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御礼-3 午後の出来事
 昼食の後にシュエラが連れだされたのは屋外だった。
「今まで二人で散歩したことがないからな。シュエラが以前よく行っていた場所へ案内してくれ。洗濯場とか?」
 シグルドは唇の片側を上げてにやり笑う。
 そういう魂胆! だからあのにやにや笑いだったのね!
 そのつもりなら……と、シュエラはつとめて優雅ににっこりと笑った。
「それではとっておきの場所にご案内しますわ」

 東館裏の細い路地にやってきたシュエラは、目隠しのための茂みの合間を見つけ、シグルドを招き寄せる。
「そこからご覧いただけるのが洗濯場の入り口です。彼女たちに気付かれないよう、静かになさってくださいね。国王陛下がお越しになったと知れば、彼女たちは仕事の手を止めて陛下が移動なさるまで頭を下げ続けなければならなくなりますから。
 ですからここで説明いたしますわ。中は半地下になっていまして、その中でたくさんの女性が洗濯物をこうしてもみしだいたり、足で踏んだり、棒で叩いたりして、洗濯物の汚れを落とします。ここからではちょっと見えにくいのですが、向こうの方に物干し場があります。物干しの場所を増やしてくださってありがとうございました。みなよろこんでいるとカチュアとフィーナが報告してくれましたわ」

 次は本館裏、調理場の入口が見える茂みの影に移動する。
「あそこが調理場です。わたくしは一度だけ入口からのぞいただけですので奥の方はどうなっているのかわかりませんが、手前の方では野菜の皮を向いたり食器を洗ったりできる場所があったように思いますわ。
 ……うまやも行ったことがございますけど、ご覧になられますか?」
「……いや、いい」
 二か所案内しただけなのに、シグルドは降参してしまう。
「何故そなたは、余も知らなかったこういう場所を知っているんだ?」
 人が多い場所では、シグルドは以前の口調に戻る。だからシュエラも丁寧な口調に戻す。
「人が生活するためには必要なことですもの。誰がどのように行っているのか知りたくて、散歩をしながら探したのですわ。陛下も幼少のころはよくお庭でかくれんぼなさっていたのでしょう? こういった場所はご存じではなかったのですか?」
「人の気配のする場所には近寄らなかったのでな」
 それはそうか。シグルドは大人たちに見つからないようにと、隠れていたのだから。
 シグルドは苦笑しながら言った。
「お気に入りの庭があると聞いている。そちらへ案内してもらっていいか?」
「かしこまりました」
 シュエラは満足そうに笑って答えた。

 西館南側の庭は、シュエラも久しぶりに訪れた。
 元王太子が現れて以降、いろいろあってなかなか来られなかったからだ。
 広々とした庭には高木がなく、あいかわらず咲き乱れる色とりどりの花々が遠くの方まで見渡せる。
 なつかしくもあるこの光景に、シュエラはほぅとため息をもらす。
 その隣でシグルドは、何故か不機嫌そうに眉間にしわを寄せていた。
 気付いたシュエラは、傍らに立つシグルドを見上げる。
「あの……どうかなさいましたか?」
「……嫌なことを思い出した」
「え? 何をですか?」
 もしかしてシグルドを案内してはいけなかった場所に連れてきてしまったのだろうか?
 不安になって見ていると、シグルドはお付きの人々を遠ざける。離れた人々は、侍従と侍女はひとかたまりに、近衛たちは周囲に散らばったのを確認したところで、シグルドはシュエラを見ずに声をかけてきた。
「ここでエイドリアンと密談をしていただろう?」
 密談?
 ここでエイドリアンと話した覚えはある。侍女になりたいと言ってシグルドに怒られた、翌日のことだ。
 シュエラは戸惑いながら答えた。
「相談はしましたけど、密談というほどのことは……」
 シグルドはシュエラの方を向いて、真剣な目をして訊いてくる。
「何を相談してたんだ?」
「ずいぶん前のことですけど、お聞きになりたいのですか?」
「聞きたい」
 シグルドが聞き分けのない駄々っ子のように見えてきて、シュエラは内心苦笑しながら話した。
「あの日の前の晩に、シグルド様に侍女になりたいと申し上げて叱られてしまいましたでしょう? そのことについて相談したんです。そうしましたらエド兄さまに妾妃の座を返上するのはむずかしいのではないかと教えられました」
「難しい? どういう理由で?」
「一つは妾妃であることをやめて侍女になったら、身分を落とすことになるからつらいことになるって言われたんです。もう一つは……」
「何だ?」
 一つだけにしておけばよかった。
 言いづらいけれど、ここまで言ったからには言わないわけにはいかないだろう。
「……一度結ばれた男女はいつ復縁するかわからないから、公式の場以外では会えない状況を作れなければ、妾妃の地位を返上するのは難しいだろうって」
 もじもじしながら答えると、シグルドはうれしそうに口元に弧を描く。
「わかっていたのだな、エイドリアンには。おまえを諭してくれて助かったよ。……もしエイドリアンにおまえを下げ渡すと言った俺の言葉を利用されたとしたらと思うと、今さらながらぞっとする」
 話しながらまた不機嫌になっていくシグルドに、シュエラはとうとう吹き出した。
「エド兄さまがそんなことをするわけがないですわ。“おまえを下げ渡されるなんてごめんだよ”って言っていたくらいですから」
 当時のことを思い出してシュエラはくすくす笑っていたが、シグルドの様子がおかしいのに気付いて笑うのをやめる。
 何故か怒っている。かなりの形相をして。
「──エイドリアンはどこだ? 叩き切ってやる」
 剣の柄に伸びた手を、シュエラは慌てて押さえる。
「何で怒ってしまわれるんですか!?」
「シュエラを下げ渡されるのはごめんだと!? シュエラのどこが不満なんだ!」
「ですから! それはちゃんと陛下とお話ししなさいって言ってくれたエド兄さまの心遣いなんです! たった今、わたくしをエド兄さまに下げ渡すことにならなくてよかったと言ってくださったじゃありませんか!」

 剣を抜こうとしたシグルドに気付いて、近衛たちが急いで集まってきた。それを、片手を上げて何でもないと知らせ解散させたシグルドは、腑に落ちない様子でシュエラに問いかける。
「おまえをいらないと言ったことが気遣いだと?」
 多少落ち着いたシグルドにほっとして、シュエラは表情を和やかにゆるめつつ答えた。
「はい。多分エド兄さまはわたくしがちゃんと陛下に向き合えるように、逃げ道をふさいでくれたんだと思います」
 あのときは途方に暮れた気分になったけれど、そのおかげで怖い怖いと思いながらもシグルドと話す覚悟ができた気がする。
 それに、今のシグルドの目。
 シュエラはふふっと笑い声をこぼした。
「……何だ?」
 むっとしたシグルドに、シュエラは笑いを押さえながら言う。
「あのとき、エド兄さまに“陛下の目を見たことある?”と訊かれたんですけど、その意味がようやくわかったんです」
「どういう意味だ?」
 シュエラはにこやかに答えた。
「エド兄さまのことで怒られたときと、わたしがここでエド兄さまと話をしているときに走って来られたときと同じ目をしてらっしゃいました」

 今の目も、あのときの目も、怒っていたのはシュエラを想ってくれるがゆえだ。
 理由がわかれば、もう怖くはない。むしろうれしい。

 シュエラの言葉を聞いたシグルドは、一呼吸分時間を置いてからかーっと顔を真っ赤にした。その目元を片手で隠し、顔をそむけようとする。
 回り込んでしげしげと見ようとしたシュエラを、シグルドはシュエラの肩を片手で押してさえぎった。
「……見ないでくれるか?」
「え? わたしは見たいんですけど、ダメですか?」
「何でこんな顔を見たがるんだ……」
 げんなりした声に、シュエラは愉快さ半分で答える。
「そんなお顔をされるのを見たのは初めてなんですもの」
 いつもは照れているシュエラの顔を、シグルドがいじわるをするようにのぞき込む。けど、逆の立場になってみてわかった。
 好きな人のどんな表情も、見逃したくなかったからなのね。
 だからといって、好きな人に恥ずかしがっている顔を見られたいと思えるわけではないけれど。

 近づいてくる侍従の姿に気付き、シュエラはシグルドから一歩離れる。
 そういえば、離れてもらっているけれど、みんな見えるところにいるのだったわ。
 さきほどまでの自分の行動が恥ずかしくなり、シュエラはシグルドの影で顔を真っ赤にする。
「お部屋の移動作業が終了いたしました」
「そうか」
 侍従の報告に、シグルドはほっとしたような声で答える。

 シグルドはすたすたと歩き出したけど、シュエラは動き出せなかった。
 ついてこないシュエラに気付き、シグルドは立ち止って振り返る。
「どうした?」
「いえ、何でもありません」
 シュエラは笑顔でとりつくろい、シグルドに早足で追いついた。


 王妃の間は、北館の一階にある。
 今までの部屋よりさらに広い。壁紙や家具、柱などに施された金の装飾品も真新しい。
「今日からここがおまえの部屋だ」
 そう言ってシグルドは部屋の中の案内を始めた。
 美しい部屋だった。シュエラにはもったいないくらいに。ありがたいと思うのに、どうしても感謝の気持ちを上手に表せない。
 大急ぎで部屋を整えてもらったのに、シグルドが何度も足を運んで作業の指揮を取ってくれたというのに。
「ここは更衣室だ。今までは寝室で着替えていたが、これからは二人で寝室を使うことになるからな。──シュエラ?」
「──あ、申し訳ありません。素敵なお部屋です。ありがとうございます」
 うつむいた顔をのぞきこまれる。
「少し疲れたか? 散歩にしては歩き回りすぎたからな。用意もできたようだし、お茶にしよう」
「……はい」
 上手く反応できなかったのは、疲れていたせい。シュエラは自分にそう言い聞かせていた。


 お茶の後、今日の仕事を片づけてくると言って、シグルドは部屋を出ていった。
 複数の足音が遠ざかっていき、シュエラは安堵をおぼえる。
 そこにカチュアがどかんと怒った。
「何ためいきなんかついてるんですか!」
 え? ため息なんかついてた?
 シュエラは慌てて口元を押さえ、カチュアの方を見る。カチュアは眉を吊り上げていた。
「シュエラ様は感動が薄すぎます! こんなに豪華な改装をしてもらって、何がご不満なんですか!?」
「カチュア!」
 立て続けに言うカチュアに、マントノン夫人の咎める呼びかけがされる。
 カチュアは「やってしまった」というように、首をすくめて黙る。マントノン夫人はシュエラの前に立って言った。
「どうなさったのですか? さきほどから少しふさぎこんでいらっしゃるご様子ですね。何か気がかりなことがございましたら、承らせていただきます」
 何でもないと言いかけて、シュエラは口を閉ざした。
 お茶の席でいつものように会話を続けられないでいて“何でもない”では白々しいだろう。
 シュエラはたどたどしく胸の内を打ち明けた。
「それが、よくわからないの……」
「よくわからない、でございますか……」
 マントノン夫人から困惑した声が返ってくる。
「“どれだけお金がかかってるんだろう”なんて思ってらっしゃってるなら、心配ご無用ですよ! 何たって用意なさったのは国王陛下ですよ? 国一番の大金持ちの財布はこの程度のことじゃ痛みませんって!」
「カチュア! 口を慎みなさい!」
「はーい。申し訳ありません」
 カチュアは悪びれず答える。
 叱ったあと再びシュエラに顔を向けたマントノン夫人は、小さく息をついて言った。
「言葉は悪かったですが、カチュアの言う通りでございます。新しい王妃陛下のために室内が改装されるのは慣例です。そのための経費は国費からまかなわれます。国王陛下自らがシュエラ様に贈られたいと思われて、多少の私財を投じてらっしゃるかもしれませんが、それは国王陛下がシュエラ様を愛しておられるからです。遠慮なさらず受け取られた方が、国王陛下はお喜びになられます」
「そう、よね……」
 言われたことには納得できる。なのに心のどこかで何かが納得できない。

 贅沢な悩みだと思う。好きになった人に愛してもらって、妻にと望んでもらえて。
 なのに私は、何が不満だというの……?


   ──・──・──


「早急に処理しなくてはならない案件がまいりました。カルナウィッシュ王国のクレア王女が、もう間もなく我が国内にお入りになるとのことです。その他の招待を予定していた国々からも、参列者が続々とこちらに向かわれています」
 執務室でシグルドを出迎えたケヴィンが、“早急”と言いながら淡々と報告する。
 席に座って報告を聞いたシグルドは、しわを寄せた眉間に軽く握ったこぶしを当てた。
「招待状も送ってないのに、何でまた……」
「エミリア元王妃の差し金でしょうね。シュエラ様を王妃にするため、我が国にプレッシャーをかけるつもりだったのでしょう。それが効果を奏する前に、グラデンヴィッツ帝国によってシュエラ様が王妃になることは確定いたしましたが」
「こうなると、エミリアさんの策は貴族たちにではなく、国王陛下へのプレッシャーになりますね」
 ヘリオットが軽口を言うのでじろりにらみつけると、ヘリオットはすぐさま「失礼いたしました」と頭を下げる。
 シグルドは口に出しながら、やらなければならないことを数えた。
「となると、今すぐにでも国境で出迎える者の手配と、王城でのもてなしの準備をせねばならないな。それとグラデンのグレイス姫も参列予定だから、いつこちらに到着するかの問い合わせと」
「それと結婚式とシュエラ様の戴冠の準備も急がなくてはなりません」
「……そうだな」
 さきほどのことを思い出して返事が鈍る。が、鬱屈うっくつした思いを振り切ってシグルドは指示を出す。
「ケヴィンは出迎えの者の選定を、ヘリオットはカスケイオス殿にグレイス姫の件を問い合わせに行け。トビアス、タルド侯爵とナティエ侯爵をここへ呼べ。コンラッド、招待状作成の準備を」
「かしこまりました」
 四人は声をそろえて返事をすると、それぞれ仕事に向かった。ケヴィンとヘリオット、侍従のトビアスは執務室を出ていく。部屋の中にいたもう一人の侍従コンラッドは、まず下書き用の紙をシグルドの前に差し出し、それから正式な書状に使用するラウシュリッツ王国の紋章の描かれた真っ白い紙と封筒の用意にとりかかる。


 招待状をしたためている最中にタルド、ナティエ両侯爵がやってきて、もてなしに必要なもののリストをナティエ侯爵に、必要経費の算出をタルド侯爵に命じる。
 ケヴィンが選出した案内人となる貴族たちを集めて戻ると、その者たちに招待状を預けて出迎えの大役に任じ、招待客の国内の道中の手配を任せる。

 それらが終わったあとで、ヘリオットからの報告を受けた。
「グレイス姫はすでにこちらに向かわれているそうです。一ヶ月後には到着できる予定でいらっしゃいます」
 ヘリオットに続いてケヴィンも報告する。
「他の招待客たちが揃うのもだいたい一ヶ月後になる予定です」
「では多少余裕を持った日程に式を行うと、国内に布令を出そう」
「かしこまりました」
「あ、一つよろしいでしょうか?」
 ヘリオットが軽く手を上げる。
「何だ?」
「多分、あとになって問題として上がってくると思いますが、招待客たちをもてなすための城勤めの者たちが不足していると思います。特に侍女が」
 シグルドは思い出して顔をしかめる。
 冤罪と、その後のいじめによって激減した侍女の数。侍女の不足を補ってほしいという嘆願は、侍女長より以前から上がっている。
「紹介は回ってこないのか?」
「何件かあるかと思いますが、賓客のもてなしはやはり王城に慣れた者が一番です。そこで辞めていった侍女たちに、一時期だけでも復帰を要請してみるというのはどうでしょう? シュエラ様も彼女たちのことを気にしていましたし、再度雇い入れることが彼女たちの名誉回復につながると思います。許可をいただきましたら、彼女たちの後見をしていた貴族たちを通して打診を入れますが。……陛下?」
「あ、ああ。そうしてくれ」
「かしこまりました」
 シグルドの様子がおかしいことに気付きながらも、ヘリオットは返事をして退室した。


 そのあとにも次々と至急手配しなくてはならないことが舞い込んで、簡単に食べれる物を執務室に運ばせ、それをつまみながら仕事を続けた。
 この忙しさが、今のシグルドにはありがたかった。
 シュエラと顔を合わせて夕食をとっても、今晩はきっと会話が弾まない。

 王妃の間を見せたときのシュエラの反応は、シグルドにとって予想外だった。
 シュエラの好みに合わせたつもりだった。だがシュエラは、懸命にうれしそうな表情を作っていただけのようだった。
 よろこんで欲しかった。だが、無理をしてまでよろこんで欲しかったわけじゃない。

「本日の執務はここまでといたしましょう」
 普段の夕食が終わるのと同じくらいの時間に、ケヴィンが仕事の終了を言ってきた。
「新しい部屋に移られて最初の夜です。シュエラ様もお一人では寂しいでしょうから、ご一緒にいらっしゃって差し上げてください」
 ケヴィンとしては気を遣ったつもりなのだろうが、今のシグルドにはうれしくない。
「ああ……」
 気のない返事をすると、ヘリオットが訊いてくる。
「シュエラ様と、何かあったんですか?」
「おまえ……歯に衣着せず訊いてくるな……」
 侍従たちが出払っているときでよかった。彼らがシグルドにとって悪い噂を広めるとは思わないが、こういう話は聞き耳を立てる者が少ない方がいい。
 そのことがわかっていて、ヘリオットもこのタイミングで切り出したのだろう。
「気心知れた仲だと思って許してください。それで、何があったんですか?」
 シグルドは「む」と口をつぐんで、それからためらいつつぼそぼそと話した。
「シュエラには、どうやら新しい部屋を気に入ってもらえなかったんだ」
「そうだったんですか」
 シュエラに部屋を見せた際に居合わせなかったヘリオットだが、さして意外とも思ってなさそうな様子で相槌を打つ。
「……シュエラの好みは考慮したつもりだ」
「直接好みをお訊きになられなかったのがいけなかったのではないですか? 実はこうして欲しいといった希望を、シュエラ様がお持ちでらっしゃったとか」
 ケヴィンが言う。シグルドもそれが一番の原因のような気がする。
「驚かせようとしたことが裏目に出た、か」
 シグルドは執務机に両肘を突き、重ね合わせたこぶしの上にあごを乗せてうつむく。

 シュエラによろこんでもらおうと一人浮かれていたことは否めない。そのためにシュエラの気持ちをうかがうことを忘れていた。

 ヘリオットが小さく笑い声を上げたのに気付き、シグルドは顔を上げた。
「何だ?」
「失礼いたしました。その、陛下は何か焦ってらっしゃいませんか?」
「どういうことだ?」
「セシールから聞いておりますが、一週間前のあの夜以来、シュエラ様と何もないのでしょう?」
 シグルドはむせかえりそうになる。
「な……っ」
 何で知っている!? という言葉も、知られていたという事実に動転して上手く出てこない。
 ヘリオットは首をすくめて、小さくため息をついた。
「推測ですが、そういう雰囲気に持っていけなくてお困りなのではありませんか?」
 図星をさされ、ぐっと喉を鳴らす。
 シュエラにはそれとない雰囲気を作ろうとするたびにかわされてしまい、あれ以来手を出せずにきてしまった。雰囲気を作るだけだったら、以前の方がよっぽどか簡単だったくらいだ。
「……シュエラに避けられているような気がするんだ。もしかしたらシュエラが俺を好きだと言う気持ちは、夫婦のそれとは違ったんじゃないかと思うことがある」

 だから夢を見る。やっぱりシグルドと夫婦になるのは無理だとシュエラに懇願され、シュエラを実家に帰してしまう夢。真夜中、夢からはっと覚めることもしばしばあって、そのせいで最近の寝起きが悪い。
 今朝のことは本当に寝ぼけてのことだった。意図せず作りだした雰囲気を使って、本気で籠絡ろうらくするつもりだった。……侍女たちが起こしに来て、叶わなかったが。

 ヘリオットが苦笑して言う。
「シュエラ様は陛下と本当の夫婦になられたあとで、プロポーズをお受けになったんでしょう? だったらそれ込みでお受けになったと見て間違いないと思うのですが」
 そうだった。本当の夫婦になった翌朝、本館三階の部屋から景色を見渡しながら告げた──って!?
「何でおまえがそのことを知ってる!?」
 シグルドは思わず立ち上がって、机を両手の平で叩いた。
「これもセシールから聞いたんですよ。本館三階から北館の私室に戻られたシュエラ様に、マントノン夫人が席を外しているうちに、侍女たちが根掘り穴掘り訊いたらしいんです。そのさいにシュエラ様がぽろっとこぼされた話の一つがそれだったとか。“陛下はちゃんとプロポーズなさったのに、わたくしはヘリオット様からプロポーズらしい言葉をいただいてません”ってねられましたよ」
 ヘリオットにあっさり答えられ、シグルドは立ったままこぶしを机の上に置いて突っ伏した。
 ……シュエラに一度、言っておかなければ。侍女たちにもらす話はちゃんと選べと。

 扉がノックされた。
「トビアスとコンラッドです。戻ってまいりました」
「外で話してまいります。わたしはこういう話ではお役に立てませんので」
 ケヴィンが出ていき扉が閉まったところで、ヘリオットが話を再開する。
「きっとシュエラ様の中では、陛下と愛し合いたいという気持ちより、その行為を恥ずかしいと思う気持ちの方が勝っているのでしょうね。
 女性はつつましやかにあれと育てられている分、なかなか恋愛には大胆になれません。特にシュエラ様は恋愛事にはうとくていらっしゃるご様子、陛下の焦る気持ちもわかりますが、ここはゆっくりと愛をはぐくんでいかれた方がよろしいのではないでしょうか?」
 ヘリオットの言っていることはわからないでもない。だが、それをヘリオットから言われるのが何だか悔しくて、シグルドはぼそっと呟きをもらす。
「そう言うおまえのところはどうなんだ?」
「ウチですか? セシールは侍女の経歴も長いですが、その前に貴族の邸でメイドもしていましたからね。恋愛ごとに心得があるようで、頑張って俺に合わせてくれようとしていますよ。……よろしかったら、そういった話をシュエラ様とするように、セシールに言っておきますか?」
 またもやあっさりと返ってきた言葉に、シグルドは脱力感を覚えた。
「……いや、いい」
 シグルドの返答を予想していたのだろう。ヘリオットは苦笑する。
「苦労なさいますね。でも、そういったことで悩めるのは恋愛初期だけなので、存分に楽しんでください」
「それは嫌味か?」
 自分はさも苦労してないというように言ったくせに。
「いえ、大真面目ですよ」
 ヘリオットはいつもの面白がるような笑みを見せず、ケヴィンがシグルドによく見せるような、やさしい笑みを浮かべて言った。


   ──・──・──


 久しぶりの一人きりの食事を終えて、食事の片づけが終わると四人の侍女たちがお風呂の支度にとりかかる。
 食事のワゴンを部屋の外にいる衛兵に任せて湯を運んでくるよう頼むと、四人は風呂場のある扉の向こうに姿を消した。
 そうすると部屋にはマントノン夫人とセシールが残ることになる。
 マントノン夫人が、さきほど入ってきたという話の報告を始めた。
「明日から、クリフォード公爵とブレイス侯爵がご紹介くださった貴族たちとの面会が始まります。この面会はただ会って話をするだけのものではありません。相手の顔とどのような人物なのかを覚えていってください。予備知識もございます。これは長年王城から下がっていたわたくしよりもセシールの方が詳しいので、セシールに訊いてください」
「お役に立てるよう、精一杯つとめさせていただきます」
「よろしくね……」
 歯切れの悪いシュエラの返事に、セシールは表情をくもらせる。
「あの……大変失礼かと思いますが、無理におよろこびにならなくてもよろしいんじゃないでしょうか?」
 何の話かすぐには思い出せず、シュエラは一瞬きょとんとした。すぐにお茶の時間のあとのことだと思い出し、取り繕う。
「そ、そうね。下手なよろこび方をしても、国王陛下にお気を遣わせてしまうだけかもしれないものね」
 シュエラが笑みを作って答えると、セシールの表情も少し明るくなる。
「そうです。シュエラ様のお心に添わないのに無理をなさって気を遣われると、それがだんだん、国王陛下とシュエラ様の間で当たり前のことになってしまうかもしれませんから」
 マントノン夫人がそのあとを続けた。
「そうですね。セシールの言う通りです。気を遣い、遣われた間柄は、とても疲れるもの。そのような関係から始めてしまっては、なかなか本音を口にできず、良好な関係を長く続けられるものではありません。
 お茶の時間のあとに、ご自分の気持ちがおわかりになられないとおっしゃっておいででしたが、そのことを国王陛下に正直にお話しなさってみてはいかがでしょうか。シュエラ様のことを心から愛していらっしゃる陛下なら、きっとご理解くださると思います」
「そうね……」
 侍女たちが戻ってきて、話はそこで終わった。

 それから風呂に入り夜の身支度を整えてもらっている間中、シュエラは悶々と考え続けていた。
 もう一つ、話せなかった悩みがある。
 それはシグルドと話していると何故だか落ち着かなくなって、自分の言動が勝手にシグルドの話を切り上げてしまうことだ。
 落ち着かないというか、……要するに恥ずかしいのだけど。
 恥ずかしいと言えば、以前のしていたことの方がよっぽどか恥ずかしいのに。
 一番恥ずかしかったのが一週間前のこと。
 シグルドの言動から一週間前のことを連想してしまうことがある。
 そうするとシュエラはいてもたってもいられなくなって、満面の笑みで言ってしまうのだ。「それではおやすみなさいませ」と。
 そうするとシグルドも「おやすみ」と言って眠ってしまう。

 恋愛事に無知だったシュエラも、今ならわかる。
 シグルドに求められているのだということを。
 求められるとうれしい。好きでいてくれるからこそ、求めてくれるのだとわかったから。
 でも。

 服を脱いであんなことやこんなことをされると思ったら、恥ずかしくてどーしても逃げ出したくなっちゃうのよ!

 寝支度が終わり、一人寝室に入ったシュエラは、ベッドの端に座って頭を抱えもだえる。
 あんなこと、恥ずかしくなんかない、恥ずかしくなんかない、恥ずかしくなんかない、……。
 何度唱えたところで、恥ずかしさは消えてなくならない。

 それに、今日はもう一つ悩みを抱えてしまった。
 こんなに素敵な部屋をいただいたのに、どうして私は喜べないんだろう。
 カチュアに言われてやっぱり思ったけれど、お金のことが気になってというわけじゃない。身分が上がれば上がるほど、身辺にお金をかけて威厳を保つという理屈はわかっている。
 セシールは無理によろこばなくてもいいんじゃないかと言ってくれたけど、部屋を見せてくれながら振り返ったシグルドの、残念そうな笑みが頭について離れない。
 無理によろこばないことを選ぶなら、せめてよろこべない理由をみつけなくちゃ。


 隣の部屋に物音と、人の話し声が聞こえる。扉越しの小さな声だから何を話しているのかわからないけど、声の一つはシグルドだとはっきりわかる。

 シュエラの胸が痛いほどに高鳴った。
 ほどなくしてこの部屋に通じる扉が開かれるだろう。
 シュエラははじめてシグルドを寝室に迎え入れようとしていた、王城で一番最初の夜のときみたいにどきどきしていた。


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