御礼-2 午前の出来事
シグルドが出ていってすぐ、シュエラの寝室に侍女たちが入ってきた。
「おはようございます」
いつものようにあいさつをして、仕事に取りかかる。
顔を洗い終え鏡台の前に座ると、シュエラの髪をくしけずりはじめたカレンとマチルダが話し始める。
「いよいよ今日でございますね」
「これでようやくシュエラ様が王妃に認められるかと思うと、わたくしも感動で胸がいっぱいです。おめでとうございます!」
「あ、ありがとう」
続けてしまいそうになった言葉を、シュエラは慌てて飲み込む。
それは数日前に口にした言葉だった。
──わたくしはまだ王妃になったわけではありませんのに、王妃の間をたまわってもよろしいのですか?
王妃の間に居室を移す話をシグルドから聞かされた時に、口を突いて出た疑問だった。
戴冠式が行われる前まではシュエラは王妃ではなく、妾妃でありながら王妃の間に移ってもいいものか心配になったのだ。
シグルドは寂しそうな、困ったような顔をしてシュエラに言った。
──シュエラ、おまえはすでに王妃と認められている。俺もおまえ以外の王妃を迎えるつもりは一切ない。貴族たちは戴冠前におまえが王妃の間に移ることを認めた。だから、気にしたりせず移ってくれないか?
そんな顔をされてこんなことを言われてしまっては、「わかりました」と答えてうなずくしかなかった。
どこか釈然としないものを、心の内に隠したまま。
髪を梳き終えると、ベッドの側に移動して着替えが始められる。
ベッドから降りたときに着込んだガウンを脱ぎ、いつもの手順で着替えは進む。
「どんなお部屋になっているか、楽しみですね!」
「──え? そ、そうね」
カチュアに唐突に話しかけられ、シュエラの反応はぎくしゃくしたものになってしまう。
シュエラのぎくしゃくに気付いた様子なく、フィーナが話し始める。
「国王陛下は、内装から調度品まで新しいものにお取り換えを指示なさったんでしょう? シュエラ様に内緒になさりたいからとおっしゃって、わたくしたちも近付けてはくださいませんでしたもの。陛下がそこまでなさったお部屋が、わたくしも楽しみでなりませんわ」
いつもは控えめなフィーナが、今日はよくしゃべる。しかもうきうきと。
うきうきするのはフィーナだけでなく、マチルダとカレンも同じのようだった。
「家具を入れ替えて、壁紙も張り替えられたのでしょう? 国王陛下はよっぽど作業を急がせなさったことでしょうね」
「これもシュエラ様の王妃陛下としての立場を、早く整えられたかったからですわ。お忙しい合間をぬって何度も様子をご覧になられたとかで、
国王陛下は本当にシュエラ様のことを愛してらっしゃるんですね」
カレンがわずかにわざとらしく付け加えた一言に、シュエラは居たたまれない気分になる。
ここ一週間、ずっとこうだ。
シュエラとシグルドがお互いの気持ちに気付かないがために離れそうになってしまったことに気付いた彼女たちは、シグルドがシュエラのためにどれだけ心を砕いてくれているか、事あるごとにシュエラに教えようとする。
が、これがなかなか恥ずかしい。
「こんなに愛されているシュエラ様がうらやましいですわ」
「ホントですわ。ここまでなさる男性の方はなかなかいらっしゃらないんですよ」
口々に言われ、シュエラはたまらず訊いてみた。
「そう言ってくれるのはうれしいのだけど、あなた方は歯──じゃなくて、その、無理をしたりはしてない?」
“歯が浮く”という言葉は、何とか飲み込んでみる。
侍女たちはきょとんとし、お互いに顔を見合わせてからシュエラに言った。
「そんなことはありませんよ?」
「だって、本当のことをお話しさせていただいているだけなんですもの」
不思議そうな顔をして言うカレンに、何やら面白がっている雰囲気を隠しながらにこにこと笑うマチルダ。カチュアとフィーナまでが着付けの手を動かしながら「そうですよ」と言う。
「そ、そう。ならいいのよ……」
言葉を濁し、シュエラは引き下がった。
──・──・──
朝食をシュエラととったあと、シグルドは朝議に向かった。
シグルドの質問にわたわたする貴族たちを面白おかしく眺めながら朝議は終了する。
細かい仕事を片付けようと三階に上がったところで、仕事どころではない騒ぎにようやく気付いた。
シグルドのこれまでの私室は、もとは仮眠室だったものを寝室とし、同じ階にある側近の執務室を休憩場所と衣裳部屋としただけのものだ。
執務室と寝室に人の出入りがあるわけではないが、隣室の荷物を運び出すための人の波は無駄口を叩いてなくても結構な騒ぎだ。
「どうかなさいましたか?」
立ち止ったシグルドに、背後に従っていたケヴィンが声をかける。
「いや……かなりおおごとになっているようだな」
「そうですね。衣装などかなりの量が運び込まれていたので、容易に片付かないでしょう。……しかし、これだけ騒がしいと執務に集中できそうもありませんね」
引っ越しで慌ただしい部屋からヘリオットが出てくる。
「部屋の移動はどのくらいで済みそうだ?」
ヘリオットは今出てきた部屋をちらと振り返りながら答える。
「午後の半ばまでかかりそうですね」
「わかった。その時間まで執務は取りやめにする。──差し迫った案件もないだろう?」
少し後ろを見て問うと、視界の端にケヴィンがうなずく姿が見えた。
「今のところはございません」
「では、余は──王妃のところへ行ってくる」
「ケヴィンは置いて言ってもらえますか? それと、王妃陛下は北館の談話室においでとのことです」
笑いを噛み殺すヘリオットをじろり一瞥し、シグルドはケヴィンにあとを頼むと言って階段を降り始めた。
北館の談話室とは、エミリアがよく好んで使っていた部屋だ。
外に面した壁が柱の部分を除いて天井まですべてガラス窓がはめ込まれており、そのため外からの光がいっぱいに差し込み、他の部屋よりも明るい。
ノックをして入室した部屋は、エミリアが使っていた時と同じように、だだっ広い部屋の真ん中にテーブルが置かれ、新しい部屋の主がシグルドの訪れと聞いて慌てて立ち上がろうとしているところだった。
「そのままでいい」
声をかけたはいいがすでに遅く、シュエラは椅子からすっかり立ち上がってしまっていた。シグルドがテーブルの側まで来るのを立ったまま待っている。
シグルドがもう一つの椅子に腰かけるのを待って、シュエラも座りなおした。
「何をしているんだ?」
「さきほどレナード様からの書状が届いたので、お返事をしたためているのです」
「またきたのか」
シグルドのうんざりした受け答えに、シュエラはあいまいな笑みをこぼす。
グラデンヴィッツ皇帝レナードはシュエラの後見の一人であり、手紙のやり取りをするのはおかしいことではない。
だが頻繁すぎる。
シグルドとシュエラの不仲が解消されたのを見計らったようなタイミング。それから毎日のように届いている。
何通も何通も。
「何を書き送ってきてるんだ」
ぶつくさつぶやくと、それをシュエラは質問と受け取って答える。
「他愛もないことですわ。夫婦生活はどうかとか」
「──!」
シグルドはむせ返ってしまいそうになる。
「どうかなさいましたか?」
小首をかしげるシュエラに、シグルドは空咳でごまかしながら言った。
「──何でもない。どう返事を書いたんだ?」
「円満に過ごしていますと書きましたけど?」
シュエラは気付いてないようだが、その夫婦生活とはあっちの話だろう。
「……手紙を読ませてもらってもいいか?」
「はい、どうぞ。皇帝陛下もシグルド様がお読みになりたいとおっしゃられましたらお見せするよう、書き添えてらっしゃいますし」
嫌な予感を覚えつつ、渡された手紙に視線を落とす。
案の定、解釈を変えれば“夫婦生活”を連想させる単語があちこちに並ぶ。
あンのエロじじい……!
シグルドは心の中で悪態をつく。
国境で緊迫した交渉をしている最中にも、シュエラの体がどうとか言ってきた人物だ。下世話なのはもとからなのだろう。
そして締めの一言には思わず手紙を握りしめてしまった。
『シグルドに愛想が尽きたら帝国で嫁入り先を世話してやる』
そうならなくていいようにとシグルドが奮闘したことを、あざ笑うかのようだ。
怒りに震えるシグルドに、どこを読んでいるのか気付いたのだろう、シュエラが気遣わしげに言う。
「あの、最後の言葉はあいさつ代わりの冗談なのだと思います。いただく手紙には必ず書き添えられていますので」
「……俺も手紙を書いていいか?」
「あ、はい。陛下に筆記具のご用意を──」
「いや、すぐに書き終わる。紙とペンを貸してくれ」
シグルドは紙をもらいペンを借り、差し出されたインクつぼにペン先をひたしたあと、紙にでっかく書きなぐった。
『余計なお世話だ。くそじじい』
シュエラはそれを見て目を丸くする。
「陛下は達筆でいらっしゃいますね」
目がいったのはそっちか。
そういえば、シュエラに自分の書いた文字を見せたのはこれが初めてだったか。苦笑しながらシグルドは答える。
「文字は人柄を現すと言われて、幼いころから散々鍛えられたからな」
シュエラはうっすらと頬を染め、うつむいた。
「わたくし、お恥ずかしいです。文字を書くのが上手くなくて」
シュエラの手元の書きかけの手紙には、少し不揃いだけど柔らかいラインの文字が並んでいる。
シグルドはシュエラの顔をのぞきこむようにして言った。
「女性らしくてかわいいじゃないか。俺は好きだぞ」
「そ、そうですか?」
シュエラは少し目を上げて、恥じらうように肩をすぼめる。
シグルドが書いた手紙を渡された侍女は、吸い取り紙を当ててから、困惑顔で内容とシュエラを交互に見比べていた。
それに気付いたシュエラが遠慮がちに言う。
「それで、あの。この手紙を本当に送ってしまっていいのですか?」
「かまわないさ。──レナードは面白がりだから、泣いて喜ぶだろう」
「そう、なのですか……?」
「ああ」
シュエラの戸惑う声に、シグルドはふてくされつつ返事する。
……これを見て一瞬目を丸くし、それから腹を抱え涙をちょちょぎらせながら大笑いするレナードの様子が目に浮かぶようだ。
廊下に続く扉がノックされた。
扉に近寄った侍女が、扉の向こうに声をかける。
「どなたですか?」
「そろそろお時間ですので、昼食をご用意してもよろしいか、伺いにまいりました」
扉の向こうから聞こえてくる声は元気よく、部屋の中央に居ても内容が聞き取れた。
シュエラは驚いた声を上げる。
「もうそんな時間なの?」
扉と手元を見比べるしぐさに気付いて、シグルドは訊いた。
「あとどのくらいだ?」
「もう少しで書き終わります」
「なら書き上げてしまうといい。──ゆっくりと用意するよう伝えてくれ」
「かしこまりました」
扉の前に立った侍女は、外にシグルドの言葉を伝えた。
シュエラは思案しては文字をしたためるを繰り返し、やがて手紙を書き終えた。それをテーブルの脇に立つ侍女に渡したところを見計らって、シグルドは声をかける。
「シュエラ、おまえの午後の予定はどうなっている?」
「今日は空いていますわ。ここ最近ずっと勉強のし通しだったので、マントノン夫人がお休みにしてくれたのです」
予定が入っていたら断りを入れてもらうところだったが、手間が省けた。
シグルドはにやり笑う。
「なら昼食のあと付き合ってほしいところがある」
シュエラは小首をかしげた。
「どこですか?」
「どこだと思う?」
質問を返すと、シュエラは苦笑した。
「どこへお連れくださるのか、楽しみにしていますわ」
シグルドはぼそっとつぶやいた。
「……楽しみなのは俺の方なんだけどな」
「え?」
「いや、何でもない」
シグルドは楽しそうに笑いをかみ殺した。
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