「ちょ、何だよこれ!!」
彼の背後から叫び声が聞こえた。
丁度教室を出ようとして、出入り口の引き戸に手を掛けていたところだったが、思わず振り返ってしまった。
「……は?」
彼の眼にも、それは映った。
教室の中心部に何時の間にか現れていた幾何学模様と意味の解らない文字らしきもの。
それが急速に拡大していく様が。
「え? 待てよちょっと!?」
思わず叫ぶが、教室の中でそれに気付いているものは極僅かしか居ないようだった。更に、模様に触れたクラスメイトがその構成を解かれ、末端部から『分解』され虚空に解け出していった。見えている、いないに関係なく。
「洒落になんねぇだろ……!!」
即座に逃げようと引き戸に向き直ったが、拡大速度が上がったのか取り込まれしまった。
「何なんだ――」
指先や裾などの末端から体や衣服が解かれ、最後には頭が分解された。
とある学年の一クラス、計45人が、白昼にも拘らず『神隠し』に遭った。
濃密な緑の匂い。
周囲は夜露に濡れ、芳しく放香する夜咲きの草花に囲まれていた。
「……ここ、は……?」
背を大樹の幹に預ける形で座り込んでいた彼が、眼を覚ました。
「ふむ、人間共が『英雄召喚』を行った余波か。少年よ、運が無かったな」
彼の前には一人の女性。長くウェーブした漆黒の髪を持ち、深い蒼の瞳で、羅紗の衣服から豊満な体躯と透けるほど白い肌が覗いている。
「どうする? ここで朽ちるか? 選ばせてやろう」
言われ、彼は自分の首から下を見る。思考が回らないが、何故か腹部から出血していた。
「上空に召喚されたようだったからな。落下した時に何かが貫いたのだろう」
女性は淡々と教える。
彼の前に膝を折ってしゃがみ、その白磁の手を傷に当てる。
「幾つかの内臓を巻き込んでいるようだ。目覚めたのは行幸だったな」
その手が他人の血に穢れる事など全く意に介せず、暗にそのまま死んでいたかもしれないと言っている。
「さて、どうするか決まったか? 私ならば対価と引き換えにお前を救えるぞ?」
「……対価は……何……?」
「ほほう、言葉が通じるな。なるほど、お前の持つ玉(ぎょく)の一つは『意思疎通』か。
ああ、対価だったな。何、少々人間ではなくなってもらうだけだ」
ただでさえ上手く回らない彼の思考は瞬間的に停止した。
「そして、役目に就いてもらう。それだけだ。生命の対価としては安いものだろう?」
「……解った……。願う」
「……素早い決断だな。面白くない」
此処が何処で、何故こんな目にあっているのか。全てが解らない状況で命の選択を迫られる。こんな極限状況で一体他にどんな選択肢が在ると言うのか。彼に言わせればそう言う事だ。それに、彼は人間と言う存在にもう固執する必要は無いと考えていた。
「ならば契約だ、盟約だ、そして、誓約だ。
『我、暗黒を統べる竜が皇。此処に我が騎士の誕生を祝福す。彼の者は我が永遠の従者と成り、共に散る定めとなる』」
彼女の虹彩が金色に変わり、瞳孔が縦に割ける。竜眼の発露だ。
「『竜騎士転生』」
自らの牙で唇を切り、滴る鮮血と共に口付ける。
竜血は彼の口腔に溜まり、自然と嚥下される。
「あ、言い忘れた。今から激痛があるが、自我を壊されないようにな。私の血は強烈なはずだ」
その言葉の通りに、彼の内側から今までの彼を全て打ち壊すような激しい痛みが発生した。
「――――!!」
言葉に成らない。
全身を暴れさせようとするが筋肉の全てが痛みで萎縮し、身動きが取れない。
痛みを紛らわす動きの一切が出来ない。
何かが組み変わる凄まじい不快感と、自意識を押し流そうとする激しい痛み。長時間晒されたのならばどんなに強固な意志を持った人間でも間違い無く廃人となってしまうだろう。
「まぁ、お前なら耐えられるだろう。この状況下で即決できるような思考をしているんだ。精神力にも問題なかろう。
期待しているぞ、我が騎士殿」
期待している。
その言葉一つで、彼は何が何でもこの痛みを乗り越える決意をする。
彼女はそのまま彼を抱きかかえる。
皮膚の感覚はこの痛みの中でも彼女の温かさを感じていた。