「ねぇあんた。超電磁砲って言葉知ってる?」
そう言って、少女はコインを真上に弾く。回転するコインは少女の親指に乗り、次の瞬間には上条の頭の横をオレンジ色に光る槍が突き抜けた。遅れて雷のような轟音が鳴る。指から放たれたコインが音速を突破したことによって発生したソニックブームだ。
上条は内心で『不幸だー』と叫びながら7月19日に起こったここ数時間の出来事を思い出す。明日から夏休みを迎えるという学生としてはハイにならざるおえない状況で、ファミレスで無駄食いでもしようかと思ったが運の尽き。もともと尽きるほどの運すら持っていない上条だが、今日も絶賛不幸街道まっしぐらである。ファミレスで不良に絡まれていた女子中学生を見かけ、助けようとしたら、トイレから不良のお仲間さん達がゾロゾロと出てきて始まってしまった追いかけっこ。
そもそも、上条はこの目の前の女子中学生を助けようとした訳ではない。無謀にもこの少女に絡んで行った不良たちを助けようと思っただけだ。
ここ『学園都市』ではそこらの街のように見た目や性別で強さが決まる訳ではなく、『能力』によって真の強さが決まる。
この少女は学園都市でも7人しかいないレベル5の一人『超電磁砲』の御坂美琴なのだが、上条はこの一カ月程こんな風に顔を突き合わせているにも関わらず、適当にあしらい全戦全勝という結果を誇っている。
例外はただの一つもない。
「こんなコインでも音速の3倍で飛ばせばそこそこの威力が出るのよね。もっとも、空気摩擦のせいで50メートルも飛んだら溶けちゃうんだけど」
『そこそこの威力』とは冗談にしては笑えない。先ほどの一撃のせいで上条達のいる鉄橋は大きく揺らぎ、橋脚を固定していた巨大な金属ボルトが何本も弾け飛んでいる。
平静を装いつつも上条の心臓は激しく動悸していた。あんなのが身体のどこかに掠ったりしたら、紙きれのように飛ばされボロ雑巾のようにぐちゃぐちゃになってしまう。
「なんでお前、そんなに俺に突っかかってくるんだよ」
「私は自分より強い『人間』が存在するのが許せないの。それだけあれば理由は十分」
彼女のレベル5という強さは、持って生まれた才能のみで得たようなものではない。『頭の開発』を平然と行う学園都市のカリキュラムのもと、絶え間ない努力と『人間』を捨ててることによって辿り着いたものだ。
それを、上条は否定した。ただの一度も負けなかったことで、どこの馬の骨ともつかない上条が、学園都市にも7人しかいないレベル5の『超電磁砲』を負かすことによってだ。
「おいおいおいおい!俺の能力はゼロでお前は最高位のレベル5だろ。どちらが上かなんて一発で分かんだろ」
「ゼロ、ねえ」
少女は口の中で転がすように、その部分だけを繰り返す。ピシっと何やら空気が変わったような気がした。
「あん?」
上条が空気の変化に身構える前に、少女の前髪から青白い火花が散る。火花の正体は膨大な電子が収束して加速したもの、レベル5の電撃使いはそれをいとも簡単に稲妻に編み上げる。
槍のような稲妻が一直線に襲いかかる。黒雲から光の速さで落ちる雷を目で見て避けることが不可能なように、上条にはあれを避ける手段は無い。上条はとっさに右手を顔面を庇うように差し出した。
稲妻の激突音は、本来の着弾から一拍遅れて轟いた。
その膨大な高圧電流をまとった雷は、上条の身体を黒こげに焼いてしまうはずだった。
だが、少女は犬歯をむき出しにして、雷の着弾点を睨みつけている。
「そのレベル0のはずのアンタは、今のを喰らって何で傷一つないのかしら?」
雷撃の槍は、上条の右手に激突した瞬間四方八方に飛び散り鉄橋を形作る鉄骨を焼いた。
だが、直撃を受けた上条は右手が吹っ飛んでもいなければ火傷の一つもしていない。
「まったく何なのよ。そんな能力、学園都市のバンクにも載って無いんだけど。私が三二万八五七一分の一の天才なら、アンタは学園都市でも一人きりの天災ね。何そのオカルト?それともファンタジーって奴?おとぎ話の英雄か魔法使い気どりですか」
忌々しげに吐き捨てる少女に上条は一言も答えない。
上条の能力は学園都市の超能力者に言わせれば魔法のようなものだ。自ら積み上げ、研鑽し作り上げてきた能力を問答無用に打ち消す悪夢のような能力。
幻想殺し。
その力の前では神様の奇跡だろうと逃がれられない。
「そんな例外を相手にケンカ売るんじゃ、こっちもレベルを吊り上げるしかないわよね」
「……それでいつも負けてるくせに」
返事の代わりに、少女の放つ威圧感が増した。放出される火花の量は先ほどと比べものにならない程多く、また濃く密集している。少女の怒りに呼応して膨れ上がってくるそれは、極大の雷を作り始める。
上条はオトナな笑みを取り繕いながらも、顔の筋肉はガチガチに引きつっていた。上条が異能の力を消せるのは、あくまでも右手首より先だけなのだ。光速で放たれる雷撃の槍を、都合よく右手で受け止めるという偶然はそう何度も起こらない。
「なんていうか、不幸っつーか、ついてねーよな」
上条は今日一日、七月十九日と言う日をそう締めくくろうとした。
たった一言で、本当に世界の全てを嘆くように。
だが、上条の不幸は底を知らず、まだまだ終わらない。嘆きすらゆるさない地獄へと、深く深く、どこまでも堕ちてゆく。
巨大な衝撃と共に白色の閃光が橋を包んだ。
そのあまりの規模の大きさは、周囲一帯が一時停電してしまったほど凄まじいものだった。
「ちょっとなにこれ、一体どうなってんのよ」
少女が光が去った橋の様子を見て、呆けたような声をだす。まったく誰が予想できただろう。美琴だけなく、学園都市を常時監視しているはずの衛星さえも何が起こったのか正確に捉えることは出来なかった。
それは不幸な上条をさらに不幸にしたい神様の悪戯が、陰謀好きな魔法使いの思惑か。
全ての異能をことごとく消すことのできるはずの人物、上条当麻の姿が綺麗さっぱり消えていた。
物語の始まりはいつも突然に訪れ、気がついた時には変態がすぐそこにいる。不幸体質な、普通の高校生上条当麻の、比喩でも無い本当の地獄での生活が幕を開ける。
不幸な幻想殺しと真の魔法使いが交錯するとき、地獄の物語が始まる。
魔法使いというものを知っているだろうか。彼らの正体は、神に愛され奇跡の力を行使する神話や伝承、おとぎ話や古い文献などに痕跡を残してきた異世界人である。
そしてここは《地獄》、全ての魔法が燃え尽きる神のいない世界。
この世界の住人である《悪鬼(デーモン)》たちは、魔法を観測することで意図せずして彼らの奇跡を燃やしつくしてしまう。加えて、魔法使いたちは不安定な自然秩序に介入しそれを《神》が安定させることによって奇跡を行使するが、この地獄では自然秩序が完璧であり神が存在しない。
それでもこの地獄には古くからたくさんの魔法使い達が到来し続けている。そして、《地獄》の《悪鬼》たちにも彼らと接触し交渉を行う機関が複数ある。
その一つが関係者には《公館(ロッジ)》と略される、文部科学省文化庁に属する非公式機関、魔導師公館だ。
公館の本拠である多摩川流域の古びた洋館の地下室に、聖痕大系高位魔導師にて魔導師公館の専任係官《茨姫》オルガ・ゼーマンはいた。
普段は濃紺のエプロンドレスを身にまとい、公館の中庭で紅茶を楽しむなど深窓の令嬢の雰囲気を醸し出す淑女だが、今纏っている服装はその印象と正反対のものだ。
オルガが纏っているものは正確には衣服ではない。丈夫ななめし革とワイヤーが一体となった拘束衣だ。露出している肌には羞恥の汗が伝い、うっすらと浮き上がる白い太ももや、肉感的に強調されただらしない腰回りが淫靡さを際立てる。だがその姿は見るものに劣情を覚えることを拒絶する。この拘束衣が、ただ効率よく苦痛を与えるために作られた拷問具だからだ。
「このしゃべるウンコたちのウンコ溜めで、こんな恰好をさせられて、わたくし、わたくし」
彼女は羞恥に顔を紅潮させつつも、どこか興奮したような口調で「ウンコ」という言葉を連発する。彼女の言うウンコとはもちろんこの世界に暮らす住人達のことで、それは魔法使いの共通認識としてはそんなに間違っていない。
〈新しい《茨》の調子はどうかね〉
地下室のスピーカーから響く声の主は、オルガの纏う破廉恥な拘束衣《茨》の開発者である魔導師公館嘱託の変態魔法学者、溝呂木京也のものだ。
この《茨》のワイヤーには大小いくつかの針や長いネジが括りつけられており、背中に取り付けられたエンジンの駆動によってオルガの身に四十五本の杭を打ち込み全身三十二か所の骨を折る。つまり《茨》とは効率よく人体を折りたたむ目的で作られた全自動磔刑拷問機なのだ。
「博士、わたくしはいったいこれからどうなりますの」
彼女はただの一線を越えたマゾヒストであるだけではない。彼女の使う魔法は聖痕大系。彼女は自身の痛みや触覚を索引として、そのまま魔法につなげる索引型の魔法使い。
適切な痛みの観測が、より強力な魔法を引き出す。彼女の羞恥による血圧の微細な変化さえ計算された《茨》がそれを効率よく導くことができる。
〈今回の実験の目的は、主に出力と強度の検証だ。ギアを四速まで上げて、魔法の発動を誘発し《茨》がそれに耐えられるかを検証する。準備はいいかねオルガ君〉
「はい、博士。」
〈念を押すが決して四速以上を使ってはダメだ。それが引き起こす苦痛はまだ完全にシミュレートが終わっていない。オプションの過給器のダイヤルについても触れてはいけない〉
「どうして、『使ってはいけない』ものがたくさんこの茨にはおありですの」
〈見てみたくはないかね、苦痛の……限界を〉
オルガがこれから始まる苦痛の様を想像して、思わず口から吐息が漏れる。溝呂木からはそれ以上何も言わずスピーカーの電源が一方的に切られた。
溝呂木は観測することで魔法を消去してしまう《悪鬼》だ。それが彼女とのつながりを切ったということは、それはそのまま実験開始の合図となる。
「さあ参りましょう。苦痛の果てまで!」
彼女が《茨》のエンジンを稼働させた。回転数が上がるまでの数十秒間、その不吉な振動が彼女の血を引かせる。だが、オルガの顔は淡い期待に紅潮し、愛おしそうに《茨》のなめし革を指でなぞっていく。
ギア一速。
エンジンに接続されたチェーンが引かれ、そこから伝達された凄まじい力がオルガの身体をねじり上げる。腕があり得ない方向に曲がり、肋骨がへし折られ全身に極度の苦痛が走る。同時に地下室全体に大きな衝撃が走った。それを発したのはオルガの魔法によって作り出された魔法生物達だ。オルガの痛みによって現れては互いに喰いあい、死んでは生み出されていく不毛な無限連鎖。その悪夢のような光景は、ここが《地獄》と呼ばれるにふさわしい混沌の様相を呈していた。
「足りませんわ。まだ、全然足りませんわ」
それでもオルガは《茨》のポテンシャルの十分の一も引き出せていないことを直感していた。このまま徐々にギアを上げていくのもまどろっこしい。溝呂木の決めた四速でもオルガの望む苦痛と奇跡には届かないのではないかとも思える。
――――見たい、苦痛の限界を。
魔法使いとしての極限を求める本能か、理性を無視した何かに導かれるまま、オルガはエンジンのシフトレバーを操作していた。
ギア六速
エンジンの回転数が跳ね上がる。身体に喰い込むワイヤーが肉を裂き、鉄杭が骨を粉砕し内臓をかき混ぜる。意識を落とすことさえ許さない、極限の苦痛。理性を保っていることが不思議だった。丈夫な地下実験室の壁に亀裂が走り、茨のエンジンが過度の回転に高熱をもち始める。
「ひぃあああああああああああああ!ひぃぎぎぎぎいぎぃ」
絶頂を突き破った痛覚に、理性が踏みつぶされていく。訪れるのは悲鳴さえも呑み込んだ静かな世界。それは人間の尊厳を突破した純粋な苦痛の世界の入り口だった。
舌を千切れんばかりに限界を超えて突き出し、肺を痙攣させ呼吸すら止まっていた。
それなのに、オルガの身体は操作盤にある過給器の禁断のダイヤルを回させていた。
『ブースト、上昇。エンジン過加熱。心肺停止危険域まで残り30秒――――』
電子音声の無機質なアナウンスが危険をつげる。直ぐに治癒魔術が発動し、溝呂木にも連絡がいくだろう。そうなれば実験は強制終了になってしまう。
そのわずかに生まれた瞬間に奇跡は起こった。オルガは誰も体験することのない全てを越えた“何か”を観測した。
「はぁ、これが産みの苦しみというものですのね……」
かくして、オルガは聖痕大系、いや全ての魔法大系にはありえない誰も到達することのなかった奇跡を達成した。
「クソっ一体何が起こったてんだよ」
上条は自分に起こったあまりの出来事と、眼前の光景に思わず吐き捨てた。
自分は学園都市の橋の上にいたはずだ。それがいつも絡んでくるビリビリ中学生のド派手な雷を右手で受け止めようとした瞬間、明らかに相手の能力以外の何かが上条の身体を捉えた。白色の閃光が視界を奪い、一瞬意識を持ってかれ、気がついた時にはこの場所にいた。
「《地獄》にようこそ。あなたもこの地でしゃべるウンコに弄ばれる贖罪の巡礼に参ったのですのね」
もはや、不幸の一言で片づけられない状況だが、それでも上条は叫ばずにはいられなかった。
「うう、不幸だーっ!!」
幾万の魔法世界で、ただひとつ魔法に見捨てられた世界。ここは地獄、この世界に未だ神は降臨せず、堕ちてきたのは神をも殺す幻想殺し、神なき世界で少年が殺す幻想とは果たして、どんな幻想なのだろうか。