野狐は狐の身から脱することができた。
 この話を僧たちの前で話したところ、弟子の一人が「彼が正しい答えを出していたら、いったい何になっていたでしょうか」と問うたので、和尚が「こっちへこい。教えてやろう」というと、その弟子はいきなり和尚の顔をぶん殴った。和尚は「ここに達磨さんがいたぞ」と喜んだ。

第3.ある和尚は、問答に対して常に指を一本立てるだけであった。その和尚のところにいる童子が、和尚の真似をして一本指を立てた。和尚はその指を切ってしまった。童子が泣きながら逃げようとすると、和尚が童子を呼び止めた。童子が振り返ってみると、和尚がすっと指を一本立てた。その瞬間に童子は悟った。

第4.ある和尚がいった。「いったい何故達磨さんには髭がないのか」(註:どの絵を見ても達磨には髭がある)

第5.ある和尚が言った。「人が木に登って、枝を口でくわえ、両手両足は使えず、口だけでぶら下がっているとしよう。そのとき、木の下に人がいて、禅とはいったい何ですが?と質問したとしたら、どうする」

第6.釈迦が説法したとき、一本の花を持ち上げ大衆の前に示した。そのとき迦葉のみが微笑んだ。そこで釈迦は、この言葉にできない法をお前に付属する、と言われた。

第7.ある僧が和尚に聞いた。「どうか尊い言葉をください」。和尚は「朝飯は食ったか?」とたずねた。僧は「食べました」と答えた。和尚は「それでは茶碗を洗っておきなさい」と言った。僧はその瞬間に悟った。

第8.ある僧が和尚に尋ねた。「ある人が百台の車を作り、しかも車の両輪も車軸も外した、といいます。彼はそれによって、どんな真理を示したのでしょうか」

第9.ある僧が和尚に聞いた「大通智勝仏は、非常に長い間座禅を続けたのに仏道を完成し得ないのは何故ですか」。和尚は答えた「そもそも彼は仏になれないからだ」

第10.ある僧が和尚に言った「私は貧乏です。なにかお恵みをください」。和尚が答えた「あんなに美味しい酒を三杯も飲んでいながら、何も飲んでおらんとはなにごとか」

第11.ある和尚がある庵主のところに行って「おい元気か」と聞いた。彼は拳を上げた。和尚は「こんな浅いところには船は泊められない」といって去っていった。そして別の庵主に「おい元気か」と聞いた。彼も拳を上げた。和尚は「なんと自由に生きていることよ」と言って頭を下げた。

第12.ある和尚は毎日自分に向かって「おい主人公」と呼びかけ、自分で「はい」と答えておられた。(註:主人公とは仏性のこと)

第13.ある和尚が食事の時間でもないのに食堂にやってきた。弟子が注意すると黙って引き上げた。この話を別の高弟に話すと、高弟は「和尚ともあろう人が」と嘆いた。それを聞いた和尚が高弟を呼び「お前は俺を馬鹿にしとるな」というと、高弟はなにやら耳打ちした。翌日の和尚の説法はいつもになく素晴らしかった。高弟は大笑いして「これで世の中は和尚に手が出せなくなったぞ」と言った。

第14.弟子たちが猫をめぐって口論しているところに和尚が来られた。和尚は猫を持ち上げて「お前たち、なにか言ってみよ。言えなければこの猫を切るぞ」と言われた。誰も答えられなかったので、和尚はその猫を両断した。高弟が戻ってきたので、和尚はこの話をした。すると高弟は履いていた草履を頭に載せて部屋から出て行った。和尚は「お前がいたらあの猫を救えたのに」と言った。

第15.ある和尚のところに僧がやってきた。和尚は「お前はどこから来たか。この夏はどこですごしたか。いつそこを出てきたか」と聞いた。僧がそれに答えると「お前を棒で60回殴りたいところだ」と言った。翌朝、僧が何故そのようなことをいわれたのか和尚に聞きただすと、和尚は「いったいお前はどこをうろついていたのだ」と言った。その瞬間、僧は悟った。

第16.ある和尚が言われた。「この世界はこれほど果てしなく広いのに、お前たちはどうして鐘が鳴るとそのように行儀よく袈裟などを身に着けるのか」

第17.ある和尚が僧を三度呼んだ。そのつど僧は「はい」と返事をした。和尚は言われた「私のせいでお前は悟れないと思っていたら、お前がもともと私に背いていたから悟れなかったのだ」

第18.ある僧が和尚に聞いた「仏とはどんなものですか」。和尚は言われた「麻三斤」(註:斤とは重さ。麻三斤は一掴みぐらいの麻である)

第19.和尚に高弟が「道とはどういうものですか」と聞いた。和尚は「平常心」と答えた。高弟が「努力すべきですか」と聞くと和尚は「むしろ努力すると逸れてしまう」と答えた。高弟が「何もしないなら、何故それが道といえるのですか」と尋ねると、和尚は「道とは知る、知らないを超えている。もし本当にこだわりなく生きていたら、大空のようにカラリとしたものだ。どうしてああだこうだと詮索することがあろうか」と言った。高弟はいっぺんに悟った。

第20.ある和尚が言った「修行で優れた力を発揮できる人が、なぜ座禅から立たないのか。どうして舌を使って話さないのか」


以上、48まで書くのは大変だから一部を要約して書いた。興味をもたれた方は、無門関の解説本は多数あるので読んでいただきたい。
 一部、なんとなくわかる公案もあるが、ほとんどは理解しがたい。普通の合理的精神では解けない話ばかりである。これらの公案は、一つを解くのに人によっては数年、あるいは10年以上もかけると聞く。
そしてすべて説き終え、悟りが徹底したと認可されると「師家」と呼ばれるようになる。
 臨済宗と黄檗宗ではこの公案を用いるが、曹洞宗では座禅をもっぱらにして公案はほとんど使わない。
いずれにしても見性(悟り)にいたるための手段である。
 ちなみに、提唱(解説)だから、公案の答えが書いてあるかというと、この本にはほとんど解答は書かれていない。解答を書いた本もあるが(例えば安谷白雲著の「禅の真髄 無門関」(春秋社)。この本は非常に優れているので一読をお勧めする)、山本師は、語句の解釈をしてさまざまなエピソードを紹介するのみだ。決して解答は教えない。禅宗ではこれらの解答は、独参入室して、師家に何度もダメ出しされ、やっと許されるものらしい。そしてそのときに語った内容は決して口外してはならない、という規則がある。
 私の興味はこれらの公案の答えではない。
山本師の訓話が実に面白いのである。
 私は、背骨を震わせながらこの本を読んだ。古本屋で1500円で買った本だが、この本は人生を変えてくれるどえらい本だと実感した。

禅の目的は見性(悟り)を繰り返し、徹底大悟に至ることである。さらに言えば、その悟りすら忘れて自由自在の境地になることである。
 悟るとどうなるか?山本師が話しているなかで、私が記憶している限りを説明する。
まず、両脇腹がビリビリふるえて、玉の汗がトロリトロリと流れ出る。その状態が3日続く(人によっては一週間、あるいは一ヶ月続く)
そして「天地と我と同根、万物と我と同一」ということが(実感)としてわかる。釈迦も蛆虫も、全宇宙も素粒子もすべてが、キラキラと輝く仏性を持っていることを(実感)する。
 また、天眼通、天耳通、宿命通などの超能力が備わる。言い換えれば、足音を聞いただけでその人の心の内容がわかるし、鳥の声を聞けば鳥の気持ちが分かるようになる。
 人によっては自分の前世をはっきりと思い出す。また来世のことも、はっきりと自分の思ったところに生まれるという確信を得られる。
 これらの「神秘体験」がもとで禅宗は成り立っている。この体験に裏打ちされていない本はどれほどの学者が書いた本でも面白くない。
 例えば、有名な鈴木大拙の「禅とは何か」(角川ソフィア文庫)や、「十牛図 自己の現象学」(上田閑照・柳田聖山、筑摩書房)などは、観念的でちっとも面白くなかった。学者の書いたものはダメである。これらの解説書を読むぐらいなら、徹底的な唯心哲学の理論書「大乗起信論 仏典講座22」(平川彰、大蔵出版)と首っ引きで取り組むか、それとも非常によくできたハウツー本「図解 禅のすべて」(花山勝友監修、光文社・知恵の森文庫)を読んだほうがずっといい。
 
さて、この本を読んで、私は、どうしても見性したいものだ、と思い始めた。どうせ人間として生まれたからには悟った人生を送りたい、煩悩に悩まされ右往左往する人生よりも、ガラーっと悟ってみたい。
 そう思いながら歩いていたら、自宅から6〜7分ぐらいのところに「禅東院」という曹洞宗の禅寺があり、土曜日には座禅会を開いている、と書いてあった。なんとなく宿命じみたものを感じた。
 さっそく、土曜に門を叩いてみた。参加者は5名程度。座禅を組むのは辛いものだと思い込んでいたが、集中力を保つために、普通、座禅は40〜50分で終わる。そして、呼吸を数えて(数息観という)、心を真っ白にして座っていたら、あっという間に終わる。(この数息観が非常に難しい。なるべくゆっくりと呼吸をするのがいいとされる。山本玄峰師ぐらいの達人になると3分に一度の呼吸で済むという)
 座禅の後は、法話や質問で、最後に、ものすごく美味しい手打ちウドンを振舞われる。
なんのことはない、実に楽しい時間なのだ。
 初めての座禅体験は、本当に心がスーッとして気持ちがいい、温泉に入って涼しい空気に当たったときのような感覚だった。

それで、週に一度の座禅ではもったいない、毎日やろうと決心して、家でも座禅を組むことにした。
座布団を折って座ってもいいのだが、仏具屋にいって座布という座禅専用の座布団を4千5百円出して買ってきた。高いなあ、女房に作らせたら原材料は千円で済む、と思ったが、これで悟れるなら、と思い奮発した。
 そういうわけで、週に1度は寺で、残りの六日は家で座禅を組む生活が始まって、今日で10日目になる。
かなりの心境の変化があった。まず、私の鬱病の症状で一番苦しんでいた「原稿を書く前に逃避行動をする」癖がなくなった。まず、心が空白になるから苦痛が消えるし、体は「この世の借り物」という気が起きるから、正しいと思う方向へスッスと持っていける。これは大いに助かった。おかげでこの10日で40枚の論文を書いて恩師にメールで見せたら、「大変面白く読んだ」と、普段は絶対に褒めない恩師に生まれて初めて褒めてもらった。
 次に、これは、いいことでもあり、悪いことでもあるのだが、自分の心境が高くなったために、キャバクラ嬢や他人が「動物のように見える」という現象が起こってきた。
 キャバクラに行くと、ホステスたちや客たちが、鳥獣戯画のように動物に見えるのである。女はたいてい鳥のような顔をしている、男は堕落したタヌキのような顔をしている。気持ち悪くて仕方がない。ホステスと話していても、馬鹿馬鹿しくて喋るのも嫌になる。英語に夢中になっているホステスに「まず日本文化を勉強しなさい。馬鹿が英語が喋れるようになっても、英語の喋れる馬鹿でしかないよ」と本当のことを言ってしまって、嫌な沈黙が続いたりした。とにかく、馬鹿馬鹿しくて、話題がなくなるのだ。
 それから、知り合いの女でNPOやらフェミニズムに打ち込んでいるオバサンがたまにメールをくれるのだが、そのメールを読むと心境の低さにげんなりしてしまう。文章の奥に潜む相手の心に、ブリキの洗面器に腐った水がたまっていて、ボウフラがその中に湧いている、というイメージが浮かぶのである。
 そうそう、芸能人なども見ていられない。叶姉妹はもちろん、お笑い芸人やらタレントたちが「人間の顔をした亡者」に見えるのだ。田島陽子なんて女は絶対に悟れないだろうね。小泉首相も竹中も終わっている。
 だから、この10日は、ほとんどキャバクラにも行かず、テレビも見ず、原稿執筆のための研究と、禅関係の本を読むことに集中している。
 もっとも、こういう心境はいいようであり、実は、悟りの世界から見ると悪いのである。というのは、我は清く、人は穢れている、という差別観が生じているからで、本当に悟れば、一切衆生悉有仏性(どんな奴でも仏様)という心境になるのだ。だから、私の現在の心境は、昨日までの私よりはよほど上昇したが、悟りの立場から言えば、まだまだ低いものである。地獄に入ったら地獄の中で遊戯三昧、という心境でなければならないらしい。(でも、やっぱり馬鹿は馬鹿だね、と思うのだが・・・・・・)

それから、非常に重要な夢を一晩に二つ見た。一つは、私が池田大作になって講演している夢である。私は池田大作は国賊、仏敵だと思っていて、いつかは首を切り落としたいと祈っているほどに嫌いな人間だ。この夢はユングの言うところの究極の「影」の夢である。あの池田と調和したのだから、無意識の領域においては自己実現は完了したのではないか、と思う。
 次いで、家が新築になり、庭の池の水が泥水から清流に一挙に変化している夢を見た。さらに、トイレで小便をしようとすると、トイレが消えて布団の上や居間に小便が流れてしまう。その度に小便を止めてトイレを探すという夢である。これまでの夢解釈の経験から、私の夢の中では、家は心の象徴だ。これまで無数の家の夢を見たが、いつも古く、ガタが来ていて、トイレの床などは今にも踏み抜きそうに腐っていた。また家の地下に秘密のクラブがあって、そこには酒をついでくれる不思議な顔をした女性たちがいる・・・・など、私の家は壊れかけていて、隠微だった。今度の夢は、生まれて初めて見た新築の頑丈な家である。心が生まれ変わったのだろう。さらに、トイレがない、というのも面白い。あまりに清浄な心になると、小便=性的排泄もできなくなるよ、家の中にトイレは残しておきなさい、とセルフがアドバイスしているのだろう。私はそう解釈した。いずれにしても劇的な変化である。

そういうわけで、この本は私の人生を変えた一冊である。
本当に全力を尽くして、私は毎日座禅を組んでいる。いつか「見性体験記」が書けるようになりたいものだ。
心に悩みのある人、死ぬのが怖い人、大きな目標を達成したい人には是非読んでもらいたい。

最後に、山田耕雲禅師が悟ったときの様子を自身が書いている文章(手紙)があるので、それを引用してこの書評を閉じる。見性とは以下のような劇的神秘体験を伴うもののようである。

今日、小生自身の体験を御報告することになろうとは思いませんでした。 貴山へ伺った翌二十四日、ちょうど所用で東京へ出て来た家内と帰りが一緒になりましたので、夕方五時頃二人で横須賀行の電車に乗りました。小生は読みかけの『損翁禅話』という書物を開きました。御承知かも知れませんが、損翁というお方は元禄時代、仙台に居られた曹洞宗の尊宿なる由。

  丁度大船より少し手前のあたりで書中「あきらかに知りぬ、心とは山河大地なり、日月星辰なり」(付記『正法眼蔵即心是仏』の巻にありと)の句に逢着致しました。この文字は決して初めてお目にかかった訳ではないのですが、何かしらハッと固唾を呑む思いでした。謂えらく「自分も禅に参じて七、八年。ようやくこの一句がわかるようになったか」と。そう思うと急に涙のこみ上げてくるのをおさえることが出来ません。人中なのできまりがわるく、ソッとハンカチで眼を拭って居りました。鎌倉へ着き、裏道を帰る途々、何となくすっきりした気分です。

「今日はなんだか大変すがすがしいよ。」
「それはようございましたね。」
「何となく、僕はえらくなれそうな気がする。」と二度ほど同じようなことを申しますと、
「困りますわね、お父様ばかりえらくおなりになって、距離が出来すぎて。」
「いや、大丈夫だ、どんなにえらくなっても心はいつもすぐ側に居るんだから」と、
子供みたいなことを言い合いながら家へ着いたのですが、その間幾度となく、  
「あきらかに知りぬ、心とは山河大地なり、日月星辰なり。」と、
繰り返し繰り返し心でとなえていたことを覚えています。

 丁度その日は、弟夫婦が泊まって居りましたので、一緒にお茶などを飲みながら、龍沢寺へお詣りした話、そこから黒衣姿のアメリカの青年が居て、只見性のみを求めて両度渡日したその物語を、貴兄から伺ったまま話してきかせました。お風呂へ入って寝に就いたのは十二時近かったと思います。

  夜中にフッと眼がさめました。初めは何か意識がはっきりしないようでしたが、フト、 「あきらかに知りぬ、心とは山河大地なり、日月星辰なり。」 の句が浮かんできました。それをもう一度繰り返したとたん、一瞬電撃を受けたようなピリッとしたものを全身に感じたと思うが否や、天地崩壊す。間髪を入れず怒涛の如くワッと湧き上がって来た大歓喜、大津波のように次から次と湧きあがり押し寄せる歓喜の嵐。あとは只口いっぱい、声いっぱいに哄笑する。哄笑の連続。  

 ワッハッハッ ワッハッハッ  
 ワッハッハッハッハッハッハッ

なあんにも理屈はないんだ。なあんにも理屈はないんだ。とこれも二度ほど叫びました。

 ワッハッハッ ワッハッハッ   
 ワッハッハッハッハッハッハッ

虚空が真二つに割れて大口を開き、ワッハッハッハッハッ ワッハッハッハッハッ ワッハッハッハッハッと、腹一っぱいに笑ってるいるのです。家の者の話では人間の笑い声ではなかった由。

  最初は寝ていたのですが、途中から起き上がるなり、両腕の折れるほど力いっぱい布団をたたきつけ、たたきつけ、両膝で床を破れるばかりに踏みならしながら、  

 ワッハッハッハッ ワッハッハッハッ   
 ワッハッハッハッハッハッハッハッ

果ては立ち上がって天にのけぞり、地に伏し、   

 ワッハッハッハッ ワッハッハッハッ   
 ワッハッハッハッハッハッハッハッ です。

  側には妻と末の男の子が寝て居りましたが、この青天の霹靂にビックリギョウ天し、妻は私の口を両手で押えつけながら、「どうなさいました。どうなさいました。」と連呼したそうです。子供は気違いになったと思ってゾッーとしたそうです。妻の呼ぶ声はたしかに聞いたように思いますが、口を押さえられたことは全く記憶なし。

   「見性したんだ。見性したんだ。ああ、仏祖我をあざむかず。」

と叫んだのはしばらくたってからでしょう。その間どの位の時間だったでしょうか。自分では二十分位の感じがしているのですが、妻の話では、二、三分位だろうと申します。 やや落ち着きました。何事かと驚いて下りてきた二階の人達に、どうもお騒がせしてと言う位のゆとりも出て来ました。

   ややあって私は、貴兄より頂いたあの観音様の御写真と、原田老師の御写真と無我相山の老師から頂いた金剛経と安谷白雲老師の御著書(御写真がないので)の前にお線香を立てました。そして只無心に礼拝致しました。それからそのまま端坐致しました。線香一本、二、三分位の感じでした。

   その後は全身の皮膚がピリピリ動くような感じがいつまでも続き、実はこうして、ペンを操っている今でも、その余震がつづいています。  

   朝になると私は、練馬関町の道場に安谷老師をお訪ねしました。うかがってみますと、明日から真光寺に接心があるため、一足違いでお出かけになった後でしたので、私はまた、そのお寺のある埼玉県の小川町まで足を延ばしました。

   入室をお願いしまして、天地崩壊の一瞬を述べんとするに至って

   「うれしくてうれしくて。」  

  と言ったままこぶしをあげて膝を連打し、身もだえしながら大声に慟哭致しました。(付記、五日を経た今、この時打った膝が内出血で大きな黒いあざとなっています。子供が見て気持ちが悪いと申します)止めようと思っても止まらないのです。一所懸命体験の有り様をお話ししようとするのですが、口がもつれて殆ど言葉にならず、ついには老師の膝に額を伏せて泣きむせびました。老師は静かに背をなでて下さいました。そして

  「ウンそれでよい、それでよい。そこまで痛快にいく事は珍しいことなのだ。これを心空及第という。よかった。よかった。」

と言われました。

   小生はただ、

「お蔭様で、お蔭様で。」

と言いながら、またうれし泣きに泣きむせびました。そしてしっかりやらなければ、しっかりやらねばと繰り返しつつ申しました。  

  その後で諄々と御懇篤な御注意と御垂示がありました。そして最後に平伏した私の耳許で、お目出とうございました、という静かな老師のお言葉を聞きました。

  暗い道を老師が懐中電灯を持って山のふもとまで送って下さいました。

   それが丁度昨日の今頃です。それから一昼夜たちましたが、今もって余震絶えず、からだ中がピリピリ動いています。独りで笑ったり泣いたりしながら一日を過ごしました。

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中村天風

2011年02月03日 11時51分57秒 | 雑談
中村天風が何時死ぬか分からない結核になり、世界中を巡って、当時の医学では治せないと分かり、日本に帰って死のうと帰国しかけたときに、ある行者と出会ってヒマラヤで修行をします。

それで、空の声を聞け、などなど、対機説法の果てに「なにが辛いんだ。生きているだけで幸せじゃないか」と言われ、悟ります。あとの業績は調べてください。皇族から東郷平八郎まで弟子になります。

で、逆に言えばこれは「生きていることの馬鹿らしさ」でもあるんです。これは同じことです。

四苦八苦と言いますね。生、老、病、死です。
 最初の苦痛は生まれてしまったことです。
物心付いて自我が芽生えるとき、なんて寂しい暗闇に放り出されたのか辛くて堪らなかった。だから赤ちゃんは泣くんです。

私は母におんぶしてもらったり、オムツを代えて貰ったとき、寂しくて寂しくて仕方なかった。

生まれてしまった苦痛。生きている喜び。
私の場合は前者のほうが強い。涅槃の中でゆっくりと休みたいものですね。

しかし、この悲しさに耐えて、菩薩行いたしましょう。生きている限りは。
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中井コッフについて

2011年01月28日 09時39分59秒 | 書評、映像批評
『中井コッフの書画と短歌』(薬師神義武著、印刷所:セキ株式会社、平成2年8月1日発行)

愛媛の歌人といえば誰でも正岡子規を知っている。しかし、「子規の次はコッフ」と比較称される中井コッフの業績を知っている者はかなりの短歌通にもいない。せいぜい愛媛県宇和島市の知識人がその名を知るのみである。
 今回取り上げた本にしても、著者の自費出版であり、興味を持った読者がいたとしても、取り寄せようがない。(どうしても欲しい人は宇和島市の観光課に問い合わせてください))
 実に惜しいことだ。

側面から見れば、著者・薬師神氏の行ったことは、ちょうど私が実験映像を批評して活字に残す作業に似ている。映像作家も歌人も世に多いが、その業績を活字で残し出版しなければ、その存在は埋もれてしまうのだ。身の引き締まる思いがする。

中井コッフは明治14年に愛媛県宇和島市に生まれた。本名は中井謙吉。愛媛師範学校入学後、一年間京都絵画専門学校で絵を学び、愛知医学専門学校を出た。医学生のころよく焼き鳥を好んで食べ、とくにそのカシラばかりを食べていた。学友たちが面白がって、ドイツ語で「フォーゲル・コップ(鳥の頭)」という渾名をつけた。そこでコップと雅号を選んだが、コップ酒のコップと間違われるために半濁音をとってコッフと号するようになった。

コッフは地元宇和島で小児科医を開業し、名医と慕われた。同時に、短歌と書画においても一流の業績を残した。生涯に読んだ歌の数は6万を超えると言われる。
 ちなみに彼のもう一つの業績として、浪花節を「浪曲」と名づけたことがあげられる。当時浪花節は品格の低い庶民の娯楽と見られ、その芸術性は省みられなかった。コッフは浪花節のファンであり、とくに桃中軒雲右衛門に心酔していた。そこで浪花節の芸術性を訴えるために、謡曲の名にもじって
浪曲という呼称を創案し、日本に広めたのである。それにちなんだ歌もある。

 浪曲と吾改称し優越感 持ちて語りしその浪曲を

 義士伝を語りて居れば自ずから 吾雲右衛門になれる心地す

コッフの短歌の特質は、本格的古典主義的短歌群と、短歌のための短歌、そして徹底した日常短歌の3極に分かれることである。第一種の代表歌は以下のようなものだ。

 夕山に鳴き残りたる鳥の声 ひとつひびきて静かなるかも

 山の雨はや目交に降り下りて 径辺の小田に音たてにけり

 此世にて汚れしものは皆焼けて 焼け残りたるは清し白骨 (辞世の歌)

次いで短歌のための短歌、の代表作を引用しよう。コッフにとって短歌とは、絵画と書と歌とが一体になって初めて成立するものだから、絵と書の歌が多い。

 平幕も横綱倒すわれも日日 子規、茂吉等に勝たむと勢ふ

 これ以上吾には出来ぬ歌と絵と 日毎詠み書き寸暇だになし

 歌も詠み絵も画かねば本当の 写生の味は解らざるべし

 写生の絵 本図になほし失する香を 写生の味と子規は言いけり

 写生せしものを本図にかきかへて 完成しても写生に及かず

 写生の香千言万語説かむより 絵をかきてみよすぐ解るべみ

 吾の絵はとるに足らねど振ふ手に 血のにじむ程力みかきしもの(コッフは半身不随だった)

 楽しみて文字書く時はおのづから 筆にいのちのある如動く

 子規の書は歳に比べて傑れたり 鉄石の書は尚いや勝る

 拙きを自慢の如く言ひながら 恥書き残す今の歌人の徒

以上の歌は、歌そのものをテーマにした純粋短歌である。
 しかし、私は便宜上あえてコッフの短歌を3種に分けて、その一種を「短歌のための短歌」に分類したが、現実には、これも「徹底した日常短歌」のサブジャンルとみなすべきである。
 作者は、短歌のことばかりを考えて日常を送っているからこそこのような純粋短歌が生まれたのである。この辺り、映画と比較すると面白い。奥山順市の構造映画は、特殊な純粋主義、排他主義の芸術と思われているが、必ずしもそうではない。映画が好きで好きで、映画のこと以外に興味を失ったために、日常の関心をそのまま表現するとたまたま排他的構造映画になったのに過ぎない。
 コッフの純粋短歌も構造映画も理屈は同じである。
読めば解るように、写生とは、ものを見てそれをスケッチしたときの妙味である。本図に直すとスケッチの味が消える、とコッフは言う。この論は、「未完成(アンフィニート)芸術論」の主張に等しい。
 
コッフは70歳になっても恋の歌を歌っている。英雄色を好む、というが、芸術家というものもまた恋心を永遠に失わない人種なのだろう。私は40半ばにして、恋も性も飽きてしまった、と公言しているが、コッフの歌を読んで、少し宗旨を変えようかと思っている。以下、コッフ70歳の歌。

 我ために丸髷に結ひ来 世の中に 吾に一人の汝とし思ふ

 炊きかけの飯出来る間と暁の 吾の小床に人はそひねし

 寄り添ひて触り寝し股かつつましく 揃へし写真見つつ恋しき

 余命なき齢になれど春されば 頗り思ふそのかみの人

 汝と吾の二人の外には知らぬこと 山の墜道に雫滴る (この歌は76歳の時のもの)

コッフは6万首もの短歌を詠んでいるので、日常短歌を挙げると枚挙はないが、終戦時の憤りを詠んだ歌は実に見事であり、他に類を見ない。
 見事というのはこういうことである。戦後の日本人は、日本人の最も醜い国民性である「長いものには巻かれろ」「寄らば大樹の陰」が表面に出、実に見苦しい歴史を残すこととなった。すなわち戦争に負けたのは軍人のせいだ、と自らかつて戦勝に酔っていたことを隠して東條英機らのみを悪者にし、マスコミ、知識人たちは揃って民主主義万歳を唱えて、マッカーサーを神様扱いした。現在でも日本人がマッカーサーに宛てた手紙が無数に残っていて、NHKが特集を組んだことがあるが、まさに水飲み百姓がお代官様にすがりつく調子で情けなく、私は思わずチャンネルを回した。実に嫌なものを見た思いがした。b某カルト宗教のカリスマが書いたと言われている小説でも、マッカーサーは「諸天善神」と称えられている。

このような風潮に対して、骨のある文学者は敢えて反動主義の態度を取った。批評家・小林秀雄は「俺は馬鹿だから反省しない。利口な奴はたんと反省するがいい」と述べて敗戦の懺悔を拒み、小説家・太宰治はまさしく反動的に「日本浪漫派」に所属して日本主義を謳った。コッフもまたそれら反逆者の一人であり、しかも徹底的な反逆者である。

 豚にさえ試さぬ前に日本の 無辜の民の上に原爆落とす

 一瞬に骨となりたる三十万 魂あらば呪え鬼畜原子国

 東条氏ら七名は皆一角の 人物なりき南無阿弥陀仏

 東條氏ら天皇陛下万歳を 唱へて安く果てしとあはれ

 米兵等日本婦人に暴行す 歴史の上に大書し置くべし

 神ありて戦争裁判するならば 勝ちたる国も共に罰せん

 東京裁判の中に真実の 判事は一人R、Bパル氏のみ

 人道の罪裁くならば印度人を 掃射しし英を裁けとパル判事いふ

 原爆投下の悲惨の決定の判決は 後世が下すとパルまなじり裂く

 マッカーサー 乃木将軍が敵将のステッセル大将を遇せしを思へ

 世界中何れの国を見て試ても 武士道を越すエチケットなし

パル判事というのは東京裁判で「日本無罪論」を主張したことで知られる。
コッフの魂の叫びは、当時徹底的な反動主義者とみなされたであろう。現在、漫画家・小林よしのりの「戦争論」が話題を呼んだのを呼び水として、被虐史観の見直しがなされ、やっと冷静に歴史が見えるようになり、原爆投下の非人道性、東京裁判の違法性が認識されるようになったが、当時としてはコッフの憤りは異例中の異例であったことを知らねばならない。
 私はここに、写生=リアリズムの透徹した目を培ったコッフの見識と勇気を見る。彼は傍観的に正論を述べたのではない。愛する息子二人を戦死させながら、東條ら戦犯の死刑に義憤しているのである。

 我が愛子散らしめし戦しし人も 殺されたれば吾合掌す

この心の動きの立派さはどうだろう。日本中が、「戦争を起こした東條が憎い。身内を殺した東條が憎い」と叫んでいるときに、この「私」と「公」との見事な一致。これこそ明治人のはらわたを貫いていた武士道なのである。コッフが桃中軒雲右衛門の演じる赤穂義士伝を涙して喜び聞いたのも頷ける。私もまた、義士伝を浪曲、講談、映画、歌舞伎で目にするたびに涙を流す一人である。

さて、実は、この私の蔵書『中井コッフの書画と短歌』は、東條英機の孫である東條由布子さんに贈呈した。
 いきさつはこうだ。何年も前のことだが新宿のトーク酒場として有名な「ロフトプラスワン」で民族派の大立者だった
石井一昌氏が二月に一度のペースでトークショーを開いていた。そのトークショーに私も出席したおり、石井氏より
東條由布子さんを紹介された。

彼女は「祖父東條英機 一切語るなかれ」(文春文庫で入手できる)という本を出版されており、その中で、敗戦後東條英機の子孫として生きることがどれほどの困難を極めたか綴られている。
 特に、由布子さんの弟が転校したとき、担任の教師がクラスの生徒に向かって「東條君のお祖父さんは、泥棒よりも悪いことをした人です」と紹介したエピソードが載っている。
 私はその下りを読んで、胸が掻き毟られる想いがした。東條は開戦と敗戦の責任を天皇の代わりとなって絞首刑になった忠君・犠牲者であるにもかかわらず、このように恨まれた。昨日まで日本軍の快進撃に万歳をしていた日本人が、全て東條ら軍部のせいに押し付けて、マッカーサーを神と仰ぎ見たのである。

私は、東條由布子さんに、愛媛の宇和島にそういう大多数の醜く卑しい日本人と全く違った目で敗戦を見つめ、自らの子息を二人も戦死させながら東條英機の霊に手を合わせた日本人がいることを知らせたくて、この本のことを告げ、贈呈することを約束したのである。
 この本は私の愛読書であり、また希少本で、コッフの美しい絵と書が多数掲載されており、この本に残された東條英機への歌を由布子さんが読めば、どれほど慰められるだろう、と思い、彼女に捧げた。(後日、丁寧にも一読されて返却された)
 
読者はコッフの日常短歌を見て、その凡俗ぶりにあるいは落胆されるかもしれない。しかし、この凡俗ぶりはまねの出来るものではない。私は愛国者の一人として、心が揺れるたびにその思いを歌に託そうと思い、コッフの真似をしてやろうと何度も思ったが、無理だった。心の動きが全て三十一文字に化けるには、よほどの修練を積まねばならないと悟った。
 正岡子規の句は上手すぎて誰にも真似が出来ない。コッフの歌は誰にでも詠めるようで、実は誰にも真似が出来ない。俗にして俗を超えている歌である。

コッフは犬を愛した。その犬の死を嘆いた歌を数首引用して、この文の括りとする。

 犬の仔の病みて呻けばうかららと こえかけてやるなほるなほると

 既にして終末呼吸する仔犬に ロジノン・メタポリン注射うちつぐ

 事切れし仔犬の顔の麗しさ 耳さへ立ちて死花咲けり

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下郎の首

2011年01月26日 18時20分13秒 | 書評、映像批評
『下郎の首』(伊藤大輔、1955年、白黒)

{あらすじ}

 鉄橋を列車が走る。それを見ている富士が辻という場所にあるお地蔵さんの思い出としてこの物語は語られる。
 江戸時代、槍もち(田崎潤)は、主君とその息子に仕えている。主君は囲碁の争いで、ほくろのある男に切り殺される。争いの中で相手の人差し指も切れ、それを手がかりに、槍もちと新しい主君である若侍はあだ討ちの旅に出る。
 貧困の中で主君は体を壊し、槍もちは、「奴さん踊り」の大道芸で金を稼ぎ、乞食部落で暮らしている。
槍もちは雨宿りが縁で、美しい妾(嵯峨三智子)に惚れられる。その様子を見た「偽いざり」の男に、妾からの金の分け前をよこせ、と付きまとわれる。怒った槍もちが槍でいざりの片目を突く。おこったいざりは、妾を囲っている侍(軍学者)に二人の密通の告げ口をする。
 槍もちが妾と部屋で話しているところに、軍学者が突然現れ、槍もちを切ろうとする。妾の助けで、槍もちが逆に男を切り殺す。殺して人相を見ると、顔にほくろがあり、手の人差し指がない。さてはこれこそ仇であったか、と、槍もちは仕える主君に首実検をしてもらう。確かにそれは探していた仇であった。しかし、あだ討ちを果たしたのは槍もち、主君は彼を打ち付けて、とんでもないことをしたと怒る。
 妾は二人に金を渡して、軍学者の弟子たちからなる追っ手から逃げ、ある宿場で落ち合うように指図する。妾は後から二人と別の宿を取り、出会った槍もちに「郷里に帰ったら妻にしてくれ」と言い寄る。男は承諾する。しかし、仇を討ったのはあくまでも主君で、自分がやったことは一生黙っておかねばならないと言う。
 追っ手が槍もちとその主君を見つけ出す。槍もちを差し出さなければ、主君とも殺す、と手紙が届けられる。
主君は、返事を書くための白い紙を前に懊悩する。槍持ちの首を差し出して、自分が仇を討ったことにして藩に帰れば仕官できる。いや、それでは忠義一筋のこの男に悪いではないか。とうとう夜が明ける。主君は手紙を槍もちに渡して、追っ手たちの待っている河原に行かせ、自分はその後、郷里に向かって逃げさる。
 槍もちが手紙を持って富士が辻に現れる。追っ手の武士一団が待っている。そしてその手紙を読みあげる。なんとその手紙には、この下郎はどうにでもしてくれ、と書いてある。しかし、文字の読めない槍もちはその言葉が信じられない。まさか主君が自分を裏切るとは。あだ討ちの見学に集まった野次馬の中で、文字の読める人にその手紙の内容が本当か確かめる。群衆はその手紙を読むのを嫌がるが、ついに一人の男が、間違いなくそう書いてあることを教える。
 観念した槍もちは、果し合いをすることになる。多勢に対して一人、見る見る傷ついていく。
果たし合いの噂を聞きつけた妾は駕籠を飛ばして河原に向かう。瀕死の槍もちと手をつないで二人は切られて死ぬ。
 そこへ、一度は槍もちを裏切った主君が駆けつける。家来の仇、勝負しろ、と刀を抜くが、相手は、いまさら家来を見捨てたような腰抜け武士と争うのは無駄なこと、と嘲笑して去っていく。主君は泣き伏す。
 時は現代に戻り、それを見ていた古びた地蔵が映って映画は終わる。

{批評}

時代劇の神様・伊藤大輔の傑作の一つである。
実験的な技法が3つ見られる。
まず、追っ手に返す手紙を前に主君が悩む場面。画面一杯に白い紙がアップになり、主君の心の声がヴォイス・オーバー・ナレーションで語られる。真っ白なスクリーンの中に響いて来るのは、忠義の足軽を捨てて逃げるか、それとも一緒に戦うか、エゴイズムと良心との葛藤である。延々と続く白いスクリーン。非常に大胆な実験的テクニックを使っている。
 次いで、果し合いの後、敵方に嘲笑されて一人残される主君を、カメラは前後左右からカットを短く変えて前進移動する。それが何度も繰り返される。槍もちを殺させ、武士の面目も失った侍が、心の底から自分を恥じ入る心の苦悩をこのカメラワークが際立たせる。
 三つ目は、乞食部落の面々の有様。槍もちが「奴さん踊り」をする連れ合いは、メクラの娘とライ病のために鼻が溶けた老婆だ。槍もちに付きまとうのは「偽いざり」で手に下駄を履いて、手を使って前進する。このような身体障害者の使い方は、エイゼンシュテインの「アトラクションのモンタージュ」に影響されたものと思われる。

一瞬も気を抜けない、非常に面白い時代劇であるとともに、人間の究極の良心とエゴイズムの葛藤が問題視されている。この点で、テーマは時代劇というよりは現代劇でもある。
この作品は傑作とされており、私もそれに異存はない。
 ただ、私は冷静な目でこの映画を見ることが出来なかった。というのは、嵯峨三智子という女優は私にとっては、アニマというかファム・ファタールというか、とにかく、永遠の憧れの女性なのだ。嵯峨三智子のうりざね顔の美しさ。妾という役柄に実に見合った色気とアダっぽさ。槍もちに一途に惚れて助けようとするいじらしさ。
 私は嵯峨三智子が現れるたびに胸がキューンと締め付けられて辛くなった。
こうなると、冷静な批評は出来ない。この映画を見るのは二度目だが、二度とも嵯峨三智子の色気にクラクラして、映画そのものが表現している世界を忘れそうになった。

それはともかく、伊藤大輔の全盛期は戦前だった。実験映画ともいえる大胆なテクニック、「移動大好き(伊藤大輔)」と呼ばれたすばやいパンニングや、極端なアップ、フラッシュモンタージュなど・・・・・・・戦後になるとそれらの大胆なテクニックは次第に薄れ、職人映画監督のように手堅くなる。この作品ではかろうじて実験的な手法を残している。そして、彼の大好きな「悲壮美」が描かれる。主君に忠義一筋に生きながらも裏切られて、切り殺される運命に立たされる槍もちの、最期の必死の格闘。彼に一途に惚れて、一緒に切り殺される女。エゴイズムのために武士の面目を失い、生きる意味を失って立ち尽くす主君。娯楽性と人間のエゴイズムと悲壮美を追及した心に残る名作である。
 北野武の『HANA-BI』がベネチアでグランプリを取り、『座頭市』が監督賞をもらうような映画のレベルの落ちたこの時代、『下郎の首』が出品されたら、グランプリを5個分もらうぐらいの価値がある。まったく、最近の国際映画フェスティバルのレベルの低さぶりには呆れる。審査員が馬鹿なのか、映画芸術が終わったのか、実に嘆かわしい。今村昌平の『うなぎ』もカンヌだかでグランプリを獲ったがくだらなかった。1950年代以前の日本映画には、賞とは無縁だがレベルの高い映画が一杯ある。それらと比べると、最近の話題作はクズだ。

それにしても嵯峨三智子は最高!!!


 
 
 
 

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宇和海の太刀魚釣りの秘訣

2011年01月24日 14時28分54秒 | 趣味
太刀魚釣りというのは、巧い人と下手な人との釣果の差が見事に現れる。
例えば、巧い人が30匹釣っている一方で、下手な人は1匹も釣れないようなことはザラにある。
しかも、下手な人の餌にでも太刀魚は食いつくのだ。食いつくが釣り上げられない。
その面白さが、太刀魚釣りの醍醐味である。

もっとも、沖に船で出て、ルアーで釣る場合は、巧いも下手も関係ない。バカにでも釣れる。
太刀魚釣りの醍醐味は「堤防釣り」にある。中でも面白いのはウキ釣りだ。

{ウキ釣り}
餌は、キビナゴ。目から針を通して背骨の下に針を引っ掛ける。
(一匹目が釣れたら、太刀魚のハラミをカッターで切って共食いさせることもある。餌持ちはこっちのほうがずっといい。一つの切り身で5匹ぐらいは釣れる)
 ウキ下は大体2メートル。太刀魚は鬼のような歯をしているので、テグスでなはくワイヤーを使う。
そこに太刀魚がいれば、すぐにウキが沈む。さて、問題はその後だ。
 素人は「30秒数えて釣り上げる」などといって、失敗ばかりしているが、これにはコツがある。
太刀魚は見かけの割りに非常に臆病な餌の食い方をする。餌を咥えると、一気に飲み込まず、何十秒ももてあそぶのだ。素人はこのときに釣り上げるから逃げられる。
 コツは、ウキが下がったら、糸を軽く緊張させてやり、手首を使って餌を引き込む。つまり餌に逃げさせるアクションをつけるのである。素人にはそれが出来ない。太刀魚の神経質さを知っているだけに、糸を張る、などもってのほかだと思っているのだ。
 しかし結果は逆である。手首を使って餌が逃げるようなアクションをつけてやると、太刀魚は本気で餌を飲み込もうとする。その瞬間の動きを、糸を張っていれば分かるので、その一瞬糸を緩めておいて一気に釣り上げるのだ。

一瞬糸を緩めるのは、餌を飲み込ませるためである。この一連のテクニック=糸を張る、餌にアクションを与える、飲み込みの当たりを察知する、糸を緩める、直ちに釣り上げる、が30匹とゼロ匹の差になって現れる。

釣り上げた後、間違っても太刀魚を手で握って針を外そうとしてはいけない。太刀魚の歯は錐のように鋭く、誤って噛みつかれると、指に穴が開くか、指が落ちる。釣り上げたら、足元に太刀魚をもってきて、足で頭を踏みつけてシメル。そうして完全に殺しておいてから針を抜くのだ。

太刀魚のウキ釣りは最高に面白い。私は初心者の頃は「投げ竿」で太刀魚釣りをしていた。これは後で考えると、大変に誤った釣り方である。神経質なこの魚に微妙なアクションを与えるには、竿先の柔らかい、先調子の竿があっている。竿先が硬い投げ竿などもってのほかなのだ。が、私は硬い竿を使う代わりに、手首を柔らかく使うテクニックをマスターした。その上で竿先の柔らかな竿に変えたら、鬼に金棒のテクニシャンになっていた。ぼろい道具で苦労したあと、いい道具を使うと技の切れが格段に良くなるという事実をこの腕で確かめた。竿は、グレ(クロウオともメジナともいう)釣り用の竿でいい。
 なお、釣りはなんでもそうだが、特に神経質な太刀魚を釣る場合は、糸と竿とを90度に保つことが肝心である。糸と竿の角度が90度以上に広いと、糸を張って行うこの釣り方では、太刀魚が餌を本当に飲み込む前に、糸の緊張が強すぎて「弾いてしまう」のだ。太刀魚は利口なので、餌に少しでも不自然な動きがあると、すぐに餌を放して逃げてしまう。糸を張りながらも当たりが硬くならないように、気持ちを集中しないと釣れない。
 そうそう、「弾く」といえば、ウキにも注意。浮力の強いウキを使うと、それだけで太刀魚は警戒して餌を口から放してしまう。電気ウキを使うのだが、そこにハッポウスチロールの浮力(チューブ状のもの)をつけて、かろうじて海面に浮き上がっている程度に調節すること。とにかく神経質な魚なのである。

{ナマ餌を使ったルアー釣り(引き釣り)}

適当な言葉がないので上のような表記にしたが、ようするにキビナゴをつけておいて20〜30メートル先に投げ入れ、リールを巻いて釣る方法である。
 この方法だと、ウキ釣りの場合と全く違い、太刀魚は餌が生きていると思って一気に飲み込もうとする。だから手ごたえがあった瞬間合わせなくてはならない。
 太刀魚は利口な魚である。ウキ釣りの場合は、それが「餌」だと理解して、針に引っかからないように臆病に餌を弄ぶのだが、この引き釣りの方法だと、キビナゴが本当に泳いでいると誤解して一気に飲み込むのである。
 この方法は、慣れてくるとウキ釣りの倍の釣果が見込める。
竿は、ウキ釣りの時に使う竿の半分ぐらいの長さの「船竿」が一番適している。
 なお、この釣り方で本当にルアーを使う場合もあるが、釣果は10分の一ぐらいに落ちる。ナマ餌を使うのが一番である。

私はナギの日にはこの「引き釣り」を、波の荒いときには「ウキ釣り」を、と分けて釣っていた。波が荒いと餌がよく動き、太刀魚が食いつく確率が高くなるからである。

{料理}

太刀魚は白身で癖がないから、刺身、酢漬け、塩焼き、煮付け、と何にでも合う。また内臓の部分がほとんどなく、ウロコもないので料理がしやすい。
私は東京で飲み歩いていて、太刀魚を扱っている飲み屋に当たったことがない。また魚屋にも置いていない。関東では食べないようだが、実に美味しい魚である。
 私がこの釣りを得意になった初めの頃は、女房は「オカズが出来た」と喜んでいたが、毎回クーラーに50匹も釣って戻ってくると、料理に飽きて、「もう釣ってこなくていい」文句を言うようになった。それで地元の漁師に教えてもらい、「太刀魚のミリン干し」を試してみたら、これが絶品だった。
 その方法は、太刀魚を三枚におろして、酒とミリンと醤油に漬け、カゴに入れて天日干しにするのである。
すると硬い干し魚が出来る。それをヤカンを保温するプレートに載せて軽くあぶり、酒の肴にするのだ。
 これは美味い。時々「アジのミリン干し」などが売っているが、市販のものは甘すぎる。自家製のものはベトツキモなく、タラ以上に香ばしい。

太刀魚の自家製ミリン干しを食いちぎりながら飲んだ故郷愛媛の銘酒「梅錦」の味は最高だったよ。

太刀魚釣りは私の田舎の老人たちの間で最も人気のある釣りである。私も最初はお隣さんの老人に手ほどきを受けた。それで夢中になり、3年たったら私が師匠となってその老人に手ほどきをするようになった。太刀魚に関しては私は故郷で一番の名人になっていました。
 最高で1メートル半ぐらいの大物を釣ったと思うが、それぐらいの大きさになると、背中が金色に染まっていて貫禄があり、食べても抜群に美味しい。
 堤防での太刀魚釣りが出来る場所は関東にはないらしい。愛媛県西南部の宇和海に独特の贅沢な釣りだと思う。

尚、この釣りはゲット時の「引き」が物凄く強烈なので、スポーツフィッシングにも向いているし、中高生の間でも一番人気がある。でも、太刀魚釣りの上手な中高生に出会ったことがない。それだけ、釣りとしては難度の高い、上級者のための釣りである。




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阿佐ヶ谷ロフトA出演決定

2011年01月23日 17時47分54秒 | 雑談
阿佐ヶ谷ロフトAに出演決定
投稿者:那田尚史 投稿日:2011年 1月23日(日)17時39分25秒 返信・引用
以下のように載っています。http://www.loft-prj.co.jp/lofta/
知り合いの人、興味のある人、ぜひ遊びに来て下さい。なお、山崎氏のプロフィールは変更する可能性もあります。
______________________________


2.11(金)【DAYTIME】
建国記念日を考える〜知る人ぞ知る、不思議おじさんのトンデモ授業〜

【出演】
★那田尚史(「ロータス人づくり企画」主催)
評論家。早稲田大学第一文学部文芸科卒業後、同大学院修士課程修了。専攻は映像研究で、主な活動は実験映画、個人映画、小型映画に関する批評・研究。 2001年から早稲田大学や東京工芸大学非常勤講師を勤めた後、2009年度から大学教員を自主退職し「ロータス人づくり企画」を創設。

★鈴木正道(「微笑禅の会」代表)
1950年東京の片隅で誕生。
70年代に護身法、四度加行満行。
スカイヨーガマスターの認定を受ける。
愚妹にて記すほどの学歴無し。
法の一端を垣間見現在発狂の悟りに住す。

★山崎幹夫(映像作家)
1959 年東京都生まれ。1978年北海道大学入学、文化人類学専攻。82年映像通り魔を旗揚げし北海道を巡回上映。83年「海辺の記憶」PFF入選、84年「ゴーストタウンの朝」PFF入選、山本政志監督「ロビンソンの庭」脚本、94年初の劇場用映画「プ」公開。97年山形国際ドキュメンタリー映画祭で「虚港」が特別賞を受賞。2009年度まで早稲田大学第二文学部で講師として学生に映画製作について教授。現在、下北沢のラ・カメラを拠点に、映像作家の山田勇男氏らとともに8ミリ作品を中心に上映活動中。

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建国記念日にちなんで、日本人の起源から、近代の日清、日露戦争や日韓併合、
第二次世界大戦で一体、日本人は正しいことをしたのか、それとも悪いことをしたのか???

現在マスコミで話題になっている領土問題等々を踏まえて、映画、宗教、歴史のスペシャリストたちが熱く語ります。

今の大学の授業では知りえないトンデモ授業です。
トークディスカッションもやります!
どんどん質問してね。
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アオリイカ釣りの秘訣

2011年01月21日 12時06分39秒 | 趣味
日本で最高のイカとされるのがアオリイカである。地方によっては、モイカ、ミズイカ、バショウイカなどともいう。市場価格ではダルマイカというやつがアオリイカより高価だが、味はアオリイカのほうが遥かにうまい。
 私はこのイカに4年ほど夢中になってシーズン(春と秋)になると毎日のように海に通った。
そこでこのイカの釣り方について分析する。(堤防釣りの場合のみ)

1、ルアーを使う方法。
ルアーといっても伝統的な和製の餌木(えぎ)を使う。これは車えびの形を模したもので尻尾の部分に、イカ針が付いている。釣り方に3種類ある。

A.普通のバス釣りのように、水中でユックリとルアーを引っ張る方法。イカが乗ると重くなる。
B.遠投して、一度海底につける。大きくあおって餌木を浮かせる。リールを巻いて手前に寄せる。これを繰り返す。手前になるに従い、あおり方を小さくする。イカの当たりは、竿先のわずかな変化で読み取る。大抵は竿先が浮き上がる。
C.シャクリ釣り。長い竿を使って堤防でシャクリ続けるのだ。餌木は海底から30センチぐらいに届くように調節しておく。ただひたすら、3時間も4時間も竿を上下させる。面白くもなんともない釣り方だが、気の長い人には向いているし、下手に技術を使うよりは、確実に釣れるという利点もある。イカが乗ると、根掛かりしたかのように重くなる。

2、ナマ餌を使う方法。ナマ餌は、主にアジ。他にコダイ、メバルなども使うが、アジが一番食いがいい。さまざまな方法がある。

A.最もポピュラーな方法。アジにイカ針をつけて、ウキ釣りをする。取り込みが難しい。
B.泳がせ釣り。竿をブロックなどで固定し、餌を泳がせる。イカが乗ると竿がグッとたわむ。
尚、この釣りは、しばしばフナを餌にする。(フナは海水に入れても1時間ぐらいは生きている)

C.スットン釣り。これは変わっている。スットンという道具を使う。
まず、死んだアジの尻尾をテグスでくくり付け、海中に放り込む。イカが乗ると、ゆっくり手元までおびき寄せる。そこで、スットンをつける。スットンはテグスに通すようになっており、手を離すと、イカのところまで落ちていく。スットンの先にはイカ針があり、釣り上げる。
 この方法が一番、食いはいい。しかし、スットンをつけて落とすときに逃げられたり、引き上げるときに逃げられたり、とかなりのテクニックがいる。
 またこの方法は、食いがいいだけに、周りの不良釣り人に因縁をつけられる。つまり、釣り逃がしたりしようものなら、「お前が逃がしたおかげで、あのイカはもうこの堤防には寄ってこない」という、変な理屈で文句をいうのである。逃げたイカをそいつが釣る、と決まっているわけではないのだが、そういうおっさんに私は何度も遭遇した。
 所詮、歳をとってアオリイカを釣りに来る男などにロクな奴はいない。そういう不良ジジイが嫌ならこの釣り方は避けるべきだろう。

以上がアオリイカの釣り方のほぼ全てである。イカ針は普通の針と違って「返し針」が付いていないために、取り込みの時には注意が必要である。間違ってもポンピングなどやってはいけない。重みを一定に保って、相手が引けばぐっと我慢して竿をたわませ、あるいはリールを繰り出し、決してケンカしてはならない。
 私が釣った最高が2キロ。逃がしたのは3キロぐらいの大物がいる。これは重くて重くて我慢できず、ケンカしてしまったもの。悔しかった。


この写真が2キロ大のアオリイカ
体長98センチ。ちなみにイカを持っているのは小さい頃の私の娘。画面左から手を伸ばしているのが、私の美人妻?

釣り方の薀蓄を少し垂れると、まあ釣りは大抵そうだが、干潮時と満潮時の潮が止まった時には絶対に釣れない。だから潮の流れているときに竿を出すこと。私の経験では、満潮から干潮になる2時間の間が最適のようである。
 また、イカは満月の時には海面近くに上がってくる性質がある。だからそういう時は、餌木を海底まで沈めず、中層から表層の間を上下させると食いがいい。アオリイカは一回釣り逃がしても、また食いつくので、同じ場所に餌木を投げ込んでやるとヒットすることがしばしばある。


山菜採集では、やはり山芋(自然薯)が最高であり、堤防釣りではアオリイカが最高である。だから、釣り人は目を血走らせてやってくる。その上、アオリイカを釣ろう、などという人間にはあまり紳士はいない。家庭が崩壊したクソジジイやらクソオヤジやらが堤防一杯にぎっしり並ぶ。だからケンカやいざこざがしょっちゅう起こる。ここでちょっと真面目に考察すれば、釣りの快感というものはセックスの快感の代理行為だと見ることが出来る。ピンサロもキャバクラもない田舎の人間にとって釣りは性的快感を発散できる貴重な場である。田舎にはパチンコで身上を潰す人間がしばしば現れるのはこういう事情があるからだ。だから、そういうエネルギーの有り余った人間が堤防に集まり、自然と殺気立つ。アオリイカ釣りに夢中になる人間の多くは40代、50代で、荒くれ男が多い。スナックでオバハン相手にエロ話しているような連中がこぞって集まると思えばいい。
 それで私は、人が集まらない穴場を持っていて、ユックリと一人で楽しむことを好むようになった。
人のいない夜中に釣っていると、怖さも忘れて、朝になったということがしばしばある。



{料理}
アオリイカは面白いことに、釣ったばかりよりも、冷凍して1年たった頃に味が出る、と言われるぐらいに長持ちする。
 刺身を食べて御覧なさい。ほのかに上品な香りが立って、最高だよ。もちろん寿司ネタにも最高。
炊いて食べても独特の上品な香りがある。
 尚、アオリイカは硬い甲羅がない。柔らかくて透明な羽のような背骨があるだけで、身のほとんどを食べることが出来る。


以上、アオリイカの釣り方をご披露した。
関東では千葉の内房で釣れるらしい。12チャンネルの釣り番組を見ていたら、船で沖に行ってアオリイカを釣るのを放映していたが、これは1のCで説明したシャクリ釣り一辺倒で、釣り方としては面白くない。私が得意なのは1のB。イカ釣りは夜することが多いので、竿先の変化を見るのが難しい。そこで懐中電灯を用意しておいて、竿の先に当たるように調節する。この釣り方が一番技術を必要とするし、見ていても格好がいい。また上手になると、この方法が一番釣果が高い。私はとことん訓練したから、宇和海(愛媛西南部)ではベスト3には入る腕前になっていた。調子に乗って、アオリイカを売って商売にしようかと考えたが(2キロクラスなら8千円ぐらいする)、信心深い母が「殺生して商いすると罰が当たるよ」というので諦めた。
 アオリイカ釣りにはボウズがつきもの。一週間通って一匹も釣れない、などということはザラにある。それだけに釣れた時の感動は素晴らしい。万馬券をゲットしたときぐらい嬉しいものだ。しかも、食べて美味しい。
 私は歳をとったらアオリイカの釣れる堤防の近くに別荘を買って、イカジジイと呼ばれて晩年をすごしたい。(年取ってアオリイカ釣りをするのにろくな奴はいない、と言ったばかりだが、私は紳士だから例外ですよ)。ま、とにかくそれほどに魅力的な釣りである。

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ほろ酔い公案(mixiの日記から引用しました)

2011年01月19日 12時56分00秒 | 
有名な公案をアレンジしてみました。答えは決まっていませんので、自由にお答え下さい。

貴方は社会的な地位もあり尊敬されている名士です。麗しい妻子もいます。
そこに、初恋のときに付き合った美女が突然連絡を取ってきて、寂しいから一緒に一泊したい。
と言ってきた。
 これは不倫ですから、女性の亭主に訴えられる可能性もあれば、自分の妻に訴えられるかもしれない。

さて、貴方はどう行動しますか?コメントして下さい。

反応がないので、、私なりの心境を書きます。ナゾナゾと言っても正解があるわけではありません。

家族のある女性が、それまで思いつめているのであれば、必ずなんらかの深い事情があるはずです。もし放っておいて死別などしたら、物凄い後悔をするでしょう。
だから、言うまでもなく抱いてあげます。

但し、私は一応探偵なので、その電話なりメールなりを記録しておき、彼女と出会ってからはICレコーダーで会話を録音し続けます。

で、一泊はしません。ホテルなどで泊まるともし探偵などが尾行した場合、どちらかが訴えられます。抱こうと思えば色々な場所がありますし、どうしても一泊にこだわるなら妻に紹介して空室に寝ませます。
 で、相手の悩みを聞いてそれで済むのならベスト。どうしても抱いて欲しいというなら、その間にはテレビかラジオをつけておきます。室外からの盗聴器は感度が異常に強いので、そういう音を拾ってしまうからノイズだらけで盗聴できませんからね。

私がこういう風に答えるのは、同じような体験をして、会わないでいたら連絡が取れなくなり、大変に気の毒な思いがしたことが一つ。
もう一つは「よさこい節」で、土佐の高知のハリマヤ橋でぼんさんカンザシ買うを見た、のエピソードです。以下wikipediaから引用。

俗名を要という。文政2年(1819年)10月10日、土佐国高岡郡戸波郷市野々村で佐川家家臣江渕要作の嫡男として生まれた(次男との説もある)。五台山竹林寺脇坊の住職をしていた頃、鋳掛屋の娘で20歳年下の大野馬と禁断の恋をする。安政2年(1855年)5月19日深夜、馬と駆落ち、笹口番所の裏道から阿波に入り、讃岐琴平の旅籠に泊まっていたところ、関所破りで捕まる。同年9月、高知城下の晒し場で面晒しの刑を受け、国外追放になる。伊予の亀吉の庇護のもと寺子屋で教えていたが、亀吉の死後その地を離れ、晩年は美川村で慶翁徳念和尚を名乗って生活し、その地で死去。

恋をするならそれぐらいの命がけの恋をせよ。という意味です。ちなみに、よさこい、は「夜さ来い」との説もあります。
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ネコの恩返し

2011年01月12日 10時35分14秒 | 
「見性体験記」に書いていますが、飼い猫の一人が「ネコFIPドライタイプ」という治療不可能な難病に罹り、足は完全に麻痺して動けない、食べれない状態になって、動物病院の医師が火葬して高尾山にあるペット墓地の手配方法から金額まで教えてくれた。
 が、私は、これまで家族を幸せにしてくれたのだからどうにかしようと思い坐禅を組んでいるときにそのネコを膝の上に乗せて治る、治る、と祈り続けました。切れた手足が生えるということはない(植物ならあります)が、邪宗ですら免疫系の病気、例えば癌が治ったという事例は幾つでもある。

2週間後だと思いますが病院に連れて行ったら肝臓の腫瘍も消え、血液検査も正常で医者が驚いていました。(ウソだと思ったら八王子の、とちのき動物病院に聞いてみてください)

その助けたネコが様々な不思議な行動をとるようになりました。詳細は略しますが、毎朝私は朝起きるときに、足か心臓か背中が痛くて目が覚めます。するとそのネコがまさにその一番いたいところに前足を乗せてモミモミしている。今日も、背中の痛いところに足をおいて体を寄せて温もりを与えてくれた。足が痺れているときは血行障害のつぼを揉んでいる。

ネコの恩返しでしょうか。このネコは食が細くて何回か病気になりました。もう一人は大食いで体も大きいけど、餌をやるときは必ず病弱なほうのネコがまず食べる。それまでは実に品良く待っています。じゃれて喧嘩をするときも、この弱いほうのネコが大きなほうのネコの首をかんで勝っています。こっちのほうが位が高いのでしょうね。

以上、事実です。
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