時代の風

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時代の風:多文化主義の今後=精神科医・斎藤環

 ◇攻撃も辞さぬ積極性を

 イギリスは他の欧米諸国と同様に、長らく多文化主義の政策をとっていた。多文化主義(multiculturalism)とは、複数の異質な文化を持つ集団が存在する社会において、どの集団も平等に扱われるべきだとする考え方を指す。

 残念ながら、近年EU(ヨーロッパ連合)諸国において、多文化主義の旗色は次第に悪くなりつつある。

 2月5日、イギリスのキャメロン首相はドイツでの講演で「イギリスでの多文化主義は失敗した」と述べた。イギリスはこれまで、国民一般の価値観と正反対の行動をとるコミュニティーすらも許容してきた。にもかかわらず、国内の若いイスラム教徒が過激思想に感化されて、テロに走るケースが相次いでいる。彼の発言は、このことを念頭においてのものだ。

 キャメロン氏は同じ講演で、異なる価値観を無批判に受け入れる「受動的な寛容社会」ではなく、民主主義や平等、言論の自由、信教の自由といった自由主義的価値観を推進する「積極的で力強い自由主義」を目指すべきだとの考え方を示している。

 直後に突然なされたムバラク政権打倒後のエジプト訪問も、民主化と自由主義への流れを推進する意図があったようだ。

 この発言の予兆はすでにあった。2010年10月にはドイツのメルケル首相が自党の青年部の会議で「ドイツの多文化主義は完全に失敗した」と発言したのだ。やはりドイツ国内で増大しつつあるイスラム系移民を念頭においてのことである。

 これら一連の発言は日本でも報道され、民主党の移民受け入れ政策に批判的な層などからは「そら見たことか」と言わんばかりの声が上がりはじめている。移民などに寛容な政策がどうなるか、その末路を見ろ、というわけだ。

 しかし、本当にそうなのだろうか? 移民の増加はともかくとして、キャメロン氏の言う若いイスラム教徒のテロまでもが、本当に多文化主義政策の産物なのだろうか?

 キャメロン氏の演説があった翌日、英国紙「オブザーバー」の社説は次のように批判を加えている(2月6日付「オブザーバー」Web版)。まず、移民に英語を学ばせろというが、一体誰が教えるのか? 政府はついさきごろ、英語教育の予算を大幅にカットしたばかりではないか?

 これに限らず、多文化主義政策をきちんと実施するにはコストがかかる。カネをかけずにただ放置するだけでは、分断がいっそう進んでしまうおそれがあるのだ。

 「政府はしばしばイスラム共同体と適切な協力関係をうまく築けなかった。その理由は、そもそも『イスラム共同体』なるものが存在せず、あるのは伝統も信仰もばらばらの小集団からなるパッチワークだったためだ。内務省や自治体が社会的結束を促進するための基金をやりくりしようと悪戦苦闘する理由の一つがこれである。不適切な助成金が、分断を推し進めるような団体の手に渡ってしまうことすらありうるのだ」

 これに私の解釈をつけ加えれば、異質な文化を尊重しようというのなら、その文化を育む最低限の基盤となるような、一定以上の規模を持つ共同体が必要となるということだろう。単に放任のみでは共同体はまとまらない。文化的なまとまりを持つ共同体を育むことも、適切な多文化主義政策の一環なのである。

 多文化主義といえば、私はいつも05年7月に起きたロンドン同時多発テロを思い出す。その直後、当時ロンドン市長だったケン・リビングストン氏は犯人たちに向けて声明文を発表した。

 自爆テロをも辞さない人々に対して彼は呼びかける。

 「君たちは恐れている。ずっと目指してきた、われわれの自由な社会を破壊するという目標がかなわないかもしれないことを。なぜ君たちが失敗するか、それはこういうことだ」

 「君たちの卑怯(ひきょう)な攻撃があった後でさえ、地方から、世界中から、人々はロンドンにやってくるだろう」

 「自由になるために、自分の選んだ人生を生きるために、自分自身になるために」

 「誰もロンドンを目指す人々の流れを止めることはできない。ここでは自由が保証され、人々が調和とともに生きられる。君たちが何をしようと、どれほど人を殺そうと、君たちは敗北するだろう」

 この労働党の名物市長は、物議をかもす発言も多かったが、テロ直後になされたこの演説には、一時の感情に流されない説得力があった。「イスラム」といった言葉を一切使用せず、テロへの直接的な非難も極力抑え、人々を抑圧し自由を奪うシステムへの怒りを表明している。

 そう、もはやわれわれは寛容であるために、単に受け身と放任だけでは足りないのかもしれない。自由主義という枠組みのもとで、時には不寛容さへの攻撃をも辞さない積極性において、擁護されるべきもの。そのようなものとしての多文化主義ならば、十分なコストと時間をかけるに値する、と私は考えている。=毎週日曜日に掲載

毎日新聞 2011年2月27日 東京朝刊

 

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