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6-12 はじめての夫婦(?)喧嘩
 皇帝レナードの質問の中に、わずかに比重の高い内容がある。
 だが、今は引っかかりを覚えるという程度でしかない。そこから真意を予測しぶつけるには心許ない。
 まだ足りない。それでも。
 一週間後までには何とかするつもりだった。


 好きなところに案内すると言ったせいか、視察に訪れた帝国の者たちは実にさまざまな場所に行きたがる。
 この日は屋上に登りたいと言われ、シグルドは城壁の上を案内していた。
「おー。ここからですとレシュテンウィッツ王国全体が見渡せますね」
 文官らしきひょろっとしたこの男は、物見遊山のように手すりから身を乗り出して、手で作ったひさしの下から遠くをながめる。
 何の視察に来ているのか問いたくもなったが、まずは当たり障りのない受け答えに留めておいた。
「ここは高地で、レシュテンウィッツ王国は盆地であるからな。周囲を囲む山脈から流れ込む川によって、かつては緑豊かな土地であったと聞く」
「それをご覧になられたことはなかったのですか?」
「ないな。余が初めてここを訪れたときには、レシュテンの地は大半が焦土と化していた。それでもわずかばかりは緑の農地もあったものだが、──今は見る影もない」
 かつては、領土のどこもかしこも農地という、豊かさの象徴のような国だった。その富を我が物にしようとしたこの国の王位継承者たちや周辺各国によって国土は蹂躙され、緑の大地は失われた。
 この広大な大地が回復するのにどのくらいの歳月を必要とするか。その間の民の暮らしをどうやって支えていくのか。誰がどうやって治めていくのかわからないからこそ、この国の未来は全く見えてこない。
「何か考えていらっしゃいますか?」
 帝国の男はいつの間にか遠くを眺めるのを止め、にこやかな笑みに探るような視線を隠してシグルドの方を向いている。
 シグルドは憂う気持ちを隠すことなく、考えていたことを口にした。
 男の視線がわずかに鋭くなった。
「シグルド国王陛下は、この国に回復の見込みがないとお思いになられたから、レシュテンから軍を引きあげられたのですか?」
「以前カスティオスにも話したが、我が国に戦争の種を残したくなかったから引きあげたのだ。それでも納得いただけないのなら戦略的な話をしよう。下の方を見るとよい。──レシュテンの地は田畑を切り開きやすい平らな土地であるために、障害物になるものがほとんどない。川も細く、障害にはならない。戦争では、障害物を自軍の守りとして活用するが、なければ作るか、兵士たち自身を防壁とせざるをえなくなる。どちらも多大な浪費だ。
 引きあげようとする我が軍を執拗に追う軍もあって、わずかばかりの土地を突貫で作り上げた防衛線であくせく守っているより、一番堅牢なこの防衛線に戻ってくる方が我が国の利になると判断してのことだった」
 シグルドは男の隣に立って下を見下ろす。
 城壁の中で一番高いここは、二週間前の交戦でシグルドが指揮をとった場所だ。
 そのとき防衛線となった壕はすっかり埋め立てられ、地肌の色の違いだけがその名残を残している。

 その中央、出入り口として掘らなかった場所を、目を引く一団がちょうど通り過ぎたところだった。
 兵士たちが取り巻く中央を、女性が二人歩いている。一人は紺色でひざ丈のワンピースを着ていて、もう一人は足首まである若草色のドレスを身にまとっている。

 その姿を一目見たシグルドは、身をひるがえして走り出す。
「陛下!?」
「あとを頼む!」
 驚いて声をかけてきた弓兵隊長に叫び返すと、シグルドは転げるような勢いで階段を駆け下り始めた。


   ──・──・──


 硬い土の上に小石の転がる歩きにくい坂を、シュエラは滑らないよう気をつけながら、でもできるだけ急いで下る。
 ケヴィンの先導で、セシールをともない、周囲を兵士たちに守られて。

 坂の途中という不自然な場所に大きなテントが張られていた。
 ケヴィンはまっすぐそこへ向かう。
 ケヴィンが兵士から報告を受けているのをシュエラも耳にした。
 ──皇帝は坂の途中に張られたテントに居ます。
 シュエラの心臓は緊張に高鳴り出す。
 迫ってきた現実。
 いよいよだ。もう間もなく、シュエラは帝国に引き渡される。

 視界を隔てる側面のないテントの下には、椅子に座る大柄な人物と、その人物にひざまずく人の姿が見えた。
 ひざまずいている人物がこちらに気付き顔を上げる。
 ヘリオットだった。
 ヘリオットはシュエラたちに驚き腰を浮かしかけたが、慌てて目の前の人物に頭を垂れる。

 テントの方から走ってきた、ラウシュリッツの兵士と違ういでたちの兵士に、ケヴィンは抑揚のない声で告げる。
「ラウシュリッツ王国国王シグルド陛下の妾妃、シュエラ・ハーネット様をお連れした。グラデンヴィッツ帝国皇帝レナード陛下にお目通り願いたい」
「皇帝陛下はお会いになるとおっしゃっておられます。どうぞこちらへ」
 ただでさえ痛いくらいに高鳴っていた心臓が、その返答を聞いて大きく跳ね上がる。

 取り次ぎに走ってきた兵士は、シュエラたちをテントの側まで案内する。
 テントの下まであと数歩というところで、兵士は道を空けるように脇に逸れ振り返った。
「ここからは愛妾様だけお進みください」
 不安に戸惑うシュエラをケヴィンが振り返る。無表情に見える中にシュエラを励まし労る様子がうかがえて、それに勇気をもらいシュエラはかかとの高い華奢な靴に包んだ足を踏み出す。

 テントに足を踏み入れると、椅子に座っていた人物がゆらり立ち上がった。
 毛皮をあしらった豪華なマントに身にまとった、真っ白い髪とひげを長く伸ばした、浅黒い肌をした老年の男性。一目で大柄だとわかったが、立ち上がって目の前に立たれると、見上げなくてはならないほどのその大きさに体が震える。
 無意識に体が引きかけたそのとき、皇帝が重々しく口を開いた。
「そなたがラウシュリッツ王国国王シグルドの愛妾か」
 シュエラは我に返り、ぐっと力を込めて体をその場に留める。
「はい。シュエラ・ハーネットと申します」
 ドレスのすそをつまみ、精一杯の優雅な礼の姿勢を取った。
 ここで逃げを打つような真似をしたら、何のためにここまで来たのかわからなくなる。

 うつむき加減に頭を下げたシュエラの上に、皇帝は遠慮のない視線を注いだ。
「平凡だな。シグルド国王が執心する理由がわからない」
 執心?
 何のことを言っているのかわからないけど、多分皇帝は勘違いしているとシュエラは思った。
 確かに大事にはされている。だがそれは、シグルドのやさしさゆえだ。

 執心というような想いがシグルドの中にあったとしたら。
 淡い期待は、未来を絶たれた今でもシュエラの心を震わせる。

 シュエラの頭上にふっと影がさした。
 浅黒く、ごつごつした大きな手が、シュエラの喉元にすっと差し入れられる。驚く間も与えられず、顔を上向かせられた。
 間近でじろじろと顔をのぞかれ息が詰まる。シュエラは圧迫に耐えながら、視線を見つめ返した。
 皇帝はくくくと忍び笑いをこぼす。
「なかなか気が強いな。そういうところは興味をそそる。──シグルドではなく他の者に嫁す覚悟をつけてきたか?」
「はい」
 それがシグルドのためになるのなら、どんなことでも耐えてみせる。
 ためらうことなく答えたシュエラに、皇帝は面白いと言いたげに片方の口の端を上げる。
「祖父とも言えるほど歳離れたこの儂の側妾であってもか?」
「はい」
「その覚悟、見せてもらおう」
 顔が近づいてくる。

 何をしようとしているのか、シュエラにもわかった。
 嫌だ。
 とっさに思ったことを懸命に心の奥底に押し込め、逃げ出しそうになる体をぐっとこらえる。
 側妾になるということは、これ以上のことも耐えていかなくてはならない。これくらい我慢できなければ。
 こらえるあまり、シュエラのぎゅっとつむった目尻から涙が一筋こぼれる。

 最後通告のようだと思った。
 この口づけを受けたら、もう二度とシグルドの元へは戻れない。



 さようなら。



 心の中でつぶやいた。





 そのときだった。



「待ってくれ!」



 近くで叫び声がして、
 それと同時にシュエラは口をふさがれ後ろに引っ張られた。



 今ここで聞きたくなかった、でも聞きたくて聞きたくてたまらなかった声だった。
 口をふさぐ手にも、腰にまわされた腕にも覚えがある。
 うれしさに新たな涙がこぼれそうになった。

 本当は助けに来てほしかったのだと、改めて思い知る。
 でもそれは望んではならないこと。

 シュエラをそのまま捕えたまま、後ろに引きずりながらシグルドは言った。
「しばし時間をいただきたい」
「よかろう」
 皇帝からあっさりした返事が返ってくる。
 一旦シグルドの腕から解放されたシュエラは、手首を強く掴まれ引っ張られた。
 シグルドは転びそうになるシュエラにかまわず、ずんずんと坂を登っていく。
 しばしの間呆然としてされるがままになっていたシュエラは、我に返り空いているもう一方の手でシグルドの手をもぎ離した。
 シグルドが驚いて振り返る。
 振りほどかれたことが信じられないというような表情をする。
 傷ついたような、そんな顔をさせたくなんかなかった。でも連れて行かれてしまってはせっかくの決意が無駄になる。

 シュエラが何か言う前に、シグルドは口を開いた。
「誰だ? 余に何も知らせずそなたを帝国に引き渡そうとしたのは。ケヴィンか?」
 低められた声に怒りを感じ、シュエラは怯える。
「ち、違います。わたくしが自分から、そのようにしたいとお願いしたのです」
「そのようなことをする必要はない。余が何とかするから、そなたは砦で待っていよ」
むすっとしたシグルドにもう一度手首を掴まれそうになり、シュエラはその手を自らの胸に引き寄せかばった。
「駄目です!」
 シュエラは訴える。
「わたくしが行かなければ和平は決裂してしまうのでしょう? だったら何もおっしゃらずにわたくしを帝国にやってくださいませ」
 高ぶる感情に声が震えてしまう。
 シグルドは怒気を含んだ視線を向けてシュエラに怒鳴った。
「何を言っている? そのようなことは絶対にしない!」
 その声に負けじとシュエラは言い返す。
「そのために陛下はどれだけ苦労をなさってるんですか? わたくしは陛下にそのような苦労をおかけしたくないのです!」
「それは俺の言うことだ! おまえがこれ以上苦しむことはない! 国のために犠牲になることなんてないんだ!」
「わたしが犠牲にならなくて誰が犠牲になるというんですか!? わたしだって貴族のはしくれです! 国のために犠牲になることなんて最初から覚悟の上です!」
「そんな覚悟なんていらない! おまえのことは俺が絶対に守る!」
「そんなことを言って! ご自分が一番苦しい道を選ぶんでしょう!? わたし一人を差し出せばそれで済むことなんです! わたし一人が……」
 耐えきれずにシュエラの声は弱々しくなる。

 ここまでセシールを連れてきたけど、最初から彼女を帝国まで連れていくつもりなんてなかった。
 シュエラだって厳しい環境下に置かれるだろうに、侍女であるセシールはどれだけ過酷な状況に追い込まれるかわからない。
 今まで尽くしてきてくれた大切な子だからこそ、不幸せになんかしたくない。
 シュエラの数少ない要求としてそのことを挙げれば、きっとケヴィンやヘリオットが力ずくでセシールを止めてくれる。

 物思いに沈みかけたシュエラの肩を、シグルドは強い力で握りしめ強くゆさぶった。
「だから! おまえを犠牲にするつもりなんてないと言ってるじゃないか!」

 お願いだから、もうやめて。
 泣きそうになりながら、シュエラは心の中で強く思う。
 これ以上引きとめられたら、決心がくじけてしまう。

 弱い心と戦いながら、シュエラは声がかれそうになるほど強く叫んだ。
「だったらどうなさるおつもりですか!? 難民を引き渡すつもりですか? 帝国と戦争を始めるつもりですか? そんなの嫌です!」
「難民を引き渡すつもりも戦争をするつもりもない!」
「だったらどうやって!?」
「それは……」
 急に言い淀んだシグルドに、シュエラは怒鳴る。
「ほら! 他に方法なんて何もないでしょう!?」
「あるさ!」
 やけくそのような言葉だったが、シュエラの激情を一瞬で冷やした。
「え……?」
 ぽかんとつぶやいたシュエラに、シグルドは言い聞かせるように視線をそらさず静かに言った。

「俺が人質になればいいんだ」

「な、にを言って──」
 驚きに言葉が上手く出てこない。
 シグルドはそんなシュエラにやさしく笑いかけた。
「あがいてもどうにもならなかったときは、そうするつもりだったんだ。おまえより俺の方がきっと帝国にとって人質の価値がある。この要求ならきっと通ると最初のころから考えていたんだ」


 自信ありげに言ってのけるシグルドに、シュエラは呆然としながらも疑問を投げかけた。
「国のことはどうなさるんです……?」
 シグルドの言葉は名案だと言わんばかりに力強かった。
「ケヴィンが国王になればいい。王位継承権を持つのだし、これまでだって実質ケヴィンが国をまとめてきたようなものだ。俺がいなくなったところで国にダメージがあるわけじゃ──」

 ばしん!

 激しい音とともにシグルドの言葉は途切れる。


 頬を押さえて呆然とするシグルド。
 じんじんと痛む手をかばいながら、シュエラは涙まじりに叫んだ。
「“俺がいなくなったところで”? あなたを国王と仰ぎ従ってきた者の前でもそれをおっしゃいますか!?
 陛下はご自分を見くびり過ぎです! 以前わたしが言ったじゃありませんか。“陛下は戦争をやめてくださいました。だから多くの国民が陛下をお慕いしています”と。
 陛下はそれを自分のしたことではないとおっしゃいまいしたが、戦争から手を引くことを命じられたのは陛下なんです! 陛下が命じてくださらなかったら戦争から兵士たちは戦場から故郷へ帰ってこれなかった! そのことを知っているから、みんな陛下のことをお慕いしているんです! わたしだって!」
 シュエラの目からぼろぼろと涙がこぼれる。
「……わたしだって、陛下だからこそ愛妾になりたいと思ったのに。わたしにも陛下をお助けできることがあると知って、だから……」
 これ以上言葉にならなかった。シュエラはうつむき手の甲で涙を拭う。
 シグルドはおろおろとシュエラの顔を覗き込んだ。
「悪かった。だが、俺はこれ以上おまえを苦しめたくないんだ。愛妾になったことでおまえはたくさん苦しんできた。もう十分だ。今回の件は俺が何とかする。俺が人質になるというのも、どうしようもなくなったときの最終手段にすぎない。だからおまえは俺を信じて──?」
 シグルドは言葉を切った。
 シュエラの様子を不審に思ったからだろう。


 シュエラは涙を拭っていた両手を降ろし、目をしばたかせていた。


 困惑するシグルドに、シュエラも困惑しながら言う。
「陛下……わたくし、妾妃になったことでたくさん苦しんだという覚えはないんですけど?」
「──え?」
 シグルドは当惑した顔になる。

 当惑したいのはシュエラの方だ。
 確かに舞踏会の会場で罪をかぶってつらい思いをした。エミリアを愛し続けているシグルドと接していて、悲しくなったことも何度もある。
 でもそれ以外のことは、いい思い出ばかりだ。
 下剤を飲んでしまったことで恥ずかしい思いをしたが、あれがなかったらシュエラは妾妃になれたかどうかわからない。
 シグルドには悪いことをしたけれど、洗濯をしに行けたのはいい気分転換になった。
 みんなには気を遣われてしまったが、大家族で弟たちと同じベッドで眠ったこともあるシュエラには、血縁ではない男性でも自分の部屋を貸すことに大して抵抗はなかった。困ったことといえば、着替えなどの際に壁一枚しか隔てていないところに男性がいることを恥ずかしく思ったことと、一カ月余り外に出られずろくに日の光を浴びることができなかったことくらいだ。
 次期王妃問題にしたって、シュエラが過ぎた望みを抱きさえしなければ何事もなかった話なのだし。

「苦しんだ覚えがない……?」
 間の抜けたシグルドの問いかけに、シュエラはうなずきながらしっかりと答える。
「はい。いろいろありましたけど、そのほとんどがいい思いでばかりでした」
 戸惑うシュエラに嘘はないと気付いて、シグルドは冠を落としそうになるほど、髪の間に指を差し込んだ。
「え? だが、しかし……」
 二人の間に沈黙が落ちる。


 その直後。

「わーっはっはっは!」

 けたたましいほどの笑い声がすぐ側から上がって、シュエラはシグルドとともに飛び上がりそうなほど驚いた。
 同時に笑い声がした方を向く。

 いつの間にかシュエラとシグルドの真横に立っていた皇帝が、腹を抱えて笑っていたのだった。


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