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6-10 武器のない戦い
 狭い馬車の座席を埋め尽すように置かれたクッション。
 座席の下に足を降ろしたまま、その上にシュエラは上半身を横たえていた。

 わずかなまどろみののち、馬車の扉が遠慮がちに叩かれる。
 眠気のために重い頭を起こしながら、シュエラは外に声をかけた。
「準備ができたの?」
「はい。馬の交換を終えました。よろしかったら出発いたしますが?」
 シュエラは向かい側の席に目を向けた。
 さきほどのシュエラと同じように横たわっているセシールは、声にも反応することなく意識を落としてしまっている。

 仕方のないことだ。
 これでもう五日目になる。昼夜を問わず急ぐ馬車は激しく揺れ、中に乗っている人間の体を座席から跳ね上がらせる。こんな状態で満足に眠れるわけがない。
 けれど、それに耐えて国境に急がなくてはならない理由がある。

「セシール、準備ができたそうよ」
 シュエラは手を伸ばしてセシールの肩を揺する。セシールは顔をしかめながら目を開け、のろのろと体を起こした。
「も……申し訳ありません」
 ここで降りてもいいのよ、と言いかけてやめた。
 もう何度も言ってきたことだ。そのたびにセシールは絶対についていくと言い張った。
 セシールは馬車が動き出す前に窓枠と座席の角をそれぞれ掴んで、衝撃に耐える構えを取る。
 シュエラを見返してくる瞳にまだ決意の強さが残っているのを見て、シュエラは扉越しに声をかけた。
「いいわ。馬車を出してちょうだい。できるだけ急いで」
「かしこまりました」

 鞭の音がして、馬車がゆっくりと動き出す。
 車輪がでこぼこの石畳を食んで、車体は上下に揺れ始める。
 今はそんなに大きな揺れではない。そのうちスピードに乗ってくると、両手で支えていても、座席から体が跳ねて車内で転げまわってしまいそうになる。
 馬車は速い速度に向いているとは言い難い。それでも体に直接風を受けて馬の上で体が跳ねることより、馬車の方が体に負担が少ないのだ。

 馬車が走り出してすぐ、シュエラも窓枠と座席の角を掴んだ。クッションがあってもお尻が座席に打ちつけられるのはひどく痛い。その痛みを少しでも回避しようと両手に力を込めれば、今度は両腕が痛くなってくる。

 でも、速度を落としてもらうわけにはいかなかった。
 急がなくては、国境へ。
 陛下はやさしい方だから、シュエラ一人と難民たちや兵士たちとを秤にかけて比べられない。
 その苦しみから少しでも早く解放して差し上げたい。

 強くなってきた振動に奥歯を食いしばってこらえながら、シュエラは国境で厳しい選択を迫られているだろうシグルドのことを想った。


   ──・──・──


 異母兄の言葉を思い出す。
 ──あの娘は自らを犠牲にすることに何のためらいもないのだな。そういう娘を守るのは大変だぞ。ましてやおまえは国王だ。絶対の権力を持つのと同時にさまざまな制約に縛られる。そんなおまえの側に置くのだから、よっぽど守ってやらなければ不幸にするぞ。
 言われた通りの状況が、今まさにある。

 シグルドにはシュエラを守れるだけの権限がある。
 シュエラは渡さないと皇帝に宣言し、和平を決裂させてしまえばいいのだ。最終的な決定権はシグルドにあるのだから。
 だが、それをすれば開戦となるかもしれず、自国を犠牲にすることになる。
 国王であるからには、そのような無責任な決断は下せない。

 シグルドが国王ではなくただ王子であるだけなら、このようなことにはなかっただろう。だが、シグルドは国王で、シグルドにとってシュエラがどれほど大事な存在であるかをグラデンヴィッツ帝国皇帝レナードに知られてしまった。
 レナードはシュエラを使って、シグルドに揺さぶりをかけてきている。
 そう。国に対してではない。シグルド自身に対して。


 何も言い出さないうちから、皇帝レナードはつまらなそうな口調でシグルドに言った。
「壕を埋めたところで、こちらの要求は変らん」
「我が国の誠意を示しているだけだ。難民が自分たちのために作った壕を我が国が領土にせんとしていると疑われたからには、そうではないと証明する必要があるのではないかと思ってのことだ」
 シグルドが話しかけても、レナードは真面目に聞き入る様子を見せない。肘かけに体を預け、怠惰そうに頬杖をつく。
「そのようなことより、儂は出来るだけ早く貴殿から承諾の返答を得たいのだがな」
 レナードが言っているのは、孫娘をシグルドの王妃に迎えシュエラを帝国に引き渡すことだ。会談を行った翌日から毎日同じ場所に赴いているが、レナードの要求はこの一点のみだった。
 会談を行ったテントは張ったままにされていて、レナードはよほど暇なのか、毎日ほぼ一日中テントの下に居る。話をしたいと申し入れればすぐに応じてくれるのは助かるが、余裕しゃくしゃくのその様子に内心憤りと焦燥を覚える。

 先日は嫌な話が飛び出した。
 ──なかなか要求に応じないところをみると、貴殿はよほど愛妾を気に入っているようだな。美人なのか? 体つきがよいのか? それとも閨で男を悦ばすことに長けておるのか?
 シュエラを辱める言葉に目の前が真っ赤になり、一瞬我を忘れそうになった。
 が、それをぐっとこらえ、何でもないというそぶりで答える。
 ──余は国民をかけがえのない財産と考えている。王族であれば他国に嫁ぐことも義務と思うが、余の妾妃は上級貴族でも底辺に属する者。貴国にとって余の妾妃は利用価値があるとは到底思えない。貴殿の要求を飲んで差し出し、貴国で“不慮の事故”に遭わせるのは忍びない。
 これ以上シュエラに価値があると思わせてはならない。
 しかし、レナードはにやにやと笑いながら鋭いところを突いてくる。
 ──貴殿はよっぽど愛妾の心根に惚れているのだな。
 図星を指されて、シグルドはうっかりむせ返りそうになった。むせ返るのはかろうじてこらえたものの喉を小さく鳴らしてしまったシグルドに、レナードはこぶしを口に当ててくっくと笑い声を立てる。
 ──心根一つで貴殿ほどの男を虜にした愛妾に、是非会ってみたいものだ。
 その言葉を、シグルドは苦々しい思いで聞いた。

 グラデンヴィッツ帝国には武力や外交、国力の差など、いくらでも切り札があるだろうに、何故シュエラに的を絞ったのか。
 対するラウシュリッツ王国には、武器らしい武器はない。帝国より北に位置する小国で、他の国と比べて特に豊かなわけではない。国交があるのは周辺諸国だけで、大きな後ろ盾があるということもない。
 あるのは国境を守る堅牢な城壁と、人道的に難民を救っているという正当性だけ。
 それらは防御にしかならず、シグルドは持てる武器なく戦っている状態なのだ。

 レナードが向けてきた切っ先は、すでにシグルドの喉元に突きつけられている。
 防戦のみではもはや防げない。

 ならばどうするか。

 シグルドはこれしか思いつかなかった。

「最初に難民たちの引き渡しを要求した貴国は、彼らが今どのように暮らしているか気になるところだろう。少人数であれば視察に訪れるのを歓迎したいと思う。どうだろうか?」
 頬杖をついたまま、レナードは片眉を上げた。
「そうやって儂を孤立させ、人質に取る算段か?」
「何も貴殿にお越し願いたいと申し上げているのではない。見たままありのままを貴殿に報告できる、信頼のおける者を寄越されればいい。その者の身柄は保障しよう。貴殿の元に必ずお返しすると約束する」
 シグルドがすまして答えると、レナードはようやく話を聞く気になったのか、肘かけから体を起こして身を乗り出してくる。
「無事にとも無傷でとも言わないのだな」
 足を組み、両肘を肘かけに掛けた姿勢を崩さないまま、シグルドは淡々と答えた。
「敵陣に丸腰で訪れるでは心許ないだろうから、使者の武器携帯を許可する。ただし、持ち込んだ武器で自刃されても責任は取りかねる」
 レナードはにやり笑う。
「そういう手でもって貴国に攻め入るきっかけを作るのもあるな。──カスティオス」
「は」
 レナードの背後に控えていた大男が、一歩前に進み出た。
「一人で視察に行ってこい」
「承りました」
 カスティオスと呼ばれた黒髪を短く刈り込んだ大男は、シグルドに軽く一礼してからレナードの前に回り、腰に帯びていた剣を外してレナードにひざまずき差し出す。
「シグルド国王は武器の携帯を許可しておるぞ?」
「皇帝陛下がそれをお望みではないでしょう。わたしも身の保障を宣言されながら、武器なくして敵陣に入れないなどという怯懦の姿勢を取ることはできません」
「よかろう。行ってこい」
「はっ」
 シグルドは立ち上がった。
「それでは、これにて失礼させていただく」
「まだ話して行かれればよいのに」
「多忙ゆえ申し訳ない。よろしければ使者殿がお帰りになるまで、余の側近を話相手として置いてゆくが、いかがか?」
「それは……楽しそうな提案だな」
 こちらの意図を見透かすように、レナードは目を細める。
「その申し入れ、受けよう」
 ヘリオットがシグルドの隣に立ち、レナードに頭を下げた。
「皇帝陛下のお話相手をお許しいただき、恐悦至極に存じます」
「──ではレナード皇帝、本日はこれにて失礼する」
「また明日、だな」
 含み笑いを見せられて眉をしかめそうになりながら、シグルドは使者をうながしひざ丈まであるマントをひるがえして歩き出した。


 国境に向かうゆるやかな坂を、黙々と上がっていく。
 壕のあった場所では、数十人の兵士たちが働いていた。盛り土はあらかた壕に戻り、その上で兵士たちが足踏みする。
「ご苦労。その調子でよく踏み固めてゆけ」
「シグルド国王陛下」
 後ろについてきていた男が、ようやく口を開いた。
 シグルドは立ち止って振り返る。
「このようなことをしても無意味だと、我が皇帝陛下は申されたはず」
「カスティオス殿と言ったか」
「どうぞ、カスティオスとお呼びください」
「ではカスティオス、疑問に答えよう。
 この壕は不要になったから埋め立てるのだ。野盗に怯える難民たちを守るため、難民たちによって作らせた。我が国が指導して作らせたからには、領土をせしめるために難民を利用したと思われるのも仕方ない。この疑いを持つ者は我が国の友好国にも在るだろう。
 不本意な形ではあったが、この壕は必要なくなった。ならばいらぬ誤解を受け続けることなきよう早急に壊すことが、我が国にとって必要かつ利のある行為と理解願いたい」
「もともと領土を拡大する意図は全くなかったとおっしゃるので?」
「その話は歩きながらしよう」
 シグルドは再び国境に向けて歩き出した。

 カスティオスはシグルドの左斜め後ろをついてくる。そちらに少し顔を向けてシグルドは話した。
「余は、国に災いを引き入れたくない。
 我が国がレシュテンウィッツ王国の内乱に介入して八年という歳月の間に、富は戦争に吸い上げられ、国は荒れ果ててしまった。
 手を引いて三年の間に、国力はもとの水準に戻りつつあると報告を受けている。余はこのまま国を富ませることに力を注ぎたい。そのために戦争が起こるような事態は極力避けたいのだ」
「ならば愛妾を差し出し、皇帝陛下の孫姫グレイス様を王妃に迎え入れられればよろしいでしょう。我が皇帝陛下は約束を違えるお方ではない。和平は必ずや実現します」
「余が腑に落ちないのはそこなのだ。何故貴国のような大国が、我が国のような小国との和平を望む? しかもわざわざ小競り合いを仕掛けておいて」
「それは皇帝陛下が愛する孫姫様を、シグルド国王陛下のような方に嫁がせたいと希望されたため」
 シグルドはカスティオスの言葉をさえぎった。
「そのような詭弁は、もう結構だ」
「詭弁とは心外な。皇帝陛下は真にそれを望んでいらっしゃる」
 多少憤慨した声が、左の後ろから返ってくる。

 この男は本当に皇帝の真意を知らないのかもしれない。
 けれど構わない。これはあくまで手始めに過ぎないのだから。

 シグルドは歩きながら、自分の考えをつらつらと並べ立てる。
「愛する者ならばこそ、わざわざ遠方の小国に嫁がせるという考えが解せない。
 孫姫を使って我が国を操り、属国と化すというのも不可解だ。貴国から遠く離れ、交通の便も悪い我が国を手に入れたところで、貴国に利点があるとは考えにくい。
 となると、目的は別のところにあるということになる。──余は、その目的が知りたいのだ」
 カスティオスが立ち止る気配を感じ、シグルドも足を止めた。
「もし、国王陛下のおっしゃるような目的が我が国にあったとして、それをわたしがお伝えするとでもお思いか?」

 ちょうど国境の門に差し掛かったところだった。
 砦の中央を貫く通路を数歩進んだところに立ち止ったシグルドは、ゆっくりとカスティオスの方へ向き直った。
 昼を過ぎたばかりのこの時間、空高くから降り注ぐ光は建物にさえぎられて奥の方まで入ってこない。
 シグルドの上半身に影が落ちる。
 影の中で、シグルドの瞳だけが鋭く光った。
「今の段階では、そのようなことは露ほども思わない」

 そう。今の段階では。

 戦いに勝つためには、まず敵を知らなければならない。
 敵の数。得意な戦法、不得意な戦法。
 そして敵の目的。

 いろいろ考えてみたけれど、皇帝レナードの目的にどうしても思い当たらない。
 何の目的があってシグルドに揺さぶりをかけてくるのか。
 それがわかりさえすれば、現状を打開する糸口になるはずなのだ。

「貴国にだけ真意を語らせておいて、我が国が何もしないのでは不公平であろう? だから、先に我が国の真意を明らかにすることにしたのだ。
 口先だけでは信用できないであろうから、実際に見てもらうことにした。知りたいことは何なりと、余にだけでなく、辺りに居る誰にでも訊くとよい」

 今回と同じように、八方手をふさがれた状況に陥ったときがあった。
 シグルドの下した処罰が冤罪だったと発覚したとき、シュエラは侍女に世話を拒否され、ボロ着に身を包んで自分の身の回りのことをしていた。その状況を何とかすべく、頼みの綱と思いわざわざ赴いたマントノン伯爵邸で、女主人のノーラ・マントノンはシュエラ付きの女官になる条件として、冤罪問題の解決をシグルドに求めた。
 手痛い形で女官になることを拒否されたと思っていたのに、マントノン夫人は玄関に見送りに来ながらシグルドに解決の糸口を提示したのだ。
 ──何事も誠意をもってなさればいいのです。国王陛下としての誠意だけではなく、ひととしての誠意をもって。そうすればよほどのことがない限り、ひとは誠意で返してくれるものです。
 その言葉が、シグルドに解決のための方策を与え、冤罪問題は無事解決した。

 今回のことが同じ方法で解決できる可能性は低い。だが今、シグルドにできることはこれしかないのだ。

 案の定、カスティオスは奇妙なものを見る目でシグルドを見た。
 その視線を受けて、シグルドは口元にうっすら笑みを浮かべる。
「ようこそ、我が国へ。好きなものを好きなだけ見聞きして、レナード皇帝に嘘偽りないところを報告するがよい」
 シグルドは手のひらを上げて、カスティオスを自国へと招き入れた。


 国境から王城までの道のりは騎馬で七日となる。急いでも六日。シュエラの実家と同じくらいの距離だ。シュエラは実家に帰るまでに二週間かかったらしい。ならば王城から国境までにかかる日数は馬車で二週間。準備もあるだろうから、ケヴィンがシュエラに事の次第を伝えシュエラが国境に到着するまで、三週間はかかることになる。もし急ぐのならそれより二、三日早まるかもしれない。
 それまでにレナードから真意を引き出し本当の会談に持ち込み、要求を撤回させてみせる。

 それができなければ最後の手段に訴えるまでだ。

 シグルドの覚悟はすでに決まっていた。


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