2010年10月 7日 (木)

ロザリオの祈り

本日10月7日は、ロザリオの聖母の記念日です。
そして毎年10月は、カトリック教会ではロザリオの月と定められ、ロザリオの祈りを思い起こす月となっています。
ロザリオの祈りについて知らない方、唱えたことの無い方は、Googleで「ロザリオの祈り」で検索してみてください。多くの人々が、ロザリオの祈りの唱え方について説明しています。

さて、昨今、日本の街ではロザリオを首からさげたお嬢さんたちを見かけるようになりましたが、これはアクセサリーとして流行しているからであって、祈りに用いているわけではないようです。ましてや真実の信仰をあらわすものではありません。お守りのような認識があるのでしょうか。ウエディングチャペルのように、様式美に惹かれたファッション感覚かもしれません。

しかし、オカルト的、悪魔的なシンボルやしるしをペンダントなどにしている人々もいますから、それに比べればどれほど良いかしれません。カトリックのメダイを好んで身につけているお嬢さんたちも多くいるようです。これらの現象は、日本の若い世代に、カトリック文化に対する潜在的な関心と憧れが存在することを示していると思います。

いずれにせよ、ロザリオやメダイをお守りとして身に付けたとしても、カトリック信仰に出会わず、知らないなら、身に付けたロザリオやメダイを侮辱するような、神と聖母を悲しませる生活を行ってしまう危険性も、少なからずあると思います。ロザリオやメダイを身に付けている若者たちが、マリア様のご保護のうちに、カトリック信仰との出会いへと導かれることを願いたいと思います。


さて、本題に入りますが、秋田の聖母マリアの一連の奇跡の出来事では、ロザリオの祈りの重要性が強調されています。

1973年6月、一連の不思議な出来事が始まりだした初期の頃、礼拝の最中に笹川姉妹に現われた天使は、笹川姉妹と共に、ロザリオの祈りをたびたび唱えてくれました。それは、これから起きていく重大な奇跡的しるしと聖母のメッセージの幕開けを告げるものでした。

笹川姉妹に現われた天使は、ロザリオの祈りをとてもゆっくりと唱えたと伝えられています。笹川姉妹も、それに合わせてゆっくりと心をこめて唱えました。このことは、私たちカトリック教徒の間ではとかく形式的になり、早く唱えがちなロザリオの祈りが、本来心をこめて黙想のうちに唱えられるべきものであることを示していると思います。

この笹川姉妹の体験から、聖体奉仕会で唱えられるロザリオの祈りは、比較的ゆっくりとしたリズムになりました。それは現在も継続しています。日々の聖務日課の間に、ロザリオの祈りを共同体的に必ず唱える修道会は、日本ではとても珍しく、聖体奉仕会の独自性と、聖母からいただいた使命を表現していると思います。

さて、笹川姉妹が聖母から受けた第三のメッセージでは、重大な危機の時代における回心とロザリオの祈りの重要性を訴えています。これは、1973年10月13日(ファチマの聖母の太陽の奇跡の記念日)に、笹川姉妹がひとりで聖堂に入り、ロザリオの祈りを唱えようとした時に、聖母像からの語りかける声として、伝えられたものです。
第三のメッセージの全文を下記に記します。

「愛する私の娘よ、これから私の話すことをよく聞きなさい。そして、あなたの長上に告げなさい。

 前にも伝えたように、もし人類が悔い改めないなら、御父は全人類の上に大いなる罰を下そうとしておられます。
 その時、御父は大洪水よりも重い、いままでにない罰を下されるに違いありません。
 火が天から下り、その災いによって人類の多くの人々が死ぬでしょう。
 よい人も悪い人と共に、司祭も信者と共に死ぬでしょう。
 生き残った人々には、死んだ人々をうらやむほどの苦難があるでしょう。
  
 その時私たちに残る武器は、ロザリオと、御子の残されたしるしだけです。
 毎日ロザリオの祈りを唱えてください。ロザリオの祈りをもって司教、司祭のために祈ってください。

 悪魔の働きが教会の中まで入り込み、カルジナルはカルジナルに、司教は司教に対立するでしょう。
 わたしを敬う司祭は同僚から軽蔑され、攻撃されるでしょう。
 祭壇や教会が荒されて、教会は妥協する者でいっぱいになり、悪魔の誘惑によって、
 多くの司祭、修道者がやめるでしょう。
 
 特に悪魔は、御父に捧げられた霊魂に働きかけております。
 たくさんの霊魂が失われることが私の悲しみです。これ以上罪が続くなら、もはや罪の許しは無くなるでしょう。

 勇気をもって、あなたの長上に告げてください。
 あなたの長上は、祈りと償いの業に励まなければならないことを、ひとりひとりに伝えて、
 熱心に祈ることを命じるでしょうから。

 あなたに声を通して伝えるのは今日が最後ですよ。
 これからは、あなたに遣わされている者と、あなたの長上に従いなさい。
 ロザリオの祈りをたくさん唱えてください。
 迫っている災難から助けることができるのは、私だけです。
 私に寄りすがる者は、助けられるでしょう。                   」


この震撼する内容の大警告のメッセージは、後に世界中に伝えられました。
当時の無神論共産主義の台頭の中での東西分裂、冷戦の危機にある世界情勢や、第二バチカン公会議の結果としてのカトリック教会の現代化の方向性による内部の混乱と分裂、世俗化の急激な進行などのことを考えていくと、緊迫した時代背景の中で行われた預言であることがわかります。

この預言を恐れることは、信仰者として、人間として当然のことですが、聖母は冒頭にこう言われました。
「もし人類が悔い改めないなら、御父は全人類の上に大いなる罰を下そうとしておられます。」

「もし、人類が悔い改めないならば....」という前提を置かれているのです。
これらのことを考えると、この預言は、人類の神への忘恩と侮辱に怒っておられる神の御心を察した聖母マリアの、人類の母、教会の母としての母心から発出した預言であることがわかります。マリアは人間社会と教会の行く末を心配するあまりに、この預言を笹川姉妹に託し、聖母像から涙を流されたのです。「これ以上罪が続くなら、もはや罪の許しは無くなるでしょう。」とは、人類社会と教会が、どれほど厳しい段階に達してしまっているかを示すものでした。

そして、この危機の克服のために特別に強調されているのが、ロザリオの祈りです。

「その時私たちに残る武器は、ロザリオと、御子の残されたしるしだけです。
 毎日ロザリオの祈りを唱えてください。ロザリオの祈りをもって司教、司祭のために祈ってください。
 (中略)
 ロザリオの祈りをたくさん唱えてください。
 迫っている災難から助けることができるのは、私だけです。
 私に寄りすがる者は、助けられるでしょう。                 」

現代の重大な滅びの危機における霊的戦いにおいて、聖母は私たち信仰者の勝利と救いのために、小さな手段、単純な手段を望まれます。それが、ロザリオの祈りです。

ロザリオの祈りは、聖母と共に、御子イエスと御母マリアの生涯を黙想しながら祈る祈りです。
そして同時にロザリオの祈りは、主の祈りによって御父への賛美と嘆願を捧げ、アヴェ・マリアの祈りによって聖母にもたらされた比類なき恵みと受肉の神秘を賛美しながら聖母に願いを捧げ、栄唱によって三位一体を賛美し礼拝するのです。ですから、それゆえにこの祈りは、神への忘恩と侮辱を償う償いの祈りであり、その信仰によって三位一体を慰める、神との和解のための執り成しの祈りでもあるのです。この”単純な信仰”の実りである祈りは、思想の混乱と複雑化の中で、懐疑に満ちて神を排斥する傲慢な現代に、強力な信仰の勝利をもたらします。

第二バチカン公会議におけるカトリック教会の現代化の方向性は、時代の変化に即したふさわしい、素晴らしいものでしたが、変化の時期に特有の危機も多くありました。それらの混乱と危機は、教皇ヨハネ・パウロ2世のリーダーシップのもとで、行き過ぎや復古主義などが徐々に克服されていきました。教会の現代化は、世俗化した近代社会との対話の必要性から、より積極的に理解されるようになり、今も様々な側面で着実に進行しています。

また、東西冷戦の危機は過ぎ去り、世界はひとつの重大な分裂からの和解をしました。ヨーロッパはひとつの共同体となるほどの努力を継続しています。共産主義国だった国々の中で、キリストに立ち返り洗礼を受ける人々が急増しました。無神論共産主義の制度的、思想的矛盾と誤謬は、ますます明らかになってきています。

秋田で第三のメッセージが行われた時代と比べれば、世界はひとつの重大な危機から、すこし離れたと言えるのではないでしょうか。きっと、世界の民が聖母と共に絶え間なく祈ったロザリオの祈りが、主なる神に届いたのでしょう。聖母の汚れなき御心の勝利が、世界に現われました。天罰の危機は、少し遠ざかったのかもしれません。

しかし、現在、なお世界は引き続き、新しい様々な側面での重大な危機の中にあります。
世界に苦しみが増していくことを、誰もが感じ、体験しています。

核兵器の拡散の危険性が叫ばれています。テロリストたちが核兵器を手にする危険性は、さらに高まってきています。

人類を養うために、ひたすら生産と消費の拡大を目指している世界は、その結果としてしのびよる気候変動と将来的な資源の枯渇の危機に見舞われており、地球の限界に直面し、価値観と生活習慣の大きな転換へと追い詰められていきます。人類社会は、この近代社会の構造的危機について、人類の英知を持ってしても根本的な解決策を見出せず、大いなる苦悩の中に置かれています。

教会の世俗化が顕著に進行しています。日本のカトリック教会を見ても、社会を支配する世俗主義的文化の習慣や相対主義、マスメディアの影響を顕著に受け、聖性の軽視、誤謬の流布、バチカンへの反抗、司祭修道者への志願者の減少、マリアへの信心の軽視、信仰の確信と宣教の熱意の喪失などの現象があらわれてきています。

このように、ひとつの大きな危機の時代は過ぎ去りましたが、さらに、新たな側面からの危機の時代が続いていきます。

私たちカトリック教徒に聖母から委ねられた使命である「ロザリオの祈り」は、この地球的規模の世俗化の中での自由の乱用による堕落の危機と、近代社会の制度的崩壊の危機の時代に、三位一体の神と聖母マリアへの、私たちの単純な信仰の確信と信頼の表現として、また聖母マリアから託された救いのための鍵として、ますます大切に心を込めて唱えられなければいけない時が来ていると思います。

もう一度、聖母の第三のメッセージの一部を記します。

「その時私たちに残る武器は、ロザリオと、御子の残されたしるしだけです。
 毎日ロザリオの祈りを唱えてください。ロザリオの祈りをもって司教、司祭のために祈ってください。
 (中略)
 ロザリオの祈りをたくさん唱えてください。
 迫っている災難から助けることができるのは、私だけです。
 私に寄りすがる者は、助けられるでしょう。                 」

クレルヴォーの聖ベルナルドは言っています。

「マリアは非常に愛に富んでいるので、その取次ぎを願う者がどんなに罪人であろうとも、
 だれ一人として退けることはありません。
 なぜなら、聖人たちも言っているように、この世が始まってから、信頼の心と忍耐をもって
 聖母に依り頼んだ者の中で、その願いを退けられたものは、誰一人いないからです。     」


参考文献:「日本の奇跡 聖母マリア像の涙」 安田貞治神父著


2010年9月15日 (水)

101回のマリア像の涙

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今日、9月15日は、カトリックでは悲しみの聖母の記念日です。
14日の十字架称賛の祝日に続くこの記念日は、キリストの十字架の贖いの苦しみに立会い、共に苦しみ涙した共贖者である母マリアの悲しみを記念する重要な記念日です。

そして、この記念日は、秋田の聖母マリアの一連の出来事にとっても、とても重要な記念日です。なぜなら、秋田の出来事には、歴史をつらぬく聖母マリアの悲しみと痛みが表されているからです。1975年、聖体奉仕会に安置されていたすべての民の御母の聖母像、すなわち地球の上に足を置き、共贖者として御子の十字架の前に立つ聖母像が涙を流し始めました。

1975年1月4日に始まった聖母像からの涙は、1981年9月15日の悲しみの聖母の記念日に、101回の涙をもって終わりました。このことは重要なポイントであり、この涙の奇跡の意味を暗示しています。後述しますが、この「101回」の霊的意味については、笹川姉妹に天使が現われて、聖書的解釈を伝えています。

さて、秋田の奇跡は、とかく101回の涙の奇跡ばかりが言われますが、実際に起こった目に見える奇跡の始まりは、1973年、笹川姉妹の左手と聖母像の右手に現われた十字型の聖痕と、笹川姉妹と聖母像の聖痕から噴き出した血でした。

聖母像の右手に現われた十字型の傷と血、これは明らかに、母としてキリスト・イエスの十字架の贖いに共に一致して参与する、共贖者としての聖母の痛みと苦しみを現していると思います。

1973年7月6日、笹川姉妹に現われた天使は、傷と血の奇跡を予告して、こう告げています。

「恐れおののくことはない。
 あなたの罪のみではなく、すべての人の償いのために祈ってください。
 今の世は、忘恩と侮辱で、主の御心を傷つけております。
 あなたの傷よりマリア様の御手の傷は深く、痛んでおります。       」

また、1973年7月27日、傷と血の奇跡の終わりには、こう告げています。

「その苦しみも、今日で終わります。
 マリア様が御血を流されるのも、今日で終わりますよ。
 マリア様の御血の思いを大切に、心に刻んでください。
 マリア様が御血を流されたのには、大事な意義があります。
 あなたがたの回心を求め、平和を求め、神様に対する忘恩、侮辱の償いのために流された尊い御血です。」

笹川姉妹への天使のお告げ「あなたがたの回心を求め、平和を求め、神様に対する忘恩、侮辱の償いのために流された尊い御血です。」は、人類の罪からの救いのための御子イエスの十字架の贖いに参与する、御母マリアの共贖者としての痛みと苦しみ、そして人類に寄り添う霊的母、執りなし手としての聖母マリアの役割を伝えていると思います。

笹川姉妹の左手に現われた十字型の傷と血は、木曜の晩から金曜日(キリストの十字架上の死の日)にかけて、激しい痛みを与えました。このことは、この傷と血が、キリストの十字架の奉献に結ばれていることを示しています。

笹川姉妹の傷と血について、天使の明確な説明はありませんでしたが、傷の痛みに震える笹川姉妹に対して、天使はたびたび繰り返して「すべての人の償いのために祈ってください。」と伝えました。このことは、私たちの日々の苦しみの十字架が、キリストの十字架の奉献に結ばれて、すべての人の罪の償いに結ばれていくという、キリスト教における苦しみの意味、真理を示していると思います。

秋田の出来事に決定的に関わられた安田貞治神父様は、著書の中で、この笹川姉妹の左手に現われた聖痕について、次のように語られています。「この現象は、傷が十字架の形をもってすでに暗示しているごとく、キリストの受難との深い関連を強調するものと考えられる。十字架の奉献に、単なる感傷ではなく、実際にわが身に痛みをおぼえるほどの同感をもってあずかる重要さを示唆するごとくである。日常生活のすべての苦しみを、キリストの苦難に合わせて捧げる意義を、あらためて教えられるようである。」

さて、その後に続く聖母像の涙の奇跡は、1975年1月4日に始まり、1981年9月15日の悲しみの聖母の記念日に、101回目の涙をもって終わりました。悲しみの聖母の記念日に涙が終わったことは、やはり聖母が共贖者としてのご自分を示し、涙を表されたことを示していると思います。流された涙は、慎重に脱脂綿に吸い取られ、保管されて、鑑定の結果、人体液であり、血液型はO型であると結論付けられました。

この涙の奇跡は、多くの日本人カトリック教徒の巡礼者や地域の人々、海外からの訪問者、テレビ局や雑誌記者などにも目撃され、ビデオや写真にも収められ、否定しようのない超自然的事実として記録されています。目撃した人の数は、のべ2000人におよぶということです。

このように、主なる神の摂理によって多くの多様な人々が目撃することになったことは、この涙の奇跡の超自然的事実を、覆い隠すことなく日本を始めとする全世界に伝えて欲しいとの神の意志が働いているからだと思います。

しかし、昨今の日本の教会組織と日本社会の流れは、時間の経過の中でこの奇跡に覆いをして、沈黙してしまうという風潮を作ってしまいました。450年に及ぶ日本のカトリック教会の歴史の中でも特筆すべき神の介入の出来事でありますが、出来事の重大さに気づくことなく、あるいは気づいても恐れから、常識人を装って、まるで申し合わせたかのように、多くの人々が沈黙してしまったのです。私には、この無神経と無関心が理解できません。マリアが泣いていたのです。イエスの御母、私たちの御母が泣いていたのです。走り寄り、慰め、回心のうちに共に過ごす時を持つべきではないでしょうか。

日本のカトリック教会の構成員の多く、特に地位ある立場の人々は、当時の新潟教区長・故伊藤庄治郎司教の認可声明があったにも関わらず、一様にこの秋田の奇跡について無視するか沈黙を守っています。しかし、これは神の望みではないと思います。もっと積極的な肯定や、積極的な考察、司教団の公式巡礼の実現などを望みたいものです。そうすれば、悲しみの聖母は、どれほど慰められることでしょうか。日本のカトリック教会と日本社会は、どれほど祝福と恵みを受けることでしょうか。

さて、101回目の涙の奇跡が終わってから13日目の1981年9月28日、聖体礼拝の時、笹川姉妹は天使の訪れを受け、目の前に大きな聖書のビジョンを見せられました。そしてその聖書が開かれ、そこに”3章15節”という数字を見ました。すると天使が話しかけてきました。

「聖母像の涙は、この箇所に関係があります。
お涙の流されたこの101回という数字には、深い意味があります。一人の女によって罪がこの世に入ってきたように、一人の女によって救いの恵みがこの世に入ってきたことを、かたどるものです。数字の1と1の間には0があり、その0は、永遠から永遠にわたって存在する神を意味しています。はじめの1はエバを表し、終わりの1は聖母を表すものです。創世記の3章15節を読みなさい。」

この天使のメッセージで告げられた創世記3章15節とは、下記のとおりです。

「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。
 彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。        」(創世記3章15節)

これは創造主である神が、エデンの園でエバをだました蛇(サタン)に向かって告げた言葉です。
創世記のこの箇所は”原福音”と呼ばれ、救い主キリストについての、神の最初の約束と言われます。

安田貞治神父様は、この箇所について、著書の中で次のように述べています。「秋田の聖母像の涙の奇跡は、天使の口から、聖書の権威によって説明された。創世記の聖句は、世の終わりに至るまでの聖母とサタンの戦いを啓示する。これは、聖母ひとりの戦いではなく、全キリスト者とともに、キリストの神秘体と一致しての対決である。」

カトリック教会の伝統では、創世記の3章15節の”女(エバ)の子孫”に聖母マリアを見ます。安田神父様は、この解釈に基づいて、”お前の子孫と女の子孫”に”サタンと聖母の戦い”を見ているのです。

私は、天使の告げられた「お涙の流されたこの101回という数字には、深い意味があります。一人の女によって罪がこの世に入ってきたように、一人の女によって救いの恵みがこの世に入ってきたことを、かたどるものです。」という甘美なメッセージに惹かれます。エバの神への不従順によって原罪が人類に入り、新約のエバである無原罪のマリアの神への従順によって、救い主がこの世に来られ、新約のアダムであるイエス(コリント一 15章 22節)と、新約のエバであるマリアの神への従順によって、十字架の贖いと復活の勝利は達成され、新しいいのち、新しい世界が人類にもたらされました。

天使のメッセージには、聖母マリアが、新しい創造のための新しいエバであることが示されています。

私が秋田の聖母マリアのホームページを作ろうと考えた時、オフィスの名前に「101 New Life Network」と名付けたのは、この新約のエバであるマリア、新しいいのちの先取りであり、かたどりであるマリアに感謝して名付けたのです。神の母として、そして共贖者として選ばれたおとめマリアが、新しい創造のために、あらかじめ原罪の汚れを免れたことは、創造主からの偉大な恵みとして、当然のことでした。


さて、さらに付け加えるならば、この長期間に渡って101回流された涙の奇跡は、1973年に笹川姉妹に告げられた秋田の警告メッセージの深刻な緊急性をも示していました。これほど度々繰り返された涙の奇跡は、2000年に及ぶ世界のカトリック教会の歴史の中でも、ただひとつです。この多くの人々の前で繰り返された偉大な涙の奇跡は、秋田の出来事に本当に注目してほしいとの、神の思いのあらわれでしょう。

秋田には、現在もこの奇跡に感謝して、世界中からカトリック司祭や信者の巡礼者が訪れています。
一般の日本人の方々も関心を持ち、訪れています。無神論者の人々も、この奇跡の前にはただ沈黙し、内省を迫られることでしょう。

インターネット時代に本格的に入った10年ほど前からは、世界中で秋田の奇跡についての情報が入手しやすくなり、多くの誤解も消えつつあります。秋田の奇跡は、インターネット時代のために用意されていたかのようです。

秋田の涙の奇跡が、より良く世界のキリスト教徒に、そして日本社会の良心ある人々に伝えられていくことを願いたいと思います。

参考文献: 安田貞治神父著「日本の奇跡 聖母マリア像の涙


2010年8月15日 (日)

すべての民の御母

今日は8月15日、日本にとっては終戦記念日ですが、全世界のカトリック教会にとっては重要な祭日である
聖母の被昇天の祭日です。

さて、今日は「すべての民の御母」について、書きたいと思います。

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「すべての民の御母」とは、1945年3月から14年間に渡ってオランダ・アムステルダムで起きた聖母出現の呼び名です。イーダ・ペアデマンという婦人に聖母がご出現になりました。イーダは聖母に導かれて、まるで黙示録のヨハネのように、多くの幻視とメッセージを受けました。聖母は1945年3月25日から1959年5月31日まで、実に56回もイーダ婦人に出現しています。

聖母はご自分を「すべての民の御母」と名乗り、ご出現の姿を現した御絵の普及を願われました。そして、イエスに向かって聖霊の降臨を願う「すべての民の御母の祈り」を伝えその普及を願い、さらに聖母マリアについての新しい、そして最後の教義になると予告される「共贖者、仲介者、執りなし手」の教義としての宣言の成就を願われました。

また、多くの近未来の出来事を予告され、それらは成就しています。その中には、イスラエルの建国、化学兵器の開発、東西冷戦、カトリック教会の現代化と第二バチカン公会議の必要性、教皇ピオ12世の帰天、 人類の月面着陸、黒人と白人の和解、自然災害の増加、社会の退廃と棄教の深刻化、共産主義の衰退、湾岸戦争、キリスト教徒間の和解と一致、ユーロの形成などがあります。

また、ヨーロッパ・アメリカを中心とする主要な国々に対して、それぞれの国ごとへのメッセージも与えられました。その中には、日本に対する短いメッセージも含まれています。それは、「日本は回心するでしょう。」(1950年2月14日 メッセージ21より)というものでした。

そして、世界に最も必要なのは、「隣人愛」「真理」「正義」「誠実さ」であることを聖母は何度も強調されます。
                                     (1947年1月4日 メッセージ11他より)

2002年5月31日、オランダ・ハーレム教区のプント司教様は、長い間の検討と熟慮を経て、「すべての民の御母」の一連の出来事について、超自然の働きを認め、司教通達を出して出現の認可を発表されました。

「すべての民の御母」に関する司教通達 リンク

ご存知の方も多いと思いますが、涙を流された秋田の聖母像は、この「すべての民の御母」のお姿を描いた御絵を基にして彫刻されました。ですから、秋田の聖母像は、「すべての民の御母」の御像です。

聖体奉仕会の初期メンバーであった小竹姉妹と池田姉妹が、この「すべての民の御母」に信心を持ち、御絵を大切にしていました。1963年に聖体奉仕会に聖母像を安置しようとの計画ができた時、この「すべての民の御母」の御絵を基にすることになったのです。そして、秋田市在住の日本人彫刻家・若狭三郎氏に製作が依頼されました。こうして、秋田の聖母像は完成し、安置されました。涙の奇跡が起きたのは、それから10年以上後の1975年でした。

秋田の一連の奇跡の出来事に関わられた当時の新潟教区長・伊藤庄治郎司教様は、秋田の出来事はアムステルダムのメッセージが真実のものであることを証明するものであると確信されていました。そのため、1988年6月24日、伊藤司教様はアムステルダムの小さな「ご出現のチャペル」を訪問され、そこでラテン語と日本語によるミサを捧げられました。そのミサには幻視者のイーダ・ペアデマンも与りました。

伊藤司教様は、公認された秋田の超自然的な出来事を通して、天はアムステルダムのご出現の真実性を保証することをお望みであるという、ご自身の深い確信を言葉にされました。

そのことを、伊藤司教の親友であり、バチカンのフィリピン前大使ハワード・ディ氏は次のように証言しています。

「伊藤司教は、秋田の出来事はアムステルダムのメッセージが真実であることを証明するものだと確信しておられました。そして司教さまは、聖母の『共贖者・仲介者・執りなし手』という称号を確固と擁護なさいました。もしアムステルダムのメッセージが本物でなかったとしたならば、天は秋田での奇跡を容認しなかったでしょう。なぜなら、涙を流し、血を流した秋田の聖母のご像は『すべての民の御母』を模したものだからです」


1963年に秋田の聖母像を安置して以来、聖体奉仕会では、毎日、「すべての民の御母の祈り」を礼拝の中で唱えることになりました。これは、現在まで受け継がれ、継続しています。私が聖体奉仕会に1年間寄宿して滞在した1995年も、この祈りが唱えられていましたので、私も毎日唱え、覚えることができました。現在、私はこの祈りを、お昼の短い祈りの中でお告げの祈りと共に唱えています。また、道を歩く時や電車に乗っている時などに唱えるようにしています。短い祈りですので、どこででも簡単に唱えられます。「すべての民の御母の祈り」を下記に記します。

「 主イエス・キリスト、御父の御子よ、
  御身の霊をあまねく全世界に今、つかわしたまえ。
  しかして聖霊が全ての民の心に宿り、
  退廃と凶災と戦争から、我らを守らしめたまえ。
  かつてマリアであられた全ての民の御母が、
  我らの擁護者であらんことを。アーメン。     」

この主イエスに聖霊の降臨を嘆願する素晴らしい簡潔な祈りは、現代世界の緊急で深刻な危機に対して与えられた、力あるとりなしの祈りです。アムステルダムで聖母は、毎日この祈りを唱えるようにと願われています。

そして1973年、この祈りを毎日唱えていた聖体奉仕会で、秋田の奇跡の数々は起きました。笹川姉妹が出現された天使と共に、この「すべての民の御母の祈り」を一緒に唱えたということも報告され記録されています。そして、笹川姉妹に、教会と現代社会の堕落と滅びに関する緊急の警告のメッセージが与えられ、「すべての民の御母」の御像が101回の涙を流しました。

大天罰と教会の退廃を警告した秋田の第三のお告げは、ロザリオの祈りの重要性を訴えています。秋田のメッセージは、ロザリオの祈りの必要性を強調しています。私は、それと共に、この「すべての民の御母の祈り」が、全世界の決定的危機からの保護と救いのために、とても重要だと感じます。聖母はアムステルダムで、この祈りの必要性を何度も訴えましたし、聖母が「すべての民の御母」に信心を持つ聖体奉仕会を選び、「すべての民の御母」の御像を選んで涙を流されたことは、そのことを示すしるしだと思います。

聖体奉仕会の礼拝では、現在も毎日ロザリオの祈りとすべての民の御母の祈りが唱えられています。
このことは、聖体奉仕会が”秋田とアムステルダムの預言的使命”に、現在も絶え間なく協力し、参与していることを示しています。聖体奉仕会と秋田の奇跡、そしてアムステルダムの出来事は、このようにして密接に結ばれています。

アムステルダムで、聖母は、カトリック教会の現代化の必要性を何度も訴えました。(1950年2月14日 メッセージ21他)このことは、第二バチカン公会議(1962年~1965年)の実現によって成就しています。秋田で奇跡の地として選ばれたのは、第二バチカン公会議の精神に沿って結成された、新しい日本で生まれた在俗会・聖体奉仕会です。このことからも、聖母が第二バチカン公会議の決定と指針を祝福して支持していることがわかります。

アムステルダムで「すべての民の御母」である聖母は、ご自分についての「共贖者、仲介者、とりなし手」の教義の宣言を、何度も繰り返し望まれました。聖母は、この三つの概念がひとつのものであり、マリアに関する教義の最後であり、完成であることを、いくつものメッセージの中で説明されました。

「共贖者!精神的にも肉体的にも、母は(御子と)苦痛を共に味わいました。御父が私をお選びになった時、私はすでに”神であり人”としてこの世においでになった救い主と共に贖う者でした。これをあなたがたの神学者に伝えなさい。」 (1951年4月29日 メッセージ32より)

すべての民の御母の御絵は、地球の上に足を置き、十字架のもとに立つ御母の姿を現しています。苦しみの十字架のもとに立ち、御子と共に苦しんだ「共贖者」としてのお姿です。そして、それは、今も人類の罪によって苦しむ御子の贖いの十字架のもとで、共に苦しむ母の姿でもあります。

「今、私は十字架の前に、犠牲として立っています。確かに、私は精神的に、そして特に肉体的に、御子と苦しみを共にしたのです。これは多くの論争を呼ぶドグマとなるでしょう。」 (1951年4月1日 メッセージ30より)

秋田の奇跡の出来事に決定的に関わった安田貞治神父様はご自身の論文の中で、秋田の聖母像の涙を、「マリアの共贖の涙である」と論じておられます。これは、一つの側面として、確かに正しいことだと思います。

アムステルダムで「共贖者、仲介者、とりなし手」という新しい、そして最後の教義を願われた聖母は、秋田において、共贖者として御子と共に苦しむ母の涙を現されました。そして、それは、現代における人類の決定的な堕落と滅びの危機に際して、仲介者、とりなし手とならんとする、すべての民の御母の涙でもあると思います。

さて、アムステルダムでの御出現は1959年で終わりました。秋田の出来事の始まりは1973年ですから、この間に14年ありました。この14年の間に、世界情勢はあらゆる側面で緊張を高めていきました。東西冷戦の対立は極限的な緊張を迎えていました。世界は分裂したまま核兵器で向かい合い、カトリック教会には、第二バチカン公会議直後の大きな混乱が起きていました。

聖母はアムステルダムから14年が経過し、危機的に変化した世界に対して、より切実な思いを持って、秋田のメッセージを託されました。とても厳しい内容の秋田の第三のお告げは、このような社会と教会の情勢の中で預言されました。その後に続く、すべての民の御母の御像の涙(1975~1981)は、秋田の預言の緊急性と全世界の大胆な回心の必要性を訴えていました。

では、現在の状況は、それらの危険を回避した状況と言えるでしょうか?
私たちの教会と世界は、秋田の第三のお告げで受けた警告の成就を、回避できたのでしょうか?

冷戦の対立は終わり、ヨーロッパは和解と一致の時を迎えました。多くの共産主義であった国々では、再びキリスト教信仰を取り戻す動きが生まれました。カトリック教会は、教皇ヨハネパウロⅡ世のリーダーシップによって、混乱を乗り越え、大聖年の時を迎え、大聖年の恵みとあわれみの扉は開かれました。これらの驚くべき和解の恵みの到来によって、新たにされた世界に向かって神のあわれみの御心は開かれ、秋田の警告の成就は回避されたのでしょうか?

確かに、世界は以前より、より善に、平和に、正義に基づいて秩序づけられようとしています。人類の誠意ある努力が、こられを推進しています。様々な摂理的な難問を抱える中で、確かに、世界は、過去より良いものに向かおうとしています。それは、確かなことでしょう。

しかし現在、新しい秩序のもとに置かれた世界は、破壊的で狂信的なテロリストの集団におびえています。
冷戦は終わりましたが、核兵器の拡散の危険と緊張は、増していくばかりです。

極端に世俗化した現代世界は、キリスト教のもたらす愛と正義と聖性の本質を、見失いかけています。
価値観の相対化の過度の尊重が、罪の認識と回心、真の救い、真理の発見から、人々を遠ざけています。
相対主義と世俗化の進行によって、信仰の形骸化と棄教の深刻化が世界的な問題になっています。
キリストがもたらしてくださった、”新しいいのち”の至上の価値が、見失われていこうとしています。

また、カトリック教会では、性的虐待問題が浮上し、教会と聖職者への疑いが強まり、混乱と分裂の危険が増大しています。
カトリック教会は、浄化の時を迎えています。

そして、未曾有の気候変動と自然災害が世界中で起きています。
人類の叡智による洞察が新しい地平へと開かれていく一方、様々な側面からの新しい地球的危機が増大していきます。

このような現在の世界にとって、秋田の預言的出来事の警告の重要性と緊急性は、現在も有効であると言えないでしょうか。

私は、このような“新しい危機の増大の時代”に、ロザリオの祈りと共に、すべての民の御母の祈りを絶えず祈り、世界に聖霊の到来と充満を祈ることが、とても重要だと感じています。秋田の聖母マリアの涙は、すべての民の御母の涙です。そのことを忘れてはいけないと思います。

ロザリオの祈りとすべての民の御母の祈りによって、私たちは、”秋田とアムステルダムの預言的使命”に、聖体奉仕会と一致しながら、共に参与することができるでしょう。

「世界はどうしていいのかも分からず、途方に暮れています。
 ですから、聖霊が来てくださるためのとりなし手であるようにと、御父はわたしをお遣わしになったのです。
 なぜなら、世界は力によって救われるのではなく、”霊”(聖霊)によって救われることになるからです。 」  
                                        (1951年4月29日 メッセージ32より)


この「すべての民の御母」がイーダ婦人に伝えられたメッセージとビジョンの全ては、すべての民の御母普及の会が翻訳し、エンデルレ書店から出版されている「すべての民の御母のメッセージ」で知ることができます。この本を、ぜひ読まれることをお勧めします。

「すべての民の御母のメッセージ」購入サイト  Amazonリンク


「すべての人が、再び十字架に立ち返らなければなりません。
 そうしてこそ、初めて平和と安息が訪れることができるでしょう。」
                (1951年2月11日 メッセージ27より)

2010年7月11日 (日)

トラピスト修道院

今日7月11日は、日曜日で主日ですが、毎年の典礼暦では、聖ベネディクトの記念日にあたります。
今日は、私が函館・渡島当別のトラピスト大修道院で過ごした日々のことを、分かち合いたいと思います。

私は、1995年の2月の初めにカトリック修道会・フランシスコ会を退会した後、秋田の聖体奉仕会・マリアの家に1995年2月11日から翌1996年の2月11日まで寄宿して滞在しました。その後、1996年の10月から1998年4月までの一年半ほど、函館から程近い渡島当別のトラピスト大修道院で暮らしました。

トラピスト大修道院は、厳律シトー会の観想修道院です。生活はベネディクト戒律に従い、沈黙を基本とし、肉食は控え、一日に7回の礼拝があります。労働は酪農や農場、バターやクッキーなどの工場の仕事を行います。

私は、秋田の聖体奉仕会で一年暮らしている間に、トラピスト修道院に行ってみたいと、強く思うようになりました。マリアの汚れなき御心は、私に、このような徹底した礼拝と労働の奉献生活を望んでおられるのだ、という強い確信が芽生えていきました。私がトラピストに行けば、マリア様はきっと、とても喜んでくださるだろうと考えていました。

それに、フランシスコ会を退会する際、福田勤管区長(当時)から、「あなたはトラピストに行ってみたらどうだ?」と言われていたのも心に残っていました。そこで、秋田から埼玉にある実家(この時期には、実家は東京・中野区から埼玉県所沢市に移っていました。)に戻ってから、じっくりと考え、フランシスコ会の小平正寿神父様に紹介状を書いていただいて、トラピスト大修道院に志願いたしました。

ちょうど、当別トラピスト大修道院は、創立100周年を祝っている最中で、母院であるフランス・ブリックベック修道院の修道院長の訪問や、ローマからの総長の訪問などが予定されていました。そして、100周年を記念する、一年間に渡る年間黙想が行われており、テーマは「Exodus」(出エジプト)でした。

私は、このような囲いの中の献身的な生活に入ることに少し恐れを感じていましたが、以前からトラピストの修道者とは交流があり、顔見知りの修道士も多かったので、決意してからは、とても喜びに満ちて、自分の家に向かうような気分でした。

私は、賛美と礼拝と労働の生活に入りました。そして、その喜びに満ちた素晴らしさに圧倒されました。

起床は早朝3時30分、読書課から始まります。夜明けを見張る、早朝の礼拝です。そして朝の祈り、ミサと続きます。一日に7回、時を聖化し、一日を主に捧げるために礼拝が行われます。そして、霊的読書(Lectio Divina)の時間が適切にとられます。一日の終わりの寝る前の祈りでは、最後に皆で聖母賛歌"Salve Regina"を歌います。

朝食は、すべて自家製のパンとヨーグルト、ジャム、果物などが出されます。食事は共同の食堂で沈黙のうちに行われます。朝、昼、晩の食事は量は充分にありますが、肉食を控えているので、たんぱく質は豆類や魚、乳製品から取ります。私は、トラピストでの1年半の生活で5キロ体重が減少しました。

トラピストでは、沈黙が尊重され、象徴化されます。仕事や生活で必要な会話はしますが、修道士は言葉の乱用を控え、神を賛美し、礼拝し、神を愛する為に言葉を用います。

礼拝の間に労働があります。まさに、”祈り、かつ働け”(Ora et Labora)の精神です。労働は、志願期ということもあり、様々なことを体験させていただきました。ジャム工場、バター工場、クッキー工場、農場、果樹園、牧場、厨房などです。冬の雪かきも重要な仕事でした。ここでは、労働の意味(創世記3:19)が象徴的に示され、聖化され、神の祝福へと昇華します。

トラピストの生活様式は、世間からもっとも遠い存在のように感じられるかもしれませんが、社会的な事業を運営して日々労働にいそしみ、地域社会や経済とも密接に結びついているという点で、とても社会性のある、一般社会に近い存在の修道生活であると思います。

時間の流れはゆるやかで、静けさに満ちていました。神を離れて祈らなくなり、沈黙と観想の価値を忘れて、情報の洪水の中で暮らす近代社会の混乱と迷走を、トラピストの生活様式は沈黙のうちに警告し、指摘しています。あの沈黙の静けさの中に満ちる喜びは、本当に忘れがたいものです。この喜びに満ちた静けさの中に、函館の大自然と空と海の美しさがまぶしいほどに輝いていました。夜になると、修室の窓から、津軽海峡のイカ釣り漁の船の漁り火が、キラキラと輝いて見えました。

私は、全世界の民が、このような賛美と礼拝と労働の生活ができたら、どんなに素晴らしいだろうと思いました。愛なる神への賛美を生活の中心とし、労働と生活のすべてが聖化されていく生活です。そうなれば、世界はどれほど神の祝福を受け、助けを受け、人々は愛のうちに連帯し、喜びと平和に満ちることでしょうか。トラピストの生活には、主なる神が望まれる生活の様式が、象徴的に表されていると思います。すなわち、約束の地に教会と人類社会が至るためのヒントが、隠されていると思うのです。

私は、トラピストの生活で、喜びと平和に満たされていきました。心と霊が、世の呪縛から解放されていくのを感じました。心が開かれ、世界中を愛したい思いに満たされました。トラピストは囲いの中の生活ですが、心は神に創造された全世界への愛に向けて解放されていくかのようでした。

私は、1年半、トラピストで生活しましたが、実家の父がお金を失うという事が起こり、1998年の半ばに実家に戻らざるをえなくなりました。これも、主の摂理でありました。私は、主の御心を受け入れました。そして、修道生活を断念したのです。

私は、トラピストの素晴らしい観想生活で受けたインスピレーションを、体験を忘れないうちに何とか表現したいと思い、2002年頃、ひとつのWebページを製作しました。それが、私が初めて製作したWebページ「夜明けの見張り」です。言葉の黙想となっています。ぜひ、ご覧ください。

「夜明けの見張り」  http://www.newlifejm.net/yoakenomihari.html

「 賛美は父と子と聖霊に、代々に神をほめたたえよう。
  神よ、高い大空の中で、あなたは賛美され、すべてにまさり、代々にほめたたえられる。 」 
                                   (聖務日課・日曜日の朝の祈りより) 


2010年6月26日 (土)

私とカトリックの出会い

イエスのみ心の月も終わりが近づきました。
今日は、私がカトリックに出会った経緯を分かちあい、イエスのみ心に捧げたいと思います。

私は、東京・中野区に生まれ育ち、家はクリスチャンではありませんでした。真言宗豊山派の檀家で、普通に仏壇があり、神棚があり、家から歩いて1分のところには、八幡神社がありました。私は、この神社の経営する幼稚園を卒園しています。私は長男で、妹弟との三人兄弟でした。両親と祖父母も同居していました。

キリスト教に関心を持ったのは、1983年、都立高校1年の頃でした。
高校の教室に、誰かが、ギデオン協会という団体の発行している無料配布新約聖書を大量に持ってきました。
そして、「ご自由にお持ちください。」と、張り紙がしてあったのです。無料でもらえるということもあり、私は「イエス・キリスト」とは、どんな人物かを知りたい衝動にかられ、無くならないうちに、急いで持ち帰りました。そして、家で福音書から読み始めたのです。

私は、自由な校風の都立高校に通っていましたが、その自由さの中に、価値観が定まらず、さらに甘えていました。中学時代からバスケットボール部に参加していましたが、スポーツでは解決できず、満たされない心の未熟さと不安を抱えていました。そして、自分の信念の無さと罪深さ、弱さにも、あきれていました。何か、自分の人生の信念と核心となるもの、軸となるもの、今振り返れば、「真実と真理」を、私は無意識に探していました。このような状態にあった私に、イエスは新約聖書を通して呼びかけられたのです。

それにさかのぼる中学生時代、教室にひとりのいじめられっ子、T君がいました。いつも未熟な性格の粗暴なクラスメートにいたずらされ、いじめられていました。私は彼らの行為に憤っていましたが、止める勇気がなく、傍観しているだけでした。このいじめられっ子の少年は、いじめられても、いつも許して微笑んでいました。どうして、こんなに強いんだろうと思っていましたが、ある日、T君がカトリックのクリスチャンであることを知りました。それ以来、キリスト教は、私にとって、神秘的で力強い迫力と魅力を持つものとなったのです。このT君に中学時代に出会っていたことも、イエスに関心を持つきっかけになっていたと思います。

さて、高校の教室からギデオン協会の新約聖書を持ち帰り、開いた私は、福音書の「山上の垂訓」(マタイ福音書5章)の箇所を知り、福音的逆転の教えに心を打たれました。そして、イエスの限りない愛とゆるしを知りました。イエスの愛の教えの崇高さと力強さに、圧倒されました。「真実の愛とは、このようなものか」と心が震えました。今、思い返すと、多感で好奇心が強く、正義にも敏感な青春時代、このような崇高な教えに触れることは、決定的に重要なことだと思います。

私は、どうしても教会に行ってみたくなりました。そこで、家の近くで教会を探しましたが、日本基督教団のプロテスタントの教会が一番近くにあり、その次に近かったのが、カトリック高円寺教会でした。私は、どちらに行ってみようかと悩みました。そして、両方の門の前を行ったり来たりして、中をのぞいたりしてみました。そして、図書館でカトリックとプロテスタントの違いについて調べたりしてみました。

当時は、普通の日本教育のレベルでしかキリスト教を知りませんでしたので、フランシスコ・ザビエルが伝えてきたのがカトリック、宗教改革でルターが始めたのがプロテスタント、といったレベルでしか知りませんでした。
私は、「キリスト教を学ぶのであれば、確かな教えを知りたい。いいかげんな宗派は嫌だ。」と思っていました。
近代日本の普通の一般家庭で育った私は、無数にある宗教に対して、少なからず懐疑的でもありました。

私の母は、戦後の小学生の時に、誘われてプロテスタントの日曜学校に行っていたことがありました。
私の妹も、小学生の時に、友達に誘われて、日本基督教団の教会の日曜学校に行っていた時期がありました。
ですから、一番近くのプロテスタントの教会の方が、何かしら親近感を感じました。

しかし、調べてみると、プロテスタントには歴史的に教派が無数にあり、どれが良くてどれが悪いのか、判断ができませんでした。ですから、この日本基督教団が大丈夫なのかどうか(笑)、わかりませんでした。(当時の若い私は、そんな感覚でした。後年、1998年から2002年までの4年間、上智大学で行われていたカトリック聖霊刷新に参加し、福音主義的なプロテスタントの、福音に徹した素晴らしい一面を知りました。聖霊刷新のことについては、いずれ、また分かち合います。)

その一方、カトリックは、教会のはじまりからの教派であり、複雑な教派はなく、全世界でひとつであることがわかりました。「これは、しっかりしているな。教えを請うても大丈夫そうだ。」と、若い私は考えました。そして、実際にカトリック高円寺教会を訪れて覗いてみると、厳かで建物もしっかりしており(笑)、「本物だ」と感じさせる雰囲気がありました。教会の横にはミッションスクールの光塩女子学院があり、いいかげんな宗派ではないという確信と安心を与えてくれました。

そこで、思い切って、カトリック高円寺教会の受付を訪ねてみたのがはじまりです。そして、学校が終わってから、夜の聖書研究会に通うようになりました。担当してくれていたのは、現在、東京の補佐司教をしておられる幸田和生神父様でした。当時は、司祭になったばかりの助任司祭で、最初の赴任地が高円寺教会でした。

このようにして、私は楽しく勉強をし、ミサに参加し、あまり悩むこともなく、1年間勉強をした後、高校2年のクリスマスに洗礼を受けました。若い私にとって、洗礼には、何の迷いもありませんでした。ただ、洗礼への望みと憧れでいっぱいでした。洗礼名には、福音による回心者、アシジのフランシスコをいただきました。両親も子供の自由を尊重してくれましたので、反対はありませんでした。今考えると、あの時の気持ちの高揚こそ、洗礼の時期としては最良であったと思います。後年、母と妹もカトリックの洗礼を受けることとなり、今は主の恵みと祝福に本当に感謝しています。

このようにして、私はカトリック信徒として歩み始めました。
この頃は、信仰者としては本当に未熟で、不勉強でもあり、古い自分と洗礼を受けて新しいいのちを生き始めた自分がせめぎあっていました。それは、新しいいのちの喜びと自由を生きていくために、新しく造りかえられていく、脱皮のときであったと思います。この頃は、秋田の聖母マリアの出来事について、まだ何も知りませんでした。

秋田の聖母マリアの出来事について知ったのは、東京・三軒茶屋教会の所属になってからです。詳しい経緯は、
私のブログ記事「私と司祭のマリア運動」をご覧ください。

2010年6月12日 (土)

私と司祭のマリア運動

イエスのみ心の月、マリアのみ心の記念日となりました。
今日は、私の20代の前半の頃についての証しをいたします。

私は、東京・中野区で生まれ育ち、都立高校2年の17歳の時にカトリック高円寺教会で洗礼を受けました。(この経緯については、いずれまた分かちあいたいと思います。)その当時、洗礼を受けたばかりの私は、確かに喜びと言い知れぬ解放感と誇りでいっぱいで、希望に満ちていましたが、秋田の聖母の出来事については、何も知りませんでした。叙階されたばかりの幸田和生神父様(現補佐司教)による夜の聖書研究会に1年間通っただけで洗礼を受けました。そのことは後悔していません。学びはとても楽しかったですし、洗礼への望みは高まっていました。洗礼の時期は主の摂理であり、正しかったと思います。しかしまだ、ミサの本当の価値や聖母マリアについて、つまりカトリックのカテキズムについて、よくわかっていませんでした。

はじめて秋田の聖母のことについて知ったのは、社会人になってすぐに仕事の都合で世田谷区の駒沢にアパートを借り、三軒茶屋教会の所属になってからのことでした。三軒茶屋教会は、歴史的にフランシスコ会ローマ管区のイタリア人司祭たちが担当している教会でした。(現在は、ローマ管区のイタリア人司祭は帰国し、日本人のフランシスコ会士が担当しています。)主任司祭のイタリア人司祭、エヴァンジェニオ・ピンチ神父様と、ローマに留学されていた助任司祭の小平正寿神父様は、司祭のマリア運動の会員でした。この三軒茶屋教会で、私は司祭のマリア運動のこと、秋田の聖母の出来事について、そしてロザリオの祈りについて、初めて聞かされたのです。

私が三軒茶屋教会に初めて行った日曜日、それは、ちょうどピンチ神父様が亡くなられて葬儀ミサが行われた直後の最初の日曜日でした。私は今でも、マリア様とピンチ神父様が私を三軒茶屋教会に呼んでくださったのだと思っています。後任には、快活なイタリア人司祭、声楽家であり、オペラ歌手のように歌のうまいジョバンニ・プッチ神父様が着任されました。

私は、それまで修道司祭に会ったことがなかったので、強い印象を感じ、とても感激しました。そして、敬愛する聖人であり、私の洗礼名でもあるアシジのフランシスコの霊性について、在世フランシスコ会に顔を出して学びました。その頃、小平神父様から、司祭のマリア運動の預言の本、「聖母から司祭へ」の分冊版をいただきました。

私は、この簡素で魅力的な青い表紙の本に、引きつけられました。聖霊の導きであったと思います。そして、ゴッビ神父様に伝えられた気高く優しい甘美で観想的な聖母のメッセージに強い衝撃を受けました。私の信頼するローマ管区の司祭たちが信じているこの預言について、疑うことは必要ありませんでした。その当時、毎日繰り返し繰り返し、この本を読み返し、ロザリオの祈りを覚え、祈り始めたのを記憶しています。

私は、司祭のマリア運動を通して、聖母の汚れなき御心への奉献の道を知りました。
私は、修道司祭たちに出会い、司祭のマリア運動のメッセージを知ったことで、霊的生活を志すようになっていました。それまでのいいかげんで、すぐに主を裏切る私には考えられないほど(洗礼は自分で望んで受けたのですが)、回心と祈りの生活の必要性を感じ始めていました。そして、当時のマリア運動の本部、北海道の札幌・円山教会の林忠実神父様に名前を届け、司祭のマリア運動の賛助会員になったのです。

この最初の頃、私はひとつの夢を見ました。寝ていて見た夢です。詳しいことを書くことは控えますが、マリアの汚れなき御心の勝利に関する夢です。夢の中で、額に入ったマリアの汚れなき御心の御絵が高く掲げられました。私は、この夢の印象をはっきりと覚えていて、現在までマリアの汚れなき御心の勝利を深く確信するひとつの霊的な根拠となっています。

これが、私の聖母のけがれなき御心への奉献の道の始まりです。あれから、20年以上が過ぎました。
私の人生はとても紆余曲折があり、自分の思うようにいかなかったことも多いのですが、マリアの汚れなき御心への奉献による霊的保護が、どんな障害やつまずきがあっても、私をいつも守ってくれてきたと感じています。マリアの汚れなき御心は、確かに、私の信仰生活の守り手、霊的避難所となっていました。

そして、この三軒茶屋教会の友人から、秋田の聖母の奇跡についてはじめて聞き、安田神父様の著書、「秋田の聖母マリア」を読むようにと勧められたのです。そして、司祭のマリア運動のゴッビ神父様が秋田に行かれたことも知りました。

私が初めて秋田を訪れたのは、この頃でした。「秋田の聖母マリア」を読み、このような奇跡が日本で起きたということに驚き、感激し、どうしても巡礼に行きたくて、ひとりでレンタカーを借りて夜中に秋田に向かいました。そして、夜通し走り続けて、霧の深い早朝に秋田に着きました。夜が明けるのを待って湯沢台に到着してみると、ちょうど、マリアの家で姉妹の皆さんが巡礼者と一緒に朝食をとっているところでした。当時の会長、柏木さんがあたたかく出迎えてくれました。今でも、はっきりと覚えています。
そして、当時はまだ残っていた、最初の修道院の奇跡の起きた小聖堂で、マリア像と初めて出会いました。

マリアの家に司祭のマリア運動の本、「聖母から司祭へ」が置いてありました。
秋田の出来事と司祭のマリア運動は、マリアの霊によって結びついていました。

ゴッビ神父様が1987年9月15日(悲しみの聖母の記念日)に秋田・聖体奉仕会を訪問して行われたメッセージと、1993年9月15日(悲しみの聖母の記念日)に東京カテドラル・聖マリア大聖堂で行われたメッセージは、秋田の出来事とその預言についての、ひとつの霊的解釈となっています。メッセージの全文については、司祭のマリア運動・預言集(完結編)に収録されています。司祭のマリア運動日本支部から、メッセージの転載は許可されていませんので、(ミラノの本部の意向ということです。)ここには掲載できませんが、日本支部に申し込めば、預言集は手に入れることができます。

司祭のマリア運動のマリアの汚れなき御心への奉献の道は、司祭だけでなく、信徒にも賛助会員の道が開かれています。司祭のマリア運動の日本支部に登録を申請してください

司祭のマリア運動の祈りの集い(チェナクルム)は、新しい聖霊降臨の到来を嘆願するマリアと教会の声です。
最初の高間の集い(使徒言行録2章)のように、マリアと共に皆でロザリオを祈りながら、新しい聖霊の到来を願うのです。

「聖霊よ、おいでください。あなたの最愛の花嫁、マリアの汚れなき御心の力強い御取次ぎによって、おいでください。」
                                        (司祭のマリア運動・チェナクルムの祈りより)

2010年6月 6日 (日)

聖体と秋田の奇跡について

イエスのみ心の月、キリストの聖体の祭日となりました。
今日は、秋田の聖母を愛する私たちにとっては、特別に心をこめて記念すべき祭日ですね。

皆様ご存知のように、秋田の奇跡が起きたのは、御聖体にうちにまことにおられるイエスの聖心(みこころ)に捧げられた在俗修道女会、聖体奉仕会でのことです。聖体奉仕会は、第二バチカン公会議の意向に添うようにと望み、日本でのカトリック信仰の土着化を目指して日本人によって結成された、新しい在俗会でした。秋田市郊外の湯沢台の丘の上にある本部は、その観想部です。

会の設立者である故伊藤庄治郎司教様は、1973年6月24日のキリストの聖体の祭日に聖体奉仕会を訪問された際、「この会は、聖体に奉献された集いであり、聖体の中におられるイエスの聖心への信心を特に深めることが必要です。」と、会の精神について説かれたことが安田神父様の著書に記されています。

主なる神は、この聖体に奉献された、新しい小さな集いを選んで、奇跡の数々を行われました。
そして、特に注意すべきことは、一連の奇跡のはじまりと終わりに、御聖体のうちにまことにおられるイエスの聖心の栄光と力が現われていることです。

奇跡の始まりは、1973年6月12日、笹川姉妹が修道院の留守番を頼まれ、聖堂の聖櫃を開けて御聖体のイエス様を礼拝しようとした時、突然聖櫃からまばゆい不思議な光が現われ、それに圧倒されて射すくめられたことです。それから、一連の数々の奇跡が起きていきました。そして、奇跡の最後は、1982年5月30日、聖霊降臨の祭日に、天使の予告通り、聖体賛美式の最中、御聖体による祝福の瞬間に、笹川姉妹の全聾の耳が癒しを受け、聴力が回復したことです。この聖体の祝福の奇跡によって、一連の奇跡は終わりました。この御聖体のうちにまことにおられるイエスの現存の偉大な力と栄光の現われによって、秋田の出来事は終わったのです。

1973年7月6日の聖母マリアの最初のお告げでは、聖体奉仕会の祈りの中の、「御聖体のうちにましますイエスの聖心よ」という箇所を、聖母が「”まことに”まします」と付け加えるように導かれました。それは、その後に起きる御聖体におけるイエスのまことの現存の偉大な奇跡を、前もって暗示するかのようでした。

このように、秋田の奇跡は、聖体に奉献された聖体奉仕会の招命と使命にも、明らかに密接に結び合わされています。聖体奉仕会を選ばれたことは、三位一体が望まれた摂理です。

故伊藤司教様が起草された、聖体奉仕会の祈りを下記に記します。

「御聖体のうちに“まことに”おられるイエスの聖心よ、
一瞬の休みもなく、全世界の祭壇の上に犠牲となられ、
御父を賛美し、御国の来たらんことをこいねがう、
至聖なる聖心に心を合わせ、
わが身も心も全く御身に捧げたてまつる。

願わくは、わが貧しき捧げを受けとり、
御父の光栄と霊魂の救いのために、
御旨のままに使用したまわんことを。
幸いなる御母よ、御身の御子より引き離されるを許したまわざれ。
御身のものとして守りたまえ。アーメン。」

この謙遜で荘厳な素晴らしい奉献の祈りは、現在、翻訳され、「秋田の聖体の祈り」として世界で知られています。
第三のお告げによって、緊急の回心の必要性と教会の分裂と堕落の危機を訴えられた聖母は、前もって最初のお告げで聖体奉仕会の祈りの”まことに”という言葉を強調されることによって、一致と愛といのちの源である聖なる秘跡、御聖体のうちにまことに生きておられるイエスの愛深い聖心への確信に満ちた信仰と愛が、この危機的状況を回避する鍵のひとつとなることを示しておられるかのようです。

私は、種々の事情により、1995年の2月の初めにフランシスコ修道会を退会した後、2月11日(ルルドの聖母の記念日)から翌年の2月11日までの一年間、聖体奉仕会の宿泊施設であるマリアの家に寄宿し、聖体奉仕会の奉仕と労働のお手伝いをさせていただきました。秋田で暮らした日々は、私の素晴らしい大切な思い出です。毎日のミサと祈りに参加し、毎日、この聖体奉仕会の祈りを唱えました。それ以来、この祈りは、私の日常の祈りとなりました。御聖体訪問の時に、必ずこの祈りを唱えます。御聖体の前でこの祈りを唱える時、私たちは聖体奉仕会の使命と奉献に結ばれています。

最近、聖体奉仕会の準会員(信徒会員・男性も女性も登録できました。)制度が、種々の事情により新規に募集や登録を行わないようになったと聞きましたが、聖体奉仕会の準会員か、そうでないかに関わらず、御聖体の前でこの祈りを唱えるなら、聖体奉仕会の奉献に、いつも霊的に一致していくのではないでしょうか。この祈りを御聖体の前で唱える人は誰でも、聖体奉仕会の霊的ネットワークを生きていると言えるでしょう。聖体奉仕会の使命に、この祈りによって一致すること、それはすなわち、御聖体のうちに”まことに”おられる御子イエスへの、御母マリアの思いに応えることです。

分裂と堕落と不信仰と滅びへの隷属から私たちを解放する為に、秋田の奇跡は起こりました。
奇跡の地・湯沢台の丘には、御聖体のうちにまことに生きておられるイエスのこの言葉が響いています。

「父よ、あなたがくださった栄光を、私は彼らに与えました。
私たちがひとつであるように、彼らもひとつになるためです。」 (ヨハネ福音書 17章22節)


2010年5月31日 (月)

秋田の聖母マリアのホームページについて 

聖母月の最後の日、聖母の訪問の祝日となりました。

皆様の中には、この5月、秋田の聖体奉仕会に巡礼に行かれた方も、おられるのではないでしょうか。秋田の清涼な新緑の5月の美しさは、格別のものがあります。聖母月の巡礼は、きっと多くの恵みと祝福を巡礼者にもたらしてくれたことでしょう。

さて、私の公開している「秋田の聖母マリア」ホームページは、2004年の開設から6年目に入り、頻繁に更新しているわけではありませんが、順調に訪問者が増えてきました。

英語ページを公開していることで、日本からだけでなく、海外からのアクセスがとても多いです。現在は、全世界から平均で毎日150人ほどの訪問者(visit)があります。この5月だけでも、全世界80カ国からの訪問者がありました。中心はアメリカからですが、全世界のカトリック圏や英語圏、その他の意外なほど多数の国々からも頻繁にアクセスがあり、少数ですがロシアや中国からの訪問者もあります。また、世界各国からE-mailで問い合わせやメッセージなどが送られてきます。まさに、秋田の聖母マリアは「全ての民の御母」であることが証明されています。

さて、「秋田の聖母」のことを英語で「Our Lady of Akita」と言いますが、
イタリア語では「Nostra Signora di Akita」、フランス語では「Notre-Dame d'Akita」、
スペイン語では「Nuestra Señora de Akita」、ポルトガル語では「Nossa Senhora de Akita」、
オランダ語では「Onze Lieve Vrouw van Akita」、ポーランド語では「Matki Boskiej z Akita」、
韓国語では「아키타의 성모」などと言うそうです。

これらの各言語をコピー&貼り付けして、Googleで検索してみてください。各言語で製作された秋田の聖母マリアに関するWebサイトをいくつも見ることができます。それぞれの国に、それぞれ特色がありますが、伝えていることはだいたい同じです。故伊藤司教様の書簡の全訳などが掲載されているものもあり、また笹川姉妹の写真などを掲載しているものもあります。

Googleツールバーの翻訳機能を使って、Webサイトを日本語に翻訳すれば、読めない言語でも、おおまかな意味は把握できるでしょう。この機能を使って翻訳した結果、ポーランドでは、安田貞治神父様の著作「秋田の聖母マリア」が、ポーランド語に翻訳されて出版されていることがわかりました。英語版からの翻訳だそうです。

このように、秋田の聖母マリアの出来事は、教区司教認可の奇跡の巡礼地として、世界中に知られているのです。

2010年5月30日 (日)

三位一体の主日に

101 New Life Networkのフランシスコです。

これから、このブログを使って、秋田の聖母マリアの奇跡について私が感じていること、考えていること、体験談、「秋田の聖母マリア」ホームページを運営する日々の出来事、そして日々の信仰生活の分かち合いなどを記録していきたいと思います。更新は無理をせず、聖霊の導きに委ねます。このブログは、私の信仰の証しであり、読んでくださる皆さんへの分かち合いであり、私の人生の証しにもなると思っています。よろしくお願いいたします。

このブログを、聖マリアの汚れなき御心を通して、私たちの愛する主なる神、父と子と聖霊に捧げます。


「秋田の聖母マリア」ホームページ

http://www.newlifejm.net/japan_top.html